オレね、ふと、こう思ったの。
たとえば、自分は朝起きて、コーヒーを淹れて、ノートPCの前に座ってコーヒー飲みながら、ぼんやりネットサーフしてるんだけど、そのときの自分の動きをいちいちなぞってみる。
そうするとほんの30秒ていどの間でも、たとえば
「たとえば」とキーボードを打つ
右上のおでこがかゆいので右手で掻く
メガネが少し落ちたから直す
なぜか画面から目を逸らして目の前の窓を見る。それは画面に飽きたからみたいだ
再び目線を戻して今度は横目で右側のコーヒーカップを見る
飲もうかと思うけど、まだいいや、と止めてまた目線を画面に戻す
続きの文の「自分は朝起きて・・」を打つ
キーボードの上の手の動きが変な気がして、打つのをやめて手を見る
そしたら気になって手を裏返して手のひらを見る
鼻に触る。かすかに痒いからか、あるいは癖のせいのようだ
上半身の姿勢を変えて画面に近づく近づきすぎて字がぼける
これって老眼のせいだっけ、いや、近眼か、などとしばし静止して考える
まあいいや、と再び姿勢を戻す
つまり切りがないわけだが、たったの30秒でこれだけのことをしている。こういうのを分析的観察、というのであるが、ここでバカバカしいと思わずに、その各々の分析の文節に注視すると、自分が動くとき、とにかく、なんらかの「理由」と「環境」の条件があって、そのせいでそれに対応した「動き」をしていることが分かる。
これが、仏教の縁起からの思い付きだった(ただし仏教哲学における縁起の意味はこういうのとは違うのだけど)
すなわち、オレのどーでもいい30秒の動きのすべてにはなんらかの理由があることが分かる。ここまでだと、なんだ、それっていわゆる自動オートマトンシステムみたいなルールベースの自動機械じゃないか、と割り切らず、その、何気ない世界の動きに対するミクロの決死隊的な分析に身を任せるようにするの。
そうするとね、なぜだかわからないけど、ぜんぜん違う風景が忽然と自分の中に広がるような気がする。
これは実は僕がこのまえ出版したロバート・ジョンソン研究書の中で書いた、ロバートのボーカルの周波数解析をして、その声の動きの詳細を追ったあれに通じている。微に入り細にわたり、分析的にボーカルラインを眺めていると、なんだかぜんぜん違う世界が見えてくる。で、その見えた風景が、実はロバートの歌、という全体表現にどこかの次元を通じて強く関連してくるように思えてくる。
以上、ただの気まぐれなのだとは思うのだけど、西洋科学式の「分析と総合」とはぜんぜんまったく違う意味での、「分析」と「現実の立ち現れ」みたいな感覚を感じたわけ。それで、それを、イベントとアクションの対としてすべて書き出して、列挙して、その後、そのスタート点をポンっと叩くと、あとは勝手に扇が広がるように現実世界の動きが立ち現れる、ということを思い付いたの。
ここまで行くと、やはりオートマトンへ返って来るのだけど、実際、僕ら、オートマトンやフラクタルが作る、およそどーでもいい自動模様に感覚的に強く惹かれること、あるでしょう?(ねえか
) その快感みたいなのが、たしかにこの縁起の世界観の中にあるような気がする。
仏教の「縁起」は、そもそもは、世界というのは時間軸の上に展開されているものではなく、関係と条件によって次の動きが現れ、それが常に起こって、その結果として立ち現れるのが世界というものである、という思想である。そして、それを称して「無常」という。すなわち常に動いていて、止まることがない自動機械なのである。
まー、そういうことだ。なんとなく、こうやって書いてみるとファンタシーだよな。オレ、ロマン派だし。
