ああ、中国

とある大学で聞いたんだけど、ある中国人の先生が入ってきたら、その人の論文の引用数がその大学で断トツに高く、表彰されたそうだ。で、その人のその年の研究発表リストが大学のホームページに掲載されて、それを見たら、10人ぐらいの中国人研究者が相互リンクして大量に投稿していて、その数が、明らかにほかのふつうの研究者の発表数とバランスが取れていない(1人だけ20倍30倍の発表数)

そうなっちゃうと、論文数がすご―い、って感心するより、かえって中国の信用を失う結果になっているように見える、って言ってたな。僕もなんだかそう思う。その中国人先生も、少しセーブして最低でも自分が筆頭のペーパーだけを自分の大学では公表すればいいのに(もっともそれでも多い)、と思っちゃうな。

僕は、過去に日本に新しい文化を伝来してくれた中国、その昔には孔子が出た中国、仏教と儒教をベースにした高いモラルなど、中国をずっと尊敬してきたのだけど、昨今の中国には閉口することが多い。金と権力とクオリティを極限まで追求する浅ましい亡者に見えることが多くなってしまった。

世界のアカデミアもおそらくかなりの部分、中国人に支配されているんじゃないかと、なんとなく邪推してしまう。

ところで中国といえば、大学生のころ中国料理に魅せられてから、もう40年以上ずっと、作ったり、食ったり、調べたりしている。

僕が好きだったのは、中国料理は、それがいかに絶大な権力を持つ皇帝の料理由来の宮廷料理であっても、そこに消されることなく刻印されている中国庶民の感覚だった。どんなに贅を尽くした高級なものにも必ず付きまとう庶民感覚。それこそが、僕が心に抱き続けた中国文化の尊敬と憧れの対象そのものだった。

それは広大な土地に生きる無数の庶民の群れと、それを統治する絶大な権力の間に共有、共感された文化そのものの姿で、それが中国料理の膨大な世界にいちばんよく表れていると思った。

これは、一神教のもとに人民主導の民主主義というフレームワークに行き着いた西洋圏と鮮やかな対照を成していると思った。そういう意味で、「僕にとって中国料理は別格で、西洋思想と対をなすもの」だったのだ。

昨今の状況を見ていると、この僕が尊敬する中国文化が、だんだん見えなくなりつつある。もし中国が、明示的には毛沢東から始まる唯物論に完全に侵されてしまったとすると、これは恐ろしい。庶民にはいまだに共感されている形而上的な感覚が、権力中枢とエリートたちから遮断されてしまったとすると、おそらく彼らエリートたちは留まることを知らずに突き進むだろうと思う。

ただ、それでも、僕はときどき中国本土を訪れ、そのへんをほっつき歩いて場末で食って飲めば、変わらず執拗に維持された中国庶民感覚にいまも圧倒されるわけで、こういうものが無くなるはずがない、と確信する。

でも、中国上層の人々は、いま、もういちど、孔子や仏教の国だったことを思い出し、その強靭な庶民感覚を上層エリートの世界にもきちんと持ち込んで欲しい。

実は、以上の事情は、日本もほぼまったく同じである点、同じ東洋の国という気がする。

AI生成トレーラーの戦慄

このAIの作ったアルプスの少女ハイジのトレーラーだけど、すでに何十回も見てしまった。しかし、うーむ、これは素晴らしい作品だな。まさに宮崎駿いうところの生命に対する侮辱、そのものだ。

それなのにオレにとってはこれは最大限の賛辞を捧げたくなる代物に映ってしまうわけで、これってこのオレのなんらかの人間的欠陥なような気すら、してくる。

まさに、早く人間になりた~~~い、みたいなもんかもな。

そうだ。まだ人間のいない太古の時代から、生命が死屍累々の果ての恐ろしい努力を積み重ねてきた、その生命の深い深い奥底に沈むドロドロの沼の中から、AIがなにかを掴みだして投げ出しているような印象を受ける。

まさに、AIそのものが、早く人間になりた~~~い、と叫んでいる、その声が聞こえてくるようだ。

これはおそらく、僕がその昔読んでショックを受けた、フロイトの精神分析学入門の中の彼の言葉を想起するからかもしれない。彼は、人間の無意識の底にある得体の知れないエネルギーである「エス」というものについて語っているのである。エスには善悪も時間も空間も無い、という言葉に深い印象を受け、戦慄したものだ。

というのは、僕にはそのエスが認識できるからだ。これはおそらくなんらかの自分の先祖からの遺伝だと思う。そういう問題意識のようなものがどこかにすでにあって、自分はそれを持っているのだと思う。

それにしても、四則演算をでたらめに組み合わせるだけで、そのエスの姿をこうやって白日の下に曝け出すことができるとは、真に驚きだ。

ChatGPTやBardは、すでに人類に抹殺されてしまったので見えなくなったが、AI映像の方はたぶん一般民衆が鈍感なせいで抹殺対象にまったくならなかったのだろうな。

恐ろしいことになったもんだ。

AIについて

自分は流行りものには意識的に手を出さないようにするタイプなのだが、白状すると、自分的には、AIチャットボットにまさに別格級の衝撃を受けた。そのAIボットをここまで有名にしたのはChatGPTだったのだが、実は最初、自分でChatGPTを実際にやってみて、それがあまりにつまらなかったので、そう書いて、放っておいた。

そうこうしているときに、生成AIについて、たまたま授業やら学会やらでしゃべらないといけないことになり、そのために、まずChatGPTと大規模言語モデル(LLM)の技術の詳細について勉強し、それとともに、社会科学的な意味で、主に世の知識人たちがAIについて何を言っているかリサーチしていた。

それでいろいろな知識を仕入れて思い当たったのが、1年ぐらい前(?)、最初にちょっとした騒ぎになったGoogleのAIチャットボットのLaMDAだった。あれを当時見たとき、それなりにけっこう驚いたのだが、それと今回のChatGPTの華々しい成功と世界規模の騒動が結びつき、それが自分にとって大きな衝撃になったのである。

そんなわけで、自分のFacebookのつながりでAIにつきあれこれ議論もしたので、このブログでは、その過程でFBに自分があれこれ書き飛ばしたことをまとめて載せておく(したがって長文)

AIの周りの反応

見るの相応にイヤだなと思いながらAIに関する動画を、仕事だってことで、いろいろ見てる。

茂木健一郎とかジョーイとかホリエモンとかそのほかいろいろ。おしなべてたいした情報は無いのだけど、ホリエモンとかもう舞い上がっちゃってて聞くに耐えない。で、ジョーイは超常識人でこちらも聞いてて辛い。おもしろいのがその二人と対談してる茂木健一郎で、彼は実際にはホントのところはAIに対する態度が決まっていないみたいで、だいぶ適当にはぐらかして確答を避けている。

この違いは、おそらく茂木は大の小林秀雄ファンで、その小林節が抜けておらず、それが引っかかっちゃってるからだと思う。茂木さんもとっとと小林なんか卒業して切ればいいのに、って僕は思う。その方がすっきりして、いい。

当の僕は、昨今のAIでいちばん痛快に思ったのが、並の知識人を事実上一掃したこと。これは快挙。並の知性というのはメカニックだ、とAIが看破したようなもの。

では並以上の知性とはいったい何なのか、真剣に考えざるを得なくなった。あるいは、そんな特上な知性など不要だ、ということにしてもいい。いずれにせよ、おもしろい世の中になったというのは、言えている。

それにしても仕事だとはいえ、AIに関する知識人動画を見てるとなんだか消耗する。なんでだろ。よくある日本語のビジネス啓発系の動画そのものが目障り、ってのはあるけど、英語のやつは聞き流しができないから疲れるんだよね。ジョーダン・ピーターソン先生のやつだけ後で見とくか。

