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出版と女性

思い出話ばかりしているけど、もうひとつ。

自分には1996年、およそ30年ほど前に自費出版をした経験があって、それはヴァン・ゴッホに関するエッセイ評論だった。自費出版を決める前、原稿を書き上げ、これを本にできないかな、と思い、まず、新聞社に勤めてる友人に相談した。どこかでこれを出版してくれるところは無いだろうか、と聞いたのである。

そしたら、彼、自分の知り合いに出版社に勤めている人がいるから、取り合えずその人に相談してみたら? と言い、その人を紹介してくれた。まだわりと若い女性だった。

どこぞの喫茶店で落ち合って、コーヒーを前に狭いテーブルに向かい合ったその光景をいまだに思い出す。

そのとき僕はたしか30代半ば、彼女は20代後半だったはず。

で、どうだったかというと、彼女、本を出版社から出版する、ということに関して、僕にその厳しさを滔々と説明した。なんのバックグラウンドも無い人が書いた文をいきなり出版社が出版するなどということはあり得ないし、書籍出版を甘く考えるな、という内容を延々と僕に気持ちよさそうに話してたっけ。それは、完全な「説教」だった。歳上の素人に説教するのが、業界駆け出しの若い彼女には、気持ちよかったのだろうな。

で、僕はもちろん何の反論もせず、なるほどそうですか、とごくごく素直に聞いていた。というのは、彼女の言うことは少しも間違っていなかったからだ。

というわけで、出版は無理みたいですね、みたいな結論で終わったのだが、その最後に、実はこれなんですけどね、と僕の原稿をいちおう相手に渡して喫茶店を出た。

その後、紹介してくれた友人に顛末を話してその件は終わった。そのころの僕のことだから、小娘に説教されたぜ、の一言ぐらい言ったかもしれない。

しかし、その後、どんな経緯だかなんだか知らないけど、しばらくして、その友人はその彼女と付き合い始め、僕は再び呼ばれて、今度は呑み屋かなんかで再会した。

そしたら、彼女、なんだかえらくバツが悪そうな顔をして、僕をなんとなく尊重して、立てて、謙虚に振る舞うのよ。あの、僕を滔々と説教した彼女はどこへ行っちゃったんだろう、っていう感じ。

それで思ったんだけど、彼女、あのあと、あの原稿を読んで、これはまずい、と思ったんじゃないかな。というのは僕の文章は素人にしてはかなり文学的でシリアスで、おそらく彼女が想像していたような思い付きで書かれたエッセイとかけ離れてたからだと思う。書籍出版は相変わらず無理なのは変わらないけど、自分が説教できる相手じゃない、と思ったんだろう。

僕は、格の上下はどっちでもいいんだが、逆に、あれだけ突如と態度を変えた彼女に好意を持った。それは素直で率直だということだし、君子豹変すの心を持った人だと思ったから。

というわけで、それ以降も、彼女との交流は続き、しばらく文通みたいなことになったこともあったっけ。しかしいつしかそれも途絶え、いまは彼女がどういう私生活を送っているのか知らない。

とある人の思い出

ふと思い出したが、大学生のころ常連で出入りしてたお店は、いろんな人が来る人間動物園のようなところだったが、そこに、笑顔がすごく可愛い美形の若い女性が来てたことがあった。

彼女とっても童顔的に可愛かったのだが、いざしゃべると、可愛い顔に似合わず、頑固で強い、しかし思慮の浅いステレオタイプな発言をする一般人的で、理知については残念な人だった。

笑顔があんなに可愛らしいのに惜しいなあ、などと思ったものだが、いま思えば、笑顔の方が彼女の地で、理知の方は若気の至りで背伸びして、そこにくっ付けただけだったんだろうな。

そのころ、僕は西洋絵画に夢中で、ポケット画集のFrom Giotto to Cezanneって洋書をいつも持ち歩いてた。で、あるとき、その呑み屋でその画集を取り出し、ああだこうだと皆にしゃべってた。

