縁起とニューアイデア

オレね、ふと、こう思ったの。

たとえば、自分は朝起きて、コーヒーを淹れて、ノートPCの前に座ってコーヒー飲みながら、ぼんやりネットサーフしてるんだけど、そのときの自分の動きをいちいちなぞってみる。

そうするとほんの30秒ていどの間でも、たとえば

「たとえば」とキーボードを打つ
右上のおでこがかゆいので右手で掻く
メガネが少し落ちたから直す
なぜか画面から目を逸らして目の前の窓を見る。それは画面に飽きたからみたいだ
再び目線を戻して今度は横目で右側のコーヒーカップを見る
飲もうかと思うけど、まだいいや、と止めてまた目線を画面に戻す
続きの文の「自分は朝起きて・・」を打つ
キーボードの上の手の動きが変な気がして、打つのをやめて手を見る
そしたら気になって手を裏返して手のひらを見る
鼻に触る。かすかに痒いからか、あるいは癖のせいのようだ
上半身の姿勢を変えて画面に近づく近づきすぎて字がぼける
これって老眼のせいだっけ、いや、近眼か、などとしばし静止して考える
まあいいや、と再び姿勢を戻す

つまり切りがないわけだが、たったの30秒でこれだけのことをしている。こういうのを分析的観察、というのであるが、ここでバカバカしいと思わずに、その各々の分析の文節に注視すると、自分が動くとき、とにかく、なんらかの「理由」と「環境」の条件があって、そのせいでそれに対応した「動き」をしていることが分かる。

これが、仏教の縁起からの思い付きだった(ただし仏教哲学における縁起の意味はこういうのとは違うのだけど)

すなわち、オレのどーでもいい30秒の動きのすべてにはなんらかの理由があることが分かる。ここまでだと、なんだ、それっていわゆる自動オートマトンシステムみたいなルールベースの自動機械じゃないか、と割り切らず、その、何気ない世界の動きに対するミクロの決死隊的な分析に身を任せるようにするの。

そうするとね、なぜだかわからないけど、ぜんぜん違う風景が忽然と自分の中に広がるような気がする。

これは実は僕がこのまえ出版したロバート・ジョンソン研究書の中で書いた、ロバートのボーカルの周波数解析をして、その声の動きの詳細を追ったあれに通じている。微に入り細にわたり、分析的にボーカルラインを眺めていると、なんだかぜんぜん違う世界が見えてくる。で、その見えた風景が、実はロバートの歌、という全体表現にどこかの次元を通じて強く関連してくるように思えてくる。

以上、ただの気まぐれなのだとは思うのだけど、西洋科学式の「分析と総合」とはぜんぜんまったく違う意味での、「分析」と「現実の立ち現れ」みたいな感覚を感じたわけ。それで、それを、イベントとアクションの対としてすべて書き出して、列挙して、その後、そのスタート点をポンっと叩くと、あとは勝手に扇が広がるように現実世界の動きが立ち現れる、ということを思い付いたの。

ここまで行くと、やはりオートマトンへ返って来るのだけど、実際、僕ら、オートマトンやフラクタルが作る、およそどーでもいい自動模様に感覚的に強く惹かれること、あるでしょう?(ねえか😆) その快感みたいなのが、たしかにこの縁起の世界観の中にあるような気がする。

仏教の「縁起」は、そもそもは、世界というのは時間軸の上に展開されているものではなく、関係と条件によって次の動きが現れ、それが常に起こって、その結果として立ち現れるのが世界というものである、という思想である。そして、それを称して「無常」という。すなわち常に動いていて、止まることがない自動機械なのである。

まー、そういうことだ。なんとなく、こうやって書いてみるとファンタシーだよな。オレ、ロマン派だし。

科学と終わりない闘争

オレ、中華料理的な調理法が身体に染みついていて、中華料理以外であっても油をかなり多く使ってお料理している。いまもいつもの朝食を作っていて、改めてそう思う。卵一個を焼くのにも大さじ1杯ぐらいの油を使っていて、これってふつうは油をフライパンに敷くていどだよね。

で、それを何か月も続け、ふとあんなにきれいだった黒い今風換気扇を見てみたら、ギャー! 油だらけだ。ところどころ油のしずくができてたりしてる。ペーパーで拭き取ったけど、すでに油の粘度が上がってて、これは完全除去は厄介な段階じゃん。やっぱり油使ったらこまめに拭かないとダメだよな。

そういや、どうやら最近のダイエット法では、油というのは悪者じゃなくなったみたいね。むかしは痩せるのに油を完全に抜きにしてたりしてたもんじゃん。もっとも、その後、こんどは炭水化物ゼロにしてみたり、砂糖のみを悪者にしてみたり、タンパク質を悪者にしてみたり、まあ、よくも飽きないもんだな、ってほどダイエット法ってコロコロ変わっている。

このまえ、大学の友人たちと呑んでたら、そのうちの一人が講釈してた。炭水化物を油と一緒にとることで、吸収のタイミングが調整され、身体に脂肪として定着しにくい。したがって調理には油をむしろ多く使った方がいい、とかなんとか、なんだか、ご高説~みたいな感じで、見てておもしろかった。オレの大学は理科系の殿堂みたいなところで、その友人グループは恐らくオレ以外は科学を信奉、という言葉が悪ければ、科学を指標にしている。

