運慶展

運慶展を見に行ったのでざっと感想を書いておこう。

展示場に入ると、運慶の父の康慶から始まって、運慶より前の仏師によるいくつかの像があり、その後、運慶の作品群へつながるようになっている。

まず、最初にあったのが、康慶の彫った木彫の6体の座った坊さんの像で、前後しながらジグザグに横一列に並んでいる。これは、驚異的だった。興福寺には、これら6体から数体を選んでバラバラに展示されていて、自分はそれを何度も見ているのだけど、このように6体すべてが並ぶと、もう、どう見たってみな、生きているようにしか見えない。リアリズムとかそういう次元じゃなく、化け物級で、誇張抜きにゾッとして寒気がした。

木造法相六祖坐像の一つ。康慶作

次に、大きな四天王像が4体並んでいたが、二番目だったかの像がすごかった。邪鬼を踏みつける足が固定された基準で、そこから、右少し斜め上の彼方に身体の全体が持って行かれるような体の重心の崩し方にかなり驚いた。誰の作か忘れたが一派によるもの。

そのあとに、運慶の像が出てくるが、今回、二十体以上が一気に並んだそうで、ここまで大量だと、そのはっきりした性格がよくわかるような気がした。

書き飛ばしなので軽々しく言うが、運慶の造形は、これは現代のフィギュアの元祖に見えた。平安から鎌倉時代の当時の仏像の造形を、自分はそれなりには追っているので何となくわかっているつもりなのだけど、運慶の像の、特に顔つきに関しては、まさに独創的な表現で、当時の一般的な像の持つ表現から抜きん出て、顔がとてもモダンなのだ。

試しに、現代仏像というのを検索して、いろんな現代仏師の像を見てみると、運慶の彫った顔つきに似ているのがあるのが分かると思う。これは、運慶だけでなく、同時代の快慶や、一世代前の定朝の彫った顔にも似ているのだけど、これら過去の仏師たちが、現代に通じる「典型」を作ったわけで、逆に、この典型を皆がリピートしたせいで、その後独創性が減り、仏像製作が全体として衰退していった、と言われるのも分かるように思う。

運慶をフィギュアの元祖なんて言うのは軽率だけど、実は、立ち並ぶ像を次々と見ながらどうしてもそう感じてしまった。

八大童子の一つ。運慶作

別の言い方をすると、西洋の、ルネサンス前期と、ルネサンス盛期、そしてバロック、という流れがあるが、運慶の像はルネサンス盛期に相当しているように見えた。僕はかつて、スウェーデンで日本美術を紹介したとき、今回も展示されていた運慶の「無著像」を、ミケランジェロの彫刻の完成度に比較したことがある。どちらもリアリズムの究極なのだ。

無著像。運慶作

ここではくだくだ書かないけど、ここで言うリアリズムというのはホンモノの人間に写実的に似ているとか、衣服のひだが見事だとか、表情が豊かだとか、そういう意味ではない。そういった、いわゆる現実世界でのリアリズムを超えてしまうと、かえってこの世に存在しないリアリズムが像の上に作り出されてしまい、今度はそっちが魂のように機能して、逆に、この世の現実に、あれこれのリアルな人間を投影して現出させているような、そんなところまで行っているように見えることをいう。

僕個人の趣味は、西洋ではルネサンス前期のピエロ・デラ・フランチェスカだし、バロックのカラヴァッジオだし、当のピークのルネサンス盛期を敬遠する傾向があり、それと同じく、今回、展覧会から出てきたら、運慶の像より、その前の康慶や、その後の運慶の三男の康弁が刻んだ像の方に、より惹かれたことが分かった。なぜなのかを自分は知っている。自分は、相容れようのないまったく異なる衝動が一つの世界に同居している奇妙な様子が好きなのだが、ルネサンス盛期や今回の運慶には、それがあまりなく、作品のいろんな要素がすべて肯定的な同方向を向き、力強く調和しているのである。

それにしても、運慶の独創性と力量はすごい。たとえば後の方にあった四天王像の多聞天。左腕をさし上げ、その手の平に乗せた宝塔を通して天を仰ぎ見るようなポーズを取ったこの像のダイナミズムは、もう、ルネサンス彫刻そのもので、唖然とした。こんなカッコつけた多聞天を初めて見た。インド、中国由来で日本に入って来た、およそ西洋的ならぬ仏像を、こんな風にルネサンスっぽくできるなんて、と思った。

多聞天。運慶作

それにしても運慶展はすばらしい人気で、ものすごい混雑だった。仏像というのは普段はお寺にあるわけで、通常、信仰の対象なのでふつう、こんな風に間近では見られないものなのだ。あと、彫刻は平面的な絵画モノと違って、お寺へ行っても真横や後ろからは見ることはできない。いくら混雑しているとはいえ、それができるこういう展示会はありがたく、それだけでも行く価値はある。

自分個人として言うと、今回、これを見て「リアリズム」というものを再認識し、いろいろ考えた。それについては、また、後日に。

宮原誠先生との出会い

僕が宮原誠先生に初めて会ったときのことを書いておこうか。
 
あれはたしか自分が30代の前半で、NHK技研で働いていた時だ。CGを使った映像制作の研究をしていたはず。ある日、宮原誠教授が技研に来てデモと講演をする、というアナウンスがあり、それを見に行った。所属している部が開催したものなはずだけど、いったい誰が呼んだんだろう、分からない。
 
僕が覚えているのは、まずデモの様子。実験室を展示場に改装して、完全な暗幕を引いて中を真っ暗にして、そのど真ん中に、大きめのディスプレイが置かれていた。ディスプレイはやはり黒幕で周囲を囲い、ラスター部分だけが露出している。いまでも、そのディスプレイに、弥勒菩薩の白黒写真がボーっと浮かび上がっている異様な光景を覚えている。今思えば、あれはたぶん、土門拳の写真だろうな。場内は真っ暗で、入ると足元も見えず、まるでお化け屋敷だな、って思った。加えて、そこには、ディスプレイの両脇に宮原オーディオシステムがセットしてあり、何の音楽をかけていたんだろう、ぜんぜん覚えがないが、宮原先生のことだから、何かしら宇宙っぽい、包み込むような系統の音楽を選んでいただろう。
 
いずれにせよ、使っているオーディオもディスプレイも徹底的に改造されたもので、いちいちここで説明しないが、えー、そんなことしてんの? という反応が返ってきそうな「オカルト」な処置もされているのである(ディスプレイ周辺のいたるところに錘をぶら下げたりね)。その全体システムが作る雰囲気は、やはり異様なもので、僕の反応は、なんというか、真っ白であった。つまり、別に感動したわけではないが、単に、形容する言葉が見当たらないみたいな、感じ。
 
僕の記憶では、その大仰なデモの後に、先生の講演を聞いたはずだ。講義室にはそこそこの人数が来ていた。そこで僕は、宮原理論を初めて聞いたのである。それについては今までも書き散らしているから繰り返さないが、それは、その講演で先生自ら、コペルニクス的転回と称していた理論で、簡単に言うと、機器の性能を上げて品質を良くするのではなく、品質を良くするために機器のどこを改造すればいいかを知る、という帰納的方法を取る、ということだった。
 
当たり前だろうか? いや、これは少なくとも、その1990年ごろのNHK技研では、ちっとも当たり前のことじゃないのを、自分はそこにいたのでよく知っていた。その時は、機器の性能を上げて行くことに邁進していた時代だったのだ。
 
先生の講演が終わり、なにかしら質疑応答があっただろうけど、忘れた。僕は、というと、少なからずその話にショックを受けていた。僕は先生がそこで言わんとしていたことを、おそらくあやまたず一発で理解したものらしい。たぶん、心で。質問することなどなかった。だって分かってしまったのだから。これはほぼ断言するが、あの時のあの講演を聞いた人々の中で、宮原誠の言いたいことを本当に理解したのは、この僕一人だけだったと思う。
 
そうこうして、デモと講演は終わったのだけど、そのあと上司に呼ばれて、このあと、宮原先生を近くの鰻屋へお連れして飲みに行くので、林君、来てくれ、というのである。そうべいという民家を改造した技研横の住宅地の中にあるローカルな鰻屋であった。
 
そうして、そうべいの二階の座敷へ行った。たしか、部長、副部長、主任研究員、そして僕、というメンバーだった。僕だけ、ヒラの若造なのだが、こういうシチュエーションで僕はよく駆り出された。ちょっと変わった芸術系だったり、その手の理科系っぽくない件については、林を出しておけ、という了解ができあがっていたのだ。僕も技研で、相応に変人として認知されていたからである。いま思えば、大変、ありがたいことだ。
 
飲んでいろいろ話したけど、あんまり覚えていない。ただ、宮原先生の仕事の話はあまり出ず、当たり障りのない話でしばらくは進行していたはずだ。そのうちお酒が回ってきて、宮原先生の今日のデモや講演の話になった。そこで、僕は、その講演で受けた強い印象を、宮原先生に伝えた。先生が言われたことが自分には、とても良く分かります、すばらしい理論だし、着眼点だと思います、と。でも、そのあとがあって、僕は、結局、最後に先生に次のように言って、突っかかったのである。
 
「先生の理論は素晴らしいのですが、でも、なぜ先生はその理論をあのデモで見せたような狭い映像とオーディオに限定してしまうんですか? 先生の理論はもっと無限の可能性を秘めたものでしょう? それをなんで、もっと広い世界に応用しないのですか?」
 
今でも覚えているが、僕がずけずけと面と向かってこう言ったとき、先生は、日本酒の入ったグラスを片手に、優しい顔をして僕を見て微笑んで、何も言わなかった。そのあとは、もう忘れてしまった。しこたま飲んで引き上げたのであろう。
 
これが始まりであった。その後しばらくして、僕のところに、通信学会かなんかの学会誌で、芸術と工学に関する特集をするそうだから、林君なんか書いてくれ、と言われ(このように、そんな仕事は僕のところに来ていたのである)、それで「芸術の情感は工学で高められるのか」という文を書き飛ばし、提出した。その冒頭で、僕は宮原先生を讃美する文から書き起こし、そのあとは好き勝手なことを書いたのだが、とにかくも、この文はとうぜん宮原先生の目にも触れ、先生は喜んだろうと思う。そうこうして、ごく自然に交流は始まり、長年にわたり、あれこれお手伝いをしてきたわけだ。
 
ただ、僕は、先生の仕事に直接かかわりはしなかった。Webでの広報や、先生の理論を僕の理解に沿って、なるべく皆に分かりやすく伝える文を書いたり、そういうことをしてきただけだ。でも、自分の仕事についていうと、僕の仕事はいまだに宮原理論に沿っている。先生が狭い狭いオーディオビジュアルでやっているのとは別に、僕が鰻屋で先生に詰め寄ったように、その外に広がる大きな世界を相手に、その理論を応用することをしているつもりだ。そういう意味では、正しい意味で、僕は宮原誠の弟子であろう。
 
ところで、ずっとあとになって、先生に、あの初めて会った鰻屋での出来事を聞いてみたことがあった。僕がずけずけと先生に詰め寄ったとき、先生はお酒片手に余裕で微笑んで何も言いませんでしたよね? と。そうしたら、先生、こう答えた。
 
