思えば30年前の自分は、日本人を超反省好き民族と思っていて、まー、いま思うとそれは日本式左翼のことだったんだが(朝日とかNHKとか)、日本人は自己反省をし過ぎのバカ民族って、日本人を忌み嫌ってた。
他を批判する秘訣は、自分を棚に上げることだ、というのがそのときの自分の考えで、合理的な批判というのはそれを為す人間が根本的に対象に対して他人事でなくてはならず、それができないと、そもそも批判そのものができなくなる。そうすると、社会は弁証法的に機能せず、必ず低迷停滞する、と考えていた。
この考えは今も変わらずなのだが、昨今の日本のネットでの醜い喧噪を見ていると、こんどは日本人は最近、その自分棚上げ批判を中途半端に覚えたらしく、逆に、合理的思考を使って、他人をあげつらったり攻撃したり貶めてバカにしたり、ということをそこらじゅうでやるようになった。
一神教の神のいない民族が批判という西洋合理主義に基づいた方法論を猿真似すると、ああ、こういう結果になるんだ、って見てて思うわ。だいたいが、見苦しい。
そうなると、こんどは逆に、少しは自己反省というものをしたらどうだ、この糞日本人が、ってなるわけで、まー、オレは40歳になるまで、日本が大嫌いで、日本人は糞だ、という、いわば民族的自己嫌悪にかられた人間で、それは、上に書いたように、左翼的な意味での日本人の劣等性という呪縛のせいで誇りと優等性を持てないように骨抜きにされている同国人を見るのが耐えがたかったかららしいが、今度は現代になると、幼稚な優越感と粗雑極まりない論理を使って自己嫌悪から脱したような顔をしたやつらがそこらじゅうに見えるようになった。
今も昔も日本嫌いなのか、って思うと閉口するが、でも50歳を超えて、自分、ようやく大昔の日本文化を知ってねえ、それでアイデンティティ解決!みたいな単純な人間になった。ああ、よかったよかった。もののあわれの日本人、で、それでOK、みたいな。ここで、もののあわれとは何か、と問うことはバカげたことで、それはすでにそこに「在る」ものだから説明を要しない。それを基に、あとは多くのバリエーションが個性に応じて現れる。それでいいじゃないか、って思うようになった。
ここ最近、澁澤龍彦の「三島由紀夫おぼえがき」という薄っぺらい文庫がどっかから出てきたせいで、ぺらぺらめくっているのだが、本当に、心底、おもしろい。ああいう気品に満ちた知性というのが、いまのこの汚い現代日本にいちばん欠けているようにも見える。
ニヒリズム、そしてデカダンスが日本においては、いったいどのような形を取るか、ということが、いろいろ書かれている。いいなあ。