宮原誠先生との出会い

僕が宮原誠先生に初めて会ったときのことを書いておこうか。
 
あれはたしか自分が30代の前半で、NHK技研で働いていた時だ。CGを使った映像制作の研究をしていたはず。ある日、宮原誠教授が技研に来てデモと講演をする、というアナウンスがあり、それを見に行った。所属している部が開催したものなはずだけど、いったい誰が呼んだんだろう、分からない。
 
僕が覚えているのは、まずデモの様子。実験室を展示場に改装して、完全な暗幕を引いて中を真っ暗にして、そのど真ん中に、大きめのディスプレイが置かれていた。ディスプレイはやはり黒幕で周囲を囲い、ラスター部分だけが露出している。いまでも、そのディスプレイに、弥勒菩薩の白黒写真がボーっと浮かび上がっている異様な光景を覚えている。今思えば、あれはたぶん、土門拳の写真だろうな。場内は真っ暗で、入ると足元も見えず、まるでお化け屋敷だな、って思った。加えて、そこには、ディスプレイの両脇に宮原オーディオシステムがセットしてあり、何の音楽をかけていたんだろう、ぜんぜん覚えがないが、宮原先生のことだから、何かしら宇宙っぽい、包み込むような系統の音楽を選んでいただろう。
 
いずれにせよ、使っているオーディオもディスプレイも徹底的に改造されたもので、いちいちここで説明しないが、えー、そんなことしてんの? という反応が返ってきそうな「オカルト」な処置もされているのである(ディスプレイ周辺のいたるところに錘をぶら下げたりね)。その全体システムが作る雰囲気は、やはり異様なもので、僕の反応は、なんというか、真っ白であった。つまり、別に感動したわけではないが、単に、形容する言葉が見当たらないみたいな、感じ。
 
僕の記憶では、その大仰なデモの後に、先生の講演を聞いたはずだ。講義室にはそこそこの人数が来ていた。そこで僕は、宮原理論を初めて聞いたのである。それについては今までも書き散らしているから繰り返さないが、それは、その講演で先生自ら、コペルニクス的転回と称していた理論で、簡単に言うと、機器の性能を上げて品質を良くするのではなく、品質を良くするために機器のどこを改造すればいいかを知る、という帰納的方法を取る、ということだった。
 
当たり前だろうか? いや、これは少なくとも、その1990年ごろのNHK技研では、ちっとも当たり前のことじゃないのを、自分はそこにいたのでよく知っていた。その時は、機器の性能を上げて行くことに邁進していた時代だったのだ。
 
先生の講演が終わり、なにかしら質疑応答があっただろうけど、忘れた。僕は、というと、少なからずその話にショックを受けていた。僕は先生がそこで言わんとしていたことを、おそらくあやまたず一発で理解したものらしい。たぶん、心で。質問することなどなかった。だって分かってしまったのだから。これはほぼ断言するが、あの時のあの講演を聞いた人々の中で、宮原誠の言いたいことを本当に理解したのは、この僕一人だけだったと思う。
 
そうこうして、デモと講演は終わったのだけど、そのあと上司に呼ばれて、このあと、宮原先生を近くの鰻屋へお連れして飲みに行くので、林君、来てくれ、というのである。そうべいという民家を改造した技研横の住宅地の中にあるローカルな鰻屋であった。
 
そうして、そうべいの二階の座敷へ行った。たしか、部長、副部長、主任研究員、そして僕、というメンバーだった。僕だけ、ヒラの若造なのだが、こういうシチュエーションで僕はよく駆り出された。ちょっと変わった芸術系だったり、その手の理科系っぽくない件については、林を出しておけ、という了解ができあがっていたのだ。僕も技研で、相応に変人として認知されていたからである。いま思えば、大変、ありがたいことだ。
 
飲んでいろいろ話したけど、あんまり覚えていない。ただ、宮原先生の仕事の話はあまり出ず、当たり障りのない話でしばらくは進行していたはずだ。そのうちお酒が回ってきて、宮原先生の今日のデモや講演の話になった。そこで、僕は、その講演で受けた強い印象を、宮原先生に伝えた。先生が言われたことが自分には、とても良く分かります、すばらしい理論だし、着眼点だと思います、と。でも、そのあとがあって、僕は、結局、最後に先生に次のように言って、突っかかったのである。
 
「先生の理論は素晴らしいのですが、でも、なぜ先生はその理論をあのデモで見せたような狭い映像とオーディオに限定してしまうんですか? 先生の理論はもっと無限の可能性を秘めたものでしょう? それをなんで、もっと広い世界に応用しないのですか?」
 
今でも覚えているが、僕がずけずけと面と向かってこう言ったとき、先生は、日本酒の入ったグラスを片手に、優しい顔をして僕を見て微笑んで、何も言わなかった。そのあとは、もう忘れてしまった。しこたま飲んで引き上げたのであろう。
 
これが始まりであった。その後しばらくして、僕のところに、通信学会かなんかの学会誌で、芸術と工学に関する特集をするそうだから、林君なんか書いてくれ、と言われ(このように、そんな仕事は僕のところに来ていたのである)、それで「芸術の情感は工学で高められるのか」という文を書き飛ばし、提出した。その冒頭で、僕は宮原先生を讃美する文から書き起こし、そのあとは好き勝手なことを書いたのだが、とにかくも、この文はとうぜん宮原先生の目にも触れ、先生は喜んだろうと思う。そうこうして、ごく自然に交流は始まり、長年にわたり、あれこれお手伝いをしてきたわけだ。
 
ただ、僕は、先生の仕事に直接かかわりはしなかった。Webでの広報や、先生の理論を僕の理解に沿って、なるべく皆に分かりやすく伝える文を書いたり、そういうことをしてきただけだ。でも、自分の仕事についていうと、僕の仕事はいまだに宮原理論に沿っている。先生が狭い狭いオーディオビジュアルでやっているのとは別に、僕が鰻屋で先生に詰め寄ったように、その外に広がる大きな世界を相手に、その理論を応用することをしているつもりだ。そういう意味では、正しい意味で、僕は宮原誠の弟子であろう。
 
ところで、ずっとあとになって、先生に、あの初めて会った鰻屋での出来事を聞いてみたことがあった。僕がずけずけと先生に詰め寄ったとき、先生はお酒片手に余裕で微笑んで何も言いませんでしたよね? と。そうしたら、先生、こう答えた。
 
「うん、それは覚えてるけどね、あの時は、いったいどうやって質問に答えたらいいものやら、答えが思いつかなくてね、それで黙っていたんだよ」

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