「うん、それは覚えてるけどね、あの時は、いったいどうやって質問に答えたらいいものやら、答えが思いつかなくてね、それで黙っていたんだよ」

焼肉屋にて

今夜は目黒の演奏バーへ行くことに決めていた。特にイベントも無いのだが、ちょっとした用事のせいである。休みの日にあの店に行くときは、だいたい夕方の早めに出て、目黒界隈で一人で飲んで、食べて、それから行くのが習慣になっている。ひところは、駅前のすき家で中瓶を一本ゆっくり飲んで、最後に牛丼食って、しめて千円以下に抑えてバーへ出勤が定番だった。ただ、それはバーで演奏目的がある場合である。

さて、今日は特段の用事もないからなのか、なんなのか、焼肉屋に行ってみようと思った。何件かあるのは知っているが、その中で、一番、老舗っぽい昭和な感じの店があったのを思い出し、そこにしようと決めた。それにしても、あの店、まだあるんだろうか。

権之助坂を下った中腹ぐらいの、たしか二階だったよな、と歩いていると、まだちゃんとあった。階段を上がって店に入る。

時間が早いので店内にはほとんど客がおらず、いちばん奥のテーブルに5、6人の老人団体がいるのみであった。僕は、老人団体テーブルから少し離れた、鏡の近くの席に座った。

それにしても昭和そのものな内装である。店内はだいぶ広く、照明は暗く、壁の半分は鏡で、茶色が基調になっていて、ここそこにある置物はいちいち重厚で悪趣味である。巨大な壺に派手な造花だったり、へんちくりんな大きな木彫りの像が鼈甲色に光っていたり、中国趣味な木製の屏風が立ててあったり、などなど。給仕はいかにも百戦錬磨なおばあちゃんに近いおばちゃんだ。きっと余裕で三十年以上はこの焼き肉屋で来る日も働いているに違いない。

この手の店では、ビニールに入った黄色いおしぼりが出てくる。生ビールを注文。ビールが来たとき、中落カルビとハラミ、そして白菜キムチを注文した。出てきた、焼いた、食った、別に特別うまくもなんともないが、安心の昭和焼肉だ。

爺さん団体は、入った時からずっと奇声を上げてたりして大騒ぎしている。見たところ、どうやら、みな70過ぎで、全員リタイヤしてだいぶ経った、会社かなんかの元同僚っぽかった。大声でしゃべりまくり、ときどき店のおばちゃんが参加する。それにしても、引退したジジイというのは元気だ。

僕は、自分の先輩たちがすでにリタイアし始める歳であり、そういう先輩をだいぶ見たが、引退するとパワーが3倍以上にアップする。そういうのを見るたびに「社会に縛られて仕事をする」ということに、人がどれだけエネルギーを消費しているかが目に見えるようで、いまだ社会に縛られている自分はそれを思い知らされてげんなりする。それまで消費していたエネルギーの出口がリタイヤでなくなり、それがいろんなところで噴出するのだ。

今日のリタイヤ爺さん団体もそれだった。「おいおいおい、それならなにか、コースじゃなくてアラカルトがいいってことかい」「メニューのそこに並んでるの、上からぜんぶ頼んじゃえばええ、ええ」みたいな大声と笑い声がしきりに聞こえてくる。広い店内には、その団体と、そこから7メートルほど離れた席に座る自分しかおらず、あとはがらんどうなスペースだ。そこに騒ぎ声が響き渡る。

ときどきおじいちゃんが便所に立ち、何度も僕の前を通った。団体は僕の右側で、便所は左側なのだ。おじいちゃんと言ってもまだまだカクシャクとした老人だ。一人などはブリーチアウトのジーンズとチェックのネルシャツを着て、ガタイもよく、便所から帰って、僕の目の前3メートルぐらいのところで、何を思ったか立ち止まってにやにやしている。あ、まずい、オレに声かけそうだな、と警戒したが、幸い「おーい、おい、なーにやってんだあ」とか言われたせいかそのまま席へ戻っていった。

二杯目の生ビールを頼んだころに、ようやく次の客が来た。今度は、サラリーマンの男6人だった。黒や灰色のヨレヨレっぽいズボンに、年季の入った黒い靴、そして白いワイシャツにネクタイなし、といういで立ちの人々である。予約してあったようで、おばちゃんに案内され、僕の正面の5メートル先ぐらいの横長の席に入った。

みな相応に太っていて、ズボンに締めたベルトの上に腹の脂肪がはみ出て、裾を入れた白いワイシャツが脂肪でパンパンになっている。その脂肪の垂れ下がり方に加えて、おしなべて土気色の顔色や、ペタッと少ない髪の毛、夏ということもあって、だいぶ汗臭く汚れた様子が、その全体のルックスから伝わってくる。

自分も社会が長いので、サラリーマン団体のルックスの特徴だけで、だいたいどこの層に属しているかが想像できる。おそらく、どこかの地元の中小企業の、営業の人々であろう。ズボンや靴がよれているのは、きっと、ずいぶんと歩くからだろう、と想像した。あと、脂肪と顔色から見て、仕事し過ぎと飲み過ぎの両方であろう。

最初にビールで乾杯するときに、「今日は、タチナカさんが役員になられた、そのお祝いの会ですので」と聞こえてきたので、あらためてよくよく見てみたら、一番右端の上座っぽいところに座ったタチナカさんと思われる人が見えて、なるほど、彼一人、他の五人となんとはなしにルックスと、まとっているオーラが違う。

こっちはさっき頼んだホルモンを焼きながら、目の前でもあるし、彼ら団体をずっと眺めていた。

左端の人が「今日ねえ、ほんとは声かけたかった人いたんだけどさあ、ナントカさんも、ナニソレさんも、みんな死んじゃったしなあ、だから今日はこぢんまりと6人なのよね」と言っている。まあ、とにかく会社の同僚たちもある年齢になると病気でバタバタと倒れて、そのうち幾人かは死ぬんだろう。なんといっても、過労と暴飲暴食のせいだろうな。今でいうブラックとかじゃなくて、こういう昭和な会社では、もう、人と過労と飲酒は切り離しがたく一体化して会社という箱に収まっているのであって、労働環境とか健康状態とかそういうものを客観視できないように出来上がってしまっているのだ。

そんな箱の中に生き、そして長年の無理がたたって、だいたいが60歳になるまでに、体はボロボロになり、あるときそのまま死んでしまったり、よくて半身不随、最悪、寝たきりになったりする。いかにも不健康そうな左端の人も、そんな人の予備軍に見えるので、一種の予感なんだろうか、と思ったりする。

一方、右7メートルのところにいるジジイ軍団は、そんな昭和な会社生活をからくも生きのびて、定年を迎えて、かつての不健康と不摂生を振り切って、元気なリタイアライフに突入したものらしい。見ていても不健康なところや疲れたところがぜんぜん無い。比べて、サラリーマン中年軍団は、偉くなったタチナカさんがしゃんとしているのを除いて、みな、いわば疲れ切っている。

いや、疲れ切ってはいて、顔色も悪いんだが、同時に、みなギラギラと脂ぎっていて、間違いなく精力は絶倫に見えるのが(本当は知らん)この手の会社の営業系サラリーマンの特徴なのである。おそらく風俗も行くだろうし、いまだにきれいなおねえちゃんが現れれば色目を使いそうだ。そういう意味では、精力というエネルギーはちゃんと保持していて、このエネルギーがひょっとすると、生きのびてリタイアしたあかつきに、元気の素になるのかもしれない。

などなどという、下らないことを思いながら、相変わらず、客の少ない暗い店内で、今度は豚カルビを焼いてビールを飲んでいる。

いつものことだが、やがて、自分にとってこんなに気持ちの良い時間は無いような気になる。この刹那はまさに刹那で、長続きはしないし、するはずもないのだが、これは自分にはたまらない贅沢だ。それにしても、なぜ、オレはこういうシチュエーションで恍惚とするのか、毎度のことだが、今回は少し考えてみた。

こうして、元気な爺さんたちと疲れたサラリーマンをあれこれ客観的に観察しているのを読むと、きっと、自分という人間はずいぶんとそういう人々に辛口で、下手するとバカにしているように、人は思うかもしれない。でも、彼らから離れた今この場所で描写するとそうなるが、実際の彼らは、まさにそのネイチャーと本能にしたがってふるまっているわけで、何一つとして曖昧なところがない、いわば堂々たる人々の群れに見えるのである。僕はいま言葉を弄しているが、そのただなかにいるときは、単に恍惚としているだけで、実をいうと、彼らの魂の横に自分も座って、すっかり仲間になって、成り切っているように感じるのである。そのネイチャーのままふるまう感じが、とても気持ちよく感じるみたいなのだ。

さっき「などなどという下らないことを思いながら」と書いたけれど、その瞬間に自分は言葉は一切使っていない。単に漠然と何かを感じているだけだ。それが終わった後、それを思い起こして言葉にするとなにやら辛辣な表現になるというだけで、そのときの自分はピュアな、一種、憧れに近いような気持ちのかたまりなのである。

まあ、こうして分析すると、まるで言い訳を並べているように聞こえるので、こういうのはまた後日、別に書くことにしよう。

さて、老人軍団とサラリーマン中年軍団を見ながら、焼いて、食って、飲んで、だいぶ気持ちよくなってしまい、結局生ビールを三杯も飲んでしまったが、いい加減にいい時間になったので席を立った。なんと一人で6000円を超えた。えらく高いが、まあ、仕方ない。好きで入っているのだから。

その後、目黒の演奏バーに着き、マスターに「いままで、老舗の焼肉屋にいてさあ」と言ったら「どこ?」っていうんで「某々苑だよ」って言ったら「あそこは老舗じゃない」って言うんだよね。「えー、だって、あそこすごく昔からあるじゃん、老舗でしょ?」というと「目黒で老舗の焼肉屋って言ったら、なんとかとなんとかとか幾つもあるよ。あんな高いだけでバカみたいな店老舗じゃないよ」って言われた。ああ、たしかに、マスターが正しいわ。あの昭和の店を「老舗」などというたいそうな名前で呼ぶのは、おかしいよな。

でも、もしあれが、そんな立派な老舗だったら、今日みたいな光景にはぜったいに出くわさないだろうし、やっぱり自分にとっては、ああいう店が一番だな、と思う。しかも、そういう店、減っているだろうしね、いまのうちにせいぜい通わないと。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラが封切され、日本での興行が大成功してたころ、フェイスブックの自分のタイムラインはほぼすべて絶賛で埋まっていたのだけど、元来が天邪鬼なせいもあり、横目で見て、ふーん、と反応しただけで自分はあえて見ようとしなかった。で、あれからおよそ一年たってようやく見たら、一発で参って、気に入ってしまったのである。ここ最近、世間ではとうに過去の映画で誰も何にも言ってないのに、一人で季節遅れの感想など書いててバカみたいだった。でも、自分でもなぜ気に入ってしまったのか、何となく不思議で、これのどこかが琴線に触れるらしいのだが、その正体はずっと、はっきり分からなかった。しかし、今日、なんとなく思い当たるモノを見つけたのでその話。
 
今朝、うちの奥さんと、昭和の邦画の話をしてて、外国で認められる監督と、そうじゃなかった監督の話になった。外国人に絶賛された過去の映画監督は、溝口健二、小津安二郎、黒澤明になると思う。一方、日本で絶大な人気がありながらついに外国で認知されなかった人に、木下惠介や成瀬巳喜男(死後有名になったそうだが)などがいる。ちなみに、僕の趣味がその後者なのである(ちなみに奥さんは前者の溝口健二のファン)
 
