汎用人工知能(AGI)

これはずっと前から言っているのだけど、脳の機能というのは「制限する」ことだと思う。僕の感触では、生物には、本来はおよそあらゆるものがすでに見え、感じられていて、脳や、目とか耳とかの器官というのは、その、世界にすでにある、あらゆるモノが生物に無尽蔵に流れ込んで来て起こる無意味な混乱をせき止めて、それを生物の行動にとって意味ある知覚認識になるように「制限」をかけている器官の数々だと思う。

この考え方は、フランスの哲学者ベルグソンのもので、彼がこうしたアイデアを唱えたのはいまから百年以上前のことである。僕は彼の著作を何度も読むうちに、正確な理解は難しいながら、世界に対する全体的なイメージ図を、このベルグソンから引き継いだのである。なので、そういう意味で、上述は僕の単なる思い付きではない。

たとえば、麻薬やある種の薬物は人に幻覚を引き起こす。これらの物質は脳に働き、脳の機能を麻痺させる、あるいは過度に活性化させ、脳の機能を狂わせ、それによって幻覚を起こす、と一般には考えられていると思うけど、上述に照らすと、それはちょっと違うと思う。これら薬物は、脳の外界を制限する機能の一部を破壊して、その部分を無防備にするのだと思う。そうすると人の周囲の外界にすでに存在している錯乱が、脳で止められることなく、意識に侵入してくる。それで幻覚を見るのである。

この事情は、およそヴォワイヤン(見者)系の芸術家なら自らの経験からよく知っているはず。それは、ヴァン・ゴッホでもいいし、ランボーでもいいし、モーツァルトでもいいし、ドストエフスキーでもいいだろう。

だから、昨今のAIに関する議論で、AGI(汎用人工知能)が出来る、出来ない、いや、すでに出来ている、と、喧々諤々の騒ぎだが、僕にとってはAGIの議論ほどバカバカしいものはない。

前述の考え方から言うと、「知能」というのは、「人間」により作られた「制限」そのものに過ぎない。したがって、その知能をAIで実現する、というのは、単に人間がどのような知能という制限をAIに課すか、というだけの問題で、現在取りざたされるAGIは、お話にならないほど狭い人間的活動だけをターゲットにして、それを実現するために必要な制限を作って掛けているだけに過ぎない。

人間の広大な認識思考は、知能という制限をはるかに超えている。知能がAIで実現され、AGIができあがって何かいいことがあるかというと、それはひとえに、そういうお話にならないほど狭い知能というものをもって、人間は知能を持つ優れた存在だとする、そういう愚かな、主に科学主義な連中をAIに置き換えて、世間から一掃させることぐらいしか思いつかない。

彼らは単に、自分で自分の首を絞めて、自分らを世の中から抹殺しようとしているに過ぎない。どういう料簡なのだ、と思う。

ところが、そういう彼らは、自分たちはAIを一段高い見地から見て論じている、という自負があるせいなのか、自分たちはAGIでリプレイスされない層にいると信じて疑っていないように見える。でも、たぶん、AIが進歩すれば、もう彼らみたいな知識層は不要になる。理由は、AIと同じで、彼ら、下らんことしか言わないからだ。

でもそれは、彼らという「人間」が不要になるわけではない。不要になって置き換えられるのは彼らの「知識層としての仕事」だけであり、彼らという人間はそのまま残り、その後も、飲みも食いもして、泣いて笑って生活する、そんな人生は続くわけである。めでたくAGIが実現してシンギュラリティが来て、彼らのつまらない学問知識をAIに委譲して、ようやく彼らも「人間」に返るのか、って思わず言いそうになる。

で、これが皮肉ならカワイイもんだが、シャレにならないほどそのまんまかも、とついつい思ってしまう。

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