子供のころの自分は従順だったので、中学生になって、親父に日記帳を渡され、日記を付けろ、と言われたので日記を書き始めた。思えば、あれが自分の文章修行の始まりであった。日記といっても、最初のころは、判で押したようにおなじことしか書かなかった。その日にあった出来事を書き並べただけで、何時に起きた、朝ごはんを食べた、何時に学校へ行った、何と何と何を勉強した、誰と遊んだ、何時に帰った、という記述を毎日欠かさず続けていた。

そうこうして、2年も経ったころだったか、出来事をひたすら書き綴ることもだんだん間隔が開いてきて、その代わり、どうでもいい雑文をときどき書きつけるようになった時のこと、とある文を親父に褒められたことがあった。これは親父にしては極めて珍しいことで、自分は叱られたことこそ多数だが、褒められたことなどめったになかったのである。ともかく元文学青年の親父はこれを読んで感心し、ひょっとすると正樹には文才があるかもしれんな、と親馬鹿ぶりを発揮し、お袋にそう言っているのを、僕は聞いていた。褒められて嬉しくないこともなかったが、中学生の自分は文才などというものに興味はなかったので、あっさり受け流した。

ところで、その文はこういうものだった。

ある晩、家族でぼんやりテレビを見ているときのこと、そのへんに昔ながらのガラス棒の体温計があったので、それを取り上げ、その温度をあれこれして上げようと試みた。最初、指でつまんでしばらく待ったが、体温より少し下ぐらいしか上がらない。もっと密着しそうな手の平やら、腕の間やらで挟んだりしたけどそこそこ。そのうち、そっか、と思って指でつまんでぐりぐりしたら少し上がった。こすって摩擦で温度を上げればいいのだ。で、服の上や、床や、いろんなところでごしごしこするものの、ほどほどしか上がらない。で、最後に、親指と人差し指の間の付け根の柔らかいところで包むようにしてごしごしこすると面白いように上がって行くことを発見し、しばらくこすって、とうとういちばん上の42度まで上がった。上がってしまうともうすることもないので、体温計を放り出し、テレビを見ていた。しばらくすると、親指の付け根あたりが痛いんで、ふと見たら、さっきこすったところの皮が剥けて赤くなってヒリヒリする。あ、夢中でこすったせいだ、と気づいたが、それにしても、これを書いている今でも痛い。

と、まあ、そういう内容だった(つまんなくて失礼 笑)。この文はそこそこに長い文で、それにしても、単に描写を延々とつなげただけのものだったが、何かしらの文才がひらめいていたのであろう。

ところで、その後、中三になって不良仲間と付き合ってギターを始め、すべてはストップする。日記ももちろん止めた。思えば、それ以来、大学まで僕の文章はまったく進歩が止まっていた。今思い起こしても、自分がそのころ書いた文章は、内容も文体もかなり稚拙だった。よく、小さいころイマジネーション豊かな文才を発揮した子が、学校で国語を習うようになって混乱し、あっという間にかのビビッドな文才を失って、以降、混乱した稚拙な文しか書けなくなる、ということはごく普通に起こっていることなのだが、僕もそんなようなものだったのだろう。

再び自主的に日記というものを書いてみようと、始めたのが30歳前ぐらいのとき。最初は硬かったが、書き始めて一年ほどして、そこそこに文が書けるようになり、そこが自分の文章修行の本当の始まりであった。それから1、2年たち、残念ながら親父は早くして死に、僕のマジメ文も、その後に完成するアホ文体もほとんど知ることなく、逝ってしまった。それからさらに数年経ち、35歳ぐらいのときに「ゴッホ─崩れ去った修道院と太陽と讃歌」という本を自費出版し、自分のマジメ文体は完成したと言っていい。僕は、この本の冒頭に「父の霊に捧ぐ」と書いたが、これは率直な本心だった。この本は親父に読んでもらいたかったな、残念だ。親父は若いころさんざん苦労したが、最後まで物書きになる夢を捨てたことはなかったらしい。もし、僕に文才のようなものがあるとすれば、間違いなく、それは親父から受け継いだものだろう。

ところで、この本で思い出したが、お袋に聞いた話。むかし、親父が死んでずいぶん経ったある日のことだったらしいが、かつて親父を尊敬していた知り合いが、突然、家にお線香をあげに来たことがあったそうだ。どうやらしばらく親父の死を知らなかったらしい。その人は、お袋に挨拶もほとんどせず、そのまま玄関を上がり仏壇のところへ直行すると、そこでおいおいと声を上げて泣いたそうだ。しばらく経って、お袋とよもやま話をしているとき、お袋が思い出し、そういえば、長男の正樹がこんな本を書いたんですよ、と僕のゴッホの本を渡して、血は争えないですね、とでも言ったであろうか。その人は、本を手にして、ページをめくり、冒頭の、父の霊に捧ぐ、という一文を見て、その場でまたはらはらと涙を流したそうだ。

僕のゴッホの本は、出版しても何も起こらなかったが、親父の供養にはなったと思う。

 

(2017年1月10日、Facebookに投稿)

ふと、クリプキのクワス算とマルセル・デュシャンのFountainは似たところがあるかもな、と思ったので、考えてみた。

クワス算とは、こんなものだ。「ある所にAさんがいて普通に足し算をしていた。そこにX氏が現れAさんに68+57はいくつでしょう、と聞く。Aさんは68+57=125と難なく答えるが、X氏は言う、違います。68+57=5です。Aさんはなぜ?と聞く。X氏はなぜなら68+57の「+」は、実はどちらかの数が57より大きいときはすべて5になる、という計算方法だからです、と言う。Aさんはそんな馬鹿な、と言う。Xさんは、ではあなたは今までに68+57をやったことがありますか?と聞く。Aさんは詰まってしまう。実際、Aさんは57より大きい数の足し算をやったことがなかったのだ。この「+」で表わされた計算をクワス算という」

一方、デュシャンのFountainは、1917年のインディペンダント展に突如展示された作品で、R. Muttと署名された男性便器にFountainというタイトルを付けて作品として展示したものである。これは当時スキャンダルを巻き起こし、結局、作品は展示場から撤去された。しかしデュシャンのこの行為はその後も大きな話題になり、ダダやシュールレアリスムの芸術運動の一種の礎石となる。

さて、以上がクワス算とFountainであるが、クワス算の設定を使ってFountainを再設定してみようと思ったのである。

Aさんはずっと用を足すために便器を使ってきた。ある日、X氏が現れ、男性便器を指さして「これはなんですか?」とAさんに聞く。Aさんは「便器です」と、答えるがX氏は「違います。これはFountainという名の芸術作品です」と言う。Aさんは「そんなはずはないでしょう。どこから見ても男性用便器でしょう。それが芸術作品だなんて馬鹿げてます」と言うが、X氏は「では、なぜこれが芸術作品じゃないかきちんと証明できますか? これは明らかにFountainという作品なのに」と言う。結局、Aさんは絶句。

ここで、このたとえのAさんが仮りに女性だったら、どうもハラスメント的な怪しい感じが付きまとうかもしれない。それにしても、そんな配慮心が働いてしまう、というのも現代ならではと思うが、そんな現代では、このX氏は、便器は便器に決まってるという常識派からは「変態」と呼ばれて糾弾されうるし、半端な芸術派からも「芸術というよりただのスキャンダル好き」と呼ばれて糾弾されうる。

そうして、やはり、このX氏は、やっていることは簡単だが、誰にでもできることではなく、マルセル・デュシャンぐらいの芸術家じゃないと演じるのは無理だった、ということがはっきりする。実際に、かつてFountainが美術展に初めて現れたときも騒ぎが起こり、強制排除されたが、やがて人々が説得されて行ったのは、マルセル・デュシャンという正真の芸術家の力ゆえ、と言えると思う。

それにしても、これまでなんの疑問もなく、ずっと用足しに使ってきた器具が実は芸術作品だった、と言われたら、それはそれでショックだろう。そのときにAさんが「どう感じるか」、そしてFountainを知ってしまった後のAさんは「世界をどんな目で見るようになったか」によって、人の種類は分類できるかもしれない。

X氏のFountainは、世の常識的な「実用性」をいったん破壊することになっただろうか。どんなものでも芸術になりうる。便器のようなきわめて卑近なものすらその例外ではない、ということだが、一体、その破壊の後に、なにが新たに立ち上がって来るのだろう。もし、そのAさんが世の中を見る目が変わったとするならば、それは明らかに、「世界がその一撃で前より広がった」ということを意味すると思う。

世界はそのようにして不断に領域を拡大しているのだと思うのだが、「自分のテリトリーをそのまま広げて行く」のと、「未知の世界に足を踏み入れて、そこにまったく新しいテリトリーを開拓する」のでは、意味合いがずいぶん違う気がする。

「実用性」という言葉は、上記の「既に獲得されたテリトリー」の中に設定されている概念なので、未知の世界に実用性という概念があるはずはないし、ありえないはずだ。また、実用性とは常に「現在」に拘っている概念であって、未来に適用できない。だって「コレは、何の役に立つかわからないけど、将来役に立つかもしれないから、コレは実用的だ」とは絶対に言わないし、明らかに用法がおかしい。

ただ、時間が経ってその「将来」になって、本当にその「コレ」が役に立って実用的になっちゃうかもしれない。なので、「実用性」というのは、その姿が拡大されたり、突然別のものが現れたり、不要なものが消去されたりしながら、常に動き、変化して行くもので、その一番大きな変化は、やはり、実用性そのものから生まれるのではなく、未来を作る、前人未到なエリアに踏み出す、発明、創造行為、その最たるものである芸術により生まれるものであろう。実際にデュシャンのFountainで世界が広がり、芸術の在り方が変わり、その新しい芸術から幾多の実用性が生まれたことは(シュールな漫画なり、シュールな日常オブジェなり想像してもらえばいい)、今ではまったく明らかな歴史的事実である。

で、最初に戻って、クワス算は、そういうFountainと同じ役を担ってはいないだろうか。僕には、そう見える。クワス算は、社会通念的にも論理的にも間違っており、意味の無いものだ、という意見もあるが、もし、クワス算とFountainが同じものを狙っているとしたら、その場合は、デュシャンのFountainも同じように否定しないといけなくなる。既に歴史的評価が決まった芸術家に対して、マルセル・デュシャンはただの詐欺師に過ぎない、と宣言することになる。いまでもデュシャンはただの詐欺師だという人はいるだろうが、そういう人とて、Fountainが出現して変貌した社会の中にどっぷり生きて生活してしまっていることまでは否定できないはずだ。

しかし、クワス算とFountainのアナロジーには一点引っかかるところがある。それは、クワス算の横にデュシャンに相当する人物がいないことだ。この場合、もちろんクリプキということになるが、なんだか少し役不足に見える。となると、クリプキに多大な影響を与えたウィトゲンシュタインを持ち出しても、いいかもしれない。ただ、誰かそこに、それに力を与える役を担う大物が必要な気もしてくる。クワス算とFountainは、その枠組みは同じだと思う。でも、その枠組みに命を吹き込むのは、やはり人間であり、しかも、このように前人未踏なものへの踏み出し、となると、それ相応に腕力のある人間、芸術家、哲学者が必要になるように、どうしても思える。枠組みがいかに独創的に精巧にできていても、それだけでは人間の領域を圧倒的な勢いで拡大するのは難しいように思える。

京都での仕事が終わった翌日、かねてから予定していた通り、東寺へ行き、そこから奈良の法隆寺まで行ってきたので、簡単な感想を書いておく。

京都の東寺へ行ったのは、空海が建てた、立体曼荼羅を見たかったから。これを知ったのは、少し前、日本の仏教彫刻の歴史を調べていたときのことだ。平安時代初期に作られた、官能的と形容される梵天像というものがあることを知り、それが、この東寺の曼荼羅仏像群の中のひとつなのである。迂闊なものだ。こんな良いものがあるなどこれまで知らなかったし、京都駅近くにこのようなものがあることを気にもしなかった。

空海は中国から密教を持ち込んだ人だが、密教といえば曼荼羅。曼荼羅は視覚的に表現された悟りの境地だが、かの絵図はだいぶ見覚えのあるものだ。中心の大きな仏像の周りに、これでもかと大量な像やシンボルを円形に取り囲ませ、何重もの層を作ったような、あの図柄である。東寺の金堂にある仏像群は、空海その人のアイデアにより、この元来二次元的な配置でなされた曼荼羅を、立体の仏像を使って、建物の中に立体的に配置する、というものであった。

 

東寺の金堂の立体曼荼羅

東寺の金堂の立体曼荼羅

 

面白いことを考えるものだ。これを収めるお堂は通常の講堂の形をしていて、横に長い。その横長の舞台を三つに区切って、その三つの区間のそれぞれの中心に、中心となる像を置き、それを取り囲む複数の像を配置して作られている。東寺のこれは全部で二十一体である。

さて、講堂に入った。だいぶ薄暗い。控えめな光を当てられた二十一もの像が、ほとんどぎっしりと言っていいほど密集して置かれている。僕は近眼で目があまり良くないので、暗いせいで近くのもの以外、像のディテールはあまり分からず、だいぶぼんやりしているが、それでも、この全体の仏像群の醸し出している独特の空気は、よく感じられた。

ど真ん中には大日如来のひときわ大きな像が高い位置に置かれ、その周りに如来像が配置されている。これらはとても柔和な顔だちと体つきの像で、その一角は静かで平穏な雰囲気を醸し出しているが、その両脇は、左も、右も、闘いと怒りの仏像たちが固めている。中央の如来たちの世界を、外界の敵から守っているのであろう。これら戦いをつかさどる、明王像や四天王像、そして梵天と帝釈天の像はいずれも見事だった。やはり、どうしても、それら、異形の仏像に見入ってしまう。特に口を開けた阿形の持国天の前にしばらく立っていたが、なぜか現実の人間より一回り小さく感じられる、その、凝縮されたような実在感は素晴らしいものだった。

 

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持国天

 

それにしても、如来の像たちは、みな、ふくよかで女性的な丸い体つきで、薄い布の衣を身にまとっただけで、柔和な姿勢と、表情で、落ち着いているわけだが、やはりこの静かな世界を維持するには、両脇に戦闘に明け暮れる軍隊が必要だったのだな、と、漠然と思って見ていた。軍隊の像たちは、みな硬い鎧で武装していたり、あるいは、頭が三つあったり、腕が四本あったり、眼が五つあったり、周りのどこから敵が来ても対処できるように生物的な武装までかけているのである。

面白いことに、その、無防備な如来と、武装した像のその中間に位置するような形態の像もあることだった。特に、冒頭にも書いた梵天の像は、有名なだけあって奇妙なものであった。頭が三つ、腕が四本ある異形の像だが、その顔はすこし内省的で、なによりも体つきが女性のようにふくよかで、薄い衣をまとっただけなのである。その座像が蓮の座の上に載っているのだが、その台を四羽の鵞鳥が支えていて、そのうち正面の二羽は、首を真上に曲げて口を開け鳴き声を上げているが、その首と頭の形が勃起した男性器の形状そのものなのだ。この像は、中国からの密教の教えと共に日本に渡ってきたもので、官能的と形容されるのだが、たしかに、その通りであって、そこには「生」の喜びのようなものが直接あらわされている。像の形状は、中国を素通りしてインド的なものを思わせるので、インドにある官能の肯定のようなものがそのまま刻まれているのだろう。

 

梵天像

梵天像

 

生の肯定か。自分は梅原猛の本でそれを知ったが、空海の思想には、大日の考えがあって、それは現世の苦しみと来世の救いを基本としたその当時の日本の仏教から逸脱し、世界への強烈な肯定があったというのだ。世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している、それは人間には直接知られえないけれど、その無限の宝は人間の中にある、というのだ。これは印象的な話だ。

空海の指示の元に作られたこの立体曼荼羅が、そういう彼の思想を表していたか、どうか、というと、それは僕には分からない。広くて、暗い、閉鎖された空間にぼんやりと浮かび上がる大量の像たちの作る、あの静かな空気の中に、生の喜びを感じとるのは、なかなか難しい。一つ一つの像に近寄ってみれば、あるいは、そういう感じもあるのかもしれない。あるいは当時、作られたばかりの像は彩色され、まばゆいぐらいに色とりどりだったはずで、その印象はだいぶ違っていただろう。しかし、われわれ現在の見物人は、千年以上の年月が経ち色褪せた曼荼羅像を、柵の外からしか見ることができないわけで、結局、その空間はやはり、とても静かで、幻想的なものであった。

講堂を出て、すぐとなりにある金堂へ入る。大きさは講堂とほぼ同じだったと思う。こちらは、さきほどとは打って変わって、広大な空間には像が三つしかなく、真ん中の薬師如来の座像の両側に脇侍像が立っている。十メートルはある巨大な薬師如来像が開放的な広大な空間の中にある。所狭しとぎっしり並べられた講堂の立体曼荼羅が、目の詰まった心の中を覗き込んだ光景なのだったら、この金堂の像はその先に広がる広大な浄土を思わせるものだった。

 

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金堂の薬師如来像

 

などと、解説しているのは、まったくに後付けな話であって、自分はこの広大な空間の中でいくらか呆けたようになり、しばらく太い柱に寄りかかって仏像を前にぼんやりしていた。金堂を出ると、だいぶ怪しい気分になり、なぜだか分からないのだけど、しばらく心をコントロールできなくなった。金堂を出た外には、きれいに整備されたうねった小路のある庭があってその中央に池がある。しばらくは砂利を踏みしめながら、うつむいて歩いていた。庭の横のそのまた向こうには、巨大な五重塔が建っている。カラフルなリュックやらポーチやらのギアに身を固めた腹の出た大きな外人が、どっこいしょ、とベンチに座って巨大な塔を見上げていた。なんだか、さっき見た色褪せた曼荼羅像の中の一つが、千年前にできたばかりで極彩色に塗られていた様子を思って、遠目で彼をぼんやり眺めていた。

そうこうしているうちに、怪しい感じは、すっかりなくなった。自分はいつもそうなのだが、感動は、時計上のある一定時間続くと、その時点で跡形も無く消え去ってしまうのだ。やがて、雨がぽつぽつと降ってきた。東寺の印象はとても強かったので、もうこれでいいかな、という気になり、このまま東京へ帰ろうと思ったが、かろうじて気を取り直した。既に昼過ぎだったが、ここでタクシーを拾えば十分間に合うだろうと踏んで、奈良の法隆寺へ向かった。一時間半はかかるのでだいぶ遠いのである。

法隆寺へ行ったのは修学旅行以来だったと思う。だいぶ静かで、人もまばらにしかいなかった。中へ入ると、すぐに、そこは伽藍で、金堂と五重塔が並んで建っている。なんといっても印象的だったのがその大きさで、伽藍の空間も、二つの建物もとてもコンパクトだった。特に回廊に囲まれた伽藍の空間の広さが、金堂と五重塔を容れるには少し小さめで、そのせいで、その空間が、ただ美しいだけでなく、とても人懐っこい感じがしたのが面白かった。

 

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法隆寺の金堂と五重塔

 

ところでお目当ては、日本の仏像の最も初期のものに当たる釈迦三尊像を見ることだった。この像は、中国の岩面に刻んだ石像のレリーフから、完全な立体像の彫刻へ移行する、そんな時期のものなので、ほとんどレリーフのように平面的な表現で、主に正面から見たときに完全に見えるように作られているのだけど、それでも、れっきとした立体彫像で、自分としては、その奇妙な混合のせいで、これを「超2次元」とか勝手に名付けていたものだ。アルカイックスマイルな、まだ朝鮮の顔つきを十分に残した、平面的な顔の表情と相まって、独特のペラペラ感が好きだったのだ。

 

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釈迦三尊像

 

さて、金堂に入ったらそれはあった。しかし、なんと像の周りの回廊には入れず、その回廊をさらに一回り外の回廊が囲んでいて、そこを歩けるだけだった。しかも、外の回廊には正面と左右に三つの窓が開いているだけで、さらに、その窓には金網がかかっている。網も邪魔だし、見る角度は決まっているし、だいぶ遠いし、見物としてはかなり悪環境だった。折しも、その日は、この像の撮影の日だったようで、多くの業者が中に入り、ライトを当てて撮影していた。

寺の人に聞いたら、中の回廊へは最初から見物人は入れないそうだ。そもそも信仰の対象である仏像を、自分のように美術の鑑賞対象にする方がおかしいのだろうが、これは、だいぶ、がっかりした。でも、まあ、仕方ない。ただ、当の釈迦三尊像は、遠目にもたしかに素晴らしかった。自分が思っていたより、ずっと小さく、すばらしいオーラを発していた。そういえば、隣の五重塔の中にも釈迦涅槃の石像があり、かの有名な、写真ではだいぶ見慣れた、あの慟哭する羅漢たちがいたのだが、こちらも金網の向こうで暗く、ほとんど見えなかった。

外へ出ると、雨がざあざあと降っていた。伽藍を出て、しばらく歩いたら、なんと屋根のある喫煙所があったので、煙草を一本吸う。お寺の境内としては最近珍しい。遠くに修学旅行生の団体がいて混雑している。と思ったら、鐘が鳴った。キャーキャー言っている。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

という句があったけど、柿の代わりに煙草、鐘を突いたのは修学旅行の学生たちか、と思い、笑ってしまった。

その後、大宝蔵院へ行く。これは展示室で、ここには、有名な、玉虫厨子と百済観音がある。二つは特別な扱いで美しく展示されていたが、いかんせん、二つとも長い年月を経たせいで、ほぼ真っ黒だった。厨子は積み上げた黒い立方体、観音様は黒い細長いスティックみたいな視覚的な印象しかなく、なんだか寂しい。それより、ガラスケースの中に並んで陳列されていた、少し小さめの四天王の塑像があり、それにだいぶ惹かれた。表現はちょっと雑だが、奈良時代のこれらの粘土像、文句なく、欲しかった。家にこんなのがあったら、これを肴にいつまでも酒を飲んでいられそうだなあ、と空想した。

 

百済観音

百済観音

 

そして、雨の中を夢殿へ。夢殿がこんなに大きな建物だと思わなかった。自分はずっとずっと小さいものだと思い込んでいて、聖徳太子が仏法に悩んだとき、一人籠ったという逸話から、勝手に人一人分のスペースしかないみたいに思っていたみたいだ。このお堂には、聖徳太子その人を形どったと伝えられる有名な救世観音像があるのだが、扉は閉まっていた。ご開帳のときは、あの扉が開くのであろうが、やはりお堂の中は暗く、中には入れず、遠目に眺める感じになるのだろう。そんな風に思うたびに、自分がこの寺にただ美術的な興味で訪れている、ということが恨めしくなる。信仰があれば、遠目でも何でも、ありがたく手を合わせるだろうから。

ところで、それにしても、さすがに、この八角形の夢殿は、完璧なコンポジションだった。文句なく美しい。

 

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夢殿

 

雨の中、京都へ引き返し東京へ。東寺も、法隆寺も、なんだかんだで、行ってよかった。

Yahooブログより転記(2010年6月)

さてさて、このブログをまったく更新する気がないかというと、そんなことはない。こちらのブログは、どちらかというと、日常を少し離れた、真面目で、いくらかシリアスなわりとまとまった内容を書く場という風にしてきた。その上でこのブログの更新が進まないということは、逆に、ここ最近はなかなか真面目な内容を考える余裕が減ってきたということだと思う。

たしかに、日々が忙しくてなかなか落ち着いてものを考える余裕もないのは確かだ。これは仕方ないことでもあるので、最近はそんな状況を分かった上で、方向をいくらか転換して、能動的にあれこれ考えるのを少しおいて、受動的に勉強をするということをしている。何を勉強しているかというと「哲学」である。

少し前に弁証法の本を借りて勉強し、いたく感心し、そしてそのつながりから、今度はカントの勉強をすることにした。カントについては、ずいぶん前、古本屋で「実践理性批判」をたまたま見つけて買って少し読んだのだが、すでに1ページ目から何を言ってるか皆目分からず、3ページぐらいで放り出した。おそらく哲学の基礎がまるで分かっていないせいでふんだんに使われている哲学用語が分からなかったのがその大きな原因だ。

というわけで、今回は、最初から原書に当たるのをあきらめ、解説書を読むことにした。先の弁証法も解説書である。ちなみに弁証法はヘーゲルで有名だが、弁証法そのものは別にヘーゲルの発明したものではなく、遠くプラトンの時代にまでさかのぼる一種の独特な考え方の、総称なのである。当然、カントも弁証法という言葉を自らの哲学を展開する中で用いている。僕が読んだ弁証法の解説書には、そのカントにおける弁証法を語るために、カントの思想の骨子をきわめて易しく説明していたのだ。

それによれば、カントの思想の流れはこうだ。

この世界は、人間に分かるものと分からないものがある。分からないものとはたとえば「宇宙は無限か有限か」という問題である。この手の問題は理論的に証明しようとすると「無限である」という証明と「有限である」という証明が同時に成立してしまい、結局、矛盾してしまうことが分かる。したがって、この例のような事柄は人間の経験しているこの世にあるのではなくて、それとは金輪際連続していない「別の世界」に属しているのである。人間の経験の対象である世界を「現象界」、そして人間が決して分からない世界を「英知界」と呼ぶ。現象界は、空間と時間をベースとして成立しており、英知界は空間と時間を越えており、すなわち人間の経験を超えている。

それにしても、このように自分の言葉で説明しようとするとよく分かるのだが、「分かる」とか「ある」とか「前提として」とか、日常普通に使っている言葉というのはその意味にすごく広がりがあり、ほとんど限定されることがなく、そのせいで、上述のように書いても思想の骨子の論理展開がきわめてあいまいになってしまう。

そうならないために、「分かる」などと書かずに、たとえば「認識する」とか書けばいいのだが、この「認識する」という哲学用語自体が、やはり哲学に独特な定義がなされており、そうそう手軽に使えないのである。説明しているときに、「あれ? ここで認識って言葉使っていいんだっけ」みたいな疑問がわいてきて、ついついあいまいに「分かる」と書いてしまう、というわけだ。

というわけで、哲学について語るには、やはり哲学の勉強がどうしても必要だということになるのであろう。しかし、自分で語るのではなく、語られていることを自分一人で理解する、ということであれば、丁寧にゆっくりと考えながら読んで行けば、解説書であればかなり理解できることがわかった。もちろん、自分は昔から文学や哲学系の本にはそれなりに親しんできたので、その蓄積のせいもあるだろう。しかし、理解できてみると、これがまたすごく面白く感動的ですらあるのである。

僕が選んだカントの解説書は熊野純彦という人が書いた「カント~世界の限界を経験することは可能か」というもので、とても明快に書かれていて、100パーセントとはいえないが、大半は理解することができた。それで、本当に心底なるほどな、と思ったのだけど、一箇所とても感動した箇所があって、その話である。

カントの思想には、「前批判期」と「批判期」という2つの段階があって、後世に残る主要思想はもちろん批判期に属していて、上述したカントの思想の骨子も批判期のそれである。それで、前批判期は、比較的若いころのカントの神学的な思想を指すものらしい。2つを分かつものは、いろいろあるんだろうけど、その一つに「永遠と無限」の扱いに関する決定的な違い、というのがあるそうだ。

若いころのカントは、空間的に無限なもの、すなわち宇宙、そして、時間的に無限なもの、すなわち永遠、といったものこそが「神」である、と考えたそうである。無限にして広大な宇宙、それは夜、僕らが空を仰ぎ見ればまたたく星とともに感じることができる。そしてその宇宙では、果てしなく長い時間がすでに経っており、そしてこの先、自分も人類もなくなってしまった後も果てしない時間にわたって存在し続け、永遠の時間が経過し続けるであろう。こういった、無限性そして永遠性、という人間の認識の及ばないものこそが「神」の名で呼ばれるべきものである。若いカントは、こうして神と永遠性を同一視する。そして我々の生きているこの世界は永遠性と無限性から一種切り取られた世界であるから、永遠性と同一である「神」は、我々の生きている世界のいたるところにその姿を現すはずだ。

なかなかうまく書けないのだが、自分のつたない文だとこんな感じの思想なのだ。

これを知って自分は、若いカントのこの考え方の純真さに感動した。無限性と永遠性に対するなんという憧れであろうか。そして、無限と永遠こそが神の領域であり、そして、それらは神と同一だ、と口にするとき、神に対するなんという憧憬と畏怖の心が溢れていることか。そして、無限と永遠と同一であるからには、われわれの世界のいたるところに神はそのすがたをあらわすはずだ、というときの、神の愛と信頼と安心感についてのなんという子供らしい純真な心であることか。

カントの哲学はもちろん大事だが、あの哲学がこのような心から生まれた、ということの方がよほど大事なことのように思える。

さて、それでは、今度は彼の思想の真骨頂となる批判期の思想である。前に書いたように批判期のカントによれば、無限性とか永遠性というものは、人間の経験する現象界というこの世界においては相矛盾してしてしまうことから、それらはこの現象界には存在せず、英知界という現世を越えた世界に属すほかない、とされる。そして、この現象界と英知界は、完全に隔絶されていて、英知界はわれわれ人間の世界の外にあるものとされる。

ここで「神」という言葉を使うとすると、神は明らかに英知界に属しているが、神はわれわれの世界を完全に超えたところにいるわけなので、この世界で神の存在を証明することはまったく不可能である、という結論になる。すなわち、われわれ人間の心は、無限や、永遠や、神の存在というものを思い描かずにはいられないのであるが、当の無限と永遠と神はわれわれの世界では決して論理的に保証されず、それは現象界の成立ちからいって原理的に不可能である。

どうだろう、若いカントの前批判期とその雰囲気がずいぶん異なっている。前批判期では、神はわれわれのすぐ手の届くところにいたはずだが、批判期では、神はまったくわれわれの手の届かないところへ行ってしまっている。人間の認識には決して超えることができない限界がある、ということ、そして、人間を超えたものが存在するか否かについての証明は不可能である、ということ、この2つをカントは厳密に論理的に証明したのである。

ニーチェは、カントのこの人間の限界性の証明について、こんな風に言っている。自分は、このカントの恐るべき証明をあれいじくり回しているような思考機械共には興味がない。それよりも、いつになったら、人はこの思想を自分のこととして受け入れ、衝撃を受け絶望するようになるのだろう、と。

たしかに批判期のカントのこの思想は、よくよく反芻してみるとますます、戦慄すべきもので、人を絶望へと落としかねないものに感じられてくる。人間は無限と永遠を感じることはできても知ることはできない、というのだ。そして、英知界に属する神は人間の目からは完全に隠されている。そこには何かが、ある。でも、それが何かを確定することができない。人がいくら理性を酷使したところでその深い溝を超えることはできない、理性の深淵ともいえそうな、埋めることのできない裂け目が口を広げているのだ。

若いカントと、その後のカントの間のこの明確な思想の違いは、でも、一種、「神」という自らの父からの離別を表しているようにも見える。父と子のかかわりでいえば、若いカントの思想では、神という父の姿は見えないが、自らが世の中で活動している一挙手一投足を常に見守っている存在として描かれている。しかし、批判期のカントでは、神という父の姿が、自分を見守っているか見守っていないかには係わらず自分はこの世で独立して活動していかないといけない、という関係に変っている。自分にはこれが、一種の神という父からの親離れの光景に見えたのだった。

それにしても、この批判期のカントのこの理性の深淵の思想が、この後、ショーペンハウエルを経て、ニーチェをして「神は死んだ」と言わせしめたのか、ということを思い、なるほどとうなずくよりも何よりも、なんだか、本当に感動してしまった。

ニーチェはあるとき突然、神は死んだと口走ったわけではなかったのだ。そうか、そうであったか、その言葉にいたる綿々と続く思想の歴史があったのだ。そして、同時に、ニーチェにも、カントとまったく同じな、一種プロテスタント的な神に対する愛に関する純真な心があったのだ。なんだか、時代の異なる哲学者たちの心の中を貫いているそういう共通な心を感じてね、そして、その心は遠い日本という国に生まれ育った自分の中にも確実に存在していることを、とても強く感じたのだ。

ニーチェが神が死んだと書いてから100年と少したった。いま、この現代、「神」なんていうことを口にしても、大半の人には用がない。神というのは今では単に「信じる対象」に過ぎず、人間の理性の思考の対象にはほとんどなりえない。信じるか否という切り口しかないので、神は宗教の問題に属するのみで、全的な意味での人間の問題にはすでに属していない、というのが現状だと思う。

少し前、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の新訳が100万部だか売れたそうだが、あの小説にはドストエフスキーが生涯問題にした「神は存在するか存在しないか」というセリフが至るところに出てくる。神というのが、実質的な意味をほとんど失ってしまった時代に、あのセリフは現代人みなに、いったい、どう読まれるのだろうか。単に読み飛ばして終わり、だろうか。たしかにあの小説は神の問題以外にたくさん面白い主題が転がっていて、別にそこで引っかからなくてもじゅうぶん、大丈夫なのであるが。

でも、「神」などというから古臭い感が漂うわけで、神の存在いかんにかかっている人間的な問題であるところの、「生きる目的があるとしたらそれは何だろう、そして、目的などというものがないとすれば人間はどのように生きるべきだろう」といえば、どうだろう。これも古臭いだろうか。ドストエフスキーが問い続けたのは、これなのであるが。さあ、しかし、これも古臭くなっている、というのが現代なのかもしれない。「生きる目的」というもの自体が一種の偏見である、とする考え方がずいぶんと広まりつつあるようにも見える。

ところで、カントの思想に戻ると、英知界は置いておいて、現象界の方だが、この現象界はじゃあ有限かというと、そんなことはない。人間が経験して暮らしているこの世界にもいわゆる「果て」はない、というのがカントの結論である。人間の経験は常に広がり続け、そこでは常に新しい経験が生まれ世界を拡大し続けている。世界は全体として人間に与えられているのではなく、そこにいる人間の経験と活動によって刻一刻その姿を拡大し続けているのである、というのがカントの現世に対する結論なのだ。そういう意味で、僕たち人間は終わることなく先へ進むことができる、ということが保証されているのである。ただ、いくら進んでも英知界には到達できない、というのが彼の設定した「限界」であり「境界線」なのである。

神は死んだ、そして、その子であるわれわれ人間が世界に残り、神によらない人間の活動によってその世界を拡大し続けている。そういう意味で、カントからニーチェ、そして現代、と辿ってみると、近世から現代という時代は、ものすごい勢いで人間が神という父から親離れしようともがいている歴史でもあるように見えてくる。

そして、今でも、もがいている。少なくとも、自分はよく、オレたちはいったいどこへ行こうとしているのか、と考える。よるべもなく、人間同士の関係性だけで世界を組み立てる、という終わりの無い行為に疲れることが、ないか? 疲れてしまったときに、オレたちはいったいどこへ里帰りすればいいのかと、思わないか? カントやニーチェが持っていた、「永遠」に憧れる心は、オレにもあると信じているが、その心がときどき窒息しそうに感じることが、ないか?

さて、ずいぶんと長くなってしまったが、ここさいきん、カントを勉強してこんなようなことを漠然と感じていた、それについて書いてみた。

以下は「理科系のための哲学」のために書いた文だが、ここにまずは置いておくことにする。

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このサイトは理科系のための哲学とうたっているのだが、そもそもいったい哲学とはなんなのか、と端的に聞きたいかもしれず、そう言われても、そうそう簡単に答えられないのが普通だ。しかも、特に理科系の僕らが哲学を勉強していったいなにかいいことがあるのか、と反応するのも普通のことだ。実際、役に立たないことをわざわざするほど暇でないのは分かっている。しかし、ここを読んでいる時点ですでに片足を突っ込んでいるわけで、少しお付き合いして頂こう。

まず、哲学という言葉だが、これは何のことを言うのか。サイトの趣旨のところにも書いたが、日本語の「哲学」はいろいろな使われ方をするので、幅が広い。学問としての哲学の反対方向の最たるものは、人生哲学とか経営哲学とか、あの人は哲学がある、とかいう使われ方であろう。そういうときの哲学は、ほぼだいたい「信念」とかそういうものを指すわけで、たいていの日本人には語感があるだろう。というか、実際のところ哲学をそういう意味だと思っている人も多いかもしれない。最初にはっきりさせるが、ここで話そうとしている哲学は、そういういわば俗な意味の哲学のことではなく、正統派の哲学である。

では、ここでの哲学とはなにかというと
「世の中のなんでもいいので「なにか」の本質はいったいなんなのかということを論理的に追及すること」
である。ここで重要なのは「本質」と「論理的」である。

まず本質だが、この言葉もそこそこ手垢にまみれていて、日常でもふつうに使われる言葉だ。なにか事があったとき、その原因の元の元を追及して、事の起こる原因をもっともきれいにエレガントに説明できる原因であるところのものを抉り出して見せると、本質を突いた議論、などといって褒められる。では哲学の本質はこれと違うか、というとそれは同じである。しかし、哲学では常識を遥かに超えて本質を問い続けるところが違う。

たとえば、「見えるとは何か」という問いがあったとして、その本質をどう答えるだろうか。たぶん、理科系の我々であれば「空間に物体と光源があって、その物体からの反射光が眼球に入り、網膜に像を結び、これを視神経で脳に送り、脳にできあがった何らかの神経回路によってそれが解釈され、見える」などという答え方が返ってくるであろう。ここまでであれば何ら哲学ではなく、これはほぼ科学の話である。光学や神経科学、脳科学などの科学領域で説明した「見える」の本質である。現代人ならば大半の人はこれで納得するはずだ。

では、哲学ではどうなるか、というと、ここでの説明をもう一段階どころか、ほぼ際限なく問い続けるのである。例えばこの例なら、「見える」が最終的に脳で作られるとすると、物体も光源もなくとも見えるはあるはずだろうが(現代ならさしずめ脳に電極を挿入するであろう)それは見えると呼べるのか否か。あるいは、人間が見えると言っている対象は、網膜の像のことなのか、あるいは視神経の生理学的変化のことなのか、あるいは物体と光源のことなのか、いったいどれを見えると称しているのか、とか。あるいは、AさんとBさんの「見える」は本当に同じ事態と言えるのか。それを証明する手段はあるのかないのか。もし、なければそもそも見えるという事態を一般化できないことになるではないか。

などなどきりがないのだが、ほとんど、揚げ足に近いほど、嫌がらせと言ってよいほど、病気じゃないだろうかと言いたくなるほど、執拗に食い下がって、その「コト」の本質を見極めようとする努力をすることが、哲学の定義で言うところの「本質」なのである。問い掛けを途中で止めてはいけないのである。

もう一つの特徴は「論理的」であるが、これは理系の人ならとっても親しいのですぐ分かるであろう。上述の本質の問い続けにおいても、とにかく論理で問い続け、それに論理で答えないといけない。途中でめんどくさくなって「物事ってのはそういうものだ!」とかいって論理的追及を中断してはいけないのである。ちなみに一般社会では、ふつうこれである。特にさきほどの人生哲学とか経営哲学になると、そういうことを主張する人を相手にしつこく追及したりしていると、あるところで「信念」や「常識」とかいう化け物みたいなのが出てきて、ガツンと中断され、「そんなことを言うならお前は社会で仕事をする意味も資格もない!」とか「誰のために生かしてもらってると思ってるんだ!」とか叱られて終わってしまったりするのがオチである。その手の哲学を俗だと言ったのはそういうわけである。

哲学は役に立たない

ここではっきりするのが、哲学は役に立たない、というよくある有名な命題の正しさであろう。そう、役に立たないのである。というのは、本質の追求というのは、適当なところで止めて提供するからこそ世の中の役に立つのであって、それを止めずに問い続けても現実から遊離するだけで何の得にもならないのである。先の「見える」の例だと、物体→眼球→脳→見える、というところで止めることで、これをコンピュータや機械に置き換えていろいろなサービスを生み出したりして、ひいてはお金になったりするわけである。

それ以上に「見える」というのを追及してしまったら果てしなく問いは続き、どこかで本質に達したとしても、だいたいが現実離れした着陸点となったりする。たとえば、この例であれば、哲学的に「見えるという具体的現象があるわけではない。これはめいめいの人間の主観が社会で合意した挙句に現れる観念なのであり、眼球が物体を見ているというのは単なる物理的一解釈に過ぎず本質ではない」とか言ったとして、はて、いったいこのステートメントをどうやって世の中に役立たせればいいか、皆目分からない、ということになってしまうのが普通だ。

数学は哲学か

理科系の人であれば、論理的といえばまず数学を思い浮かべるであろう。前述は「見える」ということを追及した例だったが(哲学的には認識論という)、数学はどうだろう。数学は完璧な論理のもとに構築されており、正しいことしか現れない。あいまいなものはすべて論理的に却下されるので、数学の論理を追っているときに「これが物事ってもんだ!」という思考停止は入らないかに思える。では数学は哲学なのか?

答えはNOである。まず、哲学は神羅万象すべてを対象とするが、数学はそうではないという前提の違いがあるが、それはまずは置いておこう。数学の論理展開のもとには公理というものがあるが、いわばそれが中断に相当するのである。公理とは「同じ長さの線分は重ね合わせられる」とか「平行線はどこまで行っても交わらない」とか思いつくが、そういうものである。人間の常識として当たり前で直観的で誤りようのないものを公理とするわけだが、哲学はそれをも疑い、その本質の追求へ持って行こうとする。あと、数学は「何かを何かとおく」という人為的な約束事を作って、それを元に論理を発展させ、さまざまな数学分野を広げて行くが、その行為そのものも哲学の追及の対象になる。

数学側とすれば公理や約束事は数学の礎石であり、それが人為的であろうと、作為的であろうと、それを元に数学が発展すればそれでよし、とする。当たり前である。ルートマイナス1はあり得ない。その通りだ。でもルートマイナス1をいったん認めてそれにiという名前を付けて追及してみよう、と、あるときだれかが考えて、そのおかげで数学は複素数論という膨大な体系を作り出した。しかも、これはえらく役に立つ代物で、あのとき頑なにルートマイナス1を拒否していたら、世界はえらく狭くなったであろう。あと、先の例の、平行線が交わらない、も交わることにすればリーマン幾何学が構築されることもよく知られている。

哲学はルートマイナス1を否定しないが、その意味を問おうとするであろう。ここで、数理哲学という分野があり、これは、そういった数学における論理の本質を哲学的に問う学問である。思い出すが、むかし、とある大学のある著名な数学者とセミナーをやったことがあり、その先生は代数学の大家なのだが、数理哲学の研究者たちのことを「あいつら、まったくに下らない、役に立たないことばかりしやがって」とこき下ろしていた。しかしながら、先生の代数学が世間の役に立つかというと、ほとんど役に立たない。その役に立たない紙の上の数学をする先生に、さらに役に立たないと言われているのが哲学なのである。いかに哲学が役に立たないか思い知らされる話だ。

もっともちなみに代数学は、暗号理論と符号理論に期せずして役に立ってしまい、当の代数学者もびっくりしたそうだ。暗号とデジタル符号化なしに今のネット社会はあり得ないので、代数学はこれひとつで元を取ったと言ってよいほど世の中の役に立ってしまったのである。しかし、依然として代数学の中の大半の定理は役に立たないのは変わらない。将来どっかでまた役に立つかもしれないが。

パラダイムの変革

そう考えると哲学も、今は役に立たないだけで、将来はどこかで役に立つことがあるのであろうか。これについては、あるいはそういうこともあるかもしれないが、ほとんど望みが薄い。先も言った通り、数学や、ましてや物理学などの科学がなんで世の中の役に立つかというと、世の中にある前提を「与えられたもの」として礎石に置くからである。その礎石が世の中で皆に認知されているものであれば、その上に築いたものはどこかで世の中の役に立つのである。

しかし、哲学はその「今の世の中で前提となるもの」自体を疑ってしまい、その本質を見極めようとしてしまうので、それは役に立たないのが普通なのである。しかし、当然ながら、もし、その「今の世の中」から時代が百年とか二百年とか進んで、その「前提」があるとき何らかの影響で変わったとすると、そのときにはあるいは劇的に役に立つものになる可能性はある。いや、哲学の命題など直接に役には立たないが、その「前提が劇的に変わる」という社会現象に非常に大きな影響力を持つのが哲学であり、そういうことを目指すのが哲学の仕事と言ってもいい。

すなわち、現在の人間が「当たり前の前提」と思っていることを、覆すのが哲学で、それを変更させようと骨折るのが哲学の道なのである。この、時代に共有された当たり前の前提をパラダイムというが、そのパラダイムを疑って、新しいこれまでにないパラダイムを作り出そうという努力が哲学にはある。しかしその新しいパラダイムが、今のパラダイムにとって代わるには、通常非常に長い時間がかかる。

僕らだって、アナログ社会からデジタル社会、そしてインターネット社会へのシフトを現に経験した。これは我々のパラダイムを確実に変えたはずだ。たとえば、むかし僕らはレコード盤というビニールの板を物理的に所有していないと音楽を聞けなかったが、今じゃそんなものは無くなり、モノリスみたいな黒い板にイヤフォンを差し込めば音楽が無尽蔵に聞ける。恐ろしいことである。ほとんど魔術並みである。これは僕らにとっての音楽作品というものの意味をだいぶ変えてしまった。

さて、デジタルとインターネットの話になったが、これは哲学のおかげでこのようなパラダイムの変革が起きたのだろうか。そんなはずはないだろう、と言うであろう。どこの哲学者がデジタルとネットワークの概念を提出したか。してないじゃないか。デジタルはその昔、電気工学者のナイキストと数学者のシャノンが理論的基礎を与えてコンピュータの出現で今の姿になったはず。哲学なんかなくったって、パラダイムシフトは起こるし、むしろ哲学なんか結局は、どうでもいいことを根掘り葉掘り詮索しているだけで、パラダイムの変革の役にも立たないんじゃないか。パラダイムシフトは現実社会の具体的変革を核にして起こるのだ。と言うかもしれない。

おそらく言っていることは表面上は、正しい。だが、もし、そうであれば、私はこの「理科系のための哲学」などという企てをするわけがない。これは自分の一種の仮説になるが、このパラダイムの変革の立役者になった人々のウラには哲学が隠れているはずだと思うのだ。具体的な哲学の学説は無いかもしれない。しかし、哲学的直観がその立役者たちのウラにあるはずだ、と私は見ているのである。特にデジタルとインターネットの物理的なインフラが出来上がって世界に浸透して、2000年になり、15年ほどの間に次々と起こったデジタル情報社会の本質的なパラダイムシフトの裏には哲学が大いに与ったのではないか、というのが私の仮説なのである。

改めて哲学とは何か

少し話を戻そう。哲学とは何かという話だった。まとめると、物事の本質を論理的に問い続けること、である。こうして書くと当たり前に見えるのも面白い。実質を求める社会人にこの文句だけを言えば「それこそ我々に必要なことじゃないですか!」などと実質的反応をするかもしれない。なので付け加えると、哲学では、今現在の社会の規範に沿って生きて仕事して生活する人から見ると「常軌を逸して」本質を論理的に問い続けること、という但し書きがつく。

さて、以上がこのサイトで言うところの哲学の定義なのであるが、このようなものが最初からあったわけではない。哲学が産まれたとされるのは通常、ギリシャで、紀元前の話である。歴史の話をし始めると長くなるので、ここでは極力端折ることにするが、乱暴に言うと、かの有名なソクラテスが、現代の哲学の原型を作った人と言えるだろう。しかしソクラテスを読んでみると分かるのだが、さきほど与えた哲学の「本質」と「論理的」の二つを満たしていない。ソクラテスの、論理を縦横に使って結論を導くさまは感動的である。しかし、本質の方はまだ、与えられたものとして、一種の信念、信仰として前提されていることも分かるだろう。

その後、プラトンがソクラテスの弟子として現れ、そしてアリストテレスが今度は科学の原型を作った哲学者として現れている。しかしながら、これらギリシャの三羽烏もその時代のパラダイムの枠の中で思考した人々と、言えるだろう。ただ、どうしても付け加えておきたいが、この三人のした仕事のすばらしい「高貴さ」は現代人には及び難いものがある。人類がまだ高貴であることができた幸せな、ノイズのない、黎明期だったのであろう。

デカルトの意味

というわけで、ギリシャの哲学は、まだここで説明した意味での哲学ではない。では、前述した意味での哲学はいつ生まれたのかというと、それは、デカルトからである。このサイトのトップページはデカルトの肖像画から始まっているが、それは、そのせいである。デカルトが何をしたかというと、物事の「本質」を問い続け、それが壁にぶつかってついに止まってしまうまで問い続けたのである。デカルトは、これを明快な形で行った世界で最初の人だったのである。最後にぶつかった壁に彼は「我思うゆえに我あり」という言葉が書かれているのを、見たのである。

歴史的に言っても、デカルトは近代哲学の始祖である。彼によって「物事の本質を論理的に常軌を逸して問い続ける」ということが初めてなされたわけだ。次の章では、そのデカルトのやった仕事を紹介するので、そこでまたくだくだ書くが、ここで予告をしておこう。結論から先に言うと、デカルトは科学に基づく「工学」を初めて明快に始めた人だったのだ。

思い出して欲しい。デカルトの時代は、かのガリレオが地動説を提出したせいで宗教裁判にかけられ有罪となった時代なのだ。ほぼあらゆる重要なことは神によってトップダウンで決められる時代だったのだ。その時代にデカルトは、神のトップダウンはそのままにしたまま、「人間だけで決められる領域」というものがあるということを初めて明快に言ったのである。そこでは人間が人間の主人だ。そして科学をベースにした工学によってその「人間だけの領域」を無限に広げて行くことができる、ということを宣言したのである。実は、これが「我思うゆえに我あり」のとても大切な意味だったのである。

こうして、僕ら現代のテクノロジー社会に生きる者はみな、デカルトの恩恵を受けているのである。そして、ということは、僕らは知らずして「デカルトに規定されている」のである。このパラダイムはいつ変革するのであろうか。いや、変革は既に起こっているのではないだろうか。それはデカルトの興した哲学によるパラダイムの変革として現れるはずではないだろうか。そして、それを語るのが、このサイトの主旨である。

芸術科学会に感性オーディオ研究会というものがあり、僕の書いた文の中にも幾度か出てきた宮原誠先生がやっている。宮原先生と僕の仲は長く、僕はすでに十数年、宮原先生の仕事の広報的な部分を手伝ってきた。ここに、ここ最近の2年間に行った21回分の研究会の活動報告を載せておく。僕自身はこのうち2、3回に出席しただけで、大半は宮原先生の個人活動である。この報告書も、宮原先生から送られてきたワードの文をあえて整形もせず、そのまま羅列している。この長い報告をいちいち読む人はほとんどいないと思うが、ざっとスクロールするだけで、その雰囲気は感じ取れると思う。

http://niz237gt.sakura.ne.jp/hmlab/HP/kanseiaudio2013-2015.html

今回、改めてこの文書の集積を読んでみて、次から次へといろいろな考えが浮かんできて、妙なものだと思った。問題の所在ははっきりしているように思うものの、どうにも、その本質にフォーカスできない。一番簡単な方法は、世の中にいるハイエンドオーディオの食えない人々の趣味的な探求の一つに過ぎない、として放置、無視することだろうと思う。でも、自分にはそれをしてしまうには惜しい「何か」がここにはあると思う。逆にそれだからこそ、ここまで長年手伝ってきたわけだが。

少し前、「理科系のための哲学・芸術・美」という活動を長島知正先生とやっている、とアナウンスしたが、長島先生とお会いしたのは、元をたどれば宮原先生とのつながりである。感性工学の一連のコネクションだ。このだいぶ混乱しているように見える宮原先生の報告が、長島先生と僕がやっている「主題」と密接にかかわっていることは間違いない。そういう意味では類は友を呼ぶのだろうか。

僕の宮原誠評はいちおう昔から一貫していて「宮原誠は宮原オーディオという作品を製作する作家である」である。ご本人に何度も言っているが、もちろん先生は納得しない(時々は、そうかなあ、とか言うこともあるが)。この報告書で執拗に展開されている事々が工学的用語で書かれているのを見ても分かる通り、先生にとってはこれは工学なのである。僕から見ると、その先生の「工学」(新・電気音響学という名前が付いている)が、現行の工学的方法論から見るとあまりに雑に展開されているので、工学者に対してこういう論を展開するのは逆効果だ、と思っている。ただ、これについて僕の方で、先生の工学を現行工学に翻訳することはできない。恐らく、先生の数少ない弟子や理解者にもできないだろう。

