さっき、昨日から紛れ込んでいた蝿がぶんぶんとうるさいので見たら、出窓の上で逆さになってひたすらすごいスピードで羽ばたきしている。平面の上をめったやたらに滑っている感じで一向にらちが明かない。時々なにかにつかまって何とかしようとしているけど、どうしても起き上がれないようで、すぐにまた逆さになりそのままもがいている。そのうちようやく窓の桟を利用してはずみで宙へ飛び立つことができたが、今度はめったやたらに飛んでは壁に激突を繰り返している。いずれにせよ飛び立てたのだから、きっとどっかの壁に着陸してじっとするだろうと見ていたが、今度は床に落ちてしまい、また逆さのまま全速力で羽ばたきしながら床の上をめったやたらにあちこち滑りまくっている。そのうち、床に置いた鉢植えやら椅子の足やらにぶつかり何とか身を起こそうとしているらしいがだめで、そのまま床の上を滑ってするするするっと部屋の真ん中あたりに来た。いまだに羽ばたいているけど羽音はだいぶ弱くなり滑って移動する距離も短くなり、時々、羽ばたきを止めるようになり始めた。しばらくするとバタっと羽ばたきを止めたままになり、その場でひっくり返ったまま、今度は足をやたらと動かしてもがいている。そのまま見ていると尻尾に近い方から足の動きが止まって行き、最後には一番前の足を動かしているだけになった。ほどなくして、その足も停止し、逆さのまま死んでしまった。

」への2件のフィードバック

  1. bellissima

    瓢や瓢や我れ汝を愛す。対象の有情無情を問わず心を寄せるのは両極いずれかの人間でしょうが、一方の極の人にしかその合理的な表現は持ち得ない。他方の極の人は他人から嗤われるだけ。それら以外の人々は林先生おっしゃる「大変に退屈な種族」であって、スティーヴの発明したような機器をせいぜい弄くって自らを慰めるしかないのでしょう。けれどもそれこそメルヘンでしょう。小さな画面に「侘び寂び」という文字が映し出される。先生おっしゃる通り一度は廃れた言葉である。けれどもある意図を持ったどこかの誰からがコマーシャルワードとして有用だと判断すれば、歪んだ形とはいえ侘び寂びの言葉もうわべ上の意味合いも途端に流布されるでしょう。そもそも侘び寂びとは不足や孤独を愉しむ境地のことであって、ハンディでパーソナルな愛器をいじる人々との親和性が無くもない。経済的可能性の前には辺境の地は無いわけです。もちろん私はそんな辺境地から隔絶された場所に住みたいと、常々考えており、死にゆく蝿を自分も見たかもしれないとふと思いを巡らせてみました。

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  2. 林正樹

    bellissimaさん
    スティーヴの機器はやはり順当に、インタラクティブとコミュニケーションがキーワードなのでしょうね。それが指先でなぞる板に集約されている、と。いまその2つの英語の日本語を調べたら、対話的と情報交流、みたいですね。人とつながって対話的に情報を交流する板ってことなんですね。欧米らしいですね。日本の侘び寂びって一体なんだったのでしょうね。でも、スティーヴは禅が大好きだったんですよね。これまた。

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