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リアリティ

僕の好きな昭和の俳優は何人もいるけど、特に森雅之とか仲代達也とかはかなりセリフ棒読み的な演技をするタイプだと思う。で、僕は彼らのその不自然な演技がたまらなく、大好きだ。

それで思い出したのだが、昔、自分が若かったころ、日本のテレビドラマとか見ていたのだけど、当時のセリフ回しは、やはりお芝居から来ていたのか、なんだか演技にリアリティを欠いていると思った。

で、そのころようやくハリウッドの映画など英語のドラマをちらほら見はじめ、その普通の生活の中の普通の人々のしゃべり方やしぐさなどの演技が、日本のそれに比べて、すごく自然で滑らかでびっくりしたことがあった。

それに気付くと、なぜ日本のドラマはああまでしゃべりもしぐさも不自然なんだろう、やっぱりアメリカの映画はすごいな、などと思った。

しゃべっているのが英語という外国語であるというのもあるけど、やはりそこには「リアリズム」が強く、僕らがいま現在自分の周りを実際に見て聞いている経験をそのまま映像にする、というリアリティが優先された結果だと思う。

一方、日本のドラマや映画は、そういうリアリティより「形式」を重んじる傾向があって、そのせいでリアリティが減ってしまい、なんだかアメリカ映画に比べて、劣っているように、若い自分には見えていた。加えて、なぜ日本の俳優はなぜあんなに不自然な演技をわざとするんだろう、と不思議で仕方なかった。

いま考えると自分は素朴だったな、と思う(素朴は英語でnaive、そしてnaiveとはバカのことである)

なぜ人は「リアリティ」にかつての僕のようにそこまで驚くのか。昨今の映画やゲームの極度にリアルなコンピュータ・グラフィクスとか、ChatGPTがよこすリアルなしゃべりとか、画像生成AIが作るリアルな画像とか、もう、あれよあれよと進化して、リアリティはいまや極限にまで近づこうとしている。

そして、なぜそのリアリティにそんなに説得力があるか、というと、それは人工物が実物に近づくのは「すごい」という感覚が僕らにあるからだろう。

では、そうだとして、その目指すべき「実物」とは何か。

先に言ったリアリティの多い少ない、で言うと、そこでの「実物」が「物質的存在」であることは間違いないと思える。僕らの心の方が、物質的たしかさを求めているのだ。だから、それに限りなく近いリアルなCGとかリアルな生成AIに驚き、そこに過剰な価値を与えてしまう。と同時に、この世界に存在しない完全な人工物を、神が造った通りに正確に真似て、人間自らの手で作り出した、ということを誇る気持ちがあるからではないのか。

でも本当にそれでいいのか? 

たとえば、その「実物」が、物質的現実の代わりに「浮世絵の世界」であってもいいはずじゃないか。江戸時代であれば、そのときのドラマはほぼ「歌舞伎」になる。自分は、かつて古本屋で「東海道四谷怪談」の脚本を収めたぶ厚い文庫本を買い、すごく気に入って、何度も何度も読んでいたことがあった。そうしたら、自分の心のなかの「現実」が「浮世絵の世界」に成り代わり、そして、まるで浮世絵に登場する、あの不格好で異様な形状をした人間どもが、四谷怪談の台本の上で実際に動いているさまが、はっきりと見えるような気がした。

そのとき、オレは「江戸時代が見えた」と思って、異様な感動を覚えたよ。

この経験に比べれば、人工物が物質的現実に近づくなんて低級な話だ、と思ったよ。しかもだ、超リアルなCGや超リアルな生成AIを作り出すのに、あんたらどれだけ地球上のエネルギーを無駄にしてるんだよ、って思う。あれらを作るのに、莫大な量の石油や核燃料が使われて、かたや世界では食う物も無く死んでゆく人がいる、ってどう考えてもおかしいだろ。

そう思わないのかね欧米のSDGsな人々よ。別にリアルに文句はないが、少しは反省しなさい、って言いたくなる。

思考停止

なんとなく、YouTubeの、日本再生のための会議とか、見ちゃったりするんだよねえ、外国にいると、寂しいせいか。

さっきは安宅さんって人がしきりにアジってた。僕も一時期そういうところに出入りしていたから知っているが、典型的な、六本木界隈に大勢いる知的エリートの、ほがらかさ、明るさ、適度の気安さを持っている人の一人で、しゃべりが面白いし、理解もできるけど、金払ってまで続きを見ようとは思わないな。その動画では、彼は、日本には異人が必要だ、って力説してた。

