再現性の法則に奉じて、因果律を使って、統計的検定に従って行動を計画することができる人って、ある意味幸せな人だが、手に入るのは統計的幸せだけではないのか。「95%幸せ」とかね。「50%死んでるシュレーディンガーの猫」みたいなもんで、生きている猫には出会えないのと同じく、生きている幸せも手に入らない。
哲学の勉強
哲学というのは、原書の翻訳を無理してがんばって読むのは研究者でもない限り止めておいて、信頼できそうな解説本を読んだ方がいいみたいだ。なによりも哲学は実は面白い、ということが分かるから。いい解説本は、それを書いている哲学者自身が面白い、と思って書いているからなおさらなのだ。それにしても、哲学に夢中になったりしちゃうと微妙に世間ずれしてしまうのも、たしか、かもな。実際、そのせいで世の中のバカバカしさが見えてしまったりするしね。そういや、むかし、筒井康隆が日記に、「昨晩酔っ払って仲間といろいろしゃべったがしらふで思い出すと相手の言葉の裏がことごとく分かってしまいそれでひどく落ち込む。こんなことなら心理学なんか勉強しなければよかった」って言ってた。
松山の古いソバ屋にて
数年前、松山へ行ったときである。夕方に、独りで道後温泉の界隈をぶらぶらし、まずは何か食うかと思い、あたりを物色し、他よりも田舎臭くて少し貧乏臭い看板の出た店に入ってみた。ガラガラっと引き戸を開けると、中はなんだかガランとして誰もいないみたいだ。まだ、やってないのかな、と思ったが、すいません、といいながら店の中に入って、少し前へ進むとカウンターの中に、婆さんが独り座っているのが見えた。あの、と言うと、座ったまま、いらっしゃい、と答えた。
なんだ、やってるじゃないか。カウンターに座って、改めてあたりを見回すと、店内はかなり古臭く、なんだか汚らしい。床はいまどきはないような細かいタイルのようなものが敷いてあり、目地が茶色くなっており、テーブルや椅子の類も古くて錆びていて、全体にガランとして殺風景である。カウンターから中を覗くと、厨房と思われる奥の部屋の床にガス台と寸胴が乗ってなにやら煮ているようだが、厨房は黒ずんでいて、さらに汚い。
まあ、いい、とりあえず婆さんに瓶ビールを注文する。婆さんがよちよち歩いてきてテーブルの上に瓶とグラスを置いた。さて、と、ビールをついで飲もうとしたらグラスの周りのテーブルの上に、なんだか小さな羽虫が這っている。目の前のカウンターの縁にはゴキブリの子供が歩いているし、身の回りに小さな虫や蚊が飛び回っていて、体が痒くなる感じである。
あまり物を食べたくなる雰囲気ではないのだが、もともとは腹ごしらえのつもりで入ったので、無難なところでザルそばを注文した。ほどなくして、厨房に中年の男が現れた。婆さんだけではなかったのだ。婆さんはその男に注文を告げるとカウンターの中の椅子に再び座った。この婆さん、一応、動けはするのだけど、どう見てもかろうじて動けるていどで、表情にまったく生気がなく、もうすぐ死にそうな感じに見える。
一方、この中年男の方はおそらく婆さんの息子であろう。小太りで、髪の毛もぺったりと油っぽく、少しオタクな感じに見える。ザルそばの注文を受けて、厨房とカウンターを行き来して忙しそうに仕事を始めた。ほどなくすると今度は、手を動かしながら、座っている婆さんに文句を言い始めた。何を言っているのかは全然分からない。かなり大きな声でしゃべっているが、僕の知らない言語である。どうやら、調理の手順やら食器のしまい場所やらの文句を言っているらしいのだが、文句は一向に止む気配もなくずっと続いている。
それで、婆さんは、というと、最初に何かを言われたときは、もぐもぐとなにやら言い返したが、そのあとはまたもとの無表情に戻り、延々と続く文句を、聞いているんだか聞いていないんだか、無反応でじっと椅子に座って、何を見るでもなく前を向いている。どうやら、これはほとんど毎日繰り返される日常的出来事のようだった。改めて婆さんを見ると、その顔にあまりに生気がないせいで、ほとんど不気味に思えるぐらいだ。
きっと、この婆さんは、この古くて汚らしい店で、同じことを毎日繰り返しながら死ぬのを待っているんだろう。死ぬときは、息子にいつもの文句を言われ続けながら、ふと気づくとカウンターのあそこの椅子に座ったまま冷たくなっているんじゃなかろうか。人の外見にこれほど生きることを諦めた感じがはっきり出ているのを見ることが珍しく、僕は、あたりじゅう小さな虫だらけのカウンターでぬるいビールを飲みながら、この光景をずっとながめていた。
息子が出来上がったザルそばを持ってやってきた。お待ちどうさま、っと愛想よくとても元気である。すでに自分はおいしく食べることは諦めていたが、それでも食うことは食った。肌色のプラスチック製のザルの上に乗ったソバは、海草で出来たみたいに半透明でプルプルでヌルヌルしていて気持ち悪い。そばつゆの横にウズラ卵が一個置いてあり、これを入れろということなのだろうが、僕はなんだかぼんやりしていたのか、そばつゆカップを持ち上げたひょうしにウズラ卵の上にガタっと落とし、そのままぐちゃっと割ってしまった。
食ってみたが、まずい。ひょっとすると、これまで食べたソバの中でもっともまずかったかもしれない。あたりの不潔さや、飛び回る羽虫や、死にそうな婆さんや、聞き取り不能な息子の文句のせいもあっただろうが、食っていて気持ちが悪くなり、それでもソバをすべてかきこんでビールで流し込むと、もう、一刻も早く店を出たくなったので、席を立った。ありがとうございました、と相変わらず息子は愛想がいい。お勘定をして店を出た。
こうして、店選びは見事に失敗した。自分は初めての土地に来ると、同じような失敗をすることが多い。ことさらに汚い店を選んでしまい、たいていの場合、食い物などはうまくないのを通り越して、まずかったりする。
それでも、しかし、あの古いソバ屋には、他のどこにもないドラマがあった。
人生のドラマというのはどんな変哲の無いところにでも転がっているのだな。いや、逆に、変哲のない生活の場であるほど、それは毎日、大量に繰り広げられているんだろうな。自分はふだん、東京という都会のクリーンなエリアに住んでいるが、ああいうところは生活が、快適さに最適化されているせいでほぼパターン化されて、こんなドラマを見ることは少ない。快適だが、単調な光景の繰り返しが見えるだけだ。それに較べて、この田舎の古びたソバ屋には、初めて見る人を驚かす奇妙な人生の図があった。
僕は店を出て、それでも少しは小ぎれいなお店も並ぶ、道後温泉の商店街を歩きながら、そんなことをしきりに考えていた。
たまたま見つけた自分の文
さっき数年前に自分が書いた文をたまたま見たらオモシロかった。
「当時のオレの年齢は25歳、うーむ、若い。 愚劣で汚れたアホくさくい実社会などを、まだこれっぽっちも知らず、ただただ若いリビドーを飲酒で紛らし、膨らむだけ膨らんだロマンチシズムの真っ只中に、毎日を夢中で生きていた、そんな頃である」
老人になったら、若いころにもどることに、しよう。
カントとニーチェ
カントの解説本を3回ぐらい読んで、なんだかずいぶん分かってきた。カントを分岐点として、なぜ自分がヘーゲル、マルクスの道へ行かず、ショーペンハウエル、ニーチェの方に来たか、その理由が分かったような気もした。
ニーチェの、神は死んだ、という有名になり過ぎた言葉も、こういうカントの絶望紙一重の理性の深淵体験から出てきたんだな、と思い、感動もするし、緩やかだけど戦慄も、する。
真昼間に提灯をぶら下げて走り回る狂人はこんな風に叫んでいるのだったよな 「おまえたちは一体知っているのか、神が死んでしまったことを、そしてオレたちが神を殺したことを。世界は真っ暗だ、神が死んだ後、オレたちは、いったいどっちへ動いて行けばいいのか」
