おくのほそ道を読んでいる。
全編のどこをとってもすべてもののあわれでできているこの文は、いったい何物なのだろう、と思ってしまう。これ以上無理だろうというほど完璧な姿をした句は、いくらもある。たとえば
閑さや岩にしみ入る蝉の声
あるいは
五月雨の降りのこしてや光堂
と、いうようにあるけれど、この紀行文の全体を、旅の苦労や情の側から見ると、こんな句がどうしても目につく
蚤虱馬の尿する枕もと
一家に遊女もねたり萩と月
日本語のリズムはすばらしく、完璧な作詞作曲だけれど、その内容は、事実と情との単純な描写に徹していて、余計な飾りはなにもない。俳句は和歌より短いので、飾る余地も少ないだろうし、それゆえもあるだろう。いわゆる美学的な「贅沢」のあとが、芭蕉の句にはまったくない。
それから、いわゆる「大自然」をそのまま描写したり共感したりする文もなければ、そんな句もない。そこには必ず人がいて、生活があって、歴史があって、自然はそのひとつに過ぎず、自然の美を客観視する一種のロマンチシズムの冷たさは、まったくと言っていいほど、どこにも見当たらない。
これが、江戸時代の僕らの祖先にいた、俳人だったとは、なにをかいわんや。
オレはオレで、文をかたわらに、「時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」だよ。