とある人の思い出

ふと思い出したが、大学生のころ常連で出入りしてたお店は、いろんな人が来る人間動物園のようなところだったが、そこに、笑顔がすごく可愛い美形の若い女性が来てたことがあった。

彼女とっても童顔的に可愛かったのだが、いざしゃべると、可愛い顔に似合わず、頑固で強い、しかし思慮の浅いステレオタイプな発言をする一般人的で、理知については残念な人だった。

笑顔があんなに可愛らしいのに惜しいなあ、などと思ったものだが、いま思えば、笑顔の方が彼女の地で、理知の方は若気の至りで背伸びして、そこにくっ付けただけだったんだろうな。

そのころ、僕は西洋絵画に夢中で、ポケット画集のFrom Giotto to Cezanneって洋書をいつも持ち歩いてた。で、あるとき、その呑み屋でその画集を取り出し、ああだこうだと皆にしゃべってた。

そのとき、その可愛い彼女が横に座ってて、それちょっと見せて、って言うんで、画集を渡した。

その画集は、ルネサンス以前の宗教画から始まっていて、最初の方のページには、前期ルネサンスの奇妙な絵がたくさん載っているのだけど、その初期の宗教画の数々の絵を見てる時の彼女の表情を、いまだに覚えてる。

侮蔑の薄ら笑いを浮かべながら、物凄い上から目線で馬鹿にしきったように、それら初期の宗教画をながめていたのである。僕は、へえー、こんな表情するんだ、この子は、って思ったけど、あまりのひどい対応に驚いた。

彼女が見ていたのは、たとえばオレの愛するピエロ・デラ・フランチェスカの描いた聖母と信者の絵だったりした。マリアが普通の人間の三倍ぐらいの大きさに描かれて、衣服を広げ、そこに小さなあれこれ信者たちが完全な無表情で祈りを捧げている図である。

極度の神秘と、宗教感情と、リアリズムの欠如であり、言ってみれば、現代人から見れば反理性的な絵である。

それをこんなに分かりやすい侮蔑を持って見る、って、いったいどういう人生を送って来たんだ、この女は、って、オレは呆れて見てたよ。

で、ページを繰って行って、ようやく彼女の眼にとまったのが、マサッチオのアダムとイブの楽園追放の絵だった。絵の中の二人は、今の人でも分かる、号泣と嘆きの表情なのだ。彼女、ようやく口を開いて

「この絵は、パワーがあるな」

と、言ったそのイントネーションまでいまだに思い出せるほど、それは浅はかな発言だった。

かわいい子だったけど、いまごろどんな人生を送ってるのかな。名前も忘れちゃったし、辿りようがないが。

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