カントは神を信じていたが、神が存在することの証明は、論理的に不可能である、ということを厳密に証明した。かくして、神というのは、ある人には信じる対象となったし、また、ある人にとっては人間とは金輪際無縁なものとなった
お岩
東海道四谷怪談を読んでわかること。オレたちが生活しているこの世に「恨み」という悪いものが跋扈している状態を避けるために、幽霊であってもこの世で通用する実質的な「力」を与えてやって、恨みを現実的に解消させている。お岩は決して足の無い漠然とした幽霊としては現れていない。
東海道四谷怪談
戸板に打ち付けられたお岩の幽霊が出て、伊右衛門に言う文句、
田みや、伊藤の血筋をたやさん。
この文句の、意味じゃなくて、字面と響きが、なぜか、大好きだ。東海道四谷怪談は歌舞伎の脚本で、鶴屋南北の作だが、これはオレの最愛の書。この本のどこを開いても、いつでも毎回、自分の心の中にある目と耳がそのとりこになる。
東海道四谷怪談を読むことで喚起される「ある感覚」は、現代人のオレの心にもたしかにしっかりと江戸時代が生き続けているという証拠でもある。というわけで、時代というのは不死なのだが、たとえ古い時代が死んでいないとしても、今生きている自分が気付かなければ、自分の目の前には現れないわけで、その「気付き」を担うのが、たとえば四谷怪談という作品、ということに、なる。
ということは、四谷怪談というのは、オレにとって正しくタイムマシンに相当する、ということになる。行ったことの無い土地へ電車に乗って出会いに行くのに、まあ、似ている。
ホーキング博士は、未来へ行くタイムマシンは可能だが、過去に戻るタイムマシンは不可能だ、とコメントしたと聞いたが、きわめて唯物論な発言だ。でも、それって、世の中を「唯物論な科学者」の目で見たら、その通りで、どこにも間違いはないんだよね。オレの目は、ホーキング博士のそれとは異なるので、同じ世界を別様に経験しているということになり、実は博士の言と少しも矛盾しない。なんで矛盾しないかというと、二人は住んでいる世界が違うからだ。これって一種のパラレルワールドかもしれないね。
ブレア・ウィッチ・プロジェクト
じつは、ブレア・ウィッチ・プロジェクトを見てすごく気に入ってしまい、本当はもう一回借りて見たいのだけど、うちの奥さんには面白くも怖くもなかったらしく、面と向かってアレの何が面白いの? と、言われ、そのときなんとなく虚勢を張ってしまい、まあ、別にたいした映画じゃないんだけどさ、とか答えてしまい、そのせいでなんだか借りれなくなっちゃった。
ブレアウィッチのなにが自分に面白いかというと、二人の男と一人の女性の行きつ戻りつのちょっとしつこい人間劇っぽい展開。これは脚本が、気に入った。で、ブレアウィッチで自分が怖いと思うところは、エンディングの、廃屋の階段を叫びながら昇ったり降りたりするシーン。自分が子供のころ外で遊びまわってたときの恐怖経験みたいなものが蘇るから、らしい。
それで、さっき、ブレアウィッチに似た超低予算の素人ドキュメンタリー風の恐怖映画「パラノーマル・アクティビティ」を見たのだけど、やっぱ、オレはこれも怖いわ(相変わらず奥さんはまるで怖くないって 笑) そういやずいぶん昔だけど、かの「リング」を見て、怖くて、一ヶ月、電気をつけて寝てたもんな。これも奥さんに、バッカじゃないの、といわれている。
過去、現在、未来
現在というのは、完成された過去と比べると常に未完成な未熟なものなので、現在がイヤになることは自然なことだ。でも、その嫌悪感や倦厭感は、未来へ至ろうとする意思や希望の力とバランスを取るべきものだ。しかし、バランスは至るところで容易に崩れる。倦厭側にも、そして、希望の側にも。ある人は、未熟な現在を逃れて平穏な過去の中に身を浸していたいと願い、ある人は、貧しい現在に蓋をし、過去は忘れ去り、追い立てられるようにひたすら未来の実現を願う。本当の人生は、そのバランスの中にこそあるはずなのに。
名文
朝、なんとなく手に取った文庫は小林秀雄だった。詩人の中原中也の思い出を書いた文を読んだのだけど、やはり、見事な名文だ。こんな文章を書ける人は、もう、ほとんど出てこないのだろうな。文体というものの姿もインターネットの登場でずいぶん変わった。文体は今では万人が着ている服装のようなものになった。今では、人々は文体というものを、その文章を書く人の外見のように眺めていて、要するに、人がしゃべっているところをカメラの眼で見ていることに近い事情になっているように思う。書くことと話すこととの間にだんだん差がなくなって行く過程とも写る。人々の求めているものが変わったせいで世の中で流通する文体が変化するということと、文体が世につれ変わるということは同じことなので、日本語の文体の姿は、はっきり、変わったのだ。さて、それにしても、冒頭に書いた先の小林秀雄のエッセイなどを読むと、なんだか強烈なぐらいの味わいがあり、それゆえの安堵感、そして大げさに言うと人生の充実感のようなものを感じるのは、これは確かなことだ。それはひとえに、その文体に「深い」なにかが刻まれていることが伝わって来るからなのだが、今の時代、こういったものに接することは極端に減ったね。僕は、それは時代の流れであって仕方ない、とは言わない。やはり名文は名文であって、その文が名文か否かを判断できる人は育てないといけない。でも、今の人間にそれら名文を書けとは言わない。名文か否かが分かる感性を内に持ちながら、現代風の安い文体を書き飛ばす人がたくさん出て欲しい。と、言うか、自分はそういう文章書きを目指したい。
作品、表現
作品の著作権意識というのは根深く、そして厄介だ。すでにできあがってしまった作品という静的なものにこだわるのを止め、表現の方に軸足を移したい。人間が生きて生活して、その一挙手一投足が表現になり、芸術になる、そういう方向へ行ければと思う。ほら、一世代前の、ピカソも、ウォーホールも、ダリも、そうだったでしょ? これは感覚的に言うが、作品の著作権意識、アイデアの知的財産意識、というのは長年に渡った貨幣経済から来ている根の深い一種の古い社会本能ではないかな? 現代は、人間たちが、これに変わる新しい本能への脱皮を目指してもがいているようにも、見える。
カント、論理、言葉
カントの純粋理性批判を買って読んだことがあるんだけど、最初の1ページからほとんど分からず、3ページぐらいで挫折した。そのときは、哲学って、本当にむずかしいもんだな、と思ったものだ。しかし、最近になって改めて哲学の解説書のようなものをいろいろ読んでみると、哲学は、実は、思ったより分かるものだということが分かった。どうやら、日本語で読む哲学って、あの独特の漢語を組み合わせた用語のせいで理解できないことが多いようだ。
というわけで、最近、弁証法の入門書を読んでいるのだが、その中にカントの哲学の骨子を説明している部分があって、ほんの5、6ページなんだけどちゃんと理解できた。そっか、そういうことを言っていたんだ、って感じ。僕が読んだカントについてまとめると、以下の通り。人間が論理的にいくら考えても、絶対に解明できない世界が常に彼方に残る。なぜかというと、彼方の世界を実際に論理的に解明しようとすると必ず矛盾した結論が引き出されるから。結局、宇宙は、人間が分かる現象界と、人間が分からない英知界に分けられている。でも、英知界は人間には分からない、と言いながら、じゃあ、なんで英知界がある、なんて言えるんだ、と言いたくなるが、これこそが、人間には論理を超えるモノを理解する能力がある証である、と考える。
