しろうるり

徒然草に盛親僧都という坊主について書いたところがある。その一節にこんなのが出てくる。

僧都が、とある坊主にしろうるりというあだ名をつけたそうだ。で、人がしろうるりとは何か、と訊くと、僧都は、そんなのはわしも知らん。でももしあったらこの坊主の顔に似ているだろう、と答えたそうだ。

徒然草第60段。この段は傑作だ。

しかし、このしろうるりの話がなぜ自分に面白いか。

まずしろうるり自体は誰も見たことがないし、命名主の僧都も見たことがない。そういう意味では存在しない。でも、もし、そういうものが実在したとすると、そいつはこの坊主の顔に似ているはずだ。なぜなら、この坊主にしろうるりをあだ名として結び付けたからだ。

しかし、ふつうあだ名というのは、なにかしらすでに存在しているものにかこつけて付けるものであろう。誰かが猿に似てたり蛙に似てたり、鞄に似てたり、などなど。

それなのに、しろうるりの場合は、実在しないものと結びつけたせいで、その実在は宙に浮いている。しろうるりが仮にどこか中国の秘境かなんかに実在していて欲しいが、僧都は知らないと言っているので、それは実在しない。

したがって、しろうるりが存在していないので、それは、実在を持たない架空のもの、ということになるが、あだ名を付けられた坊主に顔が似ている、ということだけははっきりしている。結局、しろうるりは、実在しないがその形状の一部(この場合は顔)は分かっている、という架空の存在、ということになる。

そして、しろうるりという架空の存在を認めると、いったい、しろうるりがとある坊主に似ているのか、とある坊主がしろうるりに似ているのか、分からなくなるような感覚に陥る。

したがって、この僧都の逸話によって、しろうるりはこの現実に「創造」された、実在する何物かになったのだと言えないだろうか。

これは、たぶん、そもそもの民間伝承が、江戸時代になって爆発的にその数を増やした「妖怪」と同一と思われる。たとえば、一反木綿という妖怪、というのは「木綿の一反」に似た、というところだけ分かっていて、そのほかの特徴は想像力で補われている。

そして、それは、以上によれば、架空の存在であり実在しないけど、妖怪として言い伝えられている。

ところがおもしろいことに、民間伝承ではそれは実在することになっている。逆に言うと、日本の田舎では、「実在」というのをそのように解した、ということでもある。

だから日本国には、しろうるりは実在するのである。ただ、そのしろうるりという妖怪は、その一坊主の顔をしている、というだけで、いったいそれ以外の形状と特徴はどうなっているのか。しかし、白くて瓜実型の顔をした架空の妖怪だろう、などといって放っておく気がしない。

なぜかというと、「しろうるり」という日本語の音の配列が秀逸で、自分はまったく放っておけないのである。ほとんど芭蕉の秀逸な一句と同じていどに放っておけない。この芸術的創造は、盛親僧都の才能ゆえなのであろうか。

しかし、僕がおもしろい、と思うのが、その彼の日本語での創造能力、芸術的能力、天賦の才能、といった現世的なもろもろのことから、この「しろうるり」がいとも簡単にすり抜けて、架空であるが実在する妖怪の闊歩する世界へ編入されてしまうことである。

それは徒然草の文を読んでみると、僕には瞬間的になされる技に見える。そのようにして、しろうるりは僧都の手をあっという間に離れて、独自の実在を獲得してしまう。しろうるりが提出されたと同時に、しろうるりが実在してしまうせいで、僧都の芸術能力は、その創造物とまったく関係ないものになってしまう。

これこそが優れた創造、というものの正確な性格ではなかろうか。

くだくだ書いたが、結局なにがいいたいかというと「僕はしろうるりが好きだ」ということに過ぎない。

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