とあるコミュニティに貼ってあったこのフォーク・ブルースだけど、僕が聞くとAIに聞こえる。英語のコメントが130件ついてて、いいねが3000、登録者4万人(たいした数じゃない)。コメントはすべて大絶賛だけど、これらコメントもAI生成に見えてくる。
Soraの作るAIショート動画もネットに溢れ、それがまたけっこう楽しめるので、たまに見たりしちゃう。最近はAI熊ネタも多く、AI動画による社会セキュリティ的な問題もすでに起こっている感じ。
もう、僕ら、こういう世界に生きていると観念するしかないね。
その後、もう一個バンドブルースの投稿があり、そっちの方はオレが聞いても生身かAIか判別が難しい。昔の録音ではなくここ十数年ぐらいのいまの録音を想定したバンドブルースになっちゃうと、今度は生身のブルースミュージシャンたちのテクニックが上がりすぎているせいで、生身の人間(たとえばギター、歌など)の演奏の方がAIに聞こえるようになっていて、こうなると両者の区別は難しい。
つまり、AIのテクもすごいけど(機械で真似してるので当たり前)、生身のテクもおなじくすごく(教育のおかげだろうね)、少なくともテクについてはほぼ均衡な感じ。
しかし、テク以外の要素ということになると、これはもうあっという間に魑魅魍魎の世界になり、統一した見解にまとめることはおそらくできないと思われる。
オレがここで言いたいのは、「統一化した見解」というのは、結局はランキングだと思うんだよ。テクのランキング、人間臭さのランキング、味わいのランキング、なんでもいいんだが、ランキング。で、ランキングってのは数値でしょう? だから数値として指し示すことができるものを「見解」と呼ぶわけだ。
そして見解にはもちろん100%正しい、というのはなく、確度で水準を決めて、95%確度なら確定見解とみなす、99%確度なら確定指標とみなす、といった価値判断を数値に結び付けて、それで世の中を、見解数値ベースで運営する。これがデータサイエンスな科学のやり方。
ちなみに99%であっても1%必ず残るが、これがいわゆる「科学の反証可能性」のことかな。反証可能なものを科学と呼ぶ、というポパー(だっけ)のアレである。
ということで、もし昔の世の中のように、ホンモノと偽物、という区別をしたとすると、すでにそれは1か0かではなく、1と0の間にアナログ的に滑らかにグラデーションを作っている、ということになっているはず。つまり「この音楽は8割ホンモノ」」という言説が矛盾に聞こえず普通のことになっている、ということだと思う。
これこそが数値による価値判断の健康な姿ではあるまいか。だから、別にAIが作ったブルースに涙したって構わない。あなたは騙されてるんじゃない、そういう世界に生きているんだ、ってことだ。
以上が「数値」による割り切り方で、これで人生を乗り切ることは、それほど厄介じゃない。
しかしだ、数値を捨てて、魑魅魍魎の世界に今度はまともに向き合うと、これはもう大変なことになる。さっき言った「見解」はまったくひとつに定まらない。ホンモノと偽物についても、それらが容易に逆転し、そもそも数値ランキングが作れない。確度なんてものは存在せず、10億人いれば10億通りの確度があるだけになる。
とまあ、そういうわけで、そういう魑魅魍魎の世界を数値や科学をすっ飛ばしてじかに感じて尊重することにすれば、実は現代的問題の多くは霧消する(ホントか?)
オレがここしばらく、もののあわれとか、ブルースの魂とか、まぐれ当たりに考えたり書いたりしているのはそれである。それらは「評価される対象」ではなく「すでにそこにあるもの」なので、あとは人間はそれにかかずり合うか、避けるかしか取る方法が無い。
で、オレは魑魅魍魎の世界を選んだ。ただ、それだけ。