かくのごとく、「論理」じゃなくて「言葉」を使うと、いろんなことが言えて、いろんなことを理解できる。いや、「いろんな」どころか「あらゆる」ことが展開できる。そんなわけで「言葉」というのは極めてヘンな存在である。そして、カント以降、「言葉」へ関心が移ってゆくのである。
ある種のアメリカ人エリート
アメリカ系のある種のエリートは、アクティブさ、バイタリティ、スピード、どれもちょっと日本人と次元が違う高さを感じることが多い。日本人は、結局は、俳句と浮世絵的感性で勝負になってしまうのかな。少し前の文で、常に動いていないと落ち着かない現代人は、少しは「動かないこと」を見直したらどうか、と書いたが、それと同時に思ったことは、でもそれじゃ現代国際社会を生き抜けないだろうな、ということだった。「動き」が基本な社会は、やっぱりアメリカ系かな。癪だけど、今のところグローバルスタンダードは止められない感じ。それにしても、日本。さいきん聞いた子供の運動会の話で、学校が近隣の騒音苦情をそのまま受けて、音楽なし、徒競走のピストルなし、なんていう運動会をやっている小学校で育った子供が、将来アメリカ人に勝てる気がしない。グローバルスタンダードに西行さんと写楽さんで対抗だなんて、戦闘機に竹やりに近いんだろうか。
ブルース
自分はギター弾きで歌うたいなのだが、毎回ライブで演奏するたびに思うのが、自分の演奏はかなり雑だということ。つまり、オレたちバンドの演奏は完成度が高くなく、たとえばそのまま完成CDにできない。もっと普段の練習を増やせば演奏クオリティの平均レベルは上がって行くだろうことは分かっているけど、演奏態度が根本的に出たとこ勝負なのでクオリティの上下が激しいのである。でも、その意味じゃ、目指しているのはジャズ的精神なのかもな、つまりインプロヴィゼイション。もういまさらこれ以外にできないので、この路線のままだな。つまり、決まったとおりの演奏は、しない、という。
そう考えると、オレはやっぱり、ブルースマンってことになるな。ま、それでいいか、「オレはブルースマンです」、って分かりやすくて、いいや。黒人でもないのにブルースマンって、いいな~ 海を越えた地球のほぼ裏側でブルースマンだなんて、ひょっとすると、オレたちはホントのソウルブラザーズかも、しれないよ。
ヘンな思い出話だが、オレは、およそ十年前、私生活が、まったくどうにもならなくなった時期があってさ、その数年間を経たあと、ホントの意味でブルースが歌えるようになったよ。それまでは、歌えなかったんだ。こればっかりは、なぜだかわからないが、そうだったんだ。なので、オレは、「ブルース」っていうのが万国共通で、国境がない、ということを体で知っている。ジミヘンドリクスがやったブルースっていうのも、そういうブルースだよ。彼は、狭い黒人ブルースを地球レベルに広げた人だ。少なくとも、オレはそういう影響の受け方をしている。
ウフィッツ美術館
フィレンツェのウフィッツ美術館の最初の部屋には、前ルネサンス時代に描かれた三つの大きな聖母子の絵が掛けてある。ずいぶん昔のことだが、かつてこの前に立ち尽くしたことがあったっけな。チマブエからドゥッチオ、そしてジョットと、ルネサンスの夜明け前に立ち会ったような感じだった。
イタリアルネサンスはジョットをその幕開けにするようなので、実は夜明けというよりは、夜明け前だ。そして、ジョットになってもまだ完全に夜は明けていない。チマブエ、ドゥッチオ、ジョットと見て行くと、画面の全体に、徐々に「動き」が加わってくるのが、わかるんだ。
当時から自分はジョットの大ファンなのだが、その一方で、心の奥底ではドゥッチオに計り知れないぐらいの安堵感を感じていて、どうにもならなかったことがあった。あの恍惚とした黄金色の光に、魂が溶け込んでしまうんだ。でも、自分のどこかで、ああ、このままじゃだめだ、とブレーキがかかるのが分かる。
それにしても、まさに歴史上の最大級のムーブメントであったルネッサンスの「動き」の始まりの直前に描かれた、これら「神々しいような静止」を前にして、自らを振り返ると、オレたち現代人は救いがたいほど浮かれてるよね。もう少し「動かない」ことを覚えた方がいいのかもしれない。常に「動き」がないと落ち着かない、って感じじゃないか?
さて、聖母子の部屋を出て次の部屋へ行くと、今度はシエナの画家、シモーネ・マルティーニの大きな受胎告知の絵がある。これは、本当に、ものすごい絵だ。ウフィッツ美術館は展示管理がいい加減なので柵もロクにない。なので、当時、オレはマリアやガブリエルの至近距離10センチぐらいで見入っていたよ。このマルティーニの独特の冷たさ、これは、どこから来ているんだろう。前期ルネサンスの画家には、ずいぶんと、この「冷たさ」を持った画家がいる。
まあ、あれこれ歴史やなにやら調べればいろんなことが分かるのだろうが、根っから勉強嫌いのオレはほとんど調べていない。絵画は絵画としてしか見ないんだ。バックグラウンドも何にも調べずに絵だけひたすら見ている。ほとんど強情に近いこんなことはいい加減にして、最近、たまには調べようかな、と思ったりする。
それにしても、絵を絵としてしか見ないと、言葉の入る余地がないので、いったん分かってそれが自分のものになるとまさに血肉の一部になり、他のものに転嫁できず、場合によっては一種のトラウマのようになる。その点、「言葉」で分かったものというのは、状況しだいであっという間に別のものに転嫁して安全に抜け出すことができる。
言葉、言葉、と。少し前にも考えたこと、あったっけな、廣松渡を読んで。言葉にも言霊というものがあるのだが、言葉と言霊には相関が無かったりしてな。前にもどっかに書いたけど、言葉が言霊を獲得するには、当の言葉が金輪際介在しない、目の前に「ある」世界に心が触れる人間経験の、歴史的な蓄積が必要みたいなんだな。言い換えれば「言葉を言葉で分かることはできない」ということになる。
ところでウフィッツ美術館なのだけど、前期ルネサンスを過ぎて、ルネサンス本番になっちゃうと、オレ的には少し引いてしまうところがある。自分は「奇妙なもの」に惹かれる傾向があるせいで、ボッティチェリやダビンチ、ラファエロ、ミケランジェロと華々しくなってくるとあまり反応しなくなってくる。ずいぶん昔、ルネサンスを賛美する友人に、そういうオレのことを「お前は根が北方性憂鬱だ」と言われたことがあったっけ。これは、図星だ。
西行
春になる桜がえだは何となく花なけれどもむつましきかな
ある朝、ぼんやりして手にとった文庫本をたまたま開いたらこの言葉がでてきた。はい、これは、西行ですね。いまから八百年以上まえ、当時の社会に生きる苦労を思うと、こんな句が読める人はさぞかし心がきれいだったのだろうと思う。
心がきれいか・・・ 年月が経つと、汚いものは風化してしまって、きれいな心しか残らないのかもな。西行だって歩いて息をしていたときは、別にそうそうきれいばかりじゃなかったはずだよな。と、いうか、西行の場合、なんだか、ひたむきな苦労、とでも呼べそうなものを感じるけど。
ある人があくせくと生活して、苦労して、それで死んで、それで思い出になって、それで年月が経って、余計な雑音が風化して消えて、さて、それで最後の最後に残ったその人の魂が、その人の評価を決めるのかな。もっとも、これじゃ、ちょっと、考え方が年寄りくさいか。
ところで、西行の句には、先に言ったひたむきな苦労みたいなものに対する苦しみを歌ったように感じるものがいくつもある。先日、図書館でたまたま借りた本の筆者によれば、西行は若くして出家する前、心を寄せていた高嶺の花の女がいて、出家の理由のひとつはその女に対するかなわぬ愛であり、彼は、出家してから死ぬまでの長い間、その女への慕情を常に心に抱きながら句を詠んだ、と書いてあった。
そう思うと、彼の句に現れている、先に言ったひたむきな苦労、という感触もすっかりとうなずけるものになる。