油を多く使って調理する中国人がなぜか肥満が少ない、なんていうのもよく言われることだ。

でもさ、オレ、これまでに中国本土に何度も行っているけど、昔の中国は全体にそれほど裕福でなく、いわゆる飽食という現代病にかかってなかった気がしたな。北京の通りから自転車が消えて自動車だらけになった中国のここ最近の急発展のあとに行ったときは、肥満な中国人をけっこうオレ、見たよ。あと、昔中国には泥酔するような輩が少なく、そこは東京とえらい違いで、東京なんか夜の街を歩くと泥酔者ばっかで、へたすりゃ道路でゲロ吐きまくってたけど、中国には昔は酔っ払いはあんまりいなかった。

やはり、油がどうのってより、生活が現代欧米的に発展した、ってのが順当な理由じゃないのかねえ。

ところでダイエット法がそうやってコロコロ変わるってのは、たぶん、それに科学を使うがゆえ、な気がするな。科学というのは諸刃の刃で、使い方によってどんな結論でも出せる。それは単純なトリックで、「条件」を操作して結果を作り出し、その後、表に出すときにその条件を隠してしまえばいい。

もちろん論文にはその条件は記載しないといけない。でも書いておきさえすればいい。で、その科学的結論を政治経済に利用するときには「あえて条件には触れない」ようにしておけばいい。単純かつ簡単で、くだらない話だ。

あるいは、科学界にはときどきパラダイムシフトのようなものが起こり、条件を操作するなどというチマチマしたことではなく、いわゆるこれまでの科学で常識だったことがくつがえってしまうことがある。とても大きい例で言えば、天動説から地動説とか、神の創造から進化論とか、天体観察から万有引力とか、万有引力から一般相対性理論とか、まー、いろいろある。ちょっと例が大き過ぎるけど、細かいのを入れるときっとかなりの量になる。

科学というのは、昨日の常識が今日の非常識になる、ということを科学の良いところとして言う人がいて(僕の友人)、僕はかねてからその言葉が大キライだったので、だいぶやり合ったっけなあ(誰だ? それ)

だって、それを善しとするということは、科学の世界観を、終わりのない闘争の中に置く、ということだろう? それこそが争いの根源的な衝動だろう? その衝動を積極的に肯定するのは、僕はイヤだ。論理的に反論しているのではない。「イヤだ」と言っているのである。つまり感情的反論である。

僕が昨日だかに書いた、西洋的な「暗くて宿命的な知性」という姿に呼応しているのが、そういう価値観だ。それに対して「明るい知性」を置こう、というのは、そういう従来型の科学的世界観を手放したい、ということでもある。

科学は知性ゆえでしょう? 僕は明るい知性を大事にしようと言っているわけで、だから科学を捨てて宗教的迷妄に戻ろう、と言っているのではない。科学を捨てなくても、明るい気持ちでいることはできるはずだと言ってるの。でも、それは、よくよく気を付けないとうまく行かない。

もと科学の人だったオレは、それを身を持って知っている。それで常に科学に文句言ってるの。

しかし、書き始めると長げーなー。このへんでいいや。

時間から縁起へ

しかし、台本駆動型の映像づくりになんらか未来があるとは思わなかったな。オレ、韓国の友人に、台本駆動型につきなんか考えてくれ、って言われて、即、それはムリ、って直感したので、しばらく置いて、なんでムリなのか理由をあげてかなり長文のメールを書き送った。

これで終わりだろうな、って思ってたんだが、なんとその友人、オレの長文メールのおのおのの文にいちいちコメントをつけて返信してくれ、そのコメントは全体にやはり、林さん、もう一回考えてみてくれないか、という内容だった。

そのメール返信を受け取って、自分は、これでもあきらめないか、と、実はけっこう意外だった。かといってムリなものはムリで、仕方ないんだけど、そこまで言ってくれるのなら、と、分かりましたもうちょっと考えてみます、と無難な返事を返して、ほとぼりが醒めるまで待つことにした。そのうち諦めてくれるかな、とか思って。

で、ひと月以上たって、なんだったんだろう、どこかで、Dectalkという超むかしの音声合成の声を聞いたときだったか、懐かしくてちょっと遊んでみる気になった。そこで、30年前のボブとメアリーというキャラを引っ張り出してきて、そのDectalkでしゃべらせてみた。そしたら、昔とおなじにしゃべったしゃべった! それで、やつら二人に下らない寸劇をやらせて、それをYouTubeかなんかに上げた。

このお遊びをしてるとき、なぜか、忽然と思いついたのである。台本駆動にまだ未来があるかも、というアイデア。そのアイデア自体はたいしたものではない。でも、自分の中ではじゅうぶんにワクワクするものだった。それはこの世のすべての動き(現象)をイベントとアクションの対で書き表そう、というアイデアだった。

オレ、ここ三年ぐらい小乗から始まって大乗まで仏教をなぜか学んでいて、その仏教の根本思想である「縁起」というものが身体に沁み込んでいたのかもしれない。そのアイデアは、その縁起の考え方を使ったものだったのである。