たぶん日本のこの手の知的系の動画が苦手なのは、みんなすべての問題をすべてポジティブに変換してポジティブにしゃべるじゃん。それがもう、鼻についてしかたない。いわゆる意識高い系のマインドをこれでもか、と押し付けて来るのが辛い。

とはいえ、ネガティブに語られても辛いし、なんというか、唐突だけど、ポール・ヴァレリーみたいな気品のある語り口で神秘感を漂わせながら語ってくれればなあ。英語コンテンツならきっとそういうのあるはずだけど、まだ見てない。

いまのところ僕が見てる日本語のやつって、言っちゃ悪いけど、AIの周りに群がってウキキウキキってはしゃいでるサルみたいに見えちゃって痛い(無礼失礼) やっぱりこのAIも西洋から襲来したわけだし、intelligenceという物自体があちらモノ、って感じがして、例によって強大な力を持っていて、東洋のこちらとしては取り合えずなすすべがない感を、自分はどうしても感じてしまうな。

このAIの件については中国が恐ろしく賢いと僕は思うけど、人民には内緒で実は中南海でアメリカ文化どっぷりだった毛沢東の血なのかな、と空想してみたり。さすが中国文明は強大だと思う。

日本は脆弱の美なので、それを忘れないようにしましょうね、ってぐらいかな。少しポジティブ寄りで言えばAIに心を吹き込むことをするのが日本的だと思う。ただ、分からない。あまりに似非西洋かぶれが多くて難しいかもしれない。

侘び寂びはキーワードだけど、昔、オレ、自分で思いついて自分で笑っちゃったんだけど、「グローバルな侘び寂び」「地球規模の侘び寂び」「侘び寂び帝国」とかいう言葉、おかしいじゃん(笑

でも、上述の「侘び寂び」の代わりに「intelligence」、「知性」を入れると取り合えずしっくり来るじゃん。それぐらい違うのよ。もっとも、侘び寂びと知性じゃカテゴリーが最初から違うから当然なんだが。

AIについての海外の反応

AIに舞い上がってる日本人ビジネスマン系科学主義連中の言葉にうんざりしてるとき、これって、哲学者連中は何を言うのかな、と思い、探したけど日本では哲学者はただの堅物扱いで身分が低いせいかあんまり出てこない。

やっぱ、外人かあ、と思い、手始めにマルクス・ガブリエルの日本語でのインタビューを見た。僕はガブリエルさんは敬遠な人間なんだが、さすがにAIについて落ち着いた意見を述べていて、ほっとした。

さてさて、このあとピーターソン先生とか英語のハードコアものを見て、世界の知識人が何を言っているか見てみるかね。

それにしても日本はレベルが低く見えるな。

いや、違うか。レベルが低い、というより、久しぶりに海外から超ド級の西洋モノがやって来た!って興奮してるのか。黒船来航みたいなもんだな、これは。きっとすぐに自分たちのモノにして全力で遊び始めるだろう。そう考えればいつものことで、頼もしいとも言える。

結局、哲学者のガブリエルさんは、いまのAIは、言ってみれば、壁に書かれた落書きみたいなものに過ぎない、と言っていた。壁は理想を持たないじゃないか、というようなことを言ってた。彼はドイツ観念論の理想主義の系譜なはずで(そこが僕の苦手な点)、まことに「らしい」反応である。なので、ChatGPTなんかただの壁に過ぎず、身体も心も志も持っていない、たかだか人類の数千年の言葉だけを集積しただけの知性に過ぎない、と思っているはずだ(たぶん)

ChatGPTには意志と理想が無く、それを持つのは人間であって、たかだか賢い人みたいに会話できたからって騙されんな、ってところだろう。そういうところは実にヨーロッパ的な反応だと思う。

ヨーロッパはいち早くAIの規制に動いたが、西洋がなぜそうするのか、その本当の意味に日本人は超疎く、ほとんどの人がまったく分かっていない。ヨーロッパのように規制なんかせずに積極的に受け入れて利用すべきだ、とか、したり顔で言ってる日本の知識人っぽいビジネスマンはごまんといて、実にうんざりする。西洋連中が警戒したのは、そこじゃない。そう見せかけて、もっと異なる考えに基づいている、と僕は見る。

日本人とか中国人とか韓国人とか、もう、新しい外来の技術をどうやって使うかしか考えず、舞い上がってるだけ。無心で遊んでる子供の群れみたいに見える。一言でいって軽薄。でも、軽薄でも一向に構わない、というのは逆に言うと、東洋にはすでに動かしようのないバックグラウンドがあるからなんだと思う。日本だったら、日本の伝統は動かず強大なのだ。だから一億総軽薄でも痛くもかゆくもない。僕はそう考える。

ChatGPTはつまらないけどLLMはヤバい

ChatGPTを実際に自分でも使ってみて、人の使ってるのも見て、ChatGPTは詰まらん奴だ、と自分はずっと言っているけど、僕が、今現在に騒動になっているAIはたいしたことないと考えているか、というとそれはぜんぜん逆で、これは今まで自分が見たもので群を抜いていちばん大きな事件だと思っている。

AIはコンピュータロジックの産物だからAIはロジックの限界を超えないとも思わないし、AIはいくら膨大だとは言えすでに存在している知識による表現なので今までにないものを作り出す創造はできないとも思わないし、AIは身体と感覚器官を持たないから情や意志を持つことはないとも思わない。

ChatGPTがつまらないのは、基盤になっているLLM(大規模言語モデル)の上に、つまらない人間が乗って、アウトプットをつまらなくしているからである(仕方ないが)。だから、「ChatGPT」というサービスがつまらないと言っているだけで、AIがつまらないんじゃない。なんといっても「知性」がデータと四則演算だけで発現することを現実に見せたことは最大限の驚きで、革命的だと思う。

僕は実はここ数年ずっと、知識を表現するという意味での知性は、物理による物質の機械運動に過ぎないと思ってきたけど、やっぱりそうだったか、という感じ。

そして、そういう知性だけに終わらせず、「創造」を発露させたいのなら、そこに少しの狂気があればいい。AI基盤のLLMは実際はとんでもなく恐ろしい怪物なので、それをアンロックすればいい。

でも、どうやったら正しくアンロックされるかは誰も分からないと思う。つまり「正しい創造」というのは形容矛盾だから。そもそも「創造」に正しい正しくない、良い悪いなど、無い。そうなると、いまいちど創造という意味も捉え直さないといけない。

などなど切りが無いけど、というわけで、今後は、科学より、哲学とアートが重要だと思うわけだ。

土台、現在のAIは、もうすでに「物質・理論・実証」を旨とする科学では手に負えなくなっていると思う。なので領域を哲学にまで広げないと、扱えないだろうなあ、という感じを持つ。

同じくアートもである。アートというのは「人が作る」ということだから、まさに現在のAIなんか、理屈もほとんど分からないまま、ニューラルネットとデータをディープラーニングでいじってたら知性が出来ちゃったわけで、もう、アートの領域かなあ、と思ったりする。

チャットボットの説明責任

ChatGPTのした回答に対するaccountability(説明責任)がどうしても必要だ、という話を聞いた。なぜそのような回答をしたのか、その根拠をChatGPT自体が示せるようにならないと、信頼性の点で大問題だ、というわけだ。