さっき全体を読んでいたら、むしろ、その「工学的用語を使った現象の探求」そのものが、アート作品の一種にまで思えてきた。

たとえば、スピーカーボックスの稜線の急な部分で音の波面が乱れ、それが音の「凄み」を増す方向に作用する、と書いてある。したがって、ボックスの角を丸めてしまうと、音場は良くなるが、人をぞくっとさせる凄みは減ってしまう。この変化は劇的である。と書いてある。工学者の常識的感覚で反応すると「なにそれ。気のせいじゃない?」で終わる。実際に、スピーカーボックスに角を丸めるテープを貼って実験すると、7段階評価で+3の変化がある、と書いてある。「嘘つけ」と反応したくなるところだ。あるいは、そう思って聞くからそういう結果なのであって、ブラインドでは違いは分かるわけないだろ、という反応もあるだろう。

しかし、とにかく、気のせいであろうと、プラシーボであろうと、何であろうと、+3も凄みが増したことをどう説明するか。これは「観察事実」だ。現行工学的に考えればこれには、数多くの要因が関わっていて、それらをきれいに切り分けることはとても困難で、そもそも工学的問題の線上に乗らない、と判断されるのが順当だと思う。先生が言うところの「波面の乱れ」は物理現象として確かに確認できるだろうが、同時に、被験者が角が鋭いのを視覚的に見て確認して「そのせいで」音に凄みが増したように感じるという心理効果も確認できる。

ここで後者について切り分けるために「ブラインドテスト」を要求するのが一般的だ。ブラインドテストで違いに有意差が出た場合と、出なかった場合でその後の展開は変わるだろう。出た場合に、一番最初にやらないといけないのは物理的条件を綿密に整えることだろう。スピーカーやリスナーの位置や部屋の形状が与える影響の特定が必要だ。次は、それがどんな要因で出たのか、それを追及するフェーズになる。「波面の乱れ」という物理現象はその一つだが、それだけではないだろう。それぐらいの微小変化が人間に検知されるということになると、角を丸めるテープがボックスの振動に及ぼす変化などいくつか物理要因が考えられるはずだ。

一方、ブラインドテストで差が出なかった場合はどうか。その時点で、スピーカーの角の話は「プラシーボ」として却下だろうか。波面の乱れは人間には検知できないほど微量である、で終わりだろうか。科学的態度に照らせば、いちおう、そういうことになるだろう。次に追及すべきは、スピーカーの角の形状についての視覚的、現象的な知識が、音の感じ方にどのような変化を及ぼすかという心理学的な探求になるだろう。

この成り行きは、一見、順当に見える。しかし、ブラインドテストで、その現象が物理現象なのか心理現象なのかを切り分ければ、探求の方向はきれいに分岐し、見通しが良くなる、というのは本当に正しい態度なのか。ここでその態度を是というか否というかが、分かれ目なのかもしれない。それで、僕の態度は「否」なのである。まあ、それだからこそ、宮原先生の延々と続く探求をいぶかしく見ながらも、去らずに付き合っているのだ。

なぜ「否」なのか、と言うと、そこで問題を、物理(波面の乱れ)か心理(プラシーボ)かという相反する二方向に分離させてしまうところに、現行の工学や科学的態度の限界を見るからだ。前者が「物質」、後者が「精神」に相当すると思うが、そもそもそうした二元論で当の問題(スピーカーの角で凄みのある音が出る)を処理できる、という考え方そのものに問題があるのではないか、と感じるからだ。この二元論は、「物理現象があって」それが人間という生身の物質に作用し、知覚と認識の処理を通して「認知される」という構図に沿っている。

「角を鋭くしたら凄みが増した」という現象は、ブラインドテストの場では無い条件で起こるものだ(被験者はみなテープを目で見て、宮原先生の言葉を聞いて知っている状況)。一方、ブラインドテストで確認できる現象はブラインドテストという条件で起こる現象を確認しているに過ぎない。ブラインドテストで、いったいわれわれは何を知りたいのだろう。その現象を「説明する」なんらかの「原因・理由」が知りたいのだろう。では、なぜ、原因・理由が知りたいのだろう。一つは「解明したい」という知的欲求だろう。しかし、その知的欲求そのものとて「理由・原因が解明されれば、それを今度は別のケースに利用して、われわれの生活に役立てることができる」という功利的な理由から来るのではないだろうか。つまり、そこで得られた原因・理由は、スピーカーボックスだけでなく「スピーカーボックス以外のもの」に応用できる道が開ける。スピーカーボックスの角での一つの発見を元にして、十の、百の、応用事例を増やすことができる可能性が開けることである(たとえば波面の乱れが音の凄みを増すのなら、巧妙に波面の乱れを与えた電気音信号を作り出し普通スピーカーでも凄みを出せる電気装置が作れるかもしれない)

工学というのが、主に物理現象の自然科学的な探求をベースに行われる、というのは、物理現象というものに正確な再現性が見られる、という観察に基づいている。すなわち、物理的な要因を特定できれば、それは物理的に整えた条件下で正確に再現し、それは、測定という行為で万人に確認される、と同時に、宇宙の果てまで行っても再現する、と仮定して構わないということである。この科学的な再現性と斉一性は、数限りない物理的な測定の結果によりその妥当性が増して行き、現代という時代でその妥当性はほぼ完成の域に達している。もちろん、科学で解明できない物理現象は今でも数限りなく存在するが、再現性と斉一性はその前提であり、その前提が崩れる事象は無いとされており、そう認定して不都合なこともほとんど無いことをわれわれは経験で補強し続けている。

あまり話を大きくする前に、スピーカーの話に戻るが、問題を物理現象と心理現象に分けるようなことをせず、従来工学的な原因・理由の探求をせず、この「角を鋭くしたら凄みが増した」という現象を「そのまま受け取る」という方法もあるのではないだろうか。「知見の他への応用」などは当面考えないのある。「いや、そんなことは考えていない。単純にその原因が科学的に知りたいのだ」と言うかもしれない。しかし、ここでいったん立ち止まってよくよく考えてみよう。その知的欲求と称する一種の本能は、生活の功利性の追求の歴史的な刷り込みから来ていないかどうか? 科学文明の勝利の感覚から来ていないかどうか? なぜ、そんなどうでもいいことを考えてくれ、などと言っているかというと、そこに、科学文明が爛熟した現代のものの考え方や感じ方の「次」が隠れているように思うからだ。

このスピーカーの例でいえば、その現象を丸ごと受け入れて、たとえば、「角の鋭いスピーカーをうまいこと宣伝して凄みのある音楽を再現するオーディオとして皆に普及させて音の凄みというものを皆に味わってもらおう」という活動をする、という風に発展させたらどうだろう。ここで、波面の乱れとか、音信号の歪みとか、プラシーボによる心理的効果とか、ブラインドでテストしたときの結果とか、そういうものを科学的に整理して断罪したり、唯一絶対な原因・理由を探求したり、ということをしないのである。物理現象、心理現象も何もかも含めて、総花的に検討と追及を進める道というのもあるのではないか、ということである。この道は、正直、あまり科学的ではない。むしろ「こうしたら、こうなった」という現象についての知識の集積に終始するともいえる。それはちょうど、西洋的な科学的手法に対する、昔からの東洋的手法にも対応する。分かりやすい例で言えば、西洋医学的な手術や薬剤に対する、東洋医学的な気や漢方薬に対応する。

僕は、さっき、宮原先生のこの一連の工学的分析追及の言葉自体がアート作品の一種に見える、と書いたが、それは、このような東洋的方法論に似たものを想起させる何かが、先生の探求の中に見えるからである。西洋科学を学んだ東洋の本能を持つ精神、という構図がどうにも見えて来るような気がするのだ。もっとも、これは少し言い過ぎかもしれない。自分としては、そこに自分特有の性質を重ね合わせることが多いからかもしれないが、それは個人的な話だ。

僕の考えでは、現在、華々しい成功を収めているアメリカの、Google、Apple、Facebookなどが、実は以上に述べた問題に既に痛切に気付いていて、西洋のデカルトの思想から生まれた自然科学と、そこから生まれた現代の工学の限界を、東洋的方法論を取り入れることによって克服し、既に次の世代へと持っていってしまった、と見ている。この点、彼らの知的な勘は極めて鋭く、驚嘆する。僕が何度も出す例だが、情報社会のあり方を変えてしまったと賞賛されているスティーブ・ジョブズが禅を信奉し東洋に多大な興味を持っていた、というのは決して決して偶然ではない。

この件をきれいに分析して、示すのは並大抵ではできず、今のところ自分の手には余る。したがって、上述は僕自身の直観から言っているだけである。しかし、昨今、ここまで日本の家電メーカーが敗退続きで出口が見えず、国をあげてグローバル化やイノベーションを振興しているにも関わらず実績が出ないとなると、われわれも、もう一度、ここに述べたようなファンダメンタルな事々について、前提や起源に戻って考えてみるべきではないか、というのが最近の僕の考えである。

そもそもは宮原先生の感性オーディオについての話だったが、あの依然として混乱した宮原先生の報告書の堆積の中に、以上のような「大問題」が潜んでいるように、自分には見えるのである。

ひろしま美術館にあるゴッホのドービニーの庭って絵が好きだって話はずいぶんしてるけど、彼のいい絵は日本にあと数点ある。

小品だけど、オーヴェールで描かれた「あざみの花」という画布も好きだ。ドービニーの庭と同時期の死ぬ少し前に描かれた絵で、どちらも色使いはほとんど同じ。このころのゴッホは、どの絵も、十数色程度の色数だけを使い、それを塗り絵のように塗っているだけで、使われている色彩の数がそんなに多くない。そういう意味では、それこそ浮世絵の多色刷りみたいな感じになっている。

このあざみの花は箱根のポーラ美術館にあり、先日行って見てきた。やっぱり素晴らしいな、いつまで見ていても見飽きない。

ここまで絵そのものが好きになってしまうと、もう、実は、これが本物である必要はなく、この絵の完璧なレプリカがあれば、オレはそれで十分満足する。結局のところ絵画というのは視覚的なものなので、視覚が満足させられれば、それでいいのだ。

ということは、完全な複製が製作できれば、それは本物と正確に同じ価値を持つということだ(少なくとも僕にとって)。それで、本物と完全に同じものを製作するには絶対にデジタル技術でなければ不可能だ。腕の立つ複製職人もかなりのところまで行くが、こと完全複製となると困難と思う。

最近、ネットで、そういう超器用な職人が出てきて、紙の上に写真そっくりな絵を描いて、皆が無邪気に驚いているのとか見かけるけど、あれは対象が写真だからできるので、絵画の場合はできるか否か怪しい。特にゴッホの絵などの場合、絵の具の盛り上げと、偶然を利用したタッチが多用されているので困難さは写真を写すよりはるかに高いと思われる。

まあ、最近の高度なCG技術を使えば写真みたいな絵はあっという間にできるのを見ても分かるように、写真そっくりに描くのは意外と簡単なはず。皆が驚いてるのがバカみたいに見えたりする。

ま、とにかく、完全な複製はデジタルであるべきだ。

というわけで、ゴッホの絵は、無数に増やすことが可能な道理になる。オレは、それを一枚、是非、欲しい。額装して飾って家に置いて、いつでも見たいんだ。

それなのに、オレの今の環境では、超不完全な複製印刷、超ひどい出来の画集、液晶モニタの上の汚いデジタルデータ、しかもすべてオール凸凹なしのペラ紙しか、無い。凸凹特殊印刷の複製ってのがミュージアムショップで売ってたが、見たけど、いい加減なもんで、しょせん色彩は全然再現できてないし、凸凹がついた紙なだけで、油絵の具の質感とか皆無だ。

というわけで、電車で箱根まで行って、バス乗って美術館行って、入場料払って、本物を見るしか、今のところ方法が無い。

3Dプリンターもあるんだから、ボタン一つでゴッホのこの「あざみの花」の完全なデジタル複製が出てくる、っていうシステムはできないものか。いや、これは今現在のテクノロジーで十分に可能なはずだし、研究室の中では実現できているに違いない。

そうなった暁には、初めて、この、ゴッホの貴重な「あざみの花」は永遠に増殖しながら生き残るのではないのか(デジタルだと経年変化が無い、という下等な意味ではない)。

デジタル複製の場合、それが完璧になれば、「増殖」というのは当たってないと思う。というのは、ボタン押せばいくらでも同じものが出てくる、ということは、それは「複数」では無く「一個」ということだ。だから、そのようなことが可能になって、初めて、このゴッホの「あざみの花」という芸術作品は、「唯一無二」の、ほとんどあの世に属する、完全に抽象的な、一個の「表現」に形態を変えて昇華するのに、違いない。

だから、デジタルにすると劣化せず退色しないだとかなんだとかいう話は些末事で、どうでもいいことなのだ。

今はまだデジタル技術がまだまだイマイチなんで、ゴッホの「あざみの花」はポーラ美術館所蔵の「本物」が本物なだけで、その形態はまだ不完全だ。そのせいで、オークションに出て何十億円とかで競り合ったり、印刷した画集が売れたり、盗難にあったり、火事で燃えたり、贋作だったり、なんだかんだという「人間的なあまりに人間的な」ドラマが「本物」の周りでドタバタ劇のように繰り広げられているのだ。

そんな喧噪の中で、この「あざみの花」の純粋な「ビジュアル」は沈黙をたたえて存在している。オレは、その孤高な沈黙に会いに箱根へ行くわけなのだが、その唯一無二の芸術精神を、大仰な額縁に入れられて壁に固定されている、その目の前に見えている牢獄から「救い出したい」と切に思う。

がんじがらめの「物理」から、「理想」を救い出すには、もう、完璧なデジタル技術しか、方法が無い。

さいきん、自分は、そんな風に「デジタル」を捉えている。

早く、そうなんねーかな。

って、研究者なんだから自分でやれよ、か。

asamigogh

(Facebookから転載)

うちの近くにスウェーデンの大型病院がある。今日はよく晴れた暖かい春びより。駐輪場に自転車を止めようとして通りかかったら、日の当たる外に、車椅子に乗った婆さんがいて、タバコを吸っている。隣を通り過ぎるとき、その気はなかったが自転車の呼び鈴が鳴ってしまい、あしまった、と思って婆さんを見たが、婆さん、呼び鈴など気にも留めず、そのままタバコを吸っている。

ああ、もうこれだけ婆さんになると、大半のことはどうでもよくなるだろうし、周りで起こっていることの大半はきっとどうでもいいことになってるだろう。どうでも良くないことは、もう二つか三つあるぐらいで、後はもう関係ないんだろうな。

などと思いながら俺は自転車を停めて、日だまりの中を歩いていて、逆に考えたが、こうして婆さんや爺さんになる前の俺たちは、自分にとってどうでもよくないと思っている大量の事々に囲まれて生きてるよな。本当に大切なことは実はとても少ないのだ、などと言う気はないが、まあ、今の俺たちは、実に大量の物事に対処いけないといけない人生だなあ、と。  

その昔、何百年か前の人々は、そんなに大量の事々に対処する必要などまったく無かったはずで、そんな時代だって、実際、同じような人間が、同じように、泣いたり、笑ったり、タバコ吸ったりしてただろう。  

いま、仕事で、平安時代に描かれた絵巻物のデータを作っている。俺の大好きな、病草紙という、当時の病気を描写した絵巻物だ。風病を患ったという烏帽子を被った男が碁盤の横で目を回している。周りの女たちがそれを見て笑っている。このころの絵巻にはそうやって笑う女たちがここそこに登場するのだが、みな、本当に屈託のない笑顔をしている。男の眼を回す様子がおかしかったんだな、きっと。今の俺たちが見てもおかしく見えるだろう。でも、こんなに屈託なく笑うだろうか、今の俺たちは。  

他の絵では、急性の下痢を催した女が縁側で、口からゲロを吐いて尻から下痢を庭に向かって水のように噴出している。その女を一人の婆さんが、しなびたおっぱいを丸出しにして介添えしている。別の女は部屋で煎じ薬を作り、赤ん坊がそのへんを漫然と這っている。庭にいる小汚い犬が嬉しそうな顔をして庭に撒き散らされた下痢の臭いを嗅いでいる。  

まあ、呆れるほど、そのまんまな生き物たちの動きそのものだ。病人も、婆さんも、女も、赤ん坊も、犬も、ほぼ一つか二つの原理だけで動いている。そういう単純な時代の、単純な生き物の動きのその様子を、こうやって絵巻とかで見ると、不思議な気分になる。既に失われてしまったあれこれの動きなんだが、ただ、人間自体はそれほど変わってはいないとも思う。  

大量の余計のなものがもし俺たちから去って行けば、きっと俺たちとて、この病草紙に描かれたプリミティブな人間に戻れるかもしれない。日だまりでタバコを吸っていた婆さんが、そんな感じにも見えていたし。

(Facebookに投稿した文)

ふとしたことで思い出した、自分が小学生だったときのこと。たしかあれは小学5年の時だったと思う。当時は、生徒が学校外のふだんの生活で従わないといけない事項というのが、いくつも定められていた。盛り場を出歩かない、とか不純異性交遊をしない、とかは、たしか既に校則に含まれていたが、それだけでなく、実にたくさんの禁止事項が事細かに決められていた。
 
で、これはそのとき僕が通っていた学校に特有の規則だったのだが、「指定区域」というのがあった(正確な名前を忘れた)。学校を中心として東西南北に何々駅のここまで、という風に細かく区域が指定されていて、その区域を示す地図まで作られていて、学生は親同伴で無い限りその区域を出てはいけない、という規則だった。
 
この規則は当時も、実態に合わないのではないか、などと賛否が多かったようだった。そして、あるとき、夏休みを前にして、とうとうこの規則を緩和または撤廃するという動議が持ち上がり、先生とPTAそして生徒代表が集まって討論会が開かれることになった。
 
僕がなぜその討論会の場にいたのか不明なのだが、僕はその討論会に出席し、そこで一つだけ今でも覚えていることがあったのだ。かなり厳粛な雰囲気で会が進み、空気がピリピリとしていて、とても自由闊達な討論とは呼べない感じで、子供ながらに何となくその厳しい感じに圧倒されておとなしくしていた。そして会は進み、学生代表が意見を言う順番になった。
 
その時に登壇した小学5年の子だが、たしか名前をノグチ君といったはずだ。ノグチ君は普段はとても活発な、くだけた感じの、利発な子だったが、なんとなくしゃべるときぐにゃっとしたなよっとした感じでしゃべる癖があったことを、覚えている。檀上のノグチ君は、あらかじめ考えてあった内容を話しはじめた。区域外というのは現実に合わないし、他校にないものだし、僕たちの自由を奪うものだし云々ということを訴えたはずだが内容は覚えていない。
 
で、そのスピーチが終盤になったとき、ノグチ君は感極まってその場で泣き出してしまったのだった。どんなに泣くのを止めようとしても、どうしてもしゃくり上げてしまって言葉にならない。檀上で泣いたまま立ち往生してしまったのである。
 
僕は、そのノグチ君が泣き出したことだけ、鮮明に覚えているのである。自分も小さい子供ながら、なぜあのときノグチ君が泣き出してしまったか、痛いほどよく分かったのである。不思議なことに「なぜ彼は泣いているのか」という質問が仮りに発せられたとしても、それにはまったく回答できない、ということだった。もちろん、いま現在ならその理由につき言葉を使っていくらでもしゃべれるだろう。しかし、その時の子供の自分には「理由」は皆目分からなかったが、なぜ泣き出してしまったか、その「心」は完全に分かっていた。檀上で泣き出して立ち往生するノグチ君を見ながら確実に百パーセントそういう気持ちを抱いたことを、いま現在「思い出せる」のである。
 
今朝、このエピソードを思い出して、なんだか不思議な気持ちになったから、これを書いているのだが、何かを「分かる」ということはどういうことだろうな、と思ってね。その時の僕は確実にノグチ君に共感していたから分かったのだ。彼が登壇してしゃべっている内容は、頭脳を使ってそこそこに追ってはいただろうけど、何というか、その時の彼の心の動きを、自分の中で正確に追っていたのだと思う。そのせいで、彼が泣き出したとき、それが心で分かったのだと思う。
 
こういうのが、僕のふだん言うところの「文学」なのだ。科学でも哲学でもない、文学。いま、自分は、みずからを、結局は文学的な人間だなあ、と思うことが多々あるのだけど、それはそんな小さいころの経験の積み重ねがあったからかもしれないな、と思ったり、あるいは、自分が文学的な性向なせいで、自身の子供のころの思い出を文学的に脚色して思い出すのかもしれないし、どちらだか分からないが、どっちにしても今の自分が文学野郎なのは間違いなさそうだ。
 
それにしても当時の小学校の規則のがんじがらめ感はひどいものだったが、こんな討論会を催して子供にも意見を言わせるなんて、その昔の日本もなかなか民主的だったじゃないか。少し感心する。

仕事で大阪の天満に来ている。夕飯を食おうと一人で出歩いて、しばらくぶらぶらしたけど、相変わらずの関西のノリだなあ、と思いつつ、やはり同じ仕事の用事で二年前にもここに来たっけ、と思い出した。
 
飲み屋と飲食店と雑多な店でごったがえった迷路のような路地は、少しも変わっていなかった。オレは、いちいち飲み屋をのぞいちゃあ歩いたが、昔と少し違った事といえば、ほぼ満員な店の若者率が高かったことぐらいか。
 
かと思うと、ものすごく古風な、蛍光灯が煌々と点いた、明る過ぎて逃げ場がないような無骨な居酒屋が、こんどはオヤジやジジイで満席になっていたりする。面白いものだ。
 
昨晩さんざん飲んだせいで、今日は、まあビール一杯で飯を食うぐらいにしたいもんだ、と思いつつも、体調は既にリカバーしているので、今日も飲んだって構わない。
 
ごちゃごちゃした路地をぶらついてさんざん見物したあげく、路地街から、その外のふつうの街に通じる通りがあった。遠目に眺めると、店舗が切れはじめた向こうの方に、黄色い地に赤い文字の中華料理屋の看板が見えたので、そっちへ向かった。
 
店の前に来てすぐに分かったが、いちおう古くからある中華屋のようだが、それなりに寂びれた感じで、まあロクな店ではない。分かっていながら、のれんをくぐって入ってしまう。
 
中に入ると思ったとおり、わりと広い店内にもかかわらず、客が一人もいない。一番奥の隅のテーブルで、すでにお爺さんとお婆さんに近くなった二人が、テーブルの上の新聞紙を挟んで向かい合って何やらしゃべっている。
 
入って来た僕を見て、まるで少しびっくりしたような感じで、おばちゃんが、いらっしゃいませ! と元気よく叫んで、雑談をすぐに終了して立ち上がった。見ると確かにお婆さん。でも、髪を茶色く染めて、大きな真珠っぽいイアリングをしてるせいで、遠目にはおばちゃんだ。
 
取りあえず、生ビールを注文した。
 
赤い椅子に黄色いテーブル、広めの店内に、壁にべたべたと隙間なく貼られたメニューや、料理の写真や、あと有名人の描いた色紙など。左の棚の上にはテレビが乗っていて、大音量でプロ野球をやっている。天井の蛍光灯で店内は明るい。要は、本当に古臭い、昔からある中華料理屋である。
 
おばちゃんが「ビールのアテはどうしましょ」みたいに言う。アテか、飲みに来たんじゃないけどな、と壁に貼られたメニューを見ると「かしわ炒め」というのが目に入った。大阪では鶏は「かしわ」なのは、かつて3年間大阪に住んだ経験のある自分はもちろん知っていた。実は自分はこの「かしわ」という響きが当時から好きだったのだ。ということで、かしわ炒め下さい、と注文した。
 
ビールを飲みながら店内を眺めてぼんやりとしていると、お待ちどうさま、と、かしわ炒めが出た。鶏肉と筍と小松菜のあんかけのような料理が来た。あんは少しの醤油の入った薄いベージュ色で量が多く、この調理法は東京にはほとんどない。これは古い関西の廣東料理の典型的な調理法なのだ。かつて大阪に住んでいた自分はよく知っている、懐かしい姿だ。
 
食ってみると、おいしくない。筍などいつのものか分からない様子で、すえたようなヘンな味がする。調理が下手とは言わないが、端的に料理が古臭くて、今の人が満足するとは到底思えない味だ。客が一人もいないのがうなずける。
 
しかし、俺はそんなことは全然気にしない。自分は、自身で長年料理も作っているし、世界をさんざん食べ歩いてもいるし、料理が出ればたいていすぐにその素性が分かるのだが、実はオレはこのタイプのまずい料理に極めて寛大で、むしろ食っていて、まず過ぎてかえって感動したりするぐらいなのだ。
 
したがって、知らない土地で、わざわざ変な店を選んで入ってしまい、出てくる料理が糞まずい経験はしょっちゅうなのだ。しばらくビールを飲みながら食っていて、この今のシチュエーションが、何かに似ていることに気付いた。それは、果たして、一年前に学会で行ったスペインのサンタンデールという街でのことだった。
 
そのとき、退屈な学会を抜け出して、一人でサンタンデールの街を当てもなく歩いた。やはり、享楽的な国のスペインだけあって、いろいろ楽しそうなレストランやバーはあったのだが、結局、オレは、国鉄のターミナル駅に戻ってきて、その駅前にあった、ひどく変哲のない、客がまばらにしかいない、やはり蛍光灯で明るい店内の駅前食堂に入ったのだった。
 
給仕のおばちゃんは、百戦錬磨な感じのスペインのおばちゃんで、愛想よく観光客然したオレを迎えてくれたが、なんだかその様子が今日の中華屋のおばちゃんと似ていないこともない。加えて、そのスペイン食堂もガラガラで、客は冴えないオヤジが二、三人しかおらず、棚の上にテレビがあり、大音量でサッカーをやっていた。オレは今日と同じく、鶏肉のセットメニューを注文した。スペインのセットメニューはワイン込みだ。ハーフボトルの赤ワインが付いて来る。だいぶお得だ。
 
殺風景な店内の安物テーブルの上に料理がドカンと乗ったが、まあ、量は多いがうまくもなんともない。赤ワインはすでに封の空いたフルボトルがどんと置かれた。どうやら、ハーフでもフルでもどうでもよくて、好きなだけ飲んでいいよ、ということのようだった。
 
その時も、オレは大音量のテレビを聞きながら、小汚い地元食堂で、食って飲んで放心していた。今日は今日で、小汚い天満の中華食堂でプロ野球の大音量を聞きながら、食って飲んで放心している。やっていることが、まるで変わらないのだ。
 
店内のおばちゃんとおじちゃんは仕事が無いのでいつしか、再び、同じ隅っこのテーブルに戻って、大阪弁でずっとなにやら話し込んでいる。「いうてんやんか」とか「いっしょやろ」とか「あかんやろ」とかいう言葉がしきりに聞こえてくる。
 
そうこうして、ビールも半分ほど飲んだころ、例によってオレは、わけもわからない強烈な多幸感に包まれた。オレの多幸感は、だいたいがこういうシチュエーションでしか現れないのである。
 
それにしてもオレは、やはり「何か」から逃げ出したい、と常に思っているのだろう。しかし、こんな場末のシチュエーションで、場違いな多幸感を感じながら、実際には、オレは、妙に糞真面目なことを考えている。
 
そのときは、空間と時間について考えたんだっけ。人間は空間を克服する術を今までたくさん開発してきた。今朝東京にいたオレがその日の夜には大阪にいる、しかも、パソコンを覗けばいま渋谷にいる知人がリアルタイムでメッセージを送って来ている。空間についてはそんな調子なのに、考えてみると、空間の対となる「時間」の方は少しも克服されていない。相変わらず時は同じように流れ続け、変えようがない。
 
で、この、人間がオフィシャルに開発してきた術ではどうにもならない「時間」から自由になる方法は、実は昔から、ある。それの最たるものは麻薬だ。しかし麻薬は禁止されている。ということになると、この俺の多幸感などはまさに、それだ。この感覚は空間からの解放とはまったく無縁で、ひたすらオレの時間感覚を狂わせ、俺をそこから解放するように働くのだ。
 
オレが逃げ出したい、と思っているのは何だろう。何から逃げたいのだろう。なぜ、俺は、こういう、反知性的な、白痴的なもののただ中でしか、その多幸感を得られないのだろう。
 
そうこうしているうちに多幸感は去って行った。いつも、どんなに長くても五分ぐらいで終わってしまうのだ。

仕方ないんでオレは、少し生暖かくなった残りのビールをチビチビ飲みながら、テレビを見始めた。巨人とディーエヌエイの試合だった。すでにテレビをまったく見なくなっているオレは、物珍しいので、そのプロ野球中継をずっと見ていた。
 
でも、俺は野球などどうでもいいのだ。それにしても、安中華屋で、まずい食い物を食って、ぬるいビールを飲んで、プロ野球を見る、という構図は、実はオレの生涯の憧れの的だった。自分には、そういう生活は出来るはずがない、ということが分かっているので、それゆえに憧れだったのだ。
 
おばちゃんが外の暖簾を下ろして、店内のテーブルの上に置いた。まだ八時ちょっとだが、そろそろ閉店らしい。残りのビールを流し込むと、お勘定してもらった。ありがとう、おおきに、と標準語と大阪弁を交互に数回繰り返して、おばちゃんがオレを送り出してくれた。
 
外へ出ると、夏の大阪の夜は生暖かく、まだまだたくさんの酔っ払いが、飲み、騒ぎ、たむろしていた。

(Facebookに投稿した文)

(Yahooブログに2010年2/28に投稿した文)

この前、同僚と話していてふと思い出した話。

今から30年ほど前、自分が大学生だったころ、ギターを弾いてブルースを演奏していた自分はロック研究会という音楽サークルに入っていた。ロック研には学内に音が出せる部室を持っていて、ドラムやアンプやボーカルアンプなどすべて揃っていたので、そこで適当に時間割を決めて部員のバンドが練習をしていた。

当時、大学生になりたての自分は、部に属してはいたが、完全な変わり者扱いであった。というのは、部の活動に貢献するということを全くせず、部員とのコミュニケーションもまるでとらない、バンドも自分以外はすべて外部の人間で、その他、およそ「協調性」と名付けられることを一切、まるでわざとのようにしなかったのである。それでいて、ブルースバンドとして演奏活動はしていて、部室を練習場として使って、学祭ではライブに出演したりはしており、回りからはブルースに凝り固まったかなり不可解なやつと映っていたらしい。

ある日、バンドの仲間と部室に入ってエレキギター2本で練習していたときのこと、途中から後輩の二人が部室に入ってきて何ということなしに雑談を始めた。練習していた自分はこれがうるさくて仕方なく、演奏をいきなり止めて、ギターのボディーをバンッと叩き、いま練習してるんだから静かにしろよ! と怒鳴ったのである。二人は一言もなくすごすごと不服そうに部室を出て行った。その後、相棒が心配して、おい、あんな風に言って大丈夫なのか、と言ったので、別にかまわねーよ、と答えたものだ。

恐らくこの事件があってからだと思うのだが、自分は部の中で不可解な変人からさらに進んで「嫌なやつ」という評判になったようだった。なんだか、色んなところで、そういう言葉が聞こえ始めたように覚えている。

さて、今の自分だったら、部の中で上記のような、部の他の人を人とも思わないような態度を取ることは絶対ないと思うが、逆に、そのときなぜそういう態度に終始したか、というのを思い起こすと、それははっきりしている。そのときの自分はおよそ「人間関係」というものが、はなから、まったく分からなかったのだ。文字通り、完全に自分の中に存在せず、抜けていたのである。部という集団があって、そこに属している人間は一種の仲間であり、ある決まりやマナーにしたがって人間関係を築きながら協調しないといけない、という今では当たり前のことが、まったく理解できていなかったのである。

と、いうことなので部の中で変人、嫌なやつ扱いをされていても、自分はまったく気にもかけなかった。普通だったら、人から嫌われている状態というのは居心地の悪いもので、気に病むものだろうと思うのだが、この事態を何らか収拾しようなどとはこれっぽっちも考えなかったし、平然としていたものだった。

人に、ある「概念」が欠けている、というのは不思議なもので、その概念を常識として備えている人たちから見ると、それに欠けた人間というのは、ひどく不可解で、腹立たしく、気持ち悪く、感じるもので、結局はその人を排斥する行動に出るものだと思う。しかし、排斥される側の当の人間にとっては、実は、ほとんどまったく良心の呵責の対象外なので、意外となんとも思っていないものなのだ。

そして、またある日、バンド仲間と練習をしに部室に入ったときのことである。この部室には一番奥に黒板がある。それを見ると、なんと、そこに、「林君は今後この部室で練習をしないこと」とでかでかと書かれていたのである。しかもその文句の回りに、ロック研の名だたる先輩の署名が20ぐらいぎっしり書かれていた。いま思うとかなり過激な宣告なのであるが、これまたそれを見たときの自分の反応がおかしくて、単に、へーえ、と思っただけで何の感情も持たなかったのである。

もちろん自分のバンド仲間はこれを見てあれこれ心配して、これじゃもうここで練習はできないかもしれないな、他のところでやらないとな、しかし、林、おまえ何があったんだよ、などなど。自分は、うーん、たぶん部外の人間としかバンドやらないからかな、でも、まあ、大丈夫なんじゃないの、みたいに答えた。まあ、それはともかく、いま思っていちばん変なのが、こういう仕打ちに対してまったく無反応だった、ということである。

さて、このように書かれたからといってすぐに部室を出るわけでもなく、まずはしばらく練習をしていたのだが、途中でたまたま先輩の一人が入ってきた。この先輩、黒板に目を留めると、なんだこれは、と言ってすぐに、「おい、こら、オレの名前もあるじゃねえか、オレはこんな署名してないぞ!」と叫んで呆れ顔。「おい、林、これはでたらめだぞ、気にしなくていいからな。それにしても、誰だこんなことを書いたやつは、こともあろうに先輩の名前を勝手に使って書くとはけしからんやつだ、これは問題だぞ!」と、一人でかなり憤慨している。

ここで、また、自分の反応だが、なんでこの先輩が憤慨しているのか、その意味がまったく分からなかったのである。いま思えば、たしかに他人の名前を勝手に使ってこのようなことをするというのは卑劣なことで、名前を勝手に使われた人間が憤慨して当然なのだが、自分にとっては、この人なんでこんなに怒ってるんだろう、という感じで意味が分からなかったのだ。ここでも、やはり、自分には何かの概念が完全に欠けてしまっている。その先輩はとてもいい人で、ずいぶんと自分を慰めてくれたのだが、そもそも自分には事情があまり理解できていないこともあり、はあ、と聞いていたが、「デヘヘ」とかなんとか照れ笑いの一つもしたであろう。そのぐらいのことはできたのであり、それで人間関係も何とか持っていたのであろう。

かくのごとく、少なくとも部の後輩たちとは険悪だったらしいのだが、たしか学園祭だかの打ち上げで大酒を飲んで酔っ払って大騒ぎして、それを機に何となく和解してしまった。まあ、青春の一こまだと言ってしまえば、それまだ。

ところで、自分だが、その後、これらの人間関係云々が理解できるようになったのはかなり遅く、大学に6年行っても分からず、就職して初任地の大阪に3年いても分からず、その後、東京に戻り、数年ぐらいしたころからようやく理解し始めたようである。これは、自分が先頭に立って仕事をまとめなくてはいけなくなってからだったように思う。

それにしても、人間関係とか、協調性とか、気配りとか、そういったことにつき、生まれながらにまったく欠けてしまっているように見える人間というのが時々いるが、自分はそういう人たちにけっこう甘いところがある。それは、こんな風に自分もむかしそうだった、ということもあるのかと思う。いまこの現代の日本では、自分勝手に傍若無人に振舞うことについて、極端に厳しくなっていて、そのような人が出るとこれを寄ってたかって排斥するような傾向があり、そういったニュースなどを知るたびに情けなく寂しい思いをする。周りから何らか外れた人間は、昔よりはずっと生きにくくなっていることは確かじゃないか。そんなとき、実は、たとえその人間が犯罪者級の輩であっても、密かに共感してしまう自分の心を抑えられない。

ただ、この共感は多分に抽象的なものかもしれない。その傍若無人な輩がもし、自分のテリトリーの中で騒動を起こしたら、自分も怒って排斥する行動に出るかもしれない。ただし、その輩が自分と距離の離れたところで騒動を起こしている限りは、むしろ、害悪を流す人間の方に共感する方向に走ってしまう。

社会において、そういう迷惑な人間が現れたとき、これを一種の世論の総意として寄ってたかって排斥する場合、実は、この距離感というものが大事なのかもしれない。寄ってたかって排斥する人たちの集団というのは、個々人は距離的にもちろんまちまちに離れているのだが、その問題児の周りにいて直接迷惑をこうむっている人間たちを、想像力のよって自分と距離感の近い存在として認めるのではないだろうか。つまり、まるで自分のことのように怒り、同情する。一種の共同体意識が働くせいで、個々人の距離が小さい状態を想像力で作り出すのではないか。

ひるがえって、なぜ、自分がこれら排斥する側の共同体の人間たちと逆の感情を持つかというと、きっと自分は、彼らを自分の仲間と見なしていないからであろう。そして、当の問題児の方に近い自分というものを見出すからであろう。

いまの自分はこの手の問題児ではない。しかし、たしかにまだ世間の垢にまみれていなかった頃の自分は前述のごとく、自分を縛る人間関係を意識しない存在だった。そういう過去の自分の姿に近いものとして問題児に対してある共感と愛情を抱くのだろうな。しかし、ここではっきり言っておかないといけないが、この共感も、愛情も、抽象的なものである。いわば心理的なものであり、実体や実質的な力を伴っていないようである。つまり、共感を持った問題児について実質的にこれを助けたり、排斥している周りの共同体に敵対してこれを変えようとしたり、という行動を自分は取りはしない。

しかし、こういう実質的な力を持たない心理的な「気分」を軽く見てはいけない。こういうものは無意識において知らぬ間に蓄積され、自分の実質的行動を背後からあやつるものなのだ。ここぞ、という決定の瞬間に、突然、その蓄積した力を発揮して、その人の人生を変えたりするものなのだ。

人生ってのは、不思議だな。

5年ほど前、僕が前の会社でリストラにあい、職探しをしつつ、わりと弱っていたころのこと。その前の会社で自分が作ったモノをいろいろと売り込み、さらに世の中でなんとかして存続させようとあくせくしていた時だ。さいわい、単なる一技術としては上出来なほどたくさんの人が興味を持ってくれていた。その中には実際にそれを使いたい、と引いてくれる会社や人もあった。
 
当時の自分はなんとまだウブであったので、そういう引きの言葉をわりと真正面から受け取り、その気になったりしていたころだ。もっとも、さすがに実際に職を失って困ったりしていると、だんだんと自分も疑い深くなり、というか、世間的にまっとうになり、他人が自分に示す、あるいは自分の技術に示す興味につき、その大半が単にその他人の、自分のあずかり知らない、個人的な事情やその他の状況によるものに過ぎない、ということが分かり始めていたころでもあった。
 
ま、というわけで、まあ、いろんな人と次々と会っていたものだ。逆に自分がまだウブだったせいで、手あたりしだいに他人と会っていた、ともいえる。もしそのとき自分にもう少し世の中を見る目があったら、あんなに非効率な行動はしなかったと思う。そういや思い出したが、無職になって僕は個人名刺を作ったが、肩書が5つぐらいついていた。博士をはじめ、客員なんとか、なんとか研究員、そのほかもろもろ。5つもあったのは、非効率に行動していた結果でもあった。
 
ちなみに、誰か他人に会って名刺を渡して、そこに肩書が5つも付いていると、大半の場合、相手に対して逆効果になる、ということもその頃の僕は分かっていなかった。こんなにたくさん頑張ってるから私は価値のある人間ですよ、というアピールなわけだが、他人はそういう人を見ると普通は引くものだ。そんなものを相手に見せるより、相手にお世辞をたくさん言っていい気持ちにさせた方が恐らく十倍以上効き目がある。大量のアクティビティで人を圧倒するというのは失敗の元だ。ということも、その頃は分かっていなかった。日本だから? いや、違う、これは外国でもそうだと思う。
 
そんなアンバランスな自分には、それ相応なのか、けっこう変な人も引っかかるようで、かなりの変わり者とも会ったのである。その中の一人を思い出したのだ。
 
その人は、コンピュータとインターネットを利用した新しい学習塾の形態を考え出し、世に先だってそれを始め、そして成功した人だった。既に巨万の富を築いていたようで、全国にフランチャイズ校が多数あり、東京の本社でその人はたしか、社長、あるいは会長をしていたはず。重要な経営ミーティングに出てトップダウンな指示を出す以外はほとんど経営は他役員に任せ、自身はそれとはまったく違ういろんなビジネスに進出し、世界をまたにかけてあっちこっち飛び回っているそうだった。
 
先方が僕の技術に興味を持ち、まずは一度お会いしましょう、ということになった。自分は六本木ヒルズレジデンスに部屋を持って、そこを個人用のオフィスにも使っているのだけど、そのレジデンスエリアにあるレストランで昼食でもどうですか、とのこと。
 
ヒルズのレジデンスエリアへ入るのなど初めてだった。マンション下の公園の指定場所で待っていると、いつも上機嫌のその人が現れ、一緒に、やけに高級感漂うレストランに入り、仕事の話などをした。食事と話が終わり、その人が、ちょっと自分の部屋に寄って行きませんか、と言う。食事のとき、オーディオの話も出て、その人は個人で高級オーディオの海外販売なども手掛けているので、それらもお見せできますよ、と言うのだ。
 
レストランを出て、何重にもセキュリティのかかったビルディングへ入って、エレベータで十階だかに上がり、その人の部屋へ入った。
 
部屋には所狭しといろんなものが置いてあった。置いてあるものはなにもかも高級品で、さすが大金持ちの趣味は違うものだ、と自分には物珍しかったが、本当になんというか、そういう金持ち特有の、地に足のついていない、常にフローティングして世の中を自在に横滑りしているような感じが、とてもよく感じられた。ちなみに自分はこの人だけでなく、そういうタイプの人を何人か知っていたので、それらに共通の感じ、ともいえるものだ。
 
何百万円もする超高級オーディオで音楽をかけ、何十万円もするソファに腰をかけて、しばらく話をした。話は、これまたそういう人によくある、自分の成功の自慢話が主で、自分がいかなる方法で成功したか、について語っていた。もう少し正確にいうと、「方法」というよりは、いかなる「精神」で成功したかという話である。
 
さっき成功した大金持ちを何人か知っていた、と言ったが、そういうタイプの人たちにはある共通した「ノリ」があり、彼らが決して何らかの方法論で成功したのではなく、そのノリ、もうちょっと高級に言えば「精神」で成功した、というのが分かるのだ。そういう意味で、世の啓発書に成功者がたくさん色々なことを書きつけているが、そこに記載されている方法を真似してもダメで、精神の方を真似しないといけない。しかし精神はふつう真似は出来ないもので、そのせいで啓発書が何百万冊売れてもそれを買った何百万人が成功をするなどということが起こらない、というわけだ。
 
その人がその豪華な六本木ヒルズレジデンスで僕に語った精神も、そういうものであった。それを聞きながら、自分には、はっきりと、この精神は自分には真似できない、と感じたものだ。
 
その中で、こんなやり取りがあった。
 
「それで、いまはどうしてるんですか? 林さんぐらいの才能があれば、行く先はたくさんあるでしょう」
「いや、なかなか難しいです。それに、いまとぜんぜん違う業種に行くのも辛いですし」
「なぜですか? そういうのがあればそれでもいいじゃないですか」
「いや、やはりある程度堅実に長続きするところでないと職につくのはどうにも・・」
「そんなことを言っていたら先に進めないでしょう」
「でも自分には家庭もあるし、そんなその場限りであちこちふらふらするわけにいかないし」
「失礼ですがご家庭は奥様とお子さんもいらっしゃるんですか」
「いえ、子供はいません。奥さんだけです」
「それならば、それほど気にすることもないじゃないですか。家のローンが残っているとか?」
「いや、借金はゼロなんですよ。それだけは助かってます」
「そうですか、それならば、もっと自由にご自分の才能を発揮できる場へ進んで行くべきと思いますよ」
「でも、今の境遇になる前からうちの奥さんとはさんざん喧嘩もしてますしね。奥さんがそんな軽率なことは許してくれないですよ」
「奥さんのせいですか」
「うーん、せいと言うのもなんですが、やっぱり、勝手なことはできないですね。今までも、いまの無職の待遇になった経緯でさんざん言われてますからね・・」
「そんなのは放っておけばいいじゃないですか」
「そうは行きませんよ」
「つまらないですね。林さんのやろうとしていることを邪魔するのでしょう?」
「邪魔というわけじゃないですが、彼女に無断に事を進めるのは無理ですよ」
「そうですか、僕だったらそんな奥さんとは別れてしまいますね」
「そうですか」
「ええ、自分は自分のやりたいこと、今まさに行こうとしていること、それを邪魔するような人と一緒にはいませんね」
「なるほど」
「なんであっても自分の自由が一番です、その自由を妨げるものを自分は許せませんね」
「なるほど、言われていることは分かります」
「私なんかは、いまのカミさんとは別れてこそいませんけどね、彼女は彼女で自宅に住んで、そこで自由にやってますよ。まあ、自分はほとんど帰らずに駆け回ってますけどね」
「僕もそんな風に自由にできればいいんですけどね」
「奥様と別れられないのは分かりますが、自分にはそれは考えられませんね。すべては自身の自由ですよ。それが一番、大切じゃないですか」
 
と、まあ、こういった調子だった。
 
で、さっき思い出したこと、というのは、「自身の自由の邪魔をするものは許さない」というその人の言葉だったのである。その人は、およそ「制約」というのは外すべきもので、それに躊躇をするのは馬鹿げている、と考えるのである。一方、自分は、実は、「制約」こそが自分の人生を形造っている、と考えているのである。すなわち全く逆方向を向いている。そして、少なくともその人とのことについては、先方は大金持ちの成功者、自分は無職の敗残者、という結果になっていたので、彼の「精神」の方が正しいのではないか、と考える方が自然であろうか。少なくとも、啓発書的にはその通りであろう。
 
でも、これは、異なる二つの精神がある、ということで、それらは交換できないのだ、というのが正しいのであろう。僕には彼の精神が真似できないのは自明だが、彼も僕の精神を真似できないのである。自分は成功していて、相手は失敗している、ならば、その失敗している人の精神を真似するなど馬鹿げている、というのが彼にとっての真似をしない直接の理由であろうが、しかしそういう意味ではなくとも、彼にしたって僕の精神の真似は不可能だ、ということだ。
 
そして、彼が「林さんのように自分はしませんね」という理由が、「自由」だったり、「金」だったり「成功」だったり「地位」だったり、その他いろいろあるだろうが、逆にこの僕が彼に「自分はあなたのようにはできませんね」という時(こっちはずいぶんネガティブな響きになってしまうが)、やはり、それら自由や富や名声とは異なる、しかし自身が人生をかけて守るべき「なにか」があるべきはずのものだろう。
 
いったい、その「なにか」は何なのだろうか。はっきり名指すことはできないけれど、それが自分のかけがえのない「精神」であることは、間違いなさそうだ。

(2010年3月のYahooブログより転載)

ちょっと、たまたま、スピリチュアル系の本を読んだせいで思い出したこと。

乱数というのがある。ランダムにでたらめに現れる数字のことである。この規則性のない乱数を次から次へと発生させる機械を乱数発生器というのだけど、この乱数発生器は、実はコンピュータではとっても大事で、けっこう色々なところに使う。

それでは、この発生器をどう作るかというと、ふつうはある「数式」を使って作ったりする。その数式に「種」と呼ばれる数を入れてやると、後は計算で乱数を次々といくらでも発生してくれる。でも、しょせん数式なので、最初に入れる「種」が同じなら同じものが出てくる。なので毎回、発生させるたびに種を変えないといけないわけだ。それで、普通は、この種にそのときの年月日時刻を使ったりする。たとえば現在で言えば、2010年3月7日9:30なので「201003070930」みたいな数を種に使う。これなら毎回違うからちょうどいい。

しかし、こういう数式で作った乱数は、実は本当の乱数とは言えない。なにせ、もし、使った数式と種が分かってしまったら、出てくる数を完全に知ることができてしまう。さらに、結局、数式で計算して出している数なので、仮に数式や種を知らなくても頑張れば出てくる数を予測できてしまうかもしれない。そんなことから、このやり方で作った乱数は本当の乱数とは言えず、こういうのは擬似乱数と呼ばれている。

さて、この乱数を何に使うかといえば、色々あるだろうけど、たとえば暗号の鍵に使ったりする。乱数のようにデタラメに出てくる数を鍵に使えばそれを予測するのはとても難しいので、暗号として成立するというわけだ。しかし、もしこの乱数が予測可能であったとしたら、とたんに暗号は危なくなることは想像できる。

そんなわけで擬似乱数をたとえば上記のような暗号の鍵に使うのはどうもいけない。擬似乱数は、簡単な数式でいくらでも乱数を発生できるのでえらく便利なのだが、どうも危なっかしいのである。

それでは、本当の乱数というのはどうやって作ればいいのか、というと数式を使わずに、自然現象を使う。

たとえば、よく知られている乱数発生源に「熱雑音」というのがある。電気をそこそこ通す物質を「抵抗体」と言うが、これに熱を加えると、物体の中の電子が不規則に振動して、これが雑音を発生する。出来のあんまりよくないアンプを無信号でフルボリュームにするとスピーカーから「シャー」という音が聞こえたりするが、あれはだいたいアンプの中で発生する熱雑音である。

このように熱で電子を振動させる、などという超アナログなことをすると、その現象はまったく予測不可能なので、その雑音を使って乱数を発生させると、決して予測できない乱数がいくらでも取り出せる。宇宙の全歴史の中で同じことは2度と起こらないアナログ現象を使うのだから強力である。ここで深入りはしないが、特に、量子力学というものが知られてからは、真の意味で予測不可能なことが保証されたようなものなのである。

いや、ちょっと解説が長くなりすぎたが、思い出したこと、というのは次のことだ。

ずいぶん前のことだけど、どこかの大手のコンピュータメーカーからコンピュータのリリースのアナウンスがあり、それを見たときのことである。今度発売するモデルでは、そのコンピュータで使う乱数発生器を、それまでのように数式で発生させる擬似乱数ではなくて本当の乱数にするために、乱数を発生させるハードウェアチップを搭載している、と書かれていた。

このチップは、たぶん熱雑音を利用した簡単なチップなのだと思う。チップの中に熱雑音を発生させる何らかの小さな抵抗体があり、そこから出てくる純粋アナログノイズをデジタルに変換し、数にして、それを何らか整形して、乱数として出力するのであろう。

この小さなチップを想像してみた。すると、黒いモールドに金属の足がムカデのように生えているルックスはCPUとかメモリと変らないのだが、こいつは、一見そいつらと同じに見えて、決定的に違う「器官」を持っている。それは熱雑音を作る小さな小さな抵抗体である。まるで、黒いデジタルチップにぽっかりと空いた、外界に対する「窓」のように感じられないだろうか。

この話を聞いたときにすぐにこう思ったのである。

確定的に動いているコンピュータにこんな物理窓を開けてしまうと、ひょっとしたら、念視とか念力などのサイキックな能力のある人間は、この窓に精神をチューニングすることで、コンピュータの中に入れるようになるんじゃないか、と。

しかし、こんなことをすぐに連想する自分は、けっこう知らずしてスピリチュアル系だったのだろうか。自分の哲学的な意味でのルーツは、ドストエフスキー、ゴッホ、そしてニーチェといったところなのだが、この3人、みな何らか精神あるいは脳を病んでいたのは偶然なのだろうか。「病んでいる」という言い方は、通常の生活では極めてネガティブな意味だけれど、こういう人たちにとっては、この病んでいる部分が、なんだか得体の知れない渦巻くエネルギーの源泉であったりもする。そのエネルギーを元手に、小説を書いたり、哲学的思考をしたり、画布を塗ったりすることで、この現世とインターフェースしている人たちなのだ。

さっきのようなコンピュータに開いた物理窓から侵入する、などという話は、まずはよくあるSF的発想なのであるが、実は自分はSFはあまり好きではない。なんだか娯楽の域をどうしても出ないような気がして嫌なのだ。それで、いわゆるスピリチュアル系も同じような理由で敬遠している。

でも、自分の頭の中では、これらSFやスピリチュアルで言われていることを、ときにほぼまるごと納得している、というのも変な話だ。世間にいるいわゆる常識人たちが、SFやスピリチュアルの「娯楽から外れる真面目な部分」を、単なる荒唐無稽として一笑に付すことについては自分は賛成できない。自分は荒唐無稽だとは決して思っていないのだが、逆にそれらの「娯楽的」な部分が気に入らないのである。