だからアイデアはぜんぜん新しくない。二千年以上経ってる(笑) しかも、世の中ではすでにさんざんやられている事で、新規性も無い。なら意味がないかというとそうでもなく、新規なのは「すべてを縁起でやろう」という発想だった。これまでは縁起という手法が使えますよ、ていどだったところに、縁起以外は使わない、という強い意志を導入したことだった。

これ、実は、「時間」を捨てて「縁起」だけにする、という宣言なのである。

これもまた、昨今の自分が時空間を基盤にする科学をしりぞけて、物理的時間というものを嫌ったことに呼応している。なんだか、不思議なもんだな。

そして、友人から励まされて二月ほど経って思い付いたこのアイデアを、AIを使って実装までして、それを友人のところへ持ち込んだ。「なんか思い付いたよー」とか言って。そしたら、友人が、おもしろいですね、と言ってくれ、具体的にそれが走り始めた。それで、その件でこのまえ、ソウルへ行ってきたのである。しかも、その結果、なぜかオレ、ソウルでの仕事に関わることになった。

こんなことって、あるんだな。こうなると、オレがかつて言った、これからは科学じゃない、哲学と芸術だ、という言葉が現実になったとも言える。哲学(今回の仏教の縁起)と芸術(ボブマリで実装)は、実質的にオレにとって飯のタネになった、ということだ。しかし、それでオレの老後の人生まで助かった感じ。

それにつけても、僕のにべもない拒絶に、粘り強く対応してくれた友人のおかげであろう。持つべきものはいい友達だね。

物理的距離と心理的距離

うちは最寄り駅からおよそ歩いて7分で、それほど近くはない。グーグルマップで調べた、最短距離の裏道みたいなルートをいつも使ってる。ちなみに坂はなく、平坦である。

で、ここずっとそう思ってたんだが、なんか特に夜とか帰るとき、家になかなか着かないなあ、疲れるなあ、ってなってた。

そこで昨晩はルートを少し変えて、裏道じゃなくて幹線道路沿いで帰ってみた。そしたら、けっこうラクに家に着いた。マップを見ると百メートルほど余計である。

これって、つまり、駅から家までの「心理的距離」と「物理的距離」の乖離ってやつだろうね。

よくよく思い返して、なんで裏道が遠く感じられたかというと、途中、裏道のまっすぐな道を2ブロック歩くんだけど、毎回、まだ1ブロック目か、と思うのである。一方幹線道路にはブロックはなく歩道を一直線で、最後に路地を入るだけ。

あと、裏道ルートでは最後に家へ向かう道で、遠くに家が見えるんだが、まだあんな遠くかあ、って毎回思う。でも、幹線道路ルートでは、路地を入るとすぐに家なのである。

以上のような理由で、感覚と物理が食い違う。物理的距離は100メートルも遠いのに、心理的距離のルートの方が快適。

さて、どちらが正解なのか。

オレはもちろん、幹線道路ルートだと思うのだが、いや、しかし実際は物理距離は遠いのである。なら、近いと思うのは気のせい、ってことになるだろうか? もし、駅から家へ帰るのに、フィジカル身体がどれぐらい疲労するか、という「数値」を評価関数に取れば、あきらかに裏道ルートが良いことになる。でもこのとき、どれぐらい疲労するかに心理的なものが計算に入っていない。それも勘案するとなんとも言えなくなってくるが、その心理的距離における評価関数はなかなか数値になってくれない。物理の方はメートルで済むが、心理の方はそれができない。

とまあ、昨日、夜遅く歩きながら、そんなことをぼーっと考えてたから書いてるんだが、僕ら現代人は往々に、物理的距離を自明な指標とみなして、心理的距離はめいめいのオプション、ぐらいに考えることが多いと思う。

その対処法があまりに現代では自明なので、それが大手を振っているが、実際、どっちがより良いかは、まったくに決定不能である。

結局、めいめいが決めればいいことだ。で、心理の方は人の数だけあるが、物理の方はメートルひとつしかない。このひとつしかない、というのがマジョリティで成り立つ社会では功を奏して、現代社会はそれの上に構築されて来た。

でもさあ、心理の方を上に見てもいいじゃん、とも言いたくなるよね。ちょっと逆転させて、「物理的距離なんてものは、まことに下等な考え方で、そんなものは後回しだ」とかいう、アンチ物理な人間がいても、いいんじゃないか、って思ったりもする。

第一、例えば音楽をやるときは、どうあったって心理優先で物理はあとだ。物理でギター弾いてるバカは大勢いるが、その音楽はたいてい下らない。

そのむかし、三好達治が家で豆粒ぐらいの小さな蛙を飼っていたそうだ。で、来る人来る人に、この蛙は河鹿に違いなく、なぜなら、俺がこいつを採集した場所は山奥に湧く清水であって、そこはそんじょそこらの下等な蛙が生息できるようなところではないのだ、と自慢していたそうだ。しかし、あるとき、家へ遊びにいったら、女中のやつが箒で縁側から庭に掃き出しよって行方不明になった、と忌々しそうに言ったそうである。

オレはね、こういう人として、生きたいよ。

ムンク

ムンクのグループに入っているせいで、定期的にムンクの絵がTLに上がって来るが、この絵。もう、いったい、これをどうしてくれるんだ、というほど完璧な絵だ。

そしてこの色。オレは実物をオスロへ見に行ったので知っているが、パソコンのモニターで見てもこれだけすごいわけで、ホンモノを見たらその場で倒れてしまうほど、実物のグレードは異なる。

