乱数とスピリチュアルなど

(2010年3月のYahooブログより転載)

ちょっと、たまたま、スピリチュアル系の本を読んだせいで思い出したこと。

乱数というのがある。ランダムにでたらめに現れる数字のことである。この規則性のない乱数を次から次へと発生させる機械を乱数発生器というのだけど、この乱数発生器は、実はコンピュータではとっても大事で、けっこう色々なところに使う。

それでは、この発生器をどう作るかというと、ふつうはある「数式」を使って作ったりする。その数式に「種」と呼ばれる数を入れてやると、後は計算で乱数を次々といくらでも発生してくれる。でも、しょせん数式なので、最初に入れる「種」が同じなら同じものが出てくる。なので毎回、発生させるたびに種を変えないといけないわけだ。それで、普通は、この種にそのときの年月日時刻を使ったりする。たとえば現在で言えば、2010年3月7日9:30なので「201003070930」みたいな数を種に使う。これなら毎回違うからちょうどいい。

しかし、こういう数式で作った乱数は、実は本当の乱数とは言えない。なにせ、もし、使った数式と種が分かってしまったら、出てくる数を完全に知ることができてしまう。さらに、結局、数式で計算して出している数なので、仮に数式や種を知らなくても頑張れば出てくる数を予測できてしまうかもしれない。そんなことから、このやり方で作った乱数は本当の乱数とは言えず、こういうのは擬似乱数と呼ばれている。

さて、この乱数を何に使うかといえば、色々あるだろうけど、たとえば暗号の鍵に使ったりする。乱数のようにデタラメに出てくる数を鍵に使えばそれを予測するのはとても難しいので、暗号として成立するというわけだ。しかし、もしこの乱数が予測可能であったとしたら、とたんに暗号は危なくなることは想像できる。

そんなわけで擬似乱数をたとえば上記のような暗号の鍵に使うのはどうもいけない。擬似乱数は、簡単な数式でいくらでも乱数を発生できるのでえらく便利なのだが、どうも危なっかしいのである。

それでは、本当の乱数というのはどうやって作ればいいのか、というと数式を使わずに、自然現象を使う。

たとえば、よく知られている乱数発生源に「熱雑音」というのがある。電気をそこそこ通す物質を「抵抗体」と言うが、これに熱を加えると、物体の中の電子が不規則に振動して、これが雑音を発生する。出来のあんまりよくないアンプを無信号でフルボリュームにするとスピーカーから「シャー」という音が聞こえたりするが、あれはだいたいアンプの中で発生する熱雑音である。

このように熱で電子を振動させる、などという超アナログなことをすると、その現象はまったく予測不可能なので、その雑音を使って乱数を発生させると、決して予測できない乱数がいくらでも取り出せる。宇宙の全歴史の中で同じことは2度と起こらないアナログ現象を使うのだから強力である。ここで深入りはしないが、特に、量子力学というものが知られてからは、真の意味で予測不可能なことが保証されたようなものなのである。

いや、ちょっと解説が長くなりすぎたが、思い出したこと、というのは次のことだ。

ずいぶん前のことだけど、どこかの大手のコンピュータメーカーからコンピュータのリリースのアナウンスがあり、それを見たときのことである。今度発売するモデルでは、そのコンピュータで使う乱数発生器を、それまでのように数式で発生させる擬似乱数ではなくて本当の乱数にするために、乱数を発生させるハードウェアチップを搭載している、と書かれていた。

このチップは、たぶん熱雑音を利用した簡単なチップなのだと思う。チップの中に熱雑音を発生させる何らかの小さな抵抗体があり、そこから出てくる純粋アナログノイズをデジタルに変換し、数にして、それを何らか整形して、乱数として出力するのであろう。

この小さなチップを想像してみた。すると、黒いモールドに金属の足がムカデのように生えているルックスはCPUとかメモリと変らないのだが、こいつは、一見そいつらと同じに見えて、決定的に違う「器官」を持っている。それは熱雑音を作る小さな小さな抵抗体である。まるで、黒いデジタルチップにぽっかりと空いた、外界に対する「窓」のように感じられないだろうか。

この話を聞いたときにすぐにこう思ったのである。

確定的に動いているコンピュータにこんな物理窓を開けてしまうと、ひょっとしたら、念視とか念力などのサイキックな能力のある人間は、この窓に精神をチューニングすることで、コンピュータの中に入れるようになるんじゃないか、と。

しかし、こんなことをすぐに連想する自分は、けっこう知らずしてスピリチュアル系だったのだろうか。自分の哲学的な意味でのルーツは、ドストエフスキー、ゴッホ、そしてニーチェといったところなのだが、この3人、みな何らか精神あるいは脳を病んでいたのは偶然なのだろうか。「病んでいる」という言い方は、通常の生活では極めてネガティブな意味だけれど、こういう人たちにとっては、この病んでいる部分が、なんだか得体の知れない渦巻くエネルギーの源泉であったりもする。そのエネルギーを元手に、小説を書いたり、哲学的思考をしたり、画布を塗ったりすることで、この現世とインターフェースしている人たちなのだ。

さっきのようなコンピュータに開いた物理窓から侵入する、などという話は、まずはよくあるSF的発想なのであるが、実は自分はSFはあまり好きではない。なんだか娯楽の域をどうしても出ないような気がして嫌なのだ。それで、いわゆるスピリチュアル系も同じような理由で敬遠している。

でも、自分の頭の中では、これらSFやスピリチュアルで言われていることを、ときにほぼまるごと納得している、というのも変な話だ。世間にいるいわゆる常識人たちが、SFやスピリチュアルの「娯楽から外れる真面目な部分」を、単なる荒唐無稽として一笑に付すことについては自分は賛成できない。自分は荒唐無稽だとは決して思っていないのだが、逆にそれらの「娯楽的」な部分が気に入らないのである。

先日、たまたま仕事で知り合いになった人に、まあほんのシャレ的なノリでスピリチュアル系の本をもらったので読んでみたのだけど、全部読んでみてちょっと悩んでしまった。その本はバシャールスドウゲンキという本で内容は完全スピリチュアルとチャネリングの話なんだが、言われていることのかなりの部分が自分がふだん思っていることに一致していたのである。

ヤレヤレ困ったもんだ。この本を読んでいると、その内容が、自分の心の中に、一種の二重性を持って入ってくる気がする。真面目な意味と娯楽的な意味の2つが、何だかぜんぜんうまく区別できず、二重写しのまま心の中で展開される感じというか。まるで、言われるところのパラレルワールドよろしくだ。

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