前々から思っていたが、日本人のルックスは、特に戦後、急速に変わって行った。昔の日本人はよく、胴長短足で頭が大きくて、と形容されたものだが、いま現在、特に都会にいると、足が長くてすらっとした体形で、目は大きくあごは細く頭が小さいルックスの子がとても多い。
この昨今のルックスだが、思うに、まだ日本人のルックスがそのようになっていなかったときの、昔の少女マンガに現れていた理想の美男美女や、少年マンガに現れる憧れの美少女のルックスをなぞっているように見える。今の若い子なんかの顔を見ると、まあ、メイクのせいもあるとは言え、大きな目にあごが細くて小顔なマンガの登場人物そのものみたいな子がたくさんいる。
では、なぜ、そういうことが起こるのか。
自分の観察した限りで言うけれど、マンガの理想のルックスの方が時間的に先に現れていて、その後に、何十年かたってその理想のルックスが現実のルックスになって世に現れていると思う。つまり、皆の総意として「美しい」と思う方向に、身体自体を自ら変化させている、としか思えない。
このように自らの身体を目的に沿って変化させる生物の能力を「本能」と言って、これは特に昆虫類に顕著な能力である。かれら、本当にいろいろな形態を編み出している。特に擬態はお見事で、蛾が自分の羽に蛇の絵を描いたり、じっとしていると枯れ葉にしか見えないバッタがいたり、芋虫が頭のあたりに大きな目の模様をつけていたり、あげたらきりがない。なぜ、彼らがそのように身体を変化させられるか、いまだによく分かっていないけれど、それは昆虫の能力として、はっきり目に見えている。
それで、さっきの日本人のルックスの変遷も同じだと思う。まず先に「モチベーション」があって、それで人間も、昆虫と同じ能力を使って、自らの身体にその形態を刻んでゆくわけだ。
ということは、人に知れ渡って共有された「美」の規範が先にあって、それで人間のルックスは作られて行く、という風に考えるのが自然だということになる。で、その美の規範は何によって作られるかというと、それは芸術なんだと思う。冒頭の日本人のルックスの件で言えば、マンガという芸術なわけだ。
結局、芸術が、美を作り出して、それが万人に受け入れられ、それが規範になって、その後、何十年かかけて、昆虫と同じ本能という能力を使って、その美の規範を自らの身体の形態に刻み込んでゆき、そして、ついに美は現実のものになる、というプロセスになっているわけだ。
すなわち、芸術というのは、生命のモチベーションそのものなのだ。
先日、運慶展へ行って、運慶の彫刻の徹底したリアリズムに感心した。彼の幾多の像を見てはっきりと感じたのは、運慶は現実にある物を忠実に写してそのリアリズムを完成させたのではなく、彼の芸術が現実を作り出す作用をしている、ということだった。つまり、彼が作り出した像のせいで、われわれは現在、物を彼が見たように見ているのだ。
先の日本人のルックスの話と関連づけると、運慶の彫刻という芸術が、その後の日本人のルックスを実際に、現実に形成したのだ。日本人のルックスというのが先にあって、それを運慶が克明に描写して真似たのではない、と言っているのだ。
例えば、運慶の八大童子の子供の像で、あの像にそっくりの子供が800年前の運慶の住んでる町だかにたまたまいたのかもしれない。でも、その子が、当時、回りから特別、可愛いだとか何だとか言われていたことはありそうもなく、一人運慶がそのガキ(洟垂らして小汚かったかも)を見てひらめくわけだ。そして運慶は、その平凡なただの子供をモチーフに、それを童子像として彫刻に刻み込み、そのルックスに芸術的生命を吹き込む。
この出来上がった像を見た人々は、それで初めて目を開かれるわけだ。なんだ、あの洟垂れのガキ、可愛いし魅力的じゃないか、と。もし、このとき運慶がその子供を取り上げなければ、そのように人民が共有する美の価値観は生まれなかったわけで、その可愛くない洟垂れガキは、単に大人になって憎たらしくなって、それで終わりだ。
しかし、運慶によって、この子供の新しい形態が見い出され、受け入れられ、そうして皆がそれに説得され、こういうルックスが美の規範になる。そうして、こんな顔をした子供がその後の日本人に生まれるようになり、増えて行き、そして、今現在の僕らの住んでいる町の、隣の家のガキが運慶の童子像にそっくり、というようなことが起こるのだ。
これが正しく歴史に起こったことで、運慶が現代を先取りしてモダンだった、というんじゃなくて、運慶がモダンを作り出したのだ、と言うのだ。
この逆転した発想は、芸術の世界ではごく自然なことだと思うのだけど、科学の世界ではむしろ不可解なことになると思う。ただ、以上の、たとえば冒頭の、日本人のルックスの変遷とマンガの表現について、科学的調査を行って因果関係を割り出すことはできるはずで、きっと誰か研究者がやっているのではないかと思うのだけど、どうだろう。