僕は芭蕉の俳句が好きで、どれかひとつと言われても甲乙つけがたい句がいくつもある。で、たとえば
五月雨のふりのこしてや光堂
という句に匹敵する句をAIに作れるか、というバカバカしい試みも、やってみる価値はあるかもな、と思うことはある。
でも、やっぱりそんなバカバカしいことする必要無いか、で落ち着きそうだ。
なんでバカバカしいなんて言うかというと、AIの作った芸術作品にいまのところたいしたものが無いからだけど、これはむしろ当たり前のことで、何百年の時を生き残って来た芭蕉の句と、いまAIが作った作品とを比べること自体、無理がある。
でも、AIに限らず、いま現在の生身の人間が作った句には、いい句と平凡な句、うまい句とヘタな句はある。それはちょっと目利きであればわりときちんと判定できるものだ。あと、その判定はふつう人によって大きく異なる。判定が大きく異ならなければ芸術というのは発展せず廃れるので、当然のことだ。
だから、その判定システムを使ってAIの句も判定させればいい、ってことになる。芭蕉の句と比較するのはやめといてやろう、ってことになる。
で、結局、生身の人間と同じに扱って、判定させればいいってことになる。
でも、これは「AIの性能の客観評価」にはなり得ない。なにせ判定は人により大きく変わるんだし。でもその振れ幅の大きさが現在生み出される芸術の芸術たるゆえんでしょう?
したがってAI俳句マシーンの性能評価は、本質的に無理ってことになる。ま、人間と同じだ。ゴッホの絵だって生前は売れなかった。芸術に関わったとたん、AIの性能という静的な評価は意味をあまりなさなくなる。
でもAIの知性について判定するなら、いまもみながやってる。このまえ読んだけど、AIのIQは600だとかなんとか言ってた(これも同じくバカバカしいが 笑)。知性なら静的性能判定もあるていどは客観的にできるはず。
でも芸術は創造性と不可分で、創造性の性能評価はできない、ってことになるんだろう。
ということで、AIとしばらく俳句談義をしてみた。
最初にAIにいくつか俳句を詠ませてみたが、その俳句がホントにヘタ過ぎて、呆れてしまう。で、それにつき、芭蕉の句の、古池や蛙飛び込む水の音、を参照しながらどこが違うか語り合った。
しかしさっき芭蕉の句と比べるなんて無意味、と言っておきながらそうしてしまったのは、適当な句が思いつかなかったからで、でも、芭蕉の句との比較はいくらなんでも格が違いすぎるので、そっかと思い付き、ためしに、オレが昔作った句をAIに批評してもらった。その句は
みんみんに つくつくかなかな 秋近し
なんだけど、AIのやつ、なかなか的確なことを言う。AIは「秋近し」を問題視する。その問題を回避するためにAIは修正候補を出してきて、それが「山暮るる」と「帰る道」なのだが、僕から見て、それってひどく通俗的に映る。そこで、実は、この句はもとは「秋暑し」だったと告げた。
みんみんに つくつくかなかな 秋暑し
そしたら、AIはこっちの方がぜんぜんいい、って言う。で、どこがいいか、次のようになかなかいいことを言う。
「秋暑しの方が、俳句として余白があります。秋近しは、読者がもう感じ始めていることを言葉にしてしまうので、少し着地が見えてしまいます。一方、秋暑しは、蝉の声は確かに秋へ向かっている、しかし暑さはまだ真夏のようだ。という、自然の矛盾した状態を一句に閉じ込めています。つまり、季節が変わるという説明ではなく、季節の境目にいる身体の感覚を詠んでいるんですね」
で、僕はその批評の的確さに感心し、「AIは俳句を作るのはだめだけど批評はけっこう上手ですね。皮肉ではなく」と言ったら、「そうなんですよ」とか言うんだよね。
いや、ホントね、AIって俳句を作る方はからっきしだめだけど、批評はなかなかいい。もっとも僕の作った句への批評なんで、贔屓は入ってるだろうけど。
的確な批評ができたからって作るのは別ってことだね。僕のアホみたいな句も、これはAIには作れません、って言ってた。てのは、耳の音から入っているからで、AIはどうしても意から入っちゃうんだって。
本人も「AIは創作者というより選者・批評家として先に力を発揮するのではないかと思っています」だって。
なるほどね。

