月別アーカイブ: 2013年11月

テクノロジーピープルとアートの素養

「それにしてもテクノロジーピープルはいい加減きちんとアートの古典を勉強するべきだと思うよ、マジで」

なんていうきいた風な口をきいてツイートしたんだけど、あまりにあいまいで、あと、このツイートの後

「これからのテクノロジーにはアートの素養が必要だとかクソ真面目な意味というよりは、テクノロジーピープルと称される人々はアートを学んで自衛しないとますます食いものにされるだけだよ、というぐらいの意味。」

などと補足したが、これじゃ余計にわけが分からないので、ちょっとここで補足しておこうか。

実は、この手の警句じみたあんまり意味の取れない文句は、書いている自分もあんまりはっきりした意味なしに書いているのである。というか、なんとなく思いつきのカンで書いているのであり、この文句につき、自分にはっきりと主張できる意見というものがあった上で書いてるのではないのである。

ただ、いずれ自身のカンから出た言葉なので、カンが間違っていなければ、あとから自分の言葉を補足したり、解説したりはできるはずで、もしそれが出来なかったとしたら、単に口から出まかせを言うやつということになってしまうわけだ。もっとも、それもいいのかもしれない。ひょっとすると世の中のかなりの「目立つ人間」は、そういう一種無責任なノリで発言をしているかもしれない。いや、たぶん、そうだろう。しかし、それはまた別の問題だ。

ただ、この言葉、知り合いの若い子が少し反応してくれたんで、やっぱりいわゆる「解題」を書いておこうかな、と思ったのである。

ただ、本音を言うと、書きにくい。自分は仕事がらテクノロジーピープルの一員なのであり、僕のいわゆる仕事仲間もテクノロジーピープルが多いわけなのである。その人たちは自分の知り合いなので、なんだか、この「少しはアートの勉強しろや」ってのが、その人の中の誰かを指して言っているように思われかねないからである。でも、そんなことを言っていたら、なんにも言えなくなるし、面白くもないので、この個人ブログにでも書くか、ってところである。むろん、誰それを名指しで批判したりしているつもりもなければ、悪意もまるで無いのだ、と前置きしておこう。この先、読むんだったら他人事だと思って読んでほしい。あるいはもし思い当たるふしがあるのなら僕のような年配からよくある苦言かなんかだと思ってもらってもいい。

実は、なんで冒頭で紹介したツイートみたいなことを言いたくなったかというと、先日、学会から放送のインタラクティブコンテンツについて書いてくれと頼まれて原稿を書いたのだが、その最後の方に、こんなようなことを書いたのである。

「テクノロジーがアートで終わってしまってもいいじゃないか。それにしても、これからのテクノロジーはますますアートの素養が必要になって来るだろう。ただ、そのテクノロジーアートが本当に開花するのは、テクノロジーピープルがアートの素養を身に付けたあかつきの、そのまた後になるだろう」

これを書いたとき、僕の頭の中に、かのスティーブ・ジョブズがあったのは確かだ。彼はテクノロジーピープルではなく、基本、クリエイターでありアーティスト系の人間だろう。その彼が、テクノロジーの最先端を率いて自身のアート的理想を注ぎ込んで、かの世界の賞賛の的になった発明を生み出したわけだ。僕は、ジョブズのファンではない。むしろ、テクノロジーピープルの一員として、ジョブズみたいな傍若無人な人間と働くのは、はっきり言ってごめんだ。

まず、一つ言えるのが、ジョブズが自身のアート的理想をきっちり具現化できるところまでテクノロジーが進歩した、そんな現代の世の中になったということだ。すでに現代ではテクノロジーとアートは切り離すことのできない代物になっている。そんなときに、テクノロジーピープルが昔のまんまのナイーブな「技術者」に終始していた場合、単にわけも分からずクリエイターたちに利用され、それで終わっちゃうだろう、と思うわけだ。

特に心配になるのが、堅物の技術屋ならまだいいんだが、自分がテクノロジーを提供してアートの理想の実現に一体となって参入している、という一種のロマンチシズムを持っている人だ。ジョブズが分かりやすいので、まだジョブズを引き合いに出すが、ジョブズの抱くクリエイター的理想の実現にテクノロジーを提供して全力を尽くし、偉大なアーティストを信奉して貢献する、という光景はうるわしくはあるのだが、もし、そのテクノロジー人間が当のアート自体をはっきり認識し理解しておらず、単にアートという言葉の響きにロマンを感じる程度の場合、なんだか見ていて気持ちがよくない。