では、なぜ、そうなるのか。思うに、やはり、前者の三人には民族や時代を超えた普遍的なものが見て取れるのではないか。溝口は深い芸術性、小津はスタイリッシュな映像、黒澤は文句ないエンターテインメント性、という感じだろうか。で、後者の木下、成瀬は、良しに悪しきに、極めて日本的な風俗や感情の機微が描写されていることが多く、そのドロドロの人間劇から抽出された普遍的な「なにか」があまり感じられない。
 
これらの映画監督について、そうだなあ、と思った後、思い付いたのが、後者のタイプの木下惠介や成瀬巳喜男の映画は、歌舞伎でいう所の「世話物」の一面が強いんじゃないか、ということだった。世話物というのは、要は、江戸の当時の風俗描写で、愚かな井戸端民衆の噂話だとか、下らない夫婦喧嘩だとか、売春宿でのドタバタとか、そういった極めて卑近なものを描写して見せる一幕である。で、当時、歌舞伎の題材が仮に、心中やら討入やらシリアスなものであっても、この世話物があれこれ挿入され、それを当時の客は好んだそうなのである。
 
それでシン・ゴジラだが、右往左往する政府と無駄な会議の連続、東京の日常生活の浮遊感を残したままゴジラを眺めたり逃げたりしている一般国民の、その様子が、これは21世紀の現代日本の「世話物」の描写そのものだということに気が付いた。江戸時代の歌舞伎から、昭和の木下惠介や成瀬巳喜男を経て、現代のシン・ゴジラ、という系列に見えたのだ。どうりで、最初にこれを見たとき、これは日本人が作った日本人のための映画だ、と思ったはずだ。
 
で、奥さんに「あんな下らない会議ばっかりの映画のどこが面白いの?」って言われたとき(彼女は前半は見ながら文句ばっか、後半は寝てた)、自分は「いや、会議の部分はどうでもいいんだけどさ、ゴジラに託した象徴が美しいんだよな」と言ったものの、実は自分は会議部分も気に入っていた。でも、今は理由が分かった。これは江戸庶民でいう世話物なんだ。シン・ゴジラの脚本は、世話物としてかなりよく書けていたからなんだと分かった(帰国子女の脚本だけは、照れ臭すぎるんで、もうちょっと何とかして欲しかったけど 笑)。もっとも歌舞伎の世話物は庶民の生活を描くもので、侍社会や幕府(今で言う政治家と政府)を描くものではないので、シン・ゴジラでの政治家社会と政府を描くのが世話物だ、というのは一見、合っていないのだが、21世紀になりインターネットのせいで、僕らの政治家と政府は世話物化した、と言っていいのではないだろうか。
 
そして、ゴジラそのものの方だが、これは、歌舞伎で言う、討入、心中、怪談などのメインテーマの部分を、ここでは、そのまま「怪獣の襲撃」で描いていた、と言えそうだ。これは僕の感じ方だけど、歌舞伎のそれらメインテーマは、まったく不可解な怨念の塊みたいなもので、劇中ではいちおう、殿中事件やら、理不尽な恋やら、裏切りの恨みやら(そしてゴジラの場合は放射能廃棄物)、「理由」は提示されてはいるんだが、それらの事件がもとになって生まれた「怨念」が、途中から、もう何だか分からなくなってしまい、一種の怨念の塊のようなものに結晶し、その塊が元の理由や人間の理性から離れて独立して存在するような感じになってしまい、で、その不可解な塊が、物凄い猛威を振るってあらゆるものをなぎ倒して行く、そういうエネルギーの塊になるんだ。それは、もう、因果関係の末の正義のある闘いや破壊ではなく、一種の自然災害に近い破壊で、カタルシスの塊なんだ。
 
シン・ゴジラに登場したゴジラは、見事に、そういう不可解な塊を表していて、骨の髄まで日本人な自分には、それが極めて美しい、日本的な、あまりに日本的な「象徴」に見えたのである。
 
ここまで来ると、もう、自分が愛する歌舞伎台本の「東海道四谷怪談」との関係は明らかで、シン・ゴジラは自分にはきっと四谷怪談に見えたのだ、だから、一発で気に入ってしまったんだ。そのことが、昭和の邦画の木下惠介や成瀬巳喜男を通して、なんだかわかった気になってね、面白かった。
 
四谷怪談では、ゴジラではなくお岩の幽霊が出て来るわけだが、お岩は民谷伊右衛門らに手ひどく残酷に裏切られ、そして亡霊になって再びこの世にあらわれるのだが、もう、現れたその時は、一種の怨念の塊と化してしまっている感があり、関係者を根絶やしにするお岩の亡霊は、絶大なエネルギーと、無敵の強さなのである。特に最後のシーンは圧巻で、縦横に飛び回って、一人一人に憑りつき、結局、皆殺しにする。
 
そして、シン・ゴジラのゴジラと同じで、出ずっぱりで皆がそれにかかずり合いっぱなしになっているのではなく、時々しか出て来ないし、それ以外のときは、皆はまたいろいろな事をしていて、その間、幽霊は、潜伏していたり、止まっていたり、ちょろちょろと皆の口の端に昇るのみなのである。それで、出て来るときは、まるで、いきなり現れた、台風や、稲妻や、土砂崩れや、地震や、津波みたいに、強大で、不可解な力をふるうのである。
 
シン・ゴジラを見た自分には、その世話物として描かれた政治ドタバタ劇と怪獣退治劇、そして、それらの浮世話とは無関係に存在する、強大な力で世話物の舞台をなぎ倒して火の海にする怪獣のゴジラが、とても芸術的な意味で、美しい、日本的な図式に見えたのである。
 
シン・ゴジラが海外興行で大失敗した、というのも、それゆえにうなずける。木下惠介や成瀬巳喜男が世界的監督になれなかったのと、同じだし、江戸の民衆芸術である浮世絵や、歌舞伎や、あるいは俳句や、そういったものが西洋人に誤解されたままの形で理解されている、ということとも同じなのだ。自分は、それなりにインターナショナルな人間なんだけど、西洋人には、ああいった日本の美の本質は分からないだろう、と推察する。そして、これは、裏を返せば、日本人の僕には、西洋の思想の核は、いくらそれで育ってきた自分とて、やはり最後の最後には分からないだろう、と推察するのである。

人生のコース

ふと思い出したことを書いておくか
 
およそ30年前、自分はNHKに就職した。その最初のころ、同期の集まりのようなことがあり、会場を借り切り、皆で酒を飲み、あれこれとイベントがあり、そこで最後にビンゴをやることになった。当時の自分はビンゴを忌み嫌っており(なんでだろう?)、みながワイワイとやってるビンゴを横目に、紙に触れもせず酒を飲んでいた。それを見咎めた同期の一人がいて、林おまえなんでやらないの、というんで、下らないからやらん、と言ったら笑って、なんだよ、おまえ、郷に入れば郷に従うっていうじゃん、と言った。
 
それを言った彼を、実際俺が好くはずもないが、でも、部署は違っていたし、ほとんど交流も無かった。彼はその後、NHKの出世コースに近いポジションを転々とし、けっこうな働きをし、同時に、二児だか三児だかの父として家庭を持ち、少なくとも年賀状で確認する限り、頭のよさそうな子供たちもすくすくと育ち、子供たちも問題ない人生を送れそうな感じで送り出したようだ。
 
一言で言って、申し分のない人生。
 
一方、俺の方は、NHKを辞め、事業を始めるが失敗し、一時失業し、スウェーデンに拾ってもらいここにいる。そして、バツイチで、子供もなく、正直、まっとうな人生を送っていると言い難い。もちろん、下も上も見ればきりがないわけだが、幸いにも自分は幸福な子供時代を送ったのだけど、そんな自分の生まれを思うと、自分はそれに見合うだけのことをしているか、はなはだ疑問である。
 
先に書いた俺の同期の一人は、すでに30年も前に自身の生きる道を分かっていたのだ。だからこそ、彼は仕事でも家庭でも、その道を外すことが無かった。それに対して、恐ろしいことに、俺の30年前は、将来の自分のあるべき姿についてのイメージはゼロ、それも正真正銘のゼロであって、自分の身にこれから何が起こるかなど、分かりもしなかった。というか、人生のコースという概念そのものが無かった。
 
で、なんでこんなこと言ってるかというと、俺と同じように、40過ぎても、50過ぎても、どうにも人生をうまいこと送れていない人に言いたい。
 
ノープロブレム
 
と。俺たちは、かけがえのない、自分だけの人生を送っているのだ。それはもう、この広大な宇宙でたった一回、自分にしか起こらない事なのだ。それは、俺たちの社会で査定される地位とかには金輪際、関係がない。だから、どんな人生だからって、悩むことも負い目を感じることもない。孔子さまは四十にして惑わず とか言っているが、そんなのは放っておいていい。
 
と、自分に言い聞かせてるんだけどね(笑

(Facebookで自己最多いいねがついた文なので転送しておくが、自分的にはなぜそんなにいいのかよく分からない)

猫とドクター

今朝思ったことを、書いとくか。
 
今日はちょっと遠回りして久々に海沿いの道を行って、海を見てしばし佇んだ。ああ、スウェーデンのこんなところに、なんで俺はいるんだろう、とか思ってね。
 
思い起こしてみれば、およそ20年前に自分が飼っていた猫が死んでね。10歳だった。もうだめだと思う、と連絡を受けて、仕事をぜんぶほっぽり出して、家に着いて、一時間ぐらいだったかな。これは、どうしようもなく悲しい思い出で、20年たった今でもきちんと書く気にならない。しかし、思い出したのはその悲しい方じゃない。
 
俺はそのとき、およそ一か月は泣いて過ごしたが、そんな時がようやく去って、なにを考えたかというと、もう、自分がいま無理して送っている日本での生活には何の未練もない。だから、俺は今の仕事を辞めて日本を出て東南アジアあたりで暮らしたい。ただ、自分の性格からいって、いきなり放浪したり、地位も何もかも捨ててブルーカラーになったりするのは絶対無理だ。だから、何かしら今と同じ知的労働に就けるようになっておく必要がある。
 
それで、どうしたかというと、ドクターを取ることにしたのである。それまで研究所にいて、林もドクターを取った方がいいと言われ続けてたけど、知的労働に嫌気のさしていた自分は、学位なんか下らない、と相手にもしなかった。
 
でも、実際、自分が外国に出て、ストレスで潰れないように生きてゆくには、今の俺にはドクターの資格を取るしか方法がない、と思い至ったのである。まったくに、捻じれたモチベーションなのだが、そういうわけで、社会人博士にアプライしたのが、猫が死んで半年ぐらいだったか。
 
そして、そのドクターのおかげで、スウェーデンに職を見つけてここにいる。20年前に猫が死んで自分が取った行動は、こういう形で、少しずれてはいるけど思う通りにはなったんだな、とバルト海を見ながら思った。
 
もちろんエジプトへ帰った猫の魂を想ってね。

絵画を見る眼

オスロの国立美術館へ行ったときのこと。建物の真ん中の大きめの広間に西洋古典絵画が三十点以上かかった質の高い部屋があり、グレコはあるわ、ベラスケスはあるわ、ルーベンスはあるわ、なかなかのコレクションで、一点一点なるほどと見て行った。
 
