ああ、中国

とある大学で聞いたんだけど、ある中国人の先生が入ってきたら、その人の論文の引用数がその大学で断トツに高く、表彰されたそうだ。で、その人のその年の研究発表リストが大学のホームページに掲載されて、それを見たら、10人ぐらいの中国人研究者が相互リンクして大量に投稿していて、その数が、明らかにほかのふつうの研究者の発表数とバランスが取れていない(1人だけ20倍30倍の発表数)

そうなっちゃうと、論文数がすご―い、って感心するより、かえって中国の信用を失う結果になっているように見える、って言ってたな。僕もなんだかそう思う。その中国人先生も、少しセーブして最低でも自分が筆頭のペーパーだけを自分の大学では公表すればいいのに(もっともそれでも多い)、と思っちゃうな。

僕は、過去に日本に新しい文化を伝来してくれた中国、その昔には孔子が出た中国、仏教と儒教をベースにした高いモラルなど、中国をずっと尊敬してきたのだけど、昨今の中国には閉口することが多い。金と権力とクオリティを極限まで追求する浅ましい亡者に見えることが多くなってしまった。

世界のアカデミアもおそらくかなりの部分、中国人に支配されているんじゃないかと、なんとなく邪推してしまう。

ところで中国といえば、大学生のころ中国料理に魅せられてから、もう40年以上ずっと、作ったり、食ったり、調べたりしている。

僕が好きだったのは、中国料理は、それがいかに絶大な権力を持つ皇帝の料理由来の宮廷料理であっても、そこに消されることなく刻印されている中国庶民の感覚だった。どんなに贅を尽くした高級なものにも必ず付きまとう庶民感覚。それこそが、僕が心に抱き続けた中国文化の尊敬と憧れの対象そのものだった。

それは広大な土地に生きる無数の庶民の群れと、それを統治する絶大な権力の間に共有、共感された文化そのものの姿で、それが中国料理の膨大な世界にいちばんよく表れていると思った。

これは、一神教のもとに人民主導の民主主義というフレームワークに行き着いた西洋圏と鮮やかな対照を成していると思った。そういう意味で、「僕にとって中国料理は別格で、西洋思想と対をなすもの」だったのだ。

昨今の状況を見ていると、この僕が尊敬する中国文化が、だんだん見えなくなりつつある。もし中国が、明示的には毛沢東から始まる唯物論に完全に侵されてしまったとすると、これは恐ろしい。庶民にはいまだに共感されている形而上的な感覚が、権力中枢とエリートたちから遮断されてしまったとすると、おそらく彼らエリートたちは留まることを知らずに突き進むだろうと思う。

ただ、それでも、僕はときどき中国本土を訪れ、そのへんをほっつき歩いて場末で食って飲めば、変わらず執拗に維持された中国庶民感覚にいまも圧倒されるわけで、こういうものが無くなるはずがない、と確信する。

でも、中国上層の人々は、いま、もういちど、孔子や仏教の国だったことを思い出し、その強靭な庶民感覚を上層エリートの世界にもきちんと持ち込んで欲しい。

実は、以上の事情は、日本もほぼまったく同じである点、同じ東洋の国という気がする。

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