先日、たまたま仕事で知り合いになった人に、まあほんのシャレ的なノリでスピリチュアル系の本をもらったので読んでみたのだけど、全部読んでみてちょっと悩んでしまった。その本はバシャールスドウゲンキという本で内容は完全スピリチュアルとチャネリングの話なんだが、言われていることのかなりの部分が自分がふだん思っていることに一致していたのである。

ヤレヤレ困ったもんだ。この本を読んでいると、その内容が、自分の心の中に、一種の二重性を持って入ってくる気がする。真面目な意味と娯楽的な意味の2つが、何だかぜんぜんうまく区別できず、二重写しのまま心の中で展開される感じというか。まるで、言われるところのパラレルワールドよろしくだ。

さっき、昨日から紛れ込んでいた蝿がぶんぶんとうるさいので見たら、出窓の上で逆さになってひたすらすごいスピードで羽ばたきしている。平面の上をめったやたらに滑っている感じで一向にらちが明かない。時々なにかにつかまって何とかしようとしているけど、どうしても起き上がれないようで、すぐにまた逆さになりそのままもがいている。そのうちようやく窓の桟を利用してはずみで宙へ飛び立つことができたが、今度はめったやたらに飛んでは壁に激突を繰り返している。いずれにせよ飛び立てたのだから、きっとどっかの壁に着陸してじっとするだろうと見ていたが、今度は床に落ちてしまい、また逆さのまま全速力で羽ばたきしながら床の上をめったやたらにあちこち滑りまくっている。そのうち、床に置いた鉢植えやら椅子の足やらにぶつかり何とか身を起こそうとしているらしいがだめで、そのまま床の上を滑ってするするするっと部屋の真ん中あたりに来た。いまだに羽ばたいているけど羽音はだいぶ弱くなり滑って移動する距離も短くなり、時々、羽ばたきを止めるようになり始めた。しばらくするとバタっと羽ばたきを止めたままになり、その場でひっくり返ったまま、今度は足をやたらと動かしてもがいている。そのまま見ていると尻尾に近い方から足の動きが止まって行き、最後には一番前の足を動かしているだけになった。ほどなくして、その足も停止し、逆さのまま死んでしまった。

カフカは好きな作家の一人だ。カフカで一番好きなのは、と問われれば間違いなく「審判」をあげるが、それにしてもやはり、カフカを初めて知ったのが「変身」という超有名な作であることは変わらない。今朝、ネットを見ていたら、このカフカの「変身」の少しおもしろい新訳が出たという記事を見つけた。多和田葉子という人の訳で、今までの日本語の意訳的な部分を少なくし、原文のドイツ語に近い形で訳したそうだ。外国語訳で「原文に近い」というのは極めてあいまいな話だが、どうやら「直訳」に近い形で処理したもののようだ。

例えば、かの有名な小説の書き出しの「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。」というのを、次のように訳した、とある。

「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。」

この文は、なぜだか、自分には、とてもいい感じに映る。なぜだろう。どことはなしに、自分の文体のリズムに近いような気がする。

ところで、自分は文章を書くのが好きでほとんどそれを趣味にしているような状態だが、僕のこれまでの文学修養は、ほとんどが外国文学の翻訳文によるものなのである。若いころに熟読したのはことごとく外国文学である。ドストエフスキーを筆頭とし、あともろもろの著名な外国作家の本を主に新潮文庫で読んでいた。なので結局、自分の文体は翻訳文学から来るノリが大きいことが予想される。逆に言うと、日本文学の並み居る作家たちの美しい日本語の文体というものから、文体の機微を吸収することはあまり無かったとも言えそうだ。もちろん、日本文学も主要な作は読んでいたが、たとえばドストエフスキーを十回再読するところ、漱石は一回で終わり、というぐらいの比率だったはず。

というわけで、自分の文体はおそらくあまり日本文学的ではなく、むしろ翻訳文学にありがちな、ちょっと無理でガタがくる単語の組み合わせ、そしてあまり美しく流れない語順、情緒的というより説明口調な、そんな文体の雰囲気がかなりの影響を自分に与えているはずであろう。もう今さら日本語の美文を書こうとも思わないし、このままだと思う。

それで、「変身」の新訳だが、思い切った直訳口調が自分にことのほかしっくり来るようだ。しかし、それにしても、毒虫を「ウンゲツィーファー」と訳すとは思い切ったことをするものだ。などなど思っている時に、ずいぶん昔、カフカの変身についての感想文を書いたのを思い出し、探してみたら見つかったので、以下に若干の推敲加筆と共に再掲しておく。

では、どうぞ。

ちょっと前に、例によって家を出る前になんか本はないかと本棚をあさって、まあいいや、と持って出たのが、薄っぺらい岩波のカフカの「変身」だった。変身はすでに昔に読んでいたけど、文庫にはもう一編「断食芸人」というのが収録されていて、これは読んだことがなかったので、持って出たのだった。さっそく断食芸人を読んだのだけど、ひさしぶりのカフカも面白いなあと思って読んだ。短かったのですぐに読み終わってしまい、では、まあ、というわけで変身の方を再読してみた。

なんと、こちらは夢中になって読んでしまい、二日分の電車の中で最後まで読んだのだけど、この小説にはびっくりした。カフカを夢中になって読んでいたのは、たしか20年近く前のことだったと思うのだけど、やはり歳を取ってから読むと変わるものなのか。端的に感想を言うと、これほど、暗くて、悲しくて、空しくて、ここまで悲観的なものだとは思わなかった。むかしカフカを夢中で読んでいたころは、「審判」や「城」が気に入っていて、当時はその幻想小説としての側面に耽溺していたのであった。「変身」は学生のころ読んだままで、たしか再読はしなかったのではなかったか。

これほど有名な小説だと、ほとんど誰でも筋書きは覚えているはずだろう。勤め人のグレゴール・ザムザが朝起きたら一個の毒虫になっている、そういう小説である。僕が覚えていたシーンは、父親が投げつけた林檎がグレゴールの腹にめり込んで、そのまま腐ってしまう場面と、たしか最後の方で、グレゴールが居間へ出て行ってしまい、一騒動起こし、そのあと回れ右して自分の部屋へすごすご戻っていく、という、この二つの場面だけだった。最後にグレゴールがどうなって終わるかも覚えていなかった。

たしかに、僕が覚えていた場面はあった。しかし、それより後があったのである。グレゴールが居間から自分の部屋に戻った後、しばらくしてグレゴールは死ぬのだった。最後の夜、弱りきった体で居間に出てきたグレゴールが元で、家族に一騒動が持ち上がり、その後、彼は身動きもできずに、そのままそこの床でじっとしている。その間に、妹と父親と母親たちは、自分たち一流のいつものやり方で結論をつけるのだった。この汚らしい毒虫はもう兄グレゴールではないのだ、という妹の主張を、父親は承諾し、母親はやり過ごす。グレゴールはしゃべれないので何も言えず、じっとこの家族のやり取りと、自分に下された判決を聞いている。

そして、彼は、最後の力をふりしぼって埃だらけの自分の部屋に戻ると、扉がものすごい勢いでぴしゃっと閉められる。さて、やれやれ、今度は? とグレゴールはひとりごち、そして、自分が消えていなくなることがいま一番必要であることを悟るのである。その後、彼が死ぬまでのほんの十行の描写が、こんなにもやり切れず、また、美しいものだったとは、完全に予想外だった。彼は、安らかな、そしてむなしいものおもいに、いつまでも身をひたして、じっとしている。そして、教会の時計が朝の3時を打ち、外がほの明るくなり始めるとき、彼は息を引き取る。僕には、この大きな芋虫みたいな「しろもの」が、ぼんやりした朝の光にわずかに縁取られて静かにじっとしている光景が、なぜかとても美しく感じられた。

このほんの十行ていどの描写だが、二十年前の自分は完全に読み飛ばしていた。自分は「メルヘン」というのを嫌って敬遠する傾向があるけれど、これは極上のメルヘンに思えた。メルヘンというのは、理屈ぬきに襲ってくる運命に不平を言わずに従いなさい、ということを言う物語のことだと思う。メルヘンは主に子供に語られることが多いが、メルヘンは子供向きに作られているのではなくて、子供そのものがごく自然にメルヘンを生きているのである。子供というのは理屈が分からないから、突然理不尽なことが襲ってきてそれに服従させられる経験をしょっちょうするはずで、それは、メルヘンと同じ状況なのだ。それで、そういう過酷な体験の全体が、悲しくて、でも、安らかで、美しい、そんな世界を形づくる、そういう光景を産み出すのが童話の役割なはずだ。まさに、グレゴールが死ぬ前の光景がメルヘンに見えるのは自然なことなのだ。

しかし、カフカは、そんなことはお構いなしに進んでゆく。グレゴールが死ぬ美しい場面を描いて、行も空けずに、すぐに家族にとっての夜明けがやってくる。朝いちで起きた小間使いの婆さんが死んだ芋虫を発見するのである。家族にとって、余計ものがようやくいなくなり、長い長い悩みの季節が終わって、ようやく開放の時がやってくる。家族三人はひさしぶりに揃って外出し、最後に、若くて、それゆえに美しい、生命で溢れかえったようなグレゴールの妹が、太陽の光の中で明日に向かって伸びをする、それで物語が終わるのである。

それにしても残酷なラストシーンを付け加えるものである。グレゴールは平凡な、今でいうところのサラリーマンなのだが、彼はそれまで、身の回りに起こるあらゆることに対して「思考」によって対応する男性として現れる。他のカフカの作品でも主人公としてよく現れるタイプだ。そして、この小説で、その思考する男に与えられた運命は以下のような感じだろうか。

「思考」しかない世界を歩くものは、あるとき突然、自由のきかない体に閉じ込められ、丸まって狭い一人の部屋の床にうずくまり、早晩死を迎え、あとには死体という抜け殻が残り、それもさっさと始末され、そして何も残らない。この運命に途中で気付いても、もう遅い。思考はべったりと自らに貼りついていて、振り落とせないのだ。そんな人間の中には「生命」という生まれつき高貴なものが住める場所がないのだ、云々。

たとえば自分はそんな風に思考だけで日々を忙しく生活する、いわゆる典型的な凡人サラリーマンではない、と反論できないこともないのだが、実際の話、よくよく自身を反省してみると、かなりの時間をそういう自動思考によって動く生活で過ごしていることに気付かないだろうか。そんなことを言ったって仕方ないじゃないか、それに常にそういう時間のみで過ごしているわけでもないし、と言うだろうか。でも、やはり自分だって少なくとも幾分かは、そして時には大いに、この毒虫に変身したグレゴールと同じではないか。少なくとも僕はそう感じているので、そういう人間についての悲観的な人生観のかたまりのような、この小説には、本当に、参ってしまった。

実は、学生のとき以来、本当に久しぶりにこの小説を読み、そのあまりのネガティブさに唖然とし、こんな作品が世界の名作として若者たちの読書リストに入っているなんてひどい話だとすぐに思った。もちろん、この本の中に美しい幻想は、先にも言ったように、ある。もっとも、少なくとも若かりし僕は、実は、前者のネガティブにも、後者のメルヘンにも、そのどちらにも気が付かず、頭に残ったのは奇怪なプロットの要所要所に現れる描写の面白さだけだった。ということで、結局のところ、若者に無縁なものは、若者は最初から見ようとしないし、見えもしないので、別に名作として読んだとしても実害などもありようがないな、と思い、納得した。

それにしても、若い僕はそうではなかったが、感覚の鋭いごく少数の若者には、このような作品はきっと危険な爆弾として作用するに違いない。芸術というのは果てしないものだな、と思う。

いま、真空管オーディオアンプの初心者向けの本を書いているのだけど、初心者を想定して書くと自分が初心者だったころを思い出すわけで、そういえばそうだったなあ、とか小学生だったころをいろいろ思い出した。
 
電子工作を始めたのは小学5年ぐらいのころだったと思う。たぶん、たまたま本屋かなんかで見つけた電子工作雑誌を買って、それで夢中になったのだろう。当時は、教えてくれる人もいなかったので、それら雑誌を文字通りボロボロになるまで何度も何度も見て、それで、ときどき小遣いが溜まると部品を買いに行って、それで作っていた。
 
当時は大田区に住んでいたのだが、大森駅と蒲田駅の真ん中あたりの普通の住宅街のところにある踏切を渡ったすぐ右手に小さな電気屋があり、そこで部品を買っていた。なんと、その当時は、いまでは秋葉原の限られたところにしかない、趣味の電子工作向きの小物の電子部品を一通りそろえた店がそんなところにもあったのだ。
 
残念ながら電気屋の名前は忘れたけど、物静かでなんとなくあごがそっくり返った感じの四十ぐらいのおじさんがやっていた記憶がある。たぶん、何度も何度も通った小学生の自分を覚えていただろう。
 
最初に作ったのはご多分に漏れずゲルマニウムラジオだったが、まあ、これが、何度作っても一向に鳴らないのである。いろんな雑誌に、いろんなゲルマニウムラジオ製作記事が載っていたので、次々と試してみるのだけど、クリスタルイアホンを耳に入れても、時々、ガリガリ、とか小さくいうだけで、まるでラジオが聞こえない。
 
今思えば、一番の理由はゲルマニウムラジオの感度が悪すぎ、きちんとアンテナがつながれていないせいと、それに加えて配線ミス、そしてハンダ付け不良が重なって、なにをやっても鳴らなかったのは明らかなのだけど、そのころはそういう風に論理的には考えられず、鳴らないのを、ほぼ単純に「部品」のせいにしていた。
 
製作記事には、たとえばバーアンテナ(黒いフェライト棒に細い線をたくさん巻き付けた電子部品)はこれこれという型番のものを使います、と書いてあるけど、ローカルな電気屋には、まず同じものは、無いのである。そこで、おじさんが、これでも同じですよと出してくれるバーアンテナを買って、家に帰って作ってみると、うんともすんともいわない。あ、やっぱり、このバーアンテナがダメだったんだ、と思うわけである。
 
そのうち、自分のラジオが鳴らないのはあのローカル電気屋のせいだ、とまではっきり考えなくとも、何となく、そんな風に思うようになって行った覚えがある。そうこうしているうちに、秋葉原まで遠征することを覚え、めでたく雑誌記事に指定されているのと同じモノが手に入ったときなど、宝物のようにして持ち帰った覚えがある。
 
でも、結局、それで作っても鳴らなかったりするわけで、そういうことを何度も繰り返しながら、だんだん真相に気付いて行った、というのが、自分の電子工作修行だった。
 
ロジカルに考えれば、作ったラジオが鳴らない原因は、配線ミスかハンダ不良か電波不足のこの三つしか、まず、ありえないのである。すなわち、これは全部、自分のせいなのである(電波不足は自分のせいじゃないけど、アンテナ立てない自分のせい)。でも、小学生の自分は、まず最初に自分が原因だと疑うことはしないもので、何かしら外界にあるもののせいでうまく行かない、と考えるわけだ。子供の論理というのは、そういうものだよね。
 
しかし、そういう状態だと、逆に、自分を取り巻いているものが、めくるめくワンダーランドに感じられるのである。自分の周りを大量の「分からないもの」が取り巻いていて、自分はそれを次から次へと渡り歩いて何かをしようとするのだけど、どうしてもうまく行かず、結局はその分からない外界が、なにか自分の知らない不思議と秘密に満ち満ちた世界に感じられるというわけだ。

秋葉原から京浜東北線(国鉄の、ね 笑)に乗って、型番通りのバーアンテナを袋から何度も出して、そのちっぽけな部品を、痺れるような快感をもって見ていた子供の自分を、遠い思い出の反映ではあっても、今でもかなりはっきり思い出せる。
 
大人になって、何かがうまく行かない時、その原因の大半は自分にある、ということが分かってしまうと、そういうことは起こりにくくなる。仮に、原因が自分じゃないということが分かったときでも、大人の場合、その外の原因に対してはっきり対決するか無視するか、ということになってしまい、やはりそこに不思議は現れない。
 
大人はかくのごとく、大変に退屈な種族なので、仕方なしに人工的な不思議を作り出してそれで一時的に遊戯して、当面の満足を得て、また元の現実に戻る、ということを繰り返して生きていたりする。
 
それにしても、子供というのは、まったくのところ「分からないもの」に常に囲まれて生きているわけだけど、そういうものが心に及ぼす快感というのは果てしないような気がするな。大人になっても、そういう「分からないもの」を自分の周りにしっかり配置できる人は、おそらく少ない。たぶん、この事情は、いろんな解釈の仕方があるんで、一概にどうの、と言えないが、僕個人の感覚で言うと、こういう「法外な大人」の代表は、まず、カフカ、ということになりそうだ。
 
それにしても、ああいう子供時代の快感は忘れないようにしたいもんだ。最後にはそこへ戻って行くような気もするし。

(Facebookに投稿した文)

自分には侘び寂びの心はわかると思う。自慢じゃないが、というかこんなの何の自慢にもならないが、侘び寂びほど分かりやすい感覚もない。日本人なら誰でもわかるとは決して言わない。というか、昭和から平成になって侘び寂びは表面上はあまり取り沙汰されなくなった覚えがあるので、おそらく若年層はそんなもの学校で出てきたかな、ていどで、その心が分かる若者がそう多いとは思えない。

あと、はっきりしているのが、昭和であろうが平成であろうが、まあ、恐らくそれ以前もそうであろうが、侘び寂びの心は日本にある感覚のほんの一部に過ぎないし、そんなに大それた大きいものであったことは無いように思う。

だいたいが、侘び寂びなんていう言葉自体が、大それたものになることを自ら拒否しているようなもんだ。たとえば、グローバルな侘び寂びとか、地球規模の侘び寂びとか、侘び寂び帝国とか、口に出してみればただのギャグにしかならず、まったくの形容矛盾になるのは見ての通りだ。

というわけで、侘び寂びというのは、ホントにつつましやかなものだ。

たしかに、自分には侘び寂びの心は分かるし、感じるし、なにがありがたいかも分かるし、およそ何でも分かってしまう。しかし、これは個人的にだが、自分は侘び寂びを積極的に賛美したことはないし、正直に言うとあまり好きじゃない。

僕が尊敬し憧れる日本人に兼好法師がおり、彼の徒然草は僕の最大の愛読書である。その彼が、徒然草の中で、この侘び寂びの実例をいくつか引いて賛美しているのを知っているが、兼好のそういう文はあまり好きじゃない。僕が兼好で好きなのは、猫まただ!って腰抜かしたり、しろうるりだったり、芋頭だったり、鬼が出たって右往左往したり、そういう文である。どうも、あの侘び寂びのくだりはインテリ臭くて、すかしてて、洒落者を気取ってて、鼻につく。

というわけで、侘び寂びは分かるけれど、好きじゃない、と。

いや、ちょっと待てよ。じゃあ芭蕉はどうだろうね。

自分は、奥の細道はずいぶんと好きで、古文がたいして分からないくせに、わりと何度も目を通している。特にそこに載る数々の芭蕉の句は、それほど古文の形式に拘ったものは多くなく、現代から見ても平易なので分かりやすく、そんなこともあり、ほとんど、及び難いとまで感じる好きな句がいくつもある。しかし僕には、それらに、侘び寂びの感覚はぜんぜん感じられない。乱暴に一言でいうと、芭蕉のそれらの句は、強さと、大きさ、を現していて、侘び寂びの感覚と逆を向いているように感じる。

まあ、結局、やっぱり、侘び寂びは好きじゃないわけだ。その感覚が分かるだけに、好きじゃない。侘び寂びを有難がってる現代日本人がいると、心の中で、フン! と言ってしまう。かといって、嫌悪したり、馬鹿にしたり、というのは全然違う。第一が、そんなに大それたものか、と言いたくなるのと、あとは、そんなのは心の中にしまっておいてくれよ、という感じかもしれない。

そうか、なんらかの羞恥を伴う感じがあるのかもしれない、いま気付いたが。

しかし、なんの羞恥だろう。侘び寂びは意外とエロチシズムと関係しているかもしれない。あまり深入りする気はないが、そんな気もしてきた。

ところで今日初めてWikipediaで侘び寂びの意味を調べた。で、改めて調べると、侘びは粗末で簡素な様子を、寂びは古びて寂しい様子を表すそうだ。それ以外にごちゃごちゃといろんな人や例を引きながらあれこれ説明しているが、ほぼすべて予想通りのことが書いてある。自分が侘び寂びが分かる、というのは、その心が分かるということなので、そのコアとなる概念を会得していれば、それについての説明は全部自分の予想したものになるのは当然のことだ。つまり、これは特段にタイソウなことではなく、たとえば、誰だって「悲しい」って何? 「嬉しい」って何? と聞かれればその心が分かっているので、特段の説明を要しないし、辞書を調べても、ああ分かり切ったことばかり書いてあるな、と反応するわけで、それと同じようなもんだ。

そういう当たり前な心が形成されるためには、それらの言葉で表されるところのものを、繰り返し感じる環境が必要だが、きっと僕の若い頃に自分の周りにそれがあったんだろう。死んだ親父あたりがオレに侘び寂びを仕込んだのかもしれない。喜怒哀楽と共に。

冒頭に書いたように侘び寂びの心は昭和ぐらいで終わっていて、すでにそれはもう日本人の共通の感覚ではなくなったように思える。それどころか、2015年になって、思い返すとどうだろう。この侘び寂びという、およそ、強さや大きさと正反対を向く感覚から遠く離れて、逆の方向へ向かおうとする光景の方が目に付くようになった。

こうして見ると、やはり自分が思っていたように、侘び寂びには「力」がなかったのだな、と妙に納得する。しかし、その順当な成り行きは、まさに侘び寂びの正当な運命を現しているわけで、実は、その侘び寂びの衰退こそが、その心が本物であったということを示しているともいえる。いくら僕が侘び寂びは気に入らない、と言っても、やはりそれはホンモノだったのだろうね。勇ましいくて騒々しい言動ばかりでいい気になっている昨今の日本人は、少しはそれを思い出した方がいいんじゃないかね。

今日、二子玉川の界隈で夕飯を食べようと思ったのだけど、なかなか適当な店がなく、けっこうしばらくさまよった。昨日飲み過ぎて、もうビールとかアルコールは見たくもなかったので、夕飯だけ食おうと思って歩いたのだ。それにしても改めて、飲まずに食うだけのところというのが無い。飲み屋ばかりである。しかし、これは意外だった。ふだん、夕飯を食いに入るときは基本、ビール付きなので今までこの事態に気づかなかった。酒を飲まない人というのは、実は一人で飯食うの大変だったんだ。
 
というわけで、飲み屋ばかりが並ぶ飲食街の外れまでずっと歩いて行ったら、ようやく古臭い飯屋を見つけた。「つばめ」というのれんがかかっていたけど、こんな店、二子玉川界隈に長年住みながら、今の今まで気が付かなかった。こんな店あったっけ? みたいな感じである。店の前の地面に置かれた古びた黒板に、かすれた白いチョークで定食メニューがぎっしりと書かれていた。ま、ここでいいか、と店に入った。
 
入口に「不況に負けず、営業中」と書いた札がかかっていた。
 
ガラっと、入ると、店内はガラガラで、若者が一人で黙々と飯を食っている以外、客は誰もいない。典型的な昔の定食屋の内装で、粗末なテーブルに粗末な椅子、そして、端っこにある棚の上でテレビがかかっていて、相撲をやっている。威勢のいい給仕のおばちゃんが「いらっしゃいませ!」と言う。

この店、入ってすぐ、かなり参ったのだが、店内が、もの凄く、臭い。最初は、古い店によくあるネズミの糞の臭いかな、と思ったけど、しばらくいて思い至ったのだが、これは浮浪者の臭いだ。よく、電車とかに、ふいにボロボロの浮浪者が乗ってくることがあるので、わりとよく知っている臭いだ。
 
臭いなとは思ったけど、まあ、仕方ない。客席から厨房は見通しになっていて、中でおじちゃんが二人働いている。おじちゃん二人とおばちゃん一人でやっているようで、昔の定食屋らしく三人はよく無駄話をするのだが、その会話がけっこう大衆店っぽくて面白いな、と思って聞いていた。ゴーヤチャンプルとアジフライの定食を頼んだ。
 
ほどなくして飯が出てきた。山盛りのゴーヤチャンプルと、揚げたてのアジフライに、キャベツにトマトにポテトサラダ、味噌汁にお新香にどんぶり飯、という感じで、ボリュームたっぷりでかなりお得だ。これで750円なのである。店内は臭いが、食いものはまずくはない。もちろん、コテコテの大衆飯なので、お味がどうのと食うタイプの飯ではなく、とにかく食うこと優先の代物だ。それにしても、まさに昭和の味だ。
 
相撲を見ながら、食った。相撲を見るなんて、何年ぶりだろう。ところで、いまどき、横綱がみんなモンゴル出身だなんて知らなかった。しばらく見ていると、日本人の大関が出てきて、歓声がすごくて人気があるみたいだったけど、モンゴルの横綱にわりとあっさりと負けてしまった。
 
そうこうしていたら、おばちゃんが入口を見て、「あら、ジンさん来たわよ」と言うので、入口を見たら、ガラガラっと扉が開いて、どこから見ても土方の仕事帰りのおっちゃんが入ってきた。
 
「おいっしょーっ」みたいな声を出して椅子に座って身体を投げ出した。間髪を入れずにおばちゃんが「生ビールですね」と言うと、おっちゃん、「うん」と言って首を縦に振った。
 
「生ビールお待ちどうさま!」とビールを置く。ここで、そのへんのサラリーマンみたいに、すぐにジョッキに手をかけて、グビグビグビっと飲んで、はあー、うまい! みたいなテレビのCMみたいな飲み方をしないところがさすが土方のおっちゃんだ。おっちゃん、すぐに手を出さず、しばらくジョッキを眺めてから、おもむろにつかむと、ズズッと少しだけ飲んで、また椅子に寄り掛かった。
 
オレはアジフライを食いながら、一部始終を見ている。相撲は日本人が負けて、すでに終わってニュースになっている。
 
しばらくすると、おっちゃん、財布を出して、千円札をひっぱり出して、しばらくごそごそしていたが、おもむろに、「俺、金ねえや。千円しかない」と大声で言った。おばちゃんがすぐに、「千円あれば大丈夫よ、気にすることないって」と言うと、おっちゃん、「でも、これじゃ飯、食えないな」、おばちゃん、「なによ、いいのよ、明日にでも持ってきてよ」と言う。おっちゃんしばらく黙った後、「うん、明日、持ってくるよ」と言うと、厨房のおっちゃんが「なに、いつでもいいからさ」と言う。
 
ということで、おっちゃんはツケで飲食だ。僕はそのやり取りを感心して聞いていたが、食い終わったんで、お勘定してもらい、店を出た。
 
暗い夜道を歩きながら、その店のおばちゃんとおじちゃんと、いかにも土方な、抑揚のない唐突な感じのしゃべり方をするおっちゃんの会話をいちいち思い出しているうちに、なんだか泣けてきた。まあ、別に、昭和だ、人情だ、なんだとか言いたいわけではなくて、これは、なんというか、一種の音楽だな、と思った。店が浮浪者の臭いだったのは、その手の人がけっこう来る店だったんだな、きっと。そんなこんなもすべて含めて、一連の出来事や、風景や、会話などが、不思議な音楽を聞いたみたいでね、それで感動したんだな。

永遠の0という映画を見た。3月に出張で東京に一時帰国し、あれよあれよの忙しく楽しくも短い東京ライフが終わり、スウェーデンへ帰る飛行機の中で見たのである。この映画、そして、この映画の原作については元同僚のFacebook投稿で知った。元来、娯楽映画にはほとんど興味がなく、特に最近の日本映画になんの関心もない自分としては、どこか別のところで話題になることを通してでしか、そういうものに触れることはないのである。

元同僚のFacebookエントリーについては、僕もコメントでいくらか参加したと思う。この永遠の0という映画そして原作に関し、見なくても読まなくても、想像で、もっともらしいことは簡単に言えるわけで、呑気にコメントを返していたのだと思う。当の元同僚は、やはりコメントのいろいろな反応を見るに至り、さすがにその当の原作と映画を自身で当たらないことには応えようがないと判断したようで、結局、原作の書籍を買って読んだそうだ。その、彼の、長めの感想文も、僕は読んだ。

僕は、というと、この手の戦争映画には意識的に近寄らないようにしている。その理由はそうはっきりはしないのだが、ただ、ある感覚に基づいて「近寄らない」という反応は、かなり尊重していい行動の指針である。何かの危険を、第六感で察知している、と考えてよいと思う。ひいては、人間の社会生活というのは、その「勘」によって成り立っていると言ってもよいと思うし、その勘があればこそ社会はほどほどに平和に推移するのである、と考えて構わないと思う。

さて、それで僕の今回の永遠の0鑑賞だけど、やはり止めた方が無難だったかもしれない。成田からヘルシンキまではおよそ10時間だ。機内ムービーをブラウズして、この映画があったので、Facebookの投稿で知っていたので、見てみようかな、という気になった。それで、どうだったかというと、自分でも呆れるほど、泣けて泣けてしかたなく、どうにもならないほどであった。

僕は機内アルコールを飲みながらほろ酔いで見ていたので、そのせいもあるのかもしれないが、映画が終わり、席を立ち化粧室へ行き、その狭い部屋の中で号泣してしまったほどだ。どうにも自分を制御できないので、化粧室を出て、乗務員のところへ行き、仕方なしにさらにビールをもらい、自分のシートに戻った。ほぼ呆然として、缶ビールを飲みながら反芻したが、やはり、何度も何度も号泣に近い感情に襲われて、まことに参った。ちょうど、そのときに機内は擬似夜間に入り、照明が暗くなったので助かった。あそこまで泣いていると、さすがに恥ずかしい。

冷静に考えれば、この映画はまさに泣かせるために作られていたわけで、僕は単にそれに乗せられただったとも言う。映画や小説などの物語につき、この手の泣かせ方で泣いてしまうことにつき、自分はほとんど重きを置かないようにしている。こういうものを自分は感動とは呼びたくないのであって、むしろ花粉症で鼻水をたらしているに近い、と考えるようにしているのだが、それにしても、今回は泣きすぎである。

それですぐに思ったのは、原作を書いた、あのスキンヘッドの百田尚樹とかいうやつにここまで泣かされたのは、誠に忌々しいということだった。もっとも先に書いたように、むしろ監督と脚本の方がお涙演出を多く入れたからだろうから、原作者のせいにするのは変なのだが、しかし忌々しいことは変わらない。なぜなら、先日の都知事選で、田母神俊雄の応援演説に立った彼の発言を読み、それが非常に嫌だったからだ。さらに、NHKの経営委員でもあるわけで、ああいう男が、戦時中の国を思う日本人を、「現代風に」美化した発言をするたびに、本当に嫌になる。

などなど、悔しいから、いろいろ言ってはみるのだが、やはりどこか自分の琴線に触れる部分があったのは確かなのである。演出による泣き、というのはカタルシスであって、思い切り泣いて感情を発散して、映画から出てきた後はすっきり、というメカニズムなはずなのだが、自分は、今回の場合、見た後もすっきりせず得体の知れない心の疼きみたいなものが続いたからである。

では、それは何か。

実は、それは、わりとはっきりとしている。僕が思ったのは死んだ親父にまつわることだった。親父は今から25年ちょっと前、親父がまだまだ若い58歳の時、僕が28歳ぐらいのときに癌で死んだ。親父が病気になる前まで、親父と自分はそれほどの交流は無く、僕は親父をどちらかというと敬遠していた。人間、癌にかかり死と隣り合わせになると、自然にシリアスになるもののようで、親父が病床にあったとき、僕と親父の間に何度かの忘れがたい交渉があった。普段は決してしない手紙のやり取りもあったし、ごくたまに見舞いに行ったときの、夢の中のような思い出もあった。

最後に、親父が死んで、結局、俺になにを残していったかというと、それは、「お前は士族の嫡男だ」という言葉だった。親父いわく、林家は武家の血を引いているそうなのだ。僕は長男なので、武家の嫡男として生まれた以上、その血に恥じぬように生きろ、ということを、親父は僕に言いたかったらしい。自分はと言うと、そういう重いものを元来嫌っているので、その考えには、表では反発していた。しかし、血の誇り、という概念は、僕の心に深く突き刺さるものであったことは間違いなさそうだ。

今この現代で、士族の嫡男などということがどれほどの意味を持つか、とは思う。第一、林などという姓はありふれたもので、親父は武家の血を引いていると言っているが、これは親父の単なる勘違いかもしれず、実はそのへんの水呑み百姓の血を引いているだけかもしれない。ましてや、親父はその証拠をほとんど残さなかったので、なおさらである。家系図の一つも持たない自分が士族の血を引いていると自負するなど、ほぼ馬鹿げたことだ。

以上の通りなのだが、やはり、僕にはこの親父の言葉は深く自分に影響を及ぼしたようなのだ。いかなることがあっても、決して誇りを捨てるな、卑怯なことは死んでもするな、真実のためとあれば自らを犠牲にしてもそれを貫け、ということだったのだが、なぜ俺はそれが嫌だったのかと言うと、俺は、そういう生まれの宿命から自由になりうる、ということを信じたかったのだ。俺たちには「知性」という、誰にでも等しく与えられている能力によって、その宿命から開放される道が絶対に開けているはずだ、と考えていた。そう考える自分にとって、士族的な責任観念は邪魔以外の何者でもなかった。

理性では以上の通りなのだが、しかしながら、ひょっとすると、俺がこれまで生きてきた、その要所々々での重要な決断は、その士族的責任観念の影響下でなされたものだと思えることは、確かなのだった。これは、自分の理性でうまくコントロールできないだけに、自分には忌々しいものだった。一種の「弱み」と言ってもいいような感覚を持ってしまう。自由になりたいのに、どうしても自由になれない「足枷」のようなものと言ってもいい。

さて、映画の方に戻ると、この映画は、これら自分の弱みという弱みを刺激するように作られていた。今回のような映画を見させられると、否応無く心が反応してしまうのだ。そういう意味で、あの映画の主人公と主要なプロットは、士族の心というものがあるなら、それを、そのままに体現するようにできていた。したがって、自分は、どうあっても心が自動的に反応してしまうのだった。

さて、そういう意味合いにおいてだけど、自分にとってあの映画に、唯一、傷があるといえば、最後の最後のラストシーンで、敵艦に突っ込む直前に、主人公の顔のアップが続き、彼が唇を歪めて瞬間、にやりと笑ったこと、それと、突っ込まれる空母のアメリカ兵たちが英語で、またあのZeroが来たぞ、クソ、なんとかしろ!と絶叫した声が入ったところだと思った。その瞬間に、主人公の日本人としての士族の血はすべて、敵を倒すことに急転直下に転化されたからだ。無垢な誇りが社会的行動に転化する瞬間だ。

この瞬間の出来事は、映画上でもまさに瞬間の出来事であって、合わせて数秒のことだ。しかし、ここに明らかな「美化」がある。あるいは、血の誇りというものが最初から「美」であるのなら、美が行動へ転落する様子がある。単なる「美」が、実質的な「力」を得る瞬間だ。これをもってして、日本人の血に流れるいわば抽象的な武士道的精神が、具象的な日本の政治の力に転化されることが実際に、起こる。

さて、もうこのへんにするが、号泣するほど感動した映画ということになってしまうわけだが、見終わった後、しばらく呆然と考えながら、はっきり思ったことがあった。それは、自分は、ヨーロッパの哲学を知っていて、本当によかった、ということだった。

人間というのは、民族も、血族も、身内も、何もなく、ただ唯一ある神の元に、放り出されたたった一人の絶対的に孤独な存在に過ぎない、ということを前提にして、そこを出発点にして、ひたすら神から与えられた知性に従って思考することで、この世界を構築しようとしたのが、西欧哲学の伝統だ。俺はそれを、身をもって知っている。それこそが、この日本の特攻隊で終わる戦争における一悲劇を描いたこの映画に強烈に現われている、生まれに基づく誇りの観念に対する、唯一の、正反対な、大きなカウンターとしての力に感じられたからだ。ヨーロッパ哲学は、このような胸をえぐる日本的情緒に幻惑された精神に対する、正当な、力強い、カンフル剤なのだ。

少なくとも、自分にはそうだ。何かのために命を捨てるという行為は尊く、神聖なものだ。それは、それで、いい。しかし、決して、それを元に社会を組み立ててはいけない。ヨーロッパ哲学は、その内部に、ほとんど本能的に、そういう洞察を抱いている。それは、ひょっとするとギリシャのソクラテスより、ナザレのイエスをその起源としているのかもしれない。その起源ははっきり分からないが、これは確かなことだと思う。

ところで、僕に士族の誇りを植えつけた親父も、やはりその教養の半分はヨーロッパの哲学と文学から来ている、と自分で言っていた。親父は、苦労の多い幼少時代を送り、自分が本当になりたかった職には付けず、結局、ローカルな会社の重役で終わったが、元来は文学青年であり、その志は死ぬ最後まで捨てなかった。日本とヨーロッパの相克は常に彼の中にあったのであり、その息子の俺は、ほぼそれをなぞるように生きてきた。僕は、心情的にずいぶん親父に反抗したが、やはり血は争えない。そして、この俺には、母方の血も同時に流れていて、そっちはそっちで、また全然違う心が流れている。それについては、また別途書くかもしれないが、ここでは話すのは止めておく。

この永遠の0の原作を書いたのは百田尚樹という作家である。ついこの前の都知事選で、彼は、その応援演説でずいぶんと、日本礼賛な、戦争やむなしな、日本人の誇りを取り戻す時期だ的な発言をしたと聞いている。昨今の日本の右傾化の先端を行っているようだ。知っての通り、都知事選で落選した田母神俊雄は現在の最右翼であり、20代の若年層からもっとも多い票を獲得したとも聞く。そして、百田は、小説家を超え、この映画の原作者として、そして、NHKの経営委員にも任命され、確実に社会に影響を与え、それを操作する側に回っている。

万世一系の天皇を賛美し、愛国心を鼓舞し、他国から日本国を守るためには戦争も辞さず、日本人であることに誇りを持ち、最終的には特攻隊として戦地に散っていった若者たちを究極の愛国者として賛美し、今一度、戦後に混乱してしまった日本人の心を愛国心によって統一しよう、という動きがあることは知っている。この永遠の0という映画は、それを直接な言葉では言わず、見た後に、見た者の心にそういう心を植えつけることに成功していると思う。そして、その原作者は、世の表舞台に出てきて、映画では直接に言わなかったことをはっきりと口にし、日本人たち、とりわけ若者たちにそれを語りかけている。

僕は、今の若者たちがこの構図に対して、そのまま取り込まれ、抵抗せず、共感し、信じ、その思い通りになってしまうことにつき、何も不思議だと思わない。日本の若年層の右傾化はこれからさらに進むだろう。そして、彼ら若者たちに「戦争の悲惨さ」をいくら訴えても無駄だと思う。それは火に油を注ぐだけだ。この永遠の0という映画自体がそう作られていたではないか。戦争の悲惨さは、なんの抵抗もなく、戦争の賛美と肯定に転化しうるのだ。

だから、西欧哲学なのだ。明治維新は実はまだ始まったばかりなのだ。少しも終わってはいないのだ。僕らは、今に至っても、本当に、ヨーロッパの過去のエリート達に学ばないといけない。ヨーロッパは知っての通り、戦争に次ぐ戦争、血で血を洗う長い歴史を経ている。その中で、哲学者たちがいったい、この世をどう考えて、どう結論付けたか、それを学ぶのだ。そういう教養こそが世の中を救うのだと思う。もちろん、ヨーロッパも、この僕らの貴重な日本文化を学ぶべきだ。そういう地道な活動しか、本当の本当は、わかりあう道もないし、平和というものも、無いのだと思う。

以上、映画を見て、機内で考えたことを書いておいた。

ここしばらく、ハイエンドオーディオの教祖のような先生とメール上で議論している。その先生は宮原誠北陸先端大名誉教授。実は僕は宮原先生の裏方の手伝いをずっとしてきたのだが、最近になって先生のやっていることに納得がいかなくなり、議論を仕掛けたのである。もっと正直に言うと、納得できなくなったというより、ハイエンドオーディオという自分のネイチャーと反する仕事に関わっていることが、だんだん嫌になってきたのである。

先生の説は、学会ではほとんど認められていない。ほぼ無視されている、と言っていい。若干の論文は通ってはいるが、大半の論文は出しても出してもリジェクトされる。先生もすでに70歳を過ぎ、高齢なのだが、少数の賛同者を集めていまだにアクティブに活動している。しかし、アカデミック関係の方はさっぱりで、先生の説を聞く者はほとんどおらず、したがって、その根本的な部分を徹底的に議論して明るみに出そうなどという人は皆無である。

そこで、この僕がいま、それをやっているのだ。いったいなぜ、先生の説は学会から無視されるのか。どこが学会の方向性と決定的にずれているのか。そして先生の説は果たして正しい方向を向いているのか、などなどということを、行ける所まで議論しようとしている。

さっき、もう関わるのが嫌になった、と書いたが、それは当の先生というより、「ハイエンドオーディオ」の方なのだ。このあたり、僕のどこに心理的な引っかかりがあって、こういう風に感じるかについては、また別途考えようと思う。そこには「なにか」がある。しかし、容易に取り出すことができず、今のところ放置されている。なので、この「ハイエンドオーディオが気に入らない」という話は、先生との議論には出て来ておらず、僕も触れていない。

僕がいま先生と議論している、その道筋は、僕自身の身を「学会側」に置いて、先生の説を真っ向から攻撃することである。

このブログの題に、共時性と因果律と書いたが、僕は、先生の仕事を「共時性」のたまものだ、と考えてきた。非常に率直かつ乱暴に言うと、僕は先生のハイエンドオーディオを「オカルト」と考えてきた。宮原誠はそのオカルトの「教祖」である。オカルトを扱う教祖のくせして、因果律を絶対視する「学会」という世界をいまだに重く見るなど馬鹿げたことだ。そもそもオカルトは科学にはなりえないのだ。それなのに、先生は自身のことを、純粋に、工学的かつ科学的だと称している。自身につき、なにも分かっていないではないか。

と、まあ、こういう風に思ったので、今度はこの僕が「因果律」を絶対視する人間に成り代わり、先生に思い知らせてやろうとしているわけだ。非常に生意気に聞こえると思うが、先生は工学者ではなくアーティストなんだ、ということを自覚してもらいたいということなのだ。先生はその最初は確かに工学者だったが、もう今ではアーティストの域に入り込んでしまい、もう戻る道は無いのだ、と分かって欲しいのだ。

それにしても、自分は共時性側の人間なので、かなり無理をしてこの役を演じており、途中でこれもまた嫌になるかもしれない。

とかとかいうことを、最近しているときに、4年ほど前に自分がブログに書いた共時性に関する文章を見つけ、なるほど、ここに素描されている共時性と因果律の関係が、ほぼ先生に対する自分の考えをきれいに表しているな、と感心したので、この新しい方のブログに転載しておくことにした。それでは、どうぞ。

(2010年 1月11日 Yahooブログより)

昨年末から3冊ほどユングに関する本を読んでいる。特段の理由はないのだけど、少し前に会社が移転し、そうしたら近くに図書館があったので、昼休みなどにふらっと出かけたりして、それで何とはなしに哲学・心理学コーナーへ寄ってみたらユングが目に付いて借りた、というだけである。しかし読んでみたらとても面白く、さらに共感できるところがとても多く、引き続き借りて読んでいる、というわけだ。

しかし、なんだかユングを読んでいるとうちの奥さんの評判が微妙によくない。彼女だって昔は読んだはずだけど、僕が、なんであまりいい顔をしないのか聞いてみると、今の心理学界ではユングはどうやら少数派で、下手をすると異端扱いされている、みたいなことを言う。それで、ネットであれこれ調べてみたら、たしかに、そんな感じのことがいろいろ見つかった。

僕は2冊目に借りた、彼独特の論である「共時性」についての本に決定的に共感し、とても面白く読んだ。

しかし、この当の共時性で当時ユングはずいぶんと評判を落としたらしい。共時性というのは、誰にでも経験がある、いわばありふれた現象を指して名付けたもので、それは、いわゆる「意味のある偶然の一致」のことである。たとえば、ある日の朝、いつもの電車に乗り遅れたせいで、たまたま車中である人に出会って、そのおかげで新しい仕事につながった、とかいうものである。たしかに、こんな話というのは、色々なところで頻繁に聞くような気がしないであろか。

ユングは、こういう、一般的にいわれるところの「因果律」とは無関係に起こる現象が人の運命を変えたり作って行ったりすることに着目し、それを「共時性」と名付けて心理学の研究対象にしようとしたのである。共時性は、その性質上、因果律で説明できない。まったく無関係な二つの因果(前の例なら、自分が電車に遅れた原因、と、出会ったその人がその電車に居合わせた原因)によって、ある時間に同時に生起した出来事(同じく前例では、車中の出会い)によって、生命の上に新しい「創造」が生まれる(前例では、新しい仕事が生まれた)、という、いわば「どこにでもあること」を科学の上に乗せて論じようとしたのである。

そして、ユングの試みの結果どうだったかというと、かんばしくなかったらしいのだ。まず、共時性の科学的分析はあまり大きく育って行かなかったようだ。たぶん、問題設定が科学的分析に向かなかったのだろう。加えて、常識がただの「偶然」として処理していることを、それとは違った角度から説明しようとするその態度はいきおい、「迷信的」「神秘的」に傾かざるを得ず、さらに悪いことに、ユングは共時性の題材として「易学」や「占星術」などを持ち出したものだから、結局、予想されるどおり「非科学的」のレッテルを貼られてしまったようなのだ。

現代の常識では、易学などは「統計手法」の応用として理解することで処理するのが一般的である。しかし、ユングはこの解釈法については真っ向から反対していて、まったく違った解釈と理解をしようと試みる。その言葉が、当の易学を専門としている人たちの神秘的言動に近くなるのは、むしろ当然のことなのだが、そういった言葉は、現代人が常識として寄って立つ科学の道と著しく反目してしまう。

さもありなんの成り行きである。ユングがこの共時性を言い出したのは後半生でのことで、彼自身、世間に発表するのをずいぶんためらっていたようだ。恐らく、世間の反応がくまなく予想できていたからだと思われる。しかし、彼はこの考え方が遠い未来に重要になるはずだ、と信じてあえて発表したようだ。ユングは、自分が生きている間にこの共時性の学問が花開くなどとは、まったく期待していなかったように見える。傍から見ると、途中で放り出してしまったようにも見える。

さて、自分は、というと共時性的出来事の神秘性については、ほぼ言葉どおりに信じている。

たとえば、卑近なところで言えば、ひところ流行った血液型占いというのがある。僕は決して血液型がどうのという言動はしなかったし、今でもしないが、実は、否定もしていない。ときどき血液型占いの無意味さを口を極めて攻撃している人がいたり、あるいは、あれはただの日本人の血液型と性格に関する統計を利用しただけだ、という人がいたり、あるいはあれは罪の無い遊びの一種で特段の意味はない、という人がいたり、いろいろである。しかし、ひそかに僕は、それらとは全然違う考え方をしていたのである。

なぜ、「密か」かというと、この辺、自分はずるいのだが、攻撃派とまったく違うことを考えていたからといって、血液型占いを信じて使っている人たちに自らがなるわけでもないし、攻撃派が目の前で攻撃しているのを見て擁護派に回るわけでもなく、黙って他人のふりをして静観しているだけで、実際、あまり潔い態度とは言いがたい。

ただ、僕には、攻撃している人たちの攻撃しているモノが、ことごとく例外なく的外れに感じるだけである。

その理由はユングその人の言っていることと同じで、どの攻撃も、すべて「因果律」を元になされているが、その攻撃対象は因果律とは根本的に違う次元にあるものだからである。攻撃している人たちは、結局、「因果律が設定できないことはバカげている」と言っているだけなのである。なんでバカげているかというと、因果律の発見とその適用こそが人に繰り返し利益を呼ぶ、と考えているからである。そして、因果律が発見できないと利益の保証がされず困ったことになると考えているからである。そして、これらは、みな、正しい。しかし、その論理の最終目的が「利益の保証の確保」にあることは間違いない。

人生において、保証された利益は重要だが、それとはまったくタイプの異なる利益も重要なのだ。その利益は保証されはしないが、人に生きられ、新たに作られる性質のもので、結局のところ「創造の喜び」に相当する。保証された創造、というのはあり得ないはずで、本当に生命的な創造というのは因果律からは出て来ない。

そして、この「創造」がなければ社会の進歩もなく、進歩がなければ最終的には保証された利益だって得られない、ということはほとんど常識に属する。したがって、因果律と同じかあるいはそれ以上に大事なものが現に「ある」わけだ。ただ、人は、これに共時性などという名前を付けて、こともあろうに易学を持ち出し、それを科学の一分野である心理学で扱うなどということは許さないのがふつうだ、というだけだ。

そうなると、たぶん、もっとも穏当で、常識的で、バランスのとれた、そしておそらく妥当でもある態度は、人生は「因果律」と「共時性」のハイブリッドで渡ってゆくもので、どちらも大切で、そして、そのバランスの取れた配分を会得することが重要である、という風に対処することであろう。

でもね、こんなところで自分はひねくれてもいて、上記のハイブリッド案は妥当と認めながら、自分自身によくよく訊ねてみると、こういう「いいとこ取り風」の、皮肉っぽく言えば「乙に澄ました綺麗ごと的」な考え方が、「嫌い」なのである。実は、この辺りに自分の無意識に頑固に居座る「なにか」を感じるのだけど、その正体はまだ、分からない。

長くなり過ぎたし、この辺で止めるけど、しかし、まあ、ここまで書いてしまうと、またうちの奥さんの評判、悪くなるだろうな~(笑)

5年前ぐらいにヤフーブログに書いた文だが、たまたま読んだら面白かったので、ここに載せておく。

では、どうぞ。

最近、このブログ、相当に間が空いてしまった。

Mixiの方で書き散らしているかと言うとそういうこともなく、要するに何も書いていない状態がずいぶんと続いてしまった、ということ。この前の16日に50歳になったのだけれどそのせいかな、なんていうことも、まあ、ない。思ってみると、心が、そこはかとなくシリアス志向になっているように感じないこともないのだが、これもまた、あまりはっきりしない。ということで、実際、悩むようなこともないし、結局は気楽に生活している、と言えないこともない。などという、空疎な文章を前置きに書いて、さて、と。

先週ぐらいから、アメリカのカポーティーという作家の「冷血」という本を読んでいた。自分は過去に読んだ好きな本の再読を思い出したようにするぐらいで、まず新しいものを読まないので、実に久しぶりである。結果、夢中になって読んでしまった。久しぶりに本に夢中になって下車駅を乗り過ごす、などということもあった。改めて小説というのは面白いものだ。もっとも、これは映画も、漫画も、テレビも同じ。受け手を惹きつけておけないものは残りはしないはずだから、当たり前なことだ。

二人組みの男がとある田舎の屋敷に忍び込み、そこに住む地元の名士のような誠実で立派な家族4人を惨殺して逃げ、さんざん逃げたあげく捕まり、刑務所に入り裁判にかけられ死刑を宣告され、そして最後に刑が執行される、というだけの物語である。この二人は、いわゆる社会の底辺にうごめく大量の人間たちの中の一員で、めいめいさまざまな形で社会に対して不満を持ち、信頼感を欠き、社会での自分の位置を見失って、そのほとんどの時間を我執と欲望に従い行動し、最下層に向かって抗し難く落ちて行き、それを止めることができない、そんな人たちだ。

この小説には、この二人の男の周りの実に多種多様な人間たちが描写されている。彼ら二人とその家族のめいめい、そしてその周辺の下層を生きる人たちなど、そしてその丁度反対に位置する、惨殺された何不自由ない立派な一家、地域社会に誠実に生きる人たち、事件の捜査官たち、裁判官たち、群知事など偉い人たち、など。結局、最後まで読み進むと、この二つの陣営の人々の対照はかなりくっきりとしていて、永久に分かり合えない、混じり合うこともない、水と油の層を形作っているように見えてくる。

