うちの近くにスウェーデンの大型病院がある。今日はよく晴れた暖かい春びより。駐輪場に自転車を止めようとして通りかかったら、日の当たる外に、車椅子に乗った婆さんがいて、タバコを吸っている。隣を通り過ぎるとき、その気はなかったが自転車の呼び鈴が鳴ってしまい、あしまった、と思って婆さんを見たが、婆さん、呼び鈴など気にも留めず、そのままタバコを吸っている。
ああ、もうこれだけ婆さんになると、大半のことはどうでもよくなるだろうし、周りで起こっていることの大半はきっとどうでもいいことになってるだろう。どうでも良くないことは、もう二つか三つあるぐらいで、後はもう関係ないんだろうな。
などと思いながら俺は自転車を停めて、日だまりの中を歩いていて、逆に考えたが、こうして婆さんや爺さんになる前の俺たちは、自分にとってどうでもよくないと思っている大量の事々に囲まれて生きてるよな。本当に大切なことは実はとても少ないのだ、などと言う気はないが、まあ、今の俺たちは、実に大量の物事に対処いけないといけない人生だなあ、と。
その昔、何百年か前の人々は、そんなに大量の事々に対処する必要などまったく無かったはずで、そんな時代だって、実際、同じような人間が、同じように、泣いたり、笑ったり、タバコ吸ったりしてただろう。
いま、仕事で、平安時代に描かれた絵巻物のデータを作っている。俺の大好きな、病草紙という、当時の病気を描写した絵巻物だ。風病を患ったという烏帽子を被った男が碁盤の横で目を回している。周りの女たちがそれを見て笑っている。このころの絵巻にはそうやって笑う女たちがここそこに登場するのだが、みな、本当に屈託のない笑顔をしている。男の眼を回す様子がおかしかったんだな、きっと。今の俺たちが見てもおかしく見えるだろう。でも、こんなに屈託なく笑うだろうか、今の俺たちは。
他の絵では、急性の下痢を催した女が縁側で、口からゲロを吐いて尻から下痢を庭に向かって水のように噴出している。その女を一人の婆さんが、しなびたおっぱいを丸出しにして介添えしている。別の女は部屋で煎じ薬を作り、赤ん坊がそのへんを漫然と這っている。庭にいる小汚い犬が嬉しそうな顔をして庭に撒き散らされた下痢の臭いを嗅いでいる。
まあ、呆れるほど、そのまんまな生き物たちの動きそのものだ。病人も、婆さんも、女も、赤ん坊も、犬も、ほぼ一つか二つの原理だけで動いている。そういう単純な時代の、単純な生き物の動きのその様子を、こうやって絵巻とかで見ると、不思議な気分になる。既に失われてしまったあれこれの動きなんだが、ただ、人間自体はそれほど変わってはいないとも思う。
大量の余計のなものがもし俺たちから去って行けば、きっと俺たちとて、この病草紙に描かれたプリミティブな人間に戻れるかもしれない。日だまりでタバコを吸っていた婆さんが、そんな感じにも見えていたし。
(Facebookに投稿した文)