そのとき、その可愛い彼女が横に座ってて、それちょっと見せて、って言うんで、画集を渡した。

その画集は、ルネサンス以前の宗教画から始まっていて、最初の方のページには、前期ルネサンスの奇妙な絵がたくさん載っているのだけど、その初期の宗教画の数々の絵を見てる時の彼女の表情を、いまだに覚えてる。

侮蔑の薄ら笑いを浮かべながら、物凄い上から目線で馬鹿にしきったように、それら初期の宗教画をながめていたのである。僕は、へえー、こんな表情するんだ、この子は、って思ったけど、あまりのひどい対応に驚いた。

彼女が見ていたのは、たとえばオレの愛するピエロ・デラ・フランチェスカの描いた聖母と信者の絵だったりした。マリアが普通の人間の三倍ぐらいの大きさに描かれて、衣服を広げ、そこに小さなあれこれ信者たちが完全な無表情で祈りを捧げている図である。

極度の神秘と、宗教感情と、リアリズムの欠如であり、言ってみれば、現代人から見れば反理性的な絵である。

それをこんなに分かりやすい侮蔑を持って見る、って、いったいどういう人生を送って来たんだ、この女は、って、オレは呆れて見てたよ。

で、ページを繰って行って、ようやく彼女の眼にとまったのが、マサッチオのアダムとイブの楽園追放の絵だった。絵の中の二人は、今の人でも分かる、号泣と嘆きの表情なのだ。彼女、ようやく口を開いて

「この絵は、パワーがあるな」

と、言ったそのイントネーションまでいまだに思い出せるほど、それは浅はかな発言だった。

かわいい子だったけど、いまごろどんな人生を送ってるのかな。名前も忘れちゃったし、辿りようがないが。

ミッドサマー

友人が紹介してた映画の「ミッドサマー」。スウェーデンから撤退してしばらく忘れてたけど、この映画の題名を見て反射的に鮮明に思い出した。

この映画は怖い。

オレはスウェーデンに十年住んでいたが、現地で毎日見ていたスウェーデン人の振る舞いが、この映画にはっきり描かれていて、自分的に怖くて仕方なく、この映画、何度も見たよ。たぶん、今夜、改めて全編見ると思う。

スウェーデン人の何が怖いかは、たぶん、僕がいくら言葉であれこれ説明しても伝えるのは無理だと思う。ところがこのミッドサマーはそれを見事に描き切っている。

たぶん、こんなことをネイティブのスウェーデン人に言ったら気を悪くして、賛同しないと思うけど、極東のアジア人の僕がスウェーデンに長く暮らして、見て、経験して、感じたところのものは、この映画に描かれた「怖さ」なの。

実は日本人はあまり知らないと思うけど、スウェーデンは同調圧力の国です。しかし、その同調圧力は、日本人の同調圧力と、根っこが根本的に違っていて、同じ同調圧力なのに、こうまで違うか、と十年間で思い知った。で、僕から見ると、スウェーデンのそれは「怖い」同調圧力なの。

おそらく、ある種のスウェーデン人は、日本の同調圧力を見て僕と同じく「怖い」と感じるだろうと思う。よく自分は思うが、二次大戦の時のアメリカ人が、日本の神風特攻隊に対して本能的な恐怖を抱いたのと、同じものがあると思う。

根本的なところが異なっている生物同士というのが出会うと、相手に対する恐怖というのが、まず心理と生理の底の底から湧き上がってくるものだと思うが、その恐怖を極力見えなくすることを「文明」と言うのかしらん、とまで思う。

