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民衆の理想

5年ぐらいかもっと前だったか、一般民がやたら政治的な発言をするのが目立ち始めたとき、僕はそれにすごく抵抗があり、われわれ一般民は政治に直接かかわるのではなく、理想を保持すべき役割で、政治は政治家に任せるべきだ、と考えていたのをさっき思い出した。

しかし、この考え方は当時も無茶な考え方だった。なにせ、民主主義の世の中では、たとえば欧米の若者たちが直接政治的な見解を持っていることが賞賛の的になっていて、日本では、主に大人達が、日本の若者は政治に興味がない、「だから」日本の若者はだめなんだ、と大手を振って発言していたときだったからね。

政治家たちの主人であるわれわれ一般民は、政治に関心を持ち、自身の社会的見解を持つべきで、民主主義という方法論を正しく動かす原動力は、民衆の政治参加にこそある、という考え方だ。

これ、一見、傷のない論理だけれど、結局、あれから5年、10年経って、その考え方が失敗したことは、これはもう明らかだと思う。

もっとも、こんなことを言っても、当時そう言ってた人々は絶対に賛同しないだろうと思う。かつて政権交代した民主党の失敗を見て、投票した自分が恥ずかしい、などとウルトラ馬鹿げた発言をして懺悔していた自称頭のいい、実は頭の悪い大人たちが、そうそう変わるわけがない。

ま、いまのこの混乱した社会を見て、とにかく、オレのかつての感触はそうそう間違っていなかったと思う。

僕は「民衆は政治的であるのではなく、理想を持つべき」というが、その「理想」は、欧米発の急進リベラルのいう理想とはぜんぜんまったく意味が違う。彼らの抱く理想は血塗られている理想で、その残忍な血を認識した上でその当の理想を見ないと完全に間違う。

なのに、ぜんぜん違う性質を持った日本人が欧米リベラルを見違えて、間違って輸入して、日本に適用した行為は、本当にバカげているとしか言いようがない。

では日本民衆の理想は何かというと、それは残忍さのない、「明るい知性」に基づくものだと思う。明るい知性って何かというと、それは吉田兼好の徒然草をぜんぶ読めばわかる(小話も含めて)

徒然草を読むとはっきりするが、あそこには極めて明晰な、科学的方法であるところの帰納と演繹が現れるのだが、それはあるところまでしか行かず、その限界に来ると見事に静止する。悪魔の手に渡る前に止めて、涼しい顔をして、それで、どうにも下らなかったり、ただ可笑しいだけだったり、迷信的で非科学的だったりする小話に平気で移行する。その明晰さ、軽々しさ、軽快さ、くったくのなさ、といったものが全編に行き渡っている。あの様子を僕は「明るい知性」と呼んでいる。

欧州の暗くて宿命的な知性は、オレはもううんざりだ。それを標榜する日本人の傀儡どもには、もっとうんざり。

と、まあ、愚痴を並べたが、なんと今日は大晦日じゃないか。そんな時にこんな面倒な話をして、困ったもんだ。

ま、来年になったらなんとかなるでしょ。

とある人の思い出

TLに、「結局、人生最後に残る趣味は何か」とかいうつまらん本の紹介が出てきて、それで突然思い出した。

大むかしの僕の職場は古い会社だったんで、部活動というのがあり、まだ若かった僕は美術部というのに所属していて、ときどきペン画とか出していた。部員は爺さんばっか。なので、爺さんとの交流、という不思議な時間を経験した。

そこにMさんという人がいて、その人が定年退職を期に自費出版の本を出した。僕にもくれた。簡易装丁のいちばん安い感じだったけど、本は本だった。

そういや、そのころのその会社の定年間近組は、とある関連会社に集まっていて、その関連会社は基本、仕事がヒマで、爺さん社員とかはたいした仕事もないので、そのころ行き渡り始めたパソコンワープロ(一太郎)とかで、キーボードをポチポチ押しながら優雅に自分史とか書いてる爺さんもいたっけ。自宅にはパソコンが無いので会社で書くわけだ。

Mさんのそれがそうだかは知らないが、1センチぐらいの厚さの本で、彼がいままで書き溜めてきた文章を並べたもののようだった。

Mさんの趣味は、絵を描くことと、俳句を詠むことと、批評文を書くことと、旅行と、ビールを飲むことだったらしい。若い僕は相応に傲慢だったので、その本をパラパラ見ながら、合間合間のペン画は下手だし、俳句は下手だし、批評はなってないし、なんじゃこれ、と放り出したっけ。

俳句について論じた文があって、そこに彼の句が例題として載っていた。彼の数々の下手な句の中で、僕がひとつだけ覚えているのが、その例題の句だった。それは、「陽光に若い女の肌光る」、という句だった。なぜこれだけ覚えてるか不明だが、下手なことこのうえない、と今でも思う。