仕方なしにいまはモニターで見ているが、それでも、この色彩の調和はものすごく、そしてこれはムンクならではの感覚だ。

ゴッホとかムンクとかは、おそらく色に接すると音や言葉が聞こえる共感覚という性質の持ち主だったと思われるが、僕にはそういう特殊能力は明らかにない。それでも、その彼らの置いた色彩の言葉は、ものすごく明確に聞き取ることができる。ではいったい、その言葉はなんなのか、と言われても、言葉で説明できない。

言葉で説明できないとして、このムンクの一枚の絵の色彩は、いったいなにを語っているのだろう。なんのために語っているのか。そしてそれで人をどこへ連れて行こうとしているのか。それっていいようもなく不思議だ。オレ自身は明らかに言葉の人だが、この色彩の感覚は、ある強烈な感覚の嵐になってやってきて、自分をどこかへつれてゆく。

こういう色を見ていると、そのまま昇天してしまいそうになる。このまま死んでしまっても一向に構わないような気になる。

そういや、そういう経験って、オレ何度もしてるな。

とある昼下がり、仕事をさぼって、よい日和の中を、自転車で走ったとこがあった。それは延々と続く緑道で、色とりどりの草木の緑と花で溢れていた。そこをのんびりと走っているとき、明確に、ああ、オレはこのまま死んでもいいなあ、と思い続けた。

しかし、変な話だけど、オレ、ゴッホやムンクを見るより前は、これら自然の色彩をちゃんと弁別してなかった。たんに、ああ植物だなあ、と見ていただけだ。それが、彼らの絵を見るようになって、自然の景色が一変した。これまで見たことも感じたこともなかった光景が目の前に広がっていた。

そして、その美しさは、人を、植物の眠りに誘うんだ。

それにしても、そう遠くないうちに、オスロへもう一度行って、もう一度ムンクの絵を見に行こう。

実は、完全に同じものが見れるなら、オレ、デジタルでもいいんだけどな。でも、AIの今の世でも、それって無い。オレ、礼拝的性質が薄いので、ホンモノじゃなくても同じならデジタルでもいいの。

大阪

来月末に関西へ行くんだが、そこで二日ほど大阪にいる。そのうち一日はみなみでライブ、楽しみ。で、もう一日はフリー。FBの投稿でシカゴロックっていう南森町にあったブルースバーの老舗が堺へ移転してる、って知ったのだけど、そこへ行ってみようかなあ。

で、さっき、堺ってどこにあるんだろう、ってマップみたら、えらく下の方なんだねえ。完全に大阪南部なんだ。すごいな。

オレ、40年前の初任地が大阪で、三年住んでいたので大阪には思い入れがある。大阪大好き。ホント言うともう一回住んでみたい、って思うことがよくある。あのころは北から京都へ向かった中途の南茨木に住んでたけど、こんど行くなら南かなあ、とか思っちゃった。

マップを見ると、今回泊るホテルは難波で、そこから下の方へ、通天閣やら、天王寺やら、阿倍野、そして天下茶屋、って懐かしい名前がずらずらと並んでる。オレにとっての大阪は阿倍野どまりで、堺はディープサウスの異界だったなあ。

思い出すが、いまからおよそ二十五年前、西成のあいりん地区へ見学に行ったっけ。僕が43歳ごろのことで、そのころの僕は発情期で、六本木に歩いてそうなオシャレなルックスで冬の西成に女と共に降り立った。彼女もおなじくオシャレで、その強烈な東京ノリを発散するカップルがあの一帯を歩くって、いったいどういう料簡なんだ、って感じだよね。

二十五年前のあいりん地区はすごかった。大量のおっさんたち、半分はたぶん浮浪者な人々がいる。で、なんか町の一角ではあるんだが、建物のキワに15センチほどの溝がぜんぶに掘ってあって、おっちゃんたちはそこに立小便をするので、あたりは強烈な小便臭だった。あの溝は要はマジで街の一角ぜんたいが公衆便所のつもりだったのか、ひたすら尿が流れてる印象だった。そこを歩いてゆくと、たしか三角公園と呼ばれてる小さな広場みたいな場所があって、そこは特に人がたくさんいて、職のないおっちゃんたちで溢れてた。全体に、みな動きがスローで、てんでばらばらで、夢遊病者の群みたいに見えたっけ。

そのあと、天下茶屋へ続くアーケードを入って、そこにあった汚い立ち飲み屋に入った。やっぱり、ただのおっちゃんやらが昼から酒を呑んでる店で、大きな鍋におでんが煮えて湯気を立ててる光景を覚えている。あいかわらず東京ルックのカップルで超場違いなんだけど、店の人も客もなんだか妙に親切でフレンドリーで、どっからきたん? 東京かア、みたいに話しかけてくる。

大阪の印象が良かったのは、僕のようにコテコテの東京ルックで東京弁しかしゃべらない人間を厚遇してくれたことばかり覚えているからである。

さて、マップの上で、いまはあいりん地区どうなってるんだろう、と思い、ストリートビューで見てみたら、完全にただのそのへんの町になっていた。先日、山谷へ見物に行ったときもそうだったけど、同じだ。三角公園らしきところもあったけど、金網のフェンスに覆われて、中は誰もいない空洞で、フェンスには、露店禁止、不法投棄禁止、なんとか禁止っていう看板がべたべた貼ってある。

