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むかしの偏屈技術者

いまから十数年前、たまたまNHK放送技術研究所の一般公開へ行った。その展示の最後の方に、NHK放送博物館のブースがあって、そこで、昭和の当時に使われた真空管の白黒テレビカメラの映像を真空管のブラウン管モニターにリアルタイムで映すデモをしていた。で、そのブラウン管に写った白黒のカメラ映像が、ものすごく生々しい独特な味があって、すごく感心してずっと見ていた。

解像度、ノイズ、焼き付き、などなど、いわゆる画質はひどいものだったが、その絵は確かに生きていた。僕らは、生き物を見たとき、それが生きているか死んでいるかすぐに分かる、生き物としての直観を持っているが、それに照らすと、あのボロボロに汚い白黒画像は確かに「生きて」いた。

あれから六十年以上がたち、テレビ技術は劇的に進歩し、現在は8K解像度の時代である。自分は仕事がら、この8Kの映像をずいぶん見ているのだが、正直言って8Kカメラの映像は、絵が全体に汚れていて、味が無く、美が無く、先の白黒テレビカメラの絵が生きているとするなら、8Kの絵は完全に死んだ絵に見える。実は、開発技術者たちが、なんであんな絵を出して平気なのかどうにも分からない。

もっとも、それら映像システムを設計製作している技術者は、優秀で、根気よく、真面目で、スペック通りの機器を作ることにかけては何らの問題も無いことは確かなのである。だから、こうしてこき下ろすのは気が引けるが、やはりあえて言っておきたい。出て来る絵があれでは、どんなに高スペックを並べても、少なくとも自分にはなんの説得力もない。

実は、自分は、技術者に美意識がないからこうなるんだと予想している。

そんな、映像を扱う技術の話をしていると、僕がかつていたNHK技研のむかしを思い出す。僕はあそこに20年いたけど、その最初のころが今から35年ちょっと前の大むかしである。その当時はまだ古い社屋で、ロックがなく誰でも出入り自由だし、売店はあるわ、床屋はあるわ、寝泊りしてる人はいるわ、と言い出すと切りがないほど、相当に気ままな場所だった。

まあ、それは昭和だから当然なんだが、そういう場所の当時の研究所には、偏屈で癖のある名物先輩みたいなのが、けっこうな数いた。そしてそういう先輩らは部下に対し、今で言えば、パワハラ全開でもあった。僕は幸い、それらすべての名物先輩たちになぜか可愛がられており、僕が何をしても「林なら仕方ねえか」と見逃してくれたりで、実害はゼロだったが、周りの研究員は大変だったらしい。

で、そういう偏屈先輩の多くは当時、主にハイビジョン(HD / 2K)の研究開発をしている人々で、僕は彼らに画質の見方とかを教わったのである。すでにそのころ、自分は絵画鑑賞野郎だったので、絵の良し悪しは分かったのだが、画像を、信号波形上、そしてモニター上で、分析的に見る方法を実地でいろいろ習ったわけだ。

あのころの技術者も、たしかに、解像度やノイズやダイナミックレンジなどなどのスペックの向上を主に目指し、官能的な意味での画質にはそれほどこだわらなかったようだが、そのスペックの見方が技術的な意味で微に入り細に渡りだった。かすかな傷を見つけただけでも、あっさり却下する、その厳しさゆえ、スペック以上の最終画質が必然的に得られていた時代なんじゃないかと思う。

思い出すが、皆が大型のハイビジョンモニターの周りに集まって、画面から5センチぐらいまで目を近づけて、なめるように絵を見て、「これだ、ここがおかしい! やり直し!」とか、寄ってたかってダメ出ししてたっけ。そういう職人気質が、結局、クオリティを担保していたのだろう。彼らの大半は純技術者で、映像美とか芸術作品とかに詳しいようにあまり見えなかったが、技術的ハードルの設定が非常に高く、おそらくそれゆえに、絵の最終的な芸術的価値を取りざたせずとも、よいものが作れたのだと思う。

そういや、あのころはアナログからデジタルへの変換期にも当たっていて、当時の技術者はみな両方、設計・製作できていた。特にアナログ回路技術の知識は重要で、そこがダメだとまともな絵は出ない。光を電気に変えるイメージセンサーは今現在であってもアナログ部品で、出て来るのはアナログ信号。そこの回路設計と実装が甘いとそもそもまともな絵にならない。

当時は、はんだ付けして基板を作って配線して、というのは普通のことだったし、はんだ付けのプロみたいな人もいたっけ。思い出したから書くが、そのころの技研には僕よりたぶん十(もっとかも)ぐらい上の田村さんっていう常駐の業者の人がいて、技研試作機のはんだ付けを一手に引き受けていた。おそらく来る日も来る日もはんだ付けをして30年以上、とかそういうレベルの超職人芸だったと思う。昔の人はすごかったなあ。