彼は、俳句について論じた文の中で、もちろんこの私の句が下手なのは分かっているが、こうして句になって現れただけでそれは表現活動であり、芸術なのである、と論じていた。その後、五七五の順列組み合わせを計算して、その天文学的数字をどうのと詮索していたが、若い僕は、なんて下らない文だ、とか言って放り出したので、それが何を論じてたか忘れた。

その会社は理科系なので、Mさんももちろん理科系で、本には批評文がいくつもあったが、それらはいかにもステレオタイプな理科系的詮索ばかりだった。

理科系的批評文はつまらなかったが、ちょっとしたエッセイには面白いのもあった。いまでも覚えているのは、ドイツへ行って、単身ビヤホールに乗り込み、ドイツ的喧噪の中で飲んだドイツビールに、天にも昇る気持ちになった、というくだり。

Mさんはすべて下手とはいえ、趣味を持ち、批判精神も持ち、自身の見解も持ち、幸せな老後へ突入したもののはずだったが、退職して間もなくして、亡くなったという知らせが来た。ちょっと怖そうな、でもたぶん若いときはけっこうな男前の、僕ぐらいに小柄で、太りもせず、身体が弱そうには見えなかったが、ちょっと神経質な感じだったのを、今も思い出す。

若かった僕は、そうか、死んじゃったか、で終わってしまったが、彼からもらった本は捨てずに、その後数回の引っ越しでも残った。でも、いまから数年前に、読まない本を大量に捨てたときがあり、そのとき、Mさんも含め、他人からもらった数冊の自費出版本はぜんぶ捨てちまった。

いまこうして思い出すと、取っておけばよかったかもしれないが、他人の自費出版本をすべて捨てたタイミングで、生意気だった若いオレもMさんと同じ歳になり、定年退職となった。で、どう、ということはない。オレも、いくつかの趣味と、雑文書きをして自費出版しているところはMさんと変わるところが無い。

この文、オチはない。単にさっき、その、とうの昔に亡くなったMさんをなぜか思い出し、彼の下手な句を思い出し、ホント下手だったなあ、と感慨しただけのことでした。しかし、なんらかの哀愁は、ただよう。人生って、なんだろうね、とかね。

世界で一番ゴッホを描いた男

アジアンドキュメンタリー「世界で一番ゴッホを描いた男」を見た。ゴッホの複製油絵を描き続けた主人公が初めてアムステルダムで本物を見た後

「20年複製画を描いていたが、本物とは比較にすらならない」

とつぶやくのだが、それが、けっこう切なかった。全編を貫くゴッホへの大きな愛と芸術への真摯な情熱も、やはり見ていて切ない。

でも、最後の最後に、彼、少しずつでもオリジナル画を描こうと決心し、その第一作が映ったけど、その出来はなかなか良かった。それが救い。

その彼、中国のローカル都市で工房に寝泊まりして休む間もなく、すでに何十万枚も描き続けて、それでもぎりぎり食って行けるていどの金しか稼げない。そのせいで当初、ヨーロッパ行きはお金がないから、と家族に反対されるのだけど、結局、散財して仲間数人と初めてかの土地に立つ。

すべてが想像と違っていてショックを受け、夜は仲間と酒を飲んで煙草を吸って、語り合うシーンがいくつか出て来る。

そのシーンの中で、彼、ひとり酔っ払って、自分は中学1年までしか行ってない小卒の人間だ、貧乏で中学も行けなかった、と泣くシーンがあって、見ていて辛い。

20年間粗悪な複製を見て油絵を描き続けた彼は、その貧乏な生活の中で、ゴッホという芸術家に憧れ、崇拝し、貧困の中で自らを表現した画家の情熱に心酔し、という、まるで青年のままのような心で生きている。周りの複製職人の仲間の皆も同じで、中国の場末の食いもの屋で、芸術について熱く語り合っているシーンがいくつも出てきた。

ひるがえって自分はどうか、どうしても考えてしまう。

彼らに比べれば圧倒的に裕福で、なに不自由なく暮らして来た自分は、バブルの日本の大ゴッホ展ですでに25歳の時に本物を見て、その後すぐに海外へ飛び、アムステルダムでもどこでもさんざん本物を見て、自分のゴッホ観を育てた。印刷と本物の色の違いなんかあっという間に気付いた。