でも、どうなのだろう。たとえ、それで解釈が可能になったところで、結局はなるほどね、で終わってしまうかも。少なくとも自分は、そうだな。女への生涯変わらぬ一途な慕情というものを持つことができた西行という人間と、さらにそれを元に句を詠んだその芸術家としての資質、といったものの方が解釈よりもずっと重要で、そちらの方は性質上、解釈のしようがない。
西行という人間がいて、詠んだ句があれば、それで以上だ。そしてその人間と作品の二つと、今の自分が相対している、ということだけが重要に思えるし、それで十分だ。そう考えちゃうと、いわゆる客観批評は用がないということになる。
ということで、批評というものも、その批評をする人込みで、価値の高い低いが決まることになる。そうなると西行と批評家は同じ地点に立つことになる。それで、冒頭にあげた句を読む心と同じ心を持って西行を語る、ということが仕事になる。
ということは、結局一番大切なのは思考能力ではなく、想像力だ、ということになる。
大森のCIAO
大田区の大森にはCIAOという名前のイタリア料理屋さんが2軒ある。駅前にあるのが大森店でフレンチ風創作イタリアン、そして、山王小学校の近くにあるのが山王店でイタリア家庭料理である。大森CIAOはお兄さん、山王CIAOは弟さんがやっている、と聞いたことがある。いずれにしても、どちらも、もう30年ぐらいやっている超老舗で、双方とも老舗の風格がある。30年も続いているレストランって、間違えようのない独特の風味があって、変哲のない料理でも、その感覚がすみずみにまで行き渡っている感じ。おいしさだとか、サービスがどうのとかいうより何より、心が満足する。
弁証法
解説本を借りて弁証法を勉強している。言葉だけは知っていたテーゼ、アンチテーゼ、アウフヘーベン、ってヤツだが、おもしろいわ~ それで、弁証法ってのが、ホントは何だったのか、この歳になって今ごろ、分かった。それで自分の生き方を振り返ってみると、「あれかこれか」という単なる取捨をやけに嫌ってきたオレの人生が、なんとまさに弁証法的であったことが、判明した。ひょっとしてひょっとすると、これぞ、時代の空気ってものなのかもしれないな、などと思った。「アレ」と「コレ」という対立するものがあったとき、コレを取ってアレを捨てたり、アレを取ってコレを捨てたり、できない。必ず、アレとコレから新しい「コンナノ」を作ろうとしてしまう、そういう態度のことだ。しかし、いまこの現代に生きていて、この態度が必ずしも正しくないようにも思え、やはり思想というものにもジェネレーションというのがあって、交代したり循環したり回帰したりということが起こるんだろうな、と思ってみたりね。
フェラ・クティ
前々から思ってたが、ジャズのサックスってみんな似たように吹くよね。どことなくチャーリーパーカーのフレーズが出てきて、あとコルトレーンっぽい連続音が入って、などなど。 しかし、それと、もう、ぜーんぜん違う原理で吹いてるのがフェラ・クティのサックス。たとえばZombieという曲のサックスソロは聞くとホント不思議な息づかいを感じる。それにしてもFela Kutiを最初に聞いたのはOriginal Sufferheadという、ワンコードで20分以上続く曲だったのだが、そのあまりのサウンドに、驚嘆して、唖然として、戦慄したよ、誇張でなく。
神秘
心霊現象とか、UFOだとか、超能力だとか、一般に現在の科学では解明できない現象を神秘的な現象と呼んだりするが、この神秘に対する態度って本当に人それぞれでけっこうはっきり分かれるものだね。自分はというと、神秘というものがあることを疑ったことはまず、無い。現状の科学を持ち出して神秘的現象そのものが真実かウソかを判定しているのを時々見かけるが、馬鹿げたことだと思う。自分としては、その神秘的現象を経験した当人の心にそれが何を残すか、ということこそが問題だ。そうすると、結局、その神秘的経験によって心に残った代物を、今度は真実とみなすのかウソとみなすかの、という問題になり、問題の局面が変わる。
たとえば、ひとだまの生成プロセスが科学的に解明されたからってひとだまの価値が落ちるわけではない。たしかに、科学的に解明された神秘現象はこれまで山ほどある。迷信や迷妄から開放されて生活が整理され快適に向かって行くことは、間違いなく有益だ。しかし、解明済みの神秘現象とて、それを経験した当人にとってみれば、なぜまたそのタイミングで自分の目の前でそういう物理現象が起こったのかについては、誰も説明してくれはしない。
もともと科学というのは理性の飛び道具なのだ。それは時間と空間に飛び回る有象無象を一つ一つ撃ち落して、不安のない平穏な生活空間を作ることを目指している。それに対して有象無象と一緒に仲良く暮らすことを目指す能力を「本能」という。「本能」がなぜ科学的に再構成できないか、というのは根が深い問題だと思う。が、しかし、何百年か後にはできるようになるだろうね。その暁には、きっと科学というもの自体が変質してるだろう。
ところで、こんな風に考えているということは、結局のところ自分は科学をなんとなく毛嫌いしているんだろうな、と思わざるを得ないな。というか、いま現代、すっかり庶民レベルに落ちてきたこの「科学的解明」というものが気に入らないというべきか。ほとんど新種の迷信ではないかと思えることもある。
若者老人
この惨憺たる現代日本は構造改革するほか先はなさそうだが、その方法論が今の若者たちのビヘイビアーの中に昆虫的本能として発揮されているはず、と、誰か賢い人が分析解明してくれないものか。やっぱり、老人は後続に道を譲るべきだと思う。それも、今こそ。 新しい人に任せるとしばらく数年は混乱するので、それを乗り切るだけの力を最低限確保した上で、なのだが。まあ、これからの老人は趣味で多忙だから、現役をあっさり引き下がる人は増えるだろうね。しがみついてる老人は、独りになると何もすることがなく不安なんだよ。
今昔
20年前のバブル期は、若いカップルがセンチュリーハイアットを予約してドレスとタキシードでディナーしてたって。最近のカップルは、七輪焼肉で270円のホルモン食ってホッピー飲んでる。
うわべを飾るということ
とあるネットニュースで、最新の経営手法に関して、社員の健康悪化そのものもコストに換算して管理対策するという考え方について読んだ。いやー、大変な時代になっちゃったね。これを読んでいると、ハリウッド映画に出てくるステレオタイプ経営者の姿が目に浮かんでくる。「みんなで明るく元気な職場にしましょう」というスローガンの裏に渦巻くこの非情さ。人の世というのはたしかにそういう二重性に支えられて、いるよね。
孔子は、二千年以上前に、「人民を従わせることはできるが、その理由を教えることはできない」と、はっきりと言い切っている。思うにあの人は、いわば、フリーの経営コンサルの元祖みたいな人だったね。後半生は、為政にも、人民にも、属せず、それでいて厭世でもなく。孔子を経営コンサルタントとして考えると、彼が飽きるほど繰り返す「仁」「徳」「孝」という代物たちの本当の意味が見えてくるような気がする。
孔子が解こうとした人性の謎は、いまだにまったく解けていない。いや、待てよ、彼は解こうとしたんじゃなくて、途方もない人性をいかに飼い慣らすかについて工夫を凝らした人だったっけ。徹底した現実主義なのだ。うわべが君子であれば、裏が二重だろうが三重だろうが人の世は平和、ってこと。ソクラテスもそういう人だった。
ある異国の人相見がソクラテスに会い、人相を見るに、「あなたは知見も狭く情欲に傾く性質がある」と言った、そうしたらソクラテスは「よく私という人間を見抜かれましたね」と答えた、という逸話はニーチェで読んだが、あれは本当なのか?
