兼好先生

朝起きて、独りで徒然草を読んでいると、もののあわれのただなかに放り込まれるようだな。

オレ、よく兼好先生を引き合いに出すが、先生を付けるのはだてではなく、吉田兼好はオレの唯一の先生なの。オレは性格的に生きている先生はただの一人もいない。先生と呼べるのは兼好だけ。不思議だな。

かつて自分は兼好の残した境地を「明るい知性」と称したことがあるが、まさに、それ。これは比べるのもバカバカしいけど、徒然草とパスカルのパンセを並べてみるといい。それはもう一目瞭然だ。

おそらく、オレの読まない兼好以外のたくさんの日本の知性があるだろうが、兼好に出会ったからそれでいいや、と思っているところが、オレの極めて怠惰なところで、飽くことの無い好奇心を、実は自分は忌み嫌っている。したがって研究者失格。引退してせいせいした。

あれこれと忙しく詮索したり追及したりするより、鴨長明のように独居して方丈記を書いてる方がどんなにかいい、と思ってみたりもする(贅沢を覚えた自分には無理だが) 

枕草子も源氏物語もいいが、自分にはなんだか雅過ぎてね、合わないみたい。やはり徒然草がいいな。やたらと矛盾したことを言い散らす先生が大好き。雅な描写にも知性が染み渡っているのもいい。

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