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トルストイの混乱

トルストイは50歳ぐらいから、精神的危機に襲われるのだが、それはひとことで言うと「なんのために生きているか分からなくなったから」である。

彼はそのとき実生活の絶頂にいて、金はある、名誉はある、家庭があって、領地も屋敷もある、完璧な成功者だった。その彼が、徐々に内面的に苦しみ始める。作品を作っても、それが何になると言うのだ。金と名誉にはなるが、それを得た今、それをさらに増やす意味がどこにあるのか。それは一方向に増える、あるいは減るだけで、なんの目標もなく、したがって意味もない。なんのために自分はそんな意味の無いことを延々と続けているのか分からなくなった、と、こういうわけである。

思うに、これは今でいえば更年期障害の一つであろう。ただし、更年期障害という生理的な障害が彼を襲ったのは事実としても、トルストイのような巨大な芸術家が更年期障害になると、本人にいったい何が起こるか、ということの方が遥かに重要である。器の小さい人が更年期障害になれば、いきおい、その結果もささやかなものになると思われるが、彼はまったく違った。

彼は、生きる意味がないと考え始めて以来、だいぶ自殺の決行を考えたそうである。しかし、彼は自殺を安易な道、として退け、その代わりに、古今東西の賢人たちの考えを漁りまくり、その回答を探そうとした。誰か人生をポジティブにとらえる哲学者なりなんなりはいないものか、と考えたのである。そして、さんざん検討した挙句、結果は、誰一人として生きる意味に回答を与える者は無かった。

更年期障害と書いたが、これはまた、哲学病でもある。僕が思うに哲学者はみな、精神の病気である。病気であるからこそ、この世界の真相を洞察できる、というのはニーチェのいう「病者の光学」に語られる通りだ。しかし、一般生活者からみると、明らかに病人であり、僕はたまに21世紀は哲学の時代、とか言っているが、正直、哲学をお勧めしない。自分からわざわざ病人になる者も無い。更年期障害による精神障害も、トルストイのような精神的巨人になると、彼を哲学へ引っ張って行く力学が働くのであろう。

さて、彼はその探求の結果を記した「懺悔」という本を、50歳過ぎに発表する。そこで、自分の精神的危機を、綿々と綴っている。読んでいて辛くなる本で、お勧めしない。ただ、その悩み方が、まるで20代の青年のように素朴かつ率直で、その心の若々しさに感心する。世俗的なものすべてをすでに得た彼は、自分を飾る必要を、これっぽっちも認めなかったのだろう。世俗的成功を勝ち得た彼にこそ許される境地ともいえる。

その後、哲学に失望した彼は、救いを宗教に求め、膨大な神学研究に没頭するようになる。哲学に見つからなかったものを宗教の中に見出そうとしたわけだ。そして結局、最後には、ロシアの庶民の心を支えるキリスト教の素朴な善の世界を見出し、それを理想とした。素朴で率直な一般庶民の中にこそ、人生を生きる意味があるのだ、そして、それを支えるキリスト教の宗教の中にこそ、人類全体への救いがあるのだ、というところへ行きつく。

その彼の見出した理想を詳細に語ったのが「人生論」という分厚い本で、これもなかなかに読みにくく、お勧めしない。しかし、僕には言いたいことは分かる。しかし、かなりくどい。彼の思想を微に入り細にわたり、もう、くどくどくどくどと語りまくっている。この本を理解するには、おそらくトルストイと同じく、哲学の煉獄と、宗教的法悦を辿って、ひたすら没頭して、くぐって来ないと、難しいような気がする。

彼はこの極端な理想を掲げ、それを世に問う。そして、トルストイを中心とした一種の宗教グループのようなものを結成し、人を集め、活動し始めるのである。自らの思想に基づき、さまざまな現代の悪癖を断罪しまくり、素朴で率直な庶民の労働の喜びへ回帰しよう、と説くのだが、これはなかなかに無理がある。実際、彼は自分の富や名声や名誉を悪しきものとして捨て始める。ここに至って、新興宗教の教祖みたいに思えて来る。ただし、教祖は真に欲の無い聖者のような人である。

