少し前に書いた、独り言。
オレ、なんとなく最近、ツイッターでコロナワクチン周りの話をいろいろ見てるんだけど(勝手に出て来るのよ、例によって)その中のコメントに強烈なのがあった。
「factとscienceに基づくtruthを明らかにしたいです。後世のために」
すごいステートメントだね。なんだか世界人権宣言みたいな、そういうたぐいのある種の宣言文だね、これは。宣言文なので、この文自体が正しいか正しく無いかは問題にならない。これは、「こうしようよ! みんなでこうしようよ!」という意志を表した文で、その意志には自分はまったく賛成しないけど、こういうはっきりした意志を持てる、ということは、うーん、なんとなく言いにくいが、善いことかもしれない。
オレ、もう30代のころから、こういう単純明快な意志を心から信じて物を言ったり行動したりする人を、これも言いにくいが、哀れみと羨望が混ざったような感覚で見ていた。あれから三十年たって、そのころよりは多少は賢くはなっただろうが、いまだにそれは変わらず、オレってそういう運命なんだろうな、とあきらめてる。
truthってのは神を信仰しない限り「無い」でしょう? なので、この宣言は、神を信仰しないで、その代わりに、factとscienceでtruthを打ち立てましょう、と言ってるわけだ。
factというのはラテン語の語源的に見ると「行われた事」なのよね。ということは、行わない限りfactは無いわけだ。ということは、いわゆる「天然自然」にはfactというのは存在しないということになる。人が何かをしない限りfactは立ち現れることは無い、ということだ。
そうなってくると、人が何に基づいて行為するかが問題になるわけで、そこでこの宣言文ではscienceが出て来るわけだ。人がscienceに基づいて行動するとき、そこにfactが現れるのであり、そしてそのfactを再びscienceで分析することで、より正しいfactの集積を皆で作り上げて、それを拠り所にして皆で平和に生きてゆこう、という希望を述べている。皮肉でなくいうと「かくあらしめたまえ」という祈りの文に見える。
僕の考えでは、動かない事実があって、それを科学が分析して、未来へ応用する、というのは幻想の一種に過ぎない。動かない事実など実はどこにもなく、いま現代での多くのことは科学が作り上げた事実の集積に過ぎない。したがって、現代では「事実」より「科学」の方が主人ってことになる。
多くの人が「事実」こそ主人だと思っているのが、気持ちがは分かるけど、時々、不思議で仕方なく見えることがある。
科学ってのは人間が作ったものなんで、人為的なもので、長い長い歴史の積み重ねがあって、容易なことでは否定されない。強大な信仰の塊みたいなもんだ。百何十年か前に神が死ぬまでは、科学は信仰に対するカウンターとしてここまで来たけど、神がいなくなれば科学が神の座に上るだろうことは、とてもありそうなこと。でもそれを、では、僕なら僕が信じて信仰するか否かは別問題だ。
結局、僕は、科学を信仰しないのだが、その僕から見て、冒頭にあげた宣言文を書いた人の、それは、信仰告白に映り、それがすごく力強い宣言文で書かれていたので、驚いた。
思うに、scienceの元祖はソクラテスに見えるな。ソクラテスを読むと、とても直截で、すっきりしていて、まるでギリシャの石でできたパルテノン神殿のように、硬くて、白くて、乾いていて、余計なものが無くて、すっきりと見通せて、美しくてクリーンな感じがする。
あの美しい神殿が科学なら、信じてもいいかなという気にもなる。
ということは、問題は、factでもscienceでもtruthでもなく、「美」なのかもな。
なに言ってるかわからなくなったので、止め。