舞台はアメリカなのでキリスト教徒は至る所に出てきて、この水と油の橋渡しをしようとするように見えることもあるのだけれど、その効果のほどは説教の言葉とともにむなしく消えてゆく、という印象がある。永続を約束するそれら宗教の言葉は実に無力だ。しかし、それに対して、進行する物語の中で、それぞれの陣営に属する人の、相手の陣営の人に対する個人的な共感のようなものが、ある瞬間きらりとひらめくような場面がばらまかれている。光った次の瞬間にはすぐに消えて元に戻ってしまうのだが、でも、この長続きしない短命な光だけがこの両者を結びつける唯一の道のように見えたりする。こういうまるで法外とも見える「共感」は、理屈や、生活観や、習慣や、規範といった、およそ理性的なものと無関係に現れては消えてゆく。まるで前世に何らかの関係なり血縁なりがあって、その遠く忘れられた記憶が本人の意思と無関係に現れては消えてゆくようだ。

さて、それとは別に、読んでいて思ったのは、上層に生きる人たちの、社会に対する義務と権利に裏付けられた生活の単調さである。それに対して、下層に生きる人たちの苦しみと不幸とつかの間の喜びなどがごっちゃになった生活の多様さは呆れるほどだ。生活の単調さだけではない、心の動きも同じだ。苦しみや喜びに安定しない心、高揚し、失望し、やけになり、怠惰になり、また高揚し、ということを果てしなく繰り返している中で、およそ上層に安定する人たちには思いもつかない、大切なものをつかむことがある。もっとも、つかんだ後にそれを育てて大きくするすべを知らず、すぐに手放して無くなってしまうのだが。

さてと、そろそろ阿佐ヶ谷に歌を歌いに行かないといけないので、中途半端でここで止める。

これを書いたカポーティは、二人組みの殺人者の特にペリーの方に異常な感情移入をしたとのことだが、僕も同じだ。心のどこかで「こいつはこの俺だ、俺のことだ」という気持ちを感じる。もちろん僕は、彼のような不幸な生い立ちでは決してないのであるが、しかし、やはり、血縁なのだ。

2009年2月1日

(Facebookに投稿した文)

東京五輪決定、みなにならって、まずは、おめでとうと言っておこう。

スウェーデンにいるんで皆より反応が遅いんだが、今朝起きて、東京に決定のニュース見て、へえー、と思った。僕のネット環境ではネガティブ意見の方が目に付いたので、蓋を開けて日本ポジティブに転んだのが少しだけ驚き。ただ、最後に残った3国を見ると、これって東京しか選べなくないかな、と思っていたので順当といえば順当だったのかもしれない。

ところで、「僕のネット環境」と「あなたのネット環境」って、これは激しく違うよね。特にSNSを日常的にやっていると、情報ソースがそれぞれの環境ではなはだしく異なるからね。オモシロい、ヘンな世の中になったもんだ。

あともう一つ意外だったのは、東京への放射能影響はそれほど重大視されなかったかったんだな、ということ。東京の放射能汚染についてはほとんど実態が判然としない状態で、各国の代表たちは本当に東京に来るのかな、と思っていた。代表が来るのを辞退したらオリンピックは成り立たないので、東京はダメなんじゃないかな、と思っていた。でも、250キロ離れてるから、まあ、大丈夫でしょう、という判断だったんだね。

個人的に、僕はスポーツが好きじゃない超インドア野郎なので、オリンピックにもあまり興味はない。もっとも、テレビの無い我が家でも、オリンピックとワールドカップについては、壁の共聴コネクタに鰐口クリップで長いビニール線をつなぎ、延々と引っ張って使ってないVHSレコーダのアンテナ入力につなぎ、プロジェクターで見る、みたいなことは、やってた(あ、こんなこと書くとNHKが集金に来るかな 笑)

スポーツも、見れば、面白いんだよね、見ないから無視してるだけで。あと、スポーツもやれば面白いんだよね、やらないだけで。当たり前だ、だってスポーツって娯楽だもん。

経済効果は多大ということで、あと7年の間にあれこれのいろんな仕事が生み出されて、結果、社会に活気は出るだろうね。反面、さまざまな、小さくて、吹けば飛ぶような、でもこれまで日陰の文化として永続してきた、そんなようなものは邪魔であれば一掃されてしまい、翌日からは無かったものとみなされるようなことが進行するだろうね。

前々回の北京オリンピックでも、北京の古い街並みはかなり一掃されたからね。フートン(胡同)と呼ばれる古きよき北京の面影を伝える古びた街並みは、かなりのエリアで更地になったと聞いた。オリンピック前に北京へ初めて遊びに行ったとき、このフートンを散歩して、古い中国の変わらぬ情緒に浸ったのを思い出す。上半身裸の男が行き来して、老人が道端に座ってぼんやりしていたり、子供たちが走り回っていたり、とても気持ちがいい空気だった。

中国政府は強引が許されているから、とあるフートンの立ち退きの時は、2週間前通告ののち有無を言わせずブルドーザーで取り壊しというのも、聞いた。

東京は中国みたいに乱暴なやり方はできないだろうが、結果的に同じことが起こるのは確実だろう。

元来、僕は、「みなで同じことをする」のが子供時代から苦手だった。そんな自分は、たとえば合唱とか恥ずかしくて仕方なく、やむなくやるときは声は出さず歌う真似をしてしのいでいた。そんな自分もバンドでワントップで弾いて歌うのは少しも恥ずかしくない。「合唱で人前で歌うの恥ずかしい」「えー、だって林君バンドで歌ってるじゃん」「一人は恥ずかしくないけど、みんなで同じことするのは恥ずかしい!」「それって逆だよ!」という会話を何度かした覚えがある。

あ、あと、アイドルのコンサートかなんかで会場でいっせいに「おう!」とか「へい!」とか言ってこぶし突き出すのも、恥ずかしくて見ているだけで穴があったら入りたくなる(笑) ましてやそのアイドルがバーチャルだったりすると、もう訳が分からず反射的に目をそらしてしまう。だって、このバーチャルキャラを裏で動かしてるのってすね毛が生えた腋臭な野郎どもだぜ?って言いたくなる(失礼)

そういうひねくれものなので、まあ、東京五輪で浮かれるのは無理。これはネガティブとかそういうんじゃなくて、個人的な性格そのものだ。

そういう性格なので、おのずと、名も無く、変哲も無く、およそ力というものを持たず、吹けば飛ぶような、しかし、長い長い時代に渡ってしっかりと持続し、自立してきた、そんな「文化の形」というものに、過度に愛着を感じる、ということに、相成るわけである。

「失われ行くもの」、という言葉は、常にその失われようとしているものについての生命の微妙さとかけがえの無さと永続性とを表している。また、はかないからこそ貴重なのである、というところも命と同じだ。何度でも自動的に生き返るような代物は命とは言わない。

僕は、宮崎駿の作品をなんと一つも見ていない、という非国民なのだが(すいません、アニメが苦手なんです 笑)、彼が最近引退表明した。最後の作品の評やそれについての彼自身の言葉をいくらか読んだけど、彼自身、そういう、悪い目線だけで壊れてしまうような、しかし持続する変哲ない民族の心のような、そんなものをただ大切にしたかった、みたいな記述を見かけたところを見ると、きっと僕の感覚に近いんだろうな、たぶん。

というわけで、持続する目立たない文化の方が自分には重要なのだ。作り出されては消えて、また、さらにでかくなって作り出されて、また壊して作って、ということを平然と延々と繰り返し、世の中をおそろしく乱暴な手つきで平らにならして行くような、都会の上層で行われている喧騒とはほぼまるで無縁な、持続する小さな文化である。

オリンピックそのものは、まさに永続する世界文化の形なのは間違いないので、それに嘆息するいわれは無い。しかし、オリンピックを、経済活性化を伴うイベントとして見ると、やはり自分はあまり近寄りたくない代物になってしまうな。本当に貧しかった50年前の日本とは事情はずいぶんと異なる。逆に今回も、もっと適任な国もあったのかもしれないね。ただ、昨今のオリンピックはイベント規模がエスカレートしているので、世界が納得するオリンピックを開催するのは貧乏な国では難しいだろうしね。

正直言うと、そういうイベントのあり方がアメリカ的に見えてしまい、これが世界文化の主流であらざるを得ないわけで、その方向性に逆らえる文化は今のところ無さそうだな、という風に見えるんだけど、そんなことを言い出すと不穏なので、これ以上は言わない。

まあ、とにかく、あと7年間、日本は威信にかけてがんばります、っていうことになったわけで、事態を好転させざるを得ないし、たくさんのおこぼれもあるだろうし、悪いことではない。

ただ、その影で音もなく消えて行く貴重な日本の文化というものを、五輪誘致決定のニュースを見て真っ先に思ったので書いておいた。

「それにしてもテクノロジーピープルはいい加減きちんとアートの古典を勉強するべきだと思うよ、マジで」

なんていうきいた風な口をきいてツイートしたんだけど、あまりにあいまいで、あと、このツイートの後

「これからのテクノロジーにはアートの素養が必要だとかクソ真面目な意味というよりは、テクノロジーピープルと称される人々はアートを学んで自衛しないとますます食いものにされるだけだよ、というぐらいの意味。」

などと補足したが、これじゃ余計にわけが分からないので、ちょっとここで補足しておこうか。

実は、この手の警句じみたあんまり意味の取れない文句は、書いている自分もあんまりはっきりした意味なしに書いているのである。というか、なんとなく思いつきのカンで書いているのであり、この文句につき、自分にはっきりと主張できる意見というものがあった上で書いてるのではないのである。

ただ、いずれ自身のカンから出た言葉なので、カンが間違っていなければ、あとから自分の言葉を補足したり、解説したりはできるはずで、もしそれが出来なかったとしたら、単に口から出まかせを言うやつということになってしまうわけだ。もっとも、それもいいのかもしれない。ひょっとすると世の中のかなりの「目立つ人間」は、そういう一種無責任なノリで発言をしているかもしれない。いや、たぶん、そうだろう。しかし、それはまた別の問題だ。

ただ、この言葉、知り合いの若い子が少し反応してくれたんで、やっぱりいわゆる「解題」を書いておこうかな、と思ったのである。

ただ、本音を言うと、書きにくい。自分は仕事がらテクノロジーピープルの一員なのであり、僕のいわゆる仕事仲間もテクノロジーピープルが多いわけなのである。その人たちは自分の知り合いなので、なんだか、この「少しはアートの勉強しろや」ってのが、その人の中の誰かを指して言っているように思われかねないからである。でも、そんなことを言っていたら、なんにも言えなくなるし、面白くもないので、この個人ブログにでも書くか、ってところである。むろん、誰それを名指しで批判したりしているつもりもなければ、悪意もまるで無いのだ、と前置きしておこう。この先、読むんだったら他人事だと思って読んでほしい。あるいはもし思い当たるふしがあるのなら僕のような年配からよくある苦言かなんかだと思ってもらってもいい。

実は、なんで冒頭で紹介したツイートみたいなことを言いたくなったかというと、先日、学会から放送のインタラクティブコンテンツについて書いてくれと頼まれて原稿を書いたのだが、その最後の方に、こんなようなことを書いたのである。

「テクノロジーがアートで終わってしまってもいいじゃないか。それにしても、これからのテクノロジーはますますアートの素養が必要になって来るだろう。ただ、そのテクノロジーアートが本当に開花するのは、テクノロジーピープルがアートの素養を身に付けたあかつきの、そのまた後になるだろう」

これを書いたとき、僕の頭の中に、かのスティーブ・ジョブズがあったのは確かだ。彼はテクノロジーピープルではなく、基本、クリエイターでありアーティスト系の人間だろう。その彼が、テクノロジーの最先端を率いて自身のアート的理想を注ぎ込んで、かの世界の賞賛の的になった発明を生み出したわけだ。僕は、ジョブズのファンではない。むしろ、テクノロジーピープルの一員として、ジョブズみたいな傍若無人な人間と働くのは、はっきり言ってごめんだ。

まず、一つ言えるのが、ジョブズが自身のアート的理想をきっちり具現化できるところまでテクノロジーが進歩した、そんな現代の世の中になったということだ。すでに現代ではテクノロジーとアートは切り離すことのできない代物になっている。そんなときに、テクノロジーピープルが昔のまんまのナイーブな「技術者」に終始していた場合、単にわけも分からずクリエイターたちに利用され、それで終わっちゃうだろう、と思うわけだ。

特に心配になるのが、堅物の技術屋ならまだいいんだが、自分がテクノロジーを提供してアートの理想の実現に一体となって参入している、という一種のロマンチシズムを持っている人だ。ジョブズが分かりやすいので、まだジョブズを引き合いに出すが、ジョブズの抱くクリエイター的理想の実現にテクノロジーを提供して全力を尽くし、偉大なアーティストを信奉して貢献する、という光景はうるわしくはあるのだが、もし、そのテクノロジー人間が当のアート自体をはっきり認識し理解しておらず、単にアートという言葉の響きにロマンを感じる程度の場合、なんだか見ていて気持ちがよくない。

これは自分の憶測だけど、そういうアートに対するロマンを抱いたエンジニアって、けっこう存在しているんじゃないかと思っている。それで、そういう人が情熱的で、いい人で、素朴だったりすると、ますます救えない感を自分は抱いてしまう。

だって、アートって、エゴなんだぜ。実はアートって恐ろしいもので、通常、有害なものなんだぜ。

この基本をテクノロジーピープルが理解していない場合、いいようにアーティストのエゴの犠牲になる図式が見えてやりきれなくなる。まあ、本人、それでいいのだろうし、他人の俺が介入する余地はないだろうし、理想に向かって身を粉にして働いているのだから、本人幸せだし、達成感もすばらしいだろうし、文句は無いはずなのだけど、エンジニアのひとりとして自分が見ると、どうにも嫌な光景に映ることがある。

アートを高尚だと思い込むのも、ナイーブなエンジニアの悪い癖で、高尚なものに奉じているのだから、それで幸せなんだか、あるいは、その高尚さで貧弱な自我を隠して見えないようにしたいんだか知らないが、心理学的に問題を感じることもある。

ということで、エンジニアにはぜひ、アートの古典を勉強して、エゴなアーティストにタダでいいように使われないようになって欲しい、と思うのである。あるいは、別に使役されていてもいいが、自分が本当には一体何に、どのような経緯で、使われているか、自身で正確に把握して、仕事してほしいのである。それならいい。生きるためだもの。

さて、僕のツイートで言うところの「アートの古典」の「古典」という言葉についてだが、古典といっても、ルネサンスからレンブラント、バッハからモーツァルトとかの古いことを言っているわけじゃなくて、近代以降のことである。絵画だったら印象派以降、特に、フォーヴィズム、表現主義、ダダ、キュビズム、シュールレアリスム、ポップアート、などなどのモダンアートが出たところから後である。歴史で言えば近代史ということになると思う。ただ、その、伝統に基づくアカデミズムに反逆するモダンアートというものが、どんな背景で生まれたかについて正確に理解するにはルネサンス、あるいはもっと前からひも解く必要があるわけだが、そんなことしてたら美学生みたいになっちゃうわけで、そこまではやることはないと思う。

僕の頭の中にあるのは、やはり、昨今のテクノロジーアートなのである。このテクノロジーアートは、昨今、なんだかホントに食えない代物になりつつあるような気がする。アートっていうのは、単に新しいことやればいいわけじゃなく、単に面白いことやればいいわけじゃなく、単にテクノロジーをアートっぽく移し替えればいいわけじゃなく、それだけではダメなんだが、実際に氾濫するテクノロジーアートの大半は、それである。

そりゃあ、数うちゃ当たるわけで、中にはいいものもあるし、そういう混沌とした世界から次世代の新しさ、というものが生まれる、と言ったっていいけれど、僕はあまり賛成しない。ただ、むやみに楽しいからってテクノロジーをいじって珍奇なものを大量生産している光景は、見ているとげんなりする。特にテクノロジーの一般人たちに、少しの新規アイデアさえあれば作品まで持って行ける環境とスキルがかなり簡単に付与されているせいで、この光景は拡大している。

とある古株の先生が、いつだったか、NHKで、ダビンチの最後の晩餐をフォトショップでレタッチして、元の画像を復元した、というのをやっているのを見て、それこそ頭から湯気を出して怒っていたことがある。芸術に対する冒涜だ、というのである。ここでは、当の行為が冒涜か否かはそれほど大事じゃなくて、問題は、「冒涜だと怒る人間の感覚」の方であり、「フォトショップレタッチでダビンチの真相を再現したいと思う人間の感覚」の方なのだ。すなわち、その人の日常感覚が、アートにかかわる行為を見たとき、それに対して「心理的に、無意識的にどう反応するか」ということである。

すなわち、ダビンチの作品を巡って「行動する人たち」の感覚の問題なのだ。僕は、ここで、即座に反射的に、冒涜だ、と怒る感覚を大切にしたいのである。本当に冒涜かどうかは後で考えればいい。そういう心が、大切だというのだ。

それにしても、別に何をレタッチしても構わないが、ただもう無邪気に、ダビンチという古典の大芸術家の真相に近づくために、フォトショップというテクノロジーを使って、それを解明したい、という、その「無邪気さ」は、本当に救えない印象を与える。無邪気なのだ。素朴なのだ。善意なのだ。何にしても、「いい人」がそういうことをするのが一番救えない感じを持つ。悪いやつは何をしてもいいが、いい人がただもう無邪気に下らないことをする、というのは何という害悪だろう。

たとえば、そういう善意の人たちって、モナリザにヒゲのいたずら書きをしたマルセル・デュシャンとか、ちゃんと知っていて、それでその行為をちゃんと理解しているだろうか。アンディ・ウォーホルがキャンベルのスープ缶のシルクスクリーンを刷ってアートだと言って量産したときの、そこに群がった人々の喧騒とウォーホルの孤独をちゃんと感じ取っているだろうか。そんなはずはないと思う。

テクノロジーピープルって、ピープル呼ばわりしたのは、一般人のことを言っているからだ。エンジニアの中にも抜群のセンスの持ち主は一定数必ずいる。そういう飛び抜けたエンジニアは、アートの古典は理解しているし、仮になんにも勉強したことがなく、古典など知りもしなくとも、そういうことはカンで理解しているものなのだ。だから、そういう少数の優秀者は放っておけばいいのである。問題は一般人の方だ。さっき、そういうエンジニアピープルがアーティストにいいように使われるのが忍びないと言ったけど、今度は、そのエンジニア自身がアーティストになりテクノロジーアートを作り出している場合は、忍びない、だけじゃ済まなくなる。

もうこれ以上は言わないが、頼むから、そういう人々に、モダンアートの歴史を勉強して欲しい。そして、そのモダンアートの作品の意味を理解できるようになって欲しい。今の現代の僕らが、無邪気にテクノロジーでめちゃくちゃなものを作って遊んでいられるのも、過去のモダンアートの黎明期に、多くの才気あふれる芸術家たちが、伝統を受け継ぎながら、それと戦い、そして苦々しくも厳しい実践を経て、それで勝ち取った歴史があるがゆえだ、ということを認識してほしい。彼らの多大な知的努力の上に、これらのほほんとしたテクノロジーアートが許されているのだということを知ってほしい。そして、無邪気な僕らのアートとて、そういう過去の芸術家たちの筋金入りの理性と理論が、今でもその裏を支えているのだ、ということを認識してほしい。

以上が、自分がテクノロジーの人たちもモダンアートを勉強した方がいい、という言葉のだいたいの意味なんだが、まあ、ここまで書いてみると、もうどうでもいいかもしれない。こんなに一生懸命に言ったところで何が始まるわけでもない。というか、古い世代の人間の言うことであり、俺も若い世代に説教をする年頃になったか、というだけかもしれない。自分は説教は得意じゃないし、好きじゃない。ただただ、見ていていらつくことがあるので、その意趣返しに書いているだけだ。

僕の仕事は、実は、まさにテクノロジーアートなのだけど、自分は、正統派として、現代の趨勢の否定と、伝統からの脱出、をかかげて仕事するよ。それをテクノロジー界で自らがきちんと示すことが大切だ。愚痴を言っている場合じゃないし、啓蒙はがらじゃない。このへんにしておこう。

(Facebookに投稿した文)

お袋が三島由紀夫についてツイートしていたので、ついついまた思い出して、少し過去をあさってしまった。

そのツイートも、三島由紀夫が大大大嫌い、というもので、お袋らしい(笑) 一方、もと文学青年だった死んだ親父は、三島由紀夫の初版本を持っていたり、もちろん相当の敬意をいだいていたはず。息子の俺はというと、三島本人と、三島の小説と、三島の言う日本については、実はどうしても生理的に受け付けないのだが、理性では受け付ける。三島の文学の凄さは少し読めばすぐに分かる。ああいうのを天才、そして異彩というのだ、と言いたくなる。三島の日本論も理屈は分かるし、賛同するところも多い。

しかしながら、生理的にダメなのはいかんともしがたく、俺は三島が好きだ、とはとても言いがたい。この父母にしてこの子あり、といったところだろう。

そういえば昔だれかが、三島由紀夫って名前、なんか青春っぽいよね、あれじゃ40歳とか過ぎたら恥ずかしいよね、って言ってたっけ。

そうだ。東京の僕のうちには、三島由紀夫と東大全共闘の討論を記した本がある。対話がそのまま書き起こされていて、最後に、討論を終えた後に、三島と全共闘がそれぞれ書いた文章が並んでいる、そんな本だ。この本、よく、寝る前に寝床で読んだっけ。何だか、これが好きなんだ。

この討論会は三島自決の1年前のものなんだ。YouTubeでは討論を撮ったフィルムも見られる。動いている三島だけど、さっき書いたように自分は生理的にダメなんで、うへえ、って感じで見るんだが、自分の前ふり演説が終わって、次に学生がしゃべっている演壇の片隅に座って、うまそうに煙草を吸いながら、学生と一緒に笑うその姿は、やはり惚れ惚れとしてしまうし、今見るとどうしても泣けてくる。

三島由紀夫が演壇に立ったとき、「灰皿はないんですか? ここは煙草ものめないの?」「床にどうぞ」「ああ、そう、床ね」という会話があったようで、このさりげない会話が何だかこのあとに続く相当に混乱した対話に先立つ、ピアノの最初の一音みたいで、それが大好きだった。

さっき、名前が青春してる、って書いたけど、こういう討論を見ると、三島も学生も若い。物理年齢のことを言ってるのでも、個人の精神年齢のことを言ってるんでもなく、彼らと、彼らをそのとき収容した東大の教室の空間と、空気と、すべてをひっくるめて、その時代そのものが若い。

ノスタルジーなんだろう、たぶん。だから間抜けにも泣けてくるんだろうが、今どきの日本に、こんなピュアな人間がどこかにいるんだろうか、と、見ていると言いたくなる。どこを向いても金と私欲と正義と偽善ばかりで息が詰まる、と言えば言いすぎだろうが、しかしやはり過去は戻らないんだ。

まあ、だから懐古趣味ってわけだ。

でも、ひょっとして、もし、それがただの懐古趣味じゃなかったとしたら? 実は、日本が本来、いまこそ取り戻さないといけない「精神」だったとしたら? その日本精神を蘇らせることこそが未来の俺たちが正しく再生する道だとしたら?

そして、もし、その精神が「絶望的に失われつつあり、蘇生が完全に不可能なもの」だということが動かしよう無く、厳然たる事実だったら? そのときは、いったい、どうすればいいのか。

これは俺の自分勝手な三島自決解釈なんだけど、以上のことを三島はその中に持っていて、それで自決したのだと思う。そのせいで、自分は昔、三島の自決は「日本との心中だ」と書いたんだ。すでに当時、ずたずただった日本を見て、こんな日本を楽に死なせるのに人手はいらん、俺一人で十分だ、と思ったのではないか。一見、当時の堕落した日本と刺し違えて散ったように見えるけど、その実は、愛するからこそ殺した、つまり心中に近い行為だったんじゃないのか。そう思ったのである。

そして、その自分の考え方は今も変わらず、三島の割腹自殺は、それこそ江戸時代の心中もののように、ただただ、痛ましくて、悲しい出来事に見える。

彼ほどの人間が、その当時の日本の趨勢と、向かおうとしている方向を見誤るなど、俺はあり得ないと思う。誰よりも正確に把握していたと思う。だから、当然、自衛隊駐屯地に閉じこもり、広場に自衛隊員を集めさせて、檄文を撒いて、バルコニーで一人演説したときも、彼の言うことに賛同する自衛隊員など、まず皆無であろうことは、彼が一番よく知っていたはずのことだ。

したがって、最初からの覚悟の自決なのは間違いない。自ら作ったストーリーに沿って死んだわけだ。そういう意味では、この行為は三島の創作の一つであり、文学的な、個人的なものである、という風に片付けるのが、まずは、順当ということになる。

時の首相は、狂ったか、とコメントしたわけで、たしかに、それが順当な解釈だ。

でも、もし、気違いじゃなかったら? 狂ってなかったら? 

そうしたら、今この現在に、私は正気でござい、とのほほんと暮らしている自分は、三島に涙したりして、いったいどうしようと言うのか。こういうものは、まるで棘のように、心のどこかに刺さったままになっているんだろう。まあ、死ぬまでの間、人生逃げ切れば、それで結構だろう、と日々忙しく上の空で生きているわけだけど、そんな自分にも、こんなような棘がたくさん刺さっていて、突然何かの拍子で痛みが走るのだ。

それで、改めて気付くんだよ。俺たちの過去に、こんな人がいたんだということを。痛ましいじゃないか、悲しいじゃないか。そして、切実に思う。三島さん、なんで、いまこの現代の日本にいないんですか、なんで死んじゃったんですか、と。

以上、死んだ親父譲りのノリで考えるとこんな感じ。

で、今も元気なお袋のノリで考えると、三島って、生理的に、大大大嫌い!(笑

三島由紀夫vs東大全共闘:http://youtu.be/Eo6o2WDl88k

夏は幽霊、ってことで幽霊についてつらつらと。

実は、Facebookかどこかで幽霊についてコメントしたら、ある人から、林さんの言うことはなんとなく文学的でよくわかりません、林さんにとって幽霊って何ですか、と端的に聞かれたので、たしかに、と思ったのである。それ以来、ああ、幽霊について書いておこうかな、と思っていたのだけど、そのままになっていた。

自分は重い腰を上げてしか書かないので、今回もそうなんだけど、まあ、書いている。本当は自分はもの書きで生計を立てたいと思っているのだけど、これでは明らかに難しい。だから、きっと、いまだに文章で生活して行くことができていないんだろう。ま、それはいいとして。

Facebookにも書いたし、ことあるごとに言ってはいるんだけど、自分は幽霊は信じる側である。ただ、文学的に信じている傾向は確かにあって、「幽霊というのはこうこうこういうもので、その存在を信じています」と、端的な言い方で言えない感じがある。なので、自分は幽霊を信じますよ、と言って、人に、どういう風に? と聞かれてしまうと、どうしても話が長くなってしまう。なぜなら文学的に、なかば観念的に信じている傾向があるからだ。

そんなのは信じてる、っていえるのか? そんな回りくどい説明じゃなくて、そのものずばり、幽霊という「実体」をお前は信じているのか否か? と詰め寄られたときどう答えるか考えてみると、自分は、それでも、「信じている」と答えると思う。

ここで「実体」に関する、果てしない文学的、あるいは哲学的な考察に入っていってしまうのは話が違っちゃうし、止める。と、いうか大変すぎてできない。自分としては、だいたい2000年に入ってからだと思うのだけど、「実体」とか「事実」とかいうものが、見る見る間に解体されて行くように感じ始めるようになったことは確かで、これについては以前、このブログの「事実とは何だろう」にくどくど書いておいた。

実体や事実が解体されてしまえば、もう、幽霊を信じる信じないも、ない。現実そのものが幽霊みたいなもんだ。最近ときどき、2000年から10年以上経ったけど、このままどうなってしまうんだろう、と思う。もっとも、困ることはない、むしろ解体が本当に終わったらすっきりすると思う。

さて、幽霊の実体についてだけど、自分には、幽霊を「見た」という経験が皆無ではないけれど、とても少ない。人の形をした幽霊は見たことが無い。見たことがあるのは、今思い出せる限りでは2回で、いずれも「渦巻き」だった。幽霊とは呼べないかもしれない。

一つは、昔住んでいた家の近くにあったうらびれた神社で婆さんがお祈りしている光景に偶然遭遇し、そのとき周りの木々が婆さんを中心にざわざわと渦巻いて見えたこと。もう一つは、恐山の宿坊に泊まったとき、夜、独りで野外の風呂小屋に風呂に入りに行ったとき、脱衣場の天井の隅っこに渦巻きが見えたこと。この2回である。いずれも時間にして数秒の出来事で、いずれも気味が悪くなり、逃げ出した。

と、ここまで書いてなぜだか感じるのだけど、なんだか、自分は何度も幽霊を見ているような気がしてきた。どうしても思い出せないけれど、何度もどこかで見ていて、しかし、でも、自分が、それを、故意に覆い隠して、忘れているような気がしてきた。

何で、こんなことを思うんだろう。

やはり、それというのも、死んでしまった「なにか」が、今でも生きている、と感じることが多いせいかもしれない。

一番簡単に解決する考え方は、たぶん、現に今生きている人の中に死んだ人の思い出が残っているということ、そして、死んだ人の残したものが、現に今物理的に残っているということ。そういう、過ぎ去った過去の残存物が、現在生きている人をして、あるタイミングで、幽霊という心的実体としてその姿を現す、という考え方だろう。つまり、死んだ人は既に完全に「無」なのだけど、この世に残った残存物が、現在の人の心象風景に現れる、ということ。すなわち、幽霊は徹底的に現に生きている人の心が作り出した単なる心理現象である、という風に考えることが、一番、ありそうな、そして、一番科学的に感じられる解決なように思う。

でも、本当に、そうか。

この考え方で説明できないのは、まったく関係の無い複数の人々が、同じ幽霊の実体を見ることがあるという現象だろう。もっとも、この場合は、ある物理現象が現実に発生した、として、それをめいめいが目撃し、そこに自分の心象を重ねてそれを幽霊と解釈しているのである、という説明の仕方になるだろうね。たとえば、墓場の人魂を何かの燃焼現象で説明するような、そんなやり方になる。ある人は、この炎を見て、自分の婆さんの幽霊と思うかもしれないし、ある日とは死んだ友人と思うかもしれないし、ある人は驚いて腰を抜かすかもしれない。

そんな風に考えて行くと、結局、幽霊の、いわゆる科学的な物理的な説明の仕方というものと、心理的な説明の仕方というものと、そのものずばり超常現象としての説明の仕方という複数の説明の仕方は、遠い将来のどこかで一致するのかもしれない、という風に考えることが、もっとも素直な流れのようにも思える。

たとえば、近代になってからの科学では、この世で起こる不可思議を許容することができるような理論がいくつも出てきた。不確定性原理と量子力学、不完全性定理、複雑系とカオスなどなどである。これらが意味するところのものがさらに解明されて行けば、いわゆる超常現象的なものも、科学が対象とする「現実」の枠組みの中で解明されるときが来るのではないか。そして、そのときには、物理科学と精神科学は一致し、大団円を迎えるのではないか、という予想である。

自分はもともとは理科系で、大学以降に、文学そして哲学に興味を持ち、ときに耽溺し、今に至るので、上述の大団円を一番信じてもよさそうな人間なのだけど、実は、こういう風景をあまり信じる気になれない。要は、そういう結末がイヤなのである。

なぜイヤだと思うか、というと、これはほぼくだらない理由だ。つまり、幽霊の居場所がなくなっちゃいそうで、つまらないのである。

もっとも、その大団円が来たとしても、生命や、精神や、運命の、不可思議がなくなるわけでは毛頭なく、単に、物理現象と心霊現象の原因に関する不毛な戦いに決着がつくだけであろうから、別にかまわないはずだ。だから、結局、イヤだという感想も、たいした意味はなく、さっき下らない理由と書いたのである。

それにしても、こうやってあれこれ書いていると、やはり何となく哲学系に走ったりする。もう少し本題に戻そうか。

いま思い出したが、この幽霊話のそもそものきっかけは、幽霊を信じるか信じないかの調査をしたら、半数以上の日本人が幽霊を信じる、という結果が出たというニュースだった。これを見て、ああ、順当な結果だろうな、と思った。僕の周りの友人などを思っても、まあ、半分以上の人が、幽霊は信じる、って答えているように思うからだ。

いわゆる超常現象については、そもそも科学を持ってしても、それが錯誤か否か決定できないのだから、幽霊は結局分からないものに終始する。それならば、否定しちゃうんじゃなくて、一種の人生の楽しみや刺激の一種として幽霊は信じますよ、という態度でいた方がいい、ということもずいぶんあるだろう。僕がさっき、物理と精神の科学の大団円を望んでない、と言ったのも、結局はそんな理由である。

幽霊を信じていた方が、人生が楽しく、さらに豊かにもなるとしたら、信じた方が得だろう、と、こうなるわけだ。

それにしても幽霊もなめられたもんだ。ホントはすごく怖いのが幽霊なはずなのにね(笑

実は、自分は、たいそうな怖がりで、以前、映画の「リング」を見たときも、およそ一ヶ月は怖くて電気を消して寝られなかった。だから、幽霊は信じますよ、とかあっさり答えてはいるものの、本当に幽霊が出てきたら怖くて参ってしまうに違いない。

未完

スウェーデンのゴットランド島に住みはじめて半年以上がたった。僕のいるウィスビーという街は、古い城壁に囲まれた街並みがまるごと世界遺産という場所で、あちこちに遺跡や廃墟があり、長い歳月を経てなかば朽ち果てたような大小のモニュメントが、まわりに広がる自然と調和して、極めて美しいところである。

さて、僕が移り住んだのは昨年の秋。ここは北欧なので寒さは厳しく、秋になるとすでに冬の気配が入り込んでくる。そのころも、確かに寒さに強いバラなどの花は咲いていて、自然は美しかったが、すぐに紅葉したと思ったら、あっという間に冬になり、寒くなり、雪が降り、白一色に覆われ、草は枯れ、木々は葉を落とし、あたりは白黒の世界になった。

もっともゴットランドは南北に長いスウェーデンの南端に近く、しかも周りをぐるりとバルト海に囲まれているので、北欧とはいえかなり暖かいおだやかな気候なのである。冬の寒さもほどほどで、それで春になると急速に暖かくなり、あるタイミングになると土地の花という花がいっせいに咲き乱れるのだ、と聞いている。5月になり、そんな春がやってきた感じである。連日きれいに晴れていて、昼がすごく長く、朝の4時にはすでに明るくなり、夜の9時を過ぎても空が明るい状態である。

さて、今日もやはりきれいに晴れている。

午後を回ったぐらいまで仕事をし、そのあと、書類手続きのために自転車で納税局まで行ってきた。その帰り、なんとなくあてもなくぶらぶらとそのへんを走ったときに感じたことがあったので、その話である。

これは自分のホームページのいろいろなところに書いたのだけど、僕は今から25年ちょっと前に、かのオランダの画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホに夢中だったことがあった。ここでそのストーリーを繰り返しはしないが、当時の自分の夢中度は、おそらく完全に常軌を逸していて、我ながらなぜあそこまで夢中になったのか分からないぐらいに重症だった。

当時、20代の後半だった自分は、来る日も来る日も、ゴッホの画集を見てすごした。彼の絵に常に囲まれて生きていた、と言ってもいい。もちろん、日本の特別展で実物を見た後も、海外へも出かけ、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館とオッテルローのクレラー・ミュラー美術館で大量のゴッホの画布を見て、その他の国の、たとえばオルセー美術館でも、ニューヨークでも、さんざんと見て回った。

ゴッホは晩年の二年半ぐらいの間、南仏のアルル、サン・レミ、そして最後の土地になった北フランスのオーヴェールと、三箇所を渡り歩いている。彼に夢中になっていたとき、僕の意識は、その晩年の三箇所での画業にほぼ均等に向けられていたのだが、僕の奥底の感覚では、どうやら、南仏のアルルが一番大きな影響を及ぼしたようで、アルルのヴァン・ゴッホという感覚が、心のどこかに染み付いたまま取れなくなっているらしいのだ。

ゴッホが後世を驚かすことになる画布を生み出したのはこの最後の二年半のことだ。それは南仏のアルルで幕を開ける。疲労困憊の極みだったらしいパリでの二年間の生活のあと、彼は突然、冬の終わりに単身アルルにやってきた。到着したアルルは雪に閉ざされた寒くてわびしい土地であったが、南国の春は急速にやってきて、雪は溶け、太陽は輝き、草木は生い茂り、花は咲き乱れた。その溢れかえる南国の光に視覚を直撃されたゴッホは、あの素晴らしい画布を次々と生み出してゆく。まさに爆発という言葉が適当な、画布の上は溢れかえる色彩の洪水、そして彼の精神も溢れかえるエネルギーで燃え上がったような状態になる。

そのときゴッホの置かれた状態というのは、一種の躁状態だったようにも思える。それで、僕が20代後半にその画布に夢中になったときも一種の躁病のような状態だったようなのだ。その、溢れかえる光、というものが、自分の心に直接縫い付けられてしまったようなのだ。僕は、20代後半に彼に夢中になってから10年ほどでゴッホに関する本を書き上げ、それで僕のゴッホ中毒はいちおうひと段落する。そして、ひと段落してからすでに15年ほどが経って今に至る。

しかし、そのひと段落してから後のことだが、その「アルルのゴッホ」に起因する「あるイメージ」がときどき脈絡もなく自分に蘇り、怪しい感覚に襲われるようになった。実は、今日、ここゴットランドの春に自転車でぶらぶらしているときにも、それが蘇ってきた。この実に実に奇妙な感覚は、これまたブログやらホームページにも書いてきたので、詳細は繰り返さないが、とにかく非常に怪しい感覚なのである。

まるで、20年前にゴッホに夢中になっていたときの感覚の只中に、そのまま戻って、自分の過去を正確にトレースしているような感じに捕らわれるのである。いや、トレースというのはおかしくて、そのまま過去に生きているように感じるのである。ただ、その感覚が続くのは、とても短い時間で、長くても2,3秒だと思う。しかし、少なくともその2,3秒の間は、僕は文字通りの意味で過去に生きている。さらに、その時に感じる幸福感は実に常軌を逸していて、途方もない法悦の只中にいるような状態になるのである。ただし、繰り返すが、時間的にはかなり短い。

今日、ゴットランドの光の中、その状態になって、またまた本当に怪しい気分になった。

ところで、昨日は、ウィスビーの町の南側の遠方まで自転車で遠出し、広大な平原と延々とうち続く崖、その向こうに広がる大海と、輝く太陽の中を散歩していたのだが、そこでは上述の怪しい感覚はなかったけど、その自然の風景があまりに美しく、ほとんど常軌を逸したほど美しく、陶然となった。そして、陽が傾き始めたとき、海の上に浮かぶ赤みがかった太陽からほとんど真横に近く差し込む光が、背の低い常緑樹の群れを照らし出しているのを見た。

薄い青色の空をバックに、濃い緑色の葉を赤い光が照らし、捩れた枝は茶色に縁取られている。独特の色合いだったのだが、この風景が、ゴッホがサン・レミで描いた画布にそっくりだとすぐに思った。彼はその書簡集の中で、南仏のオリーブの木の光による色合いの無限の変化とニュアンスについて語っているのだが、僕のそのとき見た木々はまさに彼が塗った画布の色そのものだった。経験から知っているが、こういう色は写真には絶対に写らない。画家の描く画布の上でしか表現できない。

それにしても、ゴッホはその書簡集で繰り返し、自然の色の美しさについて語っているが、ここウィスビーの自然の中にいると、まさに彼は「見たものを描いた」のであって、あの彼の画布の独特な色合いは彼の創意によるものではなく、本当に現実に自然の中にある色彩だったのだ、ということがはっきり分かる。ここはゴッホがいた南国ではなく北国なのだが、やはりヨーロッパの光というのは日本と違うのだろうか。

さて、そんなことを考えながら散歩をした昨日から、今日になった。そして今度は、アルルのヴァン・ゴッホに関わる怪しい感覚に襲われたのである。

そうやって自転車を走らせながら、ぼんやりと漠然と考えた。2、3秒の短い間とはいえ自分はその間、過去にそのまま生きている。それで、その気持ちよさと幸福感は常軌を逸していて、あまりに幸福ゆえに長時間は続きようがない感じが強く漂っている。あの状態が長く続いてしまったら、僕は文字通り何もできず単に条件反射で生きているだけになってしまうだろう。面白いことに、文字通り夢の中のようになっているのに、自転車を道に沿って運転して障害物をよけたりすることはできるのだ。そういうオートマチックな運動を阻害はしない。

というわけで、単純に考えれば「過去にそのまま生きる、ということは常軌を逸して幸福なことである」、と言えると思う。過去にそのまま生きるというのは不可解だろうか。別の言い方をすると「過去に同化する」とも言える。ただ、もちろんその時間の中にいる自分は、現在ではほぼ不在となり、自らの力で何かを生み出すような活動は一切できなくなる。できるのは本能に従って自動的に行動することだけだ。

さて、ところで、僕らは「現在」に縛られて生きている。

物理や数学を真面目に信じている人は、過去、現在、未来の関係をこう思い描くに違いない。無限に伸びる「時間軸」という線の上に「現在」を点でプロットし、その現在が線上を一定の速度で右に移動している。その点より左側が過去、右側が未来である、と。実は僕は、このアナロジーは完全な思い込みの結果だと思っている。物理学における時間の概念をそのまま人間の生活の場に適用するから、こうなる。さらに言えば、時計のアナロジーに縛られている、ともいえる。深入りはしないが、上述の物理から来た時間概念は、どう考えても惑星の運行から始まった天文学から来ている。つまり無機物の運動の観察結果から来ている。

実際に僕らに起きている状況はこれとは異なる。僕らは「現在」に縛られているが、それは点ではなく、あるあいまいな幅を持っている。そしてそれが「過去」と交じり合っている。たしかに僕らは「現在」の切っ先にいるかもしれないが、少なくとも現在と過去は断絶はしておらず、滑らかにつながっていて、オーバーラップしている。そして「未来」は、依然として、まだ、無い。

こう考えると、実際には現在と過去しかなく、現在が「生」を、過去が「死」を表している、そして未来というのはそもそも無い、と言えそうだ。それで、現在と過去が滑らかにつながっていて断絶が無いのなら、生と死もそのように断絶の無いものだ、と考えるべきだ。

そして、今回の、あの数秒の間「過去と同化」する件なのだけど、あれは、まさに生きながら死んでいる瞬間なのではなかろうか。それで、過去に同化するのがあそこまで幸福で気持ちいいということは、死ぬということは恐ろしく幸福で気持ちよく感じる「なにものか」なのかもしれない。

ひところ流行った臨死体験にも、死から生還した人が語る、死の寸前の法悦の境地の描写がずいぶんある。それらの幸福感は、脳が死ぬ寸前に人の死の苦しみを和らげるために用意してくれている一種の麻薬的なモルヒネ的な快楽だ、という考え方がいちばん「ありそう」なことだ、と考える人は多いかもしれない。特にさっき書いた物理や数学を真面目に信じている人にはそう考える人が多いはず。

それは別に反対しないが、ただ一点、「死の苦しみを和らげるため」という理由付けは、おそらく間違っていると思う。生きている今であっても、過去に同化する、すなわち死の感覚はやはり幸福感と法悦を伴っている。とすると、死を間近にした苦しみとは関係ない、ふつうに生を送っている時間であっても、やはり死はそういう格好で現れるのだ。となると、死というのはやはり何らかの幸福感を伴った状態なのだ、と考えるべきなんじゃなかろうか。

この幸福感は、脳が神経細胞のコンピュータ的計算の果てに作り出した結果であろうと、形而上的エネルギーが作用して作り出した結果であろうと、それはどちらでもいいことだし、本質的には同じことだ。要は、死は幸福か否か、という答えが、然り、ということだからだ。

そして、おそらく「幸福感」と反対の「緊張感」は「現在」の方に属している。そして、「緊張感」は「現在の充実感」を不断に生み出している。それは「現在」の活動が不断に「過去」を生み出していることとちょうど平行する。そして「現在の充実感」は「過去という幸福」を生み出すために必要なことで、これを失うと、そもそも幸福自体を作り出せなくなる。

そんなところまで考えてみると、最後に一つ残るのが「苦しみ」だ。では、苦しみとは?

もっとも、僕はこんなややこしいことを考えながら自転車を走らせていたのではない。以上の理屈は、いま文を書きながら成り行きとして考えたまでだ。

僕は、おだやかな春の陽の光に照らされる中、自転車をのんびりと走らせて、アルルのヴァン・ゴッホの「感覚」を蘇らせ、怪しい気分に浸っていただけだ。しかし、確かに、その時間には苦しみはきれいさっぱりなかった。

あたりは、緑色の草、つぼみをつけた木々、遠くに古い城壁、ゴシック教会の尖塔、さらにその向こうは青々としたバルト海、ぎらぎら輝く太陽。そんな風景が広がっていただけだった。

Cinderというアート科学系のプログラム環境で少し遊んでいる。

そこで練習用にここにつけたムービーをプログラムしてみた。別にむずかしいことはぜんぜんなくて、粒を100個真ん中に集めて、その次に、それぞれの粒にランダムな速度と方向を与えてから、せーの、でリリースするってだけである。

当然、100個の粒はブワーンと爆発して飛び散り、壁で反射してすべてバラバラになる。しばらく見ていても単に100個の粒がでたらめに空間を飛んでいるだけだ。考えてみるとこういう結果になるのは目に見えていて、当たり前すぎる。

それで、こんなことをして遊んでいるときにふと思ったことがあり、その話。

エントロピー増大の法則という有名な物理法則がある。この法則は決して破られない鉄壁の法則といわれたりしているらしく、非常に確かなものだそうだ。で、どういうことかというと、整然と並んでいるものも時間が経つとバラバラになる、という法則だ。

もっともこんなバカっぽい定義なわけはなく、元々は熱力学第二法則というもので、熱は熱いものから冷たいほうに移動し時間が経てば温度は均一になる、というものから来ていて、法則を表す難しげな数式もある。

エントロピー増大則は、見ようによっては、その内容がとっても悲観的に感じられるので、これまでいろいろ拡大解釈されてきたそうだ。なにせ、何にもしないと全ては結局はバラバラになり無意味な乱雑さの中に埋没してしまうのだ、そしてそれは避けることはできないのだ、と、法則が言っているのだから。

そんなこともあり、よくエントロピー増大則について言われるのが、人が行う「創造的行為」や、生命の「進化」はエントロピーの法則に反している、という物言いである。ただ、これらは当の法則の適用範囲を間違えているだけで、不当な批判だ、とするのが順当な科学的態度のようである。

まあ、それはいいんだけど、この自分の作ったプログラムなんだが、これって見た目はまさにエントロピー増大の光景なのである。

真ん中に固まった100個の粒がしばらくすると乱雑な運動になってしまう。しかもしばらく見ていると分かるけど、この四角のウィンドウの中のどのエリアを取っても他のエリアと差別化できない。ほとんど同じような乱雑な光景になっている。いつまで見ていても決してこの100個の粒は最初のように真ん中に一つにかたまりはしない。あるいはそこまで行かなくても、一箇所だけ真っ暗なエリアができるとか、そんなこともない。

試しに一晩、動かしっぱなしにしてみたが、朝起きても乱雑のままだった。俺が寝ている間にかたまりに戻ってまたバラけただろうか。しかしそんなことはありそうもない。

なんでだろう?

しかしだ、これについては「なんで?」と問うまでもなく、思い切り「自明」なことじゃないだろうか。だって、複数の粒がランダムな速度と方向を持っていれば、それらが空間を広がって行くのは、どう考えても当たり前のことじゃないだろうか。不思議でもなんでもない、自明なことだ。同じ長さの直線がぴったり重なるのと同じぐらい自明なことじゃないか?

