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理科系の輩への愚痴

僕は物理を初心者に教えるときにいわゆる比喩を使うのに反対。余計に分からなくなる。

というのは、物理学というのは、もうすでに比喩なのであり、それをまた別の比喩で教えると、比喩の比喩になり、また、教える理科系の輩もさまざまなので、自分勝手な比喩をやたら作り出し、そのせいで比喩の比喩が乱立し、ほぼ収集が付かなくなる。それなのに、それらセンスのない理科系の輩は、自分の一種の創作である比喩を、極めて愉快に楽しそうに初心者に与え、自分で自分の創作に悦に入ってる場合がほとんどだ。イタイってのはこういうときに使う言葉だ。

なんでこういうことが起こるんだろう、って、オレはどうしても考えちゃうよ。

たとえば、で言えば、電気の説明。電気の場合、定番の比喩は「水」を使うことである。ある電圧を持った電池には電位があり、その電位差のあるものを導線でつなぐと電流が流れる。この、電池、電圧、電位、電流、というものを説明するとき、水を使うのは定番中の定番。高いところに水があると、その水は下に向かって流れる。そしていちばん下に行った水をポンプでくみ上げ、また上に持って来る。その上下の中の位置を電位、上と下の距離を電圧といい、流れる水が電流、そしてポンプが電池であり、なんらかの仕事ができるパワーを持ったものである、とかとか説明する。どっか違うかもだけど、まあ、こんなもんだ。違っててもオレは知らん(笑

だいたい、なんで水なんていう取り留めも無い、電気と何の関係もない物質を持ち出すのか。水は高いところから下に流れる、それでよろしい。じゃあ、電池を位置的に逆にして、上をマイナス、下をプラスにしたらどうなるのか。もう、その比喩は破綻するではないか。いや、破綻はしないが、説明に余計なものが入るのは間違いない。なぜそんな問題を無益に大きくするような比喩を持ち出すか、僕にはさっぱり、分からない。

ふつうにマイナスの電荷を帯びた電子が移動するのが電流です、ってなぜ素直に言わないのか。

ここでひとこと言っておくが、この「電子」というのも、現在の物理学が創り出した比喩の一つである。物質というのは比喩なのである。もっともこの話は哲学論争なのでここでは深入りしないが、いま現在では、パチンコ玉みたいな電子がマイナスの電気を持ってて、それが導線の中で、押し合いへし合いしながら電子がプラスに引かれて、そっちに向かって動いている、という説明がいちばん端的な「ネイティブの比喩」だ。

なんで比喩なんて言うかと言うと、実際にどうなっているのか、誰にも永久に分からないからだ。なので、物理比喩の並立・交替は永遠に続く。たとえば、電気現象なら、目に見えない電界磁界という比喩(約束事)を仮定して、マックスウェルの方程式で数学的に規定する、という方が電子の比喩より応用範囲は広い。並立しているのである。ニュートンの万有引力と一般相対論の並立みたいなものだ。これは物理学という学問の性質上、永遠に決着は付かない。

結局、言いたいことは、物理学が比喩の上に成り立っているんだから、相手が小学生であれ何であれ、その「ネイティブ」の比喩(ここでの例では電子)を最初から使って説明した方が、小学生だってぜったいにその方が分かりやすいと思うし、将来のためとも思うのだ。

水の流れと電気の流れは、だって、ルックスからしてぜんぜん違うではないか。電気の流れは目に見えないから、だから目に見える水を使うんだろうが、水には水の性質というものがあるので、じゃあ、豆電球が点いてる導線を氷で冷やせば、凍って豆電球が消えるんですか、ってことになる。いやいや、水はただの比喩ですから、って言うのか。そんな「比喩」なんていう高等なことは、最初からあなたが現象を物理学的に理解しているから出るものであって、何も知らない小学生はそんなことは最初から知らない。だから教えるんでしょうが。

とにかくだ、比喩の比喩を使っていい気になって初心者に説明する理科系の人々は、オレは間違っていると思う、ということでした。

ちなみに、もうひとつ理科系がおかしがちな間違いは、説明の言葉を「優しく」するという手法である。「電気ってのはいったい何なのか、みんなで考えてみよう!」とか言って「いいかい、電気って目に見えないよね? だから君たちのまわりにある物で考えよう」とか言って「水って高いところから下へ流れるよね。ほら、君も川に行ったことがあるだろ? あれって、高いところから低いところへ流れるよね? え、そんなの知ってらい? ごめんごめん、でも先生はね、その川が電気の流れと同じってことを言いたいんだよ。どうだい、これってすごいことだと思わないかい?」

とかとか切りがないが、こういう小学生をバカにするような言動を教師は厳に慎むべきである。教師たる者の第一条件は、相手を下に設定してバカにしてはいけない、ということである。

大人が理解する、そのままの形で、小学生相手でも説明するべきだと思う。ある現象については、小学生では難しくて理解できないかもしれない。でも、その「理解できないモノ」が、現在の真理であれば、無垢な心を持った子供ならば、必ず、それを正しく理解する日が来るはずだ。そういう無垢な子供の心を、自分勝手な稚拙な比喩や、手前勝手な物言いで、汚してはいけないのである。

あー、クソ、だんだん腹が立って来た。なので、これで止め―!

