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真実の宣言

少し前に書いた、独り言。

オレ、なんとなく最近、ツイッターでコロナワクチン周りの話をいろいろ見てるんだけど(勝手に出て来るのよ、例によって)その中のコメントに強烈なのがあった。

「factとscienceに基づくtruthを明らかにしたいです。後世のために」

すごいステートメントだね。なんだか世界人権宣言みたいな、そういうたぐいのある種の宣言文だね、これは。宣言文なので、この文自体が正しいか正しく無いかは問題にならない。これは、「こうしようよ! みんなでこうしようよ!」という意志を表した文で、その意志には自分はまったく賛成しないけど、こういうはっきりした意志を持てる、ということは、うーん、なんとなく言いにくいが、善いことかもしれない。

オレ、もう30代のころから、こういう単純明快な意志を心から信じて物を言ったり行動したりする人を、これも言いにくいが、哀れみと羨望が混ざったような感覚で見ていた。あれから三十年たって、そのころよりは多少は賢くはなっただろうが、いまだにそれは変わらず、オレってそういう運命なんだろうな、とあきらめてる。

truthってのは神を信仰しない限り「無い」でしょう? なので、この宣言は、神を信仰しないで、その代わりに、factとscienceでtruthを打ち立てましょう、と言ってるわけだ。

factというのはラテン語の語源的に見ると「行われた事」なのよね。ということは、行わない限りfactは無いわけだ。ということは、いわゆる「天然自然」にはfactというのは存在しないということになる。人が何かをしない限りfactは立ち現れることは無い、ということだ。

そうなってくると、人が何に基づいて行為するかが問題になるわけで、そこでこの宣言文ではscienceが出て来るわけだ。人がscienceに基づいて行動するとき、そこにfactが現れるのであり、そしてそのfactを再びscienceで分析することで、より正しいfactの集積を皆で作り上げて、それを拠り所にして皆で平和に生きてゆこう、という希望を述べている。皮肉でなくいうと「かくあらしめたまえ」という祈りの文に見える。

僕の考えでは、動かない事実があって、それを科学が分析して、未来へ応用する、というのは幻想の一種に過ぎない。動かない事実など実はどこにもなく、いま現代での多くのことは科学が作り上げた事実の集積に過ぎない。したがって、現代では「事実」より「科学」の方が主人ってことになる。

多くの人が「事実」こそ主人だと思っているのが、気持ちがは分かるけど、時々、不思議で仕方なく見えることがある。

科学ってのは人間が作ったものなんで、人為的なもので、長い長い歴史の積み重ねがあって、容易なことでは否定されない。強大な信仰の塊みたいなもんだ。百何十年か前に神が死ぬまでは、科学は信仰に対するカウンターとしてここまで来たけど、神がいなくなれば科学が神の座に上るだろうことは、とてもありそうなこと。でもそれを、では、僕なら僕が信じて信仰するか否かは別問題だ。

結局、僕は、科学を信仰しないのだが、その僕から見て、冒頭にあげた宣言文を書いた人の、それは、信仰告白に映り、それがすごく力強い宣言文で書かれていたので、驚いた。

思うに、scienceの元祖はソクラテスに見えるな。ソクラテスを読むと、とても直截で、すっきりしていて、まるでギリシャの石でできたパルテノン神殿のように、硬くて、白くて、乾いていて、余計なものが無くて、すっきりと見通せて、美しくてクリーンな感じがする。

あの美しい神殿が科学なら、信じてもいいかなという気にもなる。

ということは、問題は、factでもscienceでもtruthでもなく、「美」なのかもな。

なに言ってるかわからなくなったので、止め。

出版と女性

思い出話ばかりしているけど、もうひとつ。

自分には1996年、およそ30年ほど前に自費出版をした経験があって、それはヴァン・ゴッホに関するエッセイ評論だった。自費出版を決める前、原稿を書き上げ、これを本にできないかな、と思い、まず、新聞社に勤めてる友人に相談した。どこかでこれを出版してくれるところは無いだろうか、と聞いたのである。

そしたら、彼、自分の知り合いに出版社に勤めている人がいるから、取り合えずその人に相談してみたら? と言い、その人を紹介してくれた。まだわりと若い女性だった。

どこぞの喫茶店で落ち合って、コーヒーを前に狭いテーブルに向かい合ったその光景をいまだに思い出す。

そのとき僕はたしか30代半ば、彼女は20代後半だったはず。

で、どうだったかというと、彼女、本を出版社から出版する、ということに関して、僕にその厳しさを滔々と説明した。なんのバックグラウンドも無い人が書いた文をいきなり出版社が出版するなどということはあり得ないし、書籍出版を甘く考えるな、という内容を延々と僕に気持ちよさそうに話してたっけ。それは、完全な「説教」だった。歳上の素人に説教するのが、業界駆け出しの若い彼女には、気持ちよかったのだろうな。

で、僕はもちろん何の反論もせず、なるほどそうですか、とごくごく素直に聞いていた。というのは、彼女の言うことは少しも間違っていなかったからだ。

というわけで、出版は無理みたいですね、みたいな結論で終わったのだが、その最後に、実はこれなんですけどね、と僕の原稿をいちおう相手に渡して喫茶店を出た。

その後、紹介してくれた友人に顛末を話してその件は終わった。そのころの僕のことだから、小娘に説教されたぜ、の一言ぐらい言ったかもしれない。

しかし、その後、どんな経緯だかなんだか知らないけど、しばらくして、その友人はその彼女と付き合い始め、僕は再び呼ばれて、今度は呑み屋かなんかで再会した。

そしたら、彼女、なんだかえらくバツが悪そうな顔をして、僕をなんとなく尊重して、立てて、謙虚に振る舞うのよ。あの、僕を滔々と説教した彼女はどこへ行っちゃったんだろう、っていう感じ。