それでもストリートビューには、いくらかのおっさんたちがたむろしてる所もあった。駐車場みたいなところで段ボール箱の上になんか載せて露店みたいなことをしてるのもあった。かろうじて、ということだろうな。

というわけで、今回の大阪行きでは、大阪の南部一帯を見学しようと思う。それで初日は堺のシカゴロックへ行って、翌日はみなみでブルースを歌う、と。いやー、なかなかいいじゃん。楽しみだな。

恥ずかしい自分

前から書いてたように、自分は冷静な議論ができない。なにかがあると先に感情的な結論が出てしまい、それを丁寧に論理に落とし込むことが苦手だ。

それでコロナ騒動のことなのだが、あの騒動はそういう言動に満ち満ちていて、いまでもそうなので、ほとんど近寄らなかった。

あのとき、自分は、かの山中先生に大変に失望して、顔を見るのもイヤになってしまったのだけど、山中先生を科学者として失格だった、とか、山中先生は政治圧力に負けた、とか、山中先生は不誠実でダークサイドに落ちた、とか、そういうことを感じたわけじゃない。いまだに思うけど、あの人は人間として実にまっとうで、誠実な人だったと思う。

なのになぜ嫌悪感から顔を見るのもイヤになったか。

こういうことをきちんと論理に落とせないのである。でも、昨晩、友人とのメッセージで少しだけ強制的に冷静になってしゃべってみた。そこで問題になっていたのは、政治家と科学者の科学的事実に関する態度の話である。

そもそもは昨日、僕が泉大津市長の現在のコロナワクチンに関する反ワクチン的な内容の警告動画を紹介したところから始まる。

市長は政治家である。そして山中先生は科学者そして医者。で、どういうことになるか。以下である。

政治家だからって数字を恣意的に操作していいはずはない。きちんと科学的に説得力のある形で提示するのが筋である。ただ、政治家が科学的説明を使う場合は、まず先になんらかの伝えたい、そして説得したい、そして納得させたい意図があるのは当然のことで、政治家はその意図を伝える人なわけで、科学的事実を伝える人ではない。それが政治家というものだ。

でも、しかし、少なくとも科学の言葉を使っている限りは、科学の流儀には従ってもらわないと困る、というところは、政治家も科学者も同じ。

オレはなにも、同じ科学を使う場合、政治家は何をしてもいいけど、科学者はそれじゃ駄目だ、って言ってるわけじゃない。科学というのは諸刃の刃なので、どうとでも使える手段で、今回の場合も、科学の使い方によって、親ワクチンにも反ワクチンにもなる。

政治家は、意図をもって言葉を発するので、先に親か反かを決めて、それを説得するために、科学を利用する。さっき書いたように科学というのは、親にも反にも合理的に使えるので、それを政治家が使っちゃいけない法は無い。

でも、科学者はそれじゃ困る。科学者はちゃんと、親と反を両方、科学的に伝えないといけない。政治家的な意図より先に、科学的事実を伝えないといけない。そうしないと、科学は政治の完全な奴隷に成り下がる。

それは許し難い、と自分は感じる。

僕自身が科学の人だから、科学は正しく使わないといけないと考えていて、山中先生がそれをきちんとしないことについて、彼は科学者失格だ、って怒ってる、とか言いたいんじゃない。そんなチマチマした話じゃない。

なにに反応するかというと「不誠実」。それに尽きる。それが許し難い。

ここまでしゃべると、以上に対する反応はもう、これしかない。

「科学者として科学的事実をちゃんと伝えないのはたしかに不誠実だとは思う」

でも、そうじゃないんだ。こういう議論をすると、オレ、歯がゆくて死にそうになる。それがイヤだから自分はロジックに基づいた議論を避けるのである。

で、我が身に振り返って、なぜ、オレは、こういうシチュエーションのとき「不誠実」という言葉が真っ先に出てきて嫌悪するのか。ほとんど感情が先に反応して、息が詰まるような感覚を、これは生理的に感じる。自分の中のなにかが激しく反応しているのだけど、それがなにか特定できない。

昨晩は、ま、なんか自分にトラウマがあるんだろ、で放置して寝た。

一夜空けて、今朝もう一度考えたけど、どうやら自分は、「理念が汚された」ことに怒っているらしい。その理念を汚した現実の人々は、ここに出てくる山中先生とかその他多数なんだけど、そういう人々を自分は非難して嫌悪してるんじゃない。冒頭に書いたように、山中先生は人間として誠実な人で、それゆえにいわば苦悩の人に見える。そんな人を嫌悪するわけがない。

そうじゃなくて、オレが怒るのは、ひとえに思想が貶められたことによるらしい。なーんだ、だよね。思想なんてあぶくみたいなもんだろ、って思うよね。

ごめん長くなったけど、もう少し。

で、今朝、おそろしいものを発見した。とある事情で古いものを整理してるんだけど、高校二年のときの倫理社会の哲学の授業で書いたオレの原稿用紙6枚の文が出てきた。「サルトルの実存主義について」という題名で、苦痛に耐えながら読みました。