僕がひとつショックを受けたのは、彼が「欧州の芸術」を完全否定したくだりであった。彼は70歳のとき、「芸術とは何か」という本を出し、そこで、ほとんどすべてのヨーロッパの芸術作品を貴族階級の堕落した創作、と決めつけ、否定するのである。その激しさは度を越していて、読んでいると、彼が、モナリザに火をつけて燃やし、システィーナ礼拝堂に放火して、以後すべての貴族作品を焚火に投げ込んで焼却する様が浮かんできて、暗澹とする。彼の断罪には彼自身の作品も入っているほど、それは激しい。この本も、お勧めしない。ひどい、ひどすぎる。僕が彼をテロリスト扱いするのは、こんな光景を見させられたからでもある。

一方、彼の実生活は、細君をはじめとする家族との軋轢で、混乱を極めるようになる。それはそうだろう。これまで富と名誉の絶頂にいた家族を、その家長が、少しづつ自ら破壊しはじめ、それが加速的にエスカレートするのを、見逃せるはずがない。妻との口論激しく、家庭不和は絶頂に達し、トルストイその人も、それに耐えられなくなってくる。

彼は、その家庭不和に耐えられず、2回、家出をしているらしい。そして、なんと82歳の老齢でその2回目の家出を決行し、その出先で肺炎で死ぬのである。

これで分かるように、トルストイは人道的聖者のような言われ方をされることが多いのだが、僕から見ると、彼はテロリスト的爆弾に見えるのである。原始キリスト教に根差した、極度なロシア民族主義とも言えると思う。そして過激な反ヨーロッパ主義者として、合理主義に基づいた西洋文明を完全否定している。

ところで、プーチンはおそらくトルストイを熟読したであろう。どこかの首相のようにカラマーゾフの兄弟を夏休みに読もうとして1巻で挫折した、などという脆弱な知性と無縁なはずだ。恐ろしいことだ。その爆弾は、実際、いま現在、爆発してしまった。

物理学と哲学

物理学者と哲学者の論争について、友人へ長い返答を書いたので、その転載。

僕はここずっとかなりのアンチ科学、アンチ物理学なんですが、なんでこんな風になっちゃったんだろうな、と時々思います。中学生のとき、簡単な(に見える)微分方程式で惑星軌道が楕円になることを数学的に明らかにできる、ってなんて凄いんだろうと感動したオレは、一体どこへ行ってしまったのか、とか。

僕の見た感じでは現代哲学は、昔の存在論や認識論は置き去りにして、実践論へ行ったように思えるので(サンデル教授の正義の話をしよう、とか)、いまの哲学はこの世で思い切り役に立っているように見えます。正義の可否とか判断問題とか倫理問題とか、そういう哲学の実践論はダイレクトに難題だらけの人間社会に指針を与えますからね。

その実践論的なところでは、物理学はほぼ何の関係もなく、役にも立ちません。科学で言えば、社会科学や心理学を持ち出して論ずることはできますが、判断の評価関数が科学的に定まらないので、結局、科学ですら、現実社会を論じる限り、実践哲学的な様相になるように思えます。

物理学は元来天文学から発生したもので、物質が相手なのは間違いないはずです。で、物理学者は、人間の心や精神の問題も、結局はモノの振る舞いの結果であって、遠い未来に物理学で解決できるはずだ、と思っているように見えます。しかし、これは精神は物質の振る舞いに過ぎない、という物質一元論(そんな言葉無いかもですが)をアプリオリに、あるいは意図的に立てたからに過ぎず、それは物理学の成立と大きくかかわっているだけで、皆が納得する前提ではあり得ません。

それを勝手に人に無断で立ておいて、それをもって哲学批判する物理学者の傲慢に、僕は腹が立って仕方なく、物理学と哲学の論争は、読むだけで精神衛生上に良く無くて、最初のころ我慢して読んだ内容を元にこうして話すだけで、見るのもイヤになりました(笑

だいたい、哲学があいまいで、科学は実証的で厳格だ、というのは当たり前の話で、科学は、論があいまいにならないように、最初に人に無断で前提を立てて(長い歴史ゆえでしょうが)、人間や世界にとってある大切な部分を不問に付すことによって実証的になったに過ぎないはずなのに、その実証結果があまりに事実に一致し、ひいては人間の役に立ったので、知らぬうちに傲慢な自信を持つに至ったのでしょう(次に書きますが、実は人間の役に立ったんじゃなくて、人間を科学で改良した結果に過ぎない、と僕は考えてます)

