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ロシア文学と戦争

岸田首相が夏休みだかなんかで読書をしようと「カラマーゾフの兄弟」を読み始めたけれど、第一巻で挫折して放り出してしまった、って話、そういえばあったなあ。なんというか、ほほえましい話だな、と思い、笑ってすんだ。

逆に、あの本を読みこなし、なおかつ血肉にしてしまう首相がいたとすると、それはむしろだいぶ危険だと自分は思う。

実は今だから言うが、一年半ほど前の2月、ロシアがウクライナに侵攻した、というニュースを初めて聞いたとき、自分がほとんど反射的に思ったのが、それだった。おそらくプーチンは、岸田首相とは逆で、ドストエフスキーもトルストイも読んで血肉にしているはず。そして、これも彼についてよく言われるけれど、もっといろいろ広範に、ときには過激な書も自分のものにしているはず。

それが予想できただけに、侵攻に踏み切ったのを知り、それだけは踏みとどまって欲しかった、と思ったけど、とき遅し。だから、大国の長が、それこそ、カラマーゾフの兄弟が読みこなせて、さらにそれを我がものにできる教養を持つ、というのはむしろ危険でもある、と僕は思う。ああいう歴史的な著作というのは、時に絶大な暴発を引き起こす危険を内に持っているものなのである。

そんなことを言う理由のひとつは、ほとんど害のない小さな話とはいえ、この自分も、あの小説に過度に影響を受けすぎたせいで、自分自身が収集つかなくなる時があり、よくドストエフスキーの本は悪書なので若者に勧めるな、と言ってたから。もっとも、あの小説は、長過ぎて、くどくて、ロシア人の名前がこんがらがって、そもそも読みこなせないのが幸いしている。でも、それをきちんと読んでしまい、あれに本当にトラップされると実際は危ない、ということを自分は身をもって知っている。

そういえば僕の思い違いでなければ、大昔(たしか)フセインが捕まった直後に、ニュースで、彼が潜伏していた地下の部屋をカメラが映し出した映像が流れたそうで、そこにたしかカラマーゾフの兄弟(罪と罰だったかも)の本が一瞬映ったそうだ。これが思い違いでなければ、彼も、ドストエフスキーを愛読し、自分のものにしていた、ということになり、これは僕には感無量な出来事だ。

日本人が、ドストエフスキーとトルストイという、押しも押されぬ19世紀ロシアの文豪をいまどう理解しているか知らないが、あの二人は、二人とも手が付けられないほどの過激派だと自分は思っている。彼らの小説はその芸術性や多様性のせいで名著として歴史に残っているけれど、その核となる思想は過激で、あれは、正直に言ってしまうと、過度のロシア民族主義がその背景にあり、同時に、欧米文明に対する強烈極まりない批判に貫かれている。

だから、プーチンのような反欧米な国において絶大な権力を持つ人があれを持つと、はなはだしく危険なのである。

一方、日本人のこのウクライナ戦争に対する大方の反応は、まことにおめでたいもので、僕は呆れ果てて見ていた。さすが平和の国の日本だ。三島由紀夫が割腹自殺するはずだ、こんな国、と思った。

しかし、このおめでたい南国的反応は、日本に最後に残ったアドバンテージなので、これはもう絶対に大切にしなければいけない。矛盾して聞こえるだろうけど、寒い国々の謀略がこれまで世界を過度に牛耳って来たがゆえに、世界にはいま「南国」が欠乏している。日本はそれを持つ良い国の一つなので、そこは無くさないように。

ひょっとして地球温暖化って、そのせいで起こってるのかねえ、南国の不足…(笑

能力

知的障害者の人たちがいる施設でコーヒーの自家焙煎と販売をしてて、そこで3種類のコーヒーを買って、家で淹れてみたんだけど、なかなかおいしい。豆の種類でちゃんと味がはっきり変わるし、なに飲んでもあんまり変わらないどこぞのブランドよりよほどいいかも。

彼ら、日がなコーヒー豆を焙煎したり、悪い豆を一粒づつよけたりする、そういう仕事に向いているんだそうだ。

すぐ思い出したけど、そういう彼らが湖でボートに乗って遊んで、その感想文を集めたのを見たことがあって、その中に「ボートが右や左に行っておもしろかったです」という感想があって、けっこうその文にノックアウトされた。

いわゆる健常者の僕が言うとホントに変に聞こえるので困るのだけど、ああ、ボートが右や、左に、曲がっただけで物凄く楽しいんだろうな。きっとオレも5歳児ぐらいのときは、彼らと同じ感動を感じてたんだろうな、と思うと、なんだか今の自分が痛ましい気がしてくる。

同じ無邪気な喜びを得るために、今のオレはなんと紆余曲折したややこしい感覚を追い求めなければ済まないことだろう、と思うと人間の能力ってなんなんだ、って思う。

ちょっとしたホビー工作をするのに、モーターを見てるんだけど、探しても探しても中国製で、日本製で自分が知ってるのって、マブチとタミヤぐらいで、探してみるんだけど、プロ用と子供用の間の製品がごそっと抜けている印象で、逆にその中間の領域の製品は中国製が圧倒的。