しかし、なんで古今東西の思想家やら何やらの人の多くは「うわべがすべて」のようなところに行き着くんだろう。あるいは、この自分がそういう人ばかりに惹かれるんだろうか。もっとも、この俗世で、うわべがすべてなんていう発言をするとかなり誤解されるだろうけど。今の世のように、本当にうわべがすべての世界になってしまうと、かえって「うわべがすべて」と宣言することが嘘つきや不誠実と受け取られることが多いとは、皮肉なもんだ。
うわべの下に隠れている心は、誠実でも不誠実でも善悪は問わないが、一つだけ重要なことはその心が「深く」なければいけないということだ。浅い心の持ち主がうわべを飾ると、そのうわべはすぐに取り繕えなくなり、馬脚をあらわし、無様なことになる。
大井町のスタミナカレー
オレにとっての日式B級飯の最高峰は、やはりココ、大井町のスタミナカレー。カレー粉そのもののまっ黄色のシャバシャバカレーと、豚肉とタマネギをグチャグチャに煮たものが平皿のご飯に半々にかかっている。全体に、なんとなく発酵気味で、臭い。最初にここに入ったのは、もう30年近く前だったような気がするが、あのころはもっと強烈だった。豚肉タマネギ煮はもっとずっと得体の知れないあくどい味と臭いで、金くさいスプーン、半分腐った福神漬、埃だらけの小型テレビ、すすけた蛍光灯、うーん、最悪なのだが独特の風格があったな。30年たった今ではずいぶんまともになったが、往年の味のいくらかはちゃんと残っている。B級好きな人には、お勧め。
紅茶とケーキ
紅茶とケーキが好きだからって 紅茶にケーキを入れて食べる人はあまりいない、という自分の言葉を偶然みつけて少し笑った。紅茶にケーキを投入したら、飾りつけがもげ、クリームが浮き、スポンジが溶け、油の膜が広がり、なんだか阿鼻叫喚地獄だな。そういや、子供のころ、クリープと砂糖を入れた紅茶に、マーガリンを塗ったトーストをビチャっと浸して食うのが好きだったときがあったな。親には叱られてたが。そうそう、この紅茶とケーキの話だが、若いころ、いきつけの場末パブで、大量の水を飲みながら安ウィスキーをロックでこれまた大量に飲んでいたことがあり、友達に、お前そんなめんどうなことせずに水入れて一緒に飲みゃいいだろ、と言われ、そのときにとっさに答えた言葉だったっけな。じゃあ、お前は紅茶にケーキが好きだからって、紅茶にケーキ入れて食うのか、ってね。どーでもいい話なのだが(笑)
カッコいい中華料理人
中華街で、老舗なのに協調性のない孤高の中華料理人がやっている上海飯店という店がある。孤高なんて言っても求道的なところはまるでなく、むしろいい加減。でも、この人は昔からオレの憧れの人なのである。オレは中華料理を作るときの身のこなしをこの人を見て覚えたのである。いまでも中華街へ行くと、必ずこの上海飯店へ向かって、あのあんちゃん(今ではもちろんおじちゃん)が元気でいい加減に店をやっている様をのぞきに行く、そして、ときどき店に入って食う。もう、30年来の客だ。
料理のコツは、最後には、結局、カッコよく作ることにあるみたいなんだ。ただしこれはあるていど以上のレベルの人の場合の話で、レベルが高い場合、最後の最後、このカッコよくってのが料理に品と深みを与えるのである。これは音楽の演奏と、同じ。オレが上海飯店のあんちゃんから習ったのは、この「カッコよく作る」っていうことなのだ。
そういう意味じゃ、料理のレシピなんてものは、たいしたものじゃないな。さらに現代では、プロの料理人でさえ惜しげもなくレシピ公開してるからね。レシピだけで作れるのはあるレベルまでで、それ以上のレベルを目指すことになるとやはり壁が現れる。そりゃ、そうだよね、レシピには「どうやってカッコよく作るか」なんて、書いてあるはずないし。
ま、曲のコピー譜だけ見て一生懸命演奏してるようなもんだ。コピー譜には、どうやってカッコよく演奏するか、とか書いてない。演奏の場合、ビジュアルのウェイトが大きいことは当然だけど、料理も、実は、そうなんだぜ。
音楽と絵画
絵画はいつまで見ていてもそのままだが、音楽は一方的に終わりが来る、というのはきっとなにかしら深い仔細があるんだろうな。そしてそれだけではなく、もっといろいろな点で、音楽と絵画というのが見事に相補うようにできているというのも不思議だ。音楽的な絵画、そして絵画的な音楽、というのがあるのも、そういう相補性があるがゆえだろう。しかし、おのおのに接していてもっとも感動的に思える瞬間は、音楽が決して入り込むことのできない絵画だけの領域、そして、絵画が決して入り込むことのできない音楽だけの領域が垣間見えたときだ。そういうものを目の前にすると、感動を超えて、慄然とすることがある。
テレビジョン解体
むかし記号学会で、「テレビジョン解体」というテーマでシンポジウムをやるからといって、そこに講演に呼ばれたことがあった。記号学というのは、学問としては哲学に分類されるわけで、哲学者の集まりでしゃべるなんて大丈夫か、と、ずいぶんビビったっけな。
しかし実際に参加してみたら、そこではテレビを記号学的に解体しようとしていたのだが、記号学という武器を使った攻撃にも関わらず、テレビの「中身」はまったく解体されずに無傷のまま残ってしまった、という結果を見せ付けられたような形だった。哲学者たちだって、やはり「中身」すなわち今で言うところの「コンテンツ」の扱い方には苦労しているということが分かって面白かった。
物事の記号的構造をいくら、調べて、分解して、再構築しようとしても、その「中身」は分析も解体も構築も拒否してそのまま残る、というのは一種当たり前のことなのだろうな。なぜなら、分析も解体も構築も拒否するような代物を「中身」って呼んでるからだ。このへんは循環論理だね、ホント。
中身、っていうのは魂みたいなものかもな。魂がこの世で活動するために肉体と言葉が必要になるわけだけど、解体はその肉体と言葉には及ぶのだが、どうしても魂までうまく届かないみたいなのだ。
シンポジウムでは、記号学の人がドキュメンタリー番組を記号論的に解体する作業を紹介していたが、そのあとに、今度はNHKでドキュメンタリー番組を長年作り続けたディレクターが出てきて制作作業について語った。その両者の語りの落差たるや、埋めがたい感じを受けたな。というのは、記号学の人が映像の方法論や型についてしゃべっていたのに対して、ディレクターはそんなものは見向きもせず、ひたすらドキュメンタリーの魂の話に終始していたからだ。
自分は、というと、実は仕事の上では、その中身と言葉のちょうど真ん中のところをねらっている。なので、先の記号学の人ともドキュメンタリーのディレクターとも等しく距離が離れたところにポジションを取っている。仕事では、言葉を書くとそれがコンピュータで自動的に映像になる、ということをやっているのだから、意味的にはそういうことになる。
しかしだ、仕事の見かけはそのように中庸なのだが、その全体はやはり魂の方にずっと傾いている。自分という人間をよくよく観察してみると、これはもう頑固なほど魂寄りなのだ。それで、ホントのホントのことを言うと、仕事の上ではそれが足かせになっていると、さいきん思うようになった。
それにしても、「中身」、すなわち「魂」で生きている、ってことになると、聖徳太子のころからまーったく進歩してない、ってことになっちゃうな。しかし、どっちにしても、オレは魂のあることをやるよ、そういうガラなんだわ。仕方ないんだわ。
しばらくは下らない世の中、と
校則違反した生徒たちを3時間正座させたことが発覚して学校側が謝罪、で、それがニュースネタになるとは、唖然だ。こんなどうでもいいことがトピックスの上位に入ってあまねく知れ渡るなんて、なんとなく世も末って感じがするな。
やはり、今の世の中は、下々の僕たちの層の積層した力によって、善悪などの構造自体を変化させようとしている真っ最中なのかな。ちょうど変態中の蛹の中のようにね。それにしても蛹が孵ったら、いったいその殻から、なにが飛び立つんだろう。
僕たちはたしかに旧い構造を変えられる力を手にしたけど、その力の使い道はもちろん確立はしておらず、そうとうに危なっかしい。でも、一度は通るべき道なんだろうな。ということはつまり、この現代では、下らないことがこれから先もイヤというほど起こる、ということでもあるな。
初音ミクと実存主義・構造主義・ポストモダン
仕事がらときどき初音ミクで作った音楽を聞くことがあるが、あれはオレには全部同じに聞こえる。オタクのソングには何だか特徴があるね。ちょっと長めのメロディアスな歌い上げっぽいカデンツと、せわしいリズムに乗った単調なメロディーを、交互に繰り出し、声も楽器の音も高音ばかりで、中音というものがなくて、低音もほとんどないのだが、代わりにケツを蹴るような打撃音がカデンツ以外のところにコンスタントに入ってる。
オタクのソングは、あれは、もう、一種の、オタクのBLUESだね。「辛い宿命からの逃避」、というモチベーションがその昔の黒人ブルースとほぼ構造が同じだ。オレはブルースを演奏するが、オタクのソングは忌み嫌っている。なぜならモチベーションの構造は同じだが中身が違うから。でも、しかし、中身、って何だ? 中身、中身、人間の中身ってホントなんなんだろう?
