物理学と哲学

物理学者と哲学者の論争について、友人へ長い返答を書いたので、その転載。

僕はここずっとかなりのアンチ科学、アンチ物理学なんですが、なんでこんな風になっちゃったんだろうな、と時々思います。中学生のとき、簡単な(に見える)微分方程式で惑星軌道が楕円になることを数学的に明らかにできる、ってなんて凄いんだろうと感動したオレは、一体どこへ行ってしまったのか、とか。

僕の見た感じでは現代哲学は、昔の存在論や認識論は置き去りにして、実践論へ行ったように思えるので(サンデル教授の正義の話をしよう、とか)、いまの哲学はこの世で思い切り役に立っているように見えます。正義の可否とか判断問題とか倫理問題とか、そういう哲学の実践論はダイレクトに難題だらけの人間社会に指針を与えますからね。

その実践論的なところでは、物理学はほぼ何の関係もなく、役にも立ちません。科学で言えば、社会科学や心理学を持ち出して論ずることはできますが、判断の評価関数が科学的に定まらないので、結局、科学ですら、現実社会を論じる限り、実践哲学的な様相になるように思えます。

物理学は元来天文学から発生したもので、物質が相手なのは間違いないはずです。で、物理学者は、人間の心や精神の問題も、結局はモノの振る舞いの結果であって、遠い未来に物理学で解決できるはずだ、と思っているように見えます。しかし、これは精神は物質の振る舞いに過ぎない、という物質一元論(そんな言葉無いかもですが)をアプリオリに、あるいは意図的に立てたからに過ぎず、それは物理学の成立と大きくかかわっているだけで、皆が納得する前提ではあり得ません。

それを勝手に人に無断で立ておいて、それをもって哲学批判する物理学者の傲慢に、僕は腹が立って仕方なく、物理学と哲学の論争は、読むだけで精神衛生上に良く無くて、最初のころ我慢して読んだ内容を元にこうして話すだけで、見るのもイヤになりました(笑

だいたい、哲学があいまいで、科学は実証的で厳格だ、というのは当たり前の話で、科学は、論があいまいにならないように、最初に人に無断で前提を立てて(長い歴史ゆえでしょうが)、人間や世界にとってある大切な部分を不問に付すことによって実証的になったに過ぎないはずなのに、その実証結果があまりに事実に一致し、ひいては人間の役に立ったので、知らぬうちに傲慢な自信を持つに至ったのでしょう(次に書きますが、実は人間の役に立ったんじゃなくて、人間を科学で改良した結果に過ぎない、と僕は考えてます)

僕がなんでアンチ科学・物理学かというと、僕は、科学を世界を解明するツールとして見ていないことに依ります。科学は、科学というドグマによってこの世界を作り出している、という逆転発想に依ります。で、特に物理学者を僕は嫌ってますが、彼らは、天文学由来の物質科学の狭い狭い前提で、この現在の社会・世界・宇宙を作り出してしまい、僕ら現代人は多かれ少なかれそのドグマの奴隷になっている、という観察結果に依ります。

それは、エジプト・ギリシャ・ヨーロッパで綿々と発展して形成されたもので、平行してキリスト教、カトリック、プロテスタントと来たところで、突然、キリスト教由来の宗教は科学にフリップして名を変えて、世界を作り変えようとしている、という、ほとんど陰謀論に近い発想に、僕が捕らわれている、ということですね。

我ながら笑ってしまいますが、まー、僕は陰謀論者じゃないことは明らかなんですが、スピリチャルや神秘主義と非常に近いところにいるので(カール・ユングを尊敬している)、そのせいでしょうね。

結局、65歳になっても、一向に世界がよく分からん、ということで 笑

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