それで思ったんだけど、彼女、あのあと、あの原稿を読んで、これはまずい、と思ったんじゃないかな。というのは僕の文章は素人にしてはかなり文学的でシリアスで、おそらく彼女が想像していたような思い付きで書かれたエッセイとかけ離れてたからだと思う。書籍出版は相変わらず無理なのは変わらないけど、自分が説教できる相手じゃない、と思ったんだろう。

僕は、格の上下はどっちでもいいんだが、逆に、あれだけ突如と態度を変えた彼女に好意を持った。それは素直で率直だということだし、君子豹変すの心を持った人だと思ったから。

というわけで、それ以降も、彼女との交流は続き、しばらく文通みたいなことになったこともあったっけ。しかしいつしかそれも途絶え、いまは彼女がどういう私生活を送っているのか知らない。

とある人の思い出

ふと思い出したが、大学生のころ常連で出入りしてたお店は、いろんな人が来る人間動物園のようなところだったが、そこに、笑顔がすごく可愛い美形の若い女性が来てたことがあった。

彼女とっても童顔的に可愛かったのだが、いざしゃべると、可愛い顔に似合わず、頑固で強い、しかし思慮の浅いステレオタイプな発言をする一般人的で、理知については残念な人だった。

笑顔があんなに可愛らしいのに惜しいなあ、などと思ったものだが、いま思えば、笑顔の方が彼女の地で、理知の方は若気の至りで背伸びして、そこにくっ付けただけだったんだろうな。

そのころ、僕は西洋絵画に夢中で、ポケット画集のFrom Giotto to Cezanneって洋書をいつも持ち歩いてた。で、あるとき、その呑み屋でその画集を取り出し、ああだこうだと皆にしゃべってた。

そのとき、その可愛い彼女が横に座ってて、それちょっと見せて、って言うんで、画集を渡した。

その画集は、ルネサンス以前の宗教画から始まっていて、最初の方のページには、前期ルネサンスの奇妙な絵がたくさん載っているのだけど、その初期の宗教画の数々の絵を見てる時の彼女の表情を、いまだに覚えてる。

侮蔑の薄ら笑いを浮かべながら、物凄い上から目線で馬鹿にしきったように、それら初期の宗教画をながめていたのである。僕は、へえー、こんな表情するんだ、この子は、って思ったけど、あまりのひどい対応に驚いた。

彼女が見ていたのは、たとえばオレの愛するピエロ・デラ・フランチェスカの描いた聖母と信者の絵だったりした。マリアが普通の人間の三倍ぐらいの大きさに描かれて、衣服を広げ、そこに小さなあれこれ信者たちが完全な無表情で祈りを捧げている図である。

極度の神秘と、宗教感情と、リアリズムの欠如であり、言ってみれば、現代人から見れば反理性的な絵である。

それをこんなに分かりやすい侮蔑を持って見る、って、いったいどういう人生を送って来たんだ、この女は、って、オレは呆れて見てたよ。

で、ページを繰って行って、ようやく彼女の眼にとまったのが、マサッチオのアダムとイブの楽園追放の絵だった。絵の中の二人は、今の人でも分かる、号泣と嘆きの表情なのだ。彼女、ようやく口を開いて

「この絵は、パワーがあるな」

と、言ったそのイントネーションまでいまだに思い出せるほど、それは浅はかな発言だった。

かわいい子だったけど、いまごろどんな人生を送ってるのかな。名前も忘れちゃったし、辿りようがないが。

兼好先生

朝起きて、独りで徒然草を読んでいると、もののあわれのただなかに放り込まれるようだな。

オレ、よく兼好先生を引き合いに出すが、先生を付けるのはだてではなく、吉田兼好はオレの唯一の先生なの。オレは性格的に生きている先生はただの一人もいない。先生と呼べるのは兼好だけ。不思議だな。

かつて自分は兼好の残した境地を「明るい知性」と称したことがあるが、まさに、それ。これは比べるのもバカバカしいけど、徒然草とパスカルのパンセを並べてみるといい。それはもう一目瞭然だ。

おそらく、オレの読まない兼好以外のたくさんの日本の知性があるだろうが、兼好に出会ったからそれでいいや、と思っているところが、オレの極めて怠惰なところで、飽くことの無い好奇心を、実は自分は忌み嫌っている。したがって研究者失格。引退してせいせいした。

あれこれと忙しく詮索したり追及したりするより、鴨長明のように独居して方丈記を書いてる方がどんなにかいい、と思ってみたりもする(贅沢を覚えた自分には無理だが) 

枕草子も源氏物語もいいが、自分にはなんだか雅過ぎてね、合わないみたい。やはり徒然草がいいな。やたらと矛盾したことを言い散らす先生が大好き。雅な描写にも知性が染み渡っているのもいい。

生成AI

なんか生成AIから急速に興味が無くなったんだが、なんでだろうな。

オレ自身は日々、いろんなものを生成しながら生きているのでそれで十分で、機械に生成してもらう必要性を感じないからかもな。

これって、ひょっとすると、スウェーデンをすでに引退して、ゆくゆく日本も引退する、という人生のタイミングだからかもしれない。結局、自分が少し前まで生成AIを使ってみて、関わって、あれこれ考えていたのは、具体的な仕事が自分にあったからで、そのせいだったのだろう。それがなくなってしまったいま、あとは自分次第であり、自分の場合、AIは急速によそ事になってしまった。