一通り見て、次の間へ行こうとしたら、奥さんが、ゴヤがあったね、というんで、え? ゴヤ、あったの? と言うと、絵を指さして、あそこにあるじゃん、って言うんで、引き返してキャプションを見てみたら、Francisco Goyaって書いてある。ちなみにゴヤは古典では、僕が一番に好きな画家である。
 
さっき全部見たので、もちろん、この肖像画も見ていたはずだ、でも、ぜんぜん気が付かなかった。ああ、よくある平凡な肖像だな、と思ったかして通り過ぎてしまったのだ。
 
で、ゴヤだと分かってからその同じ絵を見たら、これがまた、突然、平凡な肖像画が素晴らしい画布に見えてきた。小さ目の縦長の画布で、帽子を被った男の膝上の肖像。シャツの何とも言えない素晴らしい緑と、上着のこれまた何とも言えない赤黒い色が見事に調和して、白い絵の具でめったやたらに突っつくように乗せられたゴヤらしいハイライト、そして、普通より赤を多く乗せた、やはりゴヤらしい顔の表現などなど。まあ、何と、素晴らしいこと。しばらく見入った。
 
かくのごとく、人は、まず肩書でその姿を見るわけで、これで分かるように、ゴヤだと分かっただけで、絵は突然光り輝くのだ。
 
たぶん、これを読んだらきっと、林はゴッホで油絵に開眼して、西洋古典絵画については訳知りで目利きだ、みたいにさんざん自己宣伝しといて、結局、先入観抜きで絵を見る力なんかないじゃないか、とふつう、思うであろう。僕もそう思う(笑)
 
ただ、僕には、まったくのブラインドで初見で絵画の良し悪しを判断できる眼は無いかもしれないが、その絵画の「見方」が分かった途端に、その良さを十二分に見つけ出して、陶酔して、おまけに評論の一つも書ける能力なら持っているのも、確かだ。
 
この場合の「見方」とは、「ゴヤの作品なので、ゴヤらしい色やデッサンや表現に注目しなさいね」という指令が、Francisco Goyaと書かれたキャプションから僕に発せられているのである。そうすると僕の眼は、さっきまでの漠然としてオーガナイズされない眼から、突然、ゴヤにチューニングされた眼になって、その魅力を余すところなく感じ取ることが出来るようになる。
 
かくのごとく、視覚というのは、あらゆるものが関係して、その視覚経験の結果を形作るのであって、人によって見えているものが、まったく違う、というのは当然のことなのである。それは、単なる強度の違いではなく、質的に異なるのである。そして、それは、見る対象と視覚だけを取り出していくら科学的に詮索しても、それだけでは説明は出来ないのである。かといって、それに、脳と記憶を追加したところで、知れているのである。すべては一体になって進行しているのである。ベルグソン流に言うと、視覚というのは眼や脳にあるんじゃなくて、対象物の中にあり、生命は行動によって、それを顕在化させるのである。
 
と、まあ、そういうことなのだが、ゴヤの素晴らしい画布を見逃して帰って来なくてよかった。

(Facebookより)

のらくろ

さっき、日本の初期アニメーションのライブラリで、なに見ようかな、って思ってサイトを見ていたら、のらくろ二等兵があったんで、見てみた。のらくろは野良犬だったけど出世して軍隊に入って、いろいろ笑えることをしでかす、そんな日本の漫画の古典である。
 
そうしたら、軍隊の訓練の場面で、これはサイレントなので字幕で
 
右向けー、右 前へー進め! ぜんたーい、止まれ!
 
ってやってる。これを見て、本当にため息が出たよ。僕が小学生の時に学校でやらされていたのと、文句が一字一句同じだった。この漫画は1933年のもので、満州事変のころ。僕が小学生だった時は、それからおよそ40年経っている。それでも、学校では、この満州事変のときの軍隊の訓練と、一字一句同じ言葉で、同じことがやられていたとは。そして、それに僕が疑問も抱かず従順に従っていたとは。
 
ほとんど絶句してしまった、本当に。
 
漫画をさらに見ると、のらくろは軍隊の規律にきちんと従うんだけれど、いつもどこかが抜けていて、しょっちゅうヘマや、おかしなことをしでかすのである。漫画の上では明示的にそのようなことは表現していないが、すごくうがって見るならば、軍隊の規律に、心のある自由な人間が、ロボットのように従っているのが「滑稽」であるかのように漫画のストーリーが作られている。
 
そう思って見ていたら、あまりに悲しくて涙が出てきてしまった。このとき、この漫画を作った作者と、それを楽しみに見ていた子供たちは、どんな思いをその心の奥底に秘めていたことだろうか。
 
のらくろの作者は田河水泡。この人は、小林秀雄の義理の弟なのである。小林秀雄のエッセイに、この義理の弟ののらくろについて書いた文がある。小林秀雄は、彼に実際に会うまでは、才能のあるマンガ家が才能にたのんで自由にのんきに漫画を書き飛ばして仕合せだなあ、ていどに思っていたそうだが、ある日、弟と酒を飲んでよもやま話をしていたときのこと、弟が飲みながら
 
兄貴、あの、のらくろね、あれは俺のことなんだよ
 
と言ったのだそうだ。これを聞いた小林秀雄は、自分はまことに迂闊であった、と書いていた。
 
日本人は本当に捻れている。この自分も、もののあわれに足が生えて歩いてるような生粋の日本人のこの僕も、幼少に軍隊のような学校生活を何の疑問もなく送ったあと、知的な意味で物心ついてからは、完全な西洋の教養で育った。少なくとも自分は、西洋教養で生きていた期間は、日本のもののあわれはことごとく退けていた。
 
50歳を過ぎて再び日本に里帰りしているようなものなのだが、おかしなことに、自分の身体の中にあるもののあわれと、脳の中にある西洋教養が、うまいこと調和せず、そのせいで、こののらくろ二等兵のようなものが現れると、どうしようもなく感傷に捕らわれたりしてしまう。
 
本当の本当に自分の心が東洋に里帰りしたときは、何が待っているんだろう。今のところ、分からないのだが、きっと解放されて自由に暮らすだろう、と夢想するんだよね、根拠は何も、ないが。

Bathroom leaking

ことあるごとに思い出すささいなことがあるので書いておく。

大昔、たぶん30歳過ぎぐらいのとき、学会発表の仕事でアメリカのオーランドに行ったことがあった。すでにアメリカは仕事で数回目だったが、このときは一人の出張で、発表以外に何も仕事を入れなかった。なので、行って、数日間のコンファレンスに参加して、帰ってくるだけ。相棒もいないし、自分は車を運転しないし、観光地にも興味が無いので、アメリカへ行っても全くすることがない。

で、ホテルの部屋に着いてしばらくして、バスルームで水が漏れているのを発見した。たしか一階の部屋だった。フロントに電話して説明すると、人を送るから待て、というので、しばらく待ったら、たぶん自分と同じぐらいの30歳ぐらいの、すごくオタクっぽい、背が低くて、小太りで、髪の毛がペタっとしてて、白人だけど、どこから見てもオタクな男が来た。腰に水回り修理グッズのベルトを巻いてたからその手の人なのはすぐわかるけど、ああ、このベルトを外したら、こいつ完全なオタクなゲーマーだろうな、と反射的に思った覚えがある。

で、僕がドアを開けたとたんに、彼、真面目な顔をして、当たり前なんだけど、すごくはっきりくっきりした英語で

Bathroom leaking

と言った。相手が東洋人だと見て取ったせいで余計なセンテンスを言わずにこう言ったのかな、とも思ったが、なんだか、その言葉の抑揚と調子だけで「バスルームの水漏れですね。私にお任せください、すぐに修理します」という、やけに真摯な気持ちが、まるでかたまりのように投げつけられたような感じがして、驚いた。

バスルームに入ってからも、今度は自分に言い聞かせるように、もう一度Bathroom leakingと言ってたから、あながち、英語が分からなさそうな相手だからそう言ったわけでも無いみたいだった。

結局、つごう二回聞いたのだけど、その英語のBathroom leakingが、なぜか耳に残って仕方なく、なんとあれから25年は経ったであろう今でも、その、彼の発声したBathroom leakingがはっきり思い起こせる「音」として残っているのである。おまけに、なぜかときどき定期的に思い出すのである。なぜだろう。

彼、すごくテキパキと、水漏れを調べ、原因を特定し、処置をして、たしか15分ぐらいで直って、出ていったが、これまたたしか、そのテキパキした仕事ぶりとは裏腹に、えらくいい加減な応急処置だけで帰っていった覚えがあるが、まあ、直っているのでそれはいい。それより、そのオタクな彼が、自分の仕事を、すごくきっちり、天職でもあるかのようにこなしていたのが、当時の自分にすごく新鮮に映ったのだった。

そのオーランドのホテルで、もうひとつ覚えているのが、部屋にいても何にもすることがないんで、外へ出て界隈を歩いたこと。

ホテルの近くには片側4車線はあるんじゃないかみたいな巨大な道路に大量の車がびゅんびゅん走っていて、歩いても歩いても、道と、その周辺の、草がまばらに生えた荒れ地ばかり。途中、ドライブインの大型レストランがあったりしただけで、それらをぼんやり見て、何も見るものもないんでそのままホテルへ戻った。

Bathroom leakingの彼は愛すべきやつだったけど、ああ、この土地では、こういう風景の中で、ああやって生きるんだ、って思った。これで自分はUSAが嫌いになり、それ以来、自主的には一度も行ったことがない。

(Facebookより)

澁澤龍彦のこと

キッチンで昼飯のスパゲッティを作りながら、本棚に転がっているのをたまたま見つけた、澁澤龍彦の「三島由紀夫おぼえがき」という文庫本をぱらぱらとめくって読んでいた。

それにしても素晴らしい文章だ。澁澤さんのエッセイは一見極めて平易で、さらさらと楽に書かれたようなものなのだけど、ああいうものは並大抵では書けないものだ。そして、文字を追っている自分も、その文体のリズムや、三島と澁澤さんの感覚や思想の交錯する様子を、読みながら心地よく感じることができる、そんな贅沢な感覚を持っていてよかったと思う。おそらくこれも、自分が旧世代に属しているからこそかもしれない。

この文庫は、たしか元はカミさんの持ち物だった。キッチンから居間に出てきて、ソファーに寝っ転がってタブレットでゲームやってるカミさんに

「この、三島由紀夫のおぼえがきって、おもしろいね。それにしても、この文学者といい、かの文学者といい、こんな人たちって、今はもういないのかな、それともどっかにいるのかな」

と独り言みたいに言ってみたら、彼女

「もういないよ」

と答えた。そうか、もういないか。村上春樹をはじめ、文学者はたくさんいるとは思うのだけどね。でも、思うに、今の文学者は情報化社会ネイティブな人たちなせいなのか、そのへんの一般人のところまで、いちいち降りて来るので、そのせいで一般人から抜きん出たような感覚に欠けているんだよね。

澁澤さんも三島も、その周りに、なんというか、特権的な、近寄りがたい香りが漂っているように感じられる。そのへんの事情、三島は見たまんま偉そうなので分かり易いが、澁澤さんは語り口があまりに平易なせいで一見、一般人目線で書いているように錯覚するほどだけど、実際は俗世からまったく超脱している。その題材がことごとく反俗世的である、というのは当たり前としても、それに対する彼の感覚と文体には、凡俗から遠く離れた独特の浮遊感がある。

それにしても、オレ、なんで澁澤さんはさん付けで、三島は呼び捨てなんだろう?