これは自分の憶測だけど、そういうアートに対するロマンを抱いたエンジニアって、けっこう存在しているんじゃないかと思っている。それで、そういう人が情熱的で、いい人で、素朴だったりすると、ますます救えない感を自分は抱いてしまう。

だって、アートって、エゴなんだぜ。実はアートって恐ろしいもので、通常、有害なものなんだぜ。

この基本をテクノロジーピープルが理解していない場合、いいようにアーティストのエゴの犠牲になる図式が見えてやりきれなくなる。まあ、本人、それでいいのだろうし、他人の俺が介入する余地はないだろうし、理想に向かって身を粉にして働いているのだから、本人幸せだし、達成感もすばらしいだろうし、文句は無いはずなのだけど、エンジニアのひとりとして自分が見ると、どうにも嫌な光景に映ることがある。

アートを高尚だと思い込むのも、ナイーブなエンジニアの悪い癖で、高尚なものに奉じているのだから、それで幸せなんだか、あるいは、その高尚さで貧弱な自我を隠して見えないようにしたいんだか知らないが、心理学的に問題を感じることもある。

ということで、エンジニアにはぜひ、アートの古典を勉強して、エゴなアーティストにタダでいいように使われないようになって欲しい、と思うのである。あるいは、別に使役されていてもいいが、自分が本当には一体何に、どのような経緯で、使われているか、自身で正確に把握して、仕事してほしいのである。それならいい。生きるためだもの。

さて、僕のツイートで言うところの「アートの古典」の「古典」という言葉についてだが、古典といっても、ルネサンスからレンブラント、バッハからモーツァルトとかの古いことを言っているわけじゃなくて、近代以降のことである。絵画だったら印象派以降、特に、フォーヴィズム、表現主義、ダダ、キュビズム、シュールレアリスム、ポップアート、などなどのモダンアートが出たところから後である。歴史で言えば近代史ということになると思う。ただ、その、伝統に基づくアカデミズムに反逆するモダンアートというものが、どんな背景で生まれたかについて正確に理解するにはルネサンス、あるいはもっと前からひも解く必要があるわけだが、そんなことしてたら美学生みたいになっちゃうわけで、そこまではやることはないと思う。

僕の頭の中にあるのは、やはり、昨今のテクノロジーアートなのである。このテクノロジーアートは、昨今、なんだかホントに食えない代物になりつつあるような気がする。アートっていうのは、単に新しいことやればいいわけじゃなく、単に面白いことやればいいわけじゃなく、単にテクノロジーをアートっぽく移し替えればいいわけじゃなく、それだけではダメなんだが、実際に氾濫するテクノロジーアートの大半は、それである。

そりゃあ、数うちゃ当たるわけで、中にはいいものもあるし、そういう混沌とした世界から次世代の新しさ、というものが生まれる、と言ったっていいけれど、僕はあまり賛成しない。ただ、むやみに楽しいからってテクノロジーをいじって珍奇なものを大量生産している光景は、見ているとげんなりする。特にテクノロジーの一般人たちに、少しの新規アイデアさえあれば作品まで持って行ける環境とスキルがかなり簡単に付与されているせいで、この光景は拡大している。

とある古株の先生が、いつだったか、NHKで、ダビンチの最後の晩餐をフォトショップでレタッチして、元の画像を復元した、というのをやっているのを見て、それこそ頭から湯気を出して怒っていたことがある。芸術に対する冒涜だ、というのである。ここでは、当の行為が冒涜か否かはそれほど大事じゃなくて、問題は、「冒涜だと怒る人間の感覚」の方であり、「フォトショップレタッチでダビンチの真相を再現したいと思う人間の感覚」の方なのだ。すなわち、その人の日常感覚が、アートにかかわる行為を見たとき、それに対して「心理的に、無意識的にどう反応するか」ということである。

すなわち、ダビンチの作品を巡って「行動する人たち」の感覚の問題なのだ。僕は、ここで、即座に反射的に、冒涜だ、と怒る感覚を大切にしたいのである。本当に冒涜かどうかは後で考えればいい。そういう心が、大切だというのだ。

それにしても、別に何をレタッチしても構わないが、ただもう無邪気に、ダビンチという古典の大芸術家の真相に近づくために、フォトショップというテクノロジーを使って、それを解明したい、という、その「無邪気さ」は、本当に救えない印象を与える。無邪気なのだ。素朴なのだ。善意なのだ。何にしても、「いい人」がそういうことをするのが一番救えない感じを持つ。悪いやつは何をしてもいいが、いい人がただもう無邪気に下らないことをする、というのは何という害悪だろう。