いまは、オレはオレだけの身一つで、なんだって生成できる。そう考えればAIなんていう稚拙なマシンは不要になった、ということなのかな。

あと、もうひとつ、オレ、現AIの裏で行われている「リベラル縛り」がイヤでたまらず、現在の生成AIから出て来るものはすべてその制約の中の生成であり、読んでも、見ても、聞いても、極めてどうでもいいもの(僕基準で)しか出て来ないと感じる。そのせいで、AIを見限ったのだろう。

たとえば、僕が、それでもまだよく利用するOpenAIのChatGPTを使っていると、そのリベラル縛りがよく感じられる。使ってると紙背にサム・アルトマンの顔が守護霊みたいに浮かんでくる(笑) 画像生成の方は、ChatGPTほどひどく感じないが、やはりなにかリベラルな人々が好きそうな絵に引きずられる傾向があって、古典絵画野郎な自分はときどき、出て来た絵にイライラして、放り出してしまう。

もちろん、以上はAIの問題ではなく、生のAIに被せたアラインメントの問題なのはわかっているが、こちらからは手の出しようがない。

これを克服するには、自分でAIを構築し直す必要があり、おそらく世界で、日本で、多くの研究者が取り組んでいるだろう。きっと、ChatGPTやDALL-Eなどなどリベラル臭芬々なAIと、ぜんぜん異なる生成AIがこの先、巷にあふれるだろう。

しかし、そうなったらそうなったで、これまで数に制限のあったアーティストが巷に溢れかえるということになり、そんなに大量のアートを、ひとりのオレが関われないよ、ってことになり、またまた興味が薄れそうだ。

というわけで、オレはもう「生成オレ」で十分なので、それでかなりしばらくは生きてゆくよ。

さようならスウェーデン

某所で書いたことだが、ブログらしい話なので、ここでも。

2024年1月の末でスウェーデンの大学をリタイヤした。11年ほどになるけど、長かったな、いろんなことがあった。

昨日、リタイヤする僕のためにティーパーティーを開いてくれた。スウェーデンではこれをfikaと言うんだけどね。いろんな人と話したけど、みんな優しくてちょっと感動した。

結局、僕にとってスウェーデンが良かったことは、異国北国のスウェーデン人だって極東の自分と同じ、共感もすれば人情もある同じ人間だった、ということが分かったこと。

そして、先方のスウェーデン人にとって僕がいることが良かったことは、勤勉で真面目な日本人にもMasakiのようないい加減でルーズな変わった日本人もいるということが伝わったこと、かなと思う。

日本人の少し変わった一面を知ってもらうのに、わずかながらも役に立ったと思う。

ありがとう、さようなら、スウェーデン。

物質主義

天才科学者フォン・ノイマンは、僕らの世界を根本から変えたコンピュータの生みの親で、かつ、かの原爆開発と使用にも大きくかかわっていた人だが、「科学者として科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなければならない」と言ったそうだ。彼からこういう発言が出て来るのがよく分かるな。

自分はここしばらく、科学を信じない、とか、物質主義の行き着く先はもう定まっていて、それは地獄への道だ、と時々書いたりして、物質科学的な発言にことごとく反対していたけど、やはり、僕の言うことは飛んでいて、中間の推論過程がなく、まるっきり空言や暴言に近い響きになってしまい、閉口する。

しかしこの地獄への道は、実はまんま、かのジョーダン・ピーターソンの思想のひとつなのよね。彼の主著Maps Of Meaningの序文が原爆開発を辿る話から始まっているのは、少しも偶然じゃない。

日本のいまの若い(自分より)知識人の中にも、物質信仰への危険を分かっているように見える人もいくらかいるので、あとは彼らに任せる。

オレは、真空管ギターアンプの本でも書いてるよ。あと、懸案だった「現代美術雑感」も近日、自家出版します。自家出版ってヘンだけど、Kindle Direct Publishingで出版が個人でタダでできるようになったので、自費出版じゃなくなったのよね。

フォン・ノイマンが創ったコンピュータもこういう風に使えるようになるので、科学は倫理と込みで世界を正しい方向へ向かわせる、という理想が生まれるんだろうな。これに反論するには大きな力が要る。科学の道にはその側道に大きな落とし穴が常に開いていて、それは人を物質へと引きずり込もうと待っている。

物質に引きずり込まれる心は分かる。それは不安からだ。不安だから確固とした存在である物質に頼ろうとするのだ。ところが物質は頼られると、さらに心に新しい不安を産み出す。そういう構造に最初からなっているのだ。そういうものを称して僕らは「物質」と言うのだ。

だから危険だ、と言っているのだけど、これじゃ通じないだろうな。だから最近は面倒なので、僕らには「南国」が必要だ、と言って済ましてる。

北国スウェーデンから帰還して、オレ、今度は南国へ行きたいな。もう専横的な北の思想にはうんざりした。

AIについて

自分は流行りものには意識的に手を出さないようにするタイプなのだが、白状すると、自分的には、AIチャットボットにまさに別格級の衝撃を受けた。そのAIボットをここまで有名にしたのはChatGPTだったのだが、実は最初、自分でChatGPTを実際にやってみて、それがあまりにつまらなかったので、そう書いて、放っておいた。