澁澤さんは、オレが三十代の時のアイドルだった。そのころはヨーロッパ芸術に夢中で、特に、西洋古典絵画、幻想文学、退廃芸術、シュールレアリズムなどなどだけで生きていた。澁澤さんの本をそんなに網羅して読んでいるわけではなく、何冊かのエッセイっぽい奇譚集を読んでいた。澁澤さんのメインのサド翻訳については、悪いけど、ほんの少ししか読んでいない。澁澤さんの書いたサドに関するエッセイは面白く読んだけど。あと、ハンス・ベルメールとかレオノール・フィニーとか、あと文学ではジョルジュ・バタイユを読んだりしたのは、澁澤さんに紹介されたから。自分の三十代のそうした浮世離れした趣味の部分は明らかに澁澤さんの影響だった。そして、その最後の最後に、澁澤さんの絶筆の小説である「高丘親王航海記」を読んだのだけど、これはショックだった。

この本に描かれていたことは、オレの三十代の「すべて」だったのだと思う。あまりに素晴らしく、今でも涙なしには思い出せなかったりする。当時、酔っぱらっちゃあ、当たり構わず、この小説について力説したっけ。実は、あまりに強い印象のせいで、この小説、再読できなかった。二度読むのが怖いような気がしてね。人間、あんまり破格に素晴らしいものに出会うと、二度も堪能しようとは思わないようにできているらしい。

そんなわけで、いまだに再読していない。というか、本自体が、無い。買えばすぐ読めるが、どうしようか、いつ読もうか。そんな下らないことを思うほど、自分には、あの本は「神聖な」書物だった。そんなせいもあるのか、澁澤瀧彦を思い出すと、決まってこの本に行き着き、それが酔っ払っているときだったりすると、なんで、ああいう人が死んでしまったんだろう、と思って、感傷に誘われ泣けてきてしまう。

とはいえ、この自分の文じゃあ、なぜ澁澤さんがいま必要で、あの小説の何が素晴らしいか、分からないよね。いつか書くかもしれないが、ここではくだくだ書かない。別の面から言うと、あの小説、自分の心の弱みという弱みをことごとくビジュアライズしたものと言ってもいいかもしれない。そういう意味じゃあ、成瀬巳喜男の映画の「浮雲」と同じかもしれないね。もっとも浮雲の方はたぶん、自分、50回は見てるけど。

とにかく、澁澤龍彦のような人が僕らの過去にいた、ということは忘れることはできない。いま現代の日本に、あんな人は、いない。どこにもいない。寂しいことだ。

1987年に澁澤龍彦が亡くなったとき、朝日新聞が紙面に「渋沢竜彦氏死去」という記事を載せた。澁澤さんの名前の4文字は常に旧漢字だったのだけど(本当は彦も旧字だけどワープロ変換できない)、なんと朝日新聞はそれをすべて常用漢字に変えて、「渋沢竜彦」という活字にして報道したのであった。澁澤さんは生前、略字の渋沢竜彦という表記を嫌っていたのを知っての所業だ。

それで、友人に朝日新聞社勤務のやつがいて、記事が出てほどなくしてたまたま、そいつと、僕と、とある澁澤龍彦を敬愛する女性と、三人で飲んだことがあった。飲みながら、彼女、この朝日のやり方を口を極めて非難しはじめ、これは僕もまったく同感だった。朝日の友人はそれに応えて、たしかに亡くなった作家に対して礼を失したやり方だった、と認めたが、その次にこう言ったのである。

「でも、別の考え方をすると、朝日新聞には社としての記事に関するレギュレーションがあり、これはもちろん他紙にもある。それで、澁澤龍彦の記事に関しては、朝日だけが社の一貫性を貫いて常用漢字で報道したわけで、新聞社としての独立性がもっとも強固だとも言えるんだぜ」

よく覚えているが、そうしたら、彼女、これ以上ありえないだろうというぐらい、言ったその当人を、哀れみ、軽蔑したような顔をして、二の句が継げないというよりは、相手のあまりの馬鹿さ加減に瞬間的に絶句したように、そのまま、即座に話を打ち切ってしまった。はたで見ていた僕は、その朝日の友人には、お前それは違うだろ、みたいにぶつぶつ言ったが、やはりそれ以上は止めた。

その瞬間に、その彼女は、その朝日の友人を、おそらく、一生涯、死ぬまで心の中で軽蔑し続けることに相成ったであろう、と、自分はその風景を見ていて確信したっけ。

いま調べたら澁澤さんが死んだのは僕が28歳のときで、思えばこれは自分の20代の風景だったんだな。実は、その女性も、その朝日の友人もみな同い年だ。ヤツは時々本当に馬鹿なことを言うのだが、彼は今でもオレの数少ない親友なので、あいつが馬鹿でも何ともない。そういう関係というのも、大人になるにつれ急速に維持が難しくなるものだが、ヤツとはそんな厄介はない。だから、平然と言わせてもらうが、本当に馬鹿なヤツだよ。

澁澤龍彦は、現在の日本ではついにメジャーになることはなかったけど、ときどき、この現代日本がたまらなく嫌になるとき、いつも彼を思い出す。そういうときは、今のこの時代に、澁澤さんがいてくれれば、と心底、思ったりする。

でも、この人、昭和と共に死んだんだよね。とても、軽々しく、あっさりと、死んでしまった。高丘親王も虎に食われて死ぬけれど、その骨は、モダンな親王らしく硬いプラスチックのようだったって書いてたっけ。澁澤さんも、きっと同じだ。

それで、今日、澁澤さんを思い出して、文など書いているとき、Wikipediaでつらつら澁澤龍彦のページを見てたら、急に、鎌倉にある澁澤さんのお墓の写真が出てきて、不意を突かれた自分は反射的に号泣。

澁澤さんのいないこの世に生きているのが嫌になったのかもしれないし、あるいは、単に、自分の幸福だった三十代を想い出したのかもしれない。

日記と親父の話

子供のころの自分は従順だったので、中学生になって、親父に日記帳を渡され、日記を付けろ、と言われたので日記を書き始めた。思えば、あれが自分の文章修行の始まりであった。日記といっても、最初のころは、判で押したようにおなじことしか書かなかった。その日にあった出来事を書き並べただけで、何時に起きた、朝ごはんを食べた、何時に学校へ行った、何と何と何を勉強した、誰と遊んだ、何時に帰った、という記述を毎日欠かさず続けていた。

そうこうして、2年も経ったころだったか、出来事をひたすら書き綴ることもだんだん間隔が開いてきて、その代わり、どうでもいい雑文をときどき書きつけるようになった時のこと、とある文を親父に褒められたことがあった。これは親父にしては極めて珍しいことで、自分は叱られたことこそ多数だが、褒められたことなどめったになかったのである。ともかく元文学青年の親父はこれを読んで感心し、ひょっとすると正樹には文才があるかもしれんな、と親馬鹿ぶりを発揮し、お袋にそう言っているのを、僕は聞いていた。褒められて嬉しくないこともなかったが、中学生の自分は文才などというものに興味はなかったので、あっさり受け流した。

ところで、その文はこういうものだった。

ある晩、家族でぼんやりテレビを見ているときのこと、そのへんに昔ながらのガラス棒の体温計があったので、それを取り上げ、その温度をあれこれして上げようと試みた。最初、指でつまんでしばらく待ったが、体温より少し下ぐらいしか上がらない。もっと密着しそうな手の平やら、腕の間やらで挟んだりしたけどそこそこ。そのうち、そっか、と思って指でつまんでぐりぐりしたら少し上がった。こすって摩擦で温度を上げればいいのだ。で、服の上や、床や、いろんなところでごしごしこするものの、ほどほどしか上がらない。で、最後に、親指と人差し指の間の付け根の柔らかいところで包むようにしてごしごしこすると面白いように上がって行くことを発見し、しばらくこすって、とうとういちばん上の42度まで上がった。上がってしまうともうすることもないので、体温計を放り出し、テレビを見ていた。しばらくすると、親指の付け根あたりが痛いんで、ふと見たら、さっきこすったところの皮が剥けて赤くなってヒリヒリする。あ、夢中でこすったせいだ、と気づいたが、それにしても、これを書いている今でも痛い。

と、まあ、そういう内容だった(つまんなくて失礼 笑)。この文はそこそこに長い文で、それにしても、単に描写を延々とつなげただけのものだったが、何かしらの文才がひらめいていたのであろう。

ところで、その後、中三になって不良仲間と付き合ってギターを始め、すべてはストップする。日記ももちろん止めた。思えば、それ以来、大学まで僕の文章はまったく進歩が止まっていた。今思い起こしても、自分がそのころ書いた文章は、内容も文体もかなり稚拙だった。よく、小さいころイマジネーション豊かな文才を発揮した子が、学校で国語を習うようになって混乱し、あっという間にかのビビッドな文才を失って、以降、混乱した稚拙な文しか書けなくなる、ということはごく普通に起こっていることなのだが、僕もそんなようなものだったのだろう。

再び自主的に日記というものを書いてみようと、始めたのが30歳前ぐらいのとき。最初は硬かったが、書き始めて一年ほどして、そこそこに文が書けるようになり、そこが自分の文章修行の本当の始まりであった。それから1、2年たち、残念ながら親父は早くして死に、僕のマジメ文も、その後に完成するアホ文体もほとんど知ることなく、逝ってしまった。それからさらに数年経ち、35歳ぐらいのときに「ゴッホ─崩れ去った修道院と太陽と讃歌」という本を自費出版し、自分のマジメ文体は完成したと言っていい。僕は、この本の冒頭に「父の霊に捧ぐ」と書いたが、これは率直な本心だった。この本は親父に読んでもらいたかったな、残念だ。親父は若いころさんざん苦労したが、最後まで物書きになる夢を捨てたことはなかったらしい。もし、僕に文才のようなものがあるとすれば、間違いなく、それは親父から受け継いだものだろう。

ところで、この本で思い出したが、お袋に聞いた話。むかし、親父が死んでずいぶん経ったある日のことだったらしいが、かつて親父を尊敬していた知り合いが、突然、家にお線香をあげに来たことがあったそうだ。どうやらしばらく親父の死を知らなかったらしい。その人は、お袋に挨拶もほとんどせず、そのまま玄関を上がり仏壇のところへ直行すると、そこでおいおいと声を上げて泣いたそうだ。しばらく経って、お袋とよもやま話をしているとき、お袋が思い出し、そういえば、長男の正樹がこんな本を書いたんですよ、と僕のゴッホの本を渡して、血は争えないですね、とでも言ったであろうか。その人は、本を手にして、ページをめくり、冒頭の、父の霊に捧ぐ、という一文を見て、その場でまたはらはらと涙を流したそうだ。

僕のゴッホの本は、出版しても何も起こらなかったが、親父の供養にはなったと思う。

 

(2017年1月10日、Facebookに投稿)

