太宰治

嫌いだった太宰治の「嘘」と「家庭の幸福」という短編2つを読んだ。太宰を見直した。素晴らしいではないか。いや、素晴らしいなどという立派なものというより、人間と心理、それを取り巻く社会、そして世界についての、極めて正確なリアリズムそのもの。理想や思想や信念信条やらという、いわゆる「男々しい」ものが、潔いぐらい欠片もない。

しかし、自分はなぜ太宰治が嫌いだったか。

太宰を初めて読んだのは20代で、それは、太宰好きな友人が貸してくれた中編小説の「人間失格」だった。有名な小説だが、まあ、あんなものをよく好んで読むもんだ。当時の僕は、文学ではドストエフスキーに夢中であり、同じようにどうにもならない泥沼な人間模様を描いていながら、どうしてここまで違うものか、と思った。

人間失格を読み終わり、確か自分、すごく腹を立て、日記に罵倒の言葉を書き付けた覚えがある。以下は原文がないのでうろ覚えである。なにせ40年前のことなんでだいぶ事実誤認があるだろうが、そこはご勘弁。

人間失格の小説の中ごろに、無邪気で優しくあどけない娘が出てきて、それまで大変な人生を歩んでいた主人公は、その娘と所帯を持ち、ようやく安息の日々が訪れる。しかし、何年かの平和な日々ののち、その日が来る。主人公は外でしたたか酔っぱらい、グルグルとなにやら考えながら家に着いて、襖を開けると、出入り業者のおっさんが妻と姦淫の真っ最中だった。結局、無防備な妻が強姦されたと知る。その後、悪いのは妻ではないのだから、妻を責めることはせず、いろいろ慰め、またもとの楽しい生活に戻ろうとするが、主人公がどんなに努力しても妻は臆して元へ戻らず、夫に対しいつもビクビクし、笑いも無邪気も消えてしまい、結局、夫婦は破綻する。

しかしひどいプロットを作るもんだ。そして、こういう醜い人間模様を描かせると太宰はまさに天才で、その技量に僕もそのときやられたのだろう。

主人公は、妻の姦淫現場に至る道で、酔っ払った頭で考えるのだが、それがドストエフスキーのことなのである。ドストのあの錯綜した人間劇が、もし、くっきりとした人格を持った人間たちが織り成す悲喜劇などという体のいいものではなく、ひょっとして、あのドストの描いたドロドロの人間模様そのものが、単にこの世のあるがままの姿だとしたら? 救いなどはどこにもない永遠の泥沼だとしたら・・・

そしてそうぐるぐると考えた直後、彼はその場に遭遇するんだ。

これを読んだ当時の僕は、

「この野郎、何を白ばっくれてやがる、何がドストの青ミドロだ、この、偽善にも達し得ないような弱々しく意気地のない屑野郎が。そしてこれははっきりしているから言うが、そのとき、お前の愛する、というより愛玩するお前の妻を辱しめるために、あの中年男を裏でけしかけたのは、お前だろ! お前だ! お前以外の誰だって言うんだ!」

と、まあ、20代の若いオレはそう反応したわけだ。この、僕が反射的に喝破したあまりに醜い構図ゆえ、そのときオレは、太宰治を人間の屑認定し、それ以降彼の小説を一切読まなかった。

あれから40年(きみまろ風にて)

オレの30代、40代、50代、そしていま60代の半ばだが、自分としては大変な40年であった。そしてそのオレの人生の変遷は、どう考えても、太宰のそれに似る。こんなところで懺悔したくないので説明はしないが、結局、太宰さん、オレはあなたと同じ筋の人間でした。太宰が屑ならオレも屑、というか二人とも屑。

これは決してオレという人間が、太宰という人間の大きな度量の手の平の上で右往左往していただけ、とかいうよくあるケースじゃない。オレたちには同じ血が流れている、という意味だ。

太宰が生きてたら牛鍋屋かどっかで酒を呑みながら

「太宰さん、俺たちって屑ですねえ。まさに屑の再生産じゃないですか、ハハハ」

とか言って、まったりしそうだ。

しかしまあ、これで終わるのはさすがに忍びないので、ひとこと言っておくと、この屑ぶりは、何千年以上にも渡って日本の庶民が培ってきた平民の民族性に属している、と自分は思っている。

そう思いませんか、太宰さん?

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