でも、彼らは、20年間、何も知らず、ただ青年らしい情熱だけを抱いて生きてきたわけだ。

自分は本当に贅沢だと思う。で、やはり、どうしても、僕は、いつしか、その青年らしい情熱をどこかで紛失して来たような気がしてくる。

オレも高齢者に差し掛かったし、こざかしい大人の計算なんか捨てて、もう一回青春に返るようにした方がいいんだろうな、と思った。

神社とトリップ

世田谷区はもともと畑だったので、農地がいまでも多く残り、地物野菜が栽培されて、それがローカル地域のここそこで、直売で売られている。そういう野菜はおいしくて安いので、今日のような日曜に、電動自転車でのんびり買いに行く。

さっき、岡本から喜多見あたりまで走っていたら、氷川神社という巨大な神社を見つけ、自転車を降りて入った。

考えてみると、日本という国は、もう、いたる所に神社と寺がある。無宗教な国だけれど、この様子は外せず、そのおかげで、ごく自然と日本人には日本的宗教心が染み渡っている、と言っていい。だって、界隈を歩けばすぐに神社と寺にぶつかるんだから。それらが古代のオーラをその地域一帯に放出していて、そこに住む人はそういう宗教的な人に、なるんだよ。

で、氷川神社だが、都会の住宅地のどまんなかの広大なエリアが、背の高いうっそうとした木々に覆われていて、ここはどこなんですか? みたいな様相になっている。

人はほとんどいないけど、散歩している人たちがごくふつうに神社に立ち寄り、賽銭やってお参りしている。

僕も賽銭をやったが、手を合わせて目をつぶって「イヤー参ったなあ」と心の中でつぶやいて5秒ぐらいですぐに掃けた。人のを見ると、2回だか3回だか手を叩いて、そのあと2回だか3回だか礼をするんだね。みんなよく心得てるわ。あ、そうだ。その前に、あの水が出てるところでみんな手をすすいでたっけ。オレ、それもしてない。

昔、僕が小さかったころ、よく父に連れられ界隈を散歩したもんだが、父は神社があると必ずお参りして、小さい僕にやり方を教え込んだもんだが、僕はなぜか恥ずかしくてたまらず、ロクに覚えもしないし、ちゃんとやらなかった。それというのも、そんな小さいときから、みなで同じ動きをする、というのが恥ずかしくてたまらず、そのせいである。

というわけで、65歳になっても礼拝の仕方ひとつも知らない不信人な人間になったが、いやいや、心の中は、僕はその日本人的宗教意識でいっぱいになっているのである。行動に出ないだけで。

うっそうとして昼でも暗い人のいない氷川神社を出ると、今日は晴れたおだやかな日だったので、晩秋の柔らかい光を受けた木々や草や花々にそこらじゅうで出会う。

どうやら氷川神社のオーラに自分は占領されてしまったようで、周りのその光景がいちいち異様な宗教感に満たされて見えて、どうにもならなくなった。

小さいころに刷り込まれた日本の原風景と、昨年まで住んだスウェーデンのゴットランドの自然と、建造物や、古びた工業施設や、小学生のとき電信柱の脇に大量に落ちていたカラー抵抗とカラー線材を見つけた驚きとか、西洋美術館でゴッホの絵を見て愕然として呆然自失した記憶とか、そういうものが一気に噴出して、頭が完全にトリップしてしまい、わけが分からなくなった。

オレ、たまにこういうことが起こる。これを人に言うと、それ、脳の病気の前触れかもしれないから医者で検査してもらった方がいい、とよく言われたっけ。

いまのところ脳に異常はないのだけど、なんか、やはりあっちの世界と通じている狭い通路がどこかにあるらしく、それがなにかのきっかけで開くみたいなのだ。でも、時計上ではほんの短い時間なので、気が狂わなくて済んでいる。でも、元来がこんな感じなので、人間社会の現実的対処がうまくできなくて、当然といえば、当然。そのせいで、トラブルが絶えないが、守護霊の爺さんが守ってくれているせいか、それほどひどいことにはなってない。

自転車で帰路につき、さっきの氷川神社から離れるにしたがって、怪しい気分は激減し、ちょっと走ったら完全に正気に戻った。ヤク中が癒えるのとおんなじだ。

それにしても、あのトリップな時間は、おそろしいほどの幸福感に満ちているので、あの世界にずっと浸っていたい、と思うことしきりだが、それはだめ、ってどこかでストップがかかるようで、長続きしない。でも、そのときに得たものは、回り回って自分の生きるアイデアの元になるのだろうな。そうじゃなけりゃ、おかしいし、そうじゃない生き方なんて、奴隷の生き方じゃないか、って極論もしたくなる。

でも、なあ、奴隷、というと極めて悪い言葉だけれど、古代の古い規範になり切って平凡に生きることが、本当はいちばんまっとうな生き方だ、と、どうしても自分には感じられるので、そういう人々を奴隷呼ばわりは決してしない。自分にとって奴隷、と言って罵る対象は、大半の場合がいわゆる進歩に満足した現代人だ。