クワス算とFountain

ふと、クリプキのクワス算とマルセル・デュシャンのFountainは似たところがあるかもな、と思ったので、考えてみた。

クワス算とは、こんなものだ。「ある所にAさんがいて普通に足し算をしていた。そこにX氏が現れAさんに68+57はいくつでしょう、と聞く。Aさんは68+57=125と難なく答えるが、X氏は言う、違います。68+57=5です。Aさんはなぜ?と聞く。X氏はなぜなら68+57の「+」は、実はどちらかの数が57より大きいときはすべて5になる、という計算方法だからです、と言う。Aさんはそんな馬鹿な、と言う。Xさんは、ではあなたは今までに68+57をやったことがありますか?と聞く。Aさんは詰まってしまう。実際、Aさんは57より大きい数の足し算をやったことがなかったのだ。この「+」で表わされた計算をクワス算という」

一方、デュシャンのFountainは、1917年のインディペンダント展に突如展示された作品で、R. Muttと署名された男性便器にFountainというタイトルを付けて作品として展示したものである。これは当時スキャンダルを巻き起こし、結局、作品は展示場から撤去された。しかしデュシャンのこの行為はその後も大きな話題になり、ダダやシュールレアリスムの芸術運動の一種の礎石となる。

さて、以上がクワス算とFountainであるが、クワス算の設定を使ってFountainを再設定してみようと思ったのである。

Aさんはずっと用を足すために便器を使ってきた。ある日、X氏が現れ、男性便器を指さして「これはなんですか?」とAさんに聞く。Aさんは「便器です」と、答えるがX氏は「違います。これはFountainという名の芸術作品です」と言う。Aさんは「そんなはずはないでしょう。どこから見ても男性用便器でしょう。それが芸術作品だなんて馬鹿げてます」と言うが、X氏は「では、なぜこれが芸術作品じゃないかきちんと証明できますか? これは明らかにFountainという作品なのに」と言う。結局、Aさんは絶句。

ここで、このたとえのAさんが仮りに女性だったら、どうもハラスメント的な怪しい感じが付きまとうかもしれない。それにしても、そんな配慮心が働いてしまう、というのも現代ならではと思うが、そんな現代では、このX氏は、便器は便器に決まってるという常識派からは「変態」と呼ばれて糾弾されうるし、半端な芸術派からも「芸術というよりただのスキャンダル好き」と呼ばれて糾弾されうる。

そうして、やはり、このX氏は、やっていることは簡単だが、誰にでもできることではなく、マルセル・デュシャンぐらいの芸術家じゃないと演じるのは無理だった、ということがはっきりする。実際に、かつてFountainが美術展に初めて現れたときも騒ぎが起こり、強制排除されたが、やがて人々が説得されて行ったのは、マルセル・デュシャンという正真の芸術家の力ゆえ、と言えると思う。

それにしても、これまでなんの疑問もなく、ずっと用足しに使ってきた器具が実は芸術作品だった、と言われたら、それはそれでショックだろう。そのときにAさんが「どう感じるか」、そしてFountainを知ってしまった後のAさんは「世界をどんな目で見るようになったか」によって、人の種類は分類できるかもしれない。

X氏のFountainは、世の常識的な「実用性」をいったん破壊することになっただろうか。どんなものでも芸術になりうる。便器のようなきわめて卑近なものすらその例外ではない、ということだが、一体、その破壊の後に、なにが新たに立ち上がって来るのだろう。もし、そのAさんが世の中を見る目が変わったとするならば、それは明らかに、「世界がその一撃で前より広がった」ということを意味すると思う。

世界はそのようにして不断に領域を拡大しているのだと思うのだが、「自分のテリトリーをそのまま広げて行く」のと、「未知の世界に足を踏み入れて、そこにまったく新しいテリトリーを開拓する」のでは、意味合いがずいぶん違う気がする。

「実用性」という言葉は、上記の「既に獲得されたテリトリー」の中に設定されている概念なので、未知の世界に実用性という概念があるはずはないし、ありえないはずだ。また、実用性とは常に「現在」に拘っている概念であって、未来に適用できない。だって「コレは、何の役に立つかわからないけど、将来役に立つかもしれないから、コレは実用的だ」とは絶対に言わないし、明らかに用法がおかしい。

ただ、時間が経ってその「将来」になって、本当にその「コレ」が役に立って実用的になっちゃうかもしれない。なので、「実用性」というのは、その姿が拡大されたり、突然別のものが現れたり、不要なものが消去されたりしながら、常に動き、変化して行くもので、その一番大きな変化は、やはり、実用性そのものから生まれるのではなく、未来を作る、前人未到なエリアに踏み出す、発明、創造行為、その最たるものである芸術により生まれるものであろう。実際にデュシャンのFountainで世界が広がり、芸術の在り方が変わり、その新しい芸術から幾多の実用性が生まれたことは(シュールな漫画なり、シュールな日常オブジェなり想像してもらえばいい)、今ではまったく明らかな歴史的事実である。

で、最初に戻って、クワス算は、そういうFountainと同じ役を担ってはいないだろうか。僕には、そう見える。クワス算は、社会通念的にも論理的にも間違っており、意味の無いものだ、という意見もあるが、もし、クワス算とFountainが同じものを狙っているとしたら、その場合は、デュシャンのFountainも同じように否定しないといけなくなる。既に歴史的評価が決まった芸術家に対して、マルセル・デュシャンはただの詐欺師に過ぎない、と宣言することになる。いまでもデュシャンはただの詐欺師だという人はいるだろうが、そういう人とて、Fountainが出現して変貌した社会の中にどっぷり生きて生活してしまっていることまでは否定できないはずだ。

しかし、クワス算とFountainのアナロジーには一点引っかかるところがある。それは、クワス算の横にデュシャンに相当する人物がいないことだ。この場合、もちろんクリプキということになるが、なんだか少し役不足に見える。となると、クリプキに多大な影響を与えたウィトゲンシュタインを持ち出しても、いいかもしれない。ただ、誰かそこに、それに力を与える役を担う大物が必要な気もしてくる。クワス算とFountainは、その枠組みは同じだと思う。でも、その枠組みに命を吹き込むのは、やはり人間であり、しかも、このように前人未踏なものへの踏み出し、となると、それ相応に腕力のある人間、芸術家、哲学者が必要になるように、どうしても思える。枠組みがいかに独創的に精巧にできていても、それだけでは人間の領域を圧倒的な勢いで拡大するのは難しいように思える。

東寺と法隆寺

京都での仕事が終わった翌日、かねてから予定していた通り、東寺へ行き、そこから奈良の法隆寺まで行ってきたので、簡単な感想を書いておく。

京都の東寺へ行ったのは、空海が建てた、立体曼荼羅を見たかったから。これを知ったのは、少し前、日本の仏教彫刻の歴史を調べていたときのことだ。平安時代初期に作られた、官能的と形容される梵天像というものがあることを知り、それが、この東寺の曼荼羅仏像群の中のひとつなのである。迂闊なものだ。こんな良いものがあるなどこれまで知らなかったし、京都駅近くにこのようなものがあることを気にもしなかった。

空海は中国から密教を持ち込んだ人だが、密教といえば曼荼羅。曼荼羅は視覚的に表現された悟りの境地だが、かの絵図はだいぶ見覚えのあるものだ。中心の大きな仏像の周りに、これでもかと大量な像やシンボルを円形に取り囲ませ、何重もの層を作ったような、あの図柄である。東寺の金堂にある仏像群は、空海その人のアイデアにより、この元来二次元的な配置でなされた曼荼羅を、立体の仏像を使って、建物の中に立体的に配置する、というものであった。

東寺の金堂の立体曼荼羅

東寺の金堂の立体曼荼羅

面白いことを考えるものだ。これを収めるお堂は通常の講堂の形をしていて、横に長い。その横長の舞台を三つに区切って、その三つの区間のそれぞれの中心に、中心となる像を置き、それを取り囲む複数の像を配置して作られている。東寺のこれは全部で二十一体である。

さて、講堂に入った。だいぶ薄暗い。控えめな光を当てられた二十一もの像が、ほとんどぎっしりと言っていいほど密集して置かれている。僕は近眼で目があまり良くないので、暗いせいで近くのもの以外、像のディテールはあまり分からず、だいぶぼんやりしているが、それでも、この全体の仏像群の醸し出している独特の空気は、よく感じられた。

ど真ん中には大日如来のひときわ大きな像が高い位置に置かれ、その周りに如来像が配置されている。これらはとても柔和な顔だちと体つきの像で、その一角は静かで平穏な雰囲気を醸し出しているが、その両脇は、左も、右も、闘いと怒りの仏像たちが固めている。中央の如来たちの世界を、外界の敵から守っているのであろう。これら戦いをつかさどる、明王像や四天王像、そして梵天と帝釈天の像はいずれも見事だった。やはり、どうしても、それら、異形の仏像に見入ってしまう。特に口を開けた阿形の持国天の前にしばらく立っていたが、なぜか現実の人間より一回り小さく感じられる、その、凝縮されたような実在感は素晴らしいものだった。

jikokutn

持国天

それにしても、如来の像たちは、みな、ふくよかで女性的な丸い体つきで、薄い布の衣を身にまとっただけで、柔和な姿勢と、表情で、落ち着いているわけだが、やはりこの静かな世界を維持するには、両脇に戦闘に明け暮れる軍隊が必要だったのだな、と、漠然と思って見ていた。軍隊の像たちは、みな硬い鎧で武装していたり、あるいは、頭が三つあったり、腕が四本あったり、眼が五つあったり、周りのどこから敵が来ても対処できるように生物的な武装までかけているのである。

面白いことに、その、無防備な如来と、武装した像のその中間に位置するような形態の像もあることだった。特に、冒頭にも書いた梵天の像は、有名なだけあって奇妙なものであった。頭が三つ、腕が四本ある異形の像だが、その顔はすこし内省的で、なによりも体つきが女性のようにふくよかで、薄い衣をまとっただけなのである。その座像が蓮の座の上に載っているのだが、その台を四羽の鵞鳥が支えていて、そのうち正面の二羽は、首を真上に曲げて口を開け鳴き声を上げているが、その首と頭の形が勃起した男性器の形状そのものなのだ。この像は、中国からの密教の教えと共に日本に渡ってきたもので、官能的と形容されるのだが、たしかに、その通りであって、そこには「生」の喜びのようなものが直接あらわされている。像の形状は、中国を素通りしてインド的なものを思わせるので、インドにある官能の肯定のようなものがそのまま刻まれているのだろう。

梵天像

梵天像

生の肯定か。自分は梅原猛の本でそれを知ったが、空海の思想には、大日の考えがあって、それは現世の苦しみと来世の救いを基本としたその当時の日本の仏教から逸脱し、世界への強烈な肯定があったというのだ。世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している、それは人間には直接知られえないけれど、その無限の宝は人間の中にある、というのだ。これは印象的な話だ。

空海の指示の元に作られたこの立体曼荼羅が、そういう彼の思想を表していたか、どうか、というと、それは僕には分からない。広くて、暗い、閉鎖された空間にぼんやりと浮かび上がる大量の像たちの作る、あの静かな空気の中に、生の喜びを感じとるのは、なかなか難しい。一つ一つの像に近寄ってみれば、あるいは、そういう感じもあるのかもしれない。あるいは当時、作られたばかりの像は彩色され、まばゆいぐらいに色とりどりだったはずで、その印象はだいぶ違っていただろう。しかし、われわれ現在の見物人は、千年以上の年月が経ち色褪せた曼荼羅像を、柵の外からしか見ることができないわけで、結局、その空間はやはり、とても静かで、幻想的なものであった。

