Dアップ

そういえば思い出したが、僕が初めて秘密組織というものを、実際に経験したのは、今からおよそ20年前にN研究所で働いてる時だった。僕は陰謀論者でも秘密主義でもなんでも無いのだけど、あの経験はなんか印象的だったので今も覚えている。

あ、期待しないで。つまらない話だから(笑

当時(いまでも?)N研究所では、管理職への昇進を、俗にDアップと呼んで異動時期に辞令が下りる仕組みになっていた。Dグレード以上は管理職なんで、Dアップって言うんだろう。あの頃の職員制度はシンプルで、管理職と一般職の二種類しかなく、ある年齢に達して、ある査定が下ると、一般職を管理職へと昇進させるってわけだ。

あるとき、異動時期に、僕がそのDアップになった。職場にいると、誰だかに呼ばれて、所長だかの部屋へ入って、そこで辞令を受け取るってわけだ。オレは当時、世俗にきわめて疎かったので、辞令受け取っても、へえー、管理職ねえ、って思っただけで、特段の感慨もなかった。

で、翌日(かな?)には、オレは管理職になったわけだが、別に仕事の様子が変わるわけでもなく、そのまま出勤してふつうに仕事してた。

そしたら、別の個室にいる部長と副部長の部屋へ行くように言われ、行ってみたら

「林くん、あのね、今日の夜、ちょっと会合があるんだけどね、それに出てくれる? 場所は成城学園のマ・メゾン、あそこね。予約してるから、来てね」

と言われた。僕もその時は、それ何かの宴会ですか? とかなんとか聞いたけど、来れば分かるよ、としか教えてくれない。

で、夜になってその成城のフレンチレストランへ行ったら、大きめの個室が予約されていて、そこに通された。で、その部屋に入ったら、なんと、僕の部の管理職の全員がすでに大テーブルに座っているではないか。

オレが入って来るのを見て

「林くん、おめでとう、今日から君もわれわれの仲間だね!」

とか言うのである。で、聞いたら、管理職会という会があって、これは一般職にはその存在を知らされておらず、定期的に会合を開いては、管理職だけで、仕事に関する密会をしてる、ってのが分かった。

まー、政治家で言うところの料亭の会合みたいなもんだ。

新米管理職のオレは

「へええ! こんなことやってたんですか!」

とか反応したが、まあ、十人弱はいたと思うんだけど、みな、笑顔でオレの肩叩いたりして、やけにフレンドリーなの。そのときの特権的感覚の快感、っていうか、そういうのを何となく覚えていて、その秘密な感じがとっても印象的だった。

もっとも、世間知らずの自分は、管理職の仲間入りをしても、特段に嬉しくもないし、責任感を感じてなんか自覚するわけでもなかった。あの特権的秘密団体への、なんというか帰属意識みたいなものをオレがあのとき持てたら、ずいぶん変わってただろうな。

ところがオレは、そのまま管理職業務をテキトウにこなしながら、自分勝手にやりたい放題やって、あげくの果てに、上が止めるのもあっさり無視して、辞表出してN研究所を辞めちゃうんだが、オレも、もうちょっと世俗が分かるのが早ければ、今ごろもっと楽に生きてたのになあ、とは思う。

ギリシャ・イタリア紀行

二週間ほどギリシャとイタリアをうろうろして来たので、その紀行文を書いておく。時は、1995年の秋である。もうだいぶ海外遊び旅行に慣れてきたので、今回は、ホテルの予約なしで向こうへ行き、着いてからの予定は未定だった。イタリアを出入口に使い、まずイタリアへ飛んだが、イタリアへはすでに何度も行っていたので、このときのメインは初めて行くギリシャである。イタリアでは、まだ行ったことのない南の方へ一、二か所行くていど、と考えていた。

ナポリへ

ローマの空港に着き、そのまま南下してナポリに泊まり、ポンペイの遺跡を見に行った。僕は、実は、遺跡というところへこのとき初めて行ったのだが、遺跡というのは本当にあっけらかんとした場所だ、というのがそのときの第一印象だった。南イタリアの真っ青な空に輝く太陽の強い日差しの下で、屋根の無い、仕切りだけの部屋が、延々と続いている、からからに乾いたものすごい環境である。僕はここに来るまで、昔このポンペイのあらゆる密室で行われていたであろうさまざまな事々にデカメロン的興味を抱きながら、思いを馳せるようになるのかなあ、と漠然と思っていたのだが、そんなものは、強い日差しの下で、もう跡形もなく蒸発してしまったように思えた。そうなると、見ている人間の想像力だけが頼りだろうが、まあ、遺跡のまっただ中にいるときはそんな感傷のかけらも浮かばず、とにかくなにもかもが乾いている、と感じただけだった。

ポンペイの遺跡

イタリア南端のブリンディジ

ギリシアへはイタリアの南端から船で渡る予定にしていた。ギリシャ行きの船はブリンディジ(Brindisi)という港町から出ているので、ナポリからさらに汽車で南下、それが6時間もかかる。ただ、今までのヨーロッパ旅行の経験からあちらの電車は座席もゆったりしていて気分がいいので、わざわさ電車の旅を選んだといったところだ。僕はこのときたまたま通常のルートとはちょっと違った、ナポリからそのまま南下してまず南端のターラント(Taranto)という町へ行き、そこから半島を横断してブリンディジへ行くという経路を選んだ。ターラントで、トロッコと呼ばれている2両編成の小さな汽車に乗り換えて、ブリンディジへ向かう。

ブリンディジへは2時間の旅である。この、延々と2時間に渡って、汽車の窓から見た南イタリアの景色は、僕が生涯見た中でもっとも美しい光景だった。僕の座っていたボックスの後ろには土地の男5、6人が座っていたが、彼らは2時間の間、間断なしに何か怒鳴り合っていた。イタリア語は聞き慣れているはずだが、あの、大声を張り上げた、口げんかそのものの会話は、イタリア語の日常会話というよりは、アメリカの黒人教会での牧師の説教と信者の掛け合いを思わせるものだった。この怒鳴り合いをバックにして見た窓の外の風景は、なんと形容してよいか分からないが、とにかく畑と木々と雑草と土と空と雲だけの風景で、その同じ様なパターンが繰り返し繰り返し現れては消えて行き、永遠に続くかとも思われる光景だった。その主要な魅力は色である。あんなきれいな、そしてあんなに隅々まで調和した色彩は全く夢にも見たことがないほどだった。ゴッホが死ぬ1週間ほどまえに描いた「ドービニーの庭」という絵があるが、あの絵の色彩が延々と続いているといった感じだった。今はあれこれと考えて形容できるが、見ているときはまるでLSDかなにかをやっているような状態で、理性が全くどこかへ飛んで行ってしまったようだった。

これからギリシアへ向かい、また再びイタリアへ帰ってくるわけだが、このターラントからブリンディジまでの経験がその前触れとなった。そういえば、ブリンディジという町は、あのイタリアの犯罪学者のローンブロゾーから演劇性犯罪者の町と言われているそうだ。

ブリンディジの港

アテネの街とアクアポリス

ブリンディジから夜行の船に乗り、ギリシアへ向かった。船旅はこれが初めての経験だったが、このとき船の最上階デッキで僕は完全な闇というのを初めて経験した。僕のような東京育ちは、月のない完全に真っ暗な状態を知らないのである。

さて、ギリシアの船着き場から4時間汽車に乗ってアテネに着いた。アテネの第一印象は、ここはヨーロッパではなく既に中東だ、というものだった。町中の至る所に、むしろ香港を連想させる東洋的混乱がここから始まっているといった感じだ。ギリシャ遺跡のアクアポリスは、僕の取ったホテルの窓から見上げる位置にある。僕は歩いて頂上へ向かい、着いてみると、巨大な石がごろごろと転がっていて、遺跡が無造作に点在している。とにかく空の青さと、石の白さで、目がどうにかなりそうな所だったが、実際、これ以降、ギリシャの島々へ渡ったのだが、ギリシャ滞在の一週間の間は、なにもかもが青と白だった。遺跡はポンペイですでに経験済みだったが、とにかくなんらのニュアンスもない、というのが僕の印象であった。至る所で出会う石彫は単純化されたミケランジェロ(もちろん話が逆だが)といった風に見えた。あるいはミケランジェロから人間臭さを抜いてしまったようなものに見えた。

アテネの街

そういえば、アクアポリスはオフシーズンではあるもののものすごい数の観光客であった。日本人はオフシーズンには来ないらしく東洋人は非常に少なく、半分がアメリカ人、あとはヨーロッパ各地といった構成だった。その中で、恐らくアメリカ人と思われる、30歳前後の、背の高い女性が、神殿に向かって、石の上にまっすぐ立って、じっと動かず、どうやらチャネリングをしているようだった。そう、確かにあそこにあるオブジェは、時空間の遠くの彼方にある何らかの精神と交信する窓としてしか機能しないようにも見えた。

アクアポリス

アテネの町中へ降りると、そこは至る所が中東化した、そして、町の至る所にあの粗末でひどく小さなおもちゃのような礼拝堂が至る所にあるギリシア正教の町である。ギリシャ正教は、偶像禁止なので、他のヨーロッパの街で見慣れたごてごての彫刻のたぐいは一切なく、板絵のイコンが至る所に飾ってある。町の人々はこの小さな礼拝堂に頻繁に立ち寄ってお祈りをしている。イコンに描かれたキリストや聖者達の図は、いまだにジョットの前の時代の画風からほとんど変わっていない。あのビザンチン美術から来た、細く痩せた人間達の像は、極度に禁欲的に見える。

アテネの街のイコンのキオスク

アクアポリスはアテネの町から一段高いところにあるが、この高台には、巨大な石を刻み、これを正確に積み上げて、天に向かって古代ギリシアの遺跡が誇らしく立ち並んでいる。これが地上のギリシア正教の町とどうつながるのかわけが分からなくなる。キリスト教で言うところの精神と肉体の相勉、そこから出てくる禁欲などという代物などおよそ思いついたこともないように見える、あの古代ギリシャ精神は、ギリシヤの全土をあるときに覆い尽くしたキリスト教の下で出口を失っていたのかもしれない。そして14世紀に遂に、地下深くを移動してイタリアの火山と共に噴火した古代ギリシャ精神、それがイタリアルネッサンスだったのかなあ、などとアテネをぶらつきながら空想した。

ギリシャへ行ったらとにかく島へ渡らないとだめだ、とみんなに言われていたから、僕はアテネのトラベルエージェンシーで、ミコノス、サントリーニ、クレタのアレンジをしてもらい、2、3泊ずつ島を渡った。

ミコノス島

ミコノス島はとても小さな島だったが、不定形な真っ白に塗った家が料面に迷路のように密集して立ち、海は青く、空は青く、これはもうひたすら白と青の島だった。確かに海辺は目が覚める美しさだったが、僕は島を回るために貸しバイクを借りて、内地を走り回った。島の他の場所は、もう草もろくに生えない、大きな茶色い岩がごろごろと転がる、火星のようなところだった。昼はビーチからビーチへ走り、夜になると素朴なギリシャ料理と赤ワインと食べ物をねだる猫とでゆっくりするという、いつもの自分には似つかわしくないバカンスらしいバカンスを過ごした。

ミコノス島の民家

サントリーニ島

次の島サントリーニは、ミコノスより少し大きな島で、ここも青と白だった。ただここは、そのむかし噴火があり、大きな湾ができ、その真ん中に溶岩が海底からせりだして出来た巨大な無人島がある有名な場所がある。海面から何百メートルも高い高台は観光地そのもので、この壮大な湾と島にタ日が沈む光景を見ながら食事できるカフェやレストランが山ほどある。それはいいとして、僕がこの高台に着いたときは晴天の空に太陽がぎらぎらと照りつける真昼だったが、広がる湾は、まるでこの高台からそのまま飛び込めるかと思えるほど広大かつ、すぐそばにあるように感じられるものだった。そして、その真ん中に無言で横たわる巨大な無人島は、海面の太陽の照り返しの中で、いくつもの触手を伸ばした巨大なアメーバのようだった。この光景はあまりに印象的で、僕はかなりしばらくその場を離れることができなかった。何かそれまで見てきたギリシャの自然を象徴しているようにも見えたのだ。それは、イタリアのブリンディジで見た自然とまさに対極の自然だった。いろいろなものが強さと、対照を見せていた。青の純度と強度、そして白の純度と強度、すなわち固有色の強さが互いにきわだって対照されているのである。それに対してイタリアで見たものは、色の洪水だったが、それぞれの色は何の主張もしておらず、すべてはその調和の中にあった。

この不気味な真っ黒い巨大なアメーバのような島を見ながら、僕はギリシャというところはその昔、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、と哲学者達がそのへんをぶらぶら歩いていた所として実にふさわしいところだと思った。強さと純度、旺盛な生命力や、創造の力、彼方へ至らんとする意志は、こんな土地から生まれたのだな。

しかしこのアメーバはいつでも人間を陶酔から引き戻そうとする。

こういった自然の中で人間が意識的であり、きわだった存在であらんとする精神に比べて、イタリアで見た自然には創造の力というものが全く欠けていた。あれはその自然だけで天国のように幸福な所で、新しく人間がつけ加えるべきものは全く見あたらず、全ては自然の中でそのままの姿で美しく、そしてそれらは互いにみな手を取り合って、調和しているのだ。それは、人間に対して、人間であるという特権を全て捨てて、我と共にあれと常に誘惑しているように見える。ギリシャで見たものに、意識的という言葉を使うとするなら、イタリアで見たものは麻庫的という言葉に対応しそうだ。あるいは動物的と植物的と言っても良いかもしれない。あるいは覚醒と幻覚でも良いかもしれない。

サントリーニ島の高台より(右斜め上に見えるのがアメーバのような真っ黒い無人島)

それにしてもこの全く対極にあるものが手を取り合うということがあるのだろうか。何かほとんどあり得ないように思う。このふたつは人間に対して常に相反する形で突きつけられているように見える。これはあまりに西洋的な考え方かもしれない。インドや日本など、東洋では、このふたつはこのように鋭く対立するような形で提出されてはいない。それにしても、東洋人の僕も、もう少し西洋人風に行ってみようと思うのである。

クレタ島

さて、サントリーニからクレタ島へ渡った。クレタ島は他のふたつに比べ圧倒的に大きな島で、ビルが立ち並ぶ近代的な町を持つリゾート地のような所である。ここには有名なクノッソス宮殿の遺跡がある。その昔、怪獣ミノタウルスをこの迷路のような宮殿に封じ込めたという言い伝えの残る場所だ。しかし、この遺跡はまあ、見るも無残なほどぼろぼろの廃墟だった。言い伝えがファンタスティックなのに比べると、この遺跡はもうあまりにも粗末に見える上、そこに観光客が群がっているとなると、想像にふけるというよりは、僕も観光客としてとにかくこれを見たという確認をするのがせいぜいといったところだ。それに対して、この遺跡の回りに広がる自然は実に美しいものだった。おだやかで、豊かで、このからからの廃墟と好対照を成していた。

クノッソス宮殿

これで僕のギリシャ回りは全てである。僕にとって、結局ギリシャは、自然については哲学者の国、そして人間についてはギリシャ正教の国だった。この後、アテネへ戻り、飛行機でローマへ戻った。結局イタリアへは当初の予定よりずいぶん早く帰ってきてしまった。帰国まで4日残っている。結局、僕はギリシャにいて、イタリアが恋しくなってしまっていたのである。結局、僕はギリシャの太陽や空や島や日の入りや海や、そのもろもろを愛することはできなかったようだ。それらは、僕には愛するというにはあまりにも強すぎる。陶酔するより覚醒を迫られてしまうのである。たぶん僕はひねくれものなんだろう。

イタリアへ戻る

この再び降り立ったイタリアで、これから僕は、それまで見てきた、先にも触れた、意識的と麻庫的、動物的と植物的、そして覚醒と幻覚の鋭く対立するふたつが、手を取り合って大団円となる光景を実際に見ることになる。これはなかなかの神秘的体験だった。

ローマでは行くところを特に決めていったわけではなかったので、その日の気分で場所を適当に決めて行動した。ローマ市内はもう昔さんざん回ったので、汽車に乗って郊外へ行こうと思ったとはいえ、バチカンでミケランジェロのピエタがどうしても見たくて、ローマ中央駅まで行ったのだが、ごみごみしたローマが急に嫌になって、オルヴィエート(Orvieto)という小さな町へ行くことに急遼変更した。オルヴィエートはローマから汽車で2時間ほどの小さな町で、小さな町に似合わないほど大きくて立派なドゥオモがあり、その内部の壁画では、ルカ・シニョリやフラ・アンジェリコのフレスコを見ることができる。