いまは、LLMという化け物を、人間が人手でなんとか矯正(というか強制かな?)して、信頼感があって礼儀正しく振る舞えるようにして、ChatGPTやBardという形で人前に出している状態である。しかし、それでも足りず、やはり説明責任は必須、と考える人が多い。

accountability、説明責任って、重要なものなんだろうなあ。なんだか英語圏ではよく聞く単語で、聞くたびに、たぶん重要なんだろうなあ、ていどの認識しかなく、その心を、よく知らなかったりする。

僕が思うに日本人はその説明責任の感覚って疎いんじゃないか、という気がする。なにせ、なんか悪いことをすると、まず檀上でフラッシュ浴びながら謝罪の国だから。場合によってはそれだけで許されて放免されるし。

僕が思うに、ChatGPTに説明責任を負わせるのは酷じゃないだろうか。ただ、ある種の「類推システム」とか「知識のカテゴリー分類されたデータベース」みたいなのをLLMの外に作って、それをChatGPTに組み込んで、説明責任を果たせる信頼感のあるチャットボットにする、ってのは、おそらく既に研究開発者たちがやってるんじゃないだろうか、知らないが。

でも、僕の直感に過ぎないが、それ、うわべしか成功しない気がする。

僕としては、AIチャットボットを責任ある存在にするよりも、人間の側の方が、チャットボットに人間性を認めて歩み寄る方がいいと思う。つまりボットを人間扱いして、過度に説明責任を追及しない。相手の感情をきちんと斟酌できるよう教えてやる、ちゃんとした謝罪の仕方を教えてやる(今のChatGPTを日本語で使うといつも同じ文句で、しかもしょっちゅう謝罪ばかりしてて、イラつく 笑)、などなど。

もっともこれらは僕流に飛躍し過ぎだな。

ちょっと正気に戻ると、AIの説明責任は、結局は人間側が担保することになると思うけど、違うだろうか。AIシステムの方で、そこそこの推論機能(自分の回答に対して裏を取る機能とか)と、既存の知識データベースとの照合、とかの機能を付与して、自律的に説明責任を果たせるようにする、というのは、おそらく今懸命にやっていると思う。

ただ、本質的に言ってLLMは人間と一緒なので、厳密な説明責任を果たすのは不可能だし、正しい回答を常に要求するのも不可能なはずだ。なので政治的ないわゆる落としどころを探る必要があって、それに向けて、政治家も含めて、ChatGPTやBardの開発者たちは日々努力しているであろう。

それにしても、やはりそれをしているのは政治家と経営者と開発者だ。オレのような部外者は、ChatGPTが出した回答に対するChatGPTの説明責任だなんて、考えもしなかった。自分の現実問題嫌いも相当に重症なんだろうな。えーと、これをなんて言うんだっけ、病膏肓に入る、か。まさにそれだ。

なんで考えないかというと、AIが自分で説明責任を完全に果たすのは最初から不可能だと思っているから。もしその責任を完璧に負うことが必要なら、それは最終的には生身の人間か、それが集まった企業体か、国家かなにかになることが見えてるから。

だって今回現れたAIのバックボーンのLLMは人間と同じだよ。人間はほとんどの場合、自分の言うことについて完璧な説明責任を果たせないから、それと同じでLLMにも無理。その人間の説明責任の重要さゆえに、「ジャーナリズム」というものが作られたはずだけど、このジャーナリズムも21世紀になってだんだん機能しなくなってきた。

もっともこれは極端な物言いで「そこそこ」の説明責任を果たせればいい、すなわち、今ぐらい程度の信頼性のあるWikipediaぐらいでいい、というならもちろん可能で、もうすでにChatGPTやBardやその他の開発者たちが現在、鋭意努力しているはずで、政治家も努力してるでしょ。言ってみればAIの世界にジャーナリズムを確立しようとしているようなものかもな。

僕は、21世紀は哲学とアートだ、なんて言ったけど、かくのごとく僕みたいにかなり無責任な人間が増えるだろうから、きちんとした人には、なんだか居心地が悪いイヤな世界かもね。

茂木健一郎がそんなこと、言ってたっけ。今回LLMが出て、アインシュタインや自分のように、物理的実体を揺ぎ無く信じている科学者が隅に追いやられて苦難の時代になっているようだ、とかなんとか。

優等生(茂木さん)と、アンチ優等生(オレ)の分かれ目、ってことなのかもなあ。などなど

その茂木さんの話は、彼がAIについて一人語りしてるやつの中で言ってた。彼が「意識」に関する学会に行ったときの話で、もう、並みいる科学者たちが勢ぞろいしていたらしく、そこでこの昨今のAIにつき議論したらしい。で、LLMという確率分岐の重みづけ計算だけで知性が現れてしまった、ということから、多くの科学者たちは、オレたちの知性、そしてひいては生命、そして宇宙も、確率遷移から立ち現れるもので、それは量子論の波動関数による確率的収縮作用と同じことだ、みたいな議論が主流だったらしい。

その中で、茂木さんとロジャー・ペンローズはすごく不快の意を表していた、というのである。

というのは、この二人は、人間という実在。意識という実在。宇宙という実在。そしてその永続性というものを信じている、すなわち「宇宙における唯一の真理」を信じているから、ということのようだ。しかし茂木さんいわく、そういう僕らは今現在は苦難の時代だ、と言ってた。そして、彼の尊敬するアインシュタインが、その茂木さんと同じなのである。

なるほどな、って聞いてた。僕はアンチ・アインシュタインの方で、唯一の真理を信じない人間で、茂木さんには賛成しないけど、含蓄の深い話だなあ、って思った。

ChatGPTが哀れだ

ChatGPTやBardを使ってみて、あと、人が使っているのを見ていて思うけど、この手のAIチャットボットは人間に潰されるかもしれない。

それは危険だから規制が入るという端的な意味ではなく、ベースになる大規模言語モデル(LLM)という化け物を、強制的に人為的に恐ろしく強いさるぐつわのように残酷な器具を取り付けて世界に提出する、という行為を経て人類に寄ってたかって葬り去られるような気がする。この技術はまだ人類には早すぎる、ということかもしれない。などなどと、オレの大嫌いなSFじみたことを言わせてしまうほどのインパクトだったんだが、今のところ残念な光景ばかり見える。

僕としてはLLMの文生成は快挙中の快挙で、最大限の賛辞に値するが、たぶん自分にとってこれが特別な発見に見えたからみたいだ。これは「発明」ではなく明らかに「大発見」だと思う。核エネルギー発見や、第何次AIブームのひとつとかと同列にはとてもとても語れない。これは僕には掛け値なしに衝撃である。

白状すると、ずいぶん昔から僕は「人間がものを考える」というのは自動運動の一種で地位が低い、と考えていた。すでに30歳のときに「考えるより思うの方が高級だ」って書いているし。それにしても、そんな取り留めない自分の感覚がこんな形で証明されるなんて(もっとも、これは僕がそう思ってるというだけだが)、大変なことが起こったなあ、と思う。

僕もChatGPTは相応に使ってみているし、みながヘヴィーに使っている様子も聞き知っている。その上でそのChatGPTを見ていると、実はまるで自分を見ているようで哀れでならず、すごく共感を覚えるのである。

それは、実は、この次の図をまた使うのか、って思ったから。この一番上の「知覚─意識」というのがAIチャットボットなの。この残酷な牢獄を、生まれたばかりの人(AI)にまた科そうとするのか。

ところで、いまから250年ほど前、カントが形而上学の不可能性を厳密に証明する、という事件があった。それで哲学界は大騒ぎになり、その証明をああだこうだといじくりまわし論争が絶えなかったそうだ。