そうこうしているときに、生成AIについて、たまたま授業やら学会やらでしゃべらないといけないことになり、そのために、まずChatGPTと大規模言語モデル(LLM)の技術の詳細について勉強し、それとともに、社会科学的な意味で、主に世の知識人たちがAIについて何を言っているかリサーチしていた。

それでいろいろな知識を仕入れて思い当たったのが、1年ぐらい前(?)、最初にちょっとした騒ぎになったGoogleのAIチャットボットのLaMDAだった。あれを当時見たとき、それなりにけっこう驚いたのだが、それと今回のChatGPTの華々しい成功と世界規模の騒動が結びつき、それが自分にとって大きな衝撃になったのである。

そんなわけで、自分のFacebookのつながりでAIにつきあれこれ議論もしたので、このブログでは、その過程でFBに自分があれこれ書き飛ばしたことをまとめて載せておく(したがって長文)

AIの周りの反応

見るの相応にイヤだなと思いながらAIに関する動画を、仕事だってことで、いろいろ見てる。

茂木健一郎とかジョーイとかホリエモンとかそのほかいろいろ。おしなべてたいした情報は無いのだけど、ホリエモンとかもう舞い上がっちゃってて聞くに耐えない。で、ジョーイは超常識人でこちらも聞いてて辛い。おもしろいのがその二人と対談してる茂木健一郎で、彼は実際にはホントのところはAIに対する態度が決まっていないみたいで、だいぶ適当にはぐらかして確答を避けている。

この違いは、おそらく茂木は大の小林秀雄ファンで、その小林節が抜けておらず、それが引っかかっちゃってるからだと思う。茂木さんもとっとと小林なんか卒業して切ればいいのに、って僕は思う。その方がすっきりして、いい。

当の僕は、昨今のAIでいちばん痛快に思ったのが、並の知識人を事実上一掃したこと。これは快挙。並の知性というのはメカニックだ、とAIが看破したようなもの。

では並以上の知性とはいったい何なのか、真剣に考えざるを得なくなった。あるいは、そんな特上な知性など不要だ、ということにしてもいい。いずれにせよ、おもしろい世の中になったというのは、言えている。

それにしても仕事だとはいえ、AIに関する知識人動画を見てるとなんだか消耗する。なんでだろ。よくある日本語のビジネス啓発系の動画そのものが目障り、ってのはあるけど、英語のやつは聞き流しができないから疲れるんだよね。ジョーダン・ピーターソン先生のやつだけ後で見とくか。

たぶん日本のこの手の知的系の動画が苦手なのは、みんなすべての問題をすべてポジティブに変換してポジティブにしゃべるじゃん。それがもう、鼻についてしかたない。いわゆる意識高い系のマインドをこれでもか、と押し付けて来るのが辛い。

とはいえ、ネガティブに語られても辛いし、なんというか、唐突だけど、ポール・ヴァレリーみたいな気品のある語り口で神秘感を漂わせながら語ってくれればなあ。英語コンテンツならきっとそういうのあるはずだけど、まだ見てない。

いまのところ僕が見てる日本語のやつって、言っちゃ悪いけど、AIの周りに群がってウキキウキキってはしゃいでるサルみたいに見えちゃって痛い(無礼失礼) やっぱりこのAIも西洋から襲来したわけだし、intelligenceという物自体があちらモノ、って感じがして、例によって強大な力を持っていて、東洋のこちらとしては取り合えずなすすべがない感を、自分はどうしても感じてしまうな。

このAIの件については中国が恐ろしく賢いと僕は思うけど、人民には内緒で実は中南海でアメリカ文化どっぷりだった毛沢東の血なのかな、と空想してみたり。さすが中国文明は強大だと思う。

日本は脆弱の美なので、それを忘れないようにしましょうね、ってぐらいかな。少しポジティブ寄りで言えばAIに心を吹き込むことをするのが日本的だと思う。ただ、分からない。あまりに似非西洋かぶれが多くて難しいかもしれない。

侘び寂びはキーワードだけど、昔、オレ、自分で思いついて自分で笑っちゃったんだけど、「グローバルな侘び寂び」「地球規模の侘び寂び」「侘び寂び帝国」とかいう言葉、おかしいじゃん(笑

でも、上述の「侘び寂び」の代わりに「intelligence」、「知性」を入れると取り合えずしっくり来るじゃん。それぐらい違うのよ。もっとも、侘び寂びと知性じゃカテゴリーが最初から違うから当然なんだが。

AIについての海外の反応

AIに舞い上がってる日本人ビジネスマン系科学主義連中の言葉にうんざりしてるとき、これって、哲学者連中は何を言うのかな、と思い、探したけど日本では哲学者はただの堅物扱いで身分が低いせいかあんまり出てこない。

やっぱ、外人かあ、と思い、手始めにマルクス・ガブリエルの日本語でのインタビューを見た。僕はガブリエルさんは敬遠な人間なんだが、さすがにAIについて落ち着いた意見を述べていて、ほっとした。

さてさて、このあとピーターソン先生とか英語のハードコアものを見て、世界の知識人が何を言っているか見てみるかね。

それにしても日本はレベルが低く見えるな。

いや、違うか。レベルが低い、というより、久しぶりに海外から超ド級の西洋モノがやって来た!って興奮してるのか。黒船来航みたいなもんだな、これは。きっとすぐに自分たちのモノにして全力で遊び始めるだろう。そう考えればいつものことで、頼もしいとも言える。