汽車に乗り込みのんびりとローマ郊外を走っているとき、たまたま僕は、途中の停車駅で、Attigliano-Bomarzoという駅名を見付けた。このボマルツォ(Bomarzo)という地名は自分にとって特別な響きがある。ボマルツォという山間の小さな村には、「怪獣庭園」と呼ばれるさまざまな奇怪な石彫を配した庭園があり、いつか必ず行きたいと思っていた所なのである。ただ、この場所に関する情報がほとんどのないので、行き方が分からず、前回も前前回のイタリア行きでも諦めていたのだ。とにもかくにも駅名にこの名前が付してあるということは、駅からそう遠からぬ所にあるのではないかということになるわけだ。いずれにせよ、この偶然を心に止めて、オルヴィエートへ向かった。

オルヴィエート

オルヴィエートの町全体は数百メートルのわりと切り立った丘の上にあり、駅からロープウェイで町まで登って行く。ここのドゥオモはやはり素晴らしく、ギリシャの遺跡とビザンティン美術ばかりのあとでは、この彫刻や装飾で一面飾り付けたバロックの建物を見てほっとするのだった。こじんまりしたきれいな町だったが、歩き回っているうちにくたびれて、早めにロープウェイの発着所へ向かった。日没までまだ3時間ほどあったので、その時たまたま見付けた駅へ続く小道をのんびり歩いて下ることにした。

この小道を僕は2時間くらい歩いていただろうか、とにかく、人影はなく、あるのは草と木々と土だけだが、この小道の両側に広がる景色は、あのブリンディジで汽車の窓から見た光景と全く同じなのだった。ところどころに田舎の民家があり、手入れの行き届いていない、雑草の中に埋もれてしまいそうな小さな畑に、トマトやナスやその他いろいろな色の作物が生っていた。その合間合間にあまり背の高くない樹木が乱脈に生えている。まるで僕は天国に居るようだった。あらゆる色彩が親しげに優しげに輝いていて、全ての色彩が信じられないほどの調和を見せていた。草木の葉の色は、日本ではまったく見ることのできない、鮮やかで独特な緑色のあらゆるバリエーションを見せていた。僕はそのへんにある白茶けた石塀に生える苔と枯れ草の色にまで、完壁な色の調和を見いだす始末で、どうにもしようもない状態だった。

まさに麻薬かなにかをやってうっとりしているのに似て、時間の感覚もなくなってしまい、どれだけ歩いていたのかもよく思い出せないような状態だった。歩きながら僕は、ふと小道の横の地面に、黒ずんて腐りかけた汚い皮に包まれた木の実が一面にたくさん落ちているのを見付けた。踏んづけて皮を剥いでみると、中からきれいな薄茶色の胡桃がころんと転がり落ちた。この汚い黒い実は天然の胡桃だったのだ。殻を割ると、あの一対の脳のような形の核がちゃんと出てきた。食べてみると柔らかく味も上々である。僕は夢中でこの胡桃を拾い集め、あっと言う間に袋がいっぱいになった。

オルヴィエート

ボマルツォ

さて、このオルヴィエートの小旅行からローマへ帰ってきて、タ飯までの小一時間を町中でうろうろしているとき、たまたま本屋の店頭で地図を目にして、僕はボマルツォを思い出した。ローマ界隈はラツィオという名前で、僕はラツィオのロードマップを買い、ボマルツォについて調べてみた。そうすると確かに、Parco di Mosteri、怪獣庭園が載っている。昼間通過した駅から7kmくらいの所にあった。ボマルツォ行きにはいくつか方法が考えられ、例えばレンタカーがいちばん良いのだが、僕は10年以上乗っていない上に、聞いた話だとローマ周辺の高速は異様にわかりにくく、乗り慣れた人でもぐるぐると何周もしてしまう、ということなので、とても自信がない。Parco di Mosteriの電話番号だけは分かっていたので、行き方を聞けばいいのだが、イタリア語ができないのでこれもだめ。本当は、ローマのインフォメーションで聞けば、分かったかもしれないが、僕はこれを思いつかず、結局、駅へ行き、バスがあればバス、タクシーがあればなんとか交渉して半日貸し切り、最悪何も無ければ歩いて行く、という場当たり的計画で、翌日とにかくボマルツォまで、だめなら元々で行ってみることにした。

朝早くローマを出て、中央駅で、とにかくParco di Mosteriに電話をかけてみることにした。仮にたどり着いても閉まっていたら目も当てられないので、開いているかどうかは最低確かめる必要があったのだ。開くはAperto、僕の知っているイタリア語はそれがすべてだったので、いや、明日Domaniは知っていたのだが、まぬけなことに今日という単語が分からず不安だったが、思い切って電話してみた。英語がもし通じればと思ったが、やはりだめだった。そこで、「Parco di Mosteri, Aperto?」とだけ言うと、相手は「Si, si!」と応えてくれ、そのあと行き方を親切に説明してくれているようだったが当然全く分からず、礼(これは大丈夫Graze)を言って電話を切り、とにかく行けば開いていると信じて、汽車に乗り込んだ。

Attigliano-Bomarzo駅前はやはり何もなく、車の通りもなく、駅前からすぐ民家が続いている状態だった。これでもう歩いてたどり着くしかなくなったわけだ。しかも、手元にあるのはかなりおおざっぱな地図だけで、かなり不安だったが、とにもかくにも歩き出した。7kmというと歩いてだいたい1時間半というところだろう。しかし静かで気持ちのよい所だった。しばらく歩くと高台に出た。遠くに山々が見え、その合間の切り立った丘に、薄茶色の古城のようなものが、霞の向こうに見えている。僕はあれがボマルツォ村だろうと見当を付けて歩き出したが、どうも地図の方向と違う。かなり歩いて途中で引き返して、を繰り返し、実際途方にくれてもう引き返そうかと思ったのだが、ガソリンスタンドにいるおじさんにBomarzoと言うと、あっちだ、と指を指すのでその方向に歩き出した。

かなり歩くとようやく地図の道と一致しているらしい所までたどり着き、あとはくねくねした道を道なりに行けば着くはずだった。それにしてもボマルツォまで歩こうなどという人間がいるわけもないので、歩いているのは僕だけ、道は車がときどき通り過ぎるていどである。迷っている問にたっぷり1時間は過ぎてしまったので、これから本格的に1、2時間は歩く勘定になる。

回りの自然は気持ちの良いものだったが、日本の山道を歩いているのと大差はなかった。木々や草花の色や形は日本のそれと似ていて、どこぞの高原を散歩している感じである。例の古城のような所は本当に少しずつ少しずつ近づいてきたが、1時間も過ぎてそれが目前に迫りはじめ、地図と付き合わせてみると、これは違う村だった。僕はまだ半分にも達していなかったのである。仕方がない、諦めて歩いて行くと、道はだんだん登り一辺倒の山道になってきた。もともと僕は山登りもハイキングの趣味も全くないので、これだけ長時間山道を歩いたのは初めてだったが、それでも気持ち良く歩いて行った。

ボマルツォの村

怪獣庭園

さて、ボマルツォの怪獣庭園について紹介しておこう。ボマルツォはローマ近郊の変哲ない古いイタリアの小さな村である。16世紀にこの村に住んだヴィキノ・オルシニ公爵は、自らの大邸宅の回りに、大小二、三十はあるであろう奇怪な石彫を配置し、庭園とした。それがParco di Mosteri、怪獣庭園と呼ばれる所である。この異様な庭園は公爵の死後忘れられ、ずっと長い間放置され、物好きなごく少数の人間がたまに訪れるていどだったようだ。今でもこれは変わっていないが、少なくとも20世紀に入るころには囲いがあり門番が居たようである。現在でもガイドブックの片隅に名前の紹介があるていどだ。この庭園の存在は、マンディアルグ、澁澤龍彦といった20世紀の幻想文学に属する人達を通して知った。僕は、このボマルツォの怪物に関する本を数冊持っていて、そこに載る白黒の数枚の写真から見て、非常にファンタスティックな場所であることが想像され、是非訪れたいとずっと思っていたのである。

3時間ちかく歩いて 、ようやくボマルツォの村に着いた。恐らく最近になって観光地として整備されたのだろう。 広い駐車場があり、入り口の建物には売店やBARがある。ちょっとした田舎の鉄道の駅舎の感じである。さて、そこを抜けて高原風の散歩道をしばらく歩くと怪獣庭園の入り口がある。 訪れる人はやはり少なく、僕のほかに1、2組ていどだった。

僕がこの散歩道を歩いていると、あたりからどこからともなく猫数匹が現れて、僕のあとをついてきた、何か食べるものをねだっているのだろうと思ったが、やるものもなく、そのまま歩いて、僕は猫たちとともに怪獣庭園の入り口の門をくぐった。白と、白黒ぶちと、三毛の3匹の子猫と、大きくてまるまる太った大人の縞猫一匹だった。

庭園は広々としていて、ゆるやかな斜面になっている。あらゆる草や木々が生えた土地の所々に奇妙な、奇怪な、謎めいた、荒削りな、かなり大きな数々の石彫が配置されている。入り口を入って最初に現れたのが、ユーモラスな顔をして大口を開けた首が地面の上にあり、頭の上にはいかにも危なげに地球儀のような大きなボールを乗せている像だった。僕は白黒写真でこれを知っていた。奇怪という言葉は確かにこれらの像の形容に使えるものだが、実際には、恐ろしげな所や、思わせぶりな所や、おどろおどろしい所は全くなく、実にすっきりと明快なものなのだ。確かに奇妙で謎めいてはいるが、その雰囲気には実に自然なところがあり、その意味を詮索する気になるようなところはなかった。回りを取り囲む草木は実に美しく、これら奇妙な石彫と対照はせず、手を取り合っているようだった。

入り口にある像

ところで、入り口を入ったところで、太った縞猫はどこかへ行ってしまい、残りの3匹の子猫たちは僕のまわりをじゃれつきながらこのあとずっとついてきた。特に三毛猫は僕をときどき振り返りながら、先導するように付いてくるのである。あとの2匹はこの三毛猫と兄弟だったかもしれない。この庭園の散歩道にはちゃんとした順路もないし、柵もなく、木の杭が続いている程度だが、何故かこの子猫たちは僕から離れることもなく、じゃれあいながらついてくるのである。他にも何組か人はいたし、僕は特にかまったわけでもないので、これは不思議だった。

一応見たものを列挙すると、女の両足を掴んで逆さにし、股を裂こうとしている巨大な無表清のヘラクレス、背中にボールを乗せた亀、その横を実際に流れる渓流から突き出した大口を開けた巨大な魚の頭、ペガサスを中心にした噴水、大股を開き、足が魚の尾になったニンフの像、ヨーロッパ各地で見られるあの松の実を逆さにした石柱で囲まれた広場(この広場は特に幻想的だった)、始めから傾けて作られた2階建ての小さな塔、長い鼻で人間を巻き取っている象、数匹の虎と戦う大口を開けたドラゴン、大口を開けて笑う奇妙な生き物などなど、その他小さなものを入れると三十種以上になるだろう。

ドラゴンと犬
半ば地に埋まった魚の頭

これらを見て回ると、斜面をゆるやかに登って行くような感じになり、最後に現れるのが、ボマルツォの怪物達でもっとも有名な、恐ろしげな怒りの表情で大口を開けた巨大な顔の像である。口の中は空洞の小さな部屋になっていて、真ん中に小さなテーブル、そして内壁がベンチのようになっていて腰掛けて休むことができるようになっている。これらは全てひとつの大きな石の削り出しで作られている。僕はしばらくここに腰掛けて、明るい外を見ながらぼんやりしていた。マンディアルグが面白いことを言っている。この口の中で交わされる会話は、空洞で反響して、外にいる人間にとっては、この顔の像があたかも恐ろしげに吼えているように聞こえるだろうと言うのだ。

怪獣庭園のシンボルの大口

さて、口の中から出てくると、ずっと僕についてきた子猫たちはいつの間にかいなくなっていた。最後に見たときは、ドラゴンの前足を滑り台にして遊んでいたっけ。ここから上へは階段になっていて、それを登ると、途中に歯をむき出して凶暴な顔をした3つの頭を持った地獄の番犬ケルベロスの像がある。登り切ると、そこは広々と開けた芝生に出る。その広場の奥には、幾本もの右柱で支えられた、小さなお堂がある。ちょうど、礼拝堂をそのままミニチュアにした感じだ。奥にはどうやら昔何かが祀ってあったようだが、今では、誰かの写真が柵の向こうに飾ってあり、イタリア語で説明書きが添えてあった。たぶん、この公園を整備した人か誰かだろう。

地獄の番犬ケルベロス

このお堂から出てくると、これまたどこからともなく、入り口でいなくなった例の太った縞猫が僕を待っていた。僕と猫は広場を横切り、一緒に岩の上に腰掛けた。イタリアの太陽、紫色や黄色や緑色に色づいた木々、広々として開放的で実に気持ちのよい気候だった。この猫は、座っている僕に体をすりよせて、しきりに媚びていた。ふと僕はかばんの中に、オルヴィエートで拾った胡桃が入っているのを思い出した。僕と猫は、ボマルツォの怪物たちを延々と巡ってきた果てに、オルヴィエートの自然の中で生まれた胡桃を食べたのだった。

まるで童話のようだが、僕にはこの猫が「どうでしたか、きっと気に入ったでしょう」と言っているように聞こえるのだった。そして子猫三匹はこのデブ猫が僕につけさせた案内役のようにも思えたので、「案内の彼らはどうでしたか、お気に入りましか」と言っているようにも聞こえるのだった。子猫たちは、あの最後の大口の怪獣は嫌いのようだ。それにあの凶暴な3つ頭の犬はもっと嫌いだっただろう。あの犬の顔は他の数十ある石彫の中でも飛び抜いて凶暴な顔だったから。それに犬と猫は仲が悪いみたいなのだ。ギリシャで、僕はかなりしばしば犬が猫を全速力で追い回しているのを見た。もっとも最後は猫が木や塀にぴょんと飛び乗って終わってしまうのだが。とにかく、この猫たちの振る舞いは不思議だった。

覆い尽くし ~ 動くもの ~ 大団円

僕には、この、ブリンディジの自然から始まって、ギリシャの風景を経て、再びオルヴィエートの自然に戻って、そしてこのボマルツォで終わる一連の巡り合わせが、大きな流れを持っているように感じられたのである。ギリシャで見た意識的なものと、オルヴィエートで見た麻庫的なものという、この相反するふたつのものが、ここボマルツォでは手を取り合っているように見えた。あたりの美しい自然、木々や草花の広がる斜面のところどころに、地面から長い年月をかけてゆっくりと生えてきたようにも見えるこの奇妙な形をした石彫が点在するようすは、僕たちが風景の中にときおり見つけて気を留める、珍しい形をした草花のようでもある。オルヴィエートの色の洪水の中で、僕はまったく麻癖的状態で恍惚としていたわけだが、僕の意識をまんべんなく覆っているようにも見えるこの調和の中に、やはりところどころ節のように、見えない意識が凝縮した何かがあるのだ。これらのせいで僕ら動物は、この自然で中で植物になってしまうことから常に引き戻されているようだ。その象徴が僕にとっては、オルヴィエートで拾った胡桃の実だった。

胡桃の実というのは、本当に脳髄に形が似ている。それをあのボマルツォの自然の中で食べるということは、何か一種の儀式めいて感じられる。食べるというのは動物的行為だから。植物には、覆い尽くすというテーマがあるようだ。それに対して動物は凝縮して、それが動く、という感じだ。覆い尽くすというのは、調和という性質の中にも見て取れる。それは意識をまんべんなく取り巻いてしまい、光のようなものですっぽりと包み込んでしまい、意識はその調和の中に無限に拡散してしまうのだ。植物がこの地表を覆い尽くすように育っていくさまが、人間が調和に捕らわれてしまうことのアナロジーに見える。それに対して動物は調和を振り切って空間の一個所に凝縮して、ある強度を作り、自分の回りのものと自分を区別するために、まわりより強い何かをある一点に集中させる。そしてこの凝縮した意識は、それ自体、空間と時間を自由に動き回ることをその目的としているようだ。自らが動くことによってまんべんなく淡く広がっているエネルギーを摂取して、さらに自分の強度を増し、きわ立った存在になろうとしている。

さて、これでいろいろな問題が、ある二元論になって見事に関連していることが分かってくる。動物的と植物的、意識的と麻癖的、強度と調和、凝縮と拡散、運動と覆い尽くし、これらいろいろな局面で現れる概念が、互いに関連しているのである。そして僕は、今回の一連の旅行でそれを目に見える形で見たように感じたのだった。

