アメリカではトランプがかなりでたらめなことをやっていて、世界じゅうがそれに振り回されている感じになっている。僕はどっちかというとトランプ派っぽい方にいるのでネット情報がそっち寄りで、そのせいもあってなぜああまででたらめか、ということについての理由付けは心得ているけれど、逆に反トランプ、その多くはリベラル派のいる世界では、到底信じがたい狂気が世界を大混乱に陥れているように見えているはずで、おそらく一種の集団狂気の現れとみなしているだろう。
フランスにエマニュエル・トッドという有名な人類学者がいて、彼は最近、「西洋の敗北」という本を出して、ヨーロッパへの徹底的な批判を繰り広げているが、その概要を彼のYouTube動画で見て、自分は驚いたことがある。日本人の僕が十年のスウェーデン暮らしを経てほとんど確信にまでなったリベラル思想の決定的な間違いを、ヨーロッパ人の彼がまったく同じように指摘していたからだ。
彼の主張の要点は、ヨーロッパはその道徳的基盤を形作っていた宗教を捨てたことにより、基盤を失って方向を間違った、ということだと思う。ただ、僕と少し違うのが、彼の場合、キリスト教、特にプロテスタンティズムを失ったことが決定的と考えているが、僕は、彼らがプロテスタンティズムを丸ごと科学に見代えてしまったからだ、と考えていることだ。
そして、なぜ、そんな乱暴なことができたのだろう、と今でもいぶかるのである。彼らは自分たちの人間性の奥底に食い込んだキリスト教をそんなに簡単に捨てて科学に交換するような暴挙をなぜ平気でしたのか。僕はそこで、「科学」というのはプロテスタンティズムの別名であり、実は同じものだった、と考えた。だからこそ、ああまで簡単に見代えることができたのだ、と。ただ、それらがなぜ同一だと主張できるかについて、丁寧に追及するのはかなり骨が折れる研究が必要で、僕はそれをするほどの根気はなく、そのままになっている。
一方、アメリカでは、国民の半数の人間たちがトランプを皇帝と崇めた熱狂に囚われているように見えているが、リベラル思想なもう半数のアメリカ人や、ヨーロッパ人たちは、まさにそこに全体主義の狂気を見ていると思う。それは極論すればナチやスターリンや、今ではプーチンのなしているファシズムの引き起こした光景と見るかもしれない。しかし、ファシズムをそこに見るよりも先に、トッドが指摘した、ヨーロッパが宗教的基盤を失ったことと同様のことが、むしろアメリカでこそ大規模に起こっていたと考えるべきではないのか。
ほんの50年も前のアメリカでは、地域社会ではみなが毎日曜に教会へ行くことが、何よりも優先する地域コミュニティの義務であった。おそらくアメリカでは今でもそういう地域は残っているはずだが、全体として見ると着実にそういう宗教を基盤にしたコミュニティは破壊され、駆逐されて行っているはずだ。なぜそうなるかというと、それはヨーロッパとほぼ同じで、科学と資本主義とグローバリズムを標榜したマルクス主義や急進リベラルの思想的影響のせいだと思う。いくらリベラルが輝かしい地球規模の理想を語ろうが、結局はそれは末端では、宗教コミュニティの破壊を招く。それは当然のことで、リベラルというのは宗教を科学に見代えた人々で、古臭く迷信的な宗教を捨て、科学の名のもとにグローバルに世界を改変しようとする強い意志と信念を持った人々だからだ。
思い出したからここでひとこと挟むが、僕はよく、アメリカ人の多くがいまだに進化論を信じていないなんて、信じられない、とほとんどせせら笑う人を見るたびに悲しくなる。
とにかく、そのリベラルの力は強大だが、なぜそれがそこまでの思想的権力を握ったかは、容易には分からない。ただ、それは「思想」であり、その偉大な思想をもってそれを社会に強行することのできるのは、一部のエリートたちであって、そこに集中していたのは確かだと思う。ああ、なぜそんな人類愛に満ちた一部のエリートたちが、キリスト教を科学に見代えるなどという、極めて乱暴な暴力を振るうことができたのか。それも愛と平和の名のもとに、だ。
僕は十年のスウェーデンの大学での仕事と生活で、それを肌感覚で感じ取って来た。僕のいた大学はUppsala大というヨーロッパで五百年以上の伝統を持つ由緒正しいリベラルの殿堂だったのである。僕はどうも理論というものが苦手で、直観に頼る人間なので、そういうリベラルの殿堂という環境に身を置くことで、その確信を得たのであった。具体的な事実の裏付けは、いろいろ目撃はしたが、それを元に理論を組み立てる忍耐心が自分にはあんまり無いので、この先それをするか、と言われると、しないような気がする。
僕の科学批判はだからここ十年ぐらいのことで、それはもう、心理的に頭がおかしいレベルに達しているのは自分で分かっている。ほとんど科学に対する「呪詛」に近い感情が自分の中で渦巻いていて、出口を探している。そういうときはちゃんと出口を作ってあげないと、自分が破滅する恐れがあるので、小出しにはしているつもりだけど、あくまで少しずつであって系統だっていない。
そのうち、やるか、と言われても、やらないかもな。病の草紙や下らないオリジナル曲作ってる方が楽しいしな。
それにしても呪詛か。とはいえ、自分はいま66歳だけれど、20代のころから自分が夢中になったドストエフスキーやニーチェに、自分が思想的にここまで蹂躙されるとは思わなかった。いま世界で起こっている欧米の軋轢やロシアが始めた紛争などなどは、彼らの予言が現実化したことと言ってまったく差し支えないわけで、トッドも結局は彼らにならったのではなかろうか。神は死んだ、オレたちは方向性を失った、神が死んだあと一体オレたちはどこへ行こうというのか、と叫びながら、真昼間に提灯をともして街中を走り回る狂人そのもののことがいま、起こっている。
人間の理性というものは、かくも暗いエネルギーに満ち満ちていて恐ろしい呪詛の塊のようなものだ。そこで自分は、日本人として、そういう暗い宿命的な理性ではなく、たとえば、徒然草というすばらしい文を残した兼好法師の現した「明るい理性」というものを大切にしたい。その明るい理性と、孔子の論語の礼を組み合わせれば、きっとゆるゆるだけど平和で節度のある社会になるかもしれないのに、と最近、思うようになって、それもあって病の草紙とかにかかずり合うんだけどね。
とにかく、残忍な西洋的理性には、もう、うんざりした、というのが正直なところ。