で、これまた中国って、こういう、なんか、どーでもいいホビー用ニッチな製品を、よくもまあ、これだけの種類作るなあ、と呆れるレベルで揃っている。もちろん、そのうちの何割かは不良品のゴミで、買うのは賭けに近いんだけど、それにしてもゴミじゃないのもあるわけで、やっぱり品揃えがすごい。

こういうのってさあ、どんな分野にも言えてるんだけど、いわゆる「層が厚い」というやつで、こういうどーでもいい系のモノがふんだんに作れて揃ってる、というのが、その国の文化を支えるもっとも大切なことなのよねえ。

昔の日本はその層の厚さで、たとえば、マンガとかアニメの隆盛に見るような世界レベルのトップ作品の製作能力を支えてたんだけど、たかが工作用モーターで考えすぎかもだけど、こういう経験をすると、日本はもうダメかも、って思っちゃう。日本でいま残ってる層の厚い分野って飲食店ぐらいか?って思ったりする。

いまの何不自由なく育った政治家や官僚には、この層の厚さの重要さを理解する人があまりいないらしく、彼ら、結局、国でトップを張れる層にばかりカネを出して、そういうどーでもいい中間層、しかし実はもっとも大切な層を、丸ごと無視する政策しか打たないしね。

中間の厚い層を国が支援するとしたとき、たとえばどうすればいいかというと実は簡単で、カネで特定のものを支援するんじゃなくて、カネをばらまいてそのままにしておけばいい。植物に水をまくのと同じで、一定量の水を毎日まけばいい。

こんな簡単なことは無いのだが、官僚側から見るとこんな難しい策は無い、という風になってしまうところが問題なんだろうな。というのは、官僚の仕事というのは、まず目的を設定して、施策を立てて、金額を見積り、出せる金を施策に従って与え、その結果を当初の目的と比べて達成度を測る、というサイクルでしか動けないから。

一方、支援しようとする中間層は、基本的に無名で無目的なので、そもそも目的化できない。「カネのばらまき」が官僚の仕事にならないということは、官僚は動かない、ということになる。そのときは今度はカネのばらまきが得意な政治家の出番になるのだが、その政治家がこの「層の厚さの意味」を理解していないとそもそも彼らそのばらまきを思いつきもしないことになる。

そうこうしている間に、空洞化はどんどん進んで、ある点を超えると、そこでその分野は終了するだろうな。現在、空洞化がどれぐらい進んでいるか知らないけど、まー、もうダメっぽいので、あとはまったり暮らしましょ。

中国製買って当たり外れしながら(笑

日本ぎらい

思えば30年前の自分は、日本人を超反省好き民族と思っていて、まー、いま思うとそれは日本式左翼のことだったんだが(朝日とかNHKとか)、日本人は自己反省をし過ぎのバカ民族って、日本人を忌み嫌ってた。

他を批判する秘訣は、自分を棚に上げることだ、というのがそのときの自分の考えで、合理的な批判というのはそれを為す人間が根本的に対象に対して他人事でなくてはならず、それができないと、そもそも批判そのものができなくなる。そうすると、社会は弁証法的に機能せず、必ず低迷停滞する、と考えていた。

この考えは今も変わらずなのだが、昨今の日本のネットでの醜い喧噪を見ていると、こんどは日本人は最近、その自分棚上げ批判を中途半端に覚えたらしく、逆に、合理的思考を使って、他人をあげつらったり攻撃したり貶めてバカにしたり、ということをそこらじゅうでやるようになった。

一神教の神のいない民族が批判という西洋合理主義に基づいた方法論を猿真似すると、ああ、こういう結果になるんだ、って見てて思うわ。だいたいが、見苦しい。

そうなると、こんどは逆に、少しは自己反省というものをしたらどうだ、この糞日本人が、ってなるわけで、まー、オレは40歳になるまで、日本が大嫌いで、日本人は糞だ、という、いわば民族的自己嫌悪にかられた人間で、それは、上に書いたように、左翼的な意味での日本人の劣等性という呪縛のせいで誇りと優等性を持てないように骨抜きにされている同国人を見るのが耐えがたかったかららしいが、今度は現代になると、幼稚な優越感と粗雑極まりない論理を使って自己嫌悪から脱したような顔をしたやつらがそこらじゅうに見えるようになった。

今も昔も日本嫌いなのか、って思うと閉口するが、でも50歳を超えて、自分、ようやく大昔の日本文化を知ってねえ、それでアイデンティティ解決!みたいな単純な人間になった。ああ、よかったよかった。もののあわれの日本人、で、それでOK、みたいな。ここで、もののあわれとは何か、と問うことはバカげたことで、それはすでにそこに「在る」ものだから説明を要しない。それを基に、あとは多くのバリエーションが個性に応じて現れる。それでいいじゃないか、って思うようになった。

ここ最近、澁澤龍彦の「三島由紀夫おぼえがき」という薄っぺらい文庫がどっかから出てきたせいで、ぺらぺらめくっているのだが、本当に、心底、おもしろい。ああいう気品に満ちた知性というのが、いまのこの汚い現代日本にいちばん欠けているようにも見える。

ニヒリズム、そしてデカダンスが日本においては、いったいどのような形を取るか、ということが、いろいろ書かれている。いいなあ。