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コンテンツやアートとアカデミア

ここしばらく科学者が科学を批判、あるいは告発することが、けっこう目に付くようになった。その真偽はめいめいが決めればいいことだけど、ここでちょっと害のあまりないことをひとつ。
 
僕の研究分野は、コンテンツ制作技術なのだけど、この分野はアカデミックな論文を通すのが難しい。たとえば、CGを使ってどんな魅力的な映像(コンテンツ)を作るか、ということをやっているわけだけど、その結果をそのまま論文に書いて投稿してもまず、リジェクト(返戻)される。というのは、コンテンツ制作は実は「アート」の一分野なのだが、ところが、その結果を「コンピュータ・サイエンス」など理科系の学会に投稿するからである。工学技術者の多くはふつうアート作品を評価できない。
 
ところが論文が通らないと研究者のステータスが上がらず、昇進できないし、それよりなにより今では多くを占める期限付き研究者にとっては死活問題で、論文が通らないと職を失って路頭に迷う。なので、まずは論文は通らないと困る。
 
で、どうするかというと、工学技術者でも評価できるようなおぜん立てを論文の中に入れて投稿する。それは何かというと、主観評価実験である。主観評価実験っていうのは、無作為に被験者を20人以上集めて、その人たちにコンテンツを見せて、たとえば5段階で評価してもらい、過去のコンテンツと比較して、自分のコンテンツの方がいい、ってやるわけだ。
 
20人の人間の感覚はまちまちだけれど、20人ぐらい集めればそこそこに平均化して、主観に基づく判断も「客観的な評価」とみなすことができる、という統計手法を使うわけだ。
 
まあ、これ以上はえらく専門的になるので説明しないけど、こと「コンテンツ」すなわち「アート」に対する評価としてこれほどいい加減なものはない。アートを知っている良識ある人ならば、いかにこれがいい加減なものか知っているはずだ。でも、アートの評価ができない人々に納得してもらうには、この方法しかないので、仕方なしにやるわけだ。
 
実はこれ以外にも結果のコンテンツを評価する方法はある。たとえば、結果に対してcritical thinking(批判的考察)を加えるという方法もある(アート業界ではこれはreflectionと呼ばれたりする) しかし、工学者はアートの素養そのものが欠けている場合が大半なので、彼らはその批判文を見てもただの「屁理屈」とみなして、却下する。で、客観的な理由を示せ、と迫って来る。で、しかたなしに評価実験をやってグラフを描いて、数値を見せるわけだ。
 
先に書いた理由で、論文は通さないと意味がないので、この実験をくっつけるのだが、僕はここで白状するが、いままで実験計画がかなりいい加減なことを分かっていて、それを論文に書いて出したことが何度もある。詳細はここでは言わないが、やった本人(僕)は何がいい加減かちゃんとわかっている(このいい加減は雑という意味ではなく、きちんと実験しているが、実験の目的が、アート的良心のためでなく、論文を通すためになっている、という意味である)
 
もちろん、査読する工学者もきちんとした人たちなので、その「いい加減さ」は突いてくる。でも、しょせん工学者がアートの本質に達することは、まず、滅多に無く、底が浅いので、僕の方はその予測できる反証が起こらないように、実験を塩梅するわけだ。
 
ただし、さすがにデータの捏造はしなかった。データを捏造すると、これはもう犯罪行為とみなされるのは、小保方さん騒動で周知のことになった。ところが、実験そのものをコントロールしたり、条件をコントロールすることで、望みの結果が出やすいように誘導することは、それほど難しいことではなく、これは悪い事でもない。
 
詳細に見て行けば、いったいこの実験をやった人がどこを誤魔化したかは、本当は判明するのだが、ことアートの件になると、査読する方にそのカンが働かないので、追及されずに済むようにコントロールできる。
 
と同時に、これを追求し過ぎると、逆に査読している人のアートの素養の無さが暴かれることになるので、ふつうはそんな馬脚を現して恥をかきそうなことはやらず、論文執筆者と査読者の間の阿吽の呼吸で、追及はあまり深入りしないていどで止めるのが普通だ。じゃあ、結局、どこで採録か返戻か決めるかっていうと、論文全体の総合的な信頼性を持って決めたりする。
 
ただ、偏屈な工学者ってのは、けっこうな数いるもので、ひたすら返戻を出しまくる困った人も一定数いる。僕がかつて論文委員長だったときも、「困った査読者ですねえ」とか言って、適度にその人へ論文査読が回るのを避けるようにしていたものだが、それもあまりやり過ぎると社会的信用を失う恐れがある。かくのごとく社会の趨勢に乗りながら、かつ、自身の良心と折り合いをつける、という非常に厄介な綱渡りをするはめになったりもする。
 
さてさて、いったいこれで何が言いたいかというと、まあ、それほどひどい批判や非難をする気は無いのだが、テクノロジー系コンテンツやアートについて、世に出ているアカデミックな内容やそれをベースにした定説などは、話半分にそこそこに受け取ればいいもので、そんなに正しいものは無いと思っていい。コンテンツとかアートとか、そもそも平和なもので、人も死なないし、世の中への影響も大してない分野なので、そのていどのいい加減さでもいいんじゃないか、と思う。
 
ところが、これがコンテンツやアートだから呑気にいい加減なことを言っているが、今回の伝染病のように、感染症だ、医学だ、環境問題だ、ってことになると事は深刻である。
 
しかし、かろうじてアカデミアの内情をいくらか知っている僕が思うに、本当のことを言うと、それらシリアスな分野においても、先に紹介したコンテンツやアートのときと事情は似通っていたりする。そんな状態なので、言いたいことは、「みなさん、世の中には、正しいか間違っているか、良いか悪いか、という明快な区別判断は無いんです。科学で証明されれば正しいと感じてしまう人はぜひ思い直してもらって、科学を過度に信頼しないように心がけてください」ぐらいですかね。