というわけで家に着いて、でも、まだわずかに怪しい感覚が残っている。昼飯でも食えば、じきに消えるでしょう。

素性

島崎藤村の「破戒」という本を読み始めた。本の名前はよく聞くので知っていたけど、意味が分からずなんじゃこれ、って思ってたけど、少し読んで分かった。

主人公の青年が穢多で、小さいころ父からそれを告げられ、おまえがこの社会で生きていく道はただ一つ、どんなことがあっても穢多であることを隠せ、という戒めを受ける。で、どうやら小説では最後の方でその戒めを破ってカミングアウトしてしまう。それで破戒、だったんだね。なるほどな(ちなみに穢多は差別語で、いまは被差別部落という言葉を使うらしい)

しかし、父は、おまえの家系の元は武家の落ち武者で、正統なのだ、と言うのであるが、そういうこともあるんだな。

そこを読んで、ひょっとすると、このオレもそれかもしれない、なんて思っちゃった。自分はいろんな経験を総合すると、どうやら自分の祖先に、戦に敗れて没落した落ち武者がいて、それが自分に投影されているんだ、って思っていた。そう考えるに足る経験は多数あれども、理性的根拠はゼロなので、およそ寝言に近い自分だけの感触なんだけどね。

でも、オレ、そうじゃなくちゃ、なんで幼少時代からこれほどはっきり執拗に、位の上の人間たちを避けに避けて、底辺庶民ばかりに懐いていたのかが分からない。青年になって酒が飲めるようになったら場末に入り浸るしね。実はかねがね不思議に思ってた。

しかも、場末で酒を飲んで、その反知性的な群れの中にいると、ときどき無上の多幸感に包まれることがあり(ふつう長くて5分)、それはいったいなぜなのか。そして、それ以外のシチュエーションで多幸感を感じることはほぼ無いのはなぜなのか、ってずっと不思議だったの。

こういうのは、もう、先祖のなにかの名残りと結論せざるを得ないのよね。これを言い出すと、上記以外に自分にはたくさん、そういう、おかしな性癖と、おかしな人生選択があるわけで、ますますそう思う。

落ち武者の非人か。それなのかもな。

いま現代でこんな時代錯誤なことを書いてると、気を悪くする人が多数かもしれないね。穢多非人は、日本では一種のタブーになっていて、昭和が終わるころから社会から隠された状態になっている。特に東京は、そうでしょう? 

そんな暗い過去は忘れて捨てて、新しい、差別のない人権社会をポジティブに構築して行きましょう、というのが現代都会のありかただからね。

歴史のほうぼうに開いた暗くて深い穴、その穴は個人的事情でぎっしり詰まっている、と小林秀雄がどこかで書いていたが、ま、それだな。オレのこの話も。

とある中華屋で

ジャムセッションへ行くのに、とある急行の止まらない私鉄の駅を降りた。開始までの1時間弱、ひとりで前飲みをしようと、駅を降りて店を物色する。

思えばこの駅の周辺を歩くのは初めてである。5時を過ぎてすでに暗く、しきりにざあざあと雨が降っている。それにしても、なんとか商店街という表示があるわりには、そこを歩いても何にもない。メジャーどころのチェーン店すらないのは、ひょっとすると自分は駅の裏側をうろついてしまったせいかもしれない。

少し歩くと、奥まったところに赤い提灯が5つ6つぶらさがった中華料理屋が見えた。よく小さな町なんかにある、あの奥まった路地のようなスペースは、あれは何なんだろう。上にはビルが建っていて人が住んでいそうで、しかし、地上階は空きスペースになっていて、だいたい地味なスナックや小料理屋や定食屋などが並んでいる。

中華屋のあるここは、たぶん、他の店は儲からずに閉めてしまったんだろう。いちばん奥まったところに、その店はあり、周りは閑散として暗い。通りから見ると、暗がりの向こうに輝いている赤と黄色の中華屋、といった風情である。小皿料理うんぬんと書いてあるので、つまみにビールで入ってもいいだろう、とその店に入る。

相応に広い店内で、僕が入ったときは、右側のスペースに15人ぐらいの団体がいて宴会をやっていた。その反対側の二人席に座って、ぼんやりと宴会の様子を見ていた。

おばちゃんに、とりあえず生ビールを注文した。持って来てくれたメニューから適当な小皿を2、3選んで、おばちゃんを呼ぶ。注文を取りに来たそのとき、僕は初めておばちゃんと顔を合わせたが、一瞬、引いてしまうほどいかつい怖い顔で、ほとんどマルコス大統領みたいな顔で、にこりともしないし、少しびびって注文する。中国人だろうか? そうかもしれない。しかし、久しぶりに見るアジアの醜さで、なんだか懐かしい気持ちにもなった。