さいきんオレは小林秀雄の本居宣長を読んでるけど、あんまり分からないながら(ってのは本文に古文が多すぎ)、とても共感するところが多いんだよな。

ああ、古い日本。前にも書いたけど「思考停止」って言葉がオレは大嫌いで、それを聞くと、思考なんていう低級なことはインテリに任せておけ、とか放言したくなる。

思考って、「考える」でしょ。で、考えるの日本語の語源は宣長によれば(たしか)「かむかへる」なの。かむかえるっていうのは迎える、ということ。物について考える、というのは元々は「物を迎えて、それと交わる」という意味だったんだそうだ。こういうのを聞くと、あまりに高級な概念で、心底うっとりする。こういうものに比べたら現代インテリ共の思考なんていうものは低級なもんだ。

そんなバックグラウンドがあって、他人をつかまえて思考停止って偉そうに揶揄するのが大嫌いなんだ。宣長のいう意味での日本古来の「考える」は、宣長から小林秀雄、そしてオレ、と伝わっていて、もう自分には染みついている、と、この本で本居宣長を改めてあれこれ知って思ったな。こんなえらい学者が江戸時代にはいたんだよ。

YouTubeに現れる日本の未来をなんとかしたい人々を否定する気はない。でもさあ、あのアジテートを聞いて「そうだ、そうだ、本当にそのとおりだ!」って気勢を上げるのはオレは真っ平だな。

だから、彼らの言葉をよそに自分は、宣長式に行くことにするよ。ある意味じゃ安宅さんのいう異人になるってことだが、まー、オレの場合は役に立たない異人だな。もうそれでいいや(笑

偉い人のオーラ

何回か話しているが、だいぶ前、なんかわりと由緒正しい賞をたまたまもらって、豪華な授賞式へ行ったことがあった。そこには、当時髭の殿下と呼ばれていた三笠宮家の寛仁さまが列席されて、最初にスピーチした。

そのときすでに病気で声帯を失っていた殿下は電気発声器みたいなものを使って、変な声でしゃべったのだが、最初にそれを冗談めかしてみなを笑わして、それでスピーチを始めた。

終わってから降壇して、花道みたいなところを歩いて、それで式を途中退席して帰って行ったのだけど、僕は一部始終を見ていたが、殿下は、もう、異常なぐらいに濃厚なオーラを纏っていた。あんな人間、初めて見た。なんだか同じ人間に思えない。

というわけで、そういう特別な霊みたいな存在が、そういうふうに我々庶民から見えるとして、その霊をごく自然に敬う、という感覚は、これは日本だけじゃなくてあらゆる民族にあるのだろうなと思う。その霊の存在は、その民族の根底をなしている、と言ってもいいかもしれない。

それで、その霊の存在がいまの殿下の例のように、ある特定の人に集中する場合、まさに民族主義がきれいに成立する。

三島由紀夫の天皇がこれと同じなのよね。三島によれば、彼が通った学校の卒業式に天皇が列席したそうで、その式典の三時間の間、天皇は彫像のように微動だにしなかったそうだ。三島は、そのご立派な姿をどうしても自分の中で否定できないのだ、と言っている。これは、まさに僕が式典で殿下を見たのに通じる。

一方、乱暴な言い方だけど、西洋では、霊は人につかず、そのむこうに神やイエスがいる。オーラを纏った偉大な人は多くいるし、尊敬の対象になるけれど、その本当の霊は、その人の向こう、あるいはその上に、抽象的な形で現存していて、人々が敬うのはそっちの方だ。

スウェーデン暮らし十年で得た印象は、その向こうにいる神の存在が、今はほぼほぼ科学にとって代わられた、ということだった。神の存在は結局証明不能で終わり、いないことになったが、その代わり我々人間の手で独力で産み出した科学がある、と誇らしげに宣言しているように見えた。

これは日本の場合とぜんぜん違う。

で、唐突のようだが、この日本のノリは、ロシアととても近い。いま、プーチンがああいう風に振る舞わないといけない、というのは必然であって、彼は皇帝のように見えていないとダメなのだ。欧米文明に完全に毒されてしまった日本人の大多数は、それをほとんど理解できなくなっている。

まあ、日本の場合、そうして行き場の無くなった霊は、サブカルチャーをはじめ、いろんなところで噴出しているから、別に支障はないのだけどね。コロナの99%マスク現象なんかとてもいい例だったと思う。