たとえば、100個じゃなくて2個だとしよう。空間に点が2個並んでいて、この二つの「速度」と「方向」のどちらか、あるいは両方がほんの少しでも違っていれば、こいつらは最初は同じような方向に動いていることもあるだろうが、時間が経てばどんどん離れて行き、しまいにははるか遠くに離れ離れになってしまう。これは当たり前のことだ。

ところで「エントロピー増大の法則」というのは、自分は基本は物理法則だと思っていた。なので、この法則は物質の観察によって得られたものということになる。というわけだから、なんだか知らないけど「宇宙の宿命」みたいなものがどこかにあって、そいつのせいでエントロピーはどうしたって増大する方向に行くのだ、それが「定め」なのだ、と、実は自分はこれまでそんな風に思っていた。

でもこのたかだか100行ぐらいの小さなプログラムでやってみて、初めて気が付いたのだけど、もしこれがエントロピーの増大を表しているなら、これは宿命でもなんでもない、ただの自明なことだったんだ。

ただし、同じ長さの直線がぴったり重なるのを見て「なんたる逃れられぬ宿命か」、などと感じる人はこの限りではない。いや、たしかにこれだって宿命だ。でもこの宿命は、「人間というものに生まれたとは何たる逃られぬ宿命だ」と言うのと同じなので、そういう意味ではエントロピー増大が自明なことだとしても、たしかにこれだって宿命だ。

というわけで、「速度や方向が違えば離れ離れになる」という自明なことが、「たくさんの粒」とか「最初にひとところに集められた粒」とかそういう条件を経て、回りまわって「秩序あるものは時間が経つとバラバラになる」という極めて心情的に運命的な命題として「人間の心に感じられる」ようになる、ということは、これは不思議なことではあるまいか。

いま遊んでいるこのcinderだけど、極めて単純な規則の繰り返しから、極めて複雑で変幻自在な世界を作り出すのに向いたプログラム環境だそうで、これをCreative codingと言うそうで、最終的にはアートを作り出すツールだそうだ。

科学側で言うと、この分野では、フラクタル、カオス、複雑系、というあたりが関係する。単純な一片の数式が扱いようによって永遠に手に負えない複雑さを表す、というものなのだけど、とても面白く、不思議で、これ自体は自明でもなんでもない。

例をあげよう。ほんの1行で書けるニュートンの万有引力の法則に従う3つの物体があったとき、これらが時間を経てどのような動きになるのか予測することは本質的に不可能だ、というのがある。これは三体問題と言われているけど、数学的に解けないのに加えて、3つの物体が最初にどこにどのように存在しているか、という、いわゆる初期値がほんの僅か狂うと、未来の違いはとんでもなく大きな違いになって発散してしまう、ということが、数学的に証明されているのである。

でも、実はこれも本当は自明なことなのかもしれない。僕らが感じる「単純」と「複雑」というものの由来そのものに問題がありそうだ。ただ、この二つを眺めて同じものと感覚的に納得するには、あまりに僕らの脳は知性的すぎる。

東洋ではよく、悟り、といって、瞑想によって真実を知るという方法が言われるけれど、そのときの「悟り」という方法が、この、生物や物体のまとった手に負えない複雑さを、見方をまったく変えることで、単純な悟りに還元するのかもしれない。

実はときどきそんなことをよく漠然と思ったりする。

ちなみに、この東洋の悟りだけど、こういうことを思うとき僕はいつも、かの「空海上人」の悟りを連想する。というのは、昔読んだ澁澤龍彦の高丘親王航海記の中に出てくるシーンを連想するからだ。ひょっとすると間違って覚えているかもしれないけど、こんな感じだった。

親王は飛行機のようなものに乗って果てしない砂漠の上を飛んでいる。砂漠の砂にはできそこないの怪物の屍のようなものが点々と埋まっているのだけど、その上を風を切って軽々と飛んでいる。そして最後に巨大な岩場のようなところに到着すると、親王はその岩の窪みに一人の隠者が瞑想にふけっているのを見る。近寄ってみると、それは空海であった。親王は跪き、お懐かしゅうございます、と言うと、無言の空海の目から涙が流れた。

というものだ。たぶん、上記、ぜったいどこかがおかしいと思う。涙を流すのは空海じゃなくて親王だったかもしれない。いま、その当の本を持っていないので確かめようがない。でも今となってはどっちでもいい。死んだ澁澤さんだって、あの世でどっちでもいいよ、って言うだろう。

とにかくこの、空海の目から涙が流れる、という光景が頭から離れず、常にこのイメージが頭の中にある。そして、これが悟りというものの自分にとっての象徴になってしまっているようだ。

ところでコンピュータプログラムは数学だ。それで、それに基づいて絵を描かせると、かなり簡単にフラクタルやカオスや複雑を作り出せる。「単純」から「複雑」へ。これはエントロピー増大の法則でいう、「秩序」から「無秩序」へ、という関係と平行しているように見える。それで、さっき言ったようにこれが自明なのだったら、このような関係はすべて自明なことなのかもしれない。

そして、その逆の道、つまり「複雑」から「単純」、「無秩序」から「秩序」という道は、なにもしなければ、無い。

でも、きっと人間の知性を注入することで、「無秩序」から「秩序」へ、そして「複雑」から「単純」へ至る道はあるのだろう。エントロピー増大則は閉じた系での法則で、何か別のものが流入した場合は法則と別の現象が起こりえるのだ。だから「知性」が流入することで、「複雑」から「単純」へ移行する、と考えてもいいような気がする。

でも、自分は複雑から単純へ移行させることにそれほどの情熱は持てない。言い換えれば「知性」にそれほど執着がない。むしろ、単純から複雑へ移行する道を自分も辿ってみたい。ベルグソン流に言えば、単純から複雑へ移行するオートマチックな動きは「本能」という。そっちの方がずっと魅力的に写る。

まあ、これらは空想の次元で、哲学にもなってしまい、収拾もつかないので止めておくが、いつかは解明されるだろうね。

などなどと考えながら、北欧の雪と寒さに閉ざされた中を過ごすのも、まあ、悪くない。

いま、自分はスウェーデンのゴットランドという島に住んでいる。バルト海に浮かぶバイキングの島である。

今日は週末の土曜、夜になる前に買い物をしようと思って家を出て、なんと言うこともなく、ついでに、少し海の方に歩いて散歩へ行った。僕の住んでいるアパートはちょっと歩くとすぐに建物もなにもない自然の中に入れる。草原に小道があって、ごくたまに犬の散歩をしている人に出会うていどで人影はない。草原には点々と過去の廃墟があって、遠くには中世の城壁、そして教会の尖塔、目の前の下方にはバルト海が広がっている。

この、すばらしい自然の中を夕暮れ時に散歩しながら、二週間まえに日本を発つまでのことを思い出していた。

あのときは、出国直前のごたごたやなにやら、毎晩酒を飲み、騒いで、体調を崩し、おとなしくじっとし、少し治ったらまた出かけ、大騒ぎし、また具合が悪くなり、というのを短期間に繰り返し、そのうち時間切れになり、出発の日の早朝に日本を出た。

今日、ゴットランドの自然の中を歩きながら、そのころのことを、こんな風に感じていた。

東京のどこかで事故に会って、瀕死の重傷を負い、救急車で搬送され、夜更けでもネオンと雑踏と騒ぎが続く東京の街をぬって飛ばしに飛ばし、死につつある自分の頭の中は飛び去ってゆく明かりとけたたましい警報音の中、走馬灯のようにぐるぐると、事故に会うまでのあらゆるごたごたを思い出しながら、朦朧とした状態で緊急病院へ到着、そこで意識が途絶えて無意識。ふと気がついてみると、真っ白の壁と完全な静寂、そしてトランキライザーのせいで強制的に平穏にされた意識をもって、とりあえず何も考えずじっとしている自分がいる。

実は、そんなことをしきりに思いながら、目の前に広がる黒いバルト海、日が沈んだあとの赤く染まった空、崩れ果てた廃墟のシルエット、草原の中ところどころに生える潅木などを、ぼんやり眺めながら呆然と小道を歩いていた。

なんだか、すごく不思議な気がした。

なぜ俺はここにいるんだろう、少し前まで俺がいたところはどこだったんだろう、そしてこれからどこへ行くんだろう。

そうか、なんだか笑ってしまうのだけど、前述の病院に到着した後の無意識期間というのは、たぶん、日本からスウェーデンへ向かう十時間ほどの飛行機の中だと思うのだけど、そこで僕はKindleで夏目漱石の我輩は猫であるをずっと読んでいたのだ。

なんだろう、あれはなんだっけ、瀕死の状態の無意識で見た夢が、なんだか荒唐無稽で、まったく取るに足らないほど下らなく、日常といえばあまりに日常な、どうでもいい風景だった、というあの話は、俺はどこで読んだのだっけ。

それにしてもくしゃみ先生が鏡の前で百面相したり、我輩が餅を食ってねこじゃねこじゃ踊りしたり、実業家の金田家へ探検へ出かけたり、その他いろいろ。

とにかく、東京の生活とここスウェーデンの生活の落差があまりに大きすぎて、まるでタイムスリップかなんかしてここにきたように感じてしまうのである。それでも今のネット社会だとネットを通じて東京と十分につながっているし、あと仕事という一貫性のある代物もある。でも、週末に自由になって、ネットを離れて外へ出て、それであんなものすごい自然の中を歩いていると、やはり意識が勝手にトリップしてしまうみたいだ。

あ、そうだ、思い出した。悪夢と悪夢の間に現れる、人を馬鹿にしたような取るに足らない日常風景、という意味ではデヴィッド・リンチのイレイザー・ヘッドの中に一シーンがあったな。なんだかシーンが急に普通の風景になってその中を郵便配達の若者が走ってなんか届けるんじゃなかったっけ、忘れた。

ところで、歩きながら、また、こうも考えた。これは強制的な転地療法なのかもしれない。なにかが自分をあのごちゃごちゃでどろどろの東京から無理やり引き離してこの土地に放り投げて、それで俺はここにいるのかもしれない。

そうは考えたものの、じゃあ、それまでの自分にはきわめて似つかわしくないこの自然がいっぱいの土地にいて、自分がなにかしら良い方向に向かったり、元気で健康になったり、転機が現れたり、とかとかいう感触はまったく無い。

ただただ、自分の前になにもなくて、どこへ行くかのかわからない、という感じだった。

そんな風にほぼトリップに近い状態で小道を歩いてゆくと、少しの平屋が見えて、たくさんの外灯の立ったヘンなところに来た。平屋のひとつにRACINGという文字が見えるので、なにかでレーシングする、なにかなんだろう。

向こうから一台の車が自分に向かってのろのろと走ってくる。すれ違ったときに見たらおじいさんが前を向いてぼんやり運転していた。

そのまま小道を抜けると大通りに出た。大通りといってもこっちは通りの左右を見て車が同時に二台走っていればいい方ていどの交通量だ。通りのまわりはすぐに自然で、何にもない。

大通りをアパートの方角に向かってしばらく歩いていると、ずっと向こうに人なつこい感じの灯りが見える。ああ、あれはうちの近くのスーパーの看板じゃないか、もうすぐだ。

アパートに入ってしまえば、これで正真正銘の日常に戻る。飯を食ったあと、こんなことを書き飛ばしている。

 

大麻すなわちマリファナは日本では違法である。よくオランダではマリファナ合法と言われるけど、調べてみると完全に合法なわけではなくいろいろ制限がついている。アメリカは洲によって違うらしいけど基本は違法、でも運用がルーズのようである。一方、シンガポールなどいくつかのアジアの国では逆に厳罰が科せられる。というわけで世界的に見てもマリファナはおしなべて問題のある代物という扱いになっていることは分かる。酒やタバコはほぼ完全に合法なので、事情に大きな開きがある。

ここで僕が、この大麻の合法違法問題について主張したり論じたりする気はない。第一、社会問題として考察して、こうすべきだ、と主張すること自体が自分の性にも合わない。しかしネットをしばらく見ていると、けっこうな知名度な人が大麻を違法とする日本の法律に疑問を持った発言をしているようである。たとえば池田信夫は、大麻は合法にして規制すべきだ、と端的に発言していた。

日本は言論が自由な国のように見えて、実際にそうとはとうてい思えないのは、自分の心に照らし合わせると分かる。特にいわゆる日本のサラリーマンは、たとえばこの大麻の問題などについて自由な言論を公で行うことはほぼ不可能と言ってもいいかもしれない。サラリーマンには、暗黙の前提となっている社会の決まりに対して疑問を投げかけ議論をしようとすること自体が、暗黙に禁止されている、と言って過言でないように思う。理由はすこぶる単純で、そういう社会の異分子を自ら名乗ることで職のコースを外れるかもしれないという恐怖心を植えつけられているからだと思う。

ちなみに先の池田信夫はサラリーマンでないのでもちろんOKである。

しかしサラリーマンとはいえ、自分の家に帰ってくれば一人の人間に戻るわけだが、そうなったときに社会に対してラディカルなことを考えるだろうか。これはすこぶる疑問だ。人間はそうそう二つの顔を同時に持っていることはできないはずで、知らず知らず時間がたてば、結局は、社会が押し付ける暗黙の価値観を一個の人間としても肯定しはじめ、疑問を抱かなくなり、最後には飼い慣らされた国民に成り果ててしまうだろう。

ずいぶんひどいことを言っているようだが、自分もサラリーマンをずっとやっていたし、今でも半ばはそうなのだし、自分のこととして切実にそう感じるのである。加えて、飼い慣らされた国民になって人生を送ることにつき、そんなに悪いことは無い。いや、ぜんぜん無い、と言ってもいい。きっちりと国民としての義務を果たして生活しているのだから十分に社会の役に立っているわけで、その見返りとして生活の安定を得て、ときどき酒でも飲んで罪の無い愚痴を言う生活の、なにが悪いことがあろうか。

ところで、そういうサラリーマンでも、社会が議論することを許した命題については、華々しく自説を述べたり議論をしたりできる。最近で一番大きかった例に原発の是非の命題がある。そのほか、実際、いくらでもあるのだが、この「議論してもいい命題」をいったい誰が提出するかというと、これまでは、基本、大手新聞やNHKがその役を担っていたと思う。たとえば朝日新聞が議論の俎上に上げたものは、一介のサラリーマンでも公の場で賛成したり反対したり意見を言える。ここ最近、インターネットが現れ、様相は変わったように見えるが、以上の日本人サラリーマン根性はほとんど変わっていないように見える。日本のインターネットの匿名の多さもそれを物語っている。

さて、脱線したが、大麻の話である。実は、先日、僕の古い知り合いに大麻のことを聞いたので、その話をしようというわけだ。ネットで大麻について調べても、大麻を吸うといったいどんな風になるのかについて、はっきり書かれておらず、掲示板などでおもしろおかしく嘘も交えて話されているだけで、本当のところが分からないのである。ということで、体験者の友人の言葉を紹介しようと言うわけだ。

その彼も今はまったくやっておらず、マリファナをやっていたのは期間にして一月ほど、さらに何十年も前の話である。彼いわく自分が経験した限りではマリファナに悪いところは何一つ見つからなかったとのこと。

それでは以下に紹介する。

「とある友達から、すごくいい品が入ったから買わない?と薦められて、特に考えなしに1万円で買ったんだ。ビニール袋に入ったタバコの葉っぱみたいな代物でね、変哲ない。ただ、その匂いは独特で、マリファナを知っている人なら、すぐに必ず分かる臭いだよ。1万円で一ヶ月はもったな。毎日はやらなかったけど、一日おきぐらいかな、もちろんもっぱら夜の寝る前ぐらいにやってた。最初はたしかアルミホイルで小さなパイプのようなものを作ってさ、それで先のところに、タバコをほぐした葉っぱとマリファナを混合して置いて火をつけるわけ。すーっと吸い込んで、そのまましばらく息を止めて十分に成分を取り入れてから吐き出すの。だいたい、そうだな、ティースプーンに半分ぐらいが一回分かな。吸っている時間はほんの5分か10分ぐらいだと思う。吸い始めてから1,2分で効きはじめて、結局、効いた状態から完全に覚めるのに1時間ぐらいという感じ。一時間ずっと吸ってるわけじゃないんだわ。5分ちょっと吸うだけで、そのまま飛んだ状態がかなりしばらく続く、っていう感じ。

で、1時間、飛んでぼんやりしているわけだけど、それが終わった後、もっと吸いたくなる、とかいうことはほとんど無い。一度にたくさんやっても効果はあまり変わらないし、1時間じゃ足りなくてもっともっと、たとえば一晩じゅう飛んでいたい、なんていう気は起こらないし、第一、吸い続けていてもそれは無理。だいたい1時間ていどで満足して、そのまま眠ってしまうことが多かったな。

さて、吸うとどうなるか、なんだけど、これは、それなりに人それぞれなのと、あと、吸っているマリファナの種類でずいぶん違うそうだ、ということは後から知ったな。俺がやったのは、そのディーラーみたいなヤツのお墨付きの良品だったので、いい経験だったんだろうね。

あ、ここで急に思い出したけど、Steppenwolfっていう60年代のロックバンドの曲にThe Pusherっていう曲があったな。かの有名な映画のイージーライダーのテーマ曲のBorn to be wildのバンドでさ、それであの映画のファーストシーンのバックでかかるのがこのThe Pusherだ。「Pusherは麻薬でおまえの身を滅ぼすが、Dealerはお前に幸せを運んでくる」、っていうクダリがあったけな。

俺のマリファナ体験をさせてくれた何とかいう友人はDealer、だったんだな。

さて,葉っぱの種類によって効果が違うってのは、後に、オランダのマリファナショップの話を読んで知ったよ。まさに、ピンキリみたいだね。俺のが、どの種類だったかは知らないけど、一ヶ月ほどずいぶん楽しんで、リラックスさせてもらったよ。これから話す体験も俺が経験したことで、マリファナ一般ではない、というのは知っていていいかもしれない。

火をつけて吸い込んで、そうだな、2,3分すると何が起こるかというと、まず、耳に聞こえている音が変わってくる。マリファナは静かな室内でじっとして吸っていたんだけど、周りにある音が変な感じで聞こえるようになってくる。たとえば、左側の窓の外で木々の葉っぱが風で触れ合う音、斜め後ろの時計の音、右斜め前の扇風機の音、階下の住民がときどきたてるコツコツという音、隣の家がときどき水道を使う音、などなど、すべていつもなら気にも留めずにいる音があるだろ?

これらひとつひとつが生き生きと「音源」として、鳴り始めるの。自分がその中心にいて、そこからいろいろな方向に音源があって、それらが同時に音を奏でているように感じ始めるんだよ。音源の数がたとえば5つあったとして、意識がその5つすべてに均等に注意を向けることができるようになるわけ。きっとオーケストラの指揮者みたいな感じなんだろうね。

それで、それら偶然の産物である音源が、たまたまあるリズムを形作っている場合、それがたしかに音楽的なリズムを持った「楽曲」に聞こえることもあるよ。マリファナと音楽というのは特によく結び付けられることが多いけど、このせいだろうね。メロディーより、リズムだったな、俺が経験したのは。

この状態は非常に気持ちがよく、非常にリラックスしていて、まんじりともせずにそれらの音に囲まれてずっとじっとしていて飽きることがない。いや、飽きるというのは変だ、「飽きる」なんていう言葉自体がなくなってしまってるんだ。「行動するなにか目的」があって「それをやって」それで「次の目的に移る」という人間行動と、ぜんぜんまったく金輪際違う原理で存在している感じなんだ。「飽きる」とか「疲れる」とか「嬉しい」とかそういう人間的な反応と別次元にいて、静かに存在しているみたいな感じ。

とても表現しにくいけど、はたから見るとたぶん、単に呆然としているだけ、という風に映るだろうね。

以上のようにまず耳の感覚がおかしくなる。続いて、これは毎回起こるわけじゃないけど、たまに幻聴みたいなものが起こることもある。ただ、幻聴というより、実際にそこで鳴っている音がエフェクターを通って変な音に変化させられて聞こえる、と言った方がいい。この状態では、それぞれの音源の音量が、耳に入ってくる音圧で決まるのではなく、意識の度合いで変化するので、たまに意識がある音源に集中するとそのとたんに音が過激に変化したりする。

たとえば、隣の部屋で何か物音がしたとすると、それが、ものすごくはっきりした輪郭で、たとえば「クワッ!」とかいう妙な大きな音ですごくクリアに聞こえたりする。まるで音が視覚的な塊になってそこに出現したみたいなイメージがあわられる。それで、一瞬、なんだなんだ! と驚くんだけど、すぐにまたコンスタントな音のリズムに埋没してゆく。

以上、音の変化は一番先に現れるけど、そのあと、視覚の感じが変わってくる。ただ、この視覚の方はそれほど明確な変貌はせず、たとえばモノがグニャグニャ曲がるとか、そういう幻覚的なことは起こらない。それより、目の前にある変哲ないモノに意識がやけに集中してしまい離れなくなってしまうことがある。

たとえば、100円ライターの炎に見入ったまま、ずっと意識が炎から離れなくなったりする。ゆらゆらゆれる炎を見入っているだけですごい満足感に包まれる。あるいは、時計の針が回るのにずっと見入ったりする。

こんなこともあったよ。吸っている横にベッドがあったんだけど、そこに布団がぐちゃっとして置いてあったのね。それで、それが、どうしてもどうしても布団の中に人がいるように見えるわけ。そんなはずはないことを理性では分かってるんだけど、それがどうしても人に見えて目が離せられなくて、しかも、ときどきピクっと動くもんだから余計に人に見える。もっとも動いたのは錯覚だと思う。あるいは、部屋の隅にあるスーパーのビニール袋の中に小動物がいるように見えて仕方なく、こっちの場合、たぶん風かなんかで「カサカサ」と音をたてたりするので、余計にそう信じ込んでしまい、離れたところから固唾を呑んでずっと見てる。けっこう怖くてね。

以上が、マリファナをやり始めてしばらくの間続く状態なのだけど、マリファナの効能でひとつすごくはっきりしているのが「時間が延びる」ということ。感覚的に言って時間が5倍から10倍ぐらい長く感じられる。たった1分のできごとが10分ぐらい続いているように感じたりするんだよ。マリファナやってるときにも、いわゆる理性はなくならないので、ちゃんと時計も見れるし、時間も読める。それでときどき時間を見てびっくりするんだ。え? まだこれしかたってないの? と毎回驚くわけよ。

一度なんか、マリファナを吸った後、もよりの駅まで歩いて行ったことがあってね、そのときはすごかったね。駅まで歩いて10分ほどなはずなんだけど、意識の上ではたっぷり1時間はかかった。歩いても歩いても駅に着かないの。歩いている通りの周りで起こっていることにいちいち意識を向けているせいで、ただの商店街が「目くるめくワンダーランド」みたいに感じたりしてね。きっと、子供のころって、ちょうどそんな感じだったんだろうね。

以上、聴覚にしても視覚にしても、始まりもなければ終わりもない集中の中に、ただ、たんに意識が存在している、という、それだけの状態になるせいだと思うのだけど、「時間」というものが一時的に意味をなさなくなるんだろうね。

いや、「時間」というのは不思議な概念じゃないか。マリファナをやってわかるのが、「時間」はなくなりはしない。しかし、世間で言う時分秒で測られるところの「時間」がなくなってしまう、ということなんだ。常々思うけど、時間という概念には、そういう二重性があって僕らはみなこれを混同して生きていると思うんだ。

生物が元来持っている「時間」というのは、均一には決して流れないし、意識の度合いによって変化する代物なはずだろう。むしろ、時間というのは意識と同じと言ったっていいはずだ。意識の無いときには時間は無い、意識が集中したときに時間が表れる。「時間」は確実に「行動」と結びついていて、行動は意識と結びついている。時間が無ければ行動も意識もない。だから時間が錯覚だとは決して言わない。しかし、「均一に終末に向かって流れる時間」というのは現代人の錯覚だと思う。時計の針が「分」を指すようになったころから不幸が始まったのかもよ。

マリファナの体験で分かるのが、「時間」というのは実はとても優しくて親しい代物だっていうこと。「非情で容赦ない時間」という現代の発明物が、葉っぱの力で一時的になくなってしまうんだよ。

ミュージシャンにマリファナって、昔はつきものだったよね。今の世の中、特に日本ではまったく無理になっているけど、依然としてミュージシャンはマリファナで時々捕まってるよね。この音楽っていうのが、「優しくて親しい時間」を使った芸術なんだよね。コンスタントなリズムを使った音楽は現代に多いけど、「非情で容赦ない時間」は使ってないよ、均一な時間では音楽は作れないからね。

さて、ここでマリファナをやって聞いた音楽の話をしておこうか。なかなかすごい体験だったんでね。

マイルス・デイビスの昔のアルバムに、モード奏法を完成させたと言われる「カインド・オブ・ブルー」ってのがあって、その一曲目にSO WHATという有名な曲があるじゃん。ミディアムテンポの長い曲で、コードの起承転結のない、ほとんどワンコードに近い曲だよね。これをね、マリファナ吸ったあと、ヘッドフォンをして、目をつぶって聞いたんだよ。

カインド・オブ・ブルーでは、マイルス・デイビスがトランペット、ジョン・コルトレーンがテナーサックス、キャノンボール・アダレイがアルトサックスを吹く。SO WHATは、テーマの後、マイルスのトランペット、コルトレーンのテナー、キャノンボールのアルトと三人が順にソロを取るんだよ。

目をつぶってその3人のソロを聞いているときに現れた夢の中のようなイメージがすごくてさ、その話。

まず、マイルスのソロだけど、聞いている間じゅう、延々と伸びたガラスのチューブの中を高速で移動する乗り物に乗って、ジェットコースターのように移動するイリュージョンを見続けた。ガラスチューブの外には面発光体のようなものが貼り付けてあって、それらが後ろに向かってものすごい速度で飛び去ってゆく、そ んな光景だった。

それが終わると、次はコルトレーンのソロ。こちらには今度は動くものは何も出てこなくて、静止した映像が1,2秒の間隔でフラッシュバックのように 次から次へと目の裏に浮かぶの。その映像が、なぜか、日本の五重塔などの寺院建築の屋根の下についている複雑に入り組んだ「裳階」のイメージと、 岩石が割れたときにできる複雑な断面のイメージの混合で、とにかく静止した複雑な形状のイリュージョンが連続してた。

この、二つのまったく異なるイリュージョンがそれぞれ延々と続いて、呆然としつつも自分の脳的には疲れきってしまったんだ。どう考えても、どちらも異常極まり ない感じだったから。しかし、一見、ロングトーンが多く単純に言えばスピードの遅いフレーズを繰り出すマイルスが高速移動で、一方、超高速で繰り出される音のジェットコースターのようなコルトレーンが静止イメージだ、というのも面白いよね。

さて、そして最後にキャノンボールのソロになった。この人のときは、前の二人のときみたいな奇妙なイリュージョンはまったく現れず、「ああ、ようやく、ようやく、人間的で、血も涙もある暖かい人に出会えた・・」みたいな感謝の気持ちでいっぱいになった。最初の二人のマイルスとコルトレーンは、しかし、どう考えてもまともな人間とは思えない、ほとんど狂人に近い。そんな狂人たちの演奏で金縛りにあっていた自分を助けてくれて本当にありがとうキャノンボールさん、みたいな、そんな感じがしたんだよ。

本当に面白いイリュージョンだったよ。まさに、音楽の魂を見ているみたいな感じだったんだろうな、って思ったよ。

さて、まだいろいろ話はあるんだけど、これぐらいにしておこうか。

自分として言うとマリファナには悪いところはひとつもなかったな。結局のところ習慣性もないし、吸った後のダメージもない。習慣性とダメージで言えば「酒」の方が最悪にひどいよね、おそらく煙草も。マリファナは平和だよ。いまだに合法な酒と煙草と比較して、たった一点悪いところがあるといえば、それは「マリファナ吸いながら仕事ができない」ということかな。酒と煙草って面白いのが、両方とも仕事しながらOKなどころか、仕事を促進したりもするんだよね。マリファナはその点、まったくの逆を向いていて、やっている間は、勤労意欲は見事なほど完全に失われるね。

日本政府がマリファナに過度にうるさいのは、敗戦後のアメリカの影響とか聞いているけど、勤労というものから意識を開放されてしまうと政治が困るからなのかな、と思わないでもない。以前の日本は、マリファナつまり大麻は神社の祭事にはつきものな、伝統的な日本には無くてはならないものだったはずなのにね」

以上、友人の言葉を要約して紹介した。

ところで彼だが、その後、一ヶ月で葉っぱがなくなったので、もう一度、友だちに頼んだそうだけど、最近はいい品が入らなくてずいぶん落ちるけどこっちでいい? といわれ、やっぱり1万円で買ったそうだ。見た目も臭いも変わらなかったそうだけど、吸っても一向に何も感じず、ただのタバコを吸ってるのと変わらない。しばらくやってたけど意味がないので止めて、もったいないけど残りぜんぶトイレに流して終わり。その後、マリファナを吸いたいという気も起きず、止めてしまったそうだ。すなわち習慣性はない、という結論なわけ。

彼を見ていると、まったくのノーマルな人間で、話を聞いていても面白そうだし、マリファナぐらいはいいんじゃないかと思えてくる。ただ、逆にマリファナ以外の麻薬は全部、ダメみたいだ。それだけは注意が必要ってことだろうね。

考えてみると、彼の言葉では、マリファナに比べるに「酒」と「煙草」を出していたけど、人間社会での同じようなアディクション(中毒)でいうと、なんと言っても「セックス」があるね。セックスも仕事しながらできないのでマリファナと同じ系列だね。それが証拠にマリファナと同じく国はあの手この手で制限して取り締まるしね。ただ、決定的にマリファナと違うのはセックスは子供を作るのに必須な生産的行為だ。そうなると、やはりマリファナはひとつだけ余計なもの、ということになるのだろうか。

さて、以上、世の中にはさまざまな中毒があるけど、そこには実際、目くるめく快楽や興味深い事実が待っていたりする。社会生活が無傷なまま中毒できる人は幸福な人で、この友人もそうだが、そんな風に生きたいものだと思ったよ。

どうも海外赴任を前にして心が落ち着かないので少し文でも書いて気を紛らせようと思う。このまえ草津へ旅行へ行って来たので、そのときのことと、そのとき思いついたことでも、書くことにしよう。

草津へ行ったのは初めてではなく、たぶん二回目。とはいえ最初に行ったのがたしか家族旅行のときだったはずなので、40年は前だと思う。恐ろしく久しぶりに来たことになる。今回、改めて行ってみて、草津の温泉地の町がとても大きくてびっくりした。僕らは草津ホテルという創業100年のわりとよい旅館に泊まり、純和風の角部屋も、かけ流しのお湯も、純和風の食事も、何もかも快適だった。

ホテルに着いて、すぐそばにある西の河原へ向かう。湧き出た源泉が作るいくつもの池が点在する、火山岩が一面にごろごろ転がる斜面がある。強烈な硫黄の臭いと、あちこちから噴き出す水蒸気、ペンキで塗ったような鮮やかな緑色に染まった水溜りや、小川、といった中を、ゆっくりぶらついて斜面を登ってゆく。僕は以前、恐山へ行ったことがあるけれど、あそこをちょっとコンパクトにしたような感じだった。

その先には大きな露天風呂があるのである。露天風呂はひとつしかないが、ほとんどプールのように広い。晴れた空、そして山に囲まれた広々とした湯は実に気持ちがいい。

西の河原はその先に続く遊歩道の入り口でもあるので、ハイキングの装いで歩く人が多いけど、僕らは草津ホテルがすぐそばなので、浴衣に丹前をはおりセッタ履きでのんびり散策である。

お湯の後には冷えたビール、ほどなくして部屋出しの食事、さらにビール、と、くつろぎの極地だね、日本の老舗旅館。

むかし、日本住まいの長い韓国人の友人が言っていたが、日本の温泉旅館ほどすばらしい場所は世界中どこを探してもない、って。門をくぐるともう後は王様だ。よそ行きの洋服なんか脱ぎ捨てて、着物姿に下駄で至れり尽くせりの施設の中を王様気分で闊歩できるというのはすごい、と言っていたよ。たしかに、そうだね。

実は僕はこうして温泉旅館に来ると、飯を食ったあとは、ざっと風呂を浴びて部屋に戻り、テレビを見ながらだらだらとさらにビールを飲むのを常としている。僕の自宅にはテレビが無いので、久々に見るテレビがすごく面白いのである。

その日もそうしてテレビをつけてみた。ところが、しばらく見ないうちに番組にえらく見るものが無くなっていたらしく、チャンネルを変えても見るものがない。加えて今ではどのチャンネルでもハイビジョン画質の番組をやっているわけだけど、画質と解像度が高すぎて目に痛い。創業100年の宿の和風の極地みたいな部屋の中のハイビジョンがぜんぜん釣り合わないのである。古い旅館はやっぱり画質が悪い古いテレビで電波も悪く粒粒ノイズの乗ったみたいな絵の方がなんだかうまくフィットするな。特にNHKは同じハイビジョンでも他の民法よりさらに画質がよく、古旅館で瓶ビール飲みながら見るには「眩し」すぎて見るに耐えない。

僕はイヤになってスイッチを消し、ぼんやり外の夜の山を眺めながらビールをちびちび飲んでいた。

ほどなくして奥さんがお湯から帰ってきて、ちょっと夜の街を散歩しようよ、って言うのですぐに同意して出かけることにした。実は、これは、けっこう珍しいことで、だいたい夜は僕は床敷きの布団にねっころがってテレビとビールが多いのである。

彼女はカメラが趣味なので、歩きながら立ち止まってはあちこち写真を撮っている。さらに彼女はどっちかというとアート系なのでカメラを向ける被写体がいちいち変で、それでなんか見つけると、いつまでも被写体の周りを移動しながらああでもないこうでもないとシャッターを切っている。そんな調子なので、歩みがぜんぜん進まず、ものすごく遅い。

一方、僕は、元来が歩みはのろい方なので、それはぜんぜん気にならず、やはりぶらぶらしながら路上で見つけたどうでもいいものなどに見入りながら歩いている。その点、利害がそこそこ一致していてよかった。

しばらくして夜の湯畑に着いた。

湯畑は、草津町の中心にあって、ここから出る源泉を木でできた畑みたいなところに通して温度を下げ、それを各温泉風呂へ供給するのだそうだ。しかし、湯畑はこんなに広くてにぎやかだったんだね。きれいにライトアップもされ、なかなかの見ものだった。周りにはお店がひしめき合っていて、けっこう栄えている。ただし、昔の風情のようなものはきれいに無くなっているようだった。

40年ほど前に行った草津はほとんど覚えてはいないけど、おぼろげながらはっきりとした感じは今でもあって、それは当時子供ながらに見た光景としても、けっこう強烈な温泉情緒があったことだった。湯畑にも行っただろうし、温泉町も歩いただろう。覚えているのは、あたりに漂う湯の煙、ごつごつした岩、そして斜面、強烈な硫黄臭、といった風なのだけど、そんなひなびた情緒は少しもなく、あっけらかんとした観光地だった。もで、まあ、別に悪いことじゃない。ひょっとすると僕は湯畑と西の河原を混同していたのかもしれないし。

湯畑から戻るともうずいぶん遅い時間で、そのまま寝た。

翌日、これまた珍しく早朝の6時すぎに起き、西の河原の露天風呂へ朝風呂を浴びに行く。あいかわらず広大な風呂に2,3人が点々としているだけだ。不思議と若者が多い。草津には老人の湯治客風もいるにはいるんだろうが、おしなべて少なく、大半は若者な感じだ。

その後、これまた部屋出しの純和風な朝飯を食ってくつろぐ。それにしてもどの料理を食べても繊細で、工夫があって、美味しい。僕はここ何回かスウェーデンへ行っており、あちらへ行くと痛感するが、こんないちいち繊細な料理は西洋には皆無と言っていいかもしれない。日本の格上の温泉旅館はこの食事のよさがあるからいい。

10時に旅館を出て、バスの時間までずいぶん間がある。どこへ行こうかと思ったけど、結局、草津熱帯園というところへ行くことにした。そっちへ向けてのろのろ歩き始めた。

草津熱帯園は、古かった。人はまばらに入っているけれど、係の人は園内の広さに比べておそろしく少なかったと思う。後で知ったが、昨年、親会社が倒産し、加えて震災で客が来なくなり、潰れかかったが何とか持ちこたえて今に至るそうだ。でも老舗の動物園で、けっこう名が通っているそうだ。

入り口を入ってひとしきりいろんな昆虫の標本を見た後、いったん外へ出ると少し離れたところに巨大な半球状のドームが見え、これがまた外から見ると、まるで100年前に不時着した宇宙船みたいなルックスと色合いでなかなか見ものである。階段を下りた左手にはサル山。

サル山には相当数の日本ザルがいたと思う。近くに猿えさというものが売っている。粗末な小屋の前に板が渡してあり、そこに角切りの野菜が入った小さなザルが並んでいる。小さな箱があって100円玉を入れてセルフサービスでザルごと持ってゆく。小屋の中をのぞくと台所のようなところがあって、まな板と包丁が置いてあり、切りかけのニンジンやナス、キュウリ、カボチャがごろごろと散らばっていた。

客は相変わらず若者のグループが多くて、猿えさを買ってサル山へ行き、外から中にいるサルに野菜のかけらを投げ始めた。野菜のかけらを投げるとサルたちがそれを上手にキャッチして食べる、サルたちはみなこの趣向を知っているので、若者が投げ始めると寄って来て、なかには後ろ足で立ち上がり、両手を合わせて「ちょうだいちょうだい」みたいなジェスチャーをするのもいる。というわけで、彼ら無邪気にキャーキャー騒いでいる。しかし、山のサルみなが来るわけではなく、ほんの数匹が集まるだけで、他のサルはあまり気に留めていなかったりするので、まあ、なんというかサルたちも客サービスの一環としてやっているだけかもしれない。

僕は少し離れたところにいて、コンクリートのへりに寄りかかってその光景をずっと見ていた。

このサル山と小道を挟んだ向かいが例の巨大ドームで、そこに熱帯動物が山ほどいるのである。しかし、その前に、目に付いたのが、ドームの外の少し外れたところに見えた小さな檻であった。看板が出ていて、そこには「この猿は人間に飼われていたせいで仲間になれなくなってしまった猿です」みたいに書かれている。整備されていない雑草の生えた小道みたいなところを下ってゆくとその檻のところへいける。誰も行く者はいない。

行ってみたら、コンクリートで作られた狭い独房が4つ並んでいる。高さ1メートル、奥行き2メートル、横幅が2メートルぐらいでえらく狭い。正面には鉄網が貼ってあり、中が見える。そのときには独房のひとつにはたして日本猿が一匹だけいた。

人間に飼われていた猿が成長し大人になると手に負えなくなり飼えなくなり、結局、処分してしまう、ということをときどき聞いていたが、この猿もそのうちの一匹で、飼い主が動物園に押し付けた形だったのだろう。人間が育てた猿は、サル山には入れない。猿社会に戻れないのだ。

独房の猿は、これは、見るに耐えないほど惨めで可哀想な存在だった。がらんと狭い剥き出しのコンクリートの向こう側の壁に、体の右一面を押し付けて、しゃがんでうつむいて下を見たままびくともしないのである。寝ているわけではない、目は開いているのである。でも下を見たまま微動だにせずうずくまっている。

見れば誰でもすぐに分かると思うが、人間でいえば、完全な精神病患者だった。人間と暮らした自由で幸せな日々は頭のどこかにまだその記憶はあるのだろう。そしてその当の人間に永久に裏切られて、こうして独房の一室で死ぬのを待つ身になったのだ。その心の痛みが剥き出しのまま目に見えているようで、見るに耐えない光景だった。

その日はまだ夏の暑さが残る9月の初旬で、あたりを直射日光が照りつけていた。

僕はなんだかその場にぼんやりと立って、こんな風に思った。こんなことは言っちゃいけないかもしれないが、サル山で投げつけられるえさにちょうだいちょうだいしているサルも、見捨てられ独房で独り死ぬのを待っている猿も、特に人間社会と変わるところは無いのかもしれない、と。ただ、猿たちの方が事情が先鋭化していて、剥き出しで、救いが無いだけで、人間社会の方はそれほど辛くならないように何かしらの息抜きが用意されている、という違いだけだ。本質的な事情はそれほど変わってはいない気もする。

だいぶ悲観的なことを書いているけど、実はオレはだから猿にあまり近寄らないんだ。まるで剥き出しの自分を見ているようでイヤになるんだ。

サル山を抜けて巨大ドームの中へ。これまた古い柵や、檻や、水槽や、池などなどに、あらゆる熱帯の動物がひしめき合っていた。ドームの中は蒸し暑くて、ひととおり順路に沿ってそのまま歩いて外へ出てしまったが、じっくり見る気があれば、かなりの見ものがたくさんあったと思う。

ドームから再び夏の空の下へ出た。草津熱帯園はなかなかに濃い場所だった。でも、外見は幸せそうに見える動物園よりもお勧めかもしれない。

さて、再び湯畑へ戻り、昼飯を食いに老舗っぽい蕎麦屋に入り、鴨汁付け蕎麦を注文した。これがまた絶品で、瓶ビールを飲みながらいい気分だった。かくのごとく、人間社会には息抜きがたくさんあるのだ(笑)

草津一泊旅行はとても楽しかった。草津よいとこ一度はおいで、と言うが、なんど行っても楽しそうなところなので、特にまだの人には草津は、お勧めである。

広島に出張で来ている。午前中の仕事を終えて、午後からの仕事はすっ飛ばし、かねての予定どおりひろしま美術館へゴッホの作品「ドービニーの庭」を見に行った。来月から異国に住むことになるので、これが最後、というわけではないにしてもやはり名残惜しく、僕が一番好きな絵に対面して来ようと思ったのだ。

というわけで、このブログでは、このたった一枚の絵になぜそこまで僕がこだわるかについて、周辺的なことを書いておこうと思う。加えて、この絵を知らない人の方が多いだろうから、絵画に関する客観的なこともいくらか紹介しておこう。

思えば、広島へは仕事で何度も来ているが、ひろしま美術館へ寄ってこの絵を見ずに帰ったことは一回もなかったと思う。それほどこの絵は僕にとって大切な画布なのである。

今回、夏の終わりの猛暑の中、ひろしま美術館へ向かった。この絵だけが目当てである。なので、他の絵はほとんど見ていない。ちょっとクールダウンするのに館内散歩をするついでに眺めたていどである。ただ、ひろしま美術館のために言っておくが、ここは印象派以降のけっこういい絵を取り揃えているので、小さな箱だが、見学という意味では充実感があると思う。

しかし僕にとってはドービニーの庭だけが重要だ。

さて、再び、絵の前にやってきた。いったい何回見たら気が済むんだろう、この俺は、と思う。見ているときは、まあいいとして、それでもこうやって美術館を出て娑婆に戻ってくると、なぜかまたまた見たくなるから不思議だ。そういう意味では、あの絵には「娑婆」なところがまったく、これっぽっちも、かけらも、無い。

相変わらず、ものすごく美しい色彩である。絵というのはこうやって文章で感想を書くのは実際はほぼナンセンスで、何を伝えられるわけもない。純粋な視覚経験なのだから、文章への翻訳はまったく無理なのだ。しかしながら、それでも、何回も言うが、本当に美しい絵だ。

かつて僕はこの美しさを文章で表現しようとして、本を書いてその中で、その特殊な美しさを言葉で解明しようとしたことがある。成功したかどうかは分からないが、その文章は今でも残っている。たぶん、あの文章が一番うまく自分の感じていることを表現できていたと思う。「ゴッホ」という本の中の最終章の「オーヴェール・シュール・オワーズ」の一連の短文である。あの中で僕は、この絵の美しさを「教会の漆喰の壁が朽ち果てて長い間太陽の光の下に晒されて色褪せたフレスコ画」に例えたのだった。これについてはpdfで読めるのでもし興味があれば、どうぞ。

さて、ここではそれを繰り返してもしょうがないので、きわめて展覧会カタログ的な事実を、知らない人のために少し書いておこう。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはいわずと知れたオランダ人の画家で、精神病を患いながらも嵐のように多くの画布を塗り、最後はピストル自殺で死んだ人である。後世を驚かせる画布を描いたのは、1888年から1890年に亡くなるまでのほんの3年たらず、南フランスのアルルからサンレミ、そして最後にフランス北部のオーヴェール・シュール・オワーズにやってきて、三ヶ月ぐらいして亡くなっている。

彼はオーヴェールで80点ほどの画布を残しているが、世間的に有名なのはおそらく「烏のいる麦畑」と「オーヴェールの教会」であろう。どちらも一種鬼気迫る感じが画布を支配していてわりとショックな絵である。特に前者は、その昔、かの小林秀雄を、絵の前のその場でへなへなと座り込ませ動けなくしてしまった、という逸話もある。この前者の「烏のいる麦畑」に表れているあまりに緊迫した感じのせいでこれをゴッホの絶筆とみなす説は数多いが、いろいろ調べてみるとどうやらそうではないようで、実はいま書いているこの「ドービニーの庭」がどうやら彼の絶筆であった、という説が有力だそうだ。

ということで、このドービニーの庭は、絶筆かどうかの真偽を置いておいても、彼がその最晩年に塗った画布だということは間違いないようである。

ゴッホは弟のテオにこまめに手紙を書いていて、自作についてペンによる素描を交えながら事細かに説明している。このドービニーの庭についても、素描とともにわりと細かく説明する手紙を書いている。特にこの作についてのゴッホの言葉ははっきりしていて、「ここに来てからずっと構想していたものだ」とか、「もっとも慎重に計画された画布のひとつだ」という風に書いている。特に後者の言葉は自殺の4日前の手紙にある。

ドービニーの庭の筆致が非常に静かで穏やかなものなので、とてもこれから自殺する人の絵に見えない、と言う人がよくいるがそれはどうか。絵画の中に「苦しみ、痛み、そして叫び」を表現することは、ゴッホの時代には実はまだほとんど無かった。僕らは現代の叫びに満ちた騒々しいビジュアル表現に慣れすぎているので、悩んだ人の絵に見えない、という感想が出てくるのだと思うのだが、それはほとんど当たっていないと思う。たとえば、時々、会ったときはあんなに元気だったのにその翌日自殺するとは、という文句を聞くが、そっちの方が近い事情かもしれない。

それよりも、なによりも、僕には、この絵を前にしてはっきり感じることがあって、それは言葉にするのはほとんど不可能なのだが、あえて言うと、絵の中にある「過剰な静かさ」に常に驚くのである。こんな静かな絵は、後にも先にもないように思えてしまう。世の中のあらゆる雑事から完全に切り離された過剰な静けさなのだ。

それを感じるとともに、もう一つ驚くのが、この絵の「明るさ」である。この明るさは感情の明るさという意味ではなくて、純粋に視覚的な「明るさ」である。なんという形容しがたい明るさなことか。ゴッホの絵には、そういう明るい絵が多い。しかし、僕の感覚では、彼の並み居る明るい絵の中でも、特にこのドービニーの庭は極端に明るいのである。まるでそのまま昇天してしまいそうな明るさだ。

こうして美術館の展示室に並ぶ彼の絵を見ると、いつも僕は、ずっと離れた距離から彼の画布と一緒に並んでいるほぼ同時代なたくさんの画家の絵と、合わせて眺めてみるのだが、どうしてもゴッホの絵だけ飛び抜けて明るく見えるのである。そのせいでほとんど孤立して見えてしまい、もう少し言うと、そこになんらかの異常性をやはりどうしても感じる。彼が患った精神病という単純な一個人のメンタルな話というよりは、限りなく芸術的な高みな意味での異常性である。こればっかりは、どうにもこうにも毎回対面するたびに感じるので仕方ない。

どちらも過剰な、「静けさ」と「明るさ」なのだけど、実は、過剰な明るさの方を聴覚的なアナロジーで言うとそれは静かではなく、何度見ても、過剰に明るいがゆえに聴覚的にホワイトノイズ系の音が聞こえる。しかもかなりの音量で。そのせいで静かでないのに静か、と矛盾しており、それも自分を驚かせる。

だんだん訳が分からない話になってきたので、これはこのへんで止めよう。

話を戻すと、このドービニーの庭は、彼が、画家としての自らの持てる能力を理性的に最大限に発揮して製作した画布であった、ということだ。なので、僕らは彼の言葉を素直に信じていいのである。この絵は彼の絵画芸術の絶頂のひとつなのである。

さて、ゴッホはこのドービニーの庭を2枚描いていることはよく知られている。一枚はバーゼル美術館にあり、もう一枚がここ、ひろしま美術館にある。いろいろな調査の結果、バーゼル美術館のものが一枚目に描かれたもので、ひろしま美術館のものは後から、アトリエでゴッホ自らが一枚目の画布を写して描いたもののようである。僕は残念ながら一枚目のバーゼル美術館のものの実物は見ていないのだが、写真で見ると、一枚目と二枚目はわりといろいろなところで異なっている。僕の目から見ると、ひろしま美術館の二枚目の方が、ずっと整理され、堅実で、より多くの調和を持っているように見える。ただ、こればかりは一枚目の実物を見ないことには断言しがたい。

ところで、このブログにも一応写真を載せたが、僕が実物を目の前にして驚いている色彩の美しさ、静けさ、明るさなどの視覚的なことについては、写真はほとんどまったく役に立たない。というのは、特にその「色」をまったく写し得ていないのである。こればかりは実物を見るしか方法が無いのである。こういうことについては、この視覚技術の進んだ現代においても、本当に貧しいと思う。今後改善されることを望むが、昨今の技術界を見ていると、絵画の美しさを正確に伝える映像システムなどというマイノリティな技術は今後もほとんど現れることは無いかもしれない。まあ、これは仕方ないことなので、ほぼ諦めているが。

話を戻すが、この2枚についてはこれまで長い間、いろいろ紆余曲折があり、特に贋作問題がうるさく言われて来た。あるときはひろしま美術館の作が贋作と言われ、バーゼル美術館の方が贋作とされた時期もあったそうだ。現在では調査の結果、2枚とも真作ということで落ち着いたそうである。

それから、ドービニーの庭には「黒猫問題」というものが長くつきまとっている。それは、バーゼル美術館の画布、そしてゴッホの手紙の中の素描でも、本人の言葉でも言われている、画布の左下を横切る黒猫の姿が、ひろしま美術館の作には無いのである。代わりに黒猫のあるべきところの一帯が、まるで誰か別の人が塗ったように色調の違う絵の具が盛られているのだ。

これは実は、このひろしま美術館のドービニーの庭においてたった一つの残念なことで、その部分だけ色調が不自然に異なっているせいで、目障りなのだ。これは、最近の調査で、ゴッホが黒猫を描いた部分の上に、後年、他の誰かが黒猫を消すために絵の具を盛ったことがはっきりしたそうだ。これまでゴッホその人が黒猫を消したのかもしれない、という説もあったのだが、それは科学的調査により完全に否定されたそうである。

後年の誰かが、この絵を売るにあたって、この黒猫の存在を画家の失敗とみなして消したのだろう、と推測されている。調査によれば、この他人の絵の具の下にはゴッホが描いた黒猫がいるそうなので、絵の具をうまく削れば出てくるのだろうが、それはおそらく危険すぎてやらないだろうから、我々はこのまま見るしかないのである。

この部分は実物で見ても、まるで「汚れ」のように見えるので残念である。加えて、この「汚れ」がなく、黒猫がそのまま描かれていたら、またどんな印象になるのだろう、と想像するのだけど、なかなかうまく想像できない。本当はこんなときこそ再現技術の出番なのだが、先に書いたように現在の技術の色再現が悪すぎて、それをやってもほとんど何の役にも立たないのである。残念だ。

僕は、この黒猫を汚く塗り潰したドービニーの庭を長年ずっと見てきたので、逆にオリジナルのように黒猫がいる状態がうまく想像できないのである。今までこの部分はずっと意識的に「無いもの」とみなして、見てきたのである。

今回、逆に、実物を前にして、ちょっと一生懸命、ここに黒猫がいる図を想像してみた。うまくいかないながらも、まず、「汚れ」がない「良さ」がすごく素晴らしく映るだろうと思う。それに加えて、ここに横切る黒猫がいる、その当の黒猫についても想像するに、なんだか自分が今までこの絵に「色彩の美しさ、静けさ、明るさ」だけを求めてきたのとは少し違う「何か」を感じるかもしれない、と思えてきた。

ひょっとすると僕は、ある意味、この絵について、いくらかの誤解をしてきたのかもしれない。僕がゴッホの最晩年の芸術から受け取った、「過剰な静けさ」と「過剰な光」、そしてそれゆえの「恍惚と昇天」という感覚だけで彼の最終形を語ることは、できないのかもしれない。

よく知られたように、彼は、死んでから、ほどなくして他の画家たちに多大な影響を与え始め、特にそれは「表現主義」や「フォービズム」といった方向に受け継がれるものが多かった。これらの芸術は、「静止」より「動き」の方に重点がある。僕がゴッホの最後の芸術から受け取ったものは「静止」しかも「完全なる静止」だったので、その反対のものである。ただ、僕だってゴッホの「動き」の部分は十分に理解はしているつもりである。ただ、僕の個人的体験としてゴッホの「静止」の方がより自分にとって「事件」だったのだ。

思い返せば、僕が最初に画集などでゴッホに触れたとき、若かった自分を魅了したのはゴッホの「動き」の方だった。その後、ゴッホの実物の絵画に上野の展覧会で出会い、そのとき僕は彼の持っている「静止」を初めて全身で感じ、それが僕を絵画芸術に開眼させたのだった。ちなみに、このへんの事情はここに書いておいた。

そういうわけなので、ゴッホの「動き」の部分が後世の画家たちへ受け継がれた、ということは僕にとっても、自然にうなづけるものだった。したがってそれは、芸術と歴史の必然に見えた。「動き」が伝承され、「完全に静止したもの」は、もうそこで死んで昇天するしかないのだ。そして、僕は、ゴッホその人を、芸術史において完全に孤立した「静止」の人とみなし、自殺した彼の魂の昇天とともに、彼の到達した極限の「静かさ」は、同じく昇天してこの世から消えてなくなったのだ、そしてそれは完全な無名性の中に埋没したのだ、と結論していた。少なくとも、僕がかつて書いた本にはそのことが書いてある。

しかし、どうだろう。そうじゃないのかもしれない。

少なくともゴッホは、この驚異的に「静止」したドービニーの庭を完成させたとき、その最前景にプルシアンブルーの筆で左から右に向かって「動く」黒猫を描いていたのである。この黒猫が横長の画布の前を横切って左から右に抜けて行った後には、この画布は、ブラマンクや、スーチンや、ムンクや、マチスや、そしてフランシス・ベーコンの画布にまで姿を変えるのかもしれないではないか。ゴッホは、この完全に静止した明るい色彩の静けさの完全無欠な調和の、一種の天国的な、開かれた牢獄から抜け出し、また地上的なものに舞い戻ることを可能にする、なにか小さな「出口」を持っていたのかもしれない。それが、この横切る黒猫の意味なのかもしれない。

そんな風に空想すると、芸術というのは、まことに果てしないものだな、と思う。

さて、結局ずいぶん長々と書いた。客観的な話にしようと思ったけど、やはり主観的な話をずいぶん書いた。このへんにしておこう。

いつも真面目でややこしい長文ばかり書いているので、今回はあっさりと日記。

先日、墓参りに行ってきた。うちの親父のお墓は鎌倉の七里ガ浜にある。顕証寺というお寺で、江ノ電沿いにあって、敷地の半分以上は墓石がぎゅうぎゅうづめになった墓地になっていて、その上がりがまずまずなのか、お寺自体はこぎれいで新しく経済的に余裕がある感じである。七里ガ浜はサーファーが集まるビーチでもあって、墓地から江ノ電越しに長いビーチが見晴るかせ、サーファーが点々としている。このお寺、さらになかなかモダンでもあって、夏場のお盆のシーズンになると境内でハワイアンの生演奏をして、かき氷やらお酒やらを振舞ったりするイベントをやっている。毎年案内のハガキが来るのだが、あるときそれに「暑い夏、顕証寺でハワイアンを聴きながらお墓バーで一杯いかがですか」みたいな文句が書いてあって大笑いした。お墓バーとはなかなかいいネーミングだ。このことをさっそくネットに書いたら、どこぞの人が不真面目だ、みたいな反応をしていたが、馬鹿々々しいことだ。僕にしてみれば大いにけっこう。ひしめき合う墓石からポンポン出てくるご先祖たちの霊たちでひんやり涼しい空気の中、バーでお酒を一杯だなんて、あの世とこの世の懇親会みたいで楽しいじゃないか。

親父の墓は江ノ電のすぐ隣のところにある。いつものようにビールとカップヌードルをお供えに買っていったが、今回は奮発して一本500円もする鎌倉の地ビール「鎌倉ビール」の瓶を買って持っていった。とはいえ、あとで自分が飲むので奮発も何もないのだが。墓石は潮風に吹きっさらしなのでいくらか腐食しているようなところもあるけど、まだ何十年も経っているわけでもなくきれいだ。お袋がこのモダンな江ノ電沿いに林家の墓を移してからずいぶん経つが、以前は、鳥取の一行寺という古寺に、苔むして角が丸くなった時間のお化けみたいなでかい墓石が立っていたのだ。親父とその一族のなかなかにお堅い雰囲気には確かにあの場所はぴったりの雰囲気だったが、あまりにいかめしい。それが今ではつるっと四角い小さな宇宙船みたいな墓石に代わり、モダンになっていい感じじゃないか。あの早くに亡くなった大正時代の怖そうな祖父やその一族はこんな場所でけしからん、と逃げちゃっただろうか。なにせ、ハワイアンでお墓バーだ。いや、きっとそんなこともないだろう。うまい具合に時代が遷り変わり、よかったな、と思う。