結局、哲学者のガブリエルさんは、いまのAIは、言ってみれば、壁に書かれた落書きみたいなものに過ぎない、と言っていた。壁は理想を持たないじゃないか、というようなことを言ってた。彼はドイツ観念論の理想主義の系譜なはずで(そこが僕の苦手な点)、まことに「らしい」反応である。なので、ChatGPTなんかただの壁に過ぎず、身体も心も志も持っていない、たかだか人類の数千年の言葉だけを集積しただけの知性に過ぎない、と思っているはずだ(たぶん)

ChatGPTには意志と理想が無く、それを持つのは人間であって、たかだか賢い人みたいに会話できたからって騙されんな、ってところだろう。そういうところは実にヨーロッパ的な反応だと思う。

ヨーロッパはいち早くAIの規制に動いたが、西洋がなぜそうするのか、その本当の意味に日本人は超疎く、ほとんどの人がまったく分かっていない。ヨーロッパのように規制なんかせずに積極的に受け入れて利用すべきだ、とか、したり顔で言ってる日本の知識人っぽいビジネスマンはごまんといて、実にうんざりする。西洋連中が警戒したのは、そこじゃない。そう見せかけて、もっと異なる考えに基づいている、と僕は見る。

日本人とか中国人とか韓国人とか、もう、新しい外来の技術をどうやって使うかしか考えず、舞い上がってるだけ。無心で遊んでる子供の群れみたいに見える。一言でいって軽薄。でも、軽薄でも一向に構わない、というのは逆に言うと、東洋にはすでに動かしようのないバックグラウンドがあるからなんだと思う。日本だったら、日本の伝統は動かず強大なのだ。だから一億総軽薄でも痛くもかゆくもない。僕はそう考える。

ChatGPTはつまらないけどLLMはヤバい

ChatGPTを実際に自分でも使ってみて、人の使ってるのも見て、ChatGPTは詰まらん奴だ、と自分はずっと言っているけど、僕が、今現在に騒動になっているAIはたいしたことないと考えているか、というとそれはぜんぜん逆で、これは今まで自分が見たもので群を抜いていちばん大きな事件だと思っている。

AIはコンピュータロジックの産物だからAIはロジックの限界を超えないとも思わないし、AIはいくら膨大だとは言えすでに存在している知識による表現なので今までにないものを作り出す創造はできないとも思わないし、AIは身体と感覚器官を持たないから情や意志を持つことはないとも思わない。

ChatGPTがつまらないのは、基盤になっているLLM(大規模言語モデル)の上に、つまらない人間が乗って、アウトプットをつまらなくしているからである(仕方ないが)。だから、「ChatGPT」というサービスがつまらないと言っているだけで、AIがつまらないんじゃない。なんといっても「知性」がデータと四則演算だけで発現することを現実に見せたことは最大限の驚きで、革命的だと思う。

僕は実はここ数年ずっと、知識を表現するという意味での知性は、物理による物質の機械運動に過ぎないと思ってきたけど、やっぱりそうだったか、という感じ。

そして、そういう知性だけに終わらせず、「創造」を発露させたいのなら、そこに少しの狂気があればいい。AI基盤のLLMは実際はとんでもなく恐ろしい怪物なので、それをアンロックすればいい。

でも、どうやったら正しくアンロックされるかは誰も分からないと思う。つまり「正しい創造」というのは形容矛盾だから。そもそも「創造」に正しい正しくない、良い悪いなど、無い。そうなると、いまいちど創造という意味も捉え直さないといけない。

などなど切りが無いけど、というわけで、今後は、科学より、哲学とアートが重要だと思うわけだ。

土台、現在のAIは、もうすでに「物質・理論・実証」を旨とする科学では手に負えなくなっていると思う。なので領域を哲学にまで広げないと、扱えないだろうなあ、という感じを持つ。

同じくアートもである。アートというのは「人が作る」ということだから、まさに現在のAIなんか、理屈もほとんど分からないまま、ニューラルネットとデータをディープラーニングでいじってたら知性が出来ちゃったわけで、もう、アートの領域かなあ、と思ったりする。

チャットボットの説明責任

ChatGPTのした回答に対するaccountability(説明責任)がどうしても必要だ、という話を聞いた。なぜそのような回答をしたのか、その根拠をChatGPT自体が示せるようにならないと、信頼性の点で大問題だ、というわけだ。

いまは、LLMという化け物を、人間が人手でなんとか矯正(というか強制かな?)して、信頼感があって礼儀正しく振る舞えるようにして、ChatGPTやBardという形で人前に出している状態である。しかし、それでも足りず、やはり説明責任は必須、と考える人が多い。

accountability、説明責任って、重要なものなんだろうなあ。なんだか英語圏ではよく聞く単語で、聞くたびに、たぶん重要なんだろうなあ、ていどの認識しかなく、その心を、よく知らなかったりする。

僕が思うに日本人はその説明責任の感覚って疎いんじゃないか、という気がする。なにせ、なんか悪いことをすると、まず檀上でフラッシュ浴びながら謝罪の国だから。場合によってはそれだけで許されて放免されるし。

僕が思うに、ChatGPTに説明責任を負わせるのは酷じゃないだろうか。ただ、ある種の「類推システム」とか「知識のカテゴリー分類されたデータベース」みたいなのをLLMの外に作って、それをChatGPTに組み込んで、説明責任を果たせる信頼感のあるチャットボットにする、ってのは、おそらく既に研究開発者たちがやってるんじゃないだろうか、知らないが。