またまた思い出したが、その田村さんはずっと技研勤務だったので、幾多の優秀かつ偏屈な技術研究者を見てきたわけだが、彼に、「私は技研でたくさんの秀才を見てきましたが、天才は林さんだけです」って言われたっけ。へえー、天才ねえ。お世辞を言う義理もないはずだが、たぶん、僕が、技術ができて、ギター弾いて、中華料理作って、絵を描いて、とマルチだったからそんなことを言ったんだろう。

ま、とにかくだ、研究所はすっかりさま変わりして、以上の混沌とした雰囲気は、もう、無い。それでも面白いものやいいものが作れているなら、それに越したことはないのだが、僕は今の研究所の現状をあるていど知っているが、残念ながらそうなっていない。

エントロピーはほっとけば増大するって、ホントなんだねえ、ははは。

太宰治

嫌いだった太宰治の「嘘」と「家庭の幸福」という短編2つを読んだ。太宰を見直した。素晴らしいではないか。いや、素晴らしいなどという立派なものというより、人間と心理、それを取り巻く社会、そして世界についての、極めて正確なリアリズムそのもの。理想や思想や信念信条やらという、いわゆる「男々しい」ものが、潔いぐらい欠片もない。

しかし、自分はなぜ太宰治が嫌いだったか。

太宰を初めて読んだのは20代で、それは、太宰好きな友人が貸してくれた中編小説の「人間失格」だった。有名な小説だが、まあ、あんなものをよく好んで読むもんだ。当時の僕は、文学ではドストエフスキーに夢中であり、同じようにどうにもならない泥沼な人間模様を描いていながら、どうしてここまで違うものか、と思った。

人間失格を読み終わり、確か自分、すごく腹を立て、日記に罵倒の言葉を書き付けた覚えがある。以下は原文がないのでうろ覚えである。なにせ40年前のことなんでだいぶ事実誤認があるだろうが、そこはご勘弁。

人間失格の小説の中ごろに、無邪気で優しくあどけない娘が出てきて、それまで大変な人生を歩んでいた主人公は、その娘と所帯を持ち、ようやく安息の日々が訪れる。しかし、何年かの平和な日々ののち、その日が来る。主人公は外でしたたか酔っぱらい、グルグルとなにやら考えながら家に着いて、襖を開けると、出入り業者のおっさんが妻と姦淫の真っ最中だった。結局、無防備な妻が強姦されたと知る。その後、悪いのは妻ではないのだから、妻を責めることはせず、いろいろ慰め、またもとの楽しい生活に戻ろうとするが、主人公がどんなに努力しても妻は臆して元へ戻らず、夫に対しいつもビクビクし、笑いも無邪気も消えてしまい、結局、夫婦は破綻する。

しかしひどいプロットを作るもんだ。そして、こういう醜い人間模様を描かせると太宰はまさに天才で、その技量に僕もそのときやられたのだろう。

主人公は、妻の姦淫現場に至る道で、酔っ払った頭で考えるのだが、それがドストエフスキーのことなのである。ドストのあの錯綜した人間劇が、もし、くっきりとした人格を持った人間たちが織り成す悲喜劇などという体のいいものではなく、ひょっとして、あのドストの描いたドロドロの人間模様そのものが、単にこの世のあるがままの姿だとしたら? 救いなどはどこにもない永遠の泥沼だとしたら・・・

そしてそうぐるぐると考えた直後、彼はその場に遭遇するんだ。

これを読んだ当時の僕は、

「この野郎、何を白ばっくれてやがる、何がドストの青ミドロだ、この、偽善にも達し得ないような弱々しく意気地のない屑野郎が。そしてこれははっきりしているから言うが、そのとき、お前の愛する、というより愛玩するお前の妻を辱しめるために、あの中年男を裏でけしかけたのは、お前だろ! お前だ! お前以外の誰だって言うんだ!」

と、まあ、20代の若いオレはそう反応したわけだ。この、僕が反射的に喝破したあまりに醜い構図ゆえ、そのときオレは、太宰治を人間の屑認定し、それ以降彼の小説を一切読まなかった。

あれから40年(きみまろ風にて)

オレの30代、40代、50代、そしていま60代の半ばだが、自分としては大変な40年であった。そしてそのオレの人生の変遷は、どう考えても、太宰のそれに似る。こんなところで懺悔したくないので説明はしないが、結局、太宰さん、オレはあなたと同じ筋の人間でした。太宰が屑ならオレも屑、というか二人とも屑。

これは決してオレという人間が、太宰という人間の大きな度量の手の平の上で右往左往していただけ、とかいうよくあるケースじゃない。オレたちには同じ血が流れている、という意味だ。

太宰が生きてたら牛鍋屋かどっかで酒を呑みながら

「太宰さん、俺たちって屑ですねえ。まさに屑の再生産じゃないですか、ハハハ」

とか言って、まったりしそうだ。

しかしまあ、これで終わるのはさすがに忍びないので、ひとこと言っておくと、この屑ぶりは、何千年以上にも渡って日本の庶民が培ってきた平民の民族性に属している、と自分は思っている。

そう思いませんか、太宰さん?