唖然としたのだが、そこに、

「僕は『役に立たない思想は意味がない』という考え方に賛成なので」

と書いてある。しかし、穴があったら入りたいとはこのことだ。

今のオレは『思想は役に立たないから美しい』という考え方なので、真逆なのである。高校二年はオレがガチガチのナイーブな理科系だった時である。

この文を読むと、当時、家で父がしゃべっていたことに影響されていた自分を思い出せる。たしか父は、現代社会の堕落につき、矯正できる力は宗教にしかない、と、ことあるごとに言っていたのである。オレはそれをこの文の中で受け売りしている。恥ずかしいことこの上ない。

これでわかった。オレのトラウマの出処はここだ。オレは山中先生をはじめ、それら科学者たちが、オレの父のように現実的に振る舞うのがひとえにイヤだったのだ。そして、その対極にある思想の純粋性と、非現実性、非生産性、無意味性に、法外な価値を置いて思想というものを自分のなかで祭り上げたのだ。

そしてその思想を汚す行為に対して、ひたすら嫌悪感を抱くということになっていたのだ。そして、その生理的嫌悪感の正体は、父と、未熟だった恥ずかしい若い自分だったんだ。

なんだか、そういうことが今朝分かって、少しだけ安心した。67にもなってこれか。オレって、青春してるなあ(笑

引っ越し20回

思い出話。

ここ最近、母の関係で大森日赤へ行くことが多い。そこは、実は僕がかつて小学校6年から大学を卒業するまでの12年ほど住んでいた親元の場所と近いのである。病院へは自転車で行っているのだけど、このまえ、もと僕が住んでいたところがどうなってるか、行ってみた。

そこは大森駅からバスで7、8分のところで、線路に近い場所にあった。父が働いていた蒲田振興株式会社の社宅に住んでいたのだ。社宅と独身寮がくっついた四階建てのコンクリートの建物で、僕らはその社宅部分の最上階に住んでいた。そしてその建物の隣はモヤシ工場だった。陽の光が不要なモヤシは工場で作るのである。工場の裏手、そして社宅に面したところにけっこう広い空き地があって、なんとそのモヤシ工場は、モヤシの殻をそこに捨てていた。夏になるとそれが腐って悪臭を放っていたっけ。おおらかで不衛生な昭和の風景である。

さて、自転車で行ってみると、案の定、社宅もモヤシ工場もなく、それぞれの敷地に大きなきれいなマンションが建っていた。なんのノスタルジーもない。

それを眺めながら、ふと思い出したのだが、そういえば、社宅の隣の隣に、僕が小学6年にここに越してきて友だちになった青木君という同級生が住んでいたっけ、どうなってるだろう、と思って行ってみた。そうしたら、細い路地を入ったところに、なんと驚くべきことに青木という表札がかかった家があるではないか。それで、よく見るとこの建物は二世帯住宅で、ちょっと奥まったところに別のドアがあるのに気づいた。そこにはけっこう立派な表札がかかっていて、そこに大きく「青木優」と書いてある。

びっくりだ。これはその、僕の小学生のときの友だちの名前そのもので、彼は変わらずそこに住んでいるのである。

優はまさる、と読む。彼の顔は縦長の落花生のような形で、直毛の髪の毛は前髪が横一直線に切ってあり、いわゆる坊ちゃん刈りであった。なんとなく、スローでとっぽい感じの子だった。

でも、青木君のお母さんは教育ママで、彼は学校から帰ると毎日、親に言われて2時間缶詰めになり勉強していたそうである。しかし成績は一向に上がらず、勉強はできなかった。でもそれでも強制勉強は続いていたようである。

そのころ、僕はその青木君と、もうひとり前田君というやつと三人でよく遊んでいた。前田君は青木君と違って活発で、よくしゃべり、よく動く、元気な子だった。三人で、ゴムボールと棒切れで野球ごっこをしたものである。アパートの横の細長い空き地スペースで、ひとりが投げた球をひとりが棒切れで打って、それを残りの一人が捕る、みたいな遊びである。

で、まあ、かなりしばらく仲良く遊んでいたのだが、あるとき、前田君と青木君が僕を無視し始めた。僕が遊ばない? と言っても二人とも返事をしないでどっかへ行っちゃう。いま思うと、よくあるいじめだった。おそらく前田君が先導して、青木君がそれに従っていたのであろう。僕は少し悲しい思いをしたが、それほどショックではなかった。そうこうしているうちに小学校を卒業し、僕らは別々の中学へ進み、疎遠になり、僕もいつしか彼らのことを忘れてしまった。

そして、中学生になった僕が、あるとき、偶然に彼らに遭遇した。彼らは中学になっても二人でつるんでいた。一方、僕はもう新しい世界に住んでいた。それでも、久しぶりだね、みたいにして、彼らとしゃべって、それで彼ら、まだ、同じ野球遊びをしていたようで、僕に、またあれやらない? と誘って来た。いいよ、って言って、前と同じアパートの横の広場へ三人で行った。