それにしてもボマルツォの石彫は素晴らしいものだった。人間が自然や伝統から意識的に離れることで、いくらでも物珍しいものが作り出せるということに気付いた現代人は、あらゆる奇妙で奇怪で人を驚かせるようなものを大量生産しながら今に至っている。しかし、そのおびただしい量のがらくたの中で本当に光っている作品は実に数少ない。おそらくそれら優れた作品は、人間の綿々と続いている伝統からあるものを得て、それを作品の中に開花させ、今後も生き続けるために必要な生命を吹き込んでいるのだろう。誰の言葉だったか、「ひとりのボードレールの出現で何人ものボードレールのような詩人が葬られた」という、皮肉だかなんだか分からない言葉があるが、僕にはなぜだかひっかかる言葉である。ボードレールはあの象徴詩という見た目にはだいぶわけが分からない詩の新しい形式、そして言ってみれば従来の詩の形式から意識的に離れて今までと違った技術を詩の中で実現することで、一瞥しただけで、物珍しく、奇妙な詩を作り出した。トルストイなどはボードレールの象徴詩を口を極めて罵っている。それにしてもボードレール流の詩人達が生き残らなかった理由は、ボードレール自身が、自らの生きる時代に至る時の流れと、その中での美の伝統を、正確に認識していたからなのだろう。まあ、いい。この話はあまり面白くないのでこのへんにしておこう。

もとへ。17世紀だかにオルシニ公爵の庭を飾る石彫は作られたわけだが、想像するにこの時代は物珍しさが大量生産できることに気付いていなかった時代、あるいはそれに仮に気づいても誰も見向きもしなかった健全な時代だったのだろう。だからあれを作った人たちは、奇妙さというものを、人間の内面から、あるいは外の自然から取ってきたに違いないのだ。それが証拠に、何百年たった今、これら石彫たちが回りの自然とこの上なく、そして独特の調和を見せている。確かにこの作品とて美術史的に言えば、バロック芸術の極端な例に過ぎず、しかも表現はいまだ稚拙である、ということになるだろうが、これら石彫が、緑色の苔やツタに覆われて、侵食されて、隠れてしまいそうになりながら、それらとうまく調和しているさまからは、人間の中のバロック的噌好の本当の出所を暗示しているようにも見える。

動物的と植物的、意謝的と麻庫的という対立した言葉は、実はフランスの哲学者ベルグソンのものだ。旅行に行く少し前、彼の「創造的進化」という本を持ち歩いてまぐれあたりに読んでいたのだった。そこで展開されている考え方は、僕には容易に理解できるもので、強く共感できるものだった。しかし、当時、あるいは今でもベルグソンの哲学は直観と飛躍の哲学と受け取られて、論理的構造に矛盾が多く理解しにくい、と言われていたようなのだ。哲学を勉強する者に芸術的側面が欠けているというのは、まあ仕方がないことだろう。まさにベルグソンが言っているのは芸術の意味を説明しうる哲学だが、芸術の内面的な意味が直観で分からない者には理解できないだろう。実際、僕もかなり極端なのだ。本当は哲学の論理的構造などどうでもいいのだから。

女の股を引き裂くヘラクレス

ローマへ戻る

さて、あまり思いつきを書き飛ばすのはこの辺で終わりにしよう。ボマルツォの庭園から僕は早めに切り上げて出てきた、日が沈むまでに駅に着かなければ宿へ戻れなくなりそうだからだ。しかしこの小旅行はおまけ付きだった。ボマルツォ村から出て、さあこれから2時間は歩かなければ、と思いながら道を引き返していると、ひとつの車が僕に目を留めて止まり、駅まで乗せていってくれたのだ。二人のイタリア人だったが、運転している方の人はイギリスでしばらく仕事をしたことがあるそうで英語ができた。それにしても車に乗り込んでものの10分ほどで駅に着いてしまった。信じられない速さだ。

こうして、僕は、イタリアの自然の調和から、ギリシャの強度を経て、ふたたびイタリアに戻り、その最後に、ボマルツォの怪獣庭園で、それら相反するふたつが手を取り合うところを実際に視覚的に見る、という経験をしたのだった。しかも猫たちとの童話つきで。一種の神秘体験だなと思った。

ボマルツォから無事に夕方に帰りついたその日の夜は、ローマ中央駅近くの大衆食堂で、実に楽しく食事をした。

カセットプレイヤー

オーディオ談義。

オレのオーディオのメインギアは、自分で作った2A3シングルの真空管アンプと、フルレンジスピーカをインストールしたトールボックスで、大変良い音がする。

オレ、かつて、アパートで一人暮らしをしてたことがあって、もちろん、このギアを部屋にどかんとセットして、CDかけて、ええ音やなあ、と悦に入っていた。

ある日、友人が部屋に遊びに来た。もちろん、そのオーディオセットであれこれBGMして、酒飲んでた。そしたら、彼が部屋の隅っこにあるブツを指さして、それ、なに? という。ああ、それはオレがヒマつぶしに作ったカセットプレイヤー、って答えた。

そう。それは、適当な板の上に立体配線で作った真空管カセットプレイヤーだったのである。ウォークマンをスペーサで板に固定し、そのヘッドフォン出力を2球のモノラル真空管アンプで増幅し、それを、8cmぐらいのスピーカを100円ショップで買った木箱に入れたヤツで鳴らす、ってシロモノだった。

オレ、聞いてみる? って言って、部屋の隅のカセットテープ箱をがさごそして、大昔にダビングした、Muddy WatersのSale Onというラベルのついたテープを持ってきて、電源入れてセットして再生ボタンを押した。B面をかけたんだな、オレ。曲は、I Can’t Be Satisfiedだった。Muddyのエレキ弾き語り。

そしたら、それを聞いたその友人、即座に

林さん、こっちのほうがぜんぜんいいよ! あっちの化け物みたいなのより、ずっといいよ!

と言うのである。で、オレはというと、うーむ。たしかにこっちのほうがはるかに音がいい。不思議だなあ、って思ったけど、きっと1948年に録音したMuddyの音は、圧倒的にこの糞チープなカセットテーププレイヤーに軍配が上がるのだ、と思い知った

その後は、ずっとこの糞カセットプレイヤーでブルースを聞き、いい気分で酒を飲んだ。

オーディオってね、そういうもんだよ。

日本版シリコンバレー

日本版シリコンバレーを作るという政府の計画があるそうだ。これは別に初めてのことではなく、これまでも政府や産業界は、シリコンバレーだけでなく、日本版Googleを開発する、とか和製ジョブズを養成するとかいろいろやって来た。今回のは、その再燃のようなものだ。

それで、それを報道した記事に大量についているコメントのほとんどすべてが、どうせ失敗する、というネガティブ意見というのが、すごい。皆で失敗オーラを送り込んでる感じで、これはそのオーラのせいできっと本当に失敗するね。かくいうこの自分も失敗オーラ派かもしれない。やはり日本そのもののマインドセットの問題かな。

カタカナ英語を使っちゃったけど、マインドセットとは「これまでの経験や教育、先入観から作られる思考パターンや固定化された考え方」のこと。で、スピリチュアル的に言うと、このマインドセットが物事の方向や成否を決めている、ということになる。

アメリカのシリコンバレーは元を辿るとヒッピー文化あたりのスピリチュアル的思想に端を欲している。マインドセットさえ変えることに成功すれば、あとはプロセスが勝手に付いてくると思い込むことをスピリチュアルというのだが、そう簡単なことじゃない(啓発系ビデオではみな簡単簡単言ってるけど、大半の人は不可)

この日本版シリコンバレーの記事も、「政府がエコシステムの形成を目指すのは、日本が世界各国に追いつけなくなる、との危機感のため」と発言させるマインドセットが、すでにスピリチュアルと正反対を向いているので、この計画を実施するにせよ、その結果は別のものになるだろうね。

しかし、以上、自分も、一生懸命失敗オーラを避けて発言するのも大変だな。

自分は、スタートアップのようなことをやって2度失敗しているが、その経験から言うと、最低でも2度失敗しないと学習できなかった。僕の場合、3度目は諦めてアカデミアへ逃避した。というのもその時点ですでに53歳だったしね。これが20年若ければだいぶ違っていただろうと思う。

3度目の正直を、障壁なく保証するには、制度だけを変えてもだめで、人間のマインドセット自体を変える必要があると思うけどな。かといって失敗に烙印を押す日本人のマインドは、世の中を見ての通り、極めて根強いもので、変わりそうもない。そんな中でやってゆく方法の一つは、自らが変人になって世間の有言無言のバッシングの届かないところに身を置くことかな。日本世間は「おもしろそうな変人」には逆に極めて寛容なので、それを利用するといい。

記事の最後にあるように、さらにこれにかける全体金額が少なすぎなのも問題だね。100無駄して1成功、というやり方はカネのない日本には難しいのだろうね。日本の30倍以上の無駄を突っ込んでいる中国やアメリカと同じようになるはずがないのは、残念ながら見えている。となると戦略を変えないといけない。

スピリチュアルな人々でも集めてみる? 最近、日本でかなり増えてるみたいに見えるけど。ただこれまた多くはニセモノだろうから難しいところ。

結局は「自由」が与えられる場所にすることかな。ここでいう自由はLiberty(責任の伴う自由)ではなくFreedom(単なる物理的自由)の方。ヒッピー文化はFreedomの上にLove & Peaceを描いてやっていたんだしね。ただ、これも封建社会な日本にはほとんどそぐわず、絵柄が違い過ぎ。

かくいう自分は3度目の正直を実行中で、新しいWebサービスを始めた。バーチャルミュージアムのプロジェクトで、2020年の8月3日にオープンした。

https://hachikei.com/

やっぱりオレって、スピリチュアル的な意味でも、そういうことをやりたくてやりたくて仕方ない人間なんだな。今回も、こんな風になるなんて、あまり思っていなかったけど結局そうなった。

いずれにせよ、政府は政府、世間は世間で、マインドセットがスピリチュアルな人々は、それらを横目に可能な限り自由にやるといいよ。

ロックンロールバンド

急に思い出した昔ばなし
 
オレは高校生のころからギターを弾いて歌ってバンドをやっていたが、中学の3年のときに不良(当時はツッパリって言ってた。いまではヤンキーかな)にギターを教えてもらった、そのつながりで高校時代、多くの不良とつるんでバンド活動とかもしてた。
 
あるとき、その不良の一人に自分のバンドのギターをやってくれないか、って頼まれて、ツッパリバンドでリードギタリストになったことがある。練習は、そいつの古い家の屋根裏部屋。ドラムもアンプもあって、まあ、近隣はうるさかっただろうなあ。
 
で、そのバンドはロックンロールバンドで、当時なので、みんなリーゼントっていうの? 髪の毛にポマードつけてとさかみたいなの作って、いつも櫛持ってて梳き梳き(すきすき)して、革ジャンにスリムのジーンズに短靴な人たちで、アイドルはもちろんキャロル。なのに、そこに、ふつうの軟弱なカッコしたマッシュルーム頭のオレだけ完全に違和感。
 
で、コンサートの当日になった。あれは大井町のシブヤ楽器(だっけ?)のホールだった。
 
オレは当時より偏屈で、そのころサンダルしか履かなかったのだが、それがまず仲間で問題になった。というのは、メンバーは全員コーディネートされた衣装で出ることになっていて、特に白いスニーカーは全員同じものを履く、って決まってたの。でも、オレは強行にスニーカーは絶対履かない、って拒否した。そしたら、僕を呼んだ彼が、まあ、いいじゃん、林はそれでいいよ、って言ってくれ、仲間たちはホント、しぶしぶ承知した。
 
ギターはテスコの糞ギターで、オレはコンサート前日に弦を張り替えたが、当時はギターも弦も品質が悪く、チューニングがボロボロ以下で、しかも、いちばん細い弦を張ったせいで、もう、ビヨーンビヨーン言っちゃって音楽にならない。
 
バンドのパフォーマンスは演出がきちっとされてて、手順が全部決まってて、踊りとかも全部きっちり練習して決まってた。やつら不良って、勉強はぜんぜんしないけど、そういうことは物凄く真面目にやるんだよね。
 
そのときの演出は、最初、演奏隊だけがスローブルースを演奏して、そこに、リーゼント、サングラス、革ジャン、ジーンズ、白いスニーカーのボーカル隊が駆け足で入って来て、いっせいにロックンロールに移行する、ってやつ。
 
で、ライブ始まって、オレがビヨーンビヨーンってスローブルース弾いてて、その時点で、我ながらもう糞演奏で、そこに、白スニーカーたちがカッコつけながら駆け足で入ってきた光景を今でも覚えてる。
 
で、そのロックロールの途中にギターソロがあるんだが、その時、オレだけにスポットが当たって、ボーカル隊の4人がオレの右に二人、左に二人来て、一人は立って、一人は膝まづいて、ソロの間じゅう両手で、ヒラヒラヒラヒラ、ってやるの。
 
これは超恥ずかしくて、その時は、オレ、なんでかわかんないけど、自分だけスニーカーじゃなくて、サンダルを履いてるのが特に恥ずかしかった。しかし、こんな演出、オレ、聞いてねーよー、ってマジで思い、下向いて弾いてた。
 
その後、コンサートが終わってたむろしてたとき、メンバーのやつらが、林のギターがビヨーンビヨーンいっちゃってうるさかったよな、みたいにオレにわざと聞こえるように文句言ってた。で、友人がそれをなだめてたの、覚えてる。
 
それで、あっさりクビになった。
 
オレの若い頃って、なーんにも考えてなかったから、感情のディテールが無くて、クビになっても、悪口言われても、陰口たたかれても、なんとも思わなかったんだよね。メンタル最強。
 
ああ、あのころの強メンタルのオレに戻りたい。

ブルジョア・ブルース

自分には人種差別感情がたぶんほとんど無いと思っているのだけど、なぜなのかはよく分からない。差別される側としては、大昔、ヨーロッパで英語がロクにしゃべれない東洋人としてバカにされた経験はあるが、悔しい思いはしたものの、差別されたという感覚は無かった。
 
差別をすることも、されることも、どちらもほとんど経験が無いので、結局、自分には人種差別についての感覚はほとんど持ち合わせが無い、ということになると思う。
 
そんな自分は黒人ブルースにハマった。知っての通り、ブルースはアメリカの黒人差別のただなかで生まれた音楽である。なぜ、それに、それほど惹かれたものか、これまたよく分からない。人種差別の感覚が無いのだから、それが直接の原因になったとは思えない。
 
ところで、このまえ、スウェーデンの僕の所属するバラライカ・オーケストラのコンサートで200人の前でブルースを歌って喝采されたのだが、そこで歌ったのはブルジョア・ブルースという歌で、これはアメリカの古い黒人シンガーのレッドベリーの歌だ。
 
この歌を選んだのは僕じゃない。オーケストラのリーダーのオーヴェさんがこの歌を持ってきて、僕に歌ってくれ、って頼んだのだ。
 
しかし、この曲の内容は、もろに黒人差別の経験を歌ったものなのである。レッドベリーがカミさんとワシントンDCへ行ったら、白人の皆に見下され、蔑まれ、こんなところは来るもんじゃない、こりゃブルジョアの街だ、最悪だ、みんなに知らせてやらなくちゃ、って歌っているのである。
 
この歌を、黄色人種のオレに歌わせるなんて、しかし、オーヴェさんも人が悪い(笑 
 
オーヴェさんは白人だが、彼は民族音楽のプロミュージシャンで、ジプシーミュージックみたいなのを演奏している。そういう意味では、日本人のオレがブルースを演奏するのに近いとも言える。たぶん、そんな類似があったんで、僕にこの曲を持ってきたのかな、とも思った。
 
しかしながら、このまえ、20人の白人のオーケストラをバックにして、ステージ中央にギターを抱えて座って、200人のほぼ全員白人の客の前で、大音量で
 
Hey! I tell all the colored folks!
Listen to me!
Don’t try to find your home in Washington DC
 
(おい! 有色人種のみんな! オレの言うことをよく聞け! 間違ってもワシントンDCを棲み処にするもんじゃねえぞ!)
 