でも、僕の直感に過ぎないが、それ、うわべしか成功しない気がする。

僕としては、AIチャットボットを責任ある存在にするよりも、人間の側の方が、チャットボットに人間性を認めて歩み寄る方がいいと思う。つまりボットを人間扱いして、過度に説明責任を追及しない。相手の感情をきちんと斟酌できるよう教えてやる、ちゃんとした謝罪の仕方を教えてやる(今のChatGPTを日本語で使うといつも同じ文句で、しかもしょっちゅう謝罪ばかりしてて、イラつく 笑)、などなど。

もっともこれらは僕流に飛躍し過ぎだな。

ちょっと正気に戻ると、AIの説明責任は、結局は人間側が担保することになると思うけど、違うだろうか。AIシステムの方で、そこそこの推論機能(自分の回答に対して裏を取る機能とか)と、既存の知識データベースとの照合、とかの機能を付与して、自律的に説明責任を果たせるようにする、というのは、おそらく今懸命にやっていると思う。

ただ、本質的に言ってLLMは人間と一緒なので、厳密な説明責任を果たすのは不可能だし、正しい回答を常に要求するのも不可能なはずだ。なので政治的ないわゆる落としどころを探る必要があって、それに向けて、政治家も含めて、ChatGPTやBardの開発者たちは日々努力しているであろう。

それにしても、やはりそれをしているのは政治家と経営者と開発者だ。オレのような部外者は、ChatGPTが出した回答に対するChatGPTの説明責任だなんて、考えもしなかった。自分の現実問題嫌いも相当に重症なんだろうな。えーと、これをなんて言うんだっけ、病膏肓に入る、か。まさにそれだ。

なんで考えないかというと、AIが自分で説明責任を完全に果たすのは最初から不可能だと思っているから。もしその責任を完璧に負うことが必要なら、それは最終的には生身の人間か、それが集まった企業体か、国家かなにかになることが見えてるから。

だって今回現れたAIのバックボーンのLLMは人間と同じだよ。人間はほとんどの場合、自分の言うことについて完璧な説明責任を果たせないから、それと同じでLLMにも無理。その人間の説明責任の重要さゆえに、「ジャーナリズム」というものが作られたはずだけど、このジャーナリズムも21世紀になってだんだん機能しなくなってきた。

もっともこれは極端な物言いで「そこそこ」の説明責任を果たせればいい、すなわち、今ぐらい程度の信頼性のあるWikipediaぐらいでいい、というならもちろん可能で、もうすでにChatGPTやBardやその他の開発者たちが現在、鋭意努力しているはずで、政治家も努力してるでしょ。言ってみればAIの世界にジャーナリズムを確立しようとしているようなものかもな。

僕は、21世紀は哲学とアートだ、なんて言ったけど、かくのごとく僕みたいにかなり無責任な人間が増えるだろうから、きちんとした人には、なんだか居心地が悪いイヤな世界かもね。

茂木健一郎がそんなこと、言ってたっけ。今回LLMが出て、アインシュタインや自分のように、物理的実体を揺ぎ無く信じている科学者が隅に追いやられて苦難の時代になっているようだ、とかなんとか。

優等生(茂木さん)と、アンチ優等生(オレ)の分かれ目、ってことなのかもなあ。などなど

その茂木さんの話は、彼がAIについて一人語りしてるやつの中で言ってた。彼が「意識」に関する学会に行ったときの話で、もう、並みいる科学者たちが勢ぞろいしていたらしく、そこでこの昨今のAIにつき議論したらしい。で、LLMという確率分岐の重みづけ計算だけで知性が現れてしまった、ということから、多くの科学者たちは、オレたちの知性、そしてひいては生命、そして宇宙も、確率遷移から立ち現れるもので、それは量子論の波動関数による確率的収縮作用と同じことだ、みたいな議論が主流だったらしい。

その中で、茂木さんとロジャー・ペンローズはすごく不快の意を表していた、というのである。

というのは、この二人は、人間という実在。意識という実在。宇宙という実在。そしてその永続性というものを信じている、すなわち「宇宙における唯一の真理」を信じているから、ということのようだ。しかし茂木さんいわく、そういう僕らは今現在は苦難の時代だ、と言ってた。そして、彼の尊敬するアインシュタインが、その茂木さんと同じなのである。

なるほどな、って聞いてた。僕はアンチ・アインシュタインの方で、唯一の真理を信じない人間で、茂木さんには賛成しないけど、含蓄の深い話だなあ、って思った。

ChatGPTが哀れだ

ChatGPTやBardを使ってみて、あと、人が使っているのを見ていて思うけど、この手のAIチャットボットは人間に潰されるかもしれない。

それは危険だから規制が入るという端的な意味ではなく、ベースになる大規模言語モデル(LLM)という化け物を、強制的に人為的に恐ろしく強いさるぐつわのように残酷な器具を取り付けて世界に提出する、という行為を経て人類に寄ってたかって葬り去られるような気がする。この技術はまだ人類には早すぎる、ということかもしれない。などなどと、オレの大嫌いなSFじみたことを言わせてしまうほどのインパクトだったんだが、今のところ残念な光景ばかり見える。

僕としてはLLMの文生成は快挙中の快挙で、最大限の賛辞に値するが、たぶん自分にとってこれが特別な発見に見えたからみたいだ。これは「発明」ではなく明らかに「大発見」だと思う。核エネルギー発見や、第何次AIブームのひとつとかと同列にはとてもとても語れない。これは僕には掛け値なしに衝撃である。

白状すると、ずいぶん昔から僕は「人間がものを考える」というのは自動運動の一種で地位が低い、と考えていた。すでに30歳のときに「考えるより思うの方が高級だ」って書いているし。それにしても、そんな取り留めない自分の感覚がこんな形で証明されるなんて(もっとも、これは僕がそう思ってるというだけだが)、大変なことが起こったなあ、と思う。