その遊びでは、だいたい活発な前田君がピッチャー役で、僕がバッター、青木君が外野だった。

それで、僕がどこで野球を覚えたか定かじゃないんだが、前田君がどんな球を投げても柵越えホームランだった。あまりに僕がぜんぶ打ち返しちゃうんで、前田君はとっておきの球を投げた。それは、弓なりに投げる変化球で、かつて僕はいつもそれを空振りしていたのだ。しかし、そのときは、彼が、じゃあこれでどうだ! とか言って投げた球をやはりホームラン。ぜんぜん遊びにならない。前田君は僕に、おまえ、すごいな、と言い、参った顔をした。僕はというと、中学になっても同じ二人で同じ遊びして、しかも負けている彼らを見て、なんだか、こいつらレベル低いな、みたいに思った覚えがある。

そんなことを思い出しながら、さて、青木君の家の前にいる僕は自転車を降りて、彼がいまも住む家の扉の外にしばらくたたずんでいた。なんだか、ひょっとすると本人が出て来ないかなあ、と思ったのである。もし出てきたら

「すいません。青木優さんですか? 僕、小学校のころに一緒に遊んだ林正樹です。ここの隣の隣の社宅に住んでた者です」

みたいに言おうかな、って思ってた。それでふと気づいたんだが、表札を見ると、でかでかと青木優と書いてあるだけで、よく考えたら奥さんの名前がない。そっか、ひょっとするとずっと独身なのかもしれない。でも、家はあるとき二世帯に建て替え、同じ建物で親と別に住んでいるんだろう。

それにしてもいまだに同じところに住んでいる、というのはすごいことだ。

それで思ったんだが、オレっていままでで何回引っ越したっけと数えてみると、なんと自分の引っ越し回数は二十回を超えている。じゅうぶん、ヘンなやつである。

たぶん、青木君と僕は正規分布の左の外れと右の外れなのであろう。接点はまったく、どこにもなさそうだ。扉の前でそんなようなことを考えていた。重そうな扉はとうぜんのように閉まったまま動かなかった。

そりゃそうだよな、と、あっさりあきらめて、オレは自転車にまたがり、その場を離れ、廃れた線路の方へ向かった。

AGI

AIが人間の知性を超える、というのは前から言われてたけど、最近特にやかましくなってきたね。で、その人間以上の知性を持ったAIをAGI (Artificial General Intelligence) とかいうけど、このAGI、言葉が出てきた数年前から自分は遅かれ早かれAGIに到達すると思っていたよ。

何回か書いたけど、自分はAIが出るよりだいぶ前から、人間の知性というのは物質の別名だと考えていた。物質というのは空間と時間が与えられると自動的に瞬時に展開するでしょう? 知性はそれとイコールだ、と思ってた。だから知性というのは、その本来は、瞬時に自動的に展開するもので、果てしなく大きく膨らむもの、と思ってた。自分の頭の中では膨らみ続ける巨大なバルーンが想像されてた。

ちなみにここで知性という言葉を使うのはあまりよくなくて、正しくは悟性(感覚器官からの入力を認知する)だと思う。知性は悟性よりずっと広い能力を指すせいだからだけど、ここでは知性のまま行ってしまおう。

さて、いままでは、その知性の展開にはある障害があって十分に膨らまなかったけれど、今回、AIによってその障害がほぼ完全に取り除かれたような気がしている。もし、それが正しければAGIの誕生は自明、ということになる。

自分の勝手な妄想が現実になった、とオレは考えたんだけど、その巨大バルーンのイメージが具現化するのに、こんな道を辿る(AIの誕生)とは、まったく想像していなかった。完全に予想外。オレはてっきり、コンピュータの処理速度無限、データ容量無限、通信速度無限になったあかつきにそうなるもの、と想像していた。ただ、それらはすべてハードウェアの要件でしょ? ソフトウェアについてはノーアイデアだった。

そしたら、なんと、LLMを出発点にしてAIがそれをやってのけた。未来ってホントに分からないものだと痛感したよ。

あと、このAGIに到達すると人間というのは超えられてしまった存在になる、という人類の敗北宣言みたいなことが、そこらじゅうで言われているのだけど、それは自分はバカげた話だと思う。いったいそういうことを言う人々は、知性だけが人間だと、本気で考えているんだろうか。

そんなのナイーブな理科系の人たちだけが仕事の上でそう言ってるだけじゃないのか? と訝る。でも彼らだってAIについてあーでもないこーでもないとしゃべりちらす前に、朝起きたらパン焼いてマーガリンつけてむしゃむしゃ食ってるんじゃないのか? ごはんに味噌汁かもしれんが。

ま、いいや。

AGIは知性を代替した。でも、生命には知性のほかに「心」というものがある。知性がAIという自動機械で物質化したので、あとは僕らの大切な心を見つめる時代になるんじゃないかな。

ただ、この「心」についてはこうして言葉で具体的に示すことができない。僕らはようやくその心を「感じる」時代に入ったんだろうなって思っている。

オカルトオーディオとAI

Facebookで知り合いのお方が、僕の投稿したオカルトオーディオの話にコメントを付けてくれ

「オーディオ的オカルトと同じようなニュアンスでAI的オカルトって成り立つのでしょうか。もしくはオーディオ的オカルトを科学的に説明することなどに相当するもの」

という問題提起をしたのだけど、あまりにお題が難しくて反応できなかった😅

で、ここでなんとなく考えてみる。

オカルトオーディオでよく見かける風景は、何かをすると音がよくなった(たとえばコンデンサをミリタリー仕様にしたら音が激変)、という個人の経験があったとき、それを従来までの電気物理学の範囲で説明する(たとえば、コンデンサの振動による悪影響が抑えられたせい)、というものですね。