さて、それでは、このオタクソングと黒人ブルースの間の関係を、実存主義のサルトルと構造主義のレヴィストロースになぞらえてみよう。
まず、黒人ブルースは開いた音楽であり、それゆえ世界のポピュラー音楽の基礎となった、という事実を盾にして、狭いコミュニティでしか通用していない閉じたオタク音楽の卑小さを糾弾したのが、サルトル。それに対して、そういうオタク攻撃のしかた自体が、既成社会の価値観に囚われた社会の発展という偏見に基づくものであり、まるで演歌の心以外認めない偏狭ジジイのように進歩が無い、と論難し、勝ったのがレヴィストロースなので、アル。しかしながら、黒人ブルースもオタク音楽も構造が一緒だということで等しく偏見なく認めてしまったら、一体、何がよい音楽だか分からなくなったため、やっぱこりゃイカンと反省して生まれたのがポストモダン、っていうわけで、アル。
もっとも、きっと、ポストモダン的に言ったら、オタク音楽に対してはこうなるかもな。「きみたち、いいんだよ、それでいいんだ、なすがままにやりたいようになさい、それがゲンダイというものなのだから」ゲンダイとは「現代」ではないことに注意。すべてはキゴウカされ、だからといってムナシクもならない、タノしくカツドウして、すべてはユルサレルのである、アーメン、アーメン、、、
ハイブリッドが嫌い
オレが嫌いな解決法、ハイブリッド。
半端でいやだ。長所と短所がある何かと、これまた長所と短所がある別の何かがあったとき、その2つの短所だけ捨てて長所だけ残して混合して元の2つよりいいものを作ってしまおう、という考え方自体がいやだ。それに、できあがったものを見たとき、そこに元の何かと何かが丸見えになっているのは、やはりぶざまだ。
でも逆に、何かと何かのちょうど真ん中を作ることはよいことだ。そして、混合ではなく真ん中を作ることを、中庸の精神と言うのだ、孔子の言うところの。何かと何かの混合を作るには、当の何かと何かが揃っていればあとは混ぜてちょっと調整すればできるが、真ん中を作るときはそうは行かない。作る前は真ん中には何も無いから、その真ん中を見極めて、新たに作らないといけないからだ。
こういう事情を、中庸を得るのは難しい、というのだ。実は日本は歴史的に言ってこの中庸の方法論が抜群に上手な国だった。しかし、さいきんはどうだろう。白か黒かをやたらはっきり断罪することこそ現代的な人間の姿だと勘違いしているようすが目につくのは、これはかつての西洋コンプレックスが庶民にまで降りてきた、その成れの果てだろうか。
そういう、つまらない人間たちはたいていこの「中庸」というものを逆に中途半端だとバカにする。つまらない人間が中庸を得るときは、それはたいていが混合だ。孔子は、君子の中庸は「時ニ中ス」、小人の中庸は「忌憚ナシ」、と言ったけれど、小人たちはまさに、あれこれのものを節操なく混合して右往左往して、そのせいで言葉だけがやたら氾濫する。
インターネットのせいもあって、特に、現代は、「忌憚のない人」たち、つまりあたりはばからず騒々しい人たちが氾濫しているでしょう?
孔子の弟子
孔子の弟子の一人に子路っていう人間がいて、彼はなんだかすごくいいヤツなんだよ。もっともオレはこの孔子の弟子の子路を、中島敦という昔の文士の「弟子」という小説で先に知ったのだけど。この中島敦は教科書にも載っている有名な人らしいね。
子路は、一途で、不器用で、血の気が多く、考えるより実行するタイプの荒くれ男風の人物像なのだ。子路は字で名は「由」というのだが、孔子の言葉で、この由について言った片言がいくらか残っていて、読んでいると何だか不思議な愛情を感じるんだな。
その中の一つに、うろ覚えだが、こういうのがある。子路は常日頃から自分自身に、いにしえの詩で言われる「出すぎたことをしなければ良くないことは起こらない」という文句を繰り返し言い聞かせていたそうだ。それを見た孔子は「そんなことで、何が良いことが起こるものか」と言った、というのだ。
僕の持っている論語の解説本には、この逸話について「孔子は、積極的に事を進めることこそ大切だ、といましめたのである」などと書いてあるが、そんな馬鹿馬鹿しい当たり前のことを書かないでくれよ。子路は自分の積極性が落ち着いて定まった方向性を見出せないことを痛感していたからこその態度だったはず。孔子は子路のそういう性格をよく知っていたので、きっと「そんな風にして何が良いことがあるものか」という言葉を、微笑みながらちょっとからかうように子路に投げかけたのだと思うよ。そこに現れているさりげない孔子の子路に対する愛情や気遣い、子路の実直さや、その他もろもろに感動するんだ。
先の解説本しかりだが、論語の儒教的な解説というのは、あまり面白くもない感じだな。もちろん儒教は論語が基礎になっているわけが、何だか当の孔子の人間像とずいぶんかけ離れてしまっているね。孔子は、儒教で言うところの聖人君子なんかより、ずっとずっと人間臭い、愛すべき人間だったと思うよ。先の子路に言った言葉とかを読むと、オレにはそう直観できる気がする。
まあ、それにしても、学者ってのは、大半、アホやのう~(笑) あと徒然草を研究してる学者も、ずいぶんつまらない解説を書いてるよ。同じくパスカルのパンセにも、あるいは、さいきん流行のニーチェのアフォリズムにもね。だから、まず対象を好きになって、あとは、自分がそれに感じることを素直に信じた方が、ずっといい。
孔子と出会う
さいきん出会った人、孔子。おもしろいね、2千年以上前の人に新たに出会えるなんてね。そんなとき、たしかに、孔子という人は不死なんだと思える。そして、孔子が不死だったらオレたちも不死だろう? そして下々のものたちまでみんな、みんな、不死なはずだろう? オレはそう考えるよ。
善悪の枠組み
オレの元同級生の友人にこれまでさんざんBlogやtwitterをすすめたが、ヤツいっこうにやる気配なし。あいつは「走り」が趣味なヤツで、 まあ、彼の立場から見てみれば、このオレにジョギングやれって言っても一向にやる気配なし、と同じようなものか。
「おまえもtwitterぐらいやれよ」「おまえがジョギングしないのと同じさ、イヤだね」という会話は、ディベート術的に言うとtwitterからジョギングへの論点の不当なすり替え、ってことなのだが、それは「論点」が「twitterの効能」にあるからで、相手にしてみれば、その勝手な論点の設定が不当ということになる。ここで「やるとよいことは知っているけど、やりたくないからやらない」ということを論点にすると、twitterすることとジョギングすることは同じ土俵に乗る。
twitterをやると、何がいいの? 小さな発散? ライフログが残せて後で楽しい? 他人の生態が感じられる? 世界が広がる? ゆるい情報交換で仕事に役立つ? などなど。
ジョギングやると、何がいいの? 運動不足解消? 目標の達成感? 外界の空気を吸ってリフレッシュ? 同じジョギングの仲間作り? などなど。
こうやって2つの事柄の「よいこと」を列挙すると、だいたい対応するものが見つかるわけだ。きっとこれは「悪いこと」でやっても同じことになるだろう。それじゃあ、結局、「twitter」と「ジョギング」って「内容」が入れ替わっているだけで、それを容れる「枠」は同じってことじゃないか。ま、こういうのを、構造主義っていうんだよな。「枠」すなわち「構造」がものごとを作り出している、という考え方だ。
ところで、構造主義のレヴィ・ストロースが、当時論戦常勝の実存主義のサルトルに勝った、っていうことになってるらしいのだが、でも、なんだか、これを聞いたときは痛快だった。オレは世代的に実存主義の空気で育ったはずなのだけど。
しかしさいきんはね、善悪っていうのが、かなりのレベルでなんだか分からなくなってきたよ。オレたちは、原理的に善悪の枠組みを変えることができる、つまり、オレたちは善悪の基準を作ることができる、ということが実感できるようになってきた。ということは、オレたち自体は善悪を超えたポジショニングができる、ということも薄々わかってきた、というか。
それにしても、オレたち庶民のように、移り気で、見識があやふやで、いい加減で不徹底で、他人の意見に影響されやすい、そういう人間たちのかたまりが善悪の基準を作れるようになってしまう、というのははなはだしく危険なことなんじゃないか、とも思えてくる。さらに恐ろしいことに、我々めいめいが善悪を超えたところにいる、いわゆる善悪の彼岸にいる、と感じはじめたときだ。なぜなら、その論理的帰結として「われわれは何をしても許される」ということになってしまうからだ。
さて、まさにこういう考え方をしたときこそ、古典の空気が必要なときだ。なぜなら、古典として名が残っている思想家たちは、みなめいめいの時代の中で自分は善悪の彼岸にいると強烈に自覚した人間たちだったからだ。もちろん当時はなかば密かに、であるが。
ということで結局、このように庶民が善悪を作る時代になったとき、めいめいがしなくてはいけないことは、過去に戻って偉人たちの吐いたよい言葉の空気を吸うことなのだと思う。
でも、まあ、善悪の話なんていうのはタイソウな話なんで、あんまり人前ではしない方がいいかもな。
しかし、やっぱり、今日電車に乗ってて漠然と思ったんだけど、かつて実存主義的だった自分のものの考え方も、時代が進むと共に構造主義的に変って行った。それは確かだ。とはいえ、それでも変らない自分の心ってのがあって、これは一貫しているように思えるが、はて、どんな心だろうね?