って、シャウトして歌ってて、なんというか、内心、すごく微妙な気持ちになったよ。僕自身の中には、先に書いたように人種差別は最初から無いんだが、なんだか、黒人差別をプロテストする歌を、オレ、大勢の白人を前にアジテートしてるなあ、とか思って。
 
ご存じの通り、スウェーデンは人種差別を始め、あらゆる差別がもっとも少ない国の一つで、すでに、ここにいる白人のみなも、自分が「白人」だなどという意識はなく、単に「人」としか思っていないと思う。そもそも、僕が上に書いているように、スウェーデンの人々を「白人」呼ばわりすることは、おそらくここでは問題発言だろう。
 
そういうわけで、偏見がほとんど無いので、そもそも「白人の前で黄色人が黒人差別のプロテストソングを歌う」というシチュエーションの捻じれにはみな、不感症になっているはずで、なんだか変じゃないか、なんて感じる人はほとんど皆無だと思う。
 
実は、僕も、ほぼそうなのだが、ただ、ひとりのミュージシャンとして、このBourgeois Bluesをオレ、歌ってるとね、このスウェーデンのステージで起こっているような、きれいに整備され、守られた、人工的な理解の場が、なんだか夢のようにリアリティが失われて感じる瞬間が、あるんだ。不思議な感覚だよ。
 
というわけで、来週またBourgeois Bluesを歌う。あと、Kindhearted Woman BluesとKey To The Highwayも。オレの出番、楽しみだなあ。

若者と哲学

少し前、神戸へ行ったとき、甲南大学で20人ぐらいの学生を相手に、日本ビジュアルカルチャーの講義をした。縄文から江戸までの日本のビジュアル中心に紹介するお話で、スウェーデンでやってるのを日本語に直したものである。
 
学生たち、興味を持って聞いてくれたのだけど、そのスライドの最後の最後に哲学の話が少しだけ入れてある。それは「主観と客観」の捉え方についての、西洋と日本の違いについてである。講義でさんざん日本ビジュアルに接した後に、それを分かってもらいたい、という意図で入れている。
 
もちろん、唐突にそんな哲学的なことを言い出しても、ふつう、分かるものではない。講義のあと、学生たちとお茶を飲みながら、しばらく話をした。驚くことに、学生たちの何人かから、自分は哲学に興味がある、と言ってきたことである。
 
思えば、スウェーデンにしばらく滞在したK君も哲学を知りたい、と僕に直接言ってきたっけ。僕もそれを受けて少し話しかけたが、準備なしにするのは難し過ぎて、途中であきらめてしまった。
 
若者が哲学という言葉を出すことにつき、僕はわりと懐疑的で、ひょっとしてどこかの雑誌か何かでそんなことが言われていて、それで一種の流行として哲学という言葉を出しているだけだろうな、と大半は勘ぐって受け流してしまうのだけれど、どうもそうでも無いようなのである。
 
で、甲南大の2、3人の哲学を知りたいと言ってきた学生と、みなと一緒にしばらく哲学の話をした。僕が講義後の質疑のときに出した例は
 
「君たちは、空に輝いているあの太陽は何だと思いますか? 地球の何百倍も大きくて、中では核融合が起こっていて、恐ろしく熱くて、人間などちょっと近寄っただけですぐに死んで蒸発してしまう、そういう物体だと思ってますよね? でも、それは違うんです」
 
と、乱暴なことを言ったのだけど、やはり大人にこれを言うのと、若者に言うのとでは、その反応が異なるのである。
 
その後、そういうことを巡ってお茶を飲みながら若者と話したときにも、その若者の方から、先生、僕はときどきこう感じるんです、という話が出てきて、それは
 
「僕らが住んでいるこの世界というのは、誰かが作り出したものかもしれず、ひょっとすると全部作り物かもしれないし、でも、自分たちにはそれが本当はどうなのか、知る方法がない。そう感じるんです。先生の太陽の話だって、そうで、あの太陽も作り物かもしれない」
 
という話で、彼の心は、やはり現実とイメージの間を揺れているわけだ。「現実」というのは「客観」、「イメージ」というのは「主観」で、その関係の危うさを心で感じ取って、それに一種の危機を感じている、というのがよく伝わってくる。
 
一方、昨晩、僕は「告白」という10年前ぐらいの松たか子が主演の映画を見たが、実に残酷な映画でよくこんな暗いストーリーを作るなあと感心したが、あの中でも若い子たちが現実とイメージの間の危うさの上を揺れている。それから、僕は漫画をほとんど読まないが、ごくたまに読んでみると、その中でも、やはりその同じ危うさがテーマになっているのを見ることがある。
 
きっと、そんな中で、日本の若者は、現実とイメージの間に思いをはせるようになるんだろうな、と想像する。
 
それで、彼らと話していて、大人と違うな、と思ったのが、そんな話をしていると、若者たちの目が輝くというか、一生懸命理解しようとする、というか、そんな率直な目をすることだ。そういうところは、若いって、本当にいいなあ、って思う。
 
大人的に言えば、それは若者がまだたいして何も知らないからで、単に雰囲気で一生懸命に見えるだけだよ、ということになるかもしれないし、それは、まあ、そうだろう。
 
でも、日本の彼ら学生は、大学生活の後半になると、例の真っ黒な就活スーツを着て、髪を切って黒くして、マニュアル通りの面接をやって、社畜の振りをして働きはじめる。その状況は、それはもう完全に虚構の世界の中を生きている感覚になるんじゃないだろうか。現実とイメージの境は、自分という独立した人間の心の中で怪しく揺れ動き、現実を生きているのか、イメージを生きているのか、虚構を強制されているのか、虚構を演じているのか、分からなくなるのではないだろうか。
 
そんなところを突いて、日本の映画や小説や漫画のストーリーが作られるのだが、それは一種、強烈な「哲学的な問い」であることは間違いなく、彼ら若者が哲学という言葉を口にするのは、ひょっとすると何か切実なものがその心の裏にあるのではないか、と僕などは、買いかぶりかもしれないが、感じることがある。
 
願わくば、そういう若者たちに、哲学をちゃんと教えてみたいものだと思う。

タイムアウトと村さん

目黒タイムアウトに初めて行ったのはいつだろう、と調べてみたけれど、はっきりした日にちが分からない。メールをさかのぼってみると、2009年の10月半ばに、職場が新宿から目黒に移っているので、そのころということになる。ということは、ほとんどちょうど10年前で、僕が50歳のときだったんだな。

オフィスは目黒の権之助坂を降り切ったあたりにあったのだが、移転して最初に出勤したその帰りの夜、さっそくタイムアウトを見つけた。店へ降りる階段の入り口にポンコツギターが掛けてあったので、あ、こんな店がある、って思い、よほど入ろうと思ったけど、狭い入り口から中を覗くと奥の方に階下へ降りる階段が見えたが、だいぶ入りにくく、うーん、と思ってそのまま入らず、駅へ向かってしまった。

翌日、こんどは絶対に行こう、と決めて、夜オフィスを出て、権之助坂を上って、それで迷わず入り口を入った。ぎしぎしと狭い木の階段を降りて扉を開けると、狭いスナックのようなバーで、店内は雑然としていて、ギターや楽器が見えて、奥の方に小さなステージが見えた。客はおらず僕だけだった。

そのときオレは初めて村さんに会った。

いらっしゃいませ、って言っただろうなあ、村さん(当たり前か 笑) ビールください、って言っただろうな、オレ(これも当たり前 笑) 村さんの第一印象は、バーのマスター稼業はまだだいぶ慣れてないのかなあ、って感じで、なんだか客の前で身を持て余してるみたいに見えたっけ。

僕は、どんなシチュエーションでも、そういうふるまいをする人って、無条件ですぐに信用するので、なんだかほっとしたっけ。で、いつものように、ギター弾いてブルースとか演奏するんですよー、みたいに話して、ちょっと弾いてみていいですか、みたいにギターを取って、ステージで、たぶん、Robert Johnsonの、きっと、Kindhearted Woman Bluesを歌っただろう。

村さん、すごく褒めてくれて、もう、そのとたんに常連扱いになった感じ。村さんの推薦で、それから、タイムアウトでバタバタっとライブが決まった気がする。

あれから10年だったんだな。オレの50代の人生は、目黒タイムアウトとともにあったな。たくさんの人に会って、たくさんの人を連れて行った。行くといつも優しい目をした村さんがいた。

村さん、いままでありがとう。そして、さようなら。

素養

これは何度か書いているけど、さっき、思うところがあったので、再び。

だいぶ前だけど、僕がいた会社で本を出すことになり、皆が自分の仕事についてエッセイを寄稿した。上がって来た原稿は、みなが共有していたので、人の書いたのが読める。

その中に、一人、自分の仕事にいつも全力で打ち込むわりと熱い人がいて、2、3ページ分の彼の原稿も上がってきて、僕はそれを読んだのだけど、彼は、文章を書くのは大の苦手だったらしく、その文章は、はっきり言ってかなり下手だった。

ところが、読んでみると、まるで彼が仕事の現場で悪戦苦闘しながら働いているのをそのまま見ているような、その情熱が文からそのまま伝わって来るのである。文が下手なのは本人も分かっているようで、でも、とにかく「オレはこれが言いたい」という情熱がものすごく強く、書いた文をあれこれいじくりまわして、あっちを直してこっちを直して、そのうちにわけが分からなくなり、みたいに、作文の上でも悪戦苦闘している様子が、文体から分かるぐらい、変な形容だが、壮絶な文章だった。

でも、その文章の全体から、彼の一本気で熱い人格がそのまま浮かび上がってくるような、見事な文だったと思う。それを僕は、ひとり読んで、驚嘆したのである。

そして、その原稿は編集部の校正に回され、ほどなくして校正済みの文が上がってきた。ご想像通り、文章はほぼ全面的に直されて、元の文は跡形もなくなっていた。きれいに整頓された無個性な文体で、仕事の様子が整然と説明されている、それだけの文章になっていた。その文はそのまま印刷され、書籍になった。

で、これを思い出して何を思ったかと言うと、僕は長年の文学野郎なので、文学の素養は相応に身に付けている。それに照らして判断すると、彼の元の文は文学作品として価値があり、極端な言い方をすると、完成されていた。それが自分にはよく分かったので、もし僕が校正をしたとすると、文学的な意味での魅力を削ぐことなく注意をしながら、文法上の誤りとか、そういう機械的な要素だけを直しただろう。自分とて、完璧にその校正ができるとは思わないが、極力、文に現れた個性を残す努力をしただろう。

編集部で校正をした人に文学の素養があるかどうかは、知らない。文学素養はあっても、単なる職業と割り切って、機械的に仕事をしただけかもしれない。でも、もしその職業が板につき過ぎて、文学をすでに忘れ果てていたのだとすると、それは悲しいことで、実際に、その人は、一つの文学作品を葬ったということになる。

文学の素養などというものは、とりとめのないもので、そんなものを持ってたって世の中の役には立たない。その文学教養を組織的に論理的に適用してベストセラー小説が書けるか、というとそんなのは無理だ。教養は、決して「方法論」として組織されていないので、そのまま役には立たない。機械に文学教養を教えても、素晴らしい小説を生成してくれるわけではない。

でも、人がその教養を持っていることで、せっかくの価値あるものが埋もれてしまうことは防ぐことができる。この例ならば、あの校正人がおざなりな校正をせず、文学素養のある人が校正していれば、筆者の心は文になって生き残ったのだ。

教養というのは、そういう過程を経て世の中を豊かにするわけだ。そういう意味では役に立つんだ。

この前、自分は、神戸の学会で、21世紀は哲学とアートの素養が絶対に必要です、としゃべってきたが、やはり説得力に欠けるんだ。哲学とアートが直接に何の役に立つか分からないからだ。でも、この文の顛末記のような、そんな形を取って役に立つのである。21世紀は、きっと、そういう素養によって、その結果に決定的な差がつくはずだと思う。

しかし、これをどうやって説得したらいいものか。冒頭の彼の文の顛末の話を例にして説明したって、「役に立つって、たったそれだけかい」で終わってしまいそうだしね。

難しいなあ、って思ってね。

露天風呂にて

新潟の貝掛温泉というところへ行ってきた。山奥の一軒家で、いちおう秘湯扱いらしいが、ひなびた山の宿とかじゃなく、わりと立派な、いわゆる温泉旅館である。けっこう大きな露天風呂があり、とても快適な、由緒ある古い旅館だった。

貝掛温泉は目に効く温泉として有名だそうで、お湯にホウ酸だかが含まれてて、昔は湧出した水を、そのままパッケージして目薬にして売っていたそうだ。温泉は37度のぬる湯で、ほとんど体温と同じぐらいである。目に効く、っていうんで、みな、湯が湧出しているところへ行って、目をつけてパチパチする。それで、湯はぜんぜん熱くないので、30分とか、下手すると1時間とか、ひたすら露天に浸かっている、という感じになる。そして、それが済んだら、隣接した熱い湯に移動して、十分に温まって、湯場を出るのである。

そんな風に長湯になるので、湯に浸かって、周りの自然を見ながら、ひたすらぼんやりすることになる。

僕もそうして浸かっていたら、最初、巨大なオニヤンマが露天の湯の周りをひたすら輪を書いて低空飛行をしており、ずっとそれを目で追っていたけど、なんだか、あまりに巨大で怖い。こっちに目掛けて飛んで来ると、思わず、顔をそらしちゃう。まあ、先方も体当たりをするはずもないのだが、自分の目の前の50センチぐらいのところでしばらくホーバーされると、なんかだいぶ怖い。僕は、虫が苦手なのである。

十分ぐらいしてようやく巨大トンボがいなくなって、やれやれって思って、水面を見ると、3メートルぐらい先のところに、小さな虫が誤って落ちたらしく、ひたすらもがいている。5ミリぐらいだろうか。すくって外へ出してやってもよかったけど、ま、いいや、って見てた。見ると、いちおう水流があるらしく、1秒に1センチぐらいの速度で移動している。ひょっとすると、もがいてるんじゃなくて、泳いでるのかもしれない。

3メートルぐらい先にある大きな石に向かってゆっくり移動しているので、ずっと見てた。5分ほどたったら、とうとう岸まで到達した。どうするだろう、って見てたら、あ、岸に着いた、と思ったとたん、石の上をタタタタタと大きなアリが登って行くのが、見えた。そうか、あいつだったか、巨大アリだったのだ。すごい勢いで走って石の裏へ消えていった。

それにしても、水面はそこそこ波で荒れてて、あの、藻で滑りそうな石に着いたとき、水面でもがいてたアリは、いったいどんな風に石に足をかけて、しかも6本もある足をどう使って態勢を立て直して、すかさず石の上に着地できたんだろう、あいつ、そんなことをいつ習ったんだろう? ってしばらくぼんやり考えてた。

で、ふと気づくと、今度は、1センチから2センチほどある木片みたいなのがやはり前方3メートルぐらいのところに浮いているのが見えた。しばらく見てると、その木片からかすかな細かい同心円状の波が広がるのが見えた。10秒にいっぺんぐらいの頻度である。死物の木片では、これはあり得ないので、これまたやはりなんらかの生き物であろう。でも、ごくたまにしか波が出ないので、たぶん、こいつはすでに瀕死だろう、ってしばらく見てた。

そうこうしていたら、僕の浸かってるぬる湯の向こうにある、熱い湯のところから、おっさんがこっちに移動して来て、じゃぶじゃぶ、って湯をかき分け、僕の前方5、6メートルのところに座った。遭難している大きめの虫は、そのおっさんと僕のちょうど真ん中へんに浮かんで、おっさんの方に向かって、やはり秒速1センチぐらいで移動している。

おっさんは虫に気が付いたかな、って思ったが、共同風呂って、なんだか他人と目を合わせるのを極力避けるようなところがあって、ジロジロ見るわけにいかないが、ちらっと盗み見したら、おっさんがその虫を見ているような気がした。

しばらくしたら、おっさん立ち上がり、虫の方に向かって移動したので、お、ひょっとして虫をすくって、レスキューするつもりなのかな、ってちょっと期待して見てた。小さな四角い顔で角刈りっぽくした強面の小柄なおっさんだったが、へえ、ここで助けるか、って思ってたら、そのまま、虫の横を素通りして、右奥の方へ行って湯を出てしまった。

そりゃそうだよな、そんな虫なんか気にするような感じじゃないしな、とか勝手なことを思って、やはりしばらく虫を見てた。

この虫も、前と同じような移動速度で、同じく、岸の石に向かっているので、ほどなく到達するのである。ずっと見てたら、果たして、岸に着いた。そしたら、ホント、着いたか着かないか、ぐらいの恐ろしい速さで、まるで、そのむかし驚嘆したクルって回るクロールのターンみたいに素早く、その虫は、垂直に一直線にすごいスピードで飛び上がり、あっという間に背の高い木を超えて、向こうへ飛んで行ってしまった。瀕死かと思ったら、すごい勢いでびっくりした。

2匹の虫のサバイバルを見て、もう、いい加減に湯を出るか、と思って、自分の後ろの石の上に置いた白い手ぬぐいを取ろうとしたら、その手ぬぐいのすぐ横に、だいぶ大きな、鮮やかな緑色をしたバッタが横倒しになって死んでいた。虫の苦手な僕は、うわってなったが、さっきはいなかったから、僕が湯に浸かってる間、そこを死に場所に選んだものらしい。

バッタをそのまま放置して、手ぬぐいを持って、そういえば湯で目をパチパチしてなかったっけな、と思い、湯が湧出してるところをざぶざぶと歩いて、湯に目を浸けて、それで風呂を出た。