たとえば、そういう善意の人たちって、モナリザにヒゲのいたずら書きをしたマルセル・デュシャンとか、ちゃんと知っていて、それでその行為をちゃんと理解しているだろうか。アンディ・ウォーホルがキャンベルのスープ缶のシルクスクリーンを刷ってアートだと言って量産したときの、そこに群がった人々の喧騒とウォーホルの孤独をちゃんと感じ取っているだろうか。そんなはずはないと思う。

テクノロジーピープルって、ピープル呼ばわりしたのは、一般人のことを言っているからだ。エンジニアの中にも抜群のセンスの持ち主は一定数必ずいる。そういう飛び抜けたエンジニアは、アートの古典は理解しているし、仮になんにも勉強したことがなく、古典など知りもしなくとも、そういうことはカンで理解しているものなのだ。だから、そういう少数の優秀者は放っておけばいいのである。問題は一般人の方だ。さっき、そういうエンジニアピープルがアーティストにいいように使われるのが忍びないと言ったけど、今度は、そのエンジニア自身がアーティストになりテクノロジーアートを作り出している場合は、忍びない、だけじゃ済まなくなる。

もうこれ以上は言わないが、頼むから、そういう人々に、モダンアートの歴史を勉強して欲しい。そして、そのモダンアートの作品の意味を理解できるようになって欲しい。今の現代の僕らが、無邪気にテクノロジーでめちゃくちゃなものを作って遊んでいられるのも、過去のモダンアートの黎明期に、多くの才気あふれる芸術家たちが、伝統を受け継ぎながら、それと戦い、そして苦々しくも厳しい実践を経て、それで勝ち取った歴史があるがゆえだ、ということを認識してほしい。彼らの多大な知的努力の上に、これらのほほんとしたテクノロジーアートが許されているのだということを知ってほしい。そして、無邪気な僕らのアートとて、そういう過去の芸術家たちの筋金入りの理性と理論が、今でもその裏を支えているのだ、ということを認識してほしい。

以上が、自分がテクノロジーの人たちもモダンアートを勉強した方がいい、という言葉のだいたいの意味なんだが、まあ、ここまで書いてみると、もうどうでもいいかもしれない。こんなに一生懸命に言ったところで何が始まるわけでもない。というか、古い世代の人間の言うことであり、俺も若い世代に説教をする年頃になったか、というだけかもしれない。自分は説教は得意じゃないし、好きじゃない。ただただ、見ていていらつくことがあるので、その意趣返しに書いているだけだ。

僕の仕事は、実は、まさにテクノロジーアートなのだけど、自分は、正統派として、現代の趨勢の否定と、伝統からの脱出、をかかげて仕事するよ。それをテクノロジー界で自らがきちんと示すことが大切だ。愚痴を言っている場合じゃないし、啓蒙はがらじゃない。このへんにしておこう。

三島由紀夫のこと

(Facebookに投稿した文)

お袋が三島由紀夫についてツイートしていたので、ついついまた思い出して、少し過去をあさってしまった。

そのツイートも、三島由紀夫が大大大嫌い、というもので、お袋らしい(笑) 一方、もと文学青年だった死んだ親父は、三島由紀夫の初版本を持っていたり、もちろん相当の敬意をいだいていたはず。息子の俺はというと、三島本人と、三島の小説と、三島の言う日本については、実はどうしても生理的に受け付けないのだが、理性では受け付ける。三島の文学の凄さは少し読めばすぐに分かる。ああいうのを天才、そして異彩というのだ、と言いたくなる。三島の日本論も理屈は分かるし、賛同するところも多い。

しかしながら、生理的にダメなのはいかんともしがたく、俺は三島が好きだ、とはとても言いがたい。この父母にしてこの子あり、といったところだろう。

そういえば昔だれかが、三島由紀夫って名前、なんか青春っぽいよね、あれじゃ40歳とか過ぎたら恥ずかしいよね、って言ってたっけ。

そうだ。東京の僕のうちには、三島由紀夫と東大全共闘の討論を記した本がある。対話がそのまま書き起こされていて、最後に、討論を終えた後に、三島と全共闘がそれぞれ書いた文章が並んでいる、そんな本だ。この本、よく、寝る前に寝床で読んだっけ。何だか、これが好きなんだ。