心、心、と。 これは一種の矜持のようなものかもしれないな。
自然ものより人間もの
目黒川沿いの桜は見事だ。満開の桜の花の下の遊歩道を歩いていて、ふと我に返ると、自分が見ているのが、花見の場所取りをしてる下っ端や、発泡酒飲んでオニギリ食ってる主婦や、何も分からず走リ回ってるガキとかばかりで、肝心の桜をぜんぜん見ていないことに気がついた。やっぱりオレは自然ものより人間ものが好きなんだろうな。
ミケランジェロやピエロ・デラ・フランチェスカや
うちで和食だとかなりの確率で、ご飯、キノコ、大根おろし、山芋、のコンビネーションが出てくるが、まったく片田舎の木食上人じゃあるまいしな。と、書きながら、なんでオレは「木食上人」なんていう言葉を知っているんだろう?
これは、たしか、青山二郎と小林秀雄の酔っ払い対談に出てきた単語だ、それを読んで覚えたんだ。小林の「ミケランジェロは89歳で死ぬとき、ようやく何でも表現できるようになったとき死ぬのか、と言ったのだ」という言葉を受けて、青山が「そんなことは木食上人でも言えるさ」と一蹴する場面だ。
ところで、バチカンにあるミケランジェロの「死せるキリストとマリア」の彫刻は、彼が24歳のときの作品なはず。驚異的というのはこういうものに使う言葉だ。ほんのかすかな傷も見当たらない、真実に完璧な作品で、唖然とする。そのミケランジェロが89歳になって「ようやく何でもうまく表現できるようになったのに」と、言うんだからなあ、表現とは果てしのないものだ。
しかし、オレはルネサンスの最盛期はちょっと苦手で、どうしても前期ルネサンスへ行ってしまうな。ピエロ・デラ・フランチェスカが、結局、一番、好きだ。やっぱりオレは何についても「エキゾチズム」に走る傾向があって、この性癖は直らない。ここで言うエキゾチズムとは「あり得べからざる組み合わせが生み出す不思議な効果」という意味だ。「傷の無い完璧な調和」というものをそれ「単体」で想像して享受することがうまくできない。
なんだか面倒な話になっちまったな。キノコと大根おろしの話だったのに。
しかし、ロンドンのナショナルギャラリーは、とにかく、スゴイ。先に書いたピエロのすばらしい絵があるなどコレクションがスゴイのは大英帝国の名残だが、何がスゴイって、作品の保存状態などのメンテナンスや、展示の仕方に細心の注意を払っているところなど、芸術作品に対する愛情のかけ方が尋常じゃない。
たとえばイタリアの並みいる素晴らしい古典絵画など、イタリア本国では展示がいい加減、フランスへ行ってもいい加減、アメリカはけっこうきちんとしてる、しかしイギリスにはかなわない。やっぱり、イギリスって、本国産の古典絵画にいいものがあまりないからな、尊敬と憧れがあるのかな。
そうそう、それから大英博物館もすばらしい。あと、大英博物館の入り口からちょっと裏に入ったところのワガママっていうラーメン屋も旨かったっけ。
メタデータが気に入らない
7、8年前だったか、自分が情報系の研究職だったころ、「メタデータ」ってのが流行ったときがしばらくあった。当時、オレはこのメタデータというのがどうしても虫が好かず、嫌っていたっけな。
メタデータとは「データについてのデータ」のこと。当時は、メインのデータというものにくっつける説明用のデータのことを指していた。例えば、「映像」がメインデータで、「その映像の作者名や制作日時」などがメタデータである。
メタデータのどこが虫が好かなかったかと言うと、「メインとサブ」という主従の関係がどうしても固執されていたところ。当時から、そして、もっとずっと昔からオレはメインサブ、主従、ハイアラーキ、階層的整理、といった一連の概念を嫌っていたのだった。
もちろん、ここでいうメタデータはかなり狭い意味で、本来の「メタ」という接頭語は「高次な」という意味なのでずいぶん違う。と、いうか、むかし自分が嫌っていたメタデータはむしろ「メタ」の誤用とも言えるかもしれない。
それにしても、いま現在、モノからコトバへのパラダイムシフトという概念を新しく習った自分は、かつてメインとサブという構造を嫌った自分の目指すべき故郷を見つけた感じだな。
データのためのデータは、それで結構。でもこれからは、前者のデータが後者のデータを生むというだけでなく、そうして現れた後者のデータがさらに新しいデータを生んで、それが円環を成す、という経過を経て、あらゆるデータが並置される世界観へ移行する、と考えてみよう。
世界は因果律の連鎖によって現前しているのではなく、並列的な関係性によって現前している、と感覚的に納得したいのだ。でも、これは自分でもちょっとやってみるとわかるんだけど、現代人にとってどれだけ大変か、とも思う。
ややこしいな。ま、いっか。ただ、自分が言葉に固執する意味がだんだん分かってきたって、こと。
将来の養老院を垣間見る
昨晩は三宿のロックバーで集会、演奏、飲み。ここ、ターゲット層が50代以上なんだわ。で、ホントに客のほとんどが50以上。一番若い人で47歳だったぜ。生ギターかかえて、あれやろう、これやろう、と、次々とみんなで楽しく歌って演奏してたんだが、ふと正気に戻って周囲を見渡すと、ホントにみんな50以上のじじいばっかで、なんだか侘しく切なくなったよ、なんだかね。深夜のじじい集会ロックバーでビートルズやイーグルスを演奏しながら、ああ、10年後、20年後の養老院はきっとこんな感じなんだろうなあ、と未来を垣間見た気がして、ちょっとブルーになったぜ。でも、オレが将来の養老院に入るころは、オレは確実にスターだな、あまりうれしくないけど。
臭いから旨い
東南アジアではエビを発酵させた蝦醤(シア・ジャン)が調理によく使われる。国によっていろんな名前になっていてたとえばインドネシアではトラシというそうだ。これは料理に一種の臭いにおいを付けるために使う。臭くないと旨くないからだ。いまではポピュラーになったナンプラーや、この蝦醤や、日本のくさやもそうだが、その臭いのタイプは「肛門臭」に分類されると思われる。料理にこの臭いをつけることは多くの国で見つかるので、まったく世界中だれもかれも肛門の臭いが大好きだ、ということになる。一種の肛門愛の変種なのであろうか。高度に文明化した現代人であっても、肛門臭への偏愛のようなプリミティブな感覚を料理の上にしっかりと残して、それを「うまい」という代替語でおおっぴらに言ってはばからない様子はなかなかに、感動的ではないか。
いいと悪い
もう、さいきんは、「悪いこと」、という意味がなんだか分からなくなったな。いいことと悪いことの基準はわれわれみなで決めている、という感触がとても強くなってきた。 そうなってしまうと、そういう大切な基準を日々作っているのが、このようにその場限りで打算的なわれわれで本当にいいのか、と、実は、事あるごとに痛切に思うようになり、やりきれなく感じることが多くなった。こんなときは、たとえば、ニーチェの「道徳の系譜」でも読んで、いいことと悪いことに関する「いい空気」を吸い込むことが大切だ。あ、そうか、やっぱりこのやるせない感は、現在の日本の世の中でいわれるところの「いいこと悪いこと」に関する「空気が悪い」、ってことかもな。結局、なにがよくても悪くても実際にはどっちでもよくて、悪いとしたらそれは空気ではないだろうか。
ゴーテーイーガー
餃子の王将ではバイトのオネエチャンが「ゴーテーイーガー」と叫んでいるが、あれは鍋貼一个(グオ・ティエ・イー・グア)、すなわち「鍋貼り付け焼き餃子を一個」という意味である。