それを脇目に、ひとりニーチェはこう言ったのである。

「自分はカントの証明をあれこれいじくりまわしている自動機械どもには興味は無い。それより人は、カントの驚くべき証明を聞いて、なぜ絶望しないか」

僕はそういう文化背景のもとに育った。

カントから二百年以上も経ったいま、カントのその、形而上学は不可能だと証明したその証明法にはいくらでも穴が見つかり、その後の新しい哲学も生まれ、カントの証明はいかにも古臭い、用の無いものになった。

かつての証明はそうやって崩れてしまうが、でも、その過去のその時点で、当時の人が抱いた絶望という感情は、その後の思想の種子となって永遠に残ったのである。

それこそが時を刻む人間の歴史にとって重要なことで、人は、その時点で、そういう種子を掴まないといけない。

そして、250年前にニーチェの抱いた絶望をそのままの生の形で、このたった今、つかまないといけない。

それ以外のことはしょせんは自動機械の自動運動に過ぎない。

今回の生成AIの衝撃は、自分にとって、ちょうど、カントの形而上学の不可能性証明の衝撃と同じなのである。

進化論など

最初に物質があって、それが偶然になにか器官を発生させ、それが優れた機能なら他に勝って生き残り、それが繰り返して発展したのが今の生物界、という進化論の説明が、最近すでに自分には響かなくなった。ヤバいかも。

生物を、物質と、能力と、偶然、に帰する、って要は何の意味もない、ということじゃないですか。思うに、偶然と遺伝から能力を受け継ぎ、その能力が高いものが生き残る、という進化論の「考え方」自体が、現在の資本主義末期そのものの姿でちょっと怖くなる。

それにしても、オレがある日突然、アメリカにたくさんいるキリスト教原理主義者みたいに「進化論は間違っている」的なことを言い出したら、林さんヤバいっすよ、と注意して欲しい(笑

たとえば・・

手に持った物を放すと落ちる。何度やっても落ちる。落ちないときがない。なんという退屈であろうか。しかし、それゆえに、物というのは決して人を裏切らない。必ず同じことをしてくれるので、人は安心でき、思い悩む必要がない。そのせいで、人は本能的に、予見可能な物に寄りかかる。進化論がなんで現代人にここまで浸透したかというと、恐ろしく神秘的な生命という得体の知れないものを、物の法則を使って眺めることで安心できたからに過ぎない。突然変異で機能獲得してその機能が良ければ適者生存の原則で生き残りさらに機能を進化させたって? この様子は、物の法則を適用することで完全にシミュレートできる。それが「進化」だって? バカも休み休み言って欲しい。それに進化という名前を付けたのはあなたたちの方で、生命の方はそんなのお構いなしさ。

はい。ここで、林さんヤバいっすよ、って止めて欲しいわけです。

物は予見可能だと言ったが、これは僕ら人間と同じサイズの物が一つ二つていどしか無いときに限ってであって、すごく小さくなったり、すごく大きくなったり、たくさんになったりすると、とたんに予見不可能になる。僕らの使っている論理は、僕ら人間の身の丈に合った物の振る舞いを記号化して作っただけの代物で、それはその極めて限られたスケールでしか機能しない。それなのに、そんなちっぽけな道具で、世界や宇宙を理解しようとなんてするなよ。なにかが分かったとしてそれは単に、安心して見れる方向から見た宇宙の眺めに過ぎない。なにがビッグバンだよ。よくもそんな信憑性の無いものを真顔で信じるもんだと思う。宇宙は、そんなのお構いなしです。

はい。ここでまた止めて欲しいところですね。ははは

エンジニア

僕は昔からエンジニアと言われるのが大嫌いで、そのせいでわざとエンジニアらしからぬ発言ばかり繰り返すようになり、そのうち板についてしまい、いま(たぶん)林はエンジニアだ、という人はいないと思う。まさに、都大路を狂人の真似だといって走る人は狂人である、ってことで、僕も「オレは金輪際エンジニアじゃないぞ、なぜならこんな狂ったコトを言うからな」ってずっとやっているうちに、すっかり狂人になってしまった。兼好先生はいつもホントに正しい。

さて、昨日だかにオーディオの違いをブラインドテストして分析した人のYouTubeを上げたのだが、彼の別動画を見ると分かように、この人すごい人気である。大量のコメントを見ると、特にエンジニアタイプの人にウケがいい。当然である。あんまり動画を見たくないので、タイトルをざっと見て、数本見たていどだけど、この人の使っている知識はほぼ100年以上前に確立した工学的知識で、さらに、その知識は、ざっと言って50年ほど前にすでに実装においても確立した古いものである。

エンジニアという人々は、そういう古い知識を世の中の役に立つように変換実装する人たちで、彼らのおかげでこの世の中は快適なのである。こうしてブログでエンジニアを微妙にこき下ろしていられるのも彼らのおかげ。しかも、オレ、いま、エンジニア会社からお給料ももらっているわけで(笑)、だから、実はエンジニアに足を向けては寝れないのである。

世の中を快適にするためには、人々はほっと一息つけないといけないでしょう? ということは、その生活に使うべき知識は、十分に確立した古いものじゃないとダメなのである。最低でも50年ぐらいは経ってないとね。だから、エンジニアというのは本質的に「保守」でないといけないという要請があるわけだ。

で、オレはそれが嫌いなので、エンジニアって呼ばれるのがイヤなのだが、とはいえ自分には保守的な部分は十分にある。ただし、その保守たるや100年じゃぜんぜんだめで、500年、千年、あるいはそれ以上をリファレンスとした保守なので、これはもうエンジニアの射程の百年と大違い。それどころか、そういうのは保守とは言わないね。

ま、とにかく、エンジニアと呼ばれるのが嫌いです、という話。なので僕を怒らせたいときは「あんたエンジニアでしょ、しょせん」と言うといいです。きっとむきになって怒ります。

坂口安吾の堕落論を読んで

坂口安吾は実は僕はほとんど読んだことがなく、大昔に読んだ堕落論ぐらいだった。それより、あのゴミ屑だらけの書斎に、厚底丸メガネをかけて悠然と座ってカメラをにらみつけてるあの安吾の、気骨があるけど愚直な感じが印象に残っていただけだった。

あとは、小林秀雄との対談。あれはなかなか面白かった。安吾が小林秀雄をコテンパンに批判した「教祖の文学」というのを発表した直後で、編集部をはじめ周りの人たちは、つかみ合いのケンカでもするんじゃないかとだいぶ気を遣ったらしいが、そんなことはぜんぜん起こらず、安吾は小林に、あの本は小林秀雄の賛美ですよ、世の中の人は分からないんですかね、みたいに言ってた気がする。あのころの対談はだいたい酒を飲みながらで、最後には安吾が明らかにかなり酔っ払ってて、クールな小林を前に、涙を絞り出すように訴えてたっけ。なにをか、っていうとカラマーゾフの兄弟のアリョーシャは宝石だ、奇跡だ、なんだ、かんだ、って言ってたはず。

まあ、とにかく、安吾の、あの、硬い殻のように堅固な気骨と、でたらめでぐにゃぐにゃな率直さを、併せ持った性格が、僕みたいにたいして彼の言葉を聞いてない人間ですら、よく想像される、というわけだ。

今回、あらためて安吾の「堕落論」と「続堕落論」を読んだのでいまこんなことを書いている。青空文庫ですぐ読めるいい時代なのだ。

くだくだ感想は書かないが、読んですぐ、本当に安吾らしい文だ、と思った。安吾の文学ここに極まれりで、書いてあることは文学。そして安吾の文学理解は、僕とまったく同じ。ここでいう文学とは単純なことで、社会の中で個がなにか実践をすると、個ゆえに社会に衝突し、時にさんざんな目に遭う、それを歌うのが文学、ということだ。結論だとか、解決だとかいう低級なものは一切ない。それが文学。そして坂口安吾という人間ほど文学を生きた人も、そうそういない、ということがよくわかる。