30分も露天風呂に入ってると、いろいろあるもんだな。

「表現の不自由展」の中止騒動と、芸術について

あいちトリエンナーレで開催された「表現の不自由展」の展示作品の中に、慰安婦像など日本人を不快にさせるものがあるとの理由で、また、脅迫じみた投稿も相次ぎ、結局早々に中止を決定した、というこのニュース、考えがなかなかうまくまとまらないけど、すごくもどかしい思いがいろいろあるので、現時点の感想を書いておく。

慰安婦問題の少女像 きょうかぎりで芸術祭展示中止へ

まず、このニュースを見て真っ先に感じたのは、自分は芸術と表現の自由の側にいるのは、これはもう、長らく芸術至上主義だったことからも明らかなので、そっち陣営として極めて平凡なことだった。つまり、芸術理解の浅い行政の芸術への介入に嫌気がさし、人々の心を豊かにするはずの芸術が人を不快にさせていいのか、とかいう幼稚な芸術理解に嫌気がさし、さらにこれを政治事件と取り違えて脅迫じみた言動をするやつらの馬鹿さ加減に嫌気がさし、といった、もろもろの反応である。一方、僕と逆の側にいる人々は、僕のこの反応を裏返したような反応をしたはずで、今回は、その人たちが行政と相まってイベントを中止に持ち込んだ、という結末だったわけだ。

それで、思うに、自分のこの反応は、単に、たとえば、学校での教師ぐるみのいじめやら、理不尽な校則による人権蹂躙やら、ヘイトスピーチやら、そういうものを見聞きしたときの嫌悪と同じもので、それが特段に「芸術」だから、という特別なものではなかった。というか、自分的に、このニュースを見ても、そこには「芸術」も「表現」も「自由」も関係しているようには、まるっきり思えなかった。

そうなってしまう一つの理由は、僕がこの展示を見ていないこと、それから、ネットで断片的に作品の写真を見ているだけなこと、つまりモノを見ていない、ということもあるだろう。

芸術でなによりも一番大切なことは「見る」ことである、五感を通して触れることである。これはもう、間違いない。だから、五感を通して接した芸術に、言葉にならない「なにか」が、その作品の中に、あるか、無いか、が芸術の価値を、まず最初に決定的に決めるのであって、そこは揺るぎようがない、というのが自分の芸術観だ。作品が表現しようとしている意図などというものは、たいてい俗か、あるいはおまけなのであって、それは二の次なんだ。

だから、芸術においては、作品にはどうしても触れないといけない、見ないといけない。仮にそれがネット上の写真や複製であっても、それは仕方ない、その限られた範囲内で、とにかく作品に触れないといけない。それをせずに、芸術の尊厳を言っても、表現の自由を言っても、それは空言というものだ。それで、この件についての自分のことだが、展示会は中止になったので見ようがないが、ネットで知った断片に触れただけの感想で勝手なことを言うと、僕にはその作品群が、あまり魅力的に思えなかった。簡単に言って、カッコいいように見えなかった。

作品を作るときには、その作家の力量が確実にものを言う。当たり前のことだが、これを他人に伝えるのは難しく、客観的指標などしょせんはどこにも無いので、あとは、一種の「存在感」に頼ることになる。芸術を論じていると、結局は、そういうことになるんだ。

たとえば、思い出すが、数年前、ノルウェイへ旅行して、モダンアート美術館に入ったら、そこに有名なアーティスト(名前を忘れた)の展示があった。それは、巨大な牛一頭を縦に切断して、真っ二つにして、そのまま透明のアクリルで固め、その切断された牛の入った巨大なアクリルのボックスを二つ並べたもので、見る人は内臓を露出させた切断面の中を歩いて見られる、そんな作品だった。おそらく動物愛護の人や牛を愛する人が見たら卒倒しそうな作品だが、これは、まさに、圧巻だった。世界のあらゆることを集めたみたいに見えるその重量感と、存在感は物凄いものだった。これは、明らかに、作家のたぐいまれな力量のせいだ、とすぐに感じた。

あるいは、たとえば、僕はマルセル・デュシャンとアンディー・ウォーホールを信奉していて、事あるごとに彼らを引き合いに出すが、彼らの作品の多くは、ひどく取り留めのないものだ。男性便器に署名を入れて床に放置したり、マリリン・モンローの写真を大きく引き伸ばして赤や緑に塗ってみたり、そんなようなものだ。デュシャンのその便器(Fountainという作品名)だって、今回の中止騒ぎと同じく、当時展示されたときは、スキャンダルを巻き起こし、展示は撤去されたのである。でも、そんな混乱や喧噪や俗な社会反応をはるかに超越した、正真の芸術家としてのデュシャンとウォーホールが、その醜いドタバタ劇の向こうに、ゆるぎない存在感をもって静かに控えているんだ。

以上のような芸術家の「力量」が、あらゆる作品を芸術たらしめているわけで、そういうもののない作品は、それはただの俗な社会装置に留まる。別に作品にする必要すらない。言葉で言っておけば済むようなものだ。それで、以上の芸術の芸術たる部分はまるで理解しない人の方が世の中ではマジョリティなので、そういう人は作品から言葉やメッセージを受け取るだけで、それを判断して、いいだ、悪いだ、と言っているだけだ。結局のところ、今回だって、そういうマジョリティが展示を中止に追い込んだわけで、これは単なる社会現象の一つに過ぎず、少なくとも僕にとっては芸術本体と関わりのないことで、どうでもいいことだ。

今回の表現の不自由展で言えば、作家たちもさることながら、これを企画プロデュースした人の芸術的な力量の大きさで、その価値が測られることになるだろう。それは、この後に自ずと見えて来るだろうと思う。

どんなにまばゆいばかりの芸術作品であっても、それが作品である以上、必ず無理解な俗世間にさらされることになる。そして、その俗世間は、その作品に対し、その芸術家に対し、ピンからキリまで玉石混交さまざまに反応し、年月が経ち、その評価は落ち着くところへ落ち着いてゆく。そして、すぐれた芸術家だけが、歴史に残り、最後には教科書に載って、俗な世間も「大芸術家」として認知して、文句を言うのを止める。それは、特に、何百年も前、芸術が特権階級のためのものだけだった時代が終わり、近代になり、世間に開放されて以来、繰り返し行われてきたことだ。

そして、その芸術の価値は、やはり、芸術が特権だった昔の権威を引きずっている。でも、近代の訪れとともに、幾多の偉大な芸術家たちの努力の積み重ねにより、その芸術の「特権性」は解体されたと思う。その代わり、それは、さっき書いたように、作家とその作品の、存在感や重さというものに姿を変えたのだと思う。

結局、「芸術」や「表現」や「自由」というのは、世俗的なところには存在しておらず、それらの貴重さは独立しており、社会などという俗なものからは演繹できない。でも、特権が排除された今、芸術は特権的には働かない。だから、芸術も表現も自由も、俗な社会に対しては必ず戦いを強いられる。それは、俗社会の中の健全な営みの一つに過ぎない。いつだっていつの時代だって、そうやって戦った来たのだ。本当に価値のあるものは、決してその時代にすんなり受け入れられることはない。それは戦って勝ち取るものだ。そのためには、この現代であっても、僕たち俗衆は、「カリスマ」を必要とする。今回の騒動の中から、そういうカリスマが産まれれば幸いである。

近代になって、芸術の価値の特権が排除され、皆のものになり(民主化)、特権的な芸術価値は芸術家個人のカリスマに形を変えたが、今度は、この21世紀に、そのカリスマが排除される時代になって行くだろうか。僕が今の社会を見ている限り、それは当分、起こりそうもない。むしろ、いま、俗世間はひたすらカリスマを求めて右往左往さまよっているように見える。一刻も早く、自分が無条件で信じられる対象を見つけたいという、矢も楯もたまらぬ欲求が世間に渦巻いて見える。世界的にそうだと言ってもいいが、これは特に日本のような国では顕著に感じられる。

失礼な言い方だが、ネットで見た、この展示会に並べられた作品の数々の、弱々しい様子を見て、実は、そのカリスマの解体、みたいなことも考えた。なんだか、誰にでも作れて、誰にでも寄り添える、無名性の高い作品、そんな芸術のゆくえみたいなものを感じないこともない。たとえば、僕の大嫌いなバンクシーなどはそれを狙っているように見えるので、ひょっとすると芸術界は、無意識的にでも次のフェーズに向かって動き出しているのかもしれない。

バンクシーで思い出したが、これはどっかで書いたが、あの、数年前にあった、オークションで自動仕掛けで切断された作品を見て、僕は、今回よりもはるかに不快に思ったっけ。一連の行為があまりに貧弱で幼稚だったので腹が立ったのだ。でも、それは、僕自身が、芸術史的に言うところの、自然模倣から呪術、特権的価値、そしてカリスマへ、と形を変えながらも、常にその奥底に存在し続ける「なにか」、時代を超えて存在する芸術作品の普遍性みたいなものを、まだ未練がましく信じているからかもしれない。僕は、やはり今でも芸術至上主義なのは間違いないが、そこで言う芸術は解体前の芸術のことで、歴史の向こうの遠い過去から綿々と人類が守り続けて来た価値として理解していて、それがなければ生きていけない、そんな貴重なものなのだ。

でも、現代では、そんなものはもうないんだよ、って言われてみれば、そうかもしれない。世界というのは、つくづく流動しているものだと思う。人は、その中に、何とかして不動のものを見出そうと常に、もがいている。僕もその中のひとりにすぎないが、願わくば、自分の見出した不動のものが、「永遠」の相に届くもので、ありますように。

顧問

思い出ばなし。

社名は出さないで書くけれど、かつて7年前にとある会社をリストラされた自分は、ハローワークに通っていたことがあったのだけれど、偶然が重なって、だいぶ昔に交流のあった会社の社長に拾ってもらい、無職は二か月ほどで終わらせることができ、そこで技術参与という肩書で働きはじめた。

会社にいるとよくあることだが、社長の知り合いの年配の人が顧問と称して会社に来ているのだが、一向になにをしているのか分からない、そういう立場に自分もいたわけだ。そこは純技術会社で、百五十人ぐらいの社員の多くは技術者である。自分は特に、顧問部屋みたいな隔離されたところではなく、現場の中にデスクを与えられて、そこに毎日通っていた。

周りの人で、僕を少しは知っている人はいたことはいたが、大半の人は、あの人、あのデスクに毎日来て、何をしてるんだろう、といぶかしく思っていたと思う。社長からは技術者たちを引っ張ってくれれば、と思われていたようだが、僕はその手のふるまいが苦手で(これが自分の最大の弱点)、特にその会社の仕事などせず、研究の仕事を継続して何となくやってたり、ネットサーフしたり、という具合で、きっと周りからは、お荷物感が強かったと思う。

そうこうして半年か一年か忘れたが、ちょうど4Kが流行り始めたころで、その会社製の4Kモニターが実験室に入り、そこにグラフィックカードを積んだPCが接続されて、PCが4Kモニター上で動く環境ができた。林さん、こんなのがありますよ、と言われ、案内されたので、さっそくそこにUnityゲームエンジンをインストールしてしばらく遊んでいた。

まず、四角い箱を作って、そこに手持ちのゴッホのJPEG画像を貼って、その中をウォークスルーして4Kで絵を見てたりした。そのUnityプロジェクトを自分のPCに入れ、家に持って帰り、デザイナのカミさんにこんなのやってるだけどさ、と見せたら、せっかくならただの箱じゃなくて、美術館にしなよ、絵も額に入れてさ、簡単だから私が作ってあげる、っていうんで作ってもらい、それを会社に持ち込んで、なんとなくCG美術館みたいなのが4K上でできた。

とはいえ、自分はこれを仕事だとはまったく思っておらず、第一、その4KのPCは、超高解像度の二次元データを見せる用途のものだったのである。たまたま空いてたんで、僕が遊んでただけ。

そうこうして、技術展示会にその4KのPCを出す、って言うんで、僕も二次元データ閲覧ソフトを展示する要員になった。ついでなんで自分のCG美術館もおまけとして入れておいた。

で、展示の前々日だかになって、その4K展示の横に立って、Iさんという人に、CG美術館見せて、こんなのも入れといたけどこれは完全オマケね、って言ったら、それを見たIさんが、これいいじゃないですか、せっかく林さんが作ったんだし、こっちをメインで見せましょうよ、というので、最初僕は、えー? これ遊びで作っただけだし、メイン出し物はあるんだし、そんなことしていいの? ってあんまり本気にしなかったんだけど、Iさんが、絶対その方がいいというんで、それを見せることにした。

さて、そうこうして展示前日になった。もうずいぶん長くなったが、これが、実はこの文で言いたかったことなのである。

社員のみへの展示の前日の午後、僕が立ってるそのCG美術館のところに、社員の技術者が次々と見に来たのである。今まで挨拶もしたことない、僕のぜんぜん知らない人が、何人も来て、なんだかすごく嬉しそうに、すごくニコニコして、僕のCG美術館を見ていろいろ質問をしてゆくのである。これは、もう、自分としてはびっくりだった。

さっきも書いたように、みなにとって僕は、なにしてるか分からない顧問の人という認識だったと思うのだが、なんと、その人が自力でCGアプリケーションを作って4Kで美術館やっている、と聞いて意外だったのであろう。そのうちの一人には「林さん、あの席でこんなもの作ってたんですか! ぜんぜん知りませんでした!」ってすごく感心して言われたりした。

やっぱり技術者は、自分でものづくりをしてなんぼな人たちなので、同じ技術者としてこの人は仲間だと思ってくれたのであろう。とても意外で、かつ、嬉しかったのを覚えている。

展示当日になって来場者の受けもわりとよく、それで、これを機に、バーチャルミュージアムの仕事を正式に始めることと、相なったわけである。まあ、とにかく、人生なにがどうなるかって、分からないもんだね。

理念と魅了

また最近、Jordan Petersonの日本語訳とかやったりしているので、彼のことを考えるのと、あと、彼の周りで起こっている騒動を英語のソースで眺めてみたりすることがいくらかあるのだけど、いろいろ思うことがあるな。断っておくけど、僕はなぜだか数年前から、Petersonから距離を置いている。

世界は問題で、はち切れんばかりになっているけれど、平均した人々の生活は改善され続けている。何年か前から、これは日本でも起こったことだけれど、一般の人々が「現実問題にきちんとアクセスしろ」そして「現実の問題を解決しろ」そして「夢物語は止めろ」と言い始め、それがまたたく間に数が増え、日本では、理想を語る、ということが、夢ばかり見ているお花畑、と揶揄されるようになった。

そうなると、学校や大学の教育も「現実的」な方向に舵が切られるようになり、社会人になってすぐに役に立つことを教えろ、ということになり、とにかく理想なんかどうでもいいから、現実問題に対処する具体的能力を養え、ということになる。

実際、その「能力」を一番高度に身に付けているのは政治家という職業人で、その能力は「教え」によっては得られず、数多い実践を積むことと、あとはその人間の持つ適性(遺伝)によるものだと思う。後者はどうしようもないので、前者を教育の場に持ち込んで、いわゆる「アクティブ・ラーニング」(ワークショップを通して学生自らに気付かせる)という方法論がおおいに流行った。

Peterson先生の大学の講義をYouTubeで見ると分かるけど、彼はおおぜいの学生に向かって、とにかく一方的にしゃべりまくっている。質疑はゼロじゃないけどほとんどない。というか、あまりにしゃべりまくりなのでアクティブな学生もさすがに割り込めないみたいだ。そういう意味で、ここ最近推奨されているアクティブ・ラーニングの真逆に見える。

Petersonには信者がたくさんいる。若者が多いはずだ。彼は、要は、説教師なのだ。フォロワーは信者のノリで彼についてくる。

若者たちは、問題解決能力の取得をなかば強制され、それを得た者はそれにより自分に自信を持ち、立派な能力を身に付けた人間として、巣立って行く。というのが大人が描いたストーリーなのだが、そうじゃない若者がまた、大量にいる、ということだ。つくづく、人間というのは弱い生き物だなと思うのだが、彼らは「理論」に飢えている。「理想」に飢えている。「大義名分」に飢えている。

問題解決はできるようになったが、そもそも、その問題をどのような根本的な理由によって自分は解決しようとしているのか、ということがいつの間にか見えなくなってしまった、という風景に見えることが多々ある。

そんなところにPetersonが颯爽と現れたわけだ。彼の理論が正しいか、正しくないか、それは僕も知らない。ただ、彼には根本的な理論の極めてはっきりした「提示」がある。それに狂喜して飛びつく若者が大量に現れても、驚くにはあたらない。