NHK

NHKは僕がかつていたところだが、いまは逆に僕がNHKの下請け的な仕事をしていて、なんだかんだ技術系の部分に関わっている。NHKには、番組制作と放送技術、という二つのぜんぜん異なる分野がある。僕はその後者の技術研究所にいた。

で、前者の番組制作について思ったのだけど、番組を作っている組織というのは、いちばん上にプロデューサー、そしてディレクターがいて、その下にたくさんの人がいて末端(ではないのだが)に役者もいれば使い走りもいる、という様子で、今ではたぶん昔より合理化されたとは思うけど、なんだかんだで、トップのプロデューサは現場にも来るし、ディレクターは必ずいるし、人によってはまだ現場で怒鳴ったりしてるんじゃないだろうか。

で、昨今の世の中での芸能界は、ジャニーズや松本人志に見るように西洋風の浄化に向かっている。でも、これを逆に見ると、日本では、いまだにトップが末端とかかずり合っていて、日本的に一体になったカオス集団を作っていた、とも言えると思う。ちょっと内容が半社会的なので発言を書くのに苦労するが、言いたいことは、昔の番組制作の組織は一種の有機体の塊だった、ということで、それがなんと、今に至るまで維持されている、という風に見えることだ。

その弊害は見ての通りだが、その利点は確実にあるはずだ。それはおそらく番組という作品を作る、創造力と構成力と実現力、といったもろもろのクリエイティブを養う、母胎として機能していたのではないか、ということだと思う。僕はテレビを見ないからホントは知らないんだが、また聞きで、今でもNHKが作品の強い制作力を残している、というのは、そういう事情に支えられていたから、という一面もあると思う。

一方、放送技術の方は、その性質上、合理化がかなり容易で、次々とそれが行われ、いまじゃ、技術研究所の面々は、発案して、仕様を書いて、下に発注して出す仕事がメインになっていて、本人たち、あたかもクリエイティブな上流な仕事をしていると思い込んでいるようだが、出て来るものを見ていると、あまり創造性が感じられない。これは早晩終わるだろうな、という予感しかしない。

で、思ったのが、技術分野は番組制作分野と違って、下請け構造が確立していて、下流の仕事に上流がかかわらなくなっている。よくいうように、「手を動かさない」のである。プランニングと仕様書き。それはたしかにクリエイティブな仕事なのだが、月並みなものしか出て来ない。「末端の仕事の、退屈で苦労ばっかり多い工程を外注して切り離し、その無駄な時間が空いて自由になった時間を、クリエイティブな仕事に回せる」という、よくある論は、僕は完全な間違いだと思う。トリクルダウンに似て嘘ばかりだ。

というわけで、NHKも、番組は評価できるが、技術研究は低迷、ということになり、その理由は、仕事全体の有機的一体感が無くなっているせいかな、と思ったのである。

しかし、これはただし付きで、この事態は恐らく日本であるがゆえであろう。日本人は文化的に、そういう組織が有機化することでクリエイティブマインドを育てたのであって、西洋のように強固なフレームワークだけ作って中の人間を自由にさせるやり方と、根本的に違う。

で、たぶんだけど、これから番組制作現場も技術と同じく合理化が進み、問題は少なくなるだろうが、番組はつまらなくなって行くであろう。まー、オレの言ってることが合ってればね。

オレとしては、別にNHKがつまらなくなって消滅しようと、痛くもかゆくもないから、好きにしたら、と思うだけ。23年もお世話になった古巣に対して、オレもなんとも冷たいな、と思うけど、正直、なんにも愛直、ないのよねえ。そういう性格だからかな?

物質主義

天才科学者フォン・ノイマンは、僕らの世界を根本から変えたコンピュータの生みの親で、かつ、かの原爆開発と使用にも大きくかかわっていた人だが、「科学者として科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなければならない」と言ったそうだ。彼からこういう発言が出て来るのがよく分かるな。

自分はここしばらく、科学を信じない、とか、物質主義の行き着く先はもう定まっていて、それは地獄への道だ、と時々書いたりして、物質科学的な発言にことごとく反対していたけど、やはり、僕の言うことは飛んでいて、中間の推論過程がなく、まるっきり空言や暴言に近い響きになってしまい、閉口する。

しかしこの地獄への道は、実はまんま、かのジョーダン・ピーターソンの思想のひとつなのよね。彼の主著Maps Of Meaningの序文が原爆開発を辿る話から始まっているのは、少しも偶然じゃない。

日本のいまの若い(自分より)知識人の中にも、物質信仰への危険を分かっているように見える人もいくらかいるので、あとは彼らに任せる。

オレは、真空管ギターアンプの本でも書いてるよ。あと、懸案だった「現代美術雑感」も近日、自家出版します。自家出版ってヘンだけど、Kindle Direct Publishingで出版が個人でタダでできるようになったので、自費出版じゃなくなったのよね。

フォン・ノイマンが創ったコンピュータもこういう風に使えるようになるので、科学は倫理と込みで世界を正しい方向へ向かわせる、という理想が生まれるんだろうな。これに反論するには大きな力が要る。科学の道にはその側道に大きな落とし穴が常に開いていて、それは人を物質へと引きずり込もうと待っている。

物質に引きずり込まれる心は分かる。それは不安からだ。不安だから確固とした存在である物質に頼ろうとするのだ。ところが物質は頼られると、さらに心に新しい不安を産み出す。そういう構造に最初からなっているのだ。そういうものを称して僕らは「物質」と言うのだ。

だから危険だ、と言っているのだけど、これじゃ通じないだろうな。だから最近は面倒なので、僕らには「南国」が必要だ、と言って済ましてる。

北国スウェーデンから帰還して、オレ、今度は南国へ行きたいな。もう専横的な北の思想にはうんざりした。