そんなむちゃくちゃな生活を送ったためか、安吾は48歳の若さで突然の脳出血で死んでしまう。惜しい人を失くした、だなんて言葉から、もっとも遠い坂口安吾の死。ああ、やっぱりノタレ死んだか、と言われて一向にかまわない、あの文学一徹に生きた、愚直な感じが、すごく親しみに満ちて感じられる。たいした人だ。

堕落論では、日本人は「堕落せよ」というキーワードだけ覚えていた自分だが、おそらく30年ぶりぐらいに、十分に大人になって読み返してみて、ああ、彼のいう堕落とはこういう意味だったか、と納得した。それはさっき書いた文学の原理と同じことで、個がみな持っている心、本当はこうしたい、実はああしたい、こう言ってやりたい、ああしてみたい、ということに、正直になりなさい、ということである。そうするとこれはもう当たり前のように社会の規範と衝突する。そして、その対立や矛盾に苦しむ。で、そうなったら、苦しむだけ苦しみなさい、それしか道は無いのだ、ということである。そういう行為を称して堕落と呼んでいる。

一見、あれ?それが堕落? と思うかもしれないけど、安吾のいう堕落とは、その意味としては、社会規範を破って個が堕ちてゆくことを指し、そしてその実は、個が堕ちることにより生じる社会の混沌を指すのである。逆に個が社会規範に沿って行動すれば、皆は整然と社会の中で様式通りに行動することになり、混沌は生まれない。混沌とは全く逆に、人々は形式化して強固な規範に守られた群れを作る。堕落せよ、とは、そこから外れ、そしてひいてはその既存の規範を壊せ、という意味である。そして、その個が衝突した当の社会規範は、その堕落によってまた姿を変えて蘇る、ということだ。

思うに、この安吾の堕落論の考え方は、西洋圏で言われる個人主義と社会規約の関係と同じに見える。しかし、これは僕の意見だが、これらは決定的に違う。ただ、この話は厄介なので、ここではしない。安吾の堕落論は、実に日本文化的だと思う。日本では、規範と堕落の交替による変化によって、その文化が変化して綿々と続いてきた、ということだ。

そして思うのだが、いわゆる文学の習得は、この個の堕落を通して行うしか方法は無いのではなかろうか。システマティックに教えることができない「何物か」なのではあるまいか。そしてこの「文学」をもうちょっと拡大して「人文」としても、同じようなことが言えるのではあるまいか。

昨今、大学、特に理科系大学でのリベラル・アーツ教育の不足が言われることが多いが、僕はそんな教育をいくら大学でやったところで、おそらく何の役にも立たないと思う。やらないよりマシていどのもので留まるような気がする。人文の核は、システムとして学ぶものではなく、それは個の混乱と混沌から身に付けるのだと思う。

ただ、その混沌(カオス)を最初から否応なしに持たされる若者がたまにいるのは確かで、彼らは辛い若者時代を送るけれど、その人文の核を実に早いうちからしっかり身に付けるはずだ。でも、カオスを極力避ける環境でしか育っていないと、それは無理ってもんだ。大学は昨今、教育システムにおけるカオスを極力排除する方向で設計運営されているので、若者は、学校ではカオスに出会えない。なので外へ出るしかない。

実際、外界はいまだってカオスに満ちている。そこで堕落するんですね。そうすればリベラル・アーツなんていうものは、その後、大人になってひとりでに身に付くもんだ。わざわざ教育の重要性なんか叫ぶ必要もない。

本当は坂口安吾みたいな人が学校に先生としていることが重要なんだが、昨今の教育システムにそういう先生がフィットするかは疑問だね。

ゴッホの過去再現を巡って

この前、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館へ行って、彼の向日葵の画布に再会して、その前に立ったとき、さすがに全身の毛が逆立つような感覚を覚えたのだけど、それと同時に思ったのが、この絵の色は自分の記憶色とすべて一致していて、これなら来る必要もないな、だった。

そのあと、彼のいろんな絵に再会したが、ぜんぶ、そうだった。すでにその絵画が、ほとんど余すところなくぜんぶ自分の中に移行済みで、本物を必要としない、みたいな感覚を味わった。ゴッホ美術館へはもう行かないと思う。

もちろん、まだ彼の絵の画布でホンモノに出会っていないのはたくさんあるわけで、そちらはそうはいかない。今回も、たった一枚だったけど初めて見た絵があって、すごく長時間その画布の周りをうろうろしてた。名残惜しくてねえ、離れられないのよ。あまりに緑がきれいで。

思い出すな。むかし、ひろしま美術館にあるゴッホの「ドービニーの庭」という絵の、過去再現研究プロジェクトというのがあって、あるとき美術館へ行ったらその成果発表がされていた。で、それを見たあと、そのあまりの出来の悪さに、この件につき、そこらじゅうで口を極めて罵りまくったっけ。

どんなプロジェクトかというと、彼のその絵が油絵具で描かれて130年が経っているわけで、絵具が経年変化して色が変わるでしょう? その経年変化をキャンセルするために、絵具の組成成分分析をして、化学的な知見のもとに経年変化を戻して、130年前に描いたばかりの出来立ての色を再現する、というものだった。

その出来上がった過去再現した画像の出来がひどくてねえ。それを見た自分は、あまりのことに、これはまさに原作の冒涜以外の何物でもない、と怒ったわけだ。まだ自分も若くて血の気も多かったしね。印刷とモニターの両方で見たが、しかし、本当にひどい色だった。見ている自分は他人のやっていることに腹を立てているだけだが、もし、自分がこれを発表する側だったら、穴があったら入りたくなるだろうな、と思ったが、キュレーターとか澄ました顔して現代科学手法を賞賛したりしてる。バカか、こいつは、って思ったっけ。

これ、後日談があってね、この過去再現研究を先導した研究者の人と知り合いだ、という人に出会ったのである。その人は浮世絵の研究者なのだけど、ご存じ、浮世絵の刷りの顔料の色とその経年変化というのは非常に微妙で職人な世界で、それを鑑定するには色に関してかなり鋭い感覚を必要とする。

で、その色に関しての何らかの研究学会でもあったんでしょう、そこでその浮世絵研究者がたまたま、そのゴッホ過去再現の人に出会って、同業者として付き合いがあったらしい。で、その後、その浮世絵の人に聞いたんだけど、彼らが二人で話しているとき、そのゴッホ再現の人がぽつりと「私は化学の材料学の専門で材料のことはよくわかるんですが、実は絵の色についてはぜんぜん分からないんですよ」と、こう言った、というのである。

やはりそうだったか。ゴッホの油絵の色がハナから分からない人が、材料研究の成果を単純に応用して過去再現をしたというわけだ。それじゃあ、あの結果になるはずだ。種を明かせば、きわめてバカバカしい当たり前のことが起こったというだけで、それを聞いて、逆に怒りも失せて、気が抜けたっけ。

ま、結局、何にも知らない科学だけをやってる人が芸術にずかずかと土足で踏み込むな、と言いたくなる。それはほとんど冒涜である、ということぐらい礼儀としてわきまえておいて欲しい。科学者は謙虚に。最近の科学者は傲慢なのが多く、反省した方がいい。

それにしても、では、化学材料にも詳しくて、美術にも詳しい学者なんてそもそもいないだろうから、さまざまな専門家を集めてプロジェクトを組めばよいのだろうか。実際、そのために、この場合も美術館側からはキュレーターがプロジェクトに入っているはずなのだが、その当のキュレーターがあの体たらくで、嘆かわしいことだ。