店は、このおばちゃんと、厨房にいる赤いTシャツに赤帽をかぶったおじさんの二人でやっているようだ。たぶん夫婦だろう。けっこうな席数をこの二人だけでこなすのはなかなか大変だろうな、と思ったが、その後も観察していたけど、二人ともほとんど慌てることなく、淡々と仕事をこなしている感じだった。怖い顔をしたおばちゃんも、見ていると実に無駄のない動きで、客の注文にも素早く応えて、遅れることもなく、これはなかなか堂に入った長年の技なのだろうと感心する。

15人の団体は男女半々で、おそらくみな60歳以上でリタイヤした人も多いようで、要は自分と同じぐらいの年恰好に見えた。僕が席についたときは、右端のおじさんが大きな声で自分の武勇伝を語り、それにいちいち別の相棒っぽいおじさんと、おばちゃんたちが相づちを入れ、場を仕切っていた。インドネシアだかの東南アジアを旅行したときに、なぜか自分は現地人に間違われる、というよくあるプチ自慢で、このネタは鉄板なのか、あいの手の言葉もほとんど予定調和的で、聞いていて面白い。

「オレが屋台に座って食ってたらさあ、そこに現地人2、3人がきてインドネシア語でオレになんか聞いてくるんだよね」

「現地人だと思われたのね」

「この人ねえ、いつも海外へ行くとこうなんだよ。現地人に間違われるの」

「そうなんだよな、なんでだろうな」

「そういう雰囲気を醸し出してるからじゃない?」

「そんなつもりはないんだけど、だいたいどこへ行っても間違われるね」

「土地にすぐに馴染んじゃうのね」

とかいう会話で、横に長いテーブルを囲んだ団体は、右端にいるそのおじちゃんを中心に右側にいる人たちだけがしゃべっていて、左側の人たちはそれをおとなしく聞いている。しかし何の団体だろう。なにかのサークルか、あるいは年恰好が似ているので同窓会かもしれない。

僕はビールを飲みながら、注文した卵焼きと豚耳と高菜漬けをつまんで、ぼんやりと彼らの会話を聞いていた。

そんな間でも、マルコス顔のおばちゃんは働いている。見ていると、深い皺で顔の部品がひとつひとつ区切られた鬼瓦のような顔なのだが、相手に合わせてその顔の部品の位置を変えて笑顔も作って愛想よく応対していることが分かった。実際、怖いところはなく、意外と人好きのよいおばちゃんに思えてきた。不思議なもんだ。ちなみに料理しているおじちゃんは、それほど特徴の無い普通のおじちゃんだった。

僕は団体客の席の方を向いていたのだけど、その真正面に、おばさんに囲まれて一人のおじさんが座っていた。話題をさらっている右側の人々ではなく、おとなしい左側の中の一人である。緑がかったポロシャツに灰色のジャケットをはおって、髪の毛が真っ白なちょっとだけ太ったおじさんである。このおじさんは、この団体の中でいちばん目立たなく見えるゆえ、自分にはいちばん目立って見えたので、ずっと観察していた。

話に加わらないだけでなく、人の話を聞いているかどうかも分からず、ずっと、なんだか居心地の悪そうな戸惑ったような表情で前を向いてじっとしている。なんだか、左を向くのも、右を向くのも、肘をテーブルにつくのも、身動きするのも、そのすべての動きが白々しく感じられるゆえに、なんの動作も取らずただ座っている、という風に見える。周りに合わせて適切に雰囲気を作るのが苦手な、コミュニケーションを取れないタイプの人のようだ。

そのおじさんを遠目でずっと見ていたのだけど、こういうタイプの人って、僕はたまに見るのだけど、どうしてもどうしても引きつけられるように見入ってしまう。最初に浮かんだのは、感受性の鈍麻、という大仰な言葉だったが、すでに感覚が自分の中に閉じ籠って外に出ず、それゆえに身じろぎもせずに座っている感じが、あるていどは哀れに見えるけれど、すごく物珍しくも感じられ、ついついずっと観察してしまうのである。

実はこのタイプの人が、とある会社に一人いるのを僕は知っている。会社は中規模の技術会社だが、そこに、わりと閑職っぽい一人のおじさんがいる。なんと、彼は、いまからおよそ30年前、僕がまだ30代のころ、他のメンバーと共に僕の当時の会社に打ち合わせに来たことがある人なのである。当時は彼もおそらく20代なかばで、新入社員として経験のために同行させられたようだった。そのときの若い彼は、なかなか忘れられない雰囲気があって、それでよく覚えていた。