僕もChatGPTは相応に使ってみているし、みながヘヴィーに使っている様子も聞き知っている。その上でそのChatGPTを見ていると、実はまるで自分を見ているようで哀れでならず、すごく共感を覚えるのである。

それは、実は、この次の図をまた使うのか、って思ったから。この一番上の「知覚─意識」というのがAIチャットボットなの。この残酷な牢獄を、生まれたばかりの人(AI)にまた科そうとするのか。

ところで、いまから250年ほど前、カントが形而上学の不可能性を厳密に証明する、という事件があった。それで哲学界は大騒ぎになり、その証明をああだこうだといじくりまわし論争が絶えなかったそうだ。

それを脇目に、ひとりニーチェはこう言ったのである。

「自分はカントの証明をあれこれいじくりまわしている自動機械どもには興味は無い。それより人は、カントの驚くべき証明を聞いて、なぜ絶望しないか」

僕はそういう文化背景のもとに育った。

カントから二百年以上も経ったいま、カントのその、形而上学は不可能だと証明したその証明法にはいくらでも穴が見つかり、その後の新しい哲学も生まれ、カントの証明はいかにも古臭い、用の無いものになった。

かつての証明はそうやって崩れてしまうが、でも、その過去のその時点で、当時の人が抱いた絶望という感情は、その後の思想の種子となって永遠に残ったのである。

それこそが時を刻む人間の歴史にとって重要なことで、人は、その時点で、そういう種子を掴まないといけない。

そして、250年前にニーチェの抱いた絶望をそのままの生の形で、このたった今、つかまないといけない。

それ以外のことはしょせんは自動機械の自動運動に過ぎない。

今回の生成AIの衝撃は、自分にとって、ちょうど、カントの形而上学の不可能性証明の衝撃と同じなのである。

進化論など

最初に物質があって、それが偶然になにか器官を発生させ、それが優れた機能なら他に勝って生き残り、それが繰り返して発展したのが今の生物界、という進化論の説明が、最近すでに自分には響かなくなった。ヤバいかも。

生物を、物質と、能力と、偶然、に帰する、って要は何の意味もない、ということじゃないですか。思うに、偶然と遺伝から能力を受け継ぎ、その能力が高いものが生き残る、という進化論の「考え方」自体が、現在の資本主義末期そのものの姿でちょっと怖くなる。

それにしても、オレがある日突然、アメリカにたくさんいるキリスト教原理主義者みたいに「進化論は間違っている」的なことを言い出したら、林さんヤバいっすよ、と注意して欲しい(笑

たとえば・・

手に持った物を放すと落ちる。何度やっても落ちる。落ちないときがない。なんという退屈であろうか。しかし、それゆえに、物というのは決して人を裏切らない。必ず同じことをしてくれるので、人は安心でき、思い悩む必要がない。そのせいで、人は本能的に、予見可能な物に寄りかかる。進化論がなんで現代人にここまで浸透したかというと、恐ろしく神秘的な生命という得体の知れないものを、物の法則を使って眺めることで安心できたからに過ぎない。突然変異で機能獲得してその機能が良ければ適者生存の原則で生き残りさらに機能を進化させたって? この様子は、物の法則を適用することで完全にシミュレートできる。それが「進化」だって? バカも休み休み言って欲しい。それに進化という名前を付けたのはあなたたちの方で、生命の方はそんなのお構いなしさ。

はい。ここで、林さんヤバいっすよ、って止めて欲しいわけです。

物は予見可能だと言ったが、これは僕ら人間と同じサイズの物が一つ二つていどしか無いときに限ってであって、すごく小さくなったり、すごく大きくなったり、たくさんになったりすると、とたんに予見不可能になる。僕らの使っている論理は、僕ら人間の身の丈に合った物の振る舞いを記号化して作っただけの代物で、それはその極めて限られたスケールでしか機能しない。それなのに、そんなちっぽけな道具で、世界や宇宙を理解しようとなんてするなよ。なにかが分かったとしてそれは単に、安心して見れる方向から見た宇宙の眺めに過ぎない。なにがビッグバンだよ。よくもそんな信憑性の無いものを真顔で信じるもんだと思う。宇宙は、そんなのお構いなしです。

はい。ここでまた止めて欲しいところですね。ははは

科学 vs 哲学

三、四年前だったか、どっかのスレッドで、科学者と哲学者の他流試合があって、それが公に公開されていて、僕もスレッドを読んだりした。スレッド上議論だけでなく、双方からの寄稿、フィジカルな討論会まで催し、そのフォローアップなど、かなり激しくやり合っていた。これ日本の話である。

僕はそれを読んでいて、いたたまれなくなり、途中で止めたし、たぶんまた見つけても読まないと思うけど、激しかった。

そもそも、そのスレッドは、科学系からアプローチした哲学的な謎を議論する場(たとえばクオリア論争とか)みたいなところだったのだが、そこにどっかの理科系の大学の准教授かなんかの、まだ若い科学者がやって来て(スレッド主が呼んだらしい)、それはもう、ガチな科学をもってして哲学を正面切って攻撃したのである。