お墓参りのあと、せっかく鎌倉くんだりまで遠出したのだから、どこかへ寄ってゆこうと思った。それにしても終戦記念日の8月15日、お盆のど真ん中は暑い。ということでお墓から近いどこかのお寺でも寄るか、と思い、ふと、江ノ電の七里ガ浜駅の構内の目立たないところに貼ってある金属板の手描きの古臭い地図を思い出した。それには「日蓮上人雨乞イノ池」という場所への道が描いてあるのだ。そうだ、そこへ行ってみよう。iPhoneで地図を見てみると、どうやらその池は霊光寺というお寺に属しているらしい、ちょうどいいや。

真夏の真昼の暑い盛り、細い川沿いにしばらく歩くと池に着いた。立て看板があり、この池は、その昔から雨乞いの池として有名で、あるとき日蓮上人がきて雨乞いの修行を始めたらとたんに雨を呼んだ云々、みたいなことが書かれている。文語調なのであまりよく意味はわからないがそんな感じだった。池は浅く、淀んでいて、茶色く濁っていて、ところどころぶくぶくと泡が上がって汚くて、大量のアメンボウが水面をすいすい移動している。なるほど、これはどうにも雨乞いでもして新鮮な雨水が必要だな、みたいに思いながら、ぼんやりと池を一周した。こんなところなので蚊に三箇所も刺された。

さて、その先が霊光寺である。お寺は小高い丘のちょうど斜面に建っている。入り口の境内は広く、右側の少し高くなったところに広めに開けた墓地がある。見渡したところ、墓石は古く昔ながらに縦長で、代々続いている墓地のようだった。ちょうど林家のむかしのお墓みたいな感じだ。お寺の本堂へは左側のくねくねと丘に沿った石段を登ってゆく。あたりに人影はなく、ひっきりなしに鳴いている虫の声以外なんの音もしない。

この、ずっと鳴き続けている、「カーンカーン」みたいな声はいったいなんだろう。ただ、この声にははっきりした聞き覚えがあって、別にはじめてでもなんでもなく、とても親しい夏の森の中の声なのだけど、なんの虫が鳴いているのだか分からない。タタタタとも言えるし、カカカカとも言えるしタンタンタンとも言えるけど、その正体を自分が知らないせいで、なんという擬音語を当てていいかが分からない。ただ、自分としては「はっきりと知っている音」なのである。なんだか、それがすごく不思議な感じがした。ひっきりなしに鳴いているこの音に包まれながら、しかもそれをとてもよく知っていて、にも関わらず、それを言葉にまったくできないという体験は、今の現代の世の中そうそうあることじゃない。それにしてもこの声は美しい。すごくいい音だ。タンタンタンみたいな声が10秒ぐらい続くのだけど、その終盤でそのまま消え入るようなところが、恐ろしくもののあわれな調子がする。

辿り着いた霊光寺の本堂は小さくて、粗末で、管理の人も誰もおらず、わりと荒れていて、あたりに立ついろんな古びた石が傾いていた。相変わらずかのきれいな音の虫の声が鳴り渡る鬱蒼とした森の中に、時間のお化けは、ここにも、かしこにもいるような気がした。

なにもすることもないので、そのまま今来た石段を降りた。

さて、家に帰り、超モダンな僕はインターネットのWikipediaで蝉について調べ、いろいろクリックして分かったけどあのきれいな声はひぐらしだった。なんと53年も日本で生きてきて、今の今までかの有名なヒグラシの声を認識していなかったというのは驚きだな。Wikipediaでひぐらしをクリックするとそのルックスと、あと鳴き声のサンプルがあって、再生ボタンを押せば音が聞けるんだ。聞いてすぐに分かったが、これだ、この声だ。分かってしまえば何のことはない。今度あの音を聞いたら、すぐに脳にひぐらしっていう言葉が浮かんで、きっと耳にはカナカナカナという音が聞こえるだろう。

これで時間のお化けが一つ退治されたってわけだ。

しかし退治っていうのは、自分と相手がいてその自分の目の前から対象がいなくなって見えなくなったというだけで、当のお化けがこの世からいなくなったわけじゃない。こうやってエアコンのきいたクリーンなお部屋でノートPCというものに向かってキーボードをカチャカチャ打っている間にも、鎌倉の七里ガ浜の奥の人けのないあの霊光寺の森の中には、変わりもなく、かのお化けがじっと座っているんだろう。退治されたってびくともしないのがお化けというもんだ。だからお化けって言うんだ。

6月30日の土曜日のこと、うちの奥さんは前日に用事で実家に帰っていて、久しぶりに朝から一人だった。ここさいきん急に仕事が忙しくなり、週末はやむを得ず仕事をしたりしていて、それで、仕事以外もやりたいこと、やらないといけないことはたくさんあるので、あれこれやっているうちに週末が過ぎる、ということが多かった。

その日は、梅雨の雨が連日降り続いたちょどなか日のようで、おだやかに晴れていた。自分は運動が好きではないので、ただでさえ体を動かさないのだが、忙しさと梅雨の雨にかまけて、さいきんはひたすら家にこもっていることが多かった気がする。そこで、天気もいいし、その日は自転車でどこか適当に遠出をすることにした。

自転車で当てもなくうろうろとでたらめに走って放浪するのは、僕はけっこう好きで、ときどき思い出したように出かけては走っている。走っている時間の半分以上は迷子の状態で、それが楽しいのだ。東京は走っていればどこかの駅や線路にぶつかるので迷子になっても実はぜんぜん平気なのである。それに長年の土地勘もあるし。

そういえば、少し前、スウェーデンの小さな街で自転車を借りて同じようなことをやったら、本当に迷子になってしまい、しかもその町には線路も駅も無く、一瞬、これは帰れないかも、と思ったことがあった。ただ、これもでたらめに走っていたら何となく元に戻れた。まあ、最悪、歩いている人に方角だけ聞けば帰れるはずなので別に不安にはならない。海はどっちですか、と聞けばいいのだ。

さて、昼飯を食ったあと、自転車で出発。どっち方面へ行こうかな、と考え、ふと、いつも多摩川沿いのサイクリングコースを走るとき、川の向こう岸になんだか巨大都市みたいなのが見えるエリアがあるのを思い出した。縦にも横にもえらくでかい建物がいくつも集まって建っている未来都市みたいなのが見えるのである。そうだ、あそこへ行って見物しに行こうと思い、多摩川沿いにゆっくりと走り始めた。

目的の場所はそれほど遠くはなく、ほどなくしてそれっぽい風景になってきた。もっとも、目的といえるほどのものではなく、こうやって自転車で放浪するのも、実は走りながらいろいろ考え事をするのが常で、むしろそっちの方が目的だったりする。その日は、少し前にフェイスブックで話題になったソーシャルネットについてあれこれ考えていたのだ。僕は実はソーシャルネットという言葉が嫌いで、なぜ嫌いと感じるかについてつらつら考えていた。考えたことはすでにブログに書いたので、ここはその話ではない。

川沿いの巨大都市に着いた。

何のことはない、ただの巨大なマンションがやたら建っている人工的な街であった。いくつかの、これまたやはり巨大な工場だか研究所だかが建っていたので、その大企業で働く人が主に住んでいるマンション群なのだろう。ビルディングもきれいだし、敷地もたっぷり取っていて、かなり広い公園や緑地も整備されていて、よくあるひとつの人工的に作った街のようになっていた。スーパーマーケットや病院、学校までもその区画に作って、その区画から出なくても生活できる、そんな場所である。今風にきれいにできてはいるが、いわゆる昔の団地の発展系という感じだ。

週末の休みなので、子供を連れたたくさんの家族がいた。なるほど。僕は人工的な町を概して悪く言う傾向があるが、こうして実際にそこに来てみると、みなそれぞれの人生を送っているわけで、別に人間まで画一的なわけでもなんでもない。ただ、僕のような物好きな観察家が来て面白いところではないことは確かだ。

よし、もっとごちゃごちゃした汚いところを見に行こうと思い、蒲田へ向かうことにした。今いる川沿いから斜めに逸れていけば蒲田に着くはず。あそこは、都内で新宿の次に飲み屋の多い場所と聞いたことがある。で、裏町をうろつくとまことにディープな場末の町が今でも広がっているのである。

僕は蒲田方向に向きを変えて走り始めた。しかし、なぜだか分からないけど、とある交差点で信号待ちをしているとき、蒲田方向へ向かう細い道が目の前にまっすぐどこまでも長く見えていて、なんだかそのまま走ってゆくと、ひゅるひゅると道が細くすぼまって行くような、そんな感じがして、それで何となく信号を渡るのをやめ、そのまま右に曲がり、またまた多摩川沿いの方へ進路を取ってしまった。もっとも、これは今思い出してそう言っているだけで、そのときはさしたる意思はない。でも、妙に先細りの目の前の長い道の光景はなぜか覚えている。

さて、また川沿いに戻ったのだが、そうこうしているうちに住所が「六郷」になっている。へえ、六郷なんかに来たのは初めてだ。なぜだか六郷と多摩川という名前は自分の中で結びついていて、ひょっとして大むかし、学校で、郷土についての授業かなんかで習ったのかもしれない。なんだか水路だかなにか水道施設が六郷にあったような気がするけど思い出せない。いずれにせよ、ここに来たのは初めてだ。

特段に変わったところもない古くも新しくもない変哲ない街だった。そのまま走り続け、六郷を抜けたら住所は羽田になっていた。

あら、羽田に着いてしまった。それにしてもあたりが寂れていて殺伐とした雰囲気になってきた。二車線ぐらいの道をあたりを見回しながらゆっくり走っていたのだが、古臭い居酒屋や、流行ってないラーメン屋、町の電気屋などなど、どこにでもある古い町とはいえ、なんだかあまりに荒涼感が漂ってるなあ、と思っていたら後ろから車のエンジンの物凄い音が聞こえ、クラクションをパパパパパーと鳴らしながら猛スピードで車が横を突っ切っていった。こんな狭い道をたぶん100キロ以上は軽く出ていたと思うんだが、瞬く間に走り去っていった。あれはいわゆる暴走族ではない感じ。なんだか、本当に急いでいるか、あるいはブレーキが壊れているような感じだった。

暴走車が走り去り、ふたたびうら淋しい街の光景に戻った。時刻は三時を少し回ったぐらいだったと思う。相変わらずいい陽気だったが、そんな柔らかい午後のもうろうとした日の光の中で、羽田の古い町はさらに殺伐と感じられた。

そのまま走っていったら、すごく広い道路に出た。これは産業道路だ。車やダンプがびゅんびゅん走っている。

かつてずっと大田区の住民だった自分は産業道路はよく知っている。これを左へ行けば平和島、右へ行けばすぐに多摩川を越えて神奈川県だ。自分にとって昔から産業道路は殺伐の象徴だったっけ。産業などという形容詞がつく道路なんて、いまどきは道路にそんな名前をつけないよな。高度成長期の日本では、この産業というのは明るい未来の象徴だったかもしれないが、もちろんそうやって成長してきたかつての日本を支えた産業も、大量の労働者の労役に支えられて来たわけで、その中身をのぞけば、そこは何かしら殺伐とした荒涼とした風景や、義理人情や愛憎でどろどろになった人間関係が広がるのだ。産業道路は自分にとってその象徴のようだった。殺伐や荒涼と正反対の、明るく華やかでクリーンな現代生活を表面だとすれば、裏面はこんな風なんだ。

さっきから、殺伐、殺伐、とやたら繰り返しているが、実はそれほど悪い意味で言ってはいない。僕はブルースを演奏するギター弾きでシンガーでもあるが、僕が心の故郷のように感じている黒人ブルースがまさにこんな殺伐とした風景の音楽なのだ。こんな産業道路のようなところに来ると、思わず自分の頭の中でエルモア・ジェイムズの音楽が鳴るのである。あの汚く歪んだギターを重機のように連打する三連符の響きと、ヤスリのようにザラザラした声でシャウトする、あの歌が鳴るのだ。

妙なことなのだが、自分はずっと生まれ的にどちらかといえば殺伐と正反対の環境の中で生きてきた。にも関わらず、これは自分が小さいときからそうなのだが、僕を惹きつけるものはいつでも自分と反対の環境だったのだ。まあ、自分に無いものに憧れる、というあれなのだろう。ただ、僕の場合は少しばかり重症で、それが50歳を超えた今日まで何だかんだで続いていることだ。

産業道路に立って眺める辺りのコテコテに日本な風景にシカゴブルースが生まれた50年代のアメリカの都市の眺めを連想するなんて滑稽なことだ。でも、それがどこであっても殺伐として荒涼とした風景は、今でも自分を惹きつける。だから、殺伐としている、というのは自分にとってはそれほど悪い言葉ではないんだ。

さて、産業道路まで来ちゃったけど引き返そうかな、って思ったんだけど、まてよ、ここはもう羽田なんだから、この大通りを渡ってそのまま真っ直ぐ行けばたぶんすぐに羽田空港だな、と思い、せっかくだから行ってみるか、と、大通りを渡って直進した。ふたたび羽田の住宅街だが、こちらはそれほど殺伐としてはおらず、どこにでもある住宅街だ。

そうこうしているうちに、狭い道を抜けると急に視界が開け、目の前に広大な羽田空港が現れた。

いま来た道はそのまま地下トンネルへ下って行き、このトンネルを抜けて向こう側に行くと、そこはもう羽田空港の敷地内だ。このトンネルへ消えて行く道の風景には見覚えがある。これまで何度か、バスやタクシーで羽田空港へ行ったときに、このトンネルを毎回くぐっているのである。

トンネルの入り口の右側はもう海なのであるが、その際のところに大きな赤い鳥居がぽつんと立っている。鳥居の回りはちょっとした空き地になっていて申しわけ程度にベンチが並び、柵の向こうは東京湾の海だ。しかし、この鳥居は知らなかったな、こんなものあったっけ、と、自転車を降りて鳥居を見に行った。

鳥居だけが唐突に立っていて、その周りは工事中の柵のようなものでいい加減に囲まれていて、その柵に、文字や写真を載せたパネルがベタベタ貼ってあり、合間合間に「世界平和祈念」みたいな文句が書かかれたお札のようなものが混じっている。パネルをざっと読んでみると、どうやらこの羽田空港を建設したときに立ち退いた元々あった村を記念して建てられた鳥居のようだった。

僕はパネルをながめながら鳥居の向こう側に回り、すぐ向こうに広がる海や広大な空港の土地をぼんやりと眺めていた。

すると少し離れたところに、車椅子に乗ったかなりの歳の老婆の姿が目に入った。顔が見えたのだが、この婆さん、まるで生きる苦しみの真っ只中でそのまま表情が固まってしまったような、ひどく辛そうな表情をしている。辛そうと言っても、その場で辛くて肩で息をしている、とかそういうのではなく、苦しみにこわばった表情のまま微動だにせず、目を大きく開けて、海のかなたをずっと向いたまま動かない。車椅子に手をかけている人はこの婆さんの息子さんだろうか。

婆さんのこの表情は痛ましくて見ておられず、僕は一瞬で目を逸らしたが、それでもなんとなく居たたまれなくなり、もう、戻ろうと思い、自転車に乗って今来た道を引き返した。

再び、産業道路へ。

もうすでに三時間以上は自転車に乗っているし、時間もそこそこ遅くなってきたし、道草せずに帰ろうと思い、多摩川を渡って、すぐに川沿いのサイクリングコースに入った。そこからは、もう、一直線に走って行けば、二子玉川へ戻れる。僕は、今まで考えたことや、見たことなどは全部忘れて、多摩川の岸の道をやたらと飛ばした。広い川と広い空、両岸に広がる草木、そしてその合間に点々と見えるホームレス小屋などを呆然と眺めながら、頭を空っぽにしてひたすら走った。

家に着いたときはもう夕方を過ぎていた。五時間以上は自転車に乗っていたことになる。1年分運動したような感じで、気分は爽快だった。缶ビールを飲んでくつろいで、その日は早めにぐっすりと寝た。

さて、翌日、7月1日の日曜日。

さすがに前日あれだけ自転車に乗っていただけあって、体がいくらか痛い。筋肉痛はあまりないが、骨が痛い。うちの奥さんはまだ帰っていないので、相変わらず一人である。天気も昨日とそれほど変わらず、気持ちのいい朝だ。いつものようにコーヒーを淹れて、簡単な朝飯を食べて、朝風呂を沸かして入り、昨日の運動のせいで気持ちいい疲労感の残る体を湯船に伸ばして、そして、ぼんやりと考えごとをした。

何を思ったかというと、ここ一年ぐらいの自分の状態である。自分は実はずいぶんと自信を喪失していて、かなり辛い状態にあった。なかでも一つよくない思い出があり、その一部始終を思い出していた。

それは、自分より一世代年配の知り合いと飲みに行ったときのことで、そこで自分はその人にさんざん説教されたのであった。いちいちここに内容を書きはしないが、要は、あなたにはだめなところがたくさんある、それを自分で気づいていない、だから俺があえてそれを指摘してやる、という内容だった。人生や人間関係で何が一番大切かおまえは分かっていない。それというのも、これまで苦労せずに育ったツケが回ってきているのだ、などなど。その飲みは終始その調子で、僕はというと、ときどきは反論してみるものの、あっという間に、そういうところが駄目だ、と逆に説教された。さらにご丁寧に、飲み屋を出てからも最後の最後、僕の支払いの不始末で相手を怒らせ、なんと僕は平謝りに謝るという始末だ。そうしたらその人が、結局、最後に言ったのが、あなたぐらいの歳になると俺が言ったようなことを面と向かって言ってくれる人はいないよ。だからあえて指摘してあげたんだ、まあ、がんばりなさい、とこうだ。僕は、はい、わかってます、とか言ってさんざん彼に頭を下げて、別れた。

いまこうして書いていてもはらわたが煮えくり返るのだが、なぜ、あのとき僕はあそこまで打たれっぱなしだったろう。彼の言ったことを思い出しても、ある面では正しいが、ある面では明らかに間違っている。それに、人のあり方、そして個性、というものはそんなに一方的な正論で決まるべきものじゃ無いじゃないか。彼の言う、人にとって大切なこと、というのは、彼にとって、さらには彼のような人間の集団にとって大切なだけで、必ずしも僕に当てはまるわけではない。そんな簡単なことがなぜあの時の僕には分からなかったのか。おまけに、くだらない不手際でぺこぺこ頭を下げて謝るとは、なんと馬鹿な自分だったか。相手は別に仕事のお客さんでもなんでもない、ただの知り合いじゃないか。

僕は、これらを思い出して、実際、心底怒りがこみ上げてきた。書き出したら切りが無いので書かないが、こういったことは、ここ一年の僕の情けない一例に過ぎず、他にも似たようなことがいろいろあったのだ。この手のことでは相手は年上が多かった。きっと僕のような人間には気持ちよく説教できるのだろう。僕は自分について無防備で、あけすけで、欠点を認めすぎるのだ。それこそ彼が言うように、苦労をあまりしなかったせいでそのような性格に育ってしまったのだが、もっと自分を防御して、そして少しは攻撃することを覚えないと駄目だ。

などなど考えて、そして、最後に結局こう決心した。もう俺は年寄りの説教は一切聞くのを止めよう、そして人に説教するような人間と付き合うのは止めよう。

これは不遜なんじゃない、今までの俺が不甲斐なさ過ぎたんだ。そうだ、俺はもっと自分に自信を持たないとだめだ。それに対してここ一年の俺はいったいどういう有様だったか。年配からは説教され、同年には弱音を吐き、年少には自己主張を避け、情けない限りだ。思えば十年ほど前の俺は、自信と誇りに満ち溢れていた。もちろん自分は、日本文学の私小説系のノリがあるので、文学的な悩みを自分の中に抱えることはあった。しかし、外に対しては、自分のあれこれの才能にも頼んで、堂々と、風を切って歩いていた。その状態で、自然と周りの人たちもついてきてくれていた。それが正しい状態じゃないか、そうあるべきじゃないか、誇りを忘れたらだめじゃないか。僕はようやく以上のことに思い至り、そして固く誓った。俺は俺なのだ、自分に自信を持つことがすべての始まりなのだ、今後俺はそのように生きてゆこう、と。

そんな風に考えると、ずいぶんと爽快な気分になった。風呂を出て、パソコンの前に戻り、それでツイッターやミクシィに、断片的にではあるけど、以上の決心について書き飛ばした。

そうこうしているうちにようやく思い至ったのである、昨日の6月30日が、ちょうど一年前に僕が前の会社から整理解雇されたまさにその日だったことを。なんと、そうだったか、なんという偶然だろう。

前の会社には三年いたが、僕が自らのアイデアで始めたものをあるていどの形にして、何とか推進しようとしていたのだが、会社自体の経営方針からすべての事業から撤退することが決まり、それに伴って僕を含めた8人がリストラ。理不尽なことはいろいろあったが、それ自体はあるていどやむを得ないことで、僕は去年の7月1日から無職になり、ずいぶんと必死にあちこちを駆けずり回り、アクティビティを落とさず、何とか自分の世の中での仕事の道を見出すことはできた。なので、リストラされたことによる精神的ショックは表立ってそれほどは無いと思っていた。しかし、そんなことはなかったのだ。リストラに加えて、それに先立つ仕事上のあれこれの行き詰まりは、自分をすっかり「自信のないやつ」に変質させていたのだ、恐ろしいことだ。

しかしそれも今日で終わりだ。なんだか実に気分が爽快で祝杯をあげたい気分だ。ちょうど1年たって喪があけたようなもんだ。

さて、以上が1年前のリストラからちょうど一年たって自分に起こったことのすべてである。前日、体を思い切って動かしたからよかったのかもしれないし、なんだか分からないが、ぴったり一年後にそういう内心の変化が起こるというのも不思議な話だ。

さて、まだもうひとつ話すことがある。それは昨日自転車で辿り着いた羽田空港の赤い鳥居のことである。

あの鳥居はいったいなんだったのだろう、と思い、ネットで調べたらすぐに分かった。あの鳥居は羽田空港建設で立ち退いたかつての三つの村にあった神社の鳥居だったのだ。穴守神社という神社で、本体はとうの昔に移設され近くに建っているのだが、その大きな鳥居だけは移設できず残ったそうだ。それは、この鳥居を移設しようとすると、工事で事故が起こって人が死んだり、関係者が謎の死に方をしたり、と悪いことが続き、これは祟りだということで、移設できなかったそうなのだ。移設は何度か試みられたそうだが、そのたびに悪いことが起き、中止になったとのこと。そのせいで空港の敷地内の駐車場だかの中にずっとぽつんと立っていたそうである。しかし、十年ほどまえ、ようやく羽田空港の入り口にあたる、今ある場所に移設を完了し、いまでは無事にあそこに立っているのだそうだ。

そうだったか、いわくつきの鳥居だったか。それにしても偶然というのは重なるものだ。あの6月30日のその日に、自転車で放浪していた僕は、なんだか引き寄せられるようにあの大きな赤い鳥居に辿り着いたのだった。日本人的にふつうに解釈すると「厄を下ろした」ということになるであろうか。

それにしても、あの鳥居のそばで海を向いて動かなかったあの老婆はいったいどういう人だったのだろう。僕はいったいなぜあのときにあの老婆に遭遇したのか。

ちなみに羽田空港の建設は調べると今から80年前だ。かの老婆はたぶん80歳以上だったとは思うが、立ち退いたかつての村の住民だったのかどうかというと、そんなことは無いかもしれない。しかし、どうしてもそう思わせるようなところがあった。今はもう永久に失われた、自分が若かったころに生活した今はなき村の姿を、海の遠く向こうに見ていたのではないか、と、どうしても感じてしまう、そんな風情があのときに、あの赤い鳥居と黒い海の対照の中にたしかに、あったのだ。

一種の、死と再生の物語なのだろうか。

以上、自分の人生の節目になるといってもいい二日間について、書いておいた。

僕は今ではテレビをまったく見ない人間なのだけど、20年以上前には標準的日本人ぐらいは見ていた。あと、就職して最初の職場がNHKの番組監視業務だったせいで、実は、3年間にわたってNHKの番組を仕事でもたくさん見ていた。最近のテレビがどうなっているかはあまり分からないが、いわゆるテレビ番組がどんなものかは、情報は古いながらも、ひょっとして普通の人よりはるかによく知っているかもしれない。

NHKの大河ドラマは誰でも知っているだろうが、毎シリーズあれこれの歴史上のできごとを取り上げてドラマ仕立てで見せている。自分は、親元に住んでいたころ父親が欠かさず見ていたせいもあり、同じく欠かさず見ていたこともあった。それで、何十年ものブランクの後、どこかの温泉旅館かなんかで、風呂入って、飯食って、酒飲んで、いい気持ちでごろごろしながらテレビを見ていたとき、たまたま大河ドラマがやっていたので久しぶりに見て、ずいぶんびっくりしたことがある。

今さら言うまでもないことだろうが、登場している歴史上の人物を演ずる俳優があまりに今風のルックスの男女だったことと、セリフ回しもやはりあまりに今風、照明は明るくてなんだかハレーション気味のきらめきが加わっていて、カメラワークもやけにゆっくりした移動ショットを多用し、まるでキラキラと美化された夢の中の出来事のような絵作りで、ちょうど昔の少女マンガのような雰囲気で描写しているように見えた。NHKも視聴率を稼がないといけないので、当然、今風の絵作りでドラマを展開しなければいけない事情は分かる。しかし、この絵作りを見て一気に白けてしまい、しばらく見てはいたが、なんだかイヤになってきて、下らないお笑い番組にチャンネルを替えてしまった。

さて、たとえば五百年も前の日本の当時の様子はいったいどうだったか。あれこれ調べればおぼろげにどんな感じだったかはあるていど想像できるが、おそらく現代と比べると、ほとんど「異様」と言ってもいいぐらいその情景は異なっていたであろう。五百年前の日本人の男も女も今の日本人とはたぶん似ても似つかない姿恰好をして、しゃべり言葉はたぶん今の我々にはほとんど理解できない言葉で、その声色やしゃべりのスピードもだいぶ違い、その動きも歩き方も表情もきっとずいぶん違っていたことだろう。加えてあたりを取り巻く当時の環境、つまり、光、音、匂い、衛生環境やらなにやらは今と相当に違っていたはず。要は何もかも今とはかけ離れた光景だったと想像できる。

では、時代考証を厳密に追及して、当時の情景に極力似せた歴史ドラマというものを作ったとしたら、どうか。これは、自分としては、興味本位で本当に見てみたいとは思うが、作ったとしても視聴率は取れないだろう。ではなぜ視聴率が取れないと思うかというと、五百年前の日本人の生活の「事実」は、今現代の僕らから見てあまりに異様なものに写るせいで、ドラマとしてすんなり入って来ないと予想するからだ。たしかに過去に現実に起こっていた「事実」を視覚聴覚的に、今この現在にあるていど再現はできるかもしれないが、それを受け取るわれわれ人間の方が「当の過去」に生きていないせいで、その「事実」の意味が変わってしまうのではないか、と思うのである。

五百年前に生きて生活していた当時の日本人は、この情景の中でそれと共に生きていたのだから、その情景を、自分の眼で見て、耳で聞いて、それをそのときの現実として受け取って、それに対してごく自然な反応をしたであろう。これは当たり前のことだ。しかし、年代が五百年も隔たってしまっていては、「視覚聴覚像」を再現したところで史実の正しい姿が僕らに受け取られる、ということにはならないと思うのである。それが正しく成立するには、僕ら現代人が五百年前の過去に実際に生きなければ、無理ではないか。

僕ら現代人はごく自然に、「過去の事実」という唯一絶対の真に起こった出来事、というものがある、と認めている。だって、五百年前であっても、そこになにがしという五百年前の人間が存在してなにやらしゃべったり動いていたりしていた、という事実は曲げることはできないし、それはいわば物理的な事実であって、唯一無二のものだ。その事実がいくつもあったり、ぶれていたり、本当はなかった、などということが言えたとすると、それは単に物理現象を正確に観測できない人間側の事情のせいであって、当の事実は唯一絶対なものとして残っているはずだ、と信じている。

しかし、本当に、そうなのか。

さっき話した歴史ドラマであるが、あれは視覚聴覚で再現を計っている。すなわち、五百年前の過去に起こった物理的事実というものがあって、それを再現していると、という構図になっている。そういう意味で、われわれの常識である、「唯一無二の事実があった」という感覚を元にして成り立っている。しかし、その物理的に起こった状況をそのまま再現はせず、今風の映像に作り変えて提供する。それは、その当の歴史的事実を今の人間にも受け取れることができるように配慮したためだ。

しかし、もう一度言うが、我々が現代の歴史ドラマを見て受け取った「何か」は、当時の人々が受け取った「何か」とずいぶんと異なるであろうことは、容易に想像できはしないか。それにしても、僕らは、「過去に起こった物理的事実」が重要なのだろうか、それとも、「過去に起こったことの意味」が重要なのだろうか。もし、前者だったら、それは僕らの日常感覚とは遠く離れたものとして残ってしまい、そのまま手つかずで残ってしまう単なる事実にすぎなくなる。そして、もし、後者だったら、僕らは物理的事実を詮索したり、史実を現代風に再現して見せたりするより先にやらなければいけないことがある。それは、その五百年前の過去に生きている人たちがその「事実」に接して、そのときに何を感じたかを受け取ることである。つまり、五百年前に生きた人々の声に、できるだけ澄んだ心をもって耳を傾けることである。

思うに、歴史というのはその後者のアプローチの集積ではないか。

ところで、たまたまどこかの古本屋で見つけた鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の文庫を持っているのだが、かつて、この歌舞伎の脚本を読んで驚嘆したことがある。それは、「江戸時代」が僕の眼の前に現れた感があったからである。それ以来、この本は僕の愛読書になったのだが、今ではページのどこを開いても、当時の江戸時代が僕の感覚の中に再現するような気持ちになる。これは先に言ったような「視覚聴覚」の再現ではない。そうではなくて、江戸時代に生きる人間たちが、当の江戸時代に起こった出来事についてどう感じたか、ということがひとつの塊になって感じられるのである。僕にとってはその塊こそが過去であって、そこで起こった物理的事実などは二の次だ、とまで思ってしまう。

この四谷怪談の話はその一例なのであるが、さいきん、自分は「物理的事実」というものの一種の絶対性を、かなり疑うようになった。実は、今これを書いているのも、それを言いたかったのだ。

しかし、これをなんと説明したらよいのか。自分はもともとは理科系の人間で、理科系的な考え方のもとに育ってきたので、「物理的事実がある」ということが切実に唯一絶対なものと感じられるのは確かだ。うつろいやすく信用できない人間を通しての観察結果やその記録に振り回されながらも、それでも僕らがいるこの3次元空間のどこかで「絶対に真な唯一な出来事が起こった」ということを信じていて、それを「事実」と称して、振り回される心の最後の拠り所にする、という態度である。言ってみれば、物理的事実を主に扱う「科学」を拠り所にする、という感覚である。この感覚は、実は振り払うのがすごく難しい。というか、どうしても、そう感じてしまう。事実だけが嘘をつかない唯一のものだ、と。

しかし、最近のもう一人の自分は、物理的事実というものはそれほど重要とは言えない、とも感じている。もうちょっと突っ込んでいうと、物理的事実が唯一無二なものだと感じること自体がなんらかの人間的な性質のひとつである、と思うようになった。

いや、物理的事実はある。それは間違いない。五百年前に日本のどこそこでなにがしという人間が動いてしゃべったのである。それを否定するわけにはいかない。しかし、その事実はそれほど重要なものだろうか。いや、重要という言葉は適切ではない。事実というのは、今の自分に連なるたくさんある要因の中のただの一つに過ぎないのではないのか。先に書いたように、この事実を元に当時の人間たちが感じたこともまた別の事実だろう。そしてそれは人の数だけ異なっていただろうし、それと同時に、何かその時代の特有の共通なものも持っていただろう。

物理的な事実より、それが人間に与えた作用の方が重要なのではないか、と考えることは実は、とても自然なことだと思う。それなのに、主観を排した客観的な物理的事実をなによりも重んじる気持ちはそうそう簡単に自分から去っては行かない。自分はときどきこれを、何か別の要因によるのではないかと疑い、果てはその感覚自体が一種の「錯覚」や「迷信」に属しているのではないかと疑ったりもする。

さて、それでは最近になってなぜそのように強く感じるようになったか、なのだけど、ひとつは歳のせいもあると思う。世の中は真なる事実によって進むのではなく、その事実をさまざまに受け取った人間たちが織り成す行動によって進んでいる、ということを、人生経験の中で否が応でも思い知らされたからである。たぶん、これは間違いはないと思うが、実はもうひとつ年齢に関係ない理由がある。それは20世紀の終わりから21世紀に至るなかで急速に進んだ情報社会のありようである。

ここしばらく自分は、英語の勉強のためにロイターニュースを英語で読んでいて、特に、現在内戦に突入しているシリア情勢を追ってきた。交渉、戦闘の繰り返しで事は進んでいて、これまで何度か一般市民を巻き込む大量虐殺が起こっている。シリアへ外国のジャーナリストが入ることは政府により禁止されているので、ロイターに流れるニュースは、現地の公共放送で流れる政府からの公式情報、海外の視察団からの情報、そして主に内部の反政府軍から匿名の電話などを通して入ってくる情報などである。当然の結果と言えるかもしれないが、当の大量虐殺については、公式発表では反政府テロリストによる犯行となっており、反政府軍からの情報では政府軍による大量殺戮である、となっている。中立なジャーナリストが現地にいないのでどちらが正しいか、どちらが「事実」か、分からない。

しかし、戦況は刻々と変わり、それは報道され続けている。相変わらず政府と反政府ではほぼ逆の発表がなされている。停戦に向けて努力する国連、アメリカ、中東の国々、ロシア、中国などの国が戦況に合わせて様々に反応し、行動している。その行動によって、さらにシリアの情勢はあっちへこっちへと変動する。各国が実際にどのような情報を受け取っているかは分からないが、ロイターのようなジャーナリズムが受け取る情報よりは確度は高いはずとはいえ、本当に確実な情報はどの国も得られていないはずだ。

そんな中で、たとえば何回かに渡る大量殺戮を考えたとき、いったい本当に行われた虐殺の真実とはなんなのか。政府軍、反政府軍の言い分のどちらかが正しいのであろうが、どちらが正しいか100%確実には判断できない。しかしながら、シリアに関わる他国や人間たちは、判断できないから保留にするということもできず、現在自分たちが得ている情報に基づいて、自国の事情に照らし合わせて、なんらかの判断をして行動することを強いられている。一方、われわれ一般市民は直接戦争に関わってはいないが、それは直接でないだけで、現代のような民主主義的政治状況の中では、われわれ市民がこの事実をどう考えて、どう判断するかは実はかなり当の世界規模で起きている世の中の動きを左右するはずである。つまり、僕らは、たとえばここで言えばシリアの戦況に少なからず具体的に関わっているといえると思う。

実はこういう事態というのは、本当に大変なことだと思う。情報社会であること、そして、民主主義であること、というこの2つの条件から導き出されることは、「事実」の解明に全力を尽くすことは重要だとして(ちなみに、これがジャーナリズムのもっともはっきりした使命の一つなはず)、しかしながら、その事実の発する情報を受け取ったわれわれがそれを「どうとらえて」そして、それを元に「どう行動するか」ということが、実際に世の中の動きを変えてしまうことになってしまったのだ。「情報」と「行動」が、世界の進歩によりその速度と力を増し、そのせいでそれがリアルタイムで世の中を動かす時代になってしまったのだ。

ここではシリア情勢という日本であまり報道されないことを例に話したが、現在の日本で言えば、たとえば原発問題の推移がちょうどこの事態になっている。福島原発事故の現場で物理的に本当に起こった真実のすべて、というのは確かに物理的な意味で存在はするはずだけど、実際に現在に至るまでに原発問題を巡って起こった政府、東電、そしてわれわれ市民がとったさまざまな行動は、多かれ少なかれはあったとしても、「真の事実」を元に判断された結果ではない。真の事実は、分からないのである。しかし、情報と行動の速度と量が過去に比べ圧倒的に増大したせいで、当の事実が分からないまま、我々は、その事実から発せられた「情報」と、それを元に各自が受け取った「意味」、そしてそれに基づいて各自が判断してとった「行動」によって、事態は否が応でも「推移」しているのである。

すなわち、ここでは「事実」は肝心なところで隠されていて、その代わりに、「情報」「意味」「行動」が世の中を「推移」させている。

現代のような極端な情報社会になる前は、このようなことは表だっては起こっていなかったと思う。世界で起こる大半の「事実」は、その最初から我々からは隠れていてまったく見えなかったはず。われわれに見えている事実はごく近くの、自分の狭い活動範囲に直接関係するものだけだっただろう。そして、その事実の真の姿を詮索する時間も十分にあったと思う。十分に事実を調べた後に行動を起こしても間に合っただろう。その自分に関係する事実について何の関係もない他の人間たちが詮索を始めたり先回りして行動を起こされてしまうようなことも極めて少なかっただろう。

現代に生きていて、恐ろしいなと思うのは、情報や行動というものの「速度」と「量」が極端に増大することが、世の中の推移の様子を根本的に違うものに変質させてしまった、ということである。なんだか、ここ10年ほどで、世の中の推移の仕方がまるで変ってしまった、と感じることが多くなった。はたしてこれは単なる僕の錯覚なのだろうか。それとも本当にそういう層変異みたいなことが起きているのだろうか。

最後に、さいきんの自分が思っていることを、極端な物言いにはなるが、そのまま言っておこう。

真の事実などというものは、無い。あるのはそれを受け取った人間たちの感じ方の集積だけだ。そして、現在に生きて行動するわれわれは、その感じ方の集積の中で、もっとも自分が仲間だと直観する人間の言葉に、なるべく澄んだ心で耳を傾けることを、心がけるべきだ。

 

昨日はずっと借りっぱなしになっていた本を返しに、天気もよかったので散歩がてら自転車で図書館へ向かった。

漱石の「門」をはじめ数冊の文庫だった。この「門」はこの歳になって初めて読んだのだけど、とても面白かった。読み終わって間髪いれずにもう一回読み直したぐらいである。いわゆる、今で言うところの「疲れた中年男」を淡々と描いた小説である。物事が、事から事へと単純に理由なく推移して、その中で適度に右往左往しながら綿々と生活を続けている、そんな様子が描写されているんだけど、その心の奥の奥の方に不思議な、今でも赤々と燃え続ける火のようなものがあって、黒い消し炭に何重にも囲まれて隠されている真っ赤に燃える炭火のような、そんなイメージが全編に渡って感じられ、それが自分にはとても魅力的に映ったのだった。

と、まあ、漱石の話をするために書き始めたのではないのだが。

返却期限をとうに過ぎた文庫を返し、係の人にちょっと謝って、それで手ぶらになった僕はぶらぶらと書架を物色した。毎度毎度のことで、だいたい自分は「心理学」と「哲学」のあたりを覗いてみるのが常である。今日はなぜだか、スピリチュアルのコーナーに目が留まり、香山リカの「スピリチュアルにハマる人ハマらない人」だったかの題名の本が目について手を掛けようとしたらその隣に、題名は忘れたけど「スピリチュアルの世界」みたいな解説本っぽいのが目に入り、そっちを手に取った。

まえがきを斜め読みすると、著者はプロ野球かなんかのスポーツのノンフィクション作家だそうで、その彼が、突然、スピリチュアルの本を書こうと思い立ち、それで取材を重ね、書いた本だそうだ。見るとつい1年ほど前に出版された本で、ごく最近のものだった。客観的な取材に基づいたスピリチュアルの知識ってのも、たまにはいいだろうと思い、空いている椅子に座ってその本を読み始めた。

それほど面白くもつまならくもない、言ってみればごく平凡な本だったのだが、自分にしては珍しく、読んでいてシニカルになることもなく、文句をつけたくなるところもなく、淡々と読み終わった。だいたい、僕はそれなりに食えないヤツで、取材に基づいたノンフィクションというものをよく思っていないところがあり、特にそういう記者みたいな人間がこういうスピリチャアルなどの精神世界に関わるとロクなことがない、と思い込んでいて、考えが浅い人間が上っ面だけ取材して書いてるんだな、とか思いながら読むことが多く、こういう本に対しては最初から、いわゆる斜に構える傾向がある。

でも、この本はそんなことにはならなかった。字面の上では、相変わらず、無難なことが平凡に書き連ねられているだけなのだけど、不思議と最後まで読めたのである。それで気付いたんだけど、ひょっとするとこれは、冒頭で書いた漱石の「門」で感じたことと同じような感覚を抱いたのかもしれない。なんだか表面上の平凡さの下の下の方に、隠された火のようなものが感じられたのかもしれない。あらかた読み終わった後、最初斜め読みしたまえがきをもう一度読んでみたら、筆者は、内容は分からないがひどい家庭不和と、自身も鬱病を患い、ずいぶんと辛い目にあってきた人らしい。そうだったか、スピリチャルを取材するこの人も、実際には切実な何かがあってのことだったのだろう。

さて、一種の感慨をもってこの本を読み終わり、書架へ返すとき、最初に目に入った香山リカの本を開いてみたが、ちょっと読んだ内容がけっこう下らなかったのでそれ以上読まずに戻してしまった。ただ、もっとも、この香山リカという人は、よくネットで、ほとんどわざと不用意な発言をして炎上している光景を通して知っているのだけど、僕にはけっこう共感することが多い人なのである。ただ、自分と似たネガティブなノリがあるせいで敬遠したくもなる。というか、この人自身が一番「病気」にも見えたりする。一度、ずいぶん昔、職場の講演会で見たことがあるのだけど、その印象は、精神を病んでいる精神科医、みたいな感じを受けた。

さて、さっきのスピリチュアルの本を読んで、スピリチュアルについて何か学ぶところがあったわけじゃなかったのだけど、図書館を出て、ふたたび自転車でノロノロと走りながら、スピリチュアルについて少し考えた。

そうだ、いま思い出したけど、図書館を出た時間が夕方の5時。あたりはすっかり夏で、5時でもまだ日が照ってそこそこ暑く、日曜日で翌日が祭日のせいもあったのか、あたりにいる人々はみなのんびりしているように見え、それで、なぜだか分からないけど、自転車を走らせ始めてすぐに、久しぶりに多幸感のようなものが数分間ほど続いた。なぜだったのだろう。スピリチュアルの本を読んだからか? 実は、ここしばらく自分は生活のことでけっこう悩んでいて、心が休まることがあまりなかったのだ。でも、少なくともこの数分間は、「人生は確かに大変だけど、生きることは本当は楽なことなんだ」みたいな感覚が続いて、しばし癒された気持ちになった。ただ、こういうのはそれほど持続しないもので、しばらくしたら平静に戻ってしまった。

さて、僕のスピリチュアルに対する態度は「つきもせず、離れもせず」、なのだけど、いわゆる精神世界と呼ばれる存在に疑いを持ったことは一度もない。念力でも、予知でも、幽霊でも、霊界でも、占いでもなんでも、そういうものは素朴に信じている。信じているので、「解明しよう」という気は逆に起きない。現在の科学を使ってそれらの精神世界を解明したり批判したり否定したり、あるいは証明しようとしたりすることについてはほとんど興味がない。信じれば、十分だという態度である。この話は、また別の話になってしまうが、この現代、「科学」というものが巷に蔓延した一番重症な迷信だと感じることが多い。科学と、その科学が対象とする狭い事実というものに囚われている人たちがあまりに多いように感じたりする。僕は元来が理科系なので、科学についてはその適用範囲を自分の中ではっきり決めていて、その範囲から外れるものについて科学を判断根拠にできないことについて、これを感覚的に納得している。

まあ、それは置いておき、自分のスピリチュアルへの態度はごく素朴なものだ、と言うことである。ただ、信じているのになぜ近寄ろうとしないかであるが、それは単純な理由で、近寄り過ぎると危険に思えるからである。

少し前、知人に、たまたま、林さんこれ面白いから読んでみる? と言われ、「バシャール」の本を借りて読んだことがある。ここでバシャールは何かというと、バシャールはチャネリングで現代に現れた宇宙存在で、何百年だか未来の生命がアメリカのなんとかいう人にチャネリングして、さまざまなスピリチュアル的なことを語るというものである。このバシャールの言葉を読んで、それなりにびっくりしたのだが、自分にはその大半が素直に納得できる言葉だったのである。言葉そのものは典型的なスピリチュアル系な内容の連続で、現代で言うとかなり非科学的なものだらけなのだけど、まるで普通に理解できる。

実は、僕は、このとき初めてスピリチュアル系の読みものを読んだのだけど、自分が努めて近寄らないようにしていた当のスピリチュアルは、自分がふつうに常識としているものとほとんど一致していたのであった。やはり、そうだったか。でも、それ以降、それ以上に近づこうとは思わなかった。元の自分に戻り、つかず離れずを保っている。しかし、なぜ、自分は近寄ることを危険だと思うのだろう。

まあ、これは単純に、オウム真理教やら幸福の科学やらの新興宗教系と時々は区別がつかなくなる、というのもある。ただ、そういうことよりも、自分としてはスピリチュアルな命題というのは、実際に目の前に広がるこのごちゃごちゃして混沌と混乱の極みの実世界で右往左往して苦労した挙句に、自分の中で、自分で見出してゆくべきものだ、という意識があまりに強いせいかもしれない。この辺のノリは、これはやはり僕はドストエフスキーから習ったのである。かの罪と罰のラスコーリニコフにならないといけない、と思っているらしい。

主人公のラスコーリニコフは、最後の最後のスピリチュアル命題を手に入れるために、その冒頭で、さんざん逡巡しながらも偶然に導かれ、結局、金貸しの老婆の頭に斧を振り下ろす。斧を打ち下ろすまでは夢遊病者のようだったが、打ち下ろした途端に現実的な力が内部から起こってくる。あそこが、彼の一回目の覚醒なのだけど、それから後、果てしなく続く混沌と混乱に向けて、現実的な一歩を踏み出すわけだ。そして、延々と続く拷問のような生活の苦痛を経て、最後の最後、ようやくスピリチュアル的なものを彼は悟るのだが、罪と罰という小説には、その最後に彼が苦痛と引き換えで手に入れた命題を、命題としてはっきり書かない。それは、言葉に書いてしまうにはきっとあまりに単純なものだからだろうと思う。

思うに、スピリチュアルな命題というのは、それを言葉にして発しただけでは、あまりに当たり前で、その言葉自体にさしたる意味があるように思われない。なのでその命題は言葉でできているのではなく、「光」のようなものなのだと思う。その光を自身の人生で生かすのは、めいめいの人間の方で、言葉でどうなるものでもないのだ。その光を理解する方法にはきっといくつかの道があるのだと思うが、僕の取った道は上述のようなドストエフスキーから習ったラスコーリニコフの道だ、と言える。そして、それ以外の道には、きっとたとえば、信頼できる人に師事する、とか、瞑想を習得する、とか、あるいは無条件にすがってみる、とかがあるのだろうと思う。

スピリチュアルの本を読んでいると、この「師」というのがけっこう出てくる。「グル」というものだろうか。先のチャネリングで交信してくるバシャールもそうだ。そういう具体的な「存在」に一発でやられ、それに従って行く、という道はとてもよく出てくるスピリチュアル系の事例であろう。ただ、これは原理的にやり方が怪しい新興宗教の場合と似ているので、どうも本物と偽物の区別を疑ってしまう。それに、たぶん、本物と偽物という二元論で片付かない事情もきっとあるはずだ。あれは本物、これは偽物、とはっきり区別して安心していられる人は幸いだ。しかしもっと近くに寄って観察すればそういうはっきりした区別はできないことが分かるはずだ。だからこそああいう新興宗教は余計に厄介だ。

ただ、さっきスピリチュアルに近寄るのに危険を感じるというのは、そういう「師」という具体的に現実に生きている人間がいる限り、本物か偽物かという問題が起こらざるを得ないことに対する警戒とも言えるかもしれない。いや、さっき本物偽物という二元論は浅薄だと言ったばかりだからそう言ってはあまりうまくない。それより、「師と自分」という現実の人間関係的なものが入ってきてしまうのが厄介だと思っているのかもしれない。

だんだん何を言っているか分からなくなってきたが、自転車を走らせながら、もう一つ考えたことは、自分がスピリチュアル的影響を受けるものについては、すべて既に死んだ人間であり、過去の事だ、ということであった。

さっきのドストエフスキーでも、僕を絵画の道に導いてくれたゴッホにしても、なみいる黒人ブルースマンにしても、そのほとんどが死んだ人だ。加えて、歴史を経てその評価が確定した人や、その仕事ばかりだ。いわば「古典」しか信じないとも言えるかもしれない。ある意味、このやり方は失敗することがほとんどないので、お気楽で、ちょっとずるいやり方かもしれない。現実に生きている師や、その教義などを自身で選んで耳を傾けるという場合、その結果、その当のものが「外れ」な場合もあるが、歴史的評価が確定したものについては、その心配がまず、ない。さっきの本物偽物で言えば、その判定は歴史任せということだ。

どちらにしても、僕がドストエフスキーやゴッホから受けた多大な影響は、その一番重要な部分はまったくスピリチュアル的だと言える。なぜスピリチュアル的であるかは、今まで色んなところでいくらか書いているし、もう長くなったのでまた今度ということにしよう。

というわけで休日の自転車散歩で考えたスピリチュアルのことについて書き飛ばした。自転車散歩の最後の方では、僕が影響を受けたドストエフスキーやゴッホのことをあれこれ思い出しながら、駒沢通りを目黒へ向かい、さて、通り沿いの串カツ屋の前で自転車を止め、ホッピーを注文して一息。気持ちのいい休日の夕方だ。その後、あちこちへ行って、いろんな仲間とお酒を飲み、夜遅く帰ってきて、そして翌日の祭日、いまこれを書いているというわけだ。本当は、もうちょっとスピリチュアルの「内容」について書きたかったが、それはまた今度。

 

自分はこうしていまブログを書いているが、実はそのほかにも色々ごちゃごちゃとネット活動をしている。MixiとFacebookで知り合いと交流し、Twitterに書き飛ばし、COOKPADでは人気レシピ投稿人として活躍し、ホームページには、またやたらと文章、そして演奏動画に音源にタブ譜を公開し、真空管アンプ製作関係ではコミュニティ的なものも持っているし、われながら相当にアクティブなネットワーク野郎である。

しかしながら、そのくせして、自分はいわゆる昨今の「ソーシャルネットワーク」というのがどうにも好きになれない。なぜだか深く考えたことがないのだけど、どうも気に入らない。しかし、なぜだろう。

ところで今日は土曜日。奥さんが用事で実家へ一泊で出かけてしまったので空き時間がたくさんあり、たまには外へ出て陽の光にでも当たるか、と思い自転車でずっとぶらぶら散歩してきた。さいわい今日は梅雨のなか日でそれほど暑くもなくいい陽気だった。世田谷から海の方角へ向かい、ほどなくして蒲田へ、そして多摩川沿いの六郷あたりをうろうろしながら、漫然とこのソーシャルネットワークのことを考えていた。

さて、どうだろう、なぜ自分はソーシャルネットワークを嫌いだと思うんだろう。実は、ある日ツイッターで「ソーシャルネットワークが嫌いだ」とか発言し、その後しばらくしてFacebookのタイムラインでSさんの発言を発見し、それで自分のソーシャルネットワーク嫌いの理由が分かったように思った。Sさんによれば、個人、近親、そしてごく近しい関係の人、友人、知人という自分のすぐ周辺の人々の、それより向こうにいる人々をソーシャルというのだ、とのこと。少しだけ知っていて、向こうも少しだけ自分を知っている、そんな淡い絆こそソーシャルの真髄、と言う。

これには、なるほど、と思った。それで、自分がソーシャルネットワークがどうも気に入らない理由が分かるような気がした。自分はこれまで、物事をやたらと自分に近づけて考える癖があり、結局は合いまみえるほどに関わり合い、果ては混乱に向かう傾向があった。自分に切実に迫って来るものだけと関わり、それ以外の中途半端なものはまったくどうでもいいこととして顧みることもしなかった。最も切実なものについては関わりが激しすぎ、その結果、適度な着地点というのが見つけられず、どんどん上へ昇るか、あるいはどんどん下へ降りるかであり、果ては、思想や哲学や、個人の理念やらそんな大仰なところへ突き進んでしまう。

