一週間近くFacebookに書かなかったけど、書かなくても別に生活はなんともないな。てことはFacebookに書くのはただの習慣になってただけだったみたい。たまにSNS断ちする人を見かけるけど、なんとなく気持ちが分かる。
オレ、毎回けっこうな長文を書いていたけど、それは書くと長くなるだけで、なにか長文に値するような、表現したい内容があるから書いてるんじゃない。
これまでも何回か言ってたけど、オレ、文を書かないときは考えない。文を書くときはじめて考える。ソクラテスみたいにじっと半日も動かずに考え続けるなんて、想像できない。オレがなんか考えようとしても、まず5分も持たない。
ところが書きはじめると考えは文につれて進む。
でも、問題は、しばらく書いてると、書いているのが身体的にめんどうになってストップしたくなる。そうすると思考は止まってしまい、それゆえ、長い思考の連鎖ができない人になる。そうなると思考自体がいきおい即興的で刹那的でノリ一発みたいになる。そういう性格なんだな。ここではめいめいの方法があるんだろうな。
考える、というのはなんなのか、と言われれば、僕は以上の自分の性癖から思うので、あまりまともにはならないが、逆にこういう性癖に合った思考方法論を探してきて、これだ、ってことになる。
そこで見つけたのが、本居宣長の方法だった。これは何度も書いているが、「かんがえる」という日本語は、「か迎える」であり、これは、対象を迎え入れ、その対象と相まみえて、できるだけ接近して共にあることを言う、というのである。
宣長でもうひとつ重要なのに「からごころ(漢意)」を徹底的に退けなさい、というのがある。からごころというのは、対象について考えるとき論理的整合性を優先することで、それをするな、という意味である。これは昨今、科学的方法論をこれでもかと嫌っている自分にぴったりである。
じゃあ、なんで論理優先はいけないか。それは簡単なことで、そもそも対象は論理的に整合している物ではないからで、そういう性質のものを無理に論理に従わせる、というのは、結局、その物と相まみえることを邪魔するからである。
でも、このやり方を強行すると実は大変なことになる。対象物と自分が区別がつかないほど一体になってしまい、容易に抜け出せなくなる。いわゆるマニアックな状態になる。社会においてマニアックなやつがそこらじゅうにうろうろしている状態というのは、無政府状態に近く、社会を健全に維持できないおそれがある。
マニアックでかつ健全であるためには、その思考する人間が強靭な精神を持っていることが前提になるのである。そうしないと、かんがえる、というのは単純に危険な行為におちいってしまう。
オレはどうか。たぶん、じゅうぶんに危険らしい。ただ、自分は、音楽も、美術も、文学も、哲学も、料理も、すべてそのマニアックな方法を通して物にしてきたので、いまさら変えられない。
オレが強靭か、っていうとよわよわ優柔不断で、強さとほど遠い。ああ、困った人間だ。

