なんかオレらしくない話だけど、DXの話。ていうか、そこらじゅうでDX、DXってうるさいぐらい。なんだろ、って思ったら、Digital Transformationの略だそうだ。で、なんで書いてるかというと、これを提案したのがスウェーデン人の学者と聞いたから。
で、その彼が「進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること」という、いつも引用される文句を提唱したそうだ。
うーむ。怪しい。なんでそんなこと言うかというと
デジタル技術を浸透させる「と」人々の生活が良くなる、という文になっているから。人々の生活が良くなる「ような」デジタル技術を開発し浸透させる、では無いということ。それが怪しい。
それに、DXは「Digital Transformation」であって、デジタルはいいとして、transformationというのはいい日本語が無いけど、それは「変容」であって「変身」であって、なにかをデジタル化するなんていう生易しいものではなく、transform(変換)するわけよ。まるごと、とにかく変えちゃうの。生活が良くなろうが悪くなろうが、丸ごとぜんぶデジタルに変換しちゃう、ってこと。
これねえ、スウェーデンに10年仕事生活してると、分かるんだよ。スウェーデンのやり方はそういうやり方なの。まずはじめに、後先をほとんど考えずに丸ごと変換してしまうの。で、見切り発車しちゃうの。そうすると大混乱が起きるでしょ。その大混乱を、人々の社会や政府への信頼感の大きさを利用して、みなにしばし耐えてもらって、うまく行かないところをこれまた見切りで、どんどん改良改造して行くの。で、しばらくたつと、多くの不満はあるものの、みな「ああ、あのときは大変だったなあ」で済んで、忘れちゃって、後々まで恨まない。で、あるとき社会を見てみると、見事に丸ごと変換が済んでて、人々もその新しい社会の上で快適に暮らしてんの。
以上のプロセスがネイチャーで浸透している人々だから、上で述べたようなDXを呑気に宣言して平気なのよ。というか、このDXはスウェーデンそのもの。これぞスウェーデン、お見事。といいたくなる。
同僚のSteven先生は、スウェーデンではなぜそれができるかというと、スウェーデンには長くて深い伝統文化があまり無くて、そのせいで障害がなく、それでできるんだよ、って言ってた(オレが言ったんじゃなくてStevenだからね、それ言ったの。スウェーデンに世界的な古典芸術家いる? いないでしょ、だって)
というわけで、長い長い伝統を持つ日本でこのDXをすると、まー、大混乱が大混乱のままになるだろうね。まあ、僕は日本で荒療治でそれをやっちゃうのには、むしろ賛成だけどね。でも、上述の通りなんで、覚悟しといた方がいい。