この性格は、生まれつきもあったとは思うが、僕が大学生のときに多大な影響を受けたドストエフスキーに拠るところが大きいと自分では思っている。もっとも、自分の性格がドストエフスキー的だから彼に惹かれたのか、彼に夢中になったせいでドストエフスキー的性格になったか、どっちなのだかいまだに分からない。あと、ここで言っているドストエフスキー的なものとは、多分に個人的なものである。彼のような大作家、大思想家になるとその姿とその影響力は多岐に渡るもので、僕のドストエフスキー観はそのひとつに過ぎないことを断っておく。

自分が考えるに、僕が夢中になった彼の後年の長編群の中に出てくるたくさんの人間たちは、みな、自身の天性に恐ろしく正直であり、その天性に沿って脇目も振らず全力で行動しており、それゆえの衝突が至る所で起こり、しばしばそこらじゅうで度を越すせいで、ほとんど幻想的に感じられるほどに紛糾した世界が形造られている。小説では、いわゆる淡い絆の元に行動している人間がいるように思えない。実際、あんなにひどい直接交渉だけで社会が出来上がっているはずはないのだけど、彼の小説の世界ではその爆発に告ぐ爆発、破裂に告ぐ破裂がそこらじゅうで起こっていて、それが世界を成立させているように自分には感じられるのである。

こういう世界観に若い自分は完全にやられてしまい、今に至る、である。ついでに言うと、黒人ブルースに夢中だったのも同じような理由だったかもしれない。いきおい、若い自分はずいぶんと食えないヤツであり、むやみにシリアスであり、半端なことを言う連中を捕まえてはしょっちゅう食ってかかっていたのである。今思うときわめて傍迷惑だったと思う。

そんな自分が、いわゆる社会の「淡い絆」というのを軽視するのはごく自然なことで、そのせいでその淡い絆を表すソーシャルネットワークというものを毛嫌いしていたのかもしれないな、と気づいたのである。

しかしながら、SさんのFacebookのコメントに、Sさんの知り合いのMさんという方が、こんなことを書いていた。

「ドストエフスキーの「罪と罰」のエピローグには、主人公が「ソーシャル(他者に対する信頼ネットワーク)」が失われた未来社会の悪夢を見るシーンがあります。私は逆にドストエフスキーは、共産化前のロシアの外に拡がる新しい「ソーシャル」を想像はしたものの、見えないまま、求め続けた予見者じゃないのかと思っています」

これには、なるほど、と思わず唸った。そうだったか、ラスコーリニコフがあの罪と罰という長い小説で戦っていたのは目に見えぬソーシャルであったか。彼は自分を水のように支えてくれるソーシャルをどうしても認めようとしないのである。そのくせしてそのソーシャルに自分の全感覚が有無を言わすせず従わざるを得ないことを至るところで思い知らされる。しかし彼は、自身の総力を挙げて、一徹に頑固に、いかなることがあってもそれを、「理解しない」ことを決め込んでいる。なぜ作者はあそこまでして、ラスコーリニコフをソーシャルと戦わせないといけなかったんだろう。

社会の人々を水のように支えるソーシャルが成立する、その成立史には数多くの悲惨な犠牲と、長い長い苦悩の連続があった、ということを描写しているようにも思える。ラスコーリニコフという若者は、その血塗られた歴史をなぞって、自ら歩き直さないと気がすまないように見える。奇妙なことに、彼の本能はことごとく彼をソーシャルに沿って行動させるのである。しかし、彼の理性はそれを決して認めようとしない。

ラスコーリニコフは、結局、最後のエピローグでソーニャに対して自分の罪を悟るのであるが、その描写もとても微妙だ。まるで、反射的に発作的に転向したように書かれていて、本当に理解したように見えない。というか、作者も、「ラスコーリニコフはいま初めて彼が拒み続けていたものを理解したのだが、彼の長い更生の物語はこれから始まるのだ」、として小説を終わっている。

小林秀雄によれば、この更生したラスコーリニコフがシベリアから返って来たのが「白痴」のムイシュキン公爵だ、ということになる。これは、卓見だと思う。

さて、ドストエフスキーはこれぐらいにして元に戻るけれど、ソーシャルネットワークが嫌いな自分は、そういう人との「淡い関係」というものを嫌っていたようである。

いま自分は53歳だが、実は現在の自分を省みてみると、前述のような他人とあまりに距離を近くに取り、その直接交渉だけを重要視する態度は、今ではぜんぜん無いことを自覚している。年月がたち、いつの間にか自分は変わってしまったのである。人に食ってかかることはほとんど無くなった。それどころか、他人と極力適度な距離を置き、傍若無人な行いは自分もしないし、他人にも許さないような、そういう風な人づきあいに変化したのである。

なので、今の自分は、「淡い絆」を嫌う理由は実はどこにもない。いわば、今では自分は、自分の周りじゅうのほとんどの人を、先のSさんの定義で言うところのソーシャル的なものとして扱っている。ソーシャルが嫌いだなんて言いながら、冒頭に書いたようにあらゆるソーシャル的活動をしている自分は、今や自分がすでにソーシャル的な活動しかやっていないことを知っている。それにしても、いったい、これで、いいのだろうか。

さて、以上のようなことを漠然と考えながら、六郷をさらに海の方角に向かって適当に走っていたら、いつの間にか羽田まで来ていた。少し行ったらもうそこは羽田空港だ。すぐに視界が開け、空港の広大な空間が目の前に現れた。空港の入り口の道に見覚えがある。むかしタクシーで空港へ向かったときに通ったんだっけ。

道の入り口の右横に大きな赤い鳥居がぽつんと立っていて、暇そうな人たちが何となく漠然とたむろしている。この鳥居には今まで気がつかなかったな。周りにはいろいろポスターやらなにやら貼ってあり、平和祈念がどうのといろいろ書いてある。鳥居の回りの空き地の向こうはすぐに海だ。空き地の海側のところに、車椅子に座った相当に歳な婆さんがじっと放心したように海を見ている。車椅子の横にいるのはたぶん息子さんだろう。この婆さん、なんだか生きる苦しみの途上でそのまま固まってしまったような辛い表情をして微動だにせず、痛々しくて見るに耐えない。

周りに貼ってあるポスターを少し読んでみると、この鳥居は、どうやらその昔、羽田空港を建設したときに立ち退いた村を記念するもののようである。いま調べてみたら羽田空港が開港してから80年以上が経っている。あの婆さんが元の村民とは考えられないけれど、ちらりと見たあの婆さんの顔は、なんだか海の向こうにまだ若かった自分が生活した古き良き土地を見ているように感じられた。いたたまれなくなり、すぐにその場を離れた。

ふたたび自転車であてもなくうろうろしながらあれこれ考えた。

あの殺伐とした羽田空港入り口の鳥居にたどり着くまではソーシャルネットワークについて考えていたのだが、空港を離れてからは、しきりに成功者と敗者、そしてその舞台となる社会について考えた。

自分の歳は、どうなのだろう、いわゆる団塊の世代より少し前、戦中世代よりだいぶ若い。団塊や戦中派の年寄りは、自分が言うのはなんだけど、本当に元気だと思う。なんだかんだで彼らは戦いを経て生き延びて来た人々なのだ。社会で成功した人もいれば、敗者も、いる。成功した人は自らの成功体験の元に、さらに先の成功を求める人が多いように見える。逆に敗者というのは言いすぎだとしても、社会的成功まで行かなかった人は歳を取って一人になり、今度は一種の敗者の矜持をもって堂々と生きている。さいきん、自分には、成功者であろうと失敗者であろうと、そういう彼らのプライドがときに発揮されると、それが鬱陶しくて仕方ないように思うようになった。勝つか負けるか、成功者になるか敗者で終わるか、悠々自適でゴールするか生活に汲々としながら死を待つか、という二択を思わせるような年寄りの言動を見聞きするのが嫌になってきたのである。

とはいえ、自分は世代的に言っても性格的に言っても、それら二択な根性の持ち主なのである。嫌になった、というのは、ほとんど自分のそういう根性が嫌になったということでもある。今のところ、自分はかろうじて社会から脱落しないように生きることが出来ているが、それはやはり自分の元来の負けず嫌いの根性が何とかして自分を支えているからである。

しかし、自分ではそんな厄介な努力をしながらも、そんな二択じゃない社会生活の形がどこかに、あるはずだ、とずっと思っている。そして、きっと、成功と失敗という戦いに支えられた社会に限界がやってきて、層変化を起こすはずだと信じている。未来の社会はきっとそんな弱肉強食な食い合いの世界ではなくなるはずだ。何か別の世界が広がっているはずだ。そんなことを、21世紀に入ってここ10年の間、めまぐるしい情報社会の一員として生きていると、そこはかとなく、根拠なく、しかしほとんど肌感覚で感じるのである。

信頼に支えられた、決して多数ではない、少人数の村のようなものを単位として、その中で生活できるようになる気もするし、そうじゃないかもしれないし、分からないのだけど、未来に何かが待っているように思える。そんなときに、ソーシャルネットワークという考え方は、やはり主流な存在になることは間違いなさそうだ。僕たちを水のように支えるソーシャルの存在、戦わなくても生きることができる賢さを備えた強靭なネットワークが、形成される日がいつか来るんじゃないだろうか。

自分が、いつの間にか、嫌いだなんだと言いながらもソーシャルネットワークの世界にきっちり関わって、飽きずに活動しているというのは、どうやら自分の本能的な要請のような気がしている。自分の本能はそっちを向いているみたいなのだ。しかしながら、古い自分の根性の方があまりそれを認めたがらないようで、いまだにソーシャル嫌いとか言っている。もっとも僕が嫌いなのは、ソーシャルネットワークを分析して、その結果を使って闘争に勝って無駄な大儲けをしようとしている輩たちのことなのかもしれない。ソーシャルは、現在の勝ち負けの社会を脱却するキーになる考え方であって、そういう理念はおそらくインターネットが発明されたときにすでに種子として持っていた核となる思想なのだと思っている。

すでにずいぶん長くなったので、その手の批判についてはまた別の機会ということにしよう。

さて、以上のごとくのことを、羽田空港を離れてから考えていたのだが、そうこうしているうちに、多摩川の土手にたどり着いた。あとは川沿いの一直線なサイクリングロードをひたすら飛ばすだけだ。そのときには、すでにそれら面倒な考え事はすべて忘れ去り、多摩川の自然や、広い空、そして点々とあるホームレス小屋などを呆然と眺めながら、家路についた。

さいきん、文章をツイッターでぶつ切りで書くことが多くなり、まとまった文章を書くことが減った。ツイッターの140文字の制限はなかなかすばらしい発明だと思うけど、やはり、感覚的な、文体中心の表現になるので、いつしかそういう形式に向いたことばかりを書くようになるのは当然で、逆に、それに向かない話題はやはり少しは長い文で表現しないと無理だ。長文を書くのはそれなりに大変なのだけど、それにしてもいいかげん書き始めようか、と思い、このブログをリニューアル再開した。

じっさい、いろいろ書きたいことはあるんだけど、中でも、その内容が重過ぎてなかなか書き出せない話題がいくつかある。今日は、重い腰を上げてそれについて書こうかと思ったけど、いざ始めようとするとくじける。さて、何の話題のことを言っているかというと、それは「死刑」についてである。

でも、まあ、せっかく書こうと思い立ったのだから書き始めることにしよう。しかし、ここで持論を丁寧に辛抱強く論ずるのは、やはり大変なので止めておき、自分のスタンスと、それからそのスタンスに至った過去の思い出などについて書いておこうかなと思う。つまり、自分がこれまで死刑の問題というものにどんな風にかかわってきたか、その周辺を随筆風に書いておこうというわけだ。

まず自分のスタンスを先に言っておくと、僕は死刑制度には反対である。これが自分の立場だ。

僕が死刑について考え始めたのは大学生のころだ。その発端は、非常に単純なもので、ドストエフスキーの「白痴」という小説を読んだことからだった。大学生のころというと今から30年以上前のことになる。当時は、まだ学生たちが社会問題を活発に論じ合う雰囲気が残っていたころだ。ちょうど学生運動が収束しかけたころに自分は大学生だったので、当時の大学にはまだ「革命」という文字が入った立て看板があちこちにあり、それ系のビラもしきりに配られていた。そんな中でご多分に漏れず僕も社会問題に興味を持っていたかというと、実はそれは全く、無い。自分はそのころから社会問題にはきわめて疎く、興味を持つことができなかった。そしてそれはいまだに続いている。そういうわけなので、死刑のことについても、それを社会問題として考えることは自分にはなかった。

一方、大学生になって自分はドストエフスキーの小説に出会い、特に、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」の4つの分厚い長編小説については繰り返し繰り返し読みふけっていた。よく知られているように、ドストエフスキーは、まだ若いころ当時の革命グループの地下組織に属し革命運動に参加していたことがあり、それがあるときに当局にばれ、たいした裁判もなされぬまま死刑宣告を受け、刑場まで連れてゆかれ、処刑寸前で皇帝の恩赦が降り、懲役に減刑される、という経験をしている。その強烈な経験はドストエフスキーの思想に大きな影響を及ぼしたらしい、当然であろう。そして、彼は「白痴」の主人公のムイシュキン公爵の口を借りて、死刑囚と処刑についての物語を語らせる。

若い僕は、このムイシュキン公爵の展開する物語に強い印象を受け、彼の主張をそのまま受け入れた。彼の説は、死刑というのは人間が人間に対して行う最大限の暴力であり、それは当の罪人が犯した殺人や虐殺よりもさらに一段上の罪である、というものだった。大好きな作家の作り出した、大好きな主人公がそう言うのだから、僕も素直にそれを正しいと信じた。これはいわばヒューマニズムに立った死刑反対論といえるものだ。ここでちょっと補足しておくと、では、殺された被害者とその親族に対するヒューマニズムはどうなるのか、と言うと、ムイシュキンはこんな風に言う。殺される人間は、自分が殺される直前まで助かるなんらかの可能性を残しているものだ。しかし、死刑というのは100パーセント確実に時間を指定されて殺される、というところに限りない残虐さがある、という。これは、間違いなく、作家のその人の体験を基にした考え方だと言えると思う。

さて、これが自分の死刑問題に関する出発点だった。その後、時間がたち、いろいろな人とそんな死刑の話しも含めて議論をしているうちに、僕は僕なりのスタンスを作っていった。当時、大学生だったころの自分は、ずいぶんとシリアスな人間でもあり、酒を飲んじゃあ周りの人間とああでもないこうでもないとシリアスな問題について口論していた。議論というよりは口論なのである。いま思うと誰も議論なんかしていなかったかもしれない。「議論」というのは論理のドメインを限って勝ち負けを決めるもので、善悪を決定するための方法ではない。当時の言い合いは、ドメインを限るなどというルールなど端から存在せず、最初の土俵からはすぐに転落し、場外乱闘に近い、広がるだけ広がった場で言い合いをしていただけで、互いにひたすら自説を主張し合っていたのに過ぎなかったような気がする。

そうこうしているうちに自分は社会人になるが、社会人になってからの僕の死刑に対する主張はこんな風に形を変えた。

現行の日本の死刑制度には反対。ただし、死刑を完全公開制にし、むかしのようにみなが見に行き、あるいは今風であればテレビ中継をして、完全に国民に開かれておりかつ国民めいめいがなんらかの形で立ち会う死刑ならば、賛成。あるいはこれは実現は不可能だと思うが、昔のようなあだ討ちが合法的に行え、被害者の近しい人が加害者を処刑するのなら、それも賛成。

いったい、何がきっかけでこのように考えが変わったかはっきり思い出せない。ただ、ムイシュキン公爵が主張するヒューマニズムの立場からの死刑反対についてはどうやらそぎ落とされてしまっていることが分かる。つまり、人間が人間に対し100パーセントの確実さを持って死を宣告し殺すことについては「かまわない」と言っているわけだから。ムイシュキン公爵の説は、やはり自分の生来の感覚にはなじまなかったと見える。ちなみにこの公爵の死刑に関する演説は、いま読んでもとても面白くて魅力的なので、読んだことがない人は読んでみるといいと思う。小説「白痴」のごく最初の方、第一編の2節と5節あたりで、ペテルブルグに着いたばかりの公爵がエパンチン家のサロンに突然現れて皆の前で長々と話をする場面に出てくる。

さて、そのころの自分にとって死刑の何が許せなかったかというと、それは明快である。それは「死刑を実行する主体」が明確でない、というところに尽きた。死刑は国の制度であり、現在、日本国は民主主義制度に基づいて成立運営しているので、国が実行することは国民の総意によるもの、ということになっている。すなわち死刑を実行する主体は国民である。それなのに、当時、刑が決定した後、いつ、どこで、誰が、死刑にされたかどうかすら国民には知らされない。国による処刑は、どこか分からないところでこっそり執行されている。仮にも人一人の命を落とすことについて、そんな秘密裏にやることは許されるべきではない、と考えたのである。

もうちょっとダイレクトに言うと、死刑は国家による合法的な殺人である。その殺人の是非については問わないが、国民1人1人が、手を下してその殺人を行っているということを、皆が責任を持って意識してはじめて、その殺人は意味として成立するのである。殺人者という社会の邪魔者が出たとき、それを皆で特定だけして、後は死刑執行人に汚れ役だけやらせて殺させて、当の国民めいめいはのうのうと何事もなかったように生きているとは何という不健全さ、そして欺瞞か、と思っていたのである。だから、死刑の現場を公開にして、国民みながそれに立ち会うことで、合法的な殺人の意味を常にみなで支えていないといけない、と考えたのだ。

ここまで来ると、実は、先のムイシュキン公爵の説のいくらかは自分にも残っていた、と思えないこともない。というのは、国が国民の総意に基づいて行う行為は恐ろしく多岐に渡り、その中には死刑ほどでなくとも、かなり汚れ処理に近いものもあるはずだから。それらについては触れずに、ただ死刑だけを取り出して主張するということは、やはり「死刑」というものを何か「特別なもの」と考えているということだ。そこにはムイシュキン公爵の影響が色濃く出ていて、すなわち、死刑という行為は人間が人間に対して行う行為の中で最も特別な、残酷な行為である、と考えている。同じような国家の合法的殺人には「戦争」というものがあるが、それよりもはるかに残虐な行為と位置づけているのである。

思い出すがその昔、「ジャンク」という名前の残酷ドキュメンタリー映画が流行ったことがあった。僕は見なかったが、トレーラだけは見た。その中に、アメリカの凶悪犯が電気椅子で処刑されるところを映した場面があった。体格のいい毛むくじゃらな大男が目隠しをされ電気椅子に固定されているところを正面と横から映している。あと何秒かでスイッチが入り通電し死にいたることを彼は確実に100パーセント知っている。その屈強な大男は額にだらだらと汗を流し、大きく肩で息をしていた。この映像は当時の自分にはショックで、耐えられないものだった。恐らく残酷な殺人現場というのはこういうもので、そういったものは普通は公には見られないものだろうが、死刑の映像はこのように公になる。そして普通の殺人は殺人者が加害者だが、この死刑については「我々国民」が行為者ということになる。

死刑制度が民主主義の下で存続しているからには死刑は合法的な行為であり、通常の殺人とはそこが決定的に異なっている。しかし、殺人という意味では同じだ。このジャンクという映画のこのシーンはそれを端的に示していた。(原注:その後、この映画はやらせだと判明したそうだが、それでも別に趣旨に影響はない)

以上のように考えていた30歳前後のころの自分は、ずいぶんいろいろな人とこの死刑について口論した覚えがある。どこぞの飲み会の三次会ぐらいの夜半過ぎに、そのとき初めて話す人と飲み屋で酔っ払って口論したことを覚えている。その人は僕より年上だったが、この死刑に関する僕の説を聞き、林君の言うことはすべて間違っている、と言われた。その人は、被害者と被害者の家族について言い、何であろうと正義はこの場合国の方にあり、処刑される犯罪者に正義は無いのだから、被害者側の心情を考えれば処刑されて当然であり、そしてそれにつき我々が処刑が当然と考えている限り、それを民主国家である国が代行することについてなんらの問題もない、という風に言っていたと思う。当然、僕は、それは問題の局面が違うとか何とか言って一晩中噛み付いていた。

さて、そんな30代が過ぎてから、自分はもうそういった社会問題に関することについて口論するのはほとんど止めてしまった。面倒くさくなったのである。と、同時に、40代になってプライベートライフが劇的に変わるということが起こり、そっちが忙しく、社会問題どころじゃなくなったというのもある。50代になった今でも社会問題にはあまり口出ししない。この再開したブログで、今回を含め、いくらかは書いているが、ずいぶん穏当に書いているつもりである。昔はもっとずっとずっと過激で、傍若無人で、血が熱かったのである。

では大人になって、社会経験を積んで、人間関係で苦労して、その考え方が変わったかというと、僕の場合、そんなことは全く無い。そういう意味では、自分は大人になって意見が「穏当な方向に変わる」というのはあまり無さそうだ。やはり基本的な自分の考え方は若いころに出来上がっていて、それを発展させながら今に至るのである。したがって、死刑に関する自分の考え方も30代からほぼ変わってはおらず、冒頭で言ったように死刑制度反対の立場である。ただ、いま現在、死刑制度反対な理由を述べよ、とオフィシャルに言われたら、もう少し現実的な理由をいくつかあげるとは思う。国際社会の趨勢では死刑制度はマイノリティであるとか、死刑による犯罪抑止効果はほとんど無いとか、冤罪の問題とか、などなどである。総合的に考えて死刑制度は廃止するべきではないですか、と穏当に言うであろう。

しかし、自分の心の奥では、どうか。

今の自分にとって、なんと言っても気持ちが悪いのが、日本の国民意識調査で死刑制度支持が85パーセントを超えているという事実である。85%というのはすごい数で、ほとんどの日本人が賛成、と言ってもいい数字であろう。さらに最近、陪審員制度が導入され一般市民が判決を下すにつき極刑判決が増えているとも聞く。さらに法相の執行拒否による事実上の死刑なしの状態については、法相を非難する国民の声が増えているとも聞く。これら日本の死刑賛成の声は大半が被害者感情を重要視するところから来ているように思える。結局は「目には目を」の感覚なのであろうか。社会全体を改善しようとするよりも、余計なよそ者を排除することを真っ先に考えるのであろうか。僕の感覚では、戦争という合法殺人の延長に死刑というものを置いているようにも見える。結局は、やられたからやり返す、あるいは、やられる前にやる、という戦争の基本と同じだ。死刑についてもそう考えているからこそ、自分たちが手を下さずとも、遠く離れたところで国民の総意そして法律に基づいた悪人の排除、つまり死刑という殺人が行われていても自分たちの良心は安らかなのであろうか。

被害者感情を想像するのに「想像力」と呼ばれる能力はほとんど必要ない。なぜなら自分がいて、自分の大切な人がいて、その中で自分が生活している以上、それを突然侵害されることを想像することはほとんど感情的にできることでなんらの努力も必要としない。自分の大切な人が殺されたときのことを想像すればほとんど条件反射のように心身が反応するから、情景を想像すればすぐに分かることだ。それに対して、殺人者の感情、そして死刑の判決を受けて処刑を待っている罪人の感情を想像するのには、多大な「想像力」が必要だ。一般人は、自分が殺人者になる、ということを考えたことも無いから、そんなことは「考えられない」の一言で大半は終わってしまう。しかし、それは、余計な想像力であろうか。たかだか小説家や思想家といった少数の人間の職業に必要なものに過ぎないであろうか。しかし、そういう卑近なものから遠く超えた想像力を皆が持てるようになることこそ、民主主義社会の完成と発展にとって重要なことではないのか。そう考えることは論理の飛躍だろうか。民主主義の完成などどうでもいいことであろうか。でも、民主主義は、国民の大多数の総意であれば何をしてもいい、という主義では無い、ということをちゃんと理解しているのだろうか。

僕のこの死刑反対の態度の元になったのがドストエフスキーの小説だった、とは最初に書いたが、ロシア人の彼はキリスト教的なものを奥深く持った人間として、人と人との関係を徹底的に、グロテスクに至るまで追及した人だ。僕も多感な若いころに、ドストエフスキーを通してそのキリスト教的なものに深く影響を受けている。ひょっとすると、そういうものなのであろうか。

さて、書いているとだんだん熱くなってくるが、これぐらいにしておこう。これまでずっとこの件について自分の立場をはっきりさせて表明しておきたかったので、まずはそれができて、よかった。

さっき、夏目漱石の「門」をぱらぱらめくっていたら、最初の方で、宗助が散歩に出かけ、切手と「敷島」を同じ店で買って手紙を出したあと、そのまま帰るのも面白くないんで

「咥え煙草の煙を秋の日にゆらつかせながら、ぶらぶらと歩いているうちに」

という文に出くわした。ところで先の「敷島」はその当時の煙草の銘柄である。これを読んでなんだか一気に明治に逆戻りするような気がした。当時は人通りもまばらで、往来は適当に汚れていて、煙草をふかしながら歩いて吸殻を道にもみ消しても、特段の問題はなかった時代だったのだろう。もっともそれならば明治まで戻る必要もなく、昭和のころもそんな感じだった。

僕はここしばらく、昭和初期の日本映画をよく見ることが続いたのだけど、当時の人がいかに煙草をやたらと吸っていたか見てあらためてびっくりする。なにかというと煙草に火をつけて、あたりが煙っている。当時は満員の通勤電車の中でも平気で煙草を吸っていたって、現代の朝の通勤電車で、エンジンの音だけが流れて皆が静まり返ってじっとしている車内から想像できるだろうか。しかし変われば変わるものだ。

思えば、僕が学校を出て就職した職場でも、当時は煙草を吸う人のめいめいのデスクには灰皿があって、仕事しながらふつうに煙草を吸っていた。打ち合わせの部屋はみなが煙草をやたらと吸うもんだからけっこう煙っていたものである。数えてみると今から20年ぐらい前はまだ、そうだったのだ。

それにしても、この煙草については本当に世の中変わった。しかも世界的に煙草を廃止する方向に動いているので、タバコ吸いにとっては、あらがいようがない現実である。もっとも日本でも外国でもまだ煙草はふつうに売っているし、けっこうな人が吸っているし、喫煙者は建物を始めいろいろなところから追い出されてはいるものの、喫煙所へ行けば、まだけっこうたむろしてはスパスパ吸って去って行く、という光景はなくなっていない。

冒頭の漱石の描写で、彼が往来に設置された灰皿で煙草をもみ消すはずもなく、当然のように道端にポイっと捨てて足でもみ消したはずであろう。いわゆる「吸殻のポイ捨て」である。現代では特に、煙草については、その存在自体が悪者扱いされているのも手伝って、吸殻ポイ捨て行為は二重に悪い行為に写る。知っての通り、ところによっては、警官に見られればその場で罰金まで取られる。吸殻はちっぽけで小さいので、ポイ捨て行為だけとると些細なことだと思うのだけど、煙草だけは特別のようである。

ところで僕はどうかと言うと、煙草は止めてはいないが今ではもうほとんど吸わなくなった。ただ、なんらかストレスな仕事をしたり、ライブバーで演奏したり、というときに限って、ごくたまに吸う。平均してならしてしまうと1日で1本を切ってしまうので、もう、「吸わない人」と言ってもいいかもしれない。

しかしときどきは、吸うのである。それで自分の喫煙マナーはあまりよくない。灰皿のあるところで吸うときはいいとして、外に出ていて煙草が吸いたくなると、まず周りを見回して喫煙所が運よくあればそこへ行って吸うが、たいていは見つからないので、人があんまりいない路地かなんかに入ってそこでプカプカやっている。で、吸殻はその場に捨ててもみ消すので、立派な吸殻ポイ捨て行為であり、見つかれば罰金ものというわけだ。

自分がそうなので、他人が吸殻ポイ捨てしていても何とも思わない。しかし実は、自分が吸殻ポイ捨てするときにはけっこう後ろめたさを感じながらやっている。道で煙草に火をつける段階からそれを感じるので、公共の場で煙草を吸うことについてもなんらか罪悪感を感じているようである。加えて最後に道にポイっと捨ててもみ消し放置するときは、喫煙にポイ捨てが加わってほぼ2倍の罪悪感というわけだ。そんなに後ろめたいなら吸わなきゃいいのに、と思うが、その時その場で吸いたいんだからしょうがない。

では、なんでそんな罪悪感を感じるか、というと僕の場合はわりとはっきりした理由があり、幼少のころ、死んだ親父に公共マナーについてこれでもかというほどうるさくしつけられたからである。まず、どんな小さいゴミであろうとゴミ箱以外の公共の場に捨てるのは絶対だめ。さらに、公共の場に落ちているゴミを見つけたら必ず拾ってゴミ箱に捨てること。この二つにつき、親父と一緒に外を歩いているときは必ず徹底されたのである。

幼少のしつけというのは怖いもので、その後、青年になり、多少のゴミなどは道にポイする若者ノリになったときでも、なかなかゴミを道に捨てられなかった。たかが道にポイっとするだけなのに、大げさで馬鹿げているが、けっこうな勇気を要する、という風であった。これがそのまま続いているわけで、したがってしつけから40年近くたった今でも、公共の場での喫煙と吸殻ポイ捨てについて罪悪感を感じるという始末である。

ところで今から20年ほど前、スペインのマドリッドへ旅行したとき、スペイン人たちのゴミのポイ捨てのすごさに感動したことがある。ゴミの大小を問わず、誰もが道や広場やそのへんに捨てるので、往来も広場もゴミだらけである。煙草に至ってはそんなちっぽけなものは屁でもないとばかりに、みな歩き煙草をして吸い終わるともみ消しもせずそのままポーンと往来に投げ捨てる。そしてさらにびっくりしたのが街にたくさんあるカフェのバール(BAR)である。食ったり飲んだりするところなのだが、出たゴミはすべて躊躇なく床に捨てる。なのでバールの床はゴミだらけで足の踏み場もない。で、定期的に店の人が掃いて捨てている。実は往来に散らばるゴミもそうで、いちおう定期的に清掃員のじいさんが掃いて捨てている。

このマドリッドは僕にとっての初めての海外で、このゴミに対する態度に、もうけっこう誇張でなく感動した。ゴミを道にポイ捨てするのに勇気がいるほど罪悪感を感じている僕は、スペイン人の、いい加減さ、おおらかさ、そしてある意味合理的な行動に、本当に感心したとともに、憧れたものである。しかしながら、日本に帰ってきてしまうと、スペインの習慣をそのまま持ち込めるわけもなく、元の自分に戻ってしまうのであった。

自分はスペインを皮切りとして、ヨーロッパ、アジア、アメリカと、かなりの回数、そしてかなりのたくさんの国へ出かけているのだが、自分が見た限り、このゴミのポイ捨てマナーについては日本が断トツにうるさく、そして徹底している。自分の経験からいえば世界一であろう。最近でこそ、いろんな国が日本に追い付いてきたが、たぶんいまだに日本は世界一公共の場がきれいな国だと思う。

そういえば、シンガポールではどんな小さいゴミであろうと往来に捨てたとたんに罰金であり、ガムを捨てただけで信じられないぐらいの金を取られるので、街は異様にきれいだ、と聞いたことがあった。これを聞いて、へーえ窮屈な国だな、と思ったものだったが、少し前に実際にシンガポールへ行ってみたら、道端にはふつうにゴミが落ちているし、歩き煙草で吸殻ポイ捨ての人がふつうにたくさんいて、なんだ、と拍子抜けしたことがある。たしかに法律は厳しいのだけど、みな、あまり厳格に守らないようなのである。

さて、以上、実はもっといくらでも話はあるのだが、このへんにしよう。

自分としては以上の経験から、日本を基準にせず世界を基準にすれば、ポイ捨てはまだまだふつうの行為なので、ポイ捨てなんて少しであれば別にいいんじゃないか? という態度である。さっき書いたマドリッドのやり方のように、みんなでポイ捨てして、それで定期的に掃除する方が、むしろ合理的なんじゃないかと考えたりする。

で、この前、ツイッターでなにげなく「ポイ捨てぐらい別にいいじゃん」とツイートしたら、さっそく知人からリプライがあり、ポイ捨てはダメ、とあり、そしてそういう行為は「社会に甘えている」と書いてあった。

実は、この「社会に甘えている」という言葉がものすごく新鮮だったのでこれを読んで思わず、うわー、っと反応してしまった。思えば自分はこの「社会に甘える」という考え方をずっと長い間忘れていた。ポイ捨ての是非について考えるとき、社会に甘えるという考え方をするということが自分には新しかったので、「皮肉ではなく、素直に、その考え方に感心しました」、とかなんとかリプライした。あと、この「ポイ捨てしている人は社会に甘えている」という考え方も、僕にも読んですぐに理解できた。なので自分も知ってはいたのだ。しかしながら改めて、なぜ「ポイ捨て行為は社会に甘えた行為」なのだろう。

自分の勝手で公共の場にポイ捨てし、捨てられたゴミについて自分は責任を持たず、しかも捨てられたゴミを社会の他の成員が見つけたときにすでに捨てた本人を特定できないので責任追及が不可能になる。つまり、捨てる人は、自身の責任放棄と、他人の責任追及から逃げる、という二重の悪いことをしているということなのだろうか。そして、ポイ捨てされたゴミが溜まれば最終的にどうしても処理しないといけないくなるので、誰かがその役を引き受けることになる。ポイ捨てしている人は、自分の属している社会の誰か他人にゴミを押しつけて自らは知らん顔をしている、という意味で「社会に甘えている」ということになるのだろうか。

「甘えている」というのは、主に子供に対して使う言葉だろうが、子供であれば、自分のやりたいことをやって何らか問題になっても「親がなんとかしてくれる」ということを「甘えている」と言うのであろう。なので社会に甘えているというのは、自分のエゴでなんか社会に問題を引き起こしても「社会がなんとかしてくれる」と考えることを言うのであろう。

自分はおそらくほぼ以上のように理解していたのだと思うので、「ポイ捨ては社会に甘えている」という発言を読んですぐ分かったのである。しかし、上述の理屈で本当に合っているかはどうもあんまり自信がない。というか、上述、歯切れが悪い。自分の不得意なことについて書いたり考えたりするとこうなるのであろう。

しかしながら、また冒頭の漱石の小説の時代のポイ捨て事情を思い出してみると、それでは当時の人たちが社会に甘えていたかというとそうでもない。昔の日本も、スペインも、あるいは他の国も、ポイ捨てのゴミは定期的に誰かが清掃して、それでうまく回っていたわけだ。それがうまく回っている限り、ポイ捨て行為は社会に甘えた行為である、ということにはなっていなかったということだろう。それでは、どこがその転換期になるのだろう。

いちばん端的な理由は、社会の人口がかつてよりずっと増え、さらに消費行為が増え、いわゆるゴミ自体の量が増加し、その結果、みなのポイ捨てのゴミが社会で処理しきれなくなるほど大量になってしまったということがあるだろう。最近だと、イタリアのナポリでこれが起こったそうで、ちょっと前聞いた話だと、ナポリの街は処理しきれないゴミの山であちこちがふさがって大変なことになっていたそうである。

このような極端に破局状態になると、もうポイ捨ての習慣もみなが自覚して止めない限り、収拾がつかなくなる。それが分かってもポイ捨てを止めない連中は、社会に甘えていることになるであろう。しかし、先の子供の例でもわかるように、子供が自分が親に甘えているのを自覚しないのと同じく、ポイ捨てを平気でする輩は自分が社会に甘えているなどという自覚は無いのがふつうで、他人や社会のことなど一切考えず、自分がやりたいようにやっているだけだろう。しかも、その人数はなかなか減らないだろう。結局のところ、社会はこの手の「社会に甘えている無自覚な輩」を一定数かかえていないといけないことになるだろう。

あともう一つは、ゴミの落ちていないクリーンな街を社会が望んでいる、というのもある。おそらく日本はこっちである。この場合、ポイ捨ての無い社会を望むわけだが、思うにこれは意外と説得力がない。たとえば僕のように、「オレは別に道にゴミが落ちててもいいよ」、という人々に対してどうやって説得すればいいか。これは、仕方ないので、あの手この手であろう。最近の東京で言えば、公共の場で煙草を吸って吸殻をポイ捨てすることがいかに「いけない行為」であるかということについて、次から次へとよくこれだけ思いつくもんだと思うぐらい理由を見つけて、それを一つ一つポスターにしてそこらじゅうに貼っている。たとえば、他人は煙を嫌がっている、煙草の火は700度、しかも歩き煙草の火は子供の背丈の位置にあり危険、吸殻は下水に入り込み詰まりを引き起こす原因、云々と、いくらでも出てくる。

さっき、「社会はこの手の社会に甘えている無自覚な輩を一定数かかえていないといけない」と書いたが、この厄介な輩は実はかなりたくさんいる。そして容易なことで数は減らない。なので社会の残りのメンバーは、この厄介な輩の面倒を見ることを強いられる。これは不公平だし、第一そんなやつらの面倒は見たくないし、それら厄介な輩が社会的責任を自覚する自分たちのようになってくれれば面倒は減るのに、自分たちに甘えていることを自覚することすらないのは何ということか、と不平はたくさんあるだろう。こういう事情は、ここで書いているポイ捨てに限ったことではなく、多岐に渡っていると思う。

というわけで、社会的責任を自覚している社会の上の方の人々は、この問題を処理するために(ここでは再びポイ捨てに話を限るが)、さまざまな理由を見つけ出して先の東京のポスターのように下の方の人々を啓蒙しようとする。ただこれらの理由はいずれも小粒であって、見ればなるほどと思うことではあるが、それほど大きな「社会的問題」には見えない。逆に小粒な身近な問題じゃないとそれらの輩には理解できないというのもある。したがって啓蒙には根気がいる。繰り返し繰り返し、いつでも同じような小粒な問題を次から次へと投げつけて、それを止めることなく続けていないといけない。

ここまで来ると、実は、さっきのナポリの問題と実は本質はあまり変わっていないことが分かる。やはり、結局は、ゴミが処理できなくなることを予想しているのであろう。ナポリのような惨憺たる状況になる前に手を打っている、とも言える。しかしながら、このような行動は「政治家の仕事」であって、われわれ一般市民の仕事と言えるだろうか。ゴミの量と処理可能な量を算定してそのバランスを見ながら事前にゴミをコントロールする計画を立て実行する、というのはこれはどうあっても政治の仕事である。

この政治家のやっている仕事の道筋をまとめると、「ポイ捨てが平気で、社会に甘えている輩が相当数いて、しかも容易に数が減らない」、「一方、その輩の面倒を見たくもないのに見ないといけない社会の上の方の人々の不満がある」、「困った輩たちを自分たちのところまで引き上げたいが無自覚な輩たちにそれを自覚させるのは至難の技」、「仕方ないからポイ捨てが悪な理由を大量に常に輩に投げつけ、少しでも全体を改善する」、「ただしその理由は馬鹿でもわかるぐらいの小粒なものにしないといけない」、「さらにしつこいぐらい繰り返し同じことを忠告しないといけない」、となり、なかなか煩雑な戦略である。もっともごく普通にどこでも行われている戦略でもある。

以上が政治家の仕事だが、この煩雑な仕事を、今度は政治家ではない市民の言葉に翻訳すると、それが、「クリーンな街を望む」ということになるのではないだろうか。

政治家から見ると、社会の上の方の多くを形作る良識層が「クリーンな街を望む」という一種の道徳的感覚のようなものを持ってくれることはとても重要なことで、仕事は格段にやりやすくなるはず。クリーンな街をみなが目指すことで、社会が自動的に自己組織して、浄化作用が働いて、特に厄介な繰り返し政策をしなくとも、面倒なゴミ問題が解決するならこんなにいいことはない。

こと日本におけるクリーンな街の実現については、以上の作戦がきわめてうまく働いていると思う。そして、僕の感覚だと、それを通り越して、「うまく行き過ぎている」のだ。というのは、自分には、日本の社会の良識層が、あまりに無自覚に、「クリーンな街は素晴らしい、日本が世界に誇れることだ」と感じていて、ときにそれが高じて「汚い国は醜い、民度が低くて劣っている」、というところに発展しがちなのが見えるからだ。

社会の感覚がここまで来てしまうと、そこにはどうしても「相互監視」の感覚が現れる。「クリーンな街を望む」という民意に反する人間に対して、国が警告するのではなく、市民が進んで警告するようになる。お互いが警告を発して、目に見えることから目に見えないことまで、反する人間に圧力をかけることが常態化する。大半の人は別に相互監視の社会に生きていても特段に窮屈さを感じないのだろうし、それによって自分たちの生活が厄介な輩に妨害されることなく快適に生活できるようになるわけだから、別にかまわないのだろう。

自分について言えば、僕は、そういう社会の良識層を常に疑っていて、自分は極力そうならないようにしている。しかしながら自分が属している層は明らかにその良識層の方で、ポイ捨てして平気な厄介な輩側ではない。前に書いたように煙草のポイ捨てていどでやましいと感じる自分が、厄介な輩側の仲間になれるはずがない。結局、自分の立ち位置はけっこう中途半端である。でも、それで構わない。

自分のような人間は、厄介な輩たちはそのままにして、むしろ、「無自覚にクリーンな街を望む」という良識層の人々を相手に、この文のようないい加減な屁理屈をこれからもずっと言い続けることになるのだろうなと、最近、思う。それを自分の社会での立ち位置にしよう、と思うのである。あまりに長くなってしまったが、この文では、本当は、「社会に属する個人は、その社会を擬人化したとき、それをどう見るか」みたいな話にしたかったのだけど、書いたらそうならなかった。それについては、またいつか。

前回、遠近法についてけっこう長々と書いたけど、ここではその周辺など。

昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない、だって見たまま描けばそうなるはずだから、という発言はどこがおかしいかについて、前回、くだくだと書いた。実際、この問題にはいろいろな切り口があるはずなんだけど、反応してくれた人たちからは、認知科学的な問題ですね、というコメントで、なるほどな、と思い、僕の文章も結局は認知科学的な展開になってしまったな、と感慨した。

ここでは、後日談というわけでもないのだけど、本当のところ、なんでこんな些細なことに自分がこだわるかについて書き足しておこうと思う。

僕の前の文は、たしかに認知科学的な、「みなが同じものを見ているかどうかの保証はない」、という論理展開になっているのだけど、実は僕はその手の認知科学的なことについてはそれほどこだわる者ではない。数年前、廣松渉という日本の哲学者の「新哲学入門」という新書に、たまたま古本屋で出会い、けっこう夢中で読み、そこに展開されていた従来認知科学の根本的間違いの指摘についてとても共感し、かつ、かなり新鮮な発見もし、不思議の感にも捕らわれた。

ただ、廣松渉に習ったことを、それほどの困難もなくほぼそのまま自分は納得したので(とはいえ、本人も断っているが、従来型の認知モデルの全否定なのでそうそう分かりやすいものではないのだが)、それで一応、人間の認知についてはそれ以上追及する気にならなかった。長くなるのでここで廣松渉の論を紹介はしない。自分は、この哲学者のこの論に出会うべくして出会ったんだな、と思ったのみだった。

というのは、僕は、特に視覚については、過去にとても切実な体験をしていて、自分にとってそれはとても大切な経験で、視覚をはじめとする人間の認知のメカニズムに関してはほとんどすべてその特異な個人的体験を元に判断できたからだ。そんなわけなので、遠近法に関するくだんの発言にも即反応したし、そして、廣松渉の説をさほど詮索せずともまるごと理解したのだった。

その体験とは何かというと、それは絵画との出会いである。

自分が絵画に出会ったのは、もうずいぶん前のことで、数えてみるとすでに25年以上も前になる。1985年に上野の西洋美術館で開催されたゴッホ展で見たものが、その出発だった。ゴッホの画布との出会いについては、これまた長い話で、ここで繰り返さないが、以前、雑文として書き綴ったものがあるので、紹介だけしておく。以下である。

http://hayashimasaki.net/zatubun/gogh.html

この体験は実際、強烈極まりないもので、こんな、まるで宗教で言うところの「開眼」みたいなことが平凡な自分にも起こるんだ、と、ほとんど訝しく思うぐらい物凄いものだった。この体験の後に、自分は膨大な西洋古典絵画の世界に入り込み、さらにさまざまな体験を重ねて今に至る。

そんなわけで、絵画というのは自分にとっては、ただの楽しみや、慰みや、好奇心とかいうものを遥かに超えたものだったのだ。もっとも、さすがあれから25年以上も経った今では、すでにだいぶ落ち着いているので、そんなに過激なものは無いのだけど、夢中だったさなかにはずいぶん極端に逆説的なことを言いまくったような覚えがある。

ちなみに、その入り口となった画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについては、出会った後、10年ぐらいの間、ひたすらその芸術を追及し、最終的にまとまった文章を書いて書籍として自費で出版した。自費なので、少数のごく近しい人たちが読んでくれただけで、それ以外に特段に何事も起らなかったが、自分はそれでもよかった。その本は、ゴッホが自分に与えてくれたものに対する感謝のしるしだったのだ。

ところで、最近、この本を電子化してフリーで置いておいたので、もし興味のある人はのぞいてみてください。下記です。

http://hayashimasaki.net/goghbook.html

さて、僕は前回の文で、「遠近法とはたくさんある絵画の手法の中の単なる一つに過ぎない」、と書いた。そしてその、「一つに過ぎないもの」をことさらに取り上げるのがおかしい、と書いた。このものの言い方はずいぶんと穏当なもので、特段はっきりした主張でもなんでもないのだけど、実は、自分の本心としては、もっとずっとずっと切実なものが背景にある。

それではよく知られたゴッホの絵をいくつか見てみよう。彼の絵は遠近法にだいたい沿って描かれている。しかし、ところどころ遠近法に反して描いていることもある、そして、たまには遠近法などまったく無視して描いていることもある。そういう意味では、ゴッホは、遠近法という手法を使うべきところで使い、使うべきでないところは使わない、という取捨選択で絵を描いているように見える。

しかしながら、実際に彼の絵の実物を見てみると、そこから立ち上がってくるオーラは、そんな、遠近法という手法を、使ったり使わなかったり、などといういわば呑気なものではないのだ。世の中で遠近法と呼ばれている手法は、ゴッホという画家が画布を塗るにあたって駆使する他のさまざまな手法や、計算や、衝動や、高揚や、そして、悪戦苦闘や、計算違いや、弛緩や、失敗やその他もろもろと一体になっていて切り離せないようなものになっている。そういうことが、もう塊のアマルガムのようになっていて、分離できないのだ。

いや、これではあまりよくないな。まるで、ゴッホが精神の高揚のあまりすべてをいっしょくたにして情熱の赴くままに画布を塗った、みたいに聞こえてしまう。

実は僕が彼から徹底的に学んだことは、絵はなんらかの創作の情熱をもって描かれたかもしれないが、出来上がった絵には絵画的な調和だけがあり、そして、その調和と情熱にはほとんどなんら因果関係がない、ということが実際に絵画芸術の上に「起こる」という事実だった。僕がゴッホから受け取った贈り物は、絵画芸術に対する「情熱」ではなかったのだ。むしろ、その正反対のものだった。それを自分は、「物言わぬ色と線」と考えていた。そして、先に紹介した自費の本にはそれについて書いたのだった。

いや、もうこのへんで止めておこうか。以上の事柄を説明するのは相当に骨が折れし、それに、それは、かつて自分が書いた本の中ですべて言ったことだ。

最初の遠近法うんぬんに戻ると、「視覚」について、なんらか開眼に近いぐらいの切実な体験をしてしまうと、「遠近法? それがどうした」、みたいな感じになってしまう、ということで終わっておこう。中途半端な文で申し訳ないが、せっかく書いたので残しておく。

 

ずいぶん昔のことだけど、僕がまだ西洋古典絵画に夢中になっていたころ、仕事場の同僚の何人かと話していて、たぶん絵画まわりの話になったことがあった。話の内容は忘れてしまったが、そのとき一人の女性がこう言ったのである。

「昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない。だって見たとおりに描いたらそうなるはずだから」

絵画に夢中になっていた自分は当然ながら、即座に、なんという間違ったことを言うやつだ、と反応したのだが、かと言って、その場で適切な説明はできなかったのを覚えている。たしか、こんな風な対話になった気がする。

「じゃあ、あなたは、たとえばピカソとかそういう絵を見てるけど、あれって遠近法もへったくれもないじゃん」

「だって、ピカソのはわざと遠近法を崩したんでしょ? ふつうに見たまま書けばああはならないじゃん」

「じゃあ、子供の絵はどうだ。よく、人と犬と車が全部同じ大きさに書いてあったりするだろ?」

「子供の絵は、まだ見ることについて未成熟なので当然じゃない?」

「昔の絵ではたしかに遠近法は崩れているけど、昔の人はさ、とくに宗教画なんかになると目に写ったものを描く、ということよりずっと重要なものがあったんだよ。その重要なものを描いたわけだからそれが遠近法になってなくて当然なんだよ。絵というものの意味が現代と違っているってことだよ」

「でも見たまま描けば遠近法になるよね」

といった感じで、話はかみ合わず終わってしまった気がする。自分は今でも、彼女の冒頭の発言はおかしいと思っているし、極端に言うと、一般的な現代人のただの思い込みだとすら思っている。当時の自分は絵画芸術に夢中だったさなかでもあり、こういう発言を聞くと、ほとんど条件反射のように「それは違う!」という風になるのだが、いざ、実際に当の発言をする人に何がおかしいか説得しようとすると、きわめて難しいのが分かる。

というわけで、少し前、その説得の道筋について考えてみたことがある。ここでは、それを文章にまとめて語ってみることにしよう。

お題は「昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない。だって見たとおりに描いたらそうなるはずだから」、という発言は、どこがおかしいのかについてである。

たとえば、今、自分はノートパソコンの前に座っている。そして少し離れて向こうに四角い窓があり、その向こうに外の景色が見えている。自分の回りのあたりを見回してみると、たしかにその風景は遠近法に従っているような感じに見えている。

しかし、これは自分で確かめるとすぐに分かるが、目線を完全に固定した状態で風景を見ることはほとんどできない。自分の見ている目の前の世界が遠近法に従っているか否かは、目線をあちこちに動かさない限りわからない。それで、そうやって目線を動かして見ると、見た風景は正確な遠近法にはなっていなくて、少しずれていることが分かる。

これは、医学的に言っても、眼球を固定したときにクリアに見える角度というのは思ったよりずっと狭い。なので、人間は眼球をあちこち動かして、そのときどきの像を脳で再構築して画像を作っている。

さて、自分が見ている風景が遠近法にきちんと則っているかどうかを判断しようとしたとする。そうすると目線どころか首まで回して判定しなければいけなくなるが、やってみるとわかるけど、遠近法で言うところの消失点が誤ったところにできてしまう。これは当然といえば当然のことで、遠近法というのはそもそも平面に投影した立体の世界なので、それを、目線を動かして認知した立体世界に直接投影しようとすることに無理があるのである。

以上は製図でいうところの透視図法の話し(1点透視法とか2点透視法とかいうやつ)だが、遠近法にはそのほかに、空気遠近法とか、零点透視法とか短縮法とかあるらしい。たとえば、零点透視法というのは「遠くのものが近くのものより小さく見える」というものだ。子供の絵とかで遠くの木や車も近くの犬もおんなじような大きさに描いたのがあるが、それはこれに反しているわけだ。

しかし、再度、この遠くのものが近くのものより小さく見える、というのを、実際に自分で確かめてみると面白い。今、僕の前には至近距離にノートPCがあり、遠方に葉をつけた木が窓越しに見えている。これら2つを同じ視野に入るようにして見ると、これら2つはほぼ同じ大きさに見える。でも、実際には、ノートPCの方が圧倒的に小さい。これは零点透視法により、遠くの大きな木が小さく見えるせいだ。

たしかに、そうなのだけど、今度は、自分の意識を少し操作して、遠方の木だけを見てノートPCを意識しないようにしてみよう。そうすると、木は木だけに見え、確かにちょっと遠くにはあるけど、自分がそこまで歩いていって、その大きな木を両手で抱えるような動作を想像することでその大きさを想像上で把握し、そうすれば、その木は相応の大きさに感じることができないだろうか。

ここでも、やはり、先の目線を動かす、首を動かす、というのと同じく、注目点に対する意識を動かす、みたいに、なんらか「動いて」把握している。つまり、人間が何かを認識するときには、どうやっても「運動」が入ってきてしまう、ということにならないだろうか。