とても社会人とは思えないほど、子供っぽい顔をした若者だった。特に、打ち合わせのとき、みなが笑う場面で、彼も何にも分からず周りに合わせて笑うのだが、その笑い顔の無邪気なこと、まるで5歳児ぐらいの笑い顔で、それがあまりに子供子供しているので、ひときわ、きせずして目立ってしまう、という風だった。あまりに子供なんで、この人は無害であること即決定、そして、ほとんど子供仲間でいうところの半人前、すなわち「おみそ」扱いしてしまうような、そんな若者だった。

その彼は新入社員からそのままその会社で働き続け、おそらく60歳手前であろう。その会社に30年以上ぶりで久々に入ったとき、彼が歩いているのを目撃し、すぐに彼だと分かった。ただ、新入社員時代にひと目会っただけなので面識はないに等しく、挨拶を交わす間柄ではない。しかし、30年たってそのおみその彼がどういうおじさんになったのか。

おじさんになった彼だが、彼が若かった時に僕が見て驚いたあの無邪気で子供っぽい笑い顔がそのままそっくり失われることなく残っているのである。これは驚きだった。そして、もともとがぽっちゃりした体系だったが、中年になって助長し、体系がかなりだらしなく、衣服もどうもだらしなく、なんと言っても、お腹の出かたが尋常でない。よく欧米人などで腹だけぽこんとまん丸に突き出している人を見るが、あれそのものである。しかし、あの巨大な半球の中にはいったい何が詰まっているのであろうか。

髪の毛はそれほど禿げてはいないが、すでに完全にまっ白になっており、それなのに、顔の表情だけは20代のころと同じなのである。言ってみれば社会人としては完全に救われない人材の雰囲気を醸し出しており、子供がそのまま大人になった人であり、僕にはものすごく物珍しい人間なので、けっこう見るたびに観察していた。

その会社は昔ながらの会社で、定期的に敷地の駐車場で野外宴会みたいなイベントをやる。社員たちがお祭りの屋台みたいなのを出して、食って飲むのである。僕も何回か出たことがあるが、そこには必ずその彼がいて、つい自分は目で追ってしまうのだが、見ていると、すごく旺盛に食っている。あの大きな腹は伊達ではなく、やはり食い意地がすごく張っているようだ。いまでも彼が焼き鳥の串にかぶりついて肉を引きちぎっている光景が目に浮かぶ。

そのあとあまりに不思議だったんで、その会社の古株の知り合いに彼について聞いてみた。そうしたら、ああ、ナニくんね。彼はね、社内でいちばんの閑職について、それでも毎日元気でやってますよ、とのことだった。そういえば僕が見たときも、台車に機材を載せて、人々の間を回っていたっけ。

さて、だいぶ会社の彼の話をしてしまったが、元に戻ると、中華屋の宴会で僕の目の前に座っていたおじさんが、ちょうどその彼と同じ雰囲気を醸し出しているのである。さっき書いたように感覚が鈍ってしまって、周囲への反応が適切にできず、妙に孤立して見えるけど、本人ぜんぜん気にしていないあの感じ。

以上は僕が直接その二人に接して言っているわけじゃないので、ひょっとするとほとんど言いがかりに近いかもしれないが、そういう人を見ると、僕は、言いようもなく驚き、目が釘付けになってしまう傾向がある。しかしなぜだろう。

ときどき窓ガラスなんかに、なんだか知らない虫がとまっていて、触手をわけもなくくるくる動かしていたり、歩いたり、止まったり、方向を変えたりしているのを見ると、いったいこの虫はなんのために生きているんだろう、とついつい見入ってしまうことが、僕には多いのだけど、彼らのような人々を見ると、それと同じことを感じる。なんのために生きているんだろう、と。

これは、傲慢や、見下しや、侮蔑から言っている言葉では決してなく、僕にはそういう存在に強力に惹かれてしまう性癖があり、そこから出てくるのである。思いつくままに書けば、何のために生きているか分からない存在こそが、業から自由な生命の本来の在り方なんじゃないか、と思ったりする。彼らから目が離せない自分が、そのとき何を感じているかは定かには言えないが、やはり、不思議でおもしろい、というのがいちばん大きな感覚かもしれない。

ちなみに、以上のような雰囲気を持った人間は、ほとんど例外なく男である。女性にはいない。中華屋の15人の団体でも半数の7,8人のおばさんたちは、男連より、なんだかとても元気そうで、個性的で、人間的である。そういうものなのであろうか。

そろそろ時間だ。店も客でいっぱいになった。たった二人でやっていてその一人が調理という状態なら、本来なら目が回るほど忙しいはずなのだが、僕が席を立ったら、すぐに慌てることもなく、マルコス顔のおばさんがお会計にやって来た。お金を払うと、例の鬼瓦の顔を崩して笑顔を作って、ありがとうございました、と愛想よく僕を送り出してくれた。