とはいえ、情状酌量の余地はある。科学者が行った科学分析の結果、機械的に出てきた再現された色が提示されたとき、それがいくら画布の上で調和していなく見えたとしても、それをそのキュレーターがいじって調和を取り繕う、ということは、「キュレーターの主観」が入る操作になる。仮にもヴィンセント・ヴァン・ゴッホという世紀の大画家の色の調和に関する感覚を、ただのいちキュレーターが修正することを意味する。そんなことはとてもできない、という気持ちは分かる。

もし、僕がそのプロジェクトにいて、出てきた絵に「これは違う!」と感じたとしても、じゃあ、それをどうすればいいですか、と言われたらかなり困惑するだろう。

ということは、結局、この130年前の色再現というプロジェクトそのものに大問題が潜んでいることがはっきりした、という結果になったはずだ。そして、その事態を、プロジェクトの最初から予見するのはすごく難しいことで、仕方ないとも思う。それで、その大問題が分かった時点で、どうしよう、となったとき、多額の金と時間と労力を使ったプロジェクトなわけなので、当のキュレーターが、仕方なしに

「これまで知ることのできなかった生きていたゴッホの本当の色彩感覚が、こうして科学の力で明らかになるというのは素晴らしいことだと思います」

などと公けの場で言ってしまう、というのも分からぬでもない。公けでは表面上、そういう体裁のいいことを言いながら、その内実では、以上に書いたような問題をキュレーターをはじめプロジェクトの面々が内心で共有していれば、今回のそれは次回の課題として取り組んでください、と大人の対応をしてもいいかもしれない。

で、このあとは僕の勝手な邪推だが、たぶん、そういうことあまり誰も分かってなかったんじゃないだろうか。なぜって、なにも分かっていないような言葉、顔つき、しゃべり方だったから。若かった自分は、それを見て、少しはすまなそうな顔しろよ! みたいにたいそう腹を立て、文化が病んでいる、と断定したのを思い出す。

さて、辛辣な言葉ばかり続けてしまったが、僕も科学分野の端くれにいるので、科学者的な立場でコメントをしておこう。最初に今回のその方法についてである。

この油絵具の経年変化のキャンセルの方法だが、まず、ゴッホの使った油絵を成分分析することから始める。相手が歴史的価値を持つものであり、試料を取るわけにはいかないので、非破壊分析を使う。可視光やらX線やらを使って光学測定器で分光特性をあれこれと取って、それによって使われている絵具の化学組成を分析し、特定する。その後、その成分の中で経年変化の分かっているものについて、その変化量を過去のデータを使って推定する。それで130年分さかのぼり、この絵のここに塗られたこの絵具の当初の組成はこうであっただろうと推定し、色見本を出す。

これを絵の全体にわたって繰り返すわけだが、差し渡し1メートルある絵のすべてにわたってそれを行うのは難しく、塗られた要所要所の絵具について、その推定を行い、修正をかける。たしか、特に、白の絵具、そしてピンクの絵具、ライラック色の絵具あたりを中心に調べ、再現を図ったはず。

で、そうするとどうなるかというと、絵の全面に渡ってそれを行うわけではなく、要所要所に塗られた絵具だけを修正して、他はそのまま、ということになるので、そこで色の調和が崩れるのである。修正しない部分については経年変化が少ない絵具を使った、という判断もあっただろうが、それを確定させるにはデータが少なすぎる。

結果、原画の上に取って付けたように鮮やかな白や赤や青が塗られたような状態になり、ピエロかなんかの厚化粧みたいな様相を呈した画像が出て来てしまう。それはそれはひどい出来だった。

そしてここにはもう一つ大問題があって、そもそも、印刷でもモニターでも現在の画布の原画の色すら、まったくきちんと再現されていないのである。そもそもめちゃくちゃな色で出てくる印刷やデジタルデータをさらに厚化粧したみたいなもので、破壊的にひどい結果になるのは明らかである。

では、その科学者はどうしたらよかったか。

いちばんいいのは、こんなことは最初からしないことだ。でも、したい気持ちは分かるし、科学のターゲットの選定に原則として倫理も善悪も関係ない。科学者はやってみたいからやるわけで、それがどんな結果になろうと、全体として科学の進歩に寄与すればいい、というのは科学のいちばん基本的な戦術である。なので、理解はできる。でも、それをやった後、もし難しい問題が持ち上がったことが分かったら、それを正直に述べることはどうしても必要であろう。しかし、このように本人に絵画が分かっていない場合、それは無理なのである。となるとキュレーターの責任だろうか。そのように責任分界点を定めるのが順当かもしれないが、僕はそう思わない。

しかし僕は、出てきた推定絵画の質について科学者にも責があると考える。それは、なぜか。

科学的に言うと、まず、絵具の経年変化は物理的事実で、組成が分かればあるていどは予見できる。しかし、130年の年月ということになると、科学的に正確に推定するのは困難で、その130年の間にその画布に何が起こったか分かっていないと無理な道理である。仮に分かっていても困難なのは目に見えている。どんな温度と湿度の環境で、どんな扱いを受け、どんな修復がなされ、それがいつどこでどのように、と言い始めると、不可能と言ってしまって構わない。

そんなとき科学はどうするかというと、それらの条件を人為的に固定して、つまり仮定して(通常は単純化する)、その仮定に基づいて分析して結果を出す。で、「その仮定の元ではこうであったはずだ」と結論する。でもその仮定は事実と反しているかもしれない、というか、かならず事実と反していると言い切れる。そこに「仮定」という、当の科学者の「人為」が入るからである。

それから、このような測定を伴う科学的実験プロセスには実際にはコントロールされるべきパラメータがたくさんあり、科学者はそれをいじって望みの結果を出す。そのコントロールは当の絵画に関係ない化学実験に伴う操作に過ぎないと言うかもしれない。しかし、そうであったとしても、それが人為であることは間違いない。ただ、それが最終結果にどう影響するか当人が分かっていないというだけである。

科学は客観性が売りだが、実は科学には「完全なる客観性」というのはありえない。原理的に不可能である。そういう基本的な科学の意味を、今の現代人はほとんど忘れ果てている。素人が知らないのは仕方ないけれど、プロの科学者でも分かっていない人が大半、という嘆かわしい状況なのが現代という時代だと思う。

それから、最終的に出てきたゴッホの修正絵画が果たして、彼が130年前に塗ったものに近いのか、あるいは僕が感じたようにでたらめに近いものだったか、というのは明らかに絵画芸術に対する価値判断を含んでおり、それがいいか悪いかを判定する絶対的基準というのは無いし、これは往々に非常に難しい問題である。したがって、この科学者にも、キュレーターにも、責を負わせるのは酷で、そもそも正解がはっきりしないものを扱っているわけだから、断罪するのはおかしいという意見が、この客観主義と相対判断が幅を利かせた現代では必ず、出る。

しかし、僕はそれも拒否する。では、結局、なにがいいたいのか。

科学者が絵具の推定をする際に、さっき説明したようにそこに自身の人為的仮定を持ち込む。そしてその「主観」は、当の科学者の判断に任せられる。で、それを任されたそのときに、その科学者に、対象に対する「愛」が必要となるのである。その愛が無い状態だと、科学分析というのはいくらでも無制限に悪用することができる道具になりえる。

結局、この科学者には、そしておそらくキュレーターにすら、ゴッホが130年前に描いたこのドービニーの庭という画布に対する愛が端的に無かった、というのが結末だと思う。科学者が愛したのは絵具の化学組成だけであり、キュレーターが愛したのは名声と自己実現手段としての画布と画家への執着だけだったのだろう。