罪と罰の一場面
罪と罰の主人公ラスコーリニコフに、「あなたには空気が足りない」と忠告する人は、事件を捜査している中年の刑事だったっけ。その彼はラスコーリニコフに、自分を「終わった人間」と自己紹介していた。あなたには空気が足りない、と言い当てるのは自分のように長年生きてきた経験がある人間であればやさしい。大切なのは、あなた自身が空気を求めて動くことです、と、彼は、この若い、将来のある、ラスコーリニコフに忠告するのだ。
超訳ニーチェの言葉が売れているそうだが
「超訳ニーチェの言葉」という売れ線の本がある。先週、本屋でこの本を立ち読みしたが、しかし、これは、ニーチェじゃない。それどころかニーチェがもっとも嫌悪していた俗臭芬々たる本になっているその手管は、見事なほど。しかし、これも、一種のコラージュやフロッタージュの言葉版と思えば面白いのかもしれない。
コトバとモノ
廣松渡という哲学者が言っているが、世界構築について、古代は「生物」を、近代は「機械」を、そして現代は「言葉」をリファレンスにしている、とのこと。すばらしいことを言うもんだ。「モノが先にあって、それをコトバが説明する」のではなく、「コトバの存在により、モノが現れる」ということ。廣松渡はモノ的世界からコト的世界へのパラダイムシフトと言っている。
ちょっと外出でもして実際にやってみると分かるが、自分の中からコトバを完全に追い出した状態で、目の前に広がる木々や大地や空を見ようとしても、ほとんど不可能に近いほど、難しい。ときどき1秒ぐらいできるような気がするときがあるけど、その瞬間、自分が完全な白痴になっているような気配がしないか。
しかし、おかしなことだけど、その瞬間こそがコトバがモノを作り出す原動力になっている。人間というのはコトバの無い世界ではすでに生きられなくなっている。まさにコトバが世界を作っているのである。しかし、その当のコトバ、そしてその当のモノというものを世界から狩り出して来るには、その当の「世界」を白痴になって感じる体験がどうしても必要のようだ。
そして、芸術家と呼ばれうる人間の大半は、それが、意識的に、できるのである。
街づくりの流行り廃り
二子玉川の高島屋なのだが、本体ビルの周辺の土地を少しずつ高島屋が買っては飲食店などを開店してるみたいだ。それも元の小道などを残し、区画せず、不定形な土地形状のまま不定形な建物を建てている。そのせいで一帯がなかなか楽しいエリアになりつつある。しばらくはこの方法論が流行りそうな予感。そう考えると、広い土地にライトグレーとブルーの概観の高層ビルを建てて、周りに広々と空間を設けて、小道を作り草木や街路樹を植える、という快適エコライフみたいな街づくりはもう、古いんじゃないだろうか。日本の都市計画も、もういちど、ごちゃごちゃアジアの感覚に戻れたら、嬉しいな。
事という字
ところで、「事」っていうのは、もともと昔は、「言」って書いたんだってね。「事」というのは、「物」の振る舞い、というよりは「言葉」の姿そのもの、という感触だった、ということなのかな。廣松渉の「物と事」を読んで。
東京にある絵をいくつか
八重洲のブリジストン美術館にひさびさに行ってみようか。あそこにはセザンヌのサントビクトワール山を描いた風景画が一枚あるが、あれは本当に、すごい絵だ。周りにはコローやマネやモネなどの宝石がたくさんあるが、このセザンヌの画布は宝石中の宝石だ。
それから、ほとんど知られていないが、箱根のポーラ美術館には、ゴッホの小品が一枚ある。あざみの花を描いた最晩年の画布で、実は、この絵は、かなりすごい。あれだけのために行く価値がある(かもしれない)。
あと、バブル期の日本を騒がせたゴッホの向日葵の画布が新宿の損保ビルにある。サザビーズで58億円だかで落札された絵だけど、そういう浮世のごたごたなど噂にも知らぬ、と言いたくなるような、黄金色に塗られた向日葵が、厚いガラスの向こうで、なんとなく悲しげに、でも純粋で素朴な光に輝いているのが、見られる。
ついで。広島へ行ったらひろしま美術館へ行ってゴッホの晩年の作「ドービニーの庭」を見るといい。僕の考えでは、この絵はゴッホのたくさんの傑作の中でも、最高傑作といってよい作品だ。この絵が日本にあるのはうれしい。
とある哲学スレッドで
むかし、どこぞの哲学スレッドで、「整数と自然数の数量は同量である」という数学命題の証明があるが、あれが納得できない、と発言したことがあった。そしたら、そのスレッドの常連が、まるで子供の質問に答えるときのような口調で中途半端に諭してくれたことがあり、ちょっと頭にきたこと、あったな。別に彼らに説教する気はないが、哲学を志す者たるもの、定期的に初心に戻って、哲学界では常識と化してしまっている事柄を改めて疑い、自身の力でゼロから検討し直すべきだと思うよ。ああいう態度に出る人たちは、実はそれができていない場合がほとんど。
臨界点に身を置ける人
人間の活動のコンディションを正帰還の臨界点に持って行き、そこにしばらくそのまま留まっていることができると、ごく僅かな外来の刺激がたちまち無限大に増幅され、なだれ現象を引き起こす。そういう臨界点を、あるていど意図的に作るすべを知っている人って、ごくたまに、人間技と思えないようなことを仕出かす。ひょっとしていわゆる霊との交信というのも、そういった臨界点を利用して可能になるのかもしれない。ただ、臨界点を利用したなだれ現象では、いいも悪いも一緒くたに入ってきて増大するだろうから、実際には引き起こされたその結果の良し悪しに保証はないはず。そして、その地点で、はじめて、「その当の人間の資質」が表面化し、結果の良し悪しを左右するんじゃないだろうか。
アドリブマシン
音楽演奏のアドリブってのは不思議なもんだな。同じようにテキトーに弾いていても2人のプレイには確実に差が出る。で、なぜ、こっちのプレイの方があっちのプレイより「良い」か、理由がよく分からない。
アドリブのプレイの良し悪しを判定できる機械がもしできたら、その機械はどんなアドリブが良いかその理論を知っているわけだから、その理論に従って演奏して音にする機能を付与することで、アドリブプレイができるマシンができそうだ。
で、そのアドリブマシンがごきげんな演奏なんかしちゃったら、客席の女の子はマシンに惚れるぜ。それで、そのマシンが「デヘヘ」とかいってテレる機能を持ってたら、もう、かなりイケてる。
結局のところ、アドリブマシンの設計ポイントはフレーズ生成手法にあるのではなく、いかに聞いてる人間たちと友達になれるか、というところに落着するはず。
と、いうことで、マシンというのは今後、機能よりも演出に比重が移るとオレは踏んでいるのだが。
潰して中身を出す
フョードル・カラマーゾフ、疾走する因業爺の爽快さったらない。あれは「潰して中身を出す」という快感に通じる。実はこれはExpressionの語源だ、つまり「Ex・Press」だ。日本語の「表現」という訳語は、単に「表に現れる」だけなので、イメージがけっこう違うのだ。「表現者」っていうだけではなくEXPRESSIONISTになりたいね、押して潰して中身を出す人に。
エッセイ教室で習った文
エッセイ教室だとかに通って、いい点取って、自信満々で得意げに書かれたようなエッセイをときどき見かけるけれど、そういう文体って、ほぼ例外なく魅力に乏しいね。作られた顔というものを、人はけっこう敏感に察知するものだ。