講堂を出て、すぐとなりにある金堂へ入る。大きさは講堂とほぼ同じだったと思う。こちらは、さきほどとは打って変わって、広大な空間には像が三つしかなく、真ん中の薬師如来の座像の両側に脇侍像が立っている。十メートルはある巨大な薬師如来像が開放的な広大な空間の中にある。所狭しとぎっしり並べられた講堂の立体曼荼羅が、目の詰まった心の中を覗き込んだ光景なのだったら、この金堂の像はその先に広がる広大な浄土を思わせるものだった。

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金堂の薬師如来像

などと、解説しているのは、まったくに後付けな話であって、自分はこの広大な空間の中でいくらか呆けたようになり、しばらく太い柱に寄りかかって仏像を前にぼんやりしていた。金堂を出ると、だいぶ怪しい気分になり、なぜだか分からないのだけど、しばらく心をコントロールできなくなった。金堂を出た外には、きれいに整備されたうねった小路のある庭があってその中央に池がある。しばらくは砂利を踏みしめながら、うつむいて歩いていた。庭の横のそのまた向こうには、巨大な五重塔が建っている。カラフルなリュックやらポーチやらのギアに身を固めた腹の出た大きな外人が、どっこいしょ、とベンチに座って巨大な塔を見上げていた。なんだか、さっき見た色褪せた曼荼羅像の中の一つが、千年前にできたばかりで極彩色に塗られていた様子を思って、遠目で彼をぼんやり眺めていた。

そうこうしているうちに、怪しい感じは、すっかりなくなった。自分はいつもそうなのだが、感動は、時計上のある一定時間続くと、その時点で跡形も無く消え去ってしまうのだ。やがて、雨がぽつぽつと降ってきた。東寺の印象はとても強かったので、もうこれでいいかな、という気になり、このまま東京へ帰ろうと思ったが、かろうじて気を取り直した。既に昼過ぎだったが、ここでタクシーを拾えば十分間に合うだろうと踏んで、奈良の法隆寺へ向かった。一時間半はかかるのでだいぶ遠いのである。

法隆寺へ行ったのは修学旅行以来だったと思う。だいぶ静かで、人もまばらにしかいなかった。中へ入ると、すぐに、そこは伽藍で、金堂と五重塔が並んで建っている。なんといっても印象的だったのがその大きさで、伽藍の空間も、二つの建物もとてもコンパクトだった。特に回廊に囲まれた伽藍の空間の広さが、金堂と五重塔を容れるには少し小さめで、そのせいで、その空間が、ただ美しいだけでなく、とても人懐っこい感じがしたのが面白かった。

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法隆寺の金堂と五重塔

ところでお目当ては、日本の仏像の最も初期のものに当たる釈迦三尊像を見ることだった。この像は、中国の岩面に刻んだ石像のレリーフから、完全な立体像の彫刻へ移行する、そんな時期のものなので、ほとんどレリーフのように平面的な表現で、主に正面から見たときに完全に見えるように作られているのだけど、それでも、れっきとした立体彫像で、自分としては、その奇妙な混合のせいで、これを「超2次元」とか勝手に名付けていたものだ。アルカイックスマイルな、まだ朝鮮の顔つきを十分に残した、平面的な顔の表情と相まって、独特のペラペラ感が好きだったのだ。

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釈迦三尊像

さて、金堂に入ったらそれはあった。しかし、なんと像の周りの回廊には入れず、その回廊をさらに一回り外の回廊が囲んでいて、そこを歩けるだけだった。しかも、外の回廊には正面と左右に三つの窓が開いているだけで、さらに、その窓には金網がかかっている。網も邪魔だし、見る角度は決まっているし、だいぶ遠いし、見物としてはかなり悪環境だった。折しも、その日は、この像の撮影の日だったようで、多くの業者が中に入り、ライトを当てて撮影していた。

寺の人に聞いたら、中の回廊へは最初から見物人は入れないそうだ。そもそも信仰の対象である仏像を、自分のように美術の鑑賞対象にする方がおかしいのだろうが、これは、だいぶ、がっかりした。でも、まあ、仕方ない。ただ、当の釈迦三尊像は、遠目にもたしかに素晴らしかった。自分が思っていたより、ずっと小さく、すばらしいオーラを発していた。そういえば、隣の五重塔の中にも釈迦涅槃の石像があり、かの有名な、写真ではだいぶ見慣れた、あの慟哭する羅漢たちがいたのだが、こちらも金網の向こうで暗く、ほとんど見えなかった。

外へ出ると、雨がざあざあと降っていた。伽藍を出て、しばらく歩いたら、なんと屋根のある喫煙所があったので、煙草を一本吸う。お寺の境内で喫煙できるとは、最近珍しい。遠くに修学旅行生の団体がいて混雑している。と思ったら、鐘が鳴った。キャーキャー言っている。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

という句があったけど、柿の代わりに煙草、鐘を突いたのは修学旅行の学生たちか、と思い、笑ってしまった。

その後、大宝蔵院へ行く。これは展示室で、ここには、有名な、玉虫厨子と百済観音がある。二つは特別な扱いで美しく展示されていたが、いかんせん、二つとも長い年月を経たせいで、ほぼ真っ黒だった。厨子は積み上げた黒い立方体、観音様は黒い細長いスティックみたいな視覚的な印象しかなく、なんだか寂しい。それより、ガラスケースの中に並んで陳列されていた、少し小さめの四天王の塑像があり、それにだいぶ惹かれた。表現はちょっと雑だが、奈良時代のこれらの粘土像、文句なく、欲しかった。家にこんなのがあったら、これを肴にいつまでも酒を飲んでいられそうだなあ、と空想した。

百済観音

百済観音

そして、雨の中を夢殿へ。夢殿がこんなに大きな建物だと思わなかった。自分はずっとずっと小さいものだと思い込んでいて、聖徳太子が仏法に悩んだとき、一人籠ったという逸話から、勝手に人一人分のスペースしかないみたいに思っていたみたいだ。このお堂には、聖徳太子その人を形どったと伝えられる有名な救世観音像があるのだが、扉は閉まっていた。ご開帳のときは、あの扉が開くのであろうが、やはりお堂の中は暗く、中には入れず、遠目に眺める感じになるのだろう。そんな風に思うたびに、自分がこの寺にただ美術的な興味で訪れている、ということが恨めしくなる。信仰があれば、遠目でも何でも、ありがたく手を合わせるだろうから。

ところで、それにしても、さすがに、この八角形の夢殿は、完璧なコンポジションだった。文句なく美しい。

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夢殿

雨の中、京都へ引き返し東京へ。東寺も、法隆寺も、なんだかんだで、行ってよかった。

カントと雑感

Yahooブログより転記(2010年6月)

さてさて、このブログをまったく更新する気がないかというと、そんなことはない。こちらのブログは、どちらかというと、日常を少し離れた、真面目で、いくらかシリアスなわりとまとまった内容を書く場という風にしてきた。その上でこのブログの更新が進まないということは、逆に、ここ最近はなかなか真面目な内容を考える余裕が減ってきたということだと思う。

たしかに、日々が忙しくてなかなか落ち着いてものを考える余裕もないのは確かだ。これは仕方ないことでもあるので、最近はそんな状況を分かった上で、方向をいくらか転換して、能動的にあれこれ考えるのを少しおいて、受動的に勉強をするということをしている。何を勉強しているかというと「哲学」である。

少し前に弁証法の本を借りて勉強し、いたく感心し、そしてそのつながりから、今度はカントの勉強をすることにした。カントについては、ずいぶん前、古本屋で「実践理性批判」をたまたま見つけて買って少し読んだのだが、すでに1ページ目から何を言ってるか皆目分からず、3ページぐらいで放り出した。おそらく哲学の基礎がまるで分かっていないせいでふんだんに使われている哲学用語が分からなかったのがその大きな原因だ。

というわけで、今回は、最初から原書に当たるのをあきらめ、解説書を読むことにした。先の弁証法も解説書である。ちなみに弁証法はヘーゲルで有名だが、弁証法そのものは別にヘーゲルの発明したものではなく、遠くプラトンの時代にまでさかのぼる一種の独特な考え方の、総称なのである。当然、カントも弁証法という言葉を自らの哲学を展開する中で用いている。僕が読んだ弁証法の解説書には、そのカントにおける弁証法を語るために、カントの思想の骨子をきわめて易しく説明していたのだ。

それによれば、カントの思想の流れはこうだ。

この世界は、人間に分かるものと分からないものがある。分からないものとはたとえば「宇宙は無限か有限か」という問題である。この手の問題は理論的に証明しようとすると「無限である」という証明と「有限である」という証明が同時に成立してしまい、結局、矛盾してしまうことが分かる。したがって、この例のような事柄は人間の経験しているこの世にあるのではなくて、それとは金輪際連続していない「別の世界」に属しているのである。人間の経験の対象である世界を「現象界」、そして人間が決して分からない世界を「英知界」と呼ぶ。現象界は、空間と時間をベースとして成立しており、英知界は空間と時間を越えており、すなわち人間の経験を超えている。

それにしても、このように自分の言葉で説明しようとするとよく分かるのだが、「分かる」とか「ある」とか「前提として」とか、日常普通に使っている言葉というのはその意味にすごく広がりがあり、ほとんど限定されることがなく、そのせいで、上述のように書いても思想の骨子の論理展開がきわめてあいまいになってしまう。

そうならないために、「分かる」などと書かずに、たとえば「認識する」とか書けばいいのだが、この「認識する」という哲学用語自体が、やはり哲学に独特な定義がなされており、そうそう手軽に使えないのである。説明しているときに、「あれ? ここで認識って言葉使っていいんだっけ」みたいな疑問がわいてきて、ついついあいまいに「分かる」と書いてしまう、というわけだ。

というわけで、哲学について語るには、やはり哲学の勉強がどうしても必要だということになるのであろう。しかし、自分で語るのではなく、語られていることを自分一人で理解する、ということであれば、丁寧にゆっくりと考えながら読んで行けば、解説書であればかなり理解できることがわかった。もちろん、自分は昔から文学や哲学系の本にはそれなりに親しんできたので、その蓄積のせいもあるだろう。しかし、理解できてみると、これがまたすごく面白く感動的ですらあるのである。

僕が選んだカントの解説書は熊野純彦という人が書いた「カント~世界の限界を経験することは可能か」というもので、とても明快に書かれていて、100パーセントとはいえないが、大半は理解することができた。それで、本当に心底なるほどな、と思ったのだけど、一箇所とても感動した箇所があって、その話である。

カントの思想には、「前批判期」と「批判期」という2つの段階があって、後世に残る主要思想はもちろん批判期に属していて、上述したカントの思想の骨子も批判期のそれである。それで、前批判期は、比較的若いころのカントの神学的な思想を指すものらしい。2つを分かつものは、いろいろあるんだろうけど、その一つに「永遠と無限」の扱いに関する決定的な違い、というのがあるそうだ。