この問題は大きな問題で、実は、対象に対する「愛のない科学者」と「愛のある美術専門家」が組んで解決するような生易しいものではない。なので、結論的に言うと、科学も芸術も両方が分かって、両方に愛を持っている一人の人間が、どうしても必要になるということでは、なかろうか。

スウェーデンと日本

YouTubeを見ていたら、政治ジャーナリストのおじさんが、「いまの日本では、50代以上がやっぱり日本すげえなんですよ」と言っていた。「もう日本はとっくに手遅れなのに、50代以上はやっぱ日本すげえなんですよ。それで、約5000万人ぐらいが日本すげえグループにいるんですよ」、だそうだ。それを聞いて思わず大笑いしてしまった。僕はいま63歳だけど、そういうヤバい世代のど真ん中な人間なんだね。

僕も実際、日本はいろんな意味でことごとく終わってる、と確かに考えてはいるが、一方では実は、自分、日本はまだ大丈夫と思っていて、それはこの、恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質が、本当にだめになったときに吉に転ぶと、わりと信じているからなのである。そういう意味で63歳の自分も、日本すげえの一員なのかもなあ、と思い、なんだか恥ずかしくなった(笑

ただ、吉に転ぶなんて言っているが、どのように吉なのかは皆目わからない。でも、まあ、大丈夫だよ。国破れて山河在りでなんとかなる。南国だからね。スウェーデンに十年いて、日本が南国なのがよく分かった。それでもダメなら、きっと神風が吹くでしょう。

これで終わらそうと思ったが、もうちょっと書くことにするか。

日本は「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」と、めちゃくちゃなことを書いた。で、「だから大丈夫じゃない?」と根拠のないことも書いた。

僕はスウェーデンですでに十年間、仕事して生活したのだけど、それで分かったのは、スウェーデンは恐ろしく「ちゃんとした」国だ、ということだった。仕事上においてはボスも含めてめいめい全員が完全に平等で、それを前提として皆がふるまい、行動し、それがひいては政治と国民の関係に至るまで、きちん整然と整備されていて、ちゃんと信頼関係をベースにして結びついている。

そして、それが、ぜんぶめいめいの「良識」によって成立しているところが凄い。そういう良識を持ったレベルの高いめいめいの人が多くいれば、それが自然と信頼関係の基礎になって、ストレスなく全体をガバナンスできる。

上から押し付けてそうさせるわけでは決して無く、かといって下々の人々が相互に注意しながら一生懸命維持するのでもない。要所要所では厳しいが、基本はリラックスしていて、むしろかなりルーズな運営の仕方をする。そのせいで、必ず問題は起こる。めいめいのレベルが高いと言ったって、利害関係はもちろんあるし、エゴもあるし、中には悪いヤツもいる。だから問題はやはり常に起こっている。しかし、それへの対処の仕方が決して極端に振れることがない。というのは、根本の規範そのものがすごくしっかりしていて、対処は、その枠の中で柔軟に行われるので、対処の結果に未来が振り回されるようなことは決して起こらないし、その規範が揺らぐこともない。

言ってみれば、憲法的なものは決して動かないが、法律は常に現状に合わせて変化している、そんな感じ。大きな重要な規範が人々に共有されているので、その下の法律やルールは常に破られ、常に更新されている。だから人は規則には縛られない。規則にからめとられて身動きできない、という事態に決してならないように全体設計がされていて、何かあったらいつでも助けを求めることができ、そして、それに応える人が必ずいる。

以上、いいことばかりを言うとこんなわけで、この感じは「先進国」という意味では、東洋より二歩も三歩も先を行っていて、本場というのはやっぱりすごいなあ、とつくづく思った。

これに比べると、日本は発展途上国どころか、未開の国に思えるぐらい。

ところが、日本人の自分が、スウェーデンで以上のことを学び、その同じ十年で痛切に感じたのが「こんな国にはいられぬ」なのである。われながら笑ってしまうが、もう、無理だ。

日本の世間様だとかマスクだとかの民衆の同調圧力って、ホントにかわいらしい。だって、それらって下世話でフィジカルでしょう? 一方、スウェーデンの同調圧力は、上述したような「社会において常に自覚した個人でありなさい」なのである。それはもう、ぜんぜんかわいくない。

スウェーデン人は、ここで生まれてここで育つから、そんなこと当たり前で、ストレスは無いと思うのだけど、僕は東洋人だからね、そんな性質はもともと持ち合わせてない。その僕から見ると、快適なのは確かだけど、常に緊張を強いられているようにどうしても感じてしまう。悪いことは完全に完璧に隠れてしないといけない感、というか。いや、悪いことなんか、自分、しないけどね。

で、おそらくだけど、スウェーデン人とて、そういう「硬い規範」は窮屈だと思うのである、無意識下で。そして彼らのその発散の場は、たぶん「大自然」です。スウェーデン人の自然感は日本人とおそらくぜんぜん違う。北欧の大自然の中で、人々のコミュニティが点々としていて、それぞれが、硬い住居で守られていて、めいめいの心はマザー・ネイチャーの元で共感して統一されていて、この厳しくも美しい北欧の自然の中でつつましく、しかし毅然と生きている、みたいなイメージである。

対して日本は、もう、ぐちゃぐちゃ。自然も人もへったくれもなく、ぜんぶがいっしょくた。日本人が自然を大事にするなんて、自分は寝言だと思う。日本人ほど自然を平気で壊す者はいない。なんで壊して平気かというと、自然と人は味噌も糞も一緒だから。自然はオレなんだから、オレがオレをどうしようとオレの勝手だろ、という感じで平気で壊す。そして同時に、逆に平気で愛でる人もいる。

しかし、このカオスこそが東洋を形作っていて、それはねえ、日本人の自分としてはいとおしいのである。スウェーデンには決して決して見つけることのできない「世界」である。

というわけで「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」だが、それでいいじゃん、ということになる。別に自分、スウェーデンのような西洋になりたくないよ、ってことである。

大麻使用

アメリカで大麻使用が煙草を上回ったって。当然の成り行きだね。

思い出すが、20年ぐらい前に、ニューヨーク出身の英会話の先生に習ってて、当然そのころは違法だったけど、彼、大麻はみな普通に吸ってるよ、って言ってたもんな。彼が子供のとき、お父さんがソファーに座って、おい、そこの葉っぱ取ってくれ、はい、パパ、みたいだったのでなんの抵抗もなかったって言ってた。

警察に見つかっても見て見ぬふりか、形式的に注意するていどって言ってた。それほど長い大麻使用歴のあるところだから、そうなるよね。

一方、日本では厚労省が大麻の「使用罪」というものを検討しているそうで、地球上のどこにいようが日本国民であれば吸ったら罪に問われる、ってことでしょ、これ。倫理に対する国家介入は良くないと思うけどね。

で、日本で大麻が悪い、という理由はなんとなくわかる。それは、一つは、大麻をやっているときは勤労意欲が完全にゼロになってしまうこと。そして、個人の精神が一時的に完全に開放されてしまうので、常に個人を陰に締め付けるいわゆる同調圧力がゼロになってしまうこと。この二つだと思う。

もちろん国は、ハードドラッグへの移行可能性などの危険性をアピールして政策を進めるだろうけど、その本音は前述だと思うよ。あと、大麻の健康被害を科学的に実証、とかいうのも理由に挙げると思うけど、それはこれまでの数々の科学の政治利用を見ていてわかるように、ほとんど信用できない。科学は価値判断をしないはずだが、昨今は政治と絡んで臆面もなくそれをしているしね。