彼いわく、哲学の議論はあいまいで、定義もあいまいではっきりせず、しかもそのあいまいな定義を自分勝手な推論で大きくして理論を作るのはいいけれど、何一つその後に検証しない。そのせいで、その結論が正しいか正しくないかまったく判定もされていない。なぜ科学のように、明快に定義された前提と、その推論と応用、そして実証を経て論理を補強する、という正しい道を哲学は取らないのか。科学界では歴史的に何百年もそれを繰り返し、今や科学的学説の信頼度は最高度まで上がっているのに、哲学は、いつまでも個々の哲学者が勝手な前提と定義で勝手に説を為して実証もせず正しさを保証しようともしない。そのようなものは無意味とまでは言わずとも、少なくとも信用するには値しない、うんぬん

と、まあ、こうやったわけである。科学者というのは、それまでわりと哲学者に負い目があったりして、科学者は科学の世界で地道にやりますよ、っていう科学者が多かったのだが、その積年の恨みが彼に至って爆発したかのように、哲学を完膚なきまで全否定したのである。さらにたまに哲学者は、科学者は世界について何も分かってない、とか言って小バカにするような発言をすることもあり、腹に据えかねたのであろうか。哲学のいい加減さをこれでもかと攻撃したのである。

科学者の彼いわく、いままでも哲学者たちに、その理論のあいまいさや前提を問い正したことがあったけれど、話をはぐらかすばかりで、一向にはっきりと答えようとしなかった。これは、要は、彼ら哲学者自身も、自分が何をしているか分かっていない、という証拠ではあるまいか。一方、科学者は何を問われても明快に回答することができる。もし、自らが間違っていれば、それを認め、自らの説を修正する謙虚さも持っており、それこそが科学をここまで信頼できるものに育てたわけである。哲学者はなぜそういう知的誠実さを持ち合わせないのか

とこういうわけである。それで、スレッド上ではらちが明かず、実際に、その科学者の彼と、哲学者二名だかが討論会の場に出てきて、討論をしたそうだ。もちろん、科学者は一歩も譲らず臨戦態勢だったわけだが、哲学者二人はどうも煮え切らず、やはり科学者の正面切った反論にはきちんと答えられず、話をはぐらかしたらしい。

その科学者の彼は、この世界は遠い将来科学によってすべて解明されるはずだ、ということを自分は信じている、と何度も書いていた。

こうなると哲学者は、だいぶ分が悪い。そう言い切ってしまう科学者に論理で勝つのは、僕が思うに、論理的に不可能であろう。なので、討論会で哲学者が話をはぐらかしてしまった、その気持ちが自分にはよく分かる。

昔は、科学者は、目の前の現実だけ見て理屈で分かることばかり言うが、哲学者は難解で高尚なことを言う、というふうで、科学は青年、哲学は大人、みたいな感じがあったが、いまや、これはまったく通用せず、いまでは、科学は青年から立派な大人になり、堂々と世界の仕組みを科学で語り、勝ち誇っている。一方、哲学は大人から老人(?)になってしまい、哲学はもう、人間の心をケアする心療内科みたいな役割に変わりつつあるのではないか。

心療内科なんて変なことを言うが、自分が哲学の歴史の進行を見ていて思うに、ものすごく大雑把とはいえ、まずそれは存在論から始まり、近代に認識論に移り、現代で実践論へ移っているようで、この実践論のところになると、下手をすると言っていることが、臨床心理学とかその辺に近くなったり、心理学でなくとも、人間はいかに行動すべきか、とかになってきて、そうなると政治も経済も入ってきてしまう感がある。

昔の存在論や認識論のころの「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物の哲学者」はもう時代遅れ、という風に思えて来る。そのせいで、もう、哲学は「世界を成立させている本質とは何か」とか「人間はいかに世界を認識するか」とかの問題追及より、人に行動指針を与えて人の心をケアする学問に移っちゃうのかな、と思えたりもするのである。たとえば、ちょっと前に話題になったた哲学者のサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」 とかそう思えないだろうか。

ところで、「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物」は昔の科学者もそうであった。哲学が心のケアに走ったとすると、現代の科学はどうだろう?

現代社会は、すでに、科学にほぼ完全に支配されているので、科学者は、僕らの生活面での指針を与えてくれる頼れる知者、ということになっている、と僕には見えている。たとえば日本だと、みんな山中先生の言うことなら信用する、みたいな感じ。科学にはその方法論に「謙虚」が含まれているので、みな余計に信用するのかな、と思う。

でも、実際には、その「謙虚」は科学的方法論における謙虚であって、決して「倫理」では無いのだが、みな、容易にその謙虚を倫理と取り違えているように、これまた僕には見える。要は「謙虚な人はいい人で、自分より他人のことを思える人だから、その人の言うことなら私たち全員にとっていいに決まってるよね」ということである。でもこれは、科学という方法の謙虚、という意味だと、ぜんぜん間違っている。だって、もし、上述の通りだったら、科学者は原爆作ったり、人体実験したり、結果見たさに遺伝子操作したり、しないはずである。

科学的方法の謙虚を身につけた科学者たちが、科学の進歩のために、倫理を無視してそれらを進めるのではないか。で、案の定、結果は死屍累々になるのだが、それは人類の進歩のためには犠牲が必要、という大義名分で正当化される。現に、そういう多大な犠牲を払ったうえで、この超快適な現代文明社会になったのだから(もちろん、これは平均的に、である。世界の生活レベルの平均値が上がった、という意味である) 

そういう意味で科学は政治ときわめて親和性が高い。やり方が一緒である。犠牲を払って進歩。人を殺して戦争に勝って発展。

長くなったが、最初に戻ると、とにかく、勝ち誇った科学者は、完全に手に負えず、オレなら、たぶん、逃げる。科学 vs 哲学の討論会に出て来た哲学者、えらいなあ、って思った。