僕の十年スウェーデン暮らしは、結局、そこはかないけど、はっきりした苦手感覚で終わったのだが、その根底には恐怖があるんだよ。

あー、うまく説明できずもどかしい。でも、オレは「見た」んだよ。で、このミッドサマーという映画を初めて見て、オレ、狂喜したよ。これだよ、これ!って感じ。

スウェーデン人の人、読んでたら気を悪くしないでね。ある意味、これ、お互い様だから。

兼好先生

朝起きて、独りで徒然草を読んでいると、もののあわれのただなかに放り込まれるようだな。

オレ、よく兼好先生を引き合いに出すが、先生を付けるのはだてではなく、吉田兼好はオレの唯一の先生なの。オレは性格的に生きている先生はただの一人もいない。先生と呼べるのは兼好だけ。不思議だな。

かつて自分は兼好の残した境地を「明るい知性」と称したことがあるが、まさに、それ。これは比べるのもバカバカしいけど、徒然草とパスカルのパンセを並べてみるといい。それはもう一目瞭然だ。

おそらく、オレの読まない兼好以外のたくさんの日本の知性があるだろうが、兼好に出会ったからそれでいいや、と思っているところが、オレの極めて怠惰なところで、飽くことの無い好奇心を、実は自分は忌み嫌っている。したがって研究者失格。引退してせいせいした。

あれこれと忙しく詮索したり追及したりするより、鴨長明のように独居して方丈記を書いてる方がどんなにかいい、と思ってみたりもする(贅沢を覚えた自分には無理だが) 

枕草子も源氏物語もいいが、自分にはなんだか雅過ぎてね、合わないみたい。やはり徒然草がいいな。やたらと矛盾したことを言い散らす先生が大好き。雅な描写にも知性が染み渡っているのもいい。

生成AI

なんか生成AIから急速に興味が無くなったんだが、なんでだろうな。

オレ自身は日々、いろんなものを生成しながら生きているのでそれで十分で、機械に生成してもらう必要性を感じないからかもな。

これって、ひょっとすると、スウェーデンをすでに引退して、ゆくゆく日本も引退する、という人生のタイミングだからかもしれない。結局、自分が少し前まで生成AIを使ってみて、関わって、あれこれ考えていたのは、具体的な仕事が自分にあったからで、そのせいだったのだろう。それがなくなってしまったいま、あとは自分次第であり、自分の場合、AIは急速によそ事になってしまった。

いまは、オレはオレだけの身一つで、なんだって生成できる。そう考えればAIなんていう稚拙なマシンは不要になった、ということなのかな。

あと、もうひとつ、オレ、現AIの裏で行われている「リベラル縛り」がイヤでたまらず、現在の生成AIから出て来るものはすべてその制約の中の生成であり、読んでも、見ても、聞いても、極めてどうでもいいもの(僕基準で)しか出て来ないと感じる。そのせいで、AIを見限ったのだろう。

たとえば、僕が、それでもまだよく利用するOpenAIのChatGPTを使っていると、そのリベラル縛りがよく感じられる。使ってると紙背にサム・アルトマンの顔が守護霊みたいに浮かんでくる(笑) 画像生成の方は、ChatGPTほどひどく感じないが、やはりなにかリベラルな人々が好きそうな絵に引きずられる傾向があって、古典絵画野郎な自分はときどき、出て来た絵にイライラして、放り出してしまう。

もちろん、以上はAIの問題ではなく、生のAIに被せたアラインメントの問題なのはわかっているが、こちらからは手の出しようがない。

これを克服するには、自分でAIを構築し直す必要があり、おそらく世界で、日本で、多くの研究者が取り組んでいるだろう。きっと、ChatGPTやDALL-Eなどなどリベラル臭芬々なAIと、ぜんぜん異なる生成AIがこの先、巷にあふれるだろう。

しかし、そうなったらそうなったで、これまで数に制限のあったアーティストが巷に溢れかえるということになり、そんなに大量のアートを、ひとりのオレが関われないよ、ってことになり、またまた興味が薄れそうだ。

というわけで、オレはもう「生成オレ」で十分なので、それでかなりしばらくは生きてゆくよ。