さて、知っている人には言うまでもないが、遠近法というのは、レンズと乾板というカメラ構造を想定したときに、そこの像において成立する幾何学的法則なのである。単純に言えば、カメラのファインダーをのぞいて、そこに写っている像が「遠近法による画像」なわけである。このカメラのメカニズムそのものは、先の人間の視覚のように運動がつきものというのとは違って、機構は完全に静止していてあいまいな部分は無い。

結局何が言いたいかというと、人間の目は動くことで働いているが、カメラはメカニズムとして完全に止まっている、ということ。そして遠近法は、この静止したカメラの方を使って定義された手法である、ということである。

あと考えてみると、人間の目の眼球にくっついているレンズは、カメラについているレンズに似ているけれどおそらくずいぶん異なっていて(このへんは医学的知識が欲しいところ)、さらにカメラのフィルムに相当する網膜は平面ではなく曲面であって、網膜に写っている像はカメラのファインダーに写っている像とはずいぶん違うはずである。

面白いと思うのが、こうやって考えてみると、人が目で見たものを紙の上に描く、という行為全体の中に、「厳密な遠近法に則した像」というのは実は現実にはどこにも存在しない、ということが分かる。出来上がった絵が仮に厳密な遠近法に則した絵だったとすると、その像は、現実の世界では、紙の上に描かれて初めて生まれたもので、それが生まれる前には、描く人の頭の中にしかなかった、ということになる。

もっとも、もし、そこに実物のカメラがあったら、そのカメラで写せば厳密な遠近法に則った像が現実に現れる。少し極端に言うと、もし物理的なカメラが無かったとしても、外界の立体物を、カメラモデルを使った透視変換という数学的関係によって処理する、という「理論」が存在していれば、遠近法に則した像は数学的に存在することになる。

でも、ここまで考えると、「遠近法」という理論の位置づけがずいぶんと下がって感じられないだろうか。遠近法がただの方法論なのだとすると、遠近法以外の他の方法論はいくらでも思いつくし、実際にあるし、遠近法はその中の単なるひとつに過ぎない。なのに、なぜ僕らはこの遠近法だけに法外に重要性があるように感じるのだろう。それは変じゃないか、と、思う。

現に、透視図法ではなく、たとえば平行投影法という数学手法を使うと、遠くのものが小さく写るということはなく、現実の大きさのまんまを反映した像が得られる。

ここでいったんまとめると、遠近法というのは実は、人間の眼球の構造がカメラに似ているという発見を元にして行われた「発明」のひとつである、ということである。

さて、少し前に書いた、目の前に写っている像を把握するには眼球や首を動かさないと無理だ、というところに戻る。僕らが実際にペンを持って紙を前にして自分の目に写っている光景を、眼球や首を動かしてスケッチしようとすると、理屈から言って実は厳格な遠近法に基づいた絵にはならず、必ずどこかが、これは必然的に歪むはずである。

もし、誰かが行ったスケッチが、完全な遠近法に沿っていたとすると、それはその人間が遠近法という理論を知っていて、それ使って自分の見た像を頭の中で再構成してから紙の上に描いたからである。そういう意味では、風景を描けば遠近法になっちゃうような人は、「自分の見た通りに描いていない」、とも言える。

冒頭の問題提起の「見たとおりに描けば遠近法になるじゃん」は、実は、そうではない、ということがこれで分かる。遠近法を知っていて、その遠近法理論が作り出す「人工像」にさんざん接してきて、それが当たり前の常識となって心身の一部になってしまった人にして、初めて「見たとおりに描くと遠近法になる」のである。

そうでない人は、今まで延々と述べてきた理屈から言って、絵は正確な遠近法にはならないのだ。それどころか、その見たとおりのスケッチが遠近法からかけ離れたものになる人だっているはずなのだ。ちょっと極端に言うと、「だから」、子供の絵はあんなに遠近法にならずに崩れるのだ。なぜなら彼らは「見たとおり描いたから」、である。

さて、それにしても、遠近法できれいに描かれた絵と、遠近法が発明される以前の遠近法が崩れた絵の二つを並べて、遠近法の絵の方が「進歩」している、と感じることが多いと思うが、それは一体どこから来る感覚なのか。

その根拠は、おそらく遠近法が客観的手法だ、というところにあるのだと思う。つまり、遠近法は多くの人を説得できるのである。誰が見ても美しかったのだ。

僕の好きな逸話にこんなのがある。前期ルネッサンスのイタリアの画家にパウロ・ウッチェロという人がいる。遠近法を誰が初めてやったかは定かではないが、一説にはこのウッチェロが発明したと言われている。ウッチェロはある日、この遠近法、つまり透視図法に気づき、その方法に基づいて絵を描いたのだそうだ。出来上がった絵を自分で見て驚嘆し、「遠近法とはなんとすばらしいのだ」と、そのあまりの美しさに、絵を前に夜も眠れなかったのだそうだ。

おそらくウッチェロが自分のアトリエで完成した遠近法に基づいた絵を彼が外へ持ち出して他の人に見せたとすると、当時のほぼみなが驚嘆したと思う。それが証拠に、ルネサンスに入り、遠近法は急速に普及して、あっという間にほとんどの画家が遠近法に則って絵を描くようになる。それほどこの遠近法は魅力的だったのだ。

ポイントは、「皆が魅せられた」ということである。つまり、わかりやすくて、誰でも説得できたのである。

その理由は恐らく、人間の眼球の構造がカメラの構造にきわめてよく似ていた、ということがあったからだと思う。さっき言ったことと矛盾して聞こえるかもしれないが、遠近法を知る前から人は風景をたしかに遠近法的に見ていたのである。この遠近法という手法については、多くの人が納得できる客観性をとてもたくさん持っていた、と言えると思う。

このように、遠近法を「発明されたある手法」として位置づければ、これは多数ある手法の中のひとつに過ぎず、遠近法は特にヨーロッパ人たちをそのかなり早い時期に説得した手法であった、ということが言える。逆に、遠近法ほどの力があったかどうか知らないが、遠近法以外の手法はいくつもいくつもあったはずだ。特に、ヨーロッパを離れるとそれは顕著なのは知ってのとおりである。僕ら日本人は浮世絵で使われた絵画手法を知っている。それはヨーロッパの遠近法とはずいぶんと異なっており、そもそもカメラを模した手法とはずいぶん違う。

ところで、人が目の前の風景を見るとき、それを目を通して受け取って心の中で意識するわけだが、そのときに受け取る情報の全体量は、当の目に写った量をはるかに超えているはずだ。なんではるかに超えるなどと言うかというと、そこには自分の経験や、それに基づく予想、習慣、社会の通念、民族の歴史的経験まで含め大量の補完が入るからである。

ちょっと言い方が抽象的かもしれない。すごく端的に言うと、たとえば塀から犬が首だけ出してこっちを見ているとしよう。僕らは、あ犬だ、といって塀の下に隠れている一匹の完全な犬を心の目で見ている。聴覚の例だともっと分かりやすいかもしれない。ある曲を弾いているピアノの音を聞いているとする。聞いているのはただの高さの違う音の羅列だ。しかし、その曲を知っていれば、その音は曲となって聞こえ感動までも呼び起こすことができる。

このように、感覚で経験することと、それを心が受け取ったこととは1対1でイコールなのではなく、後者の方が圧倒的に量が多い。それは様々な補完による。そして、遠近法はその様々な補完の中の、ひとつに過ぎないといも言える。

さて、ここで少し話しを変えよう。

ここでの話しはもともとは絵の話なのだが、そもそも絵というのは何のために描かれるのだろう。「目に写った風景に似たものを紙の上に移す」、というのは絵を描く動機としては何となく薄弱に思える。何でそんな面倒なことしないといけないか分からないからだ。しかし、それ以外の動機としては、古今東西、太古の人間の洞窟の絵や、写真の無かったころ記録に残すための絵や、宗教における礼拝の対象としての絵など、を見てみれば、たぶんあげたら切りがないほど動機が見つかるはずだ。

それから、出来上がった絵の評価について言うと、先に言った絵を描く動機、そしてその動機の元にある目的が達成されているかどうかによって評価がなされるわけなので、ここで、「カメラに写る像に近ければ近いほどいい絵だ」、というのは、たくさんある絵の評価法の中のほんの一部に過ぎないことも分かる。つまり、遠近法に則った絵というのが、他に比べてやたら高く評価されたとすると、それは実際はおかしい、ということになる。

ましてや、カメラ自体が発明される以前の絵画においては、カメラ像に似せる、ということ自体がまだ存在していないわけでなおさらである。ちなみに、本当にそのままの意味でカメラ像を絵画理想に仕立てた人たちが現れたのは、かなり最近のことで、少し前のモダンアートにおけるスーパーリアリズムという芸術の一流派にすぎない。

実際、特にモダンアート、あるいは、ヨーロッパを離れて他国の、特に日本を含めたエスニックな国の芸術を見ればすぐにわかるが、絵というものは、多種多様なたくさんの作画動機をほとんど無制限に盛り込むことができる表現手法である。

たとえばピカソは、その無制限な作画動機を次から次へとおそろしく精力的に実践してみせた代表的な芸術家であろう。彼の作品の全体で見ると、遠近法はちょうどそれが正当に占める位置のていどしか現れない。ピカソの絵の中で、きれいな遠近法になっている絵の枚数を数えて、それが全体の何パーセントに当たるかを計算すれば、遠近法が絵画芸術に占める量が分かるというものだ。ピカソという天才は、その芸術の製作動機というものを、時間からも空間からもおそろしく自由になって、すなわち古今東西、古代現代の別なく、ひたすら収集しては実践した人とも言える。

ピカソをはじめとする並み居る芸術家たちが、そのような多様な作品を発表するにつれて、僕ら民衆は徐々にそれに説得されていったのだと思う。

すでに1900年以降のモダンアートの時代をとっくに経験してきたわれわれの住む現代で、僕らの身の回りを見回してみよう。たくさんの絵に僕らは囲まれて生活しているが、そこではむしろ遠近法にきちんと従って描かれたものの方が少数になっていることが分かるだろう。もっとも、そういうものを僕らは絵とはあまり呼ばず、デザインと呼ぶが、それは同じことだ。

以上のようなわけで、遠近法というのは手法の一つに過ぎず、しかも、それほど大きな力を持つものでもない。

さて、ずいぶん長くなってしまったし、このへんからまとめに入ろう。

まず、昔の人が遠近法にしたがって描かなかったのは、まだ遠近法が発明されていなかったからである。そして、昔の人の絵には、遠近法による視覚イリュージョンの再現が現れる前に、たくさんの動機があった。それらの動機には、意味的なもの、実用的なもの、感情的なもの、象徴的なもの、宗教的なもの、多々ある。そして、遠近法はそれら動機の中の一つに過ぎないが、それらに優劣をつける理由はどこにもない。

むしろ、特にヨーロッパにおいて、遠近法が流行った歴史的な時期と、理論とか客観性とかが歴史的に大きな力を持っていた時期とが、オーバーラップしていることに注意すべきだと思う。遠近法という手法は数学によって記述できるところからも分かるように、きわめて客観的で理論的な手法である。その手法が否が応でも人々を説得できたということは、その人々が客観的で理論的なものというものを尊重して生活していた、ということの表れでもある。

さて、ひるがえって、現代という時代は、そういった昔ながらの論理とか客観性とかいうものが主流から外れはじめている時代だと思う。

そんな現代に生きていながら、「見たまま描けば遠近法になるはずなのに、そうならないのはおかしい」、と発言することは、むしろ、表面的で画一的な科学教育の弊害なのではないかと勘ぐってしまう。

以上、冒頭の言葉について、おかしいと自分が感じたその中身でした。

上野の国立博物館へ行ったら、広重の有名な浮世絵の「雨の橋」がかかっていた。この絵はその昔、ゴッホが南仏のアルルにいたときに日本にあこがれて、それで油絵で模写している作品があって、そっちの方がかえって有名なぐらいかもしれない。しかし、実際に日本の原画の方を初めて見たのだけど、これは見事な絵だ。

水かさの増した広い川、そこにかかる橋、そこを渡る雨笠や合羽をかぶった人々などの遠景がさらりとスケッチされているが、そのスケッチをすべて終了した後に、今度はそれまでやっていたスケッチの造詣とは一切なんらの関係も無く、おそらく定規を使ってめったやたらに画面上に線を引きまくり、それを「雨」としている。

唖然とするほど奇抜なアイデアだと思った。

このやり方で描いた絵が、まあ、一応、視覚的に言って雨に見えてしまうせいで、見る者は、これが「雨」だと分かった次の瞬間にその方法の斬新さがマスクされて見えなくなり、いつも経験している雨を見る日常感覚に戻ってしまう。でも、ふだん僕らが雨の降っている風景を見たとき視覚的にこんな風に見えているかというと、これはもう全然違う。第一、雨粒はほぼ点であって、それが上から落ちてきて目の前を通り過ぎるわけで、それは止まった線ではなく点の運動なのである、言うまでも無いが。

というわけで、この広重の雨は、視覚を写し取ったものではなく、一種の「雨」という記号に近い感じである。もしそうであれば、記号ということは、すでにそれは「言葉」に近いとも言える。

たとえばこの「雨」という言葉と、「本物の雨」という現実の間には、いったい何が横たわっているのだろう。言葉と現実はたしかに別のものだ。もし、自分が「雨」という言葉を知らず、現実の雨を経験したことがないとして、それで生まれて初めて「雨」という現実に遭遇したらいったいそれをどう感じるだろうか。僕らは白痴のようになって雨を見るだろうし、水滴を受けてでくの坊のように濡れるだろう。「あ、雨だ」という言葉を発することができないとき、その現実の雨はどんな形で自分の心に刻まれるだろうか。

こういう疑問は、僕にとって、絵画というものをまともに見られるようになってから浮上したものだ。なぜなら画家は、言葉を使わずに対象を掴むことからその仕事を始めるからだ。自分から一切の言葉を追い出して、それで生の物質に相対する、ということを画家にならってやってみるといいのだが、実際、きわめて難しい。でも、ときどきそれが出来ると、生の物質はきわめてグロテスクなのがじかに感じられたりする。

そんなとき、「視覚」っていうのはいったい何なのだろう、とよく考える。

広重の雨が、記号であって、ひいては言葉だとすると、広重の絵というのはずいぶんと知的な絵だということになる。この絵を描くにあたって広重は、雨の振る川にかかる橋の遠景を実際に見ただろうが、彼は前述したような「生の物質に相対している」というような原始的感覚とは無縁な気分なのかもしれない。まるでコンピュータのように、視覚の結果を記号化して、再構成して、あの版画を生み出したのかもしれない。きわめて論理的な方法論に基づいて作り出したのかもしれない。

そう考えるとなんだか古典の日本らしくなくて、面白い。

しかし、僕は実はもう一つ自分にとって衝撃だった江戸時代の絵を知っている。それは解剖図の絵で、処刑された罪人を医学的目的のためにその場で解剖する様子を写した絵なのである。

さっき広重の雨の方法論の斬新さについて言ったが、こちらの解剖図の方はそれとぜんぜん逆で、僕にはまったくに生の物質の写生以外の何者でもない、死体を視覚的に「写す」ということを強いられた絵師が見る果てしなく続く悪夢のように感じられた。自分にはそれはそれはショックな絵の数々だったのである。それを見て、記号化、言葉への翻訳が不可能な人間が生の対象に相対したときの悪戦苦闘を目の当たりにして戦慄した。

いや、ここで西洋であれば、「遠近法」とか「陰影法」とかなんとかのカメラ的手法に逃げ込むことで容易にこの危険を回避できるのだが、この死体を写す江戸の無名の絵師にはそういう安全な逃げ場が無かったようなのだ。にもかかわらず、先の広重の雨のように、なんとかしてその見たこともない対象を「記号化」し、言葉に移そうともがいている。しかしながら、それにことごとく失敗している。それが出来上がった絵に見事に表れている。自分の知っているいろいろな記号を駆使して死体を記号化しようとしているが、それは常にミスマッチを起こしていて、まるでデコード不能な記号列のような混乱を示している。

ここで死体を写した絵師も、人や犬や鳥や山や木や川や花であれば容易に記号化して再構成するだろう。しかし、それらの記号を解剖される死体に応用しようとして失敗すると、その全体の様相が、ありえないようなグロテスクさを発揮するのだから、それはそれは不思議なことだ。

さて、広重の雨では、先の解剖図のようなミスマッチとグロテスクはどこにも見られない。この「雨の記号化」は広重がオリジナルかどうかは知らないが、周到に考えられた手法を応用した結果なはずだ。見ていると広重の鼻歌が聞こえてくるようだ。

しかし、きっと、この広重もいったん未知の対象に絵師として遭遇してしまったときは、解剖図の絵師ときっと同じ精神状態になるに違いない。そして、それを記号化できるようになるまで恐らく絵は残さないんじゃないだろうか。生の物質に遭遇してから、それを記号にするまで、広重の中ではいったい何が行われていたのだろう。知るよしも無いが、そこに最大の、そして恐らく最も大切な秘密が奥深く隠されているのだろうと思う。

自分はひところベルグソンをずいぶんと読んでいたときがあって、その中でも特に「創造的進化」が好きだったので繰り返し何度も読んだ。この創造的進化は、ベルグソンの解説を見ても、彼の最高傑作のひとつと言われているそうで、何度も読む価値はある。特に前半の、進化論の批判と、それを土台にした本能と悟性についての長い分析は見事の一言に尽きる。読んでいてほとんど唖然とするほどすばらしいインスピレーションである。

ベルグソンはその中で、「本能」について定義するに、身体や生き物など有機体を素材として使用してあやまたずに目的を達する能力、とする。そして本能に対置するものとして「知性」とは、道具や機械などの無機物を使用して次々と連鎖的に新しい目的を達してゆく能力、としている。進化の歴史において前者の代表が昆虫、後者の代表が人間である。しかしそれまで言われていたように、本能を発達させた昆虫がさらに発達して知性を手に入れそれが進化して人間に至った、という考え方をしない。本能と知性に序列をつけないのがベルグソン的な考え方である。

つまり、昆虫とは本能が開花し完成された形態であり、人間とは知性が開花し進歩し続ける形態である、と言うことだ。両者はそれぞれの進化の歴史の末端にいる、とする。本能と知性は古い古い時代では一体になっており未分化であったが、あるとき二つの方向に分岐し、それぞれの能力を開花させるべく進化し、昆虫と人間に至った、とするわけだ。

以上の結果に至るベルグソンの分析の力は物凄い。ほとんどこの分析そのものが彼の哲学的本能に頼っているような、そんな風に思える。単なる知性では決して到達できない地点まで分析を進めている。

ベルグソンという哲学者は、結局、この「本能」という得体の知れないものを、哲学においてきちんと復権させたところに偉いところがある。本能を「弱った知性」と考えないこと。そして知性を主な武器にする人間にもこの「本能」は確実に残っていて、いざというときには十全に機能することがあるということ。さらに、「知性には不可能だが、本能にしか出来ないこと」というものが確実に存在することを証明してみせたこと。それらもろもろに自分は決定的な影響を受けている。

さて、ベルグソンの論によれば、本能というのは「有機体を道具として使う能力」ということだけど、有機体というのは印象でいうとなんだか「ごちゃごちゃしていて、ねちゃねちゃしている」よね。昆虫の世界とか森林へ入って間近に見ると、もうなんというか、グロテスクな形態が折り重なるように無限に近いようなバリエーションを持って次から次へと現れる見た目の複雑さが、まず、ある。続いて、まあ、あまり触りたくはないけど昆虫世界に手を伸ばしてみると、柔らかくて潰れ易い形態と各種の液体と粘着する体液などこれまた次から次へと互いに互いをくっつけて一緒にしようとする様子が感じられる。

これらを言葉で表現すると、ごちゃごちゃとねちゃねちゃなんだよね。

知性の生き物である人間であっても、こと、本能の発揮する場を観察すると以上の昆虫と同じようなごちゃとねちゃが現れるよね。典型的な例は食欲と性欲だろう。両者について、思い巡らしてみるとすぐに納得できると思うけど、どちらもほんとに「ごちゃごちゃ」していて「ねちゃねちゃ」しているでしょう?

食欲については、僕ら毎日人前でおおっぴらに発揮しているんでそれほど意識的になれないかもしれないけど、性欲は普段、隠されているので、おそらく誰でもちょっと想像すると分かると思うんだが、なんと言うか、きわめて反知性的に感じられないだろうか。それら純粋な本能の前では、知性って吹っ飛んじゃうみたいなイメージがある。

そんな風に本能と知性は分離傾向にあるのに関わらず、この二つの間の自然な交流をやってのける芸当ができる人間というものが、世の中、ときどき現れる。そういうことが出来る人が、なんだか、見ていて、一番感動的だな。

先にも言ったようにベルグソンの創造的進化という論を進めるベルグソンその人がまさにそんな感じにも見える。彼の場合、本能の力を得た知性、という方向性で、「澄み渡った本能」という感じなんだ。ごちゃごちゃねちゃねちゃというものから僕らが感じるイメージは、なんというか、「濁った」感じなので、その濁っているはずの本能が「澄み渡ってる」、って面白いじゃないか。

逆に、知性の力を得た本能という方向性になると、古今の芸術家たちがそう見える。ちょっと前に見たシュールレアリスト展で、アンドレ・ブルトンの宣言をはじめとする並みいる作家たちについて、そんな風に感じたっけな。でも、もっとも、彼らの作品を見て感じるのは、やはり、「澄み渡った本能」だよね。絵画やオブジェがたくさんあったけれど、どれも何らかの本能が丸出しになっているものの、その作品の中身はごちゃごちゃねちゃねちゃといえども、その物理的形態は、画布の上の絵の具であり、各種無機物を使ったオブジェであり、ごちゃごちゃねちゃねちゃでは全然無いわけだ。

なんだか、澄み渡った本能というものに、憧れるよ。

昨日、ツイッターを見てたら誰かのツイートにこんなのがあった。

「民主主義って、最後は最大多数の最大幸福に落ち着くものだと思うんだけど、そんな中でごく一部の頭のおかしいクレーマーの意見がまかりとおるってのは、本来はおかしいんだと思うよ」

これを見て、あまりに正反対に間違っていると思ったので、思わず「ぜんぜんおかしくないと思うよ」とリツイートしたが、その後もいわゆる民主主義について何となく考えてしまった。

その日は鶴見線に乗って沿岸の工場地帯を散歩しに行ったんだけど、ぶらぶらと歩きながらあれこれ考えた。自分にしてはきわめて珍しい。というのは、ふだん、自分はあまりものを考えるということをしないのである。考えるときはだいたいこうして文章を書きながらで、頭だけで考えるということをあまりしないのだ。

自分は政治に興味がほとんど無いので、政治について考えることはほぼ皆無。投票も最近ようやくいくらかは行くようになったものの、成人になってから30年ぐらいはオール棄権だった。かといって「棄権」を自分のポリシーにしていたわけでもない。ただ、自分の興味の無いものに対して意思表示する、ということが嫌だとは常に感じていた。さいきん投票するようになったのはほとんど世間体からに近い。というか、前述の「なになにが嫌だ」というのは実は立派な意思表示であって、それを続けるのが面倒くさくなったというだけだ。歳を取って丸くなったとかそういうのではなく、単にそういうどうでもいい意思表示に使うエネルギーが惜しくなったという方が近い。ま、そういう意味では歳を取ったからであろう。

政治に興味がなければ、実際には民主主義という代物にもあまり興味はなく、まともに考えたことは無い。もっとも、民主主義についていうと、これは実は政治とは関係なく、社会が取った一種の「方法論」のように自分には思えるので、そういう意味では自分も社会で生活して社会活動をして生きているので、社会生活の前提として、一種の空気として感じていたことは確かだ。

なので、この言葉、「主義」という文字はついているけど、とても主義とは言いがたいと思う。結局のところ、自分が、子供時代から今まで育ってきた社会の空気がこの民主主義によるものだったので、すでにこの方法論は自分に染み付いて、染み渡っていて、改めて考えてみる必要もないと感じていたとも言えそうだ。

そういうことなので、冒頭のような言葉をいきなり聞かされると、ほとんど体が反応するのである。「それは違う!」という感じで。民主主義について言葉を弄して考えることはほとんどなかったけど、脳の奥の方では自分の心のどこかであれこれ考えて、というか想って、それなりの意見を蓄積して来たのだろう。

よく晴れた休みの日、殺伐としたコンビナート群を眺めながら、脳の奥に眠っていた考えを掘り起こしていた、というわけだ。

さてと、すでに前置きが長くなったが、冒頭の言葉の何が違うのか。

まず、この言葉を聞いておそろしく感心する、というか呆れるのは、人民の総意が社会を作るというやり方を取ったとき、それが最後には最大多数の最大幸福に行き着く、という発言の呑気さである。これは「考え」ではない、「感触」だと思う。この人は、人民が自分たちが一番いいという方法を取って考えて行動したとき、それが満足を与える平和な幸福な社会に行き着くと「感じて」いるのである。

人民が民主主義の方法を取ったとき、彼が言うような社会に「行き着かない」ということは同様にありえるはずだし、実際には、行き着くか行き着かないかはフィフティーフィフティーだ。では行き着かなかったときにどうするか。

この人の言葉から透けて見えるのは、もし行き着かなかったとするとそれは「頭のおかしい一部のクレーマー的人間のせいだ」という、これまた「考え」ではなく「感触」である。

だいたいが、この言葉は考えの表明ではなくて、感触の表明なのである。おそらく本人に聞いてもそう答えると思う。「私はそう感じるのです」と。そういう意味では、面白いのが、これは実は僕と同じだということだ。僕は「そう感じない」のであって、さっき書いたように「そう考えない」のではない。

あ、いや、これでは話が逸れてしまうので、この話はまた。もとへ

いまさら言うまでもないかもしれないが、この言葉はきわめて日本人的な楽観に基づいている。この人は、民主主義の社会に生きるにあたって、自分は最初から「大多数」の側に入るものだということを、おそらく一度も疑ったことがない。そして自分の属する民主主義社会の敵は少数の頭のおかしい人間たちであって自分がその頭のおかしい人になる可能性もある、ということを一度も想像したことがない。以上の事情がこの一文に染み渡っている。

いま自分はこの文を書き飛ばすにあたって珍しくWikipediaなどで裏を取っていないので、間違ったことを書くかもしれないが、そのときは直して欲しいが、民主主義は日本人の発明ではなく、西洋の発明品だ。そして、民主主義という方法論は、僕にいわせれば、人間性についてきわめて悲観的な見方を土台にして作り上げたものである。

なにが悲観的かって、多数の人民が社会に生きていたとき、それらすべての人々が一つの美しい理念に基づいて協力して、和を乱さず、整然と、その理念に基づいた社会を作り上げ、そこにすべての人々が幸福に助け合いながら暮らすということは、「不可能だ」、という前提から出発しているからである。そんな共通理念はどこにもないし、そもそも共通理念というのは幻であり実在しない、という長年の社会経験に基づいた感覚から出発しているのだ。

だから、「仕方なく民主主義」、なのだ。それが出発点だ。つまりこの主義は理念に基づいていない。そうではなくて「方法論」なのだ。だからこの文の最初の方で、民主主義は主義というより方法論だと書いたのである。

仕方ないから理念を設定せず人民の総意に任せた。そして仕方ないから殺し合う前に議論というものをしましょうということにした。それで決まらないときは仕方ないから多数決という方法を取るようにした。で、それでも少数の負けた人たちは恨みから破壊に走る可能性が高いので、仕方ないから制裁は加えず彼らの主張を封じ込めないようにした、などなど。

かくのごとく民主主義は苦肉の策だというのが自分の考え方である。

この「仕方ないから民主主義」という図式が、このように苦肉の策だとすると、これは本当に出発点であって、この策はそのままでは短期間しか機能しないのは目に見えている。そこで西洋ではどう考えたかと言うと、この「策」を「主義」にまで高めるべく、その策を取ることにみなが同意し、そしてみなで運営できるように、「人民を教育する」、ということを一番大切なこととして掲げた。

要は民主主義はその方法論だけではあまり機能しないはずで、人民の意識の教育と改造の方がずっとずっと重要な課題なはずなのだ。西洋では、この民主主義が定着するまでにそのような、個人と社会、そして自由と束縛、個人的責任と社会的責任などなどについての長い検討の歴史があって、その検討は一部の選ばれたエリートたちによるものだったが、結局、現代の民主主義に至る長い長い準備をしてきたようなものだったと思う。

さて、日本の民主主義にはかくのごとくの西洋で行われてきた訓練がほとんど欠如した状態のままここまで来ているように思う。冒頭の言葉に戻ると、努力しなくても大多数幸福に行き着けるという楽観が今でも支配しているように見える。単一民族の島国の日本ならではという気もする。

それで、この楽観自体は決して悪いことではないと思う。皮肉で言っているわけではなく、むしろ良いことだと思う。ただ、この楽観を民主主義という言葉と結びつけることが間違っているし、しかもそれは「悪い」と思う。だってこの楽観は民主主義とは相容れないものだから。

では楽観に基づく民主主義を標榜して何が悪いのか。

まず民主主義を名乗った時点で、国際社会において民主主義を名乗る西洋と同じ土壌に立ったことになる。したがってその時点で、同じ民主主義を標榜する国として連中と同じ土壌で戦わないといけなくなる。経済でも軍事力でも政治力でも文化力でもなんでもいいが彼らに勝るものを持たないと国は衰えてゆく。

さて、楽観に基づく民主主義は、みながあまりものを考えず、周りと同調することで、努力せずに大多数の同意を形成する風景になる。そして、冒頭の言葉に象徴されるように、基本的に、この大多数同意に同調しない少数の人間を排除することで大多数の同意を継続し、大多数幸福を維持しようとする。で、どうなるかというと大多数の同意に基づく社会は原理的にレベルの低い方にその重心が移る。

大多数が同意する集団と、その同意に基づく集団の社会活動についてのレベルはほぼ必然的に下がると思う。これはほとんど統計的に仕方ない成り行きだと思う。せいぜいうまく行ってガウス分布の真ん中の中間層のレベルに一致する道理だが、しかし、実際にやってみると中間層よりも下がる。なぜなら中間より低い層にも理解できる同意である必要があるわけで、その同意形成のための、たとえば「社会政策」のレベルは、中間層より下げないとうまく行かない。

さて、別にこのようにレベルが低くても大多数幸福な社会はうまくやれば作れると思う。ただ、問題は先に言ったように、民主主義を標榜したことで西洋の国々と同じ土壌で戦わなければいけなくなったという事実である。

ちなみに、集団の同意のレベルが平均よりずっと低い、というのはなにも日本に限らず西洋でも同じだ。問題は、そのレベル低下が長期的な意味で結果的に引き起こす「社会の停滞」をどう克服するかである。この停滞は厄介である。なぜなら停滞したままだと、同じ土壌の他国に負けてしまい、最後には当の社会を平和に維持できなくなってしまうからである。

この停滞は、大多数の側にいて、大多数に従順で、大多数の幸福を享受している人には克服できない。なぜならその当の停滞をそれら従順な人々が招いているからだ。ではどうするかというと、停滞の克服は少数の異分子こそが成し遂げることになるのである。

自分の考えでは、民主主義に理念らしきものがあるとしたら、大多数幸福を維持するという方にではなく、この、少数の異分子を排除しないメカニズムの方にあると思う。そこにこの民主主義の一番の発明のポイントがあると思う。先にも書いたが、民主主義はほとんど「仕方なしに」という理由で取った方法で、人性に対する悲観から成り立っているものの、たった一点、楽観というか、明るい部分があるとすると、それは、大多数が理解できない異分子を、分からないながらに皆が排除せずに尊重していると、ある日、偶然にその異分子の誰かが自分たちの停滞した社会にブレークスルーをもたらし進化させ、自分たちを停滞から救ってくれるのだ、というきわめて楽観的で根拠のない感覚にあると思う。

これは自分の感じ方だけど、この「異分子」というのは別に「よいもの」では全然ない。そして、さっき停滞を克服する、という風に言ったけれど、そういうポジティブなものですらない。単に、異分子なだけだ。

もっとも冒頭の言葉を言った人ならこう言うかもしれない。「たしかに異分子は社会を発展させたりする。さいきんの例ではスティーブ・ジョブスという超変人がネット社会を進歩させたように、そういう変わった人がブレークスルーを生み出すというのは分かる。でも「単なるクレーマー」は違うだろう? もっと極端な例では「犯罪者」は違うだろう? そういう異分子は排除するべきだ」、と。

では社会の異分子を横一列に並べて、どいつが社会の発展に貢献してどいつが害悪を流すか誰が判断して取捨選択するのか。大多数で構成されるレベルの低い集団が判断できないのは、これは原理的に自明だ。で、自分が思うに、厄介なことに、レベルの高い層の人たちであってもその判断はほとんど無理だ、ということである。要は誰が発展に寄与するか分からないのである。

ここで言っている発展は継続的発展のことではなくブレークスルーのことである。長く続く停滞を打破する力のことである。こういうことについては、基本、判断はできない、運任せである。異分子100人だか一万人だか10万人だかしらないが、その中から1人、それが出来る人間があるとき躍り出るのである。極端かもしれないが犯罪者予備軍もその中に入っている、あるいは極端には犯罪者も含めて誰がそれを起こすかはわからない。昔から言われるように天才と狂人は紙一重なのである。

以上の理由から、「だから」、異分子は排除してはいけないのである。それどころか、たとえその異分子の人の言うことが、一般の大多数の人にとってまったく理解不能であり、迷惑極まりなく、完璧に理不尽であっても、とにかく尊重してあげないといけない。そしてさらに、そういう異分子が活動できるようにしてあげないといけない。これは実際には大多数にとってはリスクであり、痛みである。しかし、そのリスクと痛みを大多数側は「負う覚悟」をしていないといけない。

この「覚悟」は、実際にはなかなか難しい行為である。なにせ理解不能でもの騒がせな異分子を認めろというわけだから。大多数から見ると「あいつがいなければ平和なのに」って考えるところ、立ち止まって、「いや、あいつにも生きる場所があるのだ」と尊重しないといけないわけだから。

最近起こった、この手の象徴的出来事の一つは、ノルウェーでたった一人で罪の無い70人以上の、主に若者たちを殺した自国の極右のテロリストに対する、ノルウェーでの裁判の経過かもしれない。これほどひどい異分子に対しても、正当な法をもって判断するということにノルウェー人たち自身が誇りを持っている。自分たちが作り上げた民主主義はこの極端な犯罪者によっても崩壊することはない、という自信が伝わってくる。もちろん国法(ノルウェーは死刑も無期懲役も無い)に反して死刑にすべきだという意見もある。しかし、それと同時に彼ら人民の頑固なまでの民主主義社会を堅持する態度も見える。調べてみるといい、日本では決して見られない光景である。あるいは中国なら即日死刑で終了かもしれない。

結局、まとめると、民主主義は大多数の幸福のための発明ではなく、むしろ少数の頭のおかしい人たちを認めるというところにその方法論のダイナミズムがある、ということ。そういう意味で冒頭の言葉は正反対だと自分は考えていること。さらにきわめて日本人的な楽観に基づいた言葉なのはいいがそれを民主主義と勘違いすることは、勘違いだけで済まず日本の衰退につながるということ。民主主義本場の西洋では、その主義についてかなり高いリテラシーを人民が持っているらしいということ。

さて、以上、冒頭の言葉に対して、「それは違う」、と自分が反応した中身である。

思うに、西洋の民主主義はネット社会になって一段階進んだようである。ここで言った「異分子」というものを、合理的に育て、場所を与え、さらに社会で活動できる方法を与えること、というメカニズムの新しい形態をインターネットによって作り出したからである。民主主義というのはつくづく進化論のメカニズムの延長にあるのだなと思う。閉じた社会と開いた社会を交互に繰り返すことによって社会を発展させてゆく、という見方は進化論のメカニズムそのものに見える。

ネット社会はたしかにそのように進んでいるように見えるが、これは大きく言って西洋の話だ。日本は少なくとも同じ土壌に乗ってしまったので、以上のようなことを自分は言っているが、そもそも最初からその土壌に乗らない、という選択肢もある。たとえばイスラムがそれだろう。

いわゆるグローバルスタンダードについては、自分はかなり苦々しく見ている。東洋には東洋の独自のスタンダードが見つけられるはずだ、とも思っている。しかし、これはまた別の話なので、この話はこれで終わる。

久々の書き飛ばし、乱文失礼!

再現性の法則に奉じて、因果律を使って、統計的検定に従って行動を計画することができる人って、ある意味幸せな人だが、手に入るのは統計的幸せだけではないのか。「95%幸せ」とかね。「50%死んでるシュレーディンガーの猫」みたいなもんで、生きている猫に出会って喜ぶことも、死んでしまった猫を発見して悲しむこともできないのと同じく、生きている幸せも手に入らないし、不幸に打ちひしがれることもないんだろうな。

哲学というのは、原書の翻訳を無理してがんばって読むのは研究者でもない限り止めておいて、信頼できそうな解説本を読んだ方がいいみたいだ。なによりも哲学は実は面白い、ということが分かるから。いい解説本は、それを書いている哲学者自身が面白い、と思って書いているからなおさらなのだ。それにしても、哲学に夢中になったりしちゃうと微妙に世間ずれしてしまうのも、たしか、かもな。実際、そのせいで世の中のバカバカしさが見えてしまったりするしね。そういや、むかし、筒井康隆が日記に、「昨晩酔っ払って仲間といろいろしゃべったがしらふで思い出すと相手の言葉の裏がことごとく分かってしまいそれでひどく落ち込む。こんなことなら心理学なんか勉強しなければよかった」って言ってたっけ。

数年前、松山へ行ったときである。夕方に、独りで道後温泉の界隈をぶらぶらし、まずは何か食うかと思い、あたりを物色し、他よりも田舎臭くて少し貧乏臭い看板の出た店に入ってみた。ガラガラっと引き戸を開けると、中はなんだかガランとして誰もいないみたいだ。まだ、やってないのかな、と思ったが、すいません、といいながら店の中に入って、少し前へ進むとカウンターの中に、婆さんが独り座っているのが見えた。あの、と言うと、座ったまま、いらっしゃい、と答えた。

なんだ、やってるじゃないか。カウンターに座って、改めてあたりを見回すと、店内はかなり古臭く、なんだか汚らしい。床はいまどきはないような細かいタイルのようなものが敷いてあり、目地が茶色くなっており、テーブルや椅子の類も古くて錆びていて、全体にガランとして殺風景である。カウンターから中を覗くと、厨房と思われる奥の部屋の床にガス台と寸胴が乗ってなにやら煮ているようだが、厨房は黒ずんでいて、さらに汚い。

まあ、いい、とりあえず婆さんに瓶ビールを注文する。婆さんがよちよち歩いてきてテーブルの上に瓶とグラスを置いた。さて、と、ビールをついで飲もうとしたらグラスの周りのテーブルの上に、なんだか小さな羽虫が這っている。目の前のカウンターの縁にはゴキブリの子供が歩いているし、身の回りに小さな虫や蚊が飛び回っていて、体が痒くなる感じである。

あまり物を食べたくなる雰囲気ではないのだが、もともとは腹ごしらえのつもりで入ったので、無難なところでザルそばを注文した。ほどなくして、厨房に中年の男が現れた。婆さんだけではなかったのだ。婆さんはその男に注文を告げるとカウンターの中の椅子に再び座った。この婆さん、一応、動けはするのだけど、どう見てもかろうじて動けるていどで、表情にまったく生気がなく、もうすぐ死にそうな感じに見える。

一方、この中年男の方はおそらく婆さんの息子であろう。小太りで、髪の毛もぺったりと油っぽく、少しオタクな感じに見える。ザルそばの注文を受けて、厨房とカウンターを行き来して忙しそうに仕事を始めた。ほどなくすると今度は、手を動かしながら、座っている婆さんに文句を言い始めた。何を言っているのかは全然分からない。かなり大きな声でしゃべっているが、僕の知らない言語である。どうやら、調理の手順やら食器のしまい場所やらの文句を言っているらしいのだが、文句は一向に止む気配もなくずっと続いている。

それで、婆さんは、というと、最初に何かを言われたときは、もぐもぐとなにやら言い返したが、そのあとはまたもとの無表情に戻り、延々と続く文句を、聞いているんだか聞いていないんだか、無反応でじっと椅子に座って、何を見るでもなく前を向いている。どうやら、これはほとんど毎日繰り返される日常的出来事のようだった。改めて婆さんを見ると、その顔にあまりに生気がないせいで、ほとんど不気味に思えるぐらいだ。

きっと、この婆さんは、この古くて汚らしい店で、同じことを毎日繰り返しながら死ぬのを待っているんだろう。死ぬときは、息子にいつもの文句を言われ続けながら、ふと気づくとカウンターのあそこの椅子に座ったまま冷たくなっているんじゃなかろうか。人の外見にこれほど生きることを諦めた感じがはっきり出ているのを見ることが珍しく、僕は、あたりじゅう小さな虫だらけのカウンターでぬるいビールを飲みながら、この光景をずっとながめていた。

息子が出来上がったザルそばを持ってやってきた。お待ちどうさま、っと愛想よくとても元気である。すでに自分はおいしく食べることは諦めていたが、それでも食うことは食った。肌色のプラスチック製のザルの上に乗ったソバは、海草で出来たみたいに半透明でプルプルでヌルヌルしていて気持ち悪い。そばつゆの横にウズラ卵が一個置いてあり、これを入れろということなのだろうが、僕はなんだかぼんやりしていたのか、そばつゆカップを持ち上げたひょうしにウズラ卵の上にガタっと落とし、そのままぐちゃっと割ってしまった。

食ってみたが、まずい。ひょっとすると、これまで食べたソバの中でもっともまずかったかもしれない。あたりの不潔さや、飛び回る羽虫や、死にそうな婆さんや、聞き取り不能な息子の文句のせいもあっただろうが、食っていて気持ちが悪くなり、それでもソバをすべてかきこんでビールで流し込むと、もう、一刻も早く店を出たくなったので、席を立った。ありがとうございました、と相変わらず息子は愛想がいい。お勘定をして店を出た。

こうして、店選びは見事に失敗した。自分は初めての土地に来ると、同じような失敗をすることが多い。ことさらに汚い店を選んでしまい、たいていの場合、食い物などはうまくないのを通り越して、まずかったりする。

それでも、しかし、あの古いソバ屋には、他のどこにもないドラマがあった。

人生のドラマというのはどんな変哲の無いところにでも転がっているのだな。いや、逆に、変哲のない生活の場であるほど、それは毎日、大量に繰り広げられているんだろうな。自分はふだん、東京という都会のクリーンなエリアに住んでいるが、ああいうところは生活が、快適さに最適化されているせいでほぼパターン化されて、こんなドラマを見ることは少ない。快適だが、単調な光景の繰り返しが見えるだけだ。それに較べて、この田舎の古びたソバ屋には、初めて見る人を驚かす奇妙な人生の図があった。

僕は店を出て、それでも少しは小ぎれいなお店も並ぶ、道後温泉の商店街を歩きながら、そんなことをしきりに考えていた。

さっき数年前に自分が書いた文をたまたま見たらオモシロかった。

「当時のオレの年齢は25歳、うーむ、若い。 愚劣で汚れたアホくさい実社会などを、まだこれっぽっちも知らず、ただただ若いリビドーを飲酒で紛らし、膨らむだけ膨らんだロマンチシズムの真っ只中に、毎日を夢中で生きていた、そんな頃である」

老人になったら、若いころにもどることに、しよう。

カントの解説本を3回ぐらい読んで、なんだかずいぶん分かってきた。カントを分岐点として、なぜ自分がヘーゲル、マルクスの道へ行かず、ショーペンハウエル、ニーチェの方に来たか、その理由が分かったような気もした。ニーチェの、神は死んだ、という有名になり過ぎた言葉も、こういうカントの絶望紙一重の理性の深淵体験から出てきたんだな。ニーチェという天才の頭にあるとき閃いたというよりも、もっとずっと堅実な哲学研究の果てに現れたんだな、と思い、感慨した。

ニーチェのどの本に収録されているんだっけ。真昼間に提灯をぶら下げて走り回る狂人はこんな風に叫んでいるのだったよな。

「おまえたちは一体知っているのか、神が死んでしまったことを、そしてオレたちが神を殺したことを。世界は真っ暗だ、神が死んだ後、オレたちは、いったいどっちへ動いて行けばいいのか」

ところでカントは神を信じていたが、神が存在することの証明は、論理的に不可能である、ということを厳密に証明した。結局、人間の理性の範囲内から神はいなくなった。くだんの狂人はそのことを言っているんだろうな、神は死んであの世へ行ったのだと。

かくして、神というのは、ある人には信じる対象となったし、また、ある人にとっては人間とは金輪際無縁なものとなった。

東海道四谷怪談に出てくるお岩の幽霊について。

僕たちが生活しているこの世に「恨み」という有害なものが跋扈している状態を避けるために、幽霊であってもこの世で通用する実質的な「力」を与えてやって、恨みを現実的に解消させていること。お岩は決して足の無い漠然とした幽霊としては現れていない。恨みを解消させる実質的な力としては万能に近い能力が与えられている。しかし、お岩の幽霊は伊右衛門を直接手にはかけず、最後の最後、与茂七に引渡し、降りしきる雪の中、みごとにあだ討ちを、こんどは実社会で完遂させている。おみごと。

東海道四谷怪談で、戸板に打ち付けられたお岩の幽霊が出て、伊右衛門に言う文句、

田みや、伊藤の血筋をたやさん。

この文句の、意味じゃなくて、字面と響きが、なぜか、大好きだ。東海道四谷怪談は歌舞伎の脚本で、鶴屋南北の作だが、これはオレの最愛の書。この本のどこを開いても、いつでも毎回、自分の心の中にある目と耳がそのとりこになる。

東海道四谷怪談を読むことで喚起される「ある感覚」とは、現代人のオレの心にもたしかにしっかりと江戸時代が生き続けているという証拠でもある。というわけで、時代というのは不死なのだと思う。しかし、たとえ古い時代が死んでいないとしても、今生きている自分がそれに気付かなければ、自分の目の前には現れないわけで、その「気付き」を担うのが、たとえば四谷怪談という作品、ということに、なる。

ということは、四谷怪談というのは、オレにとって正しくタイムマシンに相当する、ということになる。行ったことの無い土地へ電車に乗って出会いに行くのに、まあ、似ている。

先日、ホーキング博士は、未来へ行くタイムマシンは可能だが、過去に戻るタイムマシンは不可能だ、とコメントしたと聞いたが、きわめて唯物論な発言だ。でも、それって、世の中を「唯物論な科学者」の目で見たら、その通りで、どこにも間違いはないんだよね。

オレの目は、ホーキング博士のそれとは異なるので、同じ世界を別様に経験しているということになり、実は博士の言と少しも矛盾しない。なんで矛盾しないかというと、二人は住んでいる世界が違うからだ。これって一種のパラレルワールドかもしれないね。

芸術というのは過去と未来を独特の仕方で結びつけるタイムマシンのように思えて、面白いな。

じつは、ブレア・ウィッチ・プロジェクトを見てすごく気に入ってしまい、本当はもう一回借りて見たいのだけど、うちの奥さんには面白くも怖くもなかったらしく、面と向かってアレの何が面白いの? と、言われ、そのときなんとなく虚勢を張ってしまい、まあ、別にたいした映画じゃないんだけどさ、とか答えてしまい、そのせいでなんだか借りれなくなっちゃった。

ブレアウィッチのなにが自分に面白いかというと、二人の男と一人の女性の行きつ戻りつのちょっとしつこい人間劇っぽい展開。これは脚本が、気に入った。で、ブレアウィッチで自分が怖いと思うところは、エンディングの、廃屋の階段を叫びながら昇ったり降りたりするシーン。自分が子供のころ外で遊びまわってたときの恐怖経験みたいなものが蘇るから、らしい。

それで、さっき、ブレアウィッチに似た超低予算の素人ドキュメンタリー風の恐怖映画「パラノーマル・アクティビティ」を見たのだけど、やっぱ、オレはこれも怖いわ(相変わらず奥さんはまるで怖くないって 笑) そういやずいぶん昔だけど、かの「リング」を見て、怖くて、一ヶ月、電気をつけて寝てたもんな。これも奥さんに、バッカじゃないの、といわれている。

現在というのは、完成された過去と比べると常に未完成な未熟なものなので、現在がイヤになることは自然なことだ。でも、その嫌悪感や倦厭感は、未来へ至ろうとする意思や希望の力とバランスを取るべきものだ。しかし、バランスは至るところで容易に崩れる。倦厭側にも、そして、希望の側にも。ある人は、未熟な現在を逃れて平穏な過去の中に身を浸していたいと願い、ある人は、貧しい現在に蓋をし、過去は忘れ去り、追い立てられるようにひたすら未来の実現を願う。本当の人生は、そのバランスの中にこそあるはずなのに。

朝、なんとなく手に取った文庫は小林秀雄だった。詩人の中原中也の思い出を書いた文を読んだのだけど、やはり、見事な名文だ。こんな文章を書ける人は、もう、ほとんど出てこないのだろうな。文体というものの姿もインターネットの登場でずいぶん変わった。文体は今では万人が着ている服装のようなものになった。今では、人々は文体というものを、その文章を書く人の外見のように眺めていて、要するに、人がしゃべっているところをカメラの眼で見ていることに近い事情になっているように思う。書くことと話すこととの間にだんだん差がなくなって行く過程とも写る。人々の求めているものが変わったせいで世の中で流通する文体が変化するということと、人々の書く文体が変わったことで世の中の好悪が変化して行く、ということは同じことなので、日本語の文体の姿は、はっきり、変わったのだ。さて、それにしても、冒頭に書いた先の小林秀雄のエッセイなどを読むと、なんだか強烈なぐらいの味わいがあり、それゆえの安堵感、そして大げさに言うと人生の充実感のようなものを感じるのは、これは確かなことだ。それはひとえに、その文体に「深い」なにかが刻まれていることが伝わって来るからなのだが、今の時代、こういったものに接することは極端に減ったね。僕は、それは時代の流れであって仕方ない、とは言わない。やはり名文は名文であって、その文が名文か否かを判断できる人は育てないといけない。でも、今の人間にそれら名文を書けとは言わない。名文か否かが分かる感性を内に持ちながら、現代風の安い文体を書き飛ばす人がたくさん出て欲しい。と、言うか、自分はそういう文章書きを目指したい。

作品の著作権意識というのは根深く、そして厄介な感覚だ。自分は、すでにできあがってしまった作品という静的なものにこだわるのを止め、表現という「動いている」ものの方に軸足を移したい。人間が生きて生活して、その一挙手一投足が表現になり、芸術になる、そういう方向へ行ければと思う。ほら、一世代前の、ピカソも、ウォーホールも、ダリも、そうだったでしょ? これは感覚的に言うが、作品の著作権意識、アイデアの知的財産意識、というのは長年に渡った貨幣経済から来ている根の深い一種の古い社会本能ではないかな? 現代は、人間たちが、これに変わる新しい本能への脱皮を目指してもがいているようにも、見える。

カントの純粋理性批判の文庫を買って読んだことがあるんだけど、最初のページからほとんど分からず、3ページぐらいで挫折した。そのときは、哲学って、本当にむずかしいもんだな、と思ったものだ。しかし、最近になって改めて哲学の解説書のようなものをいろいろ読んでみると、哲学は、実は、思ったより理解できるものだということが分かった。どうやら、日本語で読む哲学って、あの独特の漢語を組み合わせた用語のせいで理解できないことも多いようだ。

というわけで、最近、弁証法の入門書を読んでいるのだが、その中にカントの哲学の骨子を説明している部分があって、ほんの5、6ページなんだけどちゃんと理解できた。そっか、そういうことを言っていたんだ、って感じ。僕が読んだカントについてまとめると、以下の通り。

人間が論理的にいくら考えても、絶対に解明できない世界が常に彼方に残る。なぜかというと、彼方の世界を実際に論理的に解明しようとすると必ず矛盾した結論が引き出されるから。結局、宇宙は、人間が分かる現象界と、人間が分からない英知界に分けられている。ところで、「英知界は人間には分からない」、と言いながら、じゃあ、なんで「英知界がある」なんて言えるんだ、と言いたくなるが、これこそが、人間には論理を超えるものを理解する能力があることの証なのである。

かくのごとく、「論理」じゃなくて「言葉」を使うと、いろんなことが言えて、いろんなことを理解できる。いや、「いろんな」どころか「あらゆる」ことが展開できる。そんなわけで「言葉」というのは極めてヘンな存在である。そして、カント以降、「言葉」へ関心が移ってゆくのである。