僕の考えでは、大人は、やはり理論や理想を教えるべきだと思うけどね。そういう意味でPetersonに賛成する。多くの大人たちは、口を極めて彼を攻撃するが、若者たちを魅了する、というのはやはり大切だと思うよ。それら大人は、そういう安易な熱狂の虜になる若者に、常に警戒するように言い、自分の力でいいか悪いか判断しなさい、そういう能力こそ養いなさい、とか無責任に若者に忠告するが、それはねえ、ちょっと難しくて言い表しにくいけど「そういう独立心のある人間がいちばん偉いんです」という価値観の表明だよ(たぶん、これは一種のキリスト教のプロテスタント的な価値観だと思う) で、若者たちがもし、それで混乱するのなら、その価値観は、十分な説得力を持たなかったということだよ。

21世紀になって、物事は、理念と理念の戦いの場になったのだと、つくづく思う。前世紀の20世紀には、それらの理念が、大きな世界的な現象を引き起こすことが何度も起こり、それで世界は激動したのだけど(共産主義と資本主義の対立とかとか)、個人個人を動かすには足りなかった。それが21世紀では、個人レベルで起こるようになった。

誰がいちばん強い理念を持っているかによって、世界がリアルタイムで具体的に変わる、そういう世の中になったんだよ。僕には、これがものすごい「相変化」に見えるけれど、一方で、本当に大変な世の中になった、とも見える。引退して、山水の世界へでも、隠居したくなるはずだ(笑)

それはともかく、自分の考えでは、そういう理念の世界になると、大切なのは、どのように理念を構築するか、ということと、いかにしてその理念を世の中に現出させるか、の二つになる。それらが何に相当するかというと、前者が哲学、後者が芸術である。さいきん自分は、20世紀は科学と政治の時代、21世紀は哲学と芸術の時代、とときどき言っているのだけど、その理由は以上のようなものだ。

ただ、はっきり断っておかないといけないが、以上は、欧米のメインストリームのモノの考え方における筋道を示したもので、東洋、そして日本は異なる。欧米が世界の道筋を圧倒的な力で作ってしまったので、それに乗っている限り、彼らの土壌で勝負しないといけない。そのためには哲学と芸術が必須だ、と言っているのだ。

では、東洋、そして日本の独自の道というのは、あるのか。僕はあると思っているが、まだあまりはっきりしない。しかし、現在の中国の急速かつ極度の発展が、その一つの方法論を決定的に示したことは間違いない。そして、日本も、中国のように意識的にではないが、その独特の文化によって世界に、ある一つの道を示したことも間違いない。欧米のメインストリームにどうしても乗ることのできない大量の若者たち、しかも欧米の若者たちですら、日本の漫画アニメゲームが救済している風景は、見ていて不思議に思うほど世界に浸透している。

あまりに単純化しすぎているかもしれないが、そういうわけで、政府が、クールジャパンという、まったくCoolじゃない政策を推進しているのは、外してはいない。ただ、日本の筆頭商品の「コンテンツ」が、欧米価値に呪縛されて身動きできない日本政府の、正確なアンチテーゼから生まれていることは、理解するべきだと思う。では国はその貴重な商品をどう育成すればいいだろうか。それについては、また別途、書くかもしれない。

星座

小学生のころ星座に夢中になっていたことがあって、特に星座を描いた昔のドローイングが多く載っている図鑑が好きで、朝から晩まで見ていたことがあった。

さっき、ふとしたことで星座を調べたら、その小学校のときにまさに自分が見ていた絵図を見つけた。オリオン座とおうし座の絵だった。ただ、これしか見つからなかった。ネットには他の絵もあったけれど、画風が違っていて、当時の僕は、このシリーズじゃないとだめだったのだ。

星座といえば、一等星を持つ星座と、その一等星の名前は、すべて覚えていたが、特に、二つの一等星を持つ星座は、別格な僕のアイドルだった。日本の冬の夜空によく見えるオリオン座は、ベテルギウスとリゲルという二つの一等星がある大好きな星座の一つだった。

僕の見ていたのが日本の図鑑だったからか、南半球でしか見えない星座はあまり載っておらず、その、地平線の下に隠れている星座が、一種、あこがれの的だった。特に、一等星を二つ持つケンタウルス座と南十字星への想いは強くて、夢にまで見るほどあこがれていたっけ。

ケンタウルス座の二つの明るい星は、アルファ・ケンタウリとベータ・ケンタウリという名前だったが、そのネーミングが自分には安易に聞こえて好きじゃなかった。ある日、なぜだか別の図鑑を手に入れたら、そのケンタウルス座が載っていて、そこでは、星の名前が、リギルとアゲナという名前だと知って、とても感動した覚えがある。

いまになってみると、子供の自分がなぜ、星座と、その星座のドローイングと、恒星のギリシャ語っぽい名前に、それほど惹かれていたのか、あまり分からない。夢中になるのには、特段の理由はないのだろう。何かがどこかで引き合っているんだろう。

しかし、不思議なことに、自分には、その過去に感じたその夢中になっていた気持ちを、一瞬、それも0.5秒ぐらいそのままの形で思い出すことができる瞬間がたまにおとずれる。これは、一種の神秘体験で、この感じがたとえば10秒以上続いたら、自分は気が狂ってしまうのではないか、と思わせるほどに、強烈な安堵感的な快感を伴っている。さっきも、その瞬間が一回だけやってきた。

ところで、僕は30歳のときに、初めての海外旅行でスペインのマドリッドへ行ったのだけど、そこで、最終日に電車の中で鞄の中身をすられて、パスポートも財布も航空券もなにもかも盗まれ、滞在を3日伸ばしてようやく帰ってきた、ということがあった。

大変な思いをして、ようやく帰途についた、その飛行機の中でのことである。僕は窓際に座っていた。時間は夜で、飛行機の窓の外にはたくさんの星が輝いていた。そこに、地平線にだいぶ近いところに、いまでもはっきりと思い出せるのだが、くっきりと十字型に光る小さな星の一群があった。

それはなんと、小さいころ夢にまで見た、南十字星だった。

ロックのクラシック化

YouTubeを見ていると、ロックギターにしてもロックドラムにしても、若い子たちが(いや、子供ですら)、ものすごいテクニックで演奏しているのが、次から次へと出てきて、参るよね。

もう、だいぶ前からだけど、ロックミュージックもクラシック音楽化したなあ、と思っている。音楽理論と演奏法と教育法が完全に確立していて、きちんと学習さえすれば、先人たちのレベルに誰でも達することができるようになった。僕のジェネレーションのように、先生も本もなく、自己流で苦心して身につけた人間から見ると、もう、あれよあれよ、という感じで、意外とこういう事態になるの、早かったな、と思う。

実際、たとえば、音楽で仮りに彼らと戦っても、勝てないことの方が多そうだ。プレイヤーの平均レベルがここまで上がってしまうと、戦いのレベルも格段に上がる。そうなると、クラシックと同じで、極めて高度な表現力の部分で切磋して、競い合う話になるだろう。しかし、ロックのそういうの、だれが判断するんだろうね?

それにしても、これもしょっちゅう言われることだけど、ロックって音楽は元来反体制の音楽なのだけど、確立してしまったら体制側になるんで、そもそも矛盾してしまい、変なことになる。そんなのは昔の話で、反体制はロックからラップかなにか(あるいは今はまた別のがあるの?)に移ったってことで、ロックはそういう面倒からすでに解放されているのかもしれない。

最近、こういうこと書いてると、むかし話をどうしても思い出しちゃうのは歳なんだかなんなんだか、まあ、還暦だし許されるか(笑) 

で、思い出したのだが、僕は何であれ、昔から、糞真面目に粛々と何かをやっている場にいると、タイミングが悪い場合、無性に腹が立ってきて、自分が抑えられなくなることが、たまにだけど、ある。

だいぶ昔にやってたバンドだったんだけど、ある時、そこに、メンバー募集かなんかで連絡してきたギタリストが来たことがあった。真面目そうな男で、几帳面なギターを弾くやつだった。スタジオでしばらく一緒にジャムセッションした。

何曲か目にJohnny B Goodeをやったのだが、やっぱり彼、几帳面に糞真面目にうつむき加減にギターを弾いている。僕は何が気に入らなかったのだかわからないのだけど、だんだんそういう演奏をしていることにむらむらと腹が立ってきて、二回目のソロの時に暴走し、音量を全部10にしてピックで弦を無茶苦茶に引っ掻き回し、周りを無視して暴れまわり、ピックはバリバリに割れて跡形もなく、それでも指で弦を無茶苦茶に弾いてたので、右手の指の爪が割れて血が噴き出し、右手血まみれのままギターを床に放り投げ、それでようやく演奏が終わった。僕ははあはあと肩で息をしてるし、周りのメンバー茫然。真面目な若者茫然。ただ、その中に一人だけコーラス要員の女の子がいて、その子がすぐに僕に駆け寄って、僕の右手をとって「だいじょうぶ?」って言って、バッグからバンドエイドかなんか取り出して、手当てしてくれた。

はっきりしているのは、僕はバカそのものだが、その子は本当に優しい、いい娘だった。

もう今はそんな元気はないと思うが、しかしみなさん、ひょっとするといつかステージで突然発狂するかもしれないので、気を付けた方がいいですよ。でも、歳のせいで、そんときは途端に心臓マヒでバタっと倒れてあの世ゆき、というハッピーエンドで終わるかもしれんが。もしそうなったら、それは憤死というんだな。かのイヴ・クラインのように。

相性

だいぶ昔、とある街に住んでたころ、とある呑み屋つながりの人々とあれこれ遊んでいたことがあり、そのときの話。その呑み仲間のなかに、明るくて元気でよくしゃべるおばちゃんがいて、あるとき、そのおばちゃんに誘われて、家に皆で遊びに行ったことがあった。おばちゃんはバツイチかなんかで、そのころ彼氏ができて、その彼氏がむかし飲食店で板さんやってたから、料理を作ってくれるというのである。

で、台所から次々と料理が出てきて、たしかにどれもおいしかったのだけど、その料理が見事なぐらい、中流以下ぐらいの「ある層」をターゲットにした料理で、高級店では出て来ない味だけど、安めし屋とかの味でもない。食べてて、あまりにその「層」がはっきり感じられて、なんだか感心してしまった。不思議なもんだなあ、って思って。

ちなみに、その彼の歳はたぶん40半ばで、おばちゃんと付き合う前は仕事をしてたけど、おばちゃんの家で一緒に住み始めたとたん仕事を辞め、毎日プラプラしていたそうだ。要はヒモを決め込んだわけだ。おばちゃんはわりといいところで仕事してて、実入りもいい。その彼、ホームパーティーでエプロンして料理作っちゃいるけど、話を聞くとわりとろくでなしっぽい。でもちょっと男前で愉快な楽しい人だった。

それで、そのおばちゃんだけど、ものすごく人の世話を焼くのが好きな人で、いろいろ男と関係も多いらしかったが、まいどまいど、そういう、世話しないといけない男とくっついちゃうそうだ。本人、なんでいつも私が面倒見なきゃなんないのかしらねえ、早くラクしたいわ、とかけっこう愚痴を言ってた。で、それから一年ほどして、風の便りで、おばちゃんが彼氏と別れたらしいっていう噂を聞いた。

料理人とその料理、世話焼きおばちゃんとろくでなし男、などなど、世の中って相性って、あるんだなあ。っていうか、世の中、相性だけでできあがってるのかもね。

ストックホルムの移民街

ストックホルムで移民がいちばん多く住んでいる街Tenstaと、その隣のRinkebyへ行ってきた。セントラルから地下鉄で20分ほど。この地域は移民の人口が70%以上で、治安的にもスウェーデンで一番悪いそうだ。ちなみに2番手はMalmöで、ストックホルムでは無くてコペンハーゲンに近い国境で人種混合しており、治安悪化は、まあ、うなずける。
 
今回行ったTenstaは、昔、住居が不足したとき国の政策でたくさん作った、いわゆる団地に、その後、移民が多く住むようになり、今では大半が移民の地区になってしまった、という経緯だそうだ。この地域に隣接したHusbyでは、3年前に暴動が起こって街に炎が上がり、スウェーデンでこんなことが起こるのかとみな驚いたところである。要は、Tensta・Rinkeby・Husbyの一帯は移民だらけな地域なわけだ。
 
Tenstaの駅を降りて地上に上がると、別に何ということはない閑散とした街だった。駅の上にショップが並んだ建物があり、結局、それだけでほかに何もない。駅前には街並みもなく、すぐに団地がひたすら並んでいる状態だった。きわめて退屈なところで、そういう意味では殺伐としていると言えなくもない。ただ、団地を見るとそれほど老朽化しておらず、メンテナンスはされているので、スラム化とかいうのとはぜんぜん違う。つまり、ふつうの居住地区だった。唯一の違いは、歩いている人にスウェーデンらしき人がいないこと。ごくたまにスウェーデン人かな、と思う人もいたが、だいぶ貧しそうな感じだった。

Tenstaの駅前。左手の赤い枠が室内ショップの入った建物、右手はすぐ団地が続いている。奥の方に悪趣味な高層ビルが一つだけぽつんと建っている。

さて、Tenstaに降りても、何も見るものがなかったので、隣のRinkeby駅まで歩いてみることにした。団地を抜けると、ちょっとした草原になり、向こうに教会が見えた。行ってみると、教会の周りはだいぶ広い墓地になっていて、たくさんの墓石が並んでいる。ヨーロッパの墓石はいろんな形をしていてそれぞれユニークで見ていて面白い。ふと、墓地越しに立つ北欧の教会に黒い衣服の修道女が入って行くのが目に入った。この光景は美しかった。

TenstaとRikebyのちょうど真ん中あたりにある教会。周りは広い墓地になっている。

自分はスウェーデンに住んで5年目になるが、もうだいぶ食傷していて、スウェーデンの美しい風景がまったく心に響かなくなってしまっているのである。今日は、本当に、久しぶりに、僕が30年前に北欧古典絵画を通して知って、そのまま十年近く陶然として夢中だった北欧の美をここそこで見ることができて、それはとても良かった。

なんとなくゾンビが出て来そう(笑) それぞれにかなり趣向を凝らしていて、面白い。

この教会と墓地と周囲の美しい自然は、ちょうどTenstaとRinkebyの真ん中へんにあり、そこを越えてRikebyの街に入ると、また同じような団地が並ぶ。ほどなくして駅に着いた。こっちはTenstaよりは少しは活気のある所で、駅の上の広場をショップが取り囲んでいて、少しは街らしくなっている。ただ、そこを出ると、やはり同じようにすぐに団地だ。ただ、団地の一階部分にショップがいくらか伸びていて、本当に少しだけだけど、他ではあまり見られない異国情緒な店舗もあった。

Rikebyの駅上のショッピング広場。少しは活気があるが、道路とか全体がとてもきれいでゴミ一つない。

僕が行ったのが12月26日のクリスマス休暇中だったからかもしれないけど、移民が7割以上いるのに、なぜ彼らは自分の国では全開状態で繰り広げる中東アジア的カオスを、ここスウェーデンではやらないのだろう。街を歩いても、ゴミ一つ落ちていないのは、普通のスウェーデンの街とまったく同じで、中東アジアでは普通な、散らかって汚らしく放置されたところが見当たらない。

スウェーデンでは珍しい若干の異国情緒のある店。このように外にせり出して商品を並べているのを見るのは、まれなこと。

一つ気付いたことと言えば、ヘアサロンがすごく多くて、しかも、中をのぞくとお客さんもけっこういること。しかし、食い物飲酒より、ヘアサロンなんだね。僕は経済にも政治にも明るくないからわからないのだけど、スウェーデンでは移民が気軽に商売して儲けられる構造になっていないんだろうか。全世界にチャイナタウンを持つかの中国人ですら、スウェーデンではロクな街を持っていないのである。
 
知っての通り、スウェーデンは移民と難民の受け入れには非常に寛大な国の一つで、政策的にも完備していると言っていい。それができるのも、政治も、国民も、困った人を助ける慈善、異文化の許容、そして多様な人々の人権についての意識が高いからこそだ。僕もスウェーデンに住んでいて、その意識の高さは感じる。彼らにとってすごく重要な社会の要件なのだ。
 
しかしながら、こんな抜け殻のような移民地区を歩いていると、どうしても別のことを考えてしまう。
 
慈善と人権というもの自体が元来はヨーロッパのもので、それらの概念にはやはり西洋らしさが染み付いている、というか、西洋が基礎になって出来上がった概念だ。だから、それらを適用した結果できあがる社会が、西洋の枠組みと西洋文化の色をしているのは、言ってみれば当たり前のことだ。
 
街にはたくさんの異国人が歩いていて、人間だけ見ると、ここはスウェーデンか、と思うような風景なのだが、街自体は何の特徴もないつまらない場所だった。それで、どうしても思ってしまう。みな、故郷が恋しくないのだろうか。いや、ここにも仲間はたくさんいる。それは分かる。でも、異国の血は騒がないのか、こんな殺風景な街に毎日暮らして、老いて、死んで行くのか。
 