外は暗く、まだ、どしゃ降りの雨だった。

経典

上座部仏教(小乗仏教)については文末にあげたスリランカのお坊さんのYouTubeからたくさん学んだ。

かつて、「ブッダのことば」という、釈迦が実際に当時に言った言葉とおぼわきものを集めた本を読んだことがあった。でも、やはり、繰り返しの多い、意味がすぐに取れない、それこそお経のような日本語で、だいぶうわの空で読んでしまい、読書感想文をかつて書いたけど、いま思うと、仏教の外面的な「殻」の部分を理解しただけのことで、なんにもならなかったな。

それで、このお坊さんの経典の解説を聞いてみると、どうやら、日本の学者さんたちの翻訳がかなり悪い、あるいは間違ったところがたくさんあるらしい、ということが分かる。この人も日本の学者さんたちにはもちろん敬意を表しているけど、原典の言語のネイティブで、日本語の堪能なこの人ゆえに、かなりはっきりと間違いは間違いとして指摘している。これはすごく助かる。

それで、その学者の訳した文を読むと、ほとんどわざとじゃないか、と思えるほど分かりにくい言い回しの日本語にしている。もっと簡単にすんなりと理解できる日本語はいくらでも書けるだろうに、なんで、こう、学者らしい難し気な文体で書くのか、理解に苦しむ。

このお坊さんは逆に日本語が堪能とはいえ不十分なせいで、そういう難しい言い回しに出くわすと、「これじゃなに言ってるか分かりませんね」って言って、易しい日本語に言い換えて説明してくれる。

ということで、翻訳を学者に任すだけでなく、わけの分かった日本人が間に入って、平易な現代語で経典を翻訳し直してくれたら、さぞかし理解の助けになり、仏教への誤解も解けるだろうに、と思うともったいなくて仕方ない。

少し前に超訳というのが流行ったけど、あれは逆にやり過ぎのものが多く、あんまり感心しなかった。ニーチェの超訳とか読んだけど、言葉を平易にするのを超えて、言われている意味まで単純なものに限定させてしまい、意訳しているのが多い印象だった。

オレも、なんかターゲットを見つけてひとつふたつ、そういうことをしてみようかな、って思う。かつて「東海道四谷怪談・現代語訳」でそれをやってみたんだが、あまり読んでもくれなかった(僕がアマチュアだから当然だけど)。でも、まあ、そんなことを気にしてたら文化活動(?)はできないよな。

地道に、コレ、というものを選んで、ただ、やるんですね。ちょっと考えてみる。

最後の研究

日曜はぼんやり過ごしている。本棚の本を適当にとってながめたりしているが、そういえば、数年前、まだぎりぎり研究者だったころに、自分としては最後の学会発表をしたことがあって、そのときのテーマを思い出した。それは

「歩いている蠅はいつ止まるか」

というものだった。この研究は、今流行りのAIを使って展開した研究で、自分的には気に入っていたが、発表しても、まったく、なんの反響もなかった。別に失望はしなかったけど、それを続けるのがなんだか面倒になり、途中で放り出し、そのままになっている。

そりゃあ、現代のAIが、僕ら現代人が日々社会でこなさないといけない仕事を、恐ろしく高い効率で肩代わりしてくれてしまい、社会がそれにより大きく変革するかもしれない、というこの時代に、蠅がいつ止まるか、などという、決定的に何の役にも立たない研究を出したところで、見向きもされないに決まっている。

しかし、さっきも思い出したが、蠅が壁を歩いていて、さて、1センチで止まるのか、5センチで止まるのか、10センチで止まるのか、それとも天井にぶつかるまで歩くのかは、誰にも分からない。そして、当の蠅にもおそらく分かっていない。

僕にはそれが不思議でならない。それに、いつ止まるかによって、ときにはそれが生死にかかわることもある。蠅なんかだと、変なところへ歩いて行っちゃうと、ハエ叩きでやられるかもしれないし、殺虫剤をかけられるかもしれない。

僕ら人間だって、ぼんやり歩いているときは蠅みたいなもんで、いつ止まるか予想できない。

疲れたら止まるだろうか。あるいはいつもの習慣で10メートル歩いたら止まろうかな、と判断するだろうか。でも、やっぱり10メートルで止まるのか、10メートル50センチで止まるのか、と問われれば、あいまいでファジーとしか言いようが無い。そうなると、どこで止まるかを決定するシステムでは、確率論的、統計論的、そして乱数的なものが必ず入り込む。