僕がなんでアンチ科学・物理学かというと、僕は、科学を世界を解明するツールとして見ていないことに依ります。科学は、科学というドグマによってこの世界を作り出している、という逆転発想に依ります。で、特に物理学者を僕は嫌ってますが、彼らは、天文学由来の物質科学の狭い狭い前提で、この現在の社会・世界・宇宙を作り出してしまい、僕ら現代人は多かれ少なかれそのドグマの奴隷になっている、という観察結果に依ります。

それは、エジプト・ギリシャ・ヨーロッパで綿々と発展して形成されたもので、平行してキリスト教、カトリック、プロテスタントと来たところで、突然、キリスト教由来の宗教は科学にフリップして名を変えて、世界を作り変えようとしている、という、ほとんど陰謀論に近い発想に、僕が捕らわれている、ということですね。

我ながら笑ってしまいますが、まー、僕は陰謀論者じゃないことは明らかなんですが、スピリチャルや神秘主義と非常に近いところにいるので(カール・ユングを尊敬している)、そのせいでしょうね。

結局、65歳になっても、一向に世界がよく分からん、ということで 笑

しろうるり

徒然草に盛親僧都という坊主について書いたところがある。その一節にこんなのが出てくる。

僧都が、とある坊主にしろうるりというあだ名をつけたそうだ。で、人がしろうるりとは何か、と訊くと、僧都は、そんなのはわしも知らん。でももしあったらこの坊主の顔に似ているだろう、と答えたそうだ。

徒然草第60段。この段は傑作だ。

しかし、このしろうるりの話がなぜ自分に面白いか。

まずしろうるり自体は誰も見たことがないし、命名主の僧都も見たことがない。そういう意味では存在しない。でも、もし、そういうものが実在したとすると、そいつはこの坊主の顔に似ているはずだ。なぜなら、この坊主にしろうるりをあだ名として結び付けたからだ。

しかし、ふつうあだ名というのは、なにかしらすでに存在しているものにかこつけて付けるものであろう。誰かが猿に似てたり蛙に似てたり、鞄に似てたり、などなど。

それなのに、しろうるりの場合は、実在しないものと結びつけたせいで、その実在は宙に浮いている。しろうるりが仮にどこか中国の秘境かなんかに実在していて欲しいが、僧都は知らないと言っているので、それは実在しない。

したがって、しろうるりが存在していないので、それは、実在を持たない架空のもの、ということになるが、あだ名を付けられた坊主に顔が似ている、ということだけははっきりしている。結局、しろうるりは、実在しないがその形状の一部(この場合は顔)は分かっている、という架空の存在、ということになる。

そして、しろうるりという架空の存在を認めると、いったい、しろうるりがとある坊主に似ているのか、とある坊主がしろうるりに似ているのか、分からなくなるような感覚に陥る。

したがって、この僧都の逸話によって、しろうるりはこの現実に「創造」された、実在する何物かになったのだと言えないだろうか。

これは、たぶん、そもそもの民間伝承が、江戸時代になって爆発的にその数を増やした「妖怪」と同一と思われる。たとえば、一反木綿という妖怪、というのは「木綿の一反」に似た、というところだけ分かっていて、そのほかの特徴は想像力で補われている。

そして、それは、以上によれば、架空の存在であり実在しないけど、妖怪として言い伝えられている。

ところがおもしろいことに、民間伝承ではそれは実在することになっている。逆に言うと、日本の田舎では、「実在」というのをそのように解した、ということでもある。

だから日本国には、しろうるりは実在するのである。ただ、そのしろうるりという妖怪は、その一坊主の顔をしている、というだけで、いったいそれ以外の形状と特徴はどうなっているのか。しかし、白くて瓜実型の顔をした架空の妖怪だろう、などといって放っておく気がしない。