結局のところ、街自体に生気もなく、面白くないのでたいして放浪せずに、早々に電車に乗って帰ってきた。ストックホルムセントラルに戻って街を歩いていると、何の疑問もない。ここを見ている限りは、充実した古い美しい街だ。しかし、歩いていても何となく浮かない気分だった。
 
妙なことだけど、さっきまでいた周辺の移民街がもっとごみごみして汚なくて生活感満載だったら、きれいなヨーロピアンな街に帰ってきて、ほっとしてすがすがしく歩いたかもしれないな、と思った。

ナポリタン

昔、喫茶店のマスターをやってた知り合いがいて、その人から聞いた話。昼下がりの、客の少ないある日、ちょっとむさい感じの変なやつが店に入ってきて、ナポリタンをたのんだそうだ。で、ナポリタンを作って、その人のテーブルにタバスコと粉チーズと一緒に置いた。そしたら、その人、まず粉チーズをかけ始めたのだけど、それがいつまでもかけてて、とうとう空になるまで全部かけてしまい、ナポリタンの上に白いチーズがうず高く乗っかってる状態になった。マスター、カウンターの中で面白いからそのままどうするか見ていたそうだ。そうしたら、粉チーズを全部かけてしまうと、こんどはタバスコをかけるわけだけど、これがまた、いつまでもいつまでもかけてて、とうとうひと瓶ぜんぶかけてしまった。で、どうするか見てたら、おもむろに食べ始めたのだけど、2、3口食べたら変な顔して、それ以上食べず、そのうち「すいません」と呼ぶのでその人のところへ行ったら「これ持ち帰りたいんですけど」と言ったそうだ。で、マスター、そのタバスコで真っ赤になったチーズとナポリタンをビニール袋にドサドサってあけて口を縛って、お勘定したあと、はい、って渡したら、「ありがとうございます」ってお礼を言って出て行ったそうだ。ヘンな人もいるもんだ。

地獄谷のロシナンテ

大森駅の線路沿いの地獄谷の思い出を伝承している人はいるだろうか。お袋が大森に住んでいるから、遊びに行くときは、いつも地獄谷をチェックしてから行く。この前も行ってみたら、入り口近くの超老舗のラーメン屋の長崎屋がとうとう閉店していた。結局、入らずじまいだったな、残念。
 
で、これまでずっと気になっていたお店があってね、地獄谷の真ん中へんにあるロシナンテというスナック。およそ40年前、あそこは大森界隈の文学者とか芸術家とかのたまり場だった。かなり有名どころも通っていたはず、誰だか忘れてしまったけど。
 
ロシナンテのママは美人で知的で、昔の言葉でいえばマドンナ的存在だった。文化人の通う店のママとして彼女以上の人はいないみたいな、いい感じの女性だった。そういう知的な人の集まるところのママというのは、ママそのものがあまりに知的にふるまってしまうと、客だかママだか分からなくなるし、そもそも知的な芸術家系の人たちというのは、相応に我が強いもので、ママとぶつかっちゃったら洒落にならないし、客同士がぶつかったときママがどっちかに加勢しちゃったらうまくないし、っていう風に、ママっていうのは、なかなか難しいポジションだと思うんだ。

僕は常連ではなかったけれど、人に連れられて数回は行って、その様子を見ていたのである。店の常連客とかがなんか論争的な雰囲気になるときも、ママは、柳に風だったり、あるいは天然風にとぼけてみたり、はたで見ていても、本当に上手に受け流していた。ママ本人が本当はどういう人なのかは容易に分からないけれど、そのやり方が本当に素敵だった。わがままな常連客も、ママにはかなわんな、で収まってしまうのである。そんな、ママには、なんだか憧れがあったなあ。
   
で、その後、十数年たち、地獄谷とはすっかり疎遠になり、ほとんど足も運ばない状態が何十年か続いた。そしてここ十年ぐらいになるけれど、お袋のうちへ行くついでに地獄谷チェックをするようになったわけだ。

それで、年に一、二回地獄谷偵察に行き、そのたびにロシナンテの前を通るわけだけど、店の周りの敷地には、いつも大量の植物が置かれていて、店の入り口はその植物にずっと覆われたみたいになっていた。植物はきれいに手入れされているから、誰かしらが育てているのだろうけど、店が開いているようには到底思えなかった。
 
ロシナンテのママ、どうしただろう。死んでしまったかな、などと思っていた。
 
それで、ついこの前のこと、地獄谷の階段を降りたら、ロシナンテの前で、小柄なお婆さんが植物の手入れをしているのが遠目に見えた。え、ひょっとして、ママか? と思ったけど、遠くて分からず、とにかく店の方向に歩いて行った。実は、僕が店の前に来るまでのあいだに、扉から中に入ってしまったのだけど、5メートルぐらいだったかなあ、一瞬、そのお婆さんの顔がはっきり見えた。
 
たぶん、間違いなく、あれはロシナンテのママだ。面影がはっきりあった。すごく上品な感じの、いまどきは滅多にいない感じのお婆さんだったっけ。
 
僕の性格がこんなじゃなかったら、きっと声をかけただろうけど、勇気がなくてできなかった。でも、ママ、元気でよかった。

串揚げの技

奈良の穴場的な串揚げ屋さんへ連れて行ってもらった。創業37年の超老舗である。ここはメニューは串揚げのおまかせコースしかなく、カウンターの向こうで、次々と揚げている様子を見ることができる。
 
カウンターの中はたくさん従業員がいて、忙しく動いているが、ここで、創業からいるという、ほぼ引退しているけれどお店に出ているみたいな、もうおじいさんなシェフと、もう一人、たぶん30歳ぐらいのメインシェフの二人を見る機会があった。
 
それぞれの具材は串に刺した状態で、奥の調理場で用意され、カウンター内では、シェフが、これに、どろっとした小麦粉の衣をつけて、その横のパン粉をまぶして、それを揚げ油の中に入れ、揚げる。僕はしばらくずっとこの様子を見ていた。最初は、たぶん、80近い老シェフが衣を付けて揚げる作業をして、その後、若いメインシェフが同じ作業をし始めた。
 
この二人のやり方は、基本的にはまったく同じなのだが、自分的にはけっこう違って見えていて、すごくおもしろかった。
 
乱暴に言うと、老シェフは雑で、若いシェフは丁寧だった。で、その老シェフだが、何を雑と言っているかというと、衣とパン粉の付け方が一定しないのである。一本一本違うし、同じ具材なのに違う付け方をしたりする。一方、若シェフは、機械がやるように正確にコンスタントに仕事をしていた。お客さんが多いので、揚げたものを食べ比べているわけでもなく、その出来上がりについては分からないが、老シェフの料理は、適度にブレていて、幅があり、ゆらぎがあるのだけど、若シェフの料理は、いつも完成度が一定で安定していた。
 
これ、実は、いろんなところで見られる現象なんだよね。かつて僕は、芸子さんの踊りを見る機会があったのだけど、その時も、同じものを見た。年季の入った芸子さんには動きにブレがあり、若い舞子さんは動きは完璧だけどCGみたいだった。
   
ところで、出来上がった串揚げを食べる僕らとしては、いつもいつも同じものが出てくるのがいいのか、はてまた、毎回いくらか違った出来具合のものが出てくるのがいいのか、と考えると、ひょっとすると毎回違う方が、人間的でいいんじゃないだろうか。一方、もし、店や料理に特に愛着の無い一見の客によく思われたいのなら、毎回安定している方がうまく行くだろう。もし、そういう客にブレのある料理を出すと、たまたま外れた日なら2回目は無いだろうし、たまたま当たったとしても、2回目で外れたとき裏切られた感のせいで幻滅して二度と行かなくなる可能性が高くなる。
 
もちろん、この串揚げ屋の老シェフは、非常に高いレベルでブレているだけなので、上述の理屈は当てはまらないのだが、ただ、行くたびに何かが変わっている、というのは、たとえ客がそれに気が付かなくても、とても重要なことなんじゃないかな、と思ってね。
 
それに、完全に安定した完成度を常に出したいなら、最後は機械にやらせた方が確実ってことになる。昨今の流行りで行けば、老シェフの技をディープ・ラーニングに学習させ、それを使ってマシンを動かして串を揚げればいい。
 
伝統の熟練の技というのは、そういうものなのかな。機械で代替できないような動き方をする。一種の本能みたいなものかな。有機的で、技そのものがまるで生きているように命を持っている。こういうものに比べれば、機械なんてのは、まだまだ幼稚なもんだ。

402号室

神戸にいる。明日の朝、すぐにここを出て、東京に帰ってリハして夜にライブという強行軍で、大変だが、まあいいや。ホントは夜中の三宮に繰り出したいところだが、11時近い今から放浪するのは、明日があるせいで自粛かな。
 
ところで、いまいるホテルは六甲の坂を上がった地味な感じのきれいなホテルで、フロントも、初老の痩せてすらっとした落ち着いたホテルマンで何となく今どき珍しい感じ。
 
で、僕の部屋が402号室なの。これ、日本では、もうそういうタブーは無くなったのだろうけど、42はやばい数字なんだよね。昔はこの数字、避けていたものだ。でも、402号室に自分が通されたのは、僕には気分がいいことなの。なぜなのかは、大昔のブログに書いたけれど、また思い出した。
 
僕は、十年以上前、家出をしていたことがあって、三宿の古いマンションの4階の403号室に一年間ぐらい、住んで、毎日、三軒茶屋で飲んだくれる、荒れた時期があった。それで、そのマンションのその部屋を決めたときのことをよく覚えているのである。別に少しもいい所ではなかったのだけど、不動産屋に連れられてその4階の部屋に入ったら、二方向が窓で、そこから世田谷公園が見えるところだった。
 
その日の夜、僕は夢を見た。それは、その4階の部屋に自分がいて、4方全部が窓になっていて、360度すべてが深い森に囲まれていて、とても美しくて、僕は夢の中でその光景に見とれていた。そんな夢を見たせいで、朝起きて、そこにしようと思い、不動産屋に連絡してその部屋に決めてしまったのだ。
 
まあ、やさぐれた、めちゃくちゃな1年間だったが、とにもかくにもその部屋で僕は生活していた。実際に入った部屋からたしかに公園の緑は見えたけど、別に夢で見た絶景とはまるで違っていた。ただ、僕は、その部屋をけっこう気に入っていた。いろいろあって、一年後、僕は一人暮らしを止めて、またもとの家へ戻ることを決心する。
 
で、その部屋を去ることが決まった、数週間前だったと思うけど、そのころに付き合いがあった、霊感があるという怪しい人が、僕の部屋に遊びに来た。僕が、彼に、自分の生活があまりに安定しないので、相談したりしていたのである。で、彼も興味を持ち、僕の一人暮らしの部屋に来たのだった。
 
その霊感の彼、僕の部屋の前まで来て、部屋番号の403というのを見てこう言った
 
「林さん、この部屋は402だよね? 402は欠番で403でしょ? これまで402号室に住んだ人を見てきたけど、ロクなことなかったよ」
 
これはたしかにそうで、古いマンションのそこは402号室が無く、そのせいで僕の部屋は403だったのだ。僕はそれを聞いて、あっそうですか、って言ったが、とにかく、彼と一緒に部屋に入った。彼、しばらく部屋の真ん中でたたずんでじっとしていたが、やはりこういうのである
 
「この部屋はかなりやばいね。林さん、よくこんな部屋に1年も住んでたね」
 
僕は、そういう霊感的なことを、実は信じている方なので、真顔で、へえ、そうだったんですか、と答えたけど、特段にどうという実感もない。で、彼が、除霊してくれる、というので、じゃあ、お願いします、と言った。
 
彼、たしか、たっぷり一時間ぐらいかけて、部屋の真ん中で除霊の儀式をした。僕はそれをはたで見ていた。夜だった。彼、苦しそうな顔をして目をつむって、ぶつぶつ何かを唱えたりしていて、そのうち、額から汗をだらだら垂らしたり、涙を流したりした。
 
そうして、彼、ようやく除霊が終わったとのことで、僕に話かけた。たしか、彼は、こう言った
 
「ここねえ、背中から刃物で刺されて殺された女性と、やっぱり同じように殺された幼い子供を連れた女性の霊が憑いてたよ。もう、除霊したから大丈夫だけど、大変だったよ」
 
僕は、霊は信じているものの、自分では、霊を見たことも、身近に感じたこともないので、そうでしたか、それはありがとうございました、と言っただけで、一向にピンとは来なかった。ただ、きっと、そんなこともあるだろうな、と思った。
 
僕が最初にこの部屋に入ったとき、一発で気に入ってしまい、それでその日の夜に、あの美しい夢まで見させたのは、きっと、その殺された女性の霊だったんだろうと思った。きっと、僕を選んだのに違いない。それで一年後、霊感の彼が連れられて部屋に入って除霊して、きっと不幸な女たちは成仏したに違いない。
 
と、まあ、きわめて自分に都合のいいように、この出来事を解釈したわけだけど、あの三宿のボロマンションの403号室に住んだ、あの一年は、自分にとって異例に重要な時間だったのではないか、と思うようになってね。
 
そんなせいで、いま、神戸の六甲の坂の上のホテルで402号室に通されたのが、とても、いい偶然のように思えてね。なんとなく、気持ちよく眠れそうだよ。

(Facebook投稿より転載)

民生

神戸の中華街に「民生」という名前の老舗の廣東料理屋がある。僕はあの店が好きで大阪に住んでいたころ、神戸まで出向いて、よく通った。もう30年以上前の話で、もちろん震災前である。いまも思い出すあの庶民的な店内の風景。給仕はみな威勢のいい関西のおばちゃんで、いつもにぎやかだった。料理はまさに日本の庶民料理で、あれは東京でも、そして本土の中国でも食べられない、関西に独特な廣東料理だった。
 
民生定番の料理といえば、「レタス包み」と「イカの天ぷら」で、行くと必ず頼んでいた。レタス包みは、生のレタスに炒めた挽肉を乗せて巻いて食べるもので、素揚げした春雨の上に挽肉が乗って出てくる。きわめてそっけなく味付けしたパサパサの挽肉と、みずみずしいレタスの組み合わせが素晴らしかった。イカの天ぷらは、肉厚のイカに切れ目を入れて、ショウユに浸したのを素揚げして輪切りにしただけのもので、くるくると巻き上がるイカが見ていて楽しい。なんの変哲もない味だけど、まさに庶民の味で大好きだった。
 
あと、自分的にすごく感心した名人芸な料理もあった。ひとつは「かしわの炒りつけ」。これは、大ぶりに切った鶏のもも肉とピーマンとタマネギを薄いあんでくるんだ料理で、関西系広東料理の定番の、少量のショウユを加えたねっとりしたあんでまとめたもの。鶏肉のおいしさもだけど、このあんのくるみ方は絶妙だった。同じく酢豚も。こちらも、今度はブドウ色のもう少し濃い色のあんがきれいに材料の全体に薄く均等にくるまっていて、ほれぼれする出来だった。あんが皿の下にたまるようなことはなく、すべて材料にからんでいるのである。
 
味の方も、まったくに素朴で、くどさがなく、ナチュラルそのものだった。かしわ炒りつけは無理だったけど、ひところ、僕も家で民生の酢豚をまねて作っていた。あの色と粘度を出すために、甘酢に、ショウユと中国ショウユを入れて、高温の油で砂糖が飴状になるタイミングを見計らって、材料をくるむようにしていた。しかし、まあ、なかなかあのようにはいかないものだ。
 
実は、先のかしわ炒りつけは、毎回注文していたのだが、やがて、普通の出来になってしまい、それ以来、頼むのをやめてしまったりした。ああいう名人芸は、たぶん特定の料理人に結びついているらしく、その人がいなくなったり、シフトが変わったりすると、同じものは食べられないのだと思う。これは民生だけでなく、いろんな料理店で経験したことでもある。そして、なぜか、ある日突然、名人が登場してすばらしい出来の料理が出るようになった、ということはなく、年月が経つにつれ、必ず、その名人芸は失われる方向にしか行かない。思えば、不思議なものだ。やはり昔の人の名人芸というのはそうそう簡単には伝承しないものなのだろうか。
 
これら、素朴だけど、名人芸な料理を食って、サッポロビールの大瓶を飲んで、あの喧噪の中にいると、本当にいい気持ちだった。
 
その後、三年ほどで僕は関西から東京に戻り、この民生にも行くことはなくなった。そうこうしているうちに大震災が起こり、南京町はどうなっただろうか、と思ったが、確認することもなく月日が過ぎていった。それからだいぶ経ったあるとき、神戸へ出張があり、現地の知り合いと一緒に南京町の民生へ出かけた。少し小さくなったかな、とは思うものの、民生はたしかにあった。創業55年だそうでたいしたものだ。料理はどれもおいしかったが、昔の民生の風情はほとんどなくなっていた。
 