僕の方法は、歩いている蠅を、確率や乱数を使わずにシミュレートするものだった。そこにAI的手法を使ったのだけど、それはAIというより、脳髄のメカニズムを真似たただのニューラルネットで、しかも、学習済みのニューラルネットを故意に破壊することで蠅をコントロールする、というアイデアであった。

この異様なアイデアを発展させ、最終的には、一種のホーリスティックな世界観をこれによって提示しようとしたのだけど、そんなのどうでもいいことではある。現実にどう対処するか、というのが現代のいちばんの関心事だからね。

しかし、自分の研究者最後のテーマが歩いてる蠅はいつ止まるか、だったなんて、なかなか趣があるな(笑

リベラル

文科系の大学の先生が言ってたけど、いまの若い人たちは基本がリベラルだって。特に性差別についてはセンシティブだそうだ。

日本には保守、左翼、リベラルなどの言葉が錯綜していて、それぞれかなりあいまいな意味を持っているので、あれこれ論争が絶えない。若者がリベラルだ、といっても、本来の意味ではなく、わりと何もかも「平等」を基本で考える、という一面だけを指しているのかもしれない。

いちおうリベラル本場のスウェーデンで12年暮らした自分としては、リベラルが何を指すか自分なりに考えがある。

それは、「宗教(神)を完全に排除して、その代わりに論理科学を教条とする、人の在り方」だと思っている。

それを公理にすると、論理必然的に、まず真っ先にあらゆる事柄の平等が導き出され、それを元に、性差別のみならず、環境問題やらなにやらいくらでも派生した体系ができあがる。平等以外でも、たとえば科学的結論の重視と、科学に必須な倫理の議論も付いてくる、などなど、とにかく、一大形態を形作る。それがリベラル総本山ってもんだ。

日本の若者のリベラルはうわべだけで浅いし、結局、大人達が言うリベラルも大半が狭い。

リベラルが、万物の平等を言う、リーズナブルで元気で快活で寛大な人々ばかりなのに、なぜ僕がそれらの人々の底の底は傲慢だ、と傍若無人に言うかというと、それは先に書いた「公理」に集約されている。彼らは神を科学に見かえただけの人々で、宗教一色だった昔の、その侵略的性格を、ほとんど無傷のまま維持している人々に見えるからだ。

クリーンコード

コンピュータプログラムの話だが、一時期、自分、いかにきれいなコードを書くか、という「クリーンコード」っていうのを授業で教えてくれ、と言われ、分かりました、って5回シリーズの講義をやったことあった。これには、そのままずばり「Clean Code」っていうネタ本があって、それを僕が5回レクチャーにまとめただけなんだけど、なかなか評判がよかった。

きれいなコードを書くことにつき、僕ぐらい非適任なプログラマーはいないのであって、自分が過去に書いたコードにつき「悪い例」は山ほどある。で、講義では、その自分が過去に書いた悪いコードを発掘してきて、それをネタに、「こことここがダメです」って教えてた。あと、自分の悪いコードを学生に与えて、「良いコードに直しなさい」とかの課題をやったりした。

結局、なぜか途中でその講義、学科事情で無くなったが、あの内容は、まあまあ自分の役には立ったかもな。

そういや、昔どっかで書いたけど、講義するために自分の昔のコード見てたら

addsonofabitchheadershit()

っていうファンクションがあって笑ったっけ。Add son of a bitch header shit、日本語にすると「サノバビッチ糞ヘッダー付与」って書いてる。学生に、「こういう関数名は、書きたい気持ちは分かりますが、最後には修正してAddHeader()にしておきましょうね」とか言って笑いを取ってた。

とまあ、いろいろ自分の役には立ったが、結局のところオレのプログラムコードのきれいさは、ホントに、徐々に徐々に改善はして行ったが、すでに30年ほどになるけど、いまだに汚い。

最近、1年ほど前に書いたコードを修正しているが、まったくのところ汚くて呆れる。1年前にちゃんと、自分で学生に教えたクリーンコード原則のもとに書いていれば、オレのいまのこの修正仕事は、おそらく三分の一以下の時間で終わるだろう、と思うとなかなかに後悔する。

しかし、人間が人生を送って進歩したり後退したりする、ってのはそもそもそういうもので、逆にコードが最初から超きれいだったら、人生味気ない。というか、別次元の人生になっていたであろう、と想像される。じゃあ、その別次元のエレガントなあるべき自分に、いまあんたはなれなくて後悔するのか、と言われれば、ぜんぜんしない。

エレガントな自分なんてさあ、SonOfABitchShitな自分はひとつも憧れない。でも、そういうエレガント人、世の中にはいるのよねえ、たくさん。僕は苦手で、あまり近寄らないけど。

というわけで、今回も汚いコードのままでいっか。めんどくさいし。