偉い人のオーラ

何回か話しているが、だいぶ前、なんかわりと由緒正しい賞をたまたまもらって、豪華な授賞式へ行ったことがあった。そこには、当時髭の殿下と呼ばれていた三笠宮家の寛仁さまが列席されて、最初にスピーチした。

そのときすでに病気で声帯を失っていた殿下は電気発声器みたいなものを使って、変な声でしゃべったのだが、最初にそれを冗談めかしてみなを笑わして、それでスピーチを始めた。

終わってから降壇して、花道みたいなところを歩いて、それで式を途中退席して帰って行ったのだけど、僕は一部始終を見ていたが、殿下は、もう、異常なぐらいに濃厚なオーラを纏っていた。あんな人間、初めて見た。なんだか同じ人間に思えない。

というわけで、そういう特別な霊みたいな存在が、そういうふうに我々庶民から見えるとして、その霊をごく自然に敬う、という感覚は、これは日本だけじゃなくてあらゆる民族にあるのだろうなと思う。その霊の存在は、その民族の根底をなしている、と言ってもいいかもしれない。

それで、その霊の存在がいまの殿下の例のように、ある特定の人に集中する場合、まさに民族主義がきれいに成立する。

三島由紀夫の天皇がこれと同じなのよね。三島によれば、彼が通った学校の卒業式に天皇が列席したそうで、その式典の三時間の間、天皇は彫像のように微動だにしなかったそうだ。三島は、そのご立派な姿をどうしても自分の中で否定できないのだ、と言っている。これは、まさに僕が式典で殿下を見たのに通じる。

一方、乱暴な言い方だけど、西洋では、霊は人につかず、そのむこうに神やイエスがいる。オーラを纏った偉大な人は多くいるし、尊敬の対象になるけれど、その本当の霊は、その人の向こう、あるいはその上に、抽象的な形で現存していて、人々が敬うのはそっちの方だ。

スウェーデン暮らし十年で得た印象は、その向こうにいる神の存在が、今はほぼほぼ科学にとって代わられた、ということだった。神の存在は結局証明不能で終わり、いないことになったが、その代わり我々人間の手で独力で産み出した科学がある、と誇らしげに宣言しているように見えた。

これは日本の場合とぜんぜん違う。

で、唐突のようだが、この日本のノリは、ロシアととても近い。いま、プーチンがああいう風に振る舞わないといけない、というのは必然であって、彼は皇帝のように見えていないとダメなのだ。欧米文明に完全に毒されてしまった日本人の大多数は、それをほとんど理解できなくなっている。

まあ、日本の場合、そうして行き場の無くなった霊は、サブカルチャーをはじめ、いろんなところで噴出しているから、別に支障はないのだけどね。コロナの99%マスク現象なんかとてもいい例だったと思う。

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