なぜかというと、「しろうるり」という日本語の音の配列が秀逸で、自分はまったく放っておけないのである。ほとんど芭蕉の秀逸な一句と同じていどに放っておけない。この芸術的創造は、盛親僧都の才能ゆえなのであろうか。

しかし、僕がおもしろい、と思うのが、その彼の日本語での創造能力、芸術的能力、天賦の才能、といった現世的なもろもろのことから、この「しろうるり」がいとも簡単にすり抜けて、架空であるが実在する妖怪の闊歩する世界へ編入されてしまうことである。

それは徒然草の文を読んでみると、僕には瞬間的になされる技に見える。そのようにして、しろうるりは僧都の手をあっという間に離れて、独自の実在を獲得してしまう。しろうるりが提出されたと同時に、しろうるりが実在してしまうせいで、僧都の芸術能力は、その創造物とまったく関係ないものになってしまう。

これこそが優れた創造、というものの正確な性格ではなかろうか。

くだくだ書いたが、結局なにがいいたいかというと「僕はしろうるりが好きだ」ということに過ぎない。

村上春樹

村上春樹のドライブ・マイ・カーを読んだ。これでようやく春樹ファンの人間と少しは話ができるのかもな。

村上春樹は、大昔、なんかの本(忘れた)を読んで、こんなもんは下らん、とか言って、即座に嫌いな作家ラベルを付けて、見向きもしなかった。もう30年は経ったんじゃないかなと思う。なにせ、オレはドストエフスキーという筋金入りの狂人の書いた文学のドメインを持った作家以外は認めない、超偏狭な人間だったしな。

で、いま、村上春樹を読んでどう思うかと言えばこんな感じ。人の、外から見たその上辺と、その人の意識の中の心理葛藤と、その人の無意識に横たわる業のようなもの、その三つがまったく対等に扱われて、物語の上で戯れている感じ。

彼の小説を覆っている独特の哀愁は(といっても、2、3本しか読んでないが)、それら三つを熟知した上での諦念のようなものに見え、昔のオレはそれが気に入らなかったのである。

とはいえ、この諦念を伴った戯れの哀愁は、まー、なんというか、自分も歳を取って、さまざまな経験をして、切実に分かる感覚ではある。それは、村上春樹、という詩情なのだが、オレもそれが分からない、などという野暮な人間じゃない。

しかし、オレはこういう筋金の入らない文学は、あんまり趣味じゃないな。

でも、これが素晴らしいという人の気持ちは分かる。スウェーデンの若者にも彼、人気だったしね。それにしても、日本のアマゾンでレビューを見ると、まあ、みな厳しいねえ。それにしても2700も評価が付いててすごい。あと、映画を先に見て、分からなかったから原作を読んでみた、って人が多数で、ま、そういうどうでもいい人たちが低評価を付けてるだけとも言う。

僕が読んでいるのは、ドライブ・マイ・カーを筆頭にした「女のいない男たち」という短編集なのだが、厳しい評はいくらでもできるけど、オレはそれをする気にはなれないな。それは、文の全体を覆っている、諦念や悲観、という、まるで更年期障害による軽い鬱みたいな情熱の欠如が、自分にも、染み入って来ている年頃だからなのかもしれない。

ま、要するに、彼の言っていることが分かるのである。

短編集の後の方にあった「木野」という作品は、芥川の歯車を強く連想させた。なるほど、彼の諦念と悲観は、芥川由来かもしれない。そう考えればなんとなくうなずける。でも村上春樹は間違っても狂死するような人じゃないので、そこで、あの哀愁がその代わりを務めるのかもな。

それと、映画のドライブ・マイ・カーも見た。村上春樹のいろんな短編からモチーフを取ってきて作ったのはいいとして、チェーホフの戯曲とシンクロしてストーリーが作られていて、原作とかなり大幅に違うのにびっくり。映画の方のテーマがチェーホフの戯曲に傾いているせいで、そのテーマの意味は重い。僕は原作の方が楽しく読めたかな。

楽しく読めた、という感想が示す通り、僕には、村上春樹は娯楽と休息以外の意味を持つように思えない。それは現代的な生活状況の正確な描写なので、それでいいのだが、僕の人生はその状況に満足していないので、今後、村上春樹を自ら読むようなことは、無いだろうな。