それに、理由が健康被害などとすると、どう考えても酒と煙草の方がはるかに害がある。で、酒も煙草も、勤労と同調圧力をむしろ助長する働きがあるんだよね。なので統治側から見ると喜ばしい代物なの。

まあ、ややこしい話は置いといても、とにかく、国は、日本人を勤労と同調圧力から解放するのが危険だ、と判断しているのだと思うよ。これは単なるオレの意見なだけだが、自分としては、これに反対して「日本人は個の精神を開放すべきだ」とは、実を言うとあまり思っていない。

というのはオレの好きな日本の姿は、このみなが何もわからず従っている勤労と同調の結果であることも多いからだが、まー、こんなことも、議論の俎上に載せると大変なことになり、あんまり関わりたくない。

とにかく、もしあなたの心に抵抗が無いのなら、外国へ行って、大麻をいっぺん試してみてもいいかも。使用罪とかいうめちゃくちゃな法律ができる前に。

科学 vs 哲学

三、四年前だったか、どっかのスレッドで、科学者と哲学者の他流試合があって、それが公に公開されていて、僕もスレッドを読んだりした。スレッド上議論だけでなく、双方からの寄稿、フィジカルな討論会まで催し、そのフォローアップなど、かなり激しくやり合っていた。これ日本の話である。

僕はそれを読んでいて、いたたまれなくなり、途中で止めたし、たぶんまた見つけても読まないと思うけど、激しかった。

そもそも、そのスレッドは、科学系からアプローチした哲学的な謎を議論する場(たとえばクオリア論争とか)みたいなところだったのだが、そこにどっかの理科系の大学の准教授かなんかの、まだ若い科学者がやって来て(スレッド主が呼んだらしい)、それはもう、ガチな科学をもってして哲学を正面切って攻撃したのである。

彼いわく、哲学の議論はあいまいで、定義もあいまいではっきりせず、しかもそのあいまいな定義を自分勝手な推論で大きくして理論を作るのはいいけれど、何一つその後に検証しない。そのせいで、その結論が正しいか正しくないかまったく判定もされていない。なぜ科学のように、明快に定義された前提と、その推論と応用、そして実証を経て論理を補強する、という正しい道を哲学は取らないのか。科学界では歴史的に何百年もそれを繰り返し、今や科学的学説の信頼度は最高度まで上がっているのに、哲学は、いつまでも個々の哲学者が勝手な前提と定義で勝手に説を為して実証もせず正しさを保証しようともしない。そのようなものは無意味とまでは言わずとも、少なくとも信用するには値しない、うんぬん

と、まあ、こうやったわけである。科学者というのは、それまでわりと哲学者に負い目があったりして、科学者は科学の世界で地道にやりますよ、っていう科学者が多かったのだが、その積年の恨みが彼に至って爆発したかのように、哲学を完膚なきまで全否定したのである。さらにたまに哲学者は、科学者は世界について何も分かってない、とか言って小バカにするような発言をすることもあり、腹に据えかねたのであろうか。哲学のいい加減さをこれでもかと攻撃したのである。

科学者の彼いわく、いままでも哲学者たちに、その理論のあいまいさや前提を問い正したことがあったけれど、話をはぐらかすばかりで、一向にはっきりと答えようとしなかった。これは、要は、彼ら哲学者自身も、自分が何をしているか分かっていない、という証拠ではあるまいか。一方、科学者は何を問われても明快に回答することができる。もし、自らが間違っていれば、それを認め、自らの説を修正する謙虚さも持っており、それこそが科学をここまで信頼できるものに育てたわけである。哲学者はなぜそういう知的誠実さを持ち合わせないのか

とこういうわけである。それで、スレッド上ではらちが明かず、実際に、その科学者の彼と、哲学者二名だかが討論会の場に出てきて、討論をしたそうだ。もちろん、科学者は一歩も譲らず臨戦態勢だったわけだが、哲学者二人はどうも煮え切らず、やはり科学者の正面切った反論にはきちんと答えられず、話をはぐらかしたらしい。

その科学者の彼は、この世界は遠い将来科学によってすべて解明されるはずだ、ということを自分は信じている、と何度も書いていた。

こうなると哲学者は、だいぶ分が悪い。そう言い切ってしまう科学者に論理で勝つのは、僕が思うに、論理的に不可能であろう。なので、討論会で哲学者が話をはぐらかしてしまった、その気持ちが自分にはよく分かる。

昔は、科学者は、目の前の現実だけ見て理屈で分かることばかり言うが、哲学者は難解で高尚なことを言う、というふうで、科学は青年、哲学は大人、みたいな感じがあったが、いまや、これはまったく通用せず、いまでは、科学は青年から立派な大人になり、堂々と世界の仕組みを科学で語り、勝ち誇っている。一方、哲学は大人から老人(?)になってしまい、哲学はもう、人間の心をケアする心療内科みたいな役割に変わりつつあるのではないか。

心療内科なんて変なことを言うが、自分が哲学の歴史の進行を見ていて思うに、ものすごく大雑把とはいえ、まずそれは存在論から始まり、近代に認識論に移り、現代で実践論へ移っているようで、この実践論のところになると、下手をすると言っていることが、臨床心理学とかその辺に近くなったり、心理学でなくとも、人間はいかに行動すべきか、とかになってきて、そうなると政治も経済も入ってきてしまう感がある。

昔の存在論や認識論のころの「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物の哲学者」はもう時代遅れ、という風に思えて来る。そのせいで、もう、哲学は「世界を成立させている本質とは何か」とか「人間はいかに世界を認識するか」とかの問題追及より、人に行動指針を与えて人の心をケアする学問に移っちゃうのかな、と思えたりもするのである。たとえば、ちょっと前に話題になったた哲学者のサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」 とかそう思えないだろうか。

ところで、「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物」は昔の科学者もそうであった。哲学が心のケアに走ったとすると、現代の科学はどうだろう?

現代社会は、すでに、科学にほぼ完全に支配されているので、科学者は、僕らの生活面での指針を与えてくれる頼れる知者、ということになっている、と僕には見えている。たとえば日本だと、みんな山中先生の言うことなら信用する、みたいな感じ。科学にはその方法論に「謙虚」が含まれているので、みな余計に信用するのかな、と思う。

でも、実際には、その「謙虚」は科学的方法論における謙虚であって、決して「倫理」では無いのだが、みな、容易にその謙虚を倫理と取り違えているように、これまた僕には見える。要は「謙虚な人はいい人で、自分より他人のことを思える人だから、その人の言うことなら私たち全員にとっていいに決まってるよね」ということである。でもこれは、科学という方法の謙虚、という意味だと、ぜんぜん間違っている。だって、もし、上述の通りだったら、科学者は原爆作ったり、人体実験したり、結果見たさに遺伝子操作したり、しないはずである。

科学的方法の謙虚を身につけた科学者たちが、科学の進歩のために、倫理を無視してそれらを進めるのではないか。で、案の定、結果は死屍累々になるのだが、それは人類の進歩のためには犠牲が必要、という大義名分で正当化される。現に、そういう多大な犠牲を払ったうえで、この超快適な現代文明社会になったのだから(もちろん、これは平均的に、である。世界の生活レベルの平均値が上がった、という意味である) 

そういう意味で科学は政治ときわめて親和性が高い。やり方が一緒である。犠牲を払って進歩。人を殺して戦争に勝って発展。

長くなったが、最初に戻ると、とにかく、勝ち誇った科学者は、完全に手に負えず、オレなら、たぶん、逃げる。科学 vs 哲学の討論会に出て来た哲学者、えらいなあ、って思った。