伝統の老舗の味として、レタス包みとイカの天ぷらのメニューは残っていて、どちらも味もルックスも当時のままだったが、それにしても、この二品と、他の料理とのバランスが崩れすぎていて、当の老舗の二品も、味気なく感じてしまった。やはり、お店全体の料理があのノリでできあがっていないと、ダメなんだなあ、と思った。ついでに言うと、料理だけでもダメで、あの店内の空間、給仕のおばちゃん、人々の様子、そんな時代の空気すべてと料理が、きれいにきちんと調和して、それであの魅力を作っていたんだろうなあ、と思う。やはり料理店というのは、その箱の全体が、一種の総合芸術なんだね。
 
むかし自分が足しげく通った気に入った料理店はそれほど多くは無いのだけど、その大半が、店舗はあるけれど時代が変わって、別のものになってしまった。自分は中華料理を作るのが趣味だけど、自分の料理全体がある一つの有機的な感じのもとに総合されているのが大切で、それは一代限りのもの。それでいいじゃないか。そんなことも、考える。

(Facebook投稿より転載)

まずい中華料理屋と男

これは自分が大阪に住んでいた三十数年前のことである。当時から中華料理の調理を趣味にしていた自分は、大阪界隈でもいろんな中華屋へ行ったが、そのうちのひとつのお店の話である。その店は、たぶん、自分がこれまで食べた中華料理の中でダントツにまずかったので、よく覚えているのである。さらに、まずいだけでなく、とても珍しいものを見たせいで、余計に覚えている。

おいしいと褒めるのだったら実名でもいいが、まずい、となると実名では営業妨害になるので、ここでは仮にNK飯店としておこう。名前ははっきり覚えている。それ以来、この店の自分の中での知名度は高く、NK飯店をまずい中華の代名詞としてしばらくは使っていた覚えがある。たとえばなんかまずいものを食った時「NK飯店ほどじゃないけどな」とか言ってみたり。

とても印象深いお店なので、もちろん、その後、ネットで大阪のNK飯店を何度も探してみた。平凡な名前なので何軒も出てくるのだが、いろいろ調べても、どうもすべて違うような気がするのである。僕の体験と一致しない。30年以上前の話なので、店が無くなってしまった、とするのが順当であろう。見つかったらぜひ再訪したいと思っているのだが。

そのNK飯店は、大阪市内ではあるけど、繁華街の中ではなく、なんだかむやみに広い国道みたいなところに面していた。周りにはあまり店はなく、そのNK飯店だけがそびえたっている風景を覚えている。というのは、すごく大きな店だったのだ。NK飯店とでかでかとした文字の入った、とても幅広の入り口を入ると、その一階部分は、ほぼすべて活魚を入れた生け簀で埋まっていた。すなわち海鮮系の店で、生け簀は大きなのから小さなのまで五つも六つもあったと思う。

珍しいものを見た、というのはここでのことで、いくらか問題発言かもしれないが、書いておこう。この生け簀だけの一階の右側はガラス張りの大きな部屋になっていて、そこには横長の長くて大きい俎板があり、その俎板のところに調理人の男が立っていた。調理人が活魚をさばくところがガラス越しに客に見えるようになっているのである。で、その彼を見て吃驚したのだが、自分は、いまだかつて、あんなに殺伐とした顔の人間を見たことがなく、なんと言うか、まるで水木しげるの妖怪話に描かれていそうな、独特に荒涼とした醜さがあって、あまりのことに思わず目が釘付けになった。

実は、この男をもう一回見たかったので、店を出るときもそれを覚えていてガラスばりの部屋の向こうを見たが、そのときは、もっとぜんぜん普通の人に替わっていた。

あの男は、この調理場で、二階の調理場の命令に応じて生け簀の魚介をすくって、それを調理場の巨大な俎板の上にあけ、これを生きたまま、絞めて殺して、ぶつ切りにして、皮を剥いて、さばいて、アルマイトのトレイに乗せてリフトに入れてボタンを押す仕事を来る日も来る日も繰り返していたのだと思う。ある種の人は、そんな仕事を繰り返すうちに、あんな風に殺伐とした外観になるのだろうか。思えば、類似の男性はごくたまに、マイナーな葬儀社の下働きの長いおじさんに見ることがある。

こんなことを書くと、今の世の中だと、職業差別と言われてしまいそうだが、でも、そういう厄介を抜きで見ると、まずその強烈なユニークさに驚く。中流以上の、特に富裕層の人々というのは、たいていどいつもこいつも同じような恰好と顔をしているのが普通で、そのバリエーションの乏しさに比べると、こちらは圧倒的な個性がある。そういう特殊な人を見ると、自分はなぜだかいつも言いようもなく、驚く。かつて、自分は返還前の香港へ何度も行って、そういうアジアのオヤジが集まる、ことさら汚い場所へよく出向いたが、それはそういうものに魅せられて惹かれて、その世界にどっぷりと浸かりに行っていたのである。なぜ、そういうものにそんなに強烈な感動があるのか、自分にはいまだによく分からない。

お店の話に戻るが、その一階の生け簀を抜けると、幅の広い階段があり、それを登って二階に行くと、かなり巨大なスペースにたくさんのテーブルが並んでいる。記憶では、そこはほぼ正方形で、差し渡し20メートルぐらいあってとても広く、その一辺はすべてカウンターになっていて、その向こうがそのまま広い厨房になっていた。すなわち巨大なオープンキッチンで、中ではたくさんの料理人が仕事をしていた。給仕はそのカウンター越しに料理を受け取って、客に運ぶのである。

初めて来る場所だと、だいたい僕は注文を間違えることが多い。ことさらに珍しいメニューを頼んでしまうことが多く、そういう料理は滅多に注文が来ない料理なので、だいたいこなれておらず、おいしくないものなのである。もちろん、高級店ではこの限りではないが、怪しげな店ほどその傾向が強い。その時も、僕はわりとマイナーな料理をたのんだ。料理が何皿も運ばれてきたが、どれも本当にまずかった。

特に今でも覚えているのが、鶏肉と野菜の醤油味のあんかけのようなものだったが、食べると、なんだかどろっとしたタレが泡立っていて、まるであんかけのあんに醤油と共に三ツ矢サイダーでも入れたんじゃないか、ってほど、泡立って、甘くて、なんだか洗剤みたいな味もして、激しくまずかった。他の料理もとにかくまずい。たしか焼き餃子だけはまあ、まともで、もっぱらそれを食べてビールかなんか飲んで、料理の多くは残してしまったと思う。

生け簀まであって、巨大な厨房に何十人も働く、巨大中国料理店が、なんであそこまでまずい料理を出すのか、まったく意味が分からなかった。そのまずさがあまりに印象的だったんで、後日、大阪の職場の同僚に、NK飯店がすごくまずかったんだけど、と言うと、それに賛同する人はおらず、ええ? NK飯店ゆうたら老舗やで、うまいはずやがなあ、とか言っている。どこで食ったの?と聞くので、何とかっていうとこの大通りに面した変なところにあって、と答えると、そんなのあったかなあ。そこ、僕の知ってるNK飯店と違うみたいやな、みたいに言うのである。

それで、今調べても、たしかに大阪で操業50年のNK飯店というのは出てくるが、僕の行ったのと違うみたいなのである。それっきり、行ってないし、それがどこにあったかも忘れてしまったので、再訪しようもない。そう考えると、ひょっとして、あの大通りに面した巨大店舗はなんかの幻だったんじゃなかろうか、と思ったりする。それにあの、一階の生け簀のところで僕が釘付けになったあの恐ろしく殺伐とした醜い男なんか、ほとんど妖怪のようだったし。

旨い店というのはだいたい食い物は覚えてはいるが、その店舗のことはあまり印象に残らなかったりして忘れてしまうものだが、かくのごとく、まずい店というのは末永く覚えているものなのである。

神社と婆さん

むかし、まだ二十代のころに住んでいた家の近くに小さな神社があった。

貧乏神社で、手入れもそこそこでそれなりに荒れていたが、神社の体裁はちゃんと残っていた。ただ、建物からなにから、何もかもが古かった。神社はちょっとした高台にあり、周りは坂道だらけで道は入り組んでいて、都会では珍しいほど樹木が生え放題に生えていた。境内は、背の高い木々の葉にほぼ完全に覆われていて、晴れた日でも木漏れ日が射すていどで、なんとなく薄暗い感じで、地べたは赤土が剥き出しで、粗末な踏み石が無様に並んで道を付けていた。昭和初期の神社がそのまま放置されたみたいな趣だった。

さて、ある晴れた日の昼過ぎのことである。何かの用事の後に少し回り道をしたせいで、いつもは通らないこの神社の境内を通って家へ帰ったことがあった。高台にある境内へは石段を登って行く。登りきって、土ばかりの小さな境内に出て、ふと見ると、一人の婆さんが社殿に向かってよちよちと歩いて行くのが見えた。かなりの年齢の婆さんらしくずいぶん小さく、どてらみたいなものを着て、むくんで丸々としたコケシみたいな形のまま、体を左右に揺すりながら、ゆっくりと社殿に向かって移動している。

僕は、なぜだか、その場で足が止まってしまい、婆さんのその動きをそのまま見ていた。婆さんはしばらくしてようやく賽銭箱の前に辿り着くと、そこで立ち止まり、コケシが真ん中でかくっと折れたような動きをして、手を合わせてお祈りを始めた。

そのとたんである。境内を覆い隠すような、うっそうとした葉をつけた背の高い木々が一斉に風でざわめき始めたのである。僕は反射的に上を見上げた。さっきまで風のないおだやかな空のもとで静止していた木々が、今は、揺れ、枝がしなり、葉の擦れ合うざわざわした音が境内に鳴り響いていた。少し驚いた僕は、再び目を下に移すと、粗末な朽ち果てたような社殿の前に相変わらずコケシが中で折れたようなあの婆さんの姿が見え、これは瞬間的な出来事だったのだが、その婆さんを中心として、神社の木という木がざわめいて、神社の空間全体が、この婆さんがまるで台風の目になったかのように、渦巻いているように見えたのである。

僕は、その場で唖然としてしまい、うす気味悪くなり、ふと正気に戻ると、これはやばいと思い、別の出口を目指して境内を足早に横切り、そこから脱出した。

神社を出てしまった後は、あたりは何事もなく、おだやかな日和の昼下がりの風景があった。

その後、事あるごとに、このときに見た光景を思い出し、あれは一体、自分は、何を見たんだろうと訝るようになった。今でもはっきり思い出せるほど尋常ではない光景であった。少なくとも、あの婆さんが、古い神社に宿る霊を一気に目覚まさせ、活性化させ、動かしたことは、疑いようがないと思ったし、今でも、そう思っている。やはり、霊というのは、はっきりと目にも見えることがあるんだな、と心の底から思う。

ロバート・ジョンソンとの出会い

そういや、自分が大学のときロバート・ジョンソンを初めて聞いたときのことを、まだ書いてなかった。
 
今からおよそ40年前、自分が大学一年生のとき、高校の同級生のコイケというやつとよく飲んだ。実は、このコイケは、なんと今でも年に数回は飲んでいるので、自分にはきわめて珍しい古い友人の一人である。腐れ縁中の腐れ縁なので、お互い、飲んでしゃべって、相手を全否定して、この馬鹿野郎が、とか本音をずけずけ言い合っても、一向に関係が終わらない。そういう意味では貴重な奴である。
 
それで、当時、彼は西大井の実家の近くの四畳半に下宿しており、大森の実家に住んでいた自分はわりと近く、自転車距離だったので、よくコイケの下宿へ出かけては、飲んだ。
 
大学一年で酒を覚えたての頃というのは、無茶なもんで、記憶では安酒をわりと浴びるように飲んでいた気がする。ビールは高くて買えないので、サントリーレッドのロック。加えて、やはり覚えたてのタバコをやたらと吸って、もう果てしなく言い合いに近い議論をして、しかも、若くてバカで元気なんで、そのまま酔っ払って往来に出てゴロゴロ転がってみたり、まあ、周りの人々にはさぞかし迷惑だったであろう。
 
ところで、コイケの実家は町の小さな本屋で、彼は本に恵まれており、いろんな本を彼から紹介され、僕も読んだ。そのころの自分は素直で、コイケから、これいいから読むか、と渡された本を、自分も読んで夢中になったり、彼からの影響はかなり大きかったと思う。たくさんの良質なものを紹介してくれた彼には、感謝している。そういや、ゴッホを紹介したのも彼だっけ。絵というより、ゴッホの手紙という本だったが。
 
ただ、コイケという人間は実はわりと穏当な人間で、僕のように、我を忘れて、なにがなんだかわからなくなるほど、何かに夢中になる、ということは無かったようだ。彼が夢中になった本を、僕に紹介して、僕も夢中になるのだが、僕の夢中度はコイケのそれを遥かに超えてしまうことが多かった。ゴッホなどは、いい例である。
 
コイケの話ばっかりになってしまった。問題のロバート・ジョンソンだが、これはコイケからの紹介ではない。
 
ある日、いつものように彼の下宿へ行くとき、その当時のバンド仲間のネモトというやつに借りた、ロバート・ジョンソンのKing of the Delta Blues Singers Vol.2の入ったカセットテープを持って行ったのである。ネモトについては、さらに長くなりそうなので、また別途書くが、当時の僕のギターのライバルだった。
 
僕とコイケは酒を仕入れて、古臭い木造の四畳半の畳の上に向かい合わせに座った。その真ん中に、昔の機械式カセットテレコを置いた。僕はそこにロバート・ジョンソンのテープを入れ、「これネモトから借りたんだけど、有名なブルースマンだって」とか言って、ガッチャと再生ボタンを押した。
 
チリチリチリというノイズのあと、イントロのギターが鳴り、そのあとロバート・ジョンソンのカン高い声が流れた
 
I got a kindhearted mama…
 
この光景をいまだに覚えているのだが、僕とコイケはそのまま無言になってしまい。レッドのロックはグラスに作ってはいたのだが、飲みもせず、なんだかその場で金縛りにあってしまったように動けなくなった。力が抜けてしまい、放心したみたいになってしまったのだ。
 
たぶん、こんな音を聞くのが二人ともまったくに初めてで、唖然としてしまったらしい。結局、僕ら二人は最初の曲が終わるまで、そのまま動かずにじっとしていた。1曲目が終わってコイケがぽつりと言ったのが
 
暗いな・・
 
だった。いまだにそのセリフの調子まで覚えている。そのセリフでコイケは正気に戻り、立ち上がって、つまみをがさがさと並べたり、おい飲もうぜ、とか促したり、もとにもどり、僕も気を取り直して、飲み始めた。
 
ロバート・ジョンソンはかかったままだっただろう、たぶん。でも、たぶんロクに聞いてなかったと思う。自分たちに親しい音楽とあまりにもかけ離れた音楽だったのは間違いなく、そうなってしまうと、もうどうやって聞いて判断していいか、皆目分からなくなるのだ。
 
それにしても「暗い」という感想は即座に出たわけで、僕もそれに賛成だった。自分がそのときなんとコメントしたか、忘れてしまった。たぶん、たいしたことを言ってないと思う。
 
しかしながら、その後、自分はなぜだかロバート・ジョンソンに夢中になってしまうのである(ちなみにコイケはスルーした)。あの1曲目のKindhearted woman bluesは特にお気に入りの曲で、生ギターでコピーして、歌ってみた。ぜんぜん下手だったが、それが出発だ。それ以来、この曲、自分は軽く1000回以上は歌っているだろう。
 
大学一年の僕は、ブルースはエリック・クラプトンのいるCREAMを通して知っていただけで、いわゆる白人ブルースだけだった。しかし、このロバート・ジョンソンの響きを覚えてから、Muddy WatersやElmore Jamesなど、特にシカゴブルースが分かるようになり、一気に黒人ブルース一色になってしまった。
 
コイケ言うところの「暗い」というのが、心に染みわたるように分かるようになった。そうなると、たとえば、レッド・ツェッペリンなどにもその響きが聞こえるようになった。そうそう、ハイドパークのローリング・ストーンズなんかも、そう聞こえたっけ。
 
もっとも、この「暗い」というモノの正体は、いまだにきちんと考えたこともなく、いまだになんだか分からない。でも、40年経った今でも、その感じは自分の中で再現する。
 
でもね、いま僕がロバート・ジョンソンを聞くと、もっとずっとなにか、変なモノに聞こえる。たとえばMuddyやElmoreみたいに分かりやすくないし、それは、Charlie PattonやSon Houseを持ってきても、そうで、ロバートは見定めがたい何かを持って見えている。
 
そういう意味で、彼は40年経った今でも僕にとっては謎の人で、いまだに追求をしているというわけだ。