これをAIにそのまま当てはめると、どうなんでしょうね。

プロンプトに何かのワードを付け加えたら、AIの返答が格段に良くなった、っていうやつですかね。で、その改善された理由を従来通りのなにかのロジックで「これはナニナニのせいである」とか言って説明する。

で、音の良くなるコンデンサが商材になって1本1万円とかで売れるように、プロンプトビジネスで受講料取る、みたいなのが出て来るんですかね。これから必要なのはプロンプトエンジニアだ、とか言われていた時期もありましたね。

そういえば僕、プロンプトエンジニアって、すげー哀しい職業だなあ、って思ったことあったなあ。なんだか中身が不明なLLMに対して、これをするとこうなる、っていう秘訣だけをひたすら蓄積する、というエンジニアリングだけど、なんか、機械(LLM)におもねって、ご機嫌を取って、なんとか働いてもらうための手管だけに長けた人、って感じで、ひたすらご主人さまの機嫌を見て行動する奴隷みたいな感じがしたっけ。

でもなあ、その奴隷だって、自分に戻ればギターを鳴らしてブルースを歌うかもしれない。いったんAIの奴隷になることが、AIブルースを産むのかもしれない。

いや、関係無いか。脱線した。

こういうことを考えていていつも僕が思うのが、主観と客観の関係なんだなあ。オカルトオーディオのどこが変かというと、客観物に対してすでに分かちがたく主観が入り込んでるのに、それでもまだ客観物を客観物としてしか認識しない、というところだな。

言い方がややこしいか。ここで、客観というのは、コンデンサなどのモノのかたまりでできたオーディオ装置のことで、モノのかたまりであるからには物理法則に従う。一方、主観というのは、その装置が出す音を「コンデンサを替えたら音が激変した」と認知する本人のことで、こっちの方は個人の心理である。

この二つはぜんぜん性質が違うのにそれをむりやり接合しようとする。そういうのを心理物理学って言うんだって。オレの感覚でいうと、これほどいかがわしいものは無いな。苦肉の策、という言葉しか思いつかない。

でも、これって実際の話、けっこう納得性があったりはする。そうだよね。たとえばオーディオだったら、物理量である周波数特性の4キロヘルツ以上をカットすると、人間の耳には昔の電話みたいに聞こえて明瞭度が落ちて聞こえる。これで、周波数特性と明瞭度に関係があることが実証された、とするわけだ。

で、そういう関係をひたすら調べて、物理量と心理量を関係づけて行く。まー、ご苦労なこった。

でも、それをきちんと実験で実証して行けば、さあ、これからオーディオアンプを作りましょう、って話になったとき、周波数特性を良くすればいいよね、っていう風に設計できるので、しかるべき電気部品をしかるべき回路で組めば、周波数特性は勝手に物理的に決まるので、これでいい、ってことになる。そして重要なのが、このアンプを作るプロセスの中に、「人間の心理」という面倒なものは一切出て来ないことである。そのために心理(明瞭度)をあらかじめ物理(周波数特性)に変換しておいたのである。

この方法論を使って産業がおこり、大量生産が始まり、大量消費社会になり、それで今に至る。

ということで、オカルトオーディオは正確にこの線上に乗っている。ただこれまでのオーディオで無視されてきた心理物理量を組み入れようとしているだけである。結局のところ、主観を客観に変換することで大量生産への道を開いた、という産業社会の構図から一歩も出ていない。

いまはそんな時代じゃねえだろ、って僕は強く思う。産業化して大量生産して民にくまなく配って、皆が同じものを手にして、同じ経験をして、それをもってしてその産業の核となる心理物理変換を、受け取る側が自明なものと感じるように、民に植え付けたんだろ。つまり心理物理学で人々を洗脳したんじゃないか。

と、いきなり過激な話になってしまうのが僕の悪いところかもな。

でもさあ、そんな構図はもう、これ以上イヤ、っていうのが21世紀じゃないのかなあ。そんなご主人と奴隷の社会から逃げ出して、ギターをかついで荒野へ出てブルースを歌おうぜ、っていう風に思うじゃないか(オレは)。自由というのは、主観と客観などという古臭い構図を超えたところにあるはずじゃないか。

なに言ってるか分かんなくなってきた。最初の問題提起、なんだっけ? オカルトオーディオとAIだっけ。

オーディオでもAIでも、自分的にひとつだけ言えているのは、主観客観構造を捨てることから新しい時代が始まる、ということだな。この世で起こっているすべては、自分(主観)も世界(客観)の中のひとつであり、自分が欠けたら世界は存在すらできない、ということを感覚的に理解すること。そして、くれぐれも注意しないといけないのは、この広大な世の中と無限の宇宙の中で、自分というのは砂粒みたいに小さな存在だ、という思い込みから自由になること。その感じ方はね、刷り込みのせいです。洗脳された結果に過ぎない。

そうじゃなくて、自分個人の中に世の中も宇宙もすべてある、という感覚を手に入れること。ただ、これは難しい。通常は無理。だから瞑想をはじめ、いろんなことをするわけだけど、まー、ここまで言うと今度は怪しいスピリチュアルになってしまうので、この辺にしておこう。

なーんの回答にもならなかった。