この討論会は三島自決の1年前のものなんだ。YouTubeでは討論を撮ったフィルムも見られる。動いている三島だけど、さっき書いたように自分は生理的にダメなんで、閉口する感じで見るんだが、自分の前ふり演説が終わって、次に学生がしゃべっている演壇の片隅に座って、うまそうに煙草を吸いながら、学生と一緒に笑うその姿は、やはり惚れ惚れとしてしまうし、いま見るとどうしても泣けてくる。

三島由紀夫が演壇に立ったとき、「灰皿はないんですか? ここは煙草ものめないの?」「床にどうぞ」「ああ、そう、床ね」という会話があったようで、このさりげない会話が何だかこのあとに続く相当に混乱した対話に先立つ、ピアノの最初の一音みたいで、それが大好きだった。

さっき、名前が青春してる、って書いたけど、こういう討論を見ると、三島も学生も若い。物理年齢のことを言っているのでも、個人の精神年齢のことを言っているのでもなく、彼らと、彼らをそのとき収容した東大の教室の空間と、空気と、すべてをひっくるめて、その時代そのものが若い。

ノスタルジーなんだろう、たぶん。だから間抜けにも泣けてくるんだろうが、今どきの日本に、こんなピュアな人間たちがどこかにいるんだろうか、と、見ていると言いたくなる。どこを向いても金と私欲と偽善と嘘ばかりで息が詰まる、と言えば言いすぎだろうが、しかしやはり過去は戻らないんだ。

まあ、だから懐古趣味ってわけだ。

でも、ひょっとして、もし、それがただの懐古趣味じゃなかったとしたら? 実は、日本が本来、いまこそ取り戻さないといけない「精神」だったとしたら? その日本精神を蘇らせることこそが未来の俺たちが正しく再生する道だとしたら?

そして、もし、その精神が「絶望的に失われつつあり、蘇生が完全に不可能なもの」だということが動かしよう無く、厳然たる事実だったら? そのときは、いったい、どうすればいいのか。

これは俺の自分勝手な三島自決解釈なんだけど、以上のことを三島はその中に持っていて、それで自決したのだと思う。そのせいで、自分は昔、三島の自決は「日本との心中だ」と書いたんだ。すでに当時、ずたずただった日本を見て、こんな日本を楽に死なせるのに人手はいらん、俺一人で十分だ、と思ったのではないか。一見、当時の堕落した日本と刺し違えて散ったように見えるけど、その実は、愛するからこそ殺した、つまり心中に近い行為だったんじゃないのか。そう思ったのである。

そして、その自分の考え方は今も変わらず、三島の割腹自殺は、それこそ江戸時代の心中もののように、ただただ、痛ましくて、悲しい出来事に見える。

彼ほどの人間が、その当時の日本の趨勢と、向かおうとしている方向を見誤るなど、俺はあり得ないと思う。誰よりも正確に把握していたと思う。だから、当然、自衛隊駐屯地に閉じこもり、広場に自衛隊員を集めさせて、檄文を撒いて、バルコニーで一人演説したときも、彼の言うことに賛同する自衛隊員など、まず皆無であろうことは、彼が一番よく知っていたはずのことだ。

したがって、最初からの覚悟の自決なのは間違いない。自ら作ったストーリーに沿って死んだわけだ。そういう意味では、この行為は三島の創作の一つであり、文学的な、個人的なものである、という風に片付けるのが、まずは、順当ということになる。

時の首相は、狂ったか、とコメントしたわけで、たしかに、それが順当な解釈だ。

でも、もし、気違いじゃなかったら? 狂ってなかったら?

そうしたら、今この現在に、私は正気でござい、とのほほんと暮らしている自分は、三島に涙したりして、いったいどうしようと言うのか。こういうものは、まるで棘のように、心のどこかに刺さったままになっているんだろう。まあ、死ぬまでの間、人生逃げ切れば、それで結構だろう、と日々忙しく上の空で生きているわけだけど、そんな自分にも、こんなような棘がたくさん刺さっていて、突然何かの拍子で痛みが走るのだ。

それで、改めて気付くんだよ。俺たちの過去に、こんな人がいたんだということを。痛ましいじゃないか、悲しいじゃないか。そして、切実に思う。三島さん、なんで、いまこの現代の日本にいないんですか、なんで死んじゃったんですか、と。

以上、死んだ親父譲りのノリで考えるとこんな感じ。

で、今も元気なお袋のノリで考えると、三島って、生理的に、大大大嫌い!(笑

三島由紀夫vs東大全共闘:http://youtu.be/Eo6o2WDl88k