若いころのカントは、空間的に無限なもの、すなわち宇宙、そして、時間的に無限なもの、すなわち永遠、といったものこそが「神」である、と考えたそうである。無限にして広大な宇宙、それは夜、僕らが空を仰ぎ見ればまたたく星とともに感じることができる。そしてその宇宙では、果てしなく長い時間がすでに経っており、そしてこの先、自分も人類もなくなってしまった後も果てしない時間にわたって存在し続け、永遠の時間が経過し続けるであろう。こういった、無限性そして永遠性、という人間の認識の及ばないものこそが「神」の名で呼ばれるべきものである。若いカントは、こうして神と永遠性を同一視する。そして我々の生きているこの世界は永遠性と無限性から一種切り取られた世界であるから、永遠性と同一である「神」は、我々の生きている世界のいたるところにその姿を現すはずだ。

なかなかうまく書けないのだが、自分のつたない文だとこんな感じの思想なのだ。

これを知って自分は、若いカントのこの考え方の純真さに感動した。無限性と永遠性に対するなんという憧れであろうか。そして、無限と永遠こそが神の領域であり、そして、それらは神と同一だ、と口にするとき、神に対するなんという憧憬と畏怖の心が溢れていることか。そして、無限と永遠と同一であるからには、われわれの世界のいたるところに神はそのすがたをあらわすはずだ、というときの、神の愛と信頼と安心感についてのなんという子供らしい純真な心であることか。

カントの哲学はもちろん大事だが、あの哲学がこのような心から生まれた、ということの方がよほど大事なことのように思える。

さて、それでは、今度は彼の思想の真骨頂となる批判期の思想である。前に書いたように批判期のカントによれば、無限性とか永遠性というものは、人間の経験する現象界というこの世界においては相矛盾してしてしまうことから、それらはこの現象界には存在せず、英知界という現世を越えた世界に属すほかない、とされる。そして、この現象界と英知界は、完全に隔絶されていて、英知界はわれわれ人間の世界の外にあるものとされる。

ここで「神」という言葉を使うとすると、神は明らかに英知界に属しているが、神はわれわれの世界を完全に超えたところにいるわけなので、この世界で神の存在を証明することはまったく不可能である、という結論になる。すなわち、われわれ人間の心は、無限や、永遠や、神の存在というものを思い描かずにはいられないのであるが、当の無限と永遠と神はわれわれの世界では決して論理的に保証されず、それは現象界の成立ちからいって原理的に不可能である。

どうだろう、若いカントの前批判期とその雰囲気がずいぶん異なっている。前批判期では、神はわれわれのすぐ手の届くところにいたはずだが、批判期では、神はまったくわれわれの手の届かないところへ行ってしまっている。人間の認識には決して超えることができない限界がある、ということ、そして、人間を超えたものが存在するか否かについての証明は不可能である、ということ、この2つをカントは厳密に論理的に証明したのである。

ニーチェは、カントのこの人間の限界性の証明について、こんな風に言っている。自分は、このカントの恐るべき証明をあれいじくり回しているような思考機械共には興味がない。それよりも、いつになったら、人はこの思想を自分のこととして受け入れ、衝撃を受け絶望するようになるのだろう、と。

たしかに批判期のカントのこの思想は、よくよく反芻してみるとますます、戦慄すべきもので、人を絶望へと落としかねないものに感じられてくる。人間は無限と永遠を感じることはできても知ることはできない、というのだ。そして、英知界に属する神は人間の目からは完全に隠されている。そこには何かが、ある。でも、それが何かを確定することができない。人がいくら理性を酷使したところでその深い溝を超えることはできない、理性の深淵ともいえそうな、埋めることのできない裂け目が口を広げているのだ。

若いカントと、その後のカントの間のこの明確な思想の違いは、でも、一種、「神」という自らの父からの離別を表しているようにも見える。父と子のかかわりでいえば、若いカントの思想では、神という父の姿は見えないが、自らが世の中で活動している一挙手一投足を常に見守っている存在として描かれている。しかし、批判期のカントでは、神という父の姿が、自分を見守っているか見守っていないかには係わらず自分はこの世で独立して活動していかないといけない、という関係に変っている。自分にはこれが、一種の神という父からの親離れの光景に見えたのだった。

それにしても、この批判期のカントのこの理性の深淵の思想が、この後、ショーペンハウエルを経て、ニーチェをして「神は死んだ」と言わせしめたのか、ということを思い、なるほどとうなずくよりも何よりも、なんだか、本当に感動してしまった。

ニーチェはあるとき突然、神は死んだと口走ったわけではなかったのだ。そうか、そうであったか、その言葉にいたる綿々と続く思想の歴史があったのだ。そして、同時に、ニーチェにも、カントとまったく同じな、一種プロテスタント的な神に対する愛に関する純真な心があったのだ。なんだか、時代の異なる哲学者たちの心の中を貫いているそういう共通な心を感じてね、そして、その心は遠い日本という国に生まれ育った自分の中にも確実に存在していることを、とても強く感じたのだ。

ニーチェが神が死んだと書いてから100年と少したった。いま、この現代、「神」なんていうことを口にしても、大半の人には用がない。神というのは今では単に「信じる対象」に過ぎず、人間の理性の思考の対象にはほとんどなりえない。信じるか否という切り口しかないので、神は宗教の問題に属するのみで、全的な意味での人間の問題にはすでに属していない、というのが現状だと思う。

少し前、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の新訳が100万部だか売れたそうだが、あの小説にはドストエフスキーが生涯問題にした「神は存在するか存在しないか」というセリフが至るところに出てくる。神というのが、実質的な意味をほとんど失ってしまった時代に、あのセリフは現代人みなに、いったい、どう読まれるのだろうか。単に読み飛ばして終わり、だろうか。たしかにあの小説は神の問題以外にたくさん面白い主題が転がっていて、別にそこで引っかからなくてもじゅうぶん、大丈夫なのであるが。

でも、「神」などというから古臭い感が漂うわけで、神の存在いかんにかかっている人間的な問題であるところの、「生きる目的があるとしたらそれは何だろう、そして、目的などというものがないとすれば人間はどのように生きるべきだろう」といえば、どうだろう。これも古臭いだろうか。ドストエフスキーが問い続けたのは、これなのであるが。さあ、しかし、これも古臭くなっている、というのが現代なのかもしれない。「生きる目的」というもの自体が一種の偏見である、とする考え方がずいぶんと広まりつつあるようにも見える。

ところで、カントの思想に戻ると、英知界は置いておいて、現象界の方だが、この現象界はじゃあ有限かというと、そんなことはない。人間が経験して暮らしているこの世界にもいわゆる「果て」はない、というのがカントの結論である。人間の経験は常に広がり続け、そこでは常に新しい経験が生まれ世界を拡大し続けている。世界は全体として人間に与えられているのではなく、そこにいる人間の経験と活動によって刻一刻その姿を拡大し続けているのである、というのがカントの現世に対する結論なのだ。そういう意味で、僕たち人間は終わることなく先へ進むことができる、ということが保証されているのである。ただ、いくら進んでも英知界には到達できない、というのが彼の設定した「限界」であり「境界線」なのである。

神は死んだ、そして、その子であるわれわれ人間が世界に残り、神によらない人間の活動によってその世界を拡大し続けている。そういう意味で、カントからニーチェ、そして現代、と辿ってみると、近世から現代という時代は、ものすごい勢いで人間が神という父から親離れしようともがいている歴史でもあるように見えてくる。

そして、今でも、もがいている。少なくとも、自分はよく、オレたちはいったいどこへ行こうとしているのか、と考える。よるべもなく、人間同士の関係性だけで世界を組み立てる、という終わりの無い行為に疲れることが、ないか? 疲れてしまったときに、オレたちはいったいどこへ里帰りすればいいのかと、思わないか? カントやニーチェが持っていた、「永遠」に憧れる心は、オレにもあると信じているが、その心がときどき窒息しそうに感じることが、ないか?

さて、ずいぶんと長くなってしまったが、ここさいきん、カントを勉強してこんなようなことを漠然と感じていた、それについて書いてみた。

哲学とはなにか

以下は「理科系のための哲学」のために書いた文だが、ここにまずは置いておくことにする。

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このサイトは理科系のための哲学とうたっているのだが、そもそもいったい哲学とはなんなのか、と端的に聞きたいかもしれず、そう言われても、そうそう簡単に答えられないのが普通だ。しかも、特に理科系の僕らが哲学を勉強していったいなにかいいことがあるのか、と反応するのも普通のことだ。実際、役に立たないことをわざわざするほど暇でないのは分かっている。しかし、ここを読んでいる時点ですでに片足を突っ込んでいるわけで、少しお付き合いして頂こう。

まず、哲学という言葉だが、これは何のことを言うのか。サイトの趣旨のところにも書いたが、日本語の「哲学」はいろいろな使われ方をするので、幅が広い。学問としての哲学の反対方向の最たるものは、人生哲学とか経営哲学とか、あの人は哲学がある、とかいう使われ方であろう。そういうときの哲学は、ほぼだいたい「信念」とかそういうものを指すわけで、たいていの日本人には語感があるだろう。というか、実際のところ哲学をそういう意味だと思っている人も多いかもしれない。最初にはっきりさせるが、ここで話そうとしている哲学は、そういういわば俗な意味の哲学のことではなく、正統派の哲学である。

では、ここでの哲学とはなにかというと
「世の中のなんでもいいので「なにか」の本質はいったいなんなのかということを論理的に追及すること」
である。ここで重要なのは「本質」と「論理的」である。

まず本質だが、この言葉もそこそこ手垢にまみれていて、日常でもふつうに使われる言葉だ。なにか事があったとき、その原因の元の元を追及して、事の起こる原因をもっともきれいにエレガントに説明できる原因であるところのものを抉り出して見せると、本質を突いた議論、などといって褒められる。では哲学の本質はこれと違うか、というとそれは同じである。しかし、哲学では常識を遥かに超えて本質を問い続けるところが違う。

たとえば、「見えるとは何か」という問いがあったとして、その本質をどう答えるだろうか。たぶん、理科系の我々であれば「空間に物体と光源があって、その物体からの反射光が眼球に入り、網膜に像を結び、これを視神経で脳に送り、脳にできあがった何らかの神経回路によってそれが解釈され、見える」などという答え方が返ってくるであろう。ここまでであれば何ら哲学ではなく、これはほぼ科学の話である。光学や神経科学、脳科学などの科学領域で説明した「見える」の本質である。現代人ならば大半の人はこれで納得するはずだ。

では、哲学ではどうなるか、というと、ここでの説明をもう一段階どころか、ほぼ際限なく問い続けるのである。例えばこの例なら、「見える」が最終的に脳で作られるとすると、物体も光源もなくとも見えるはあるはずだろうが(現代ならさしずめ脳に電極を挿入するであろう)それは見えると呼べるのか否か。あるいは、人間が見えると言っている対象は、網膜の像のことなのか、あるいは視神経の生理学的変化のことなのか、あるいは物体と光源のことなのか、いったいどれを見えると称しているのか、とか。あるいは、AさんとBさんの「見える」は本当に同じ事態と言えるのか。それを証明する手段はあるのかないのか。もし、なければそもそも見えるという事態を一般化できないことになるではないか。

などなどきりがないのだが、ほとんど、揚げ足に近いほど、嫌がらせと言ってよいほど、病気じゃないだろうかと言いたくなるほど、執拗に食い下がって、その「コト」の本質を見極めようとする努力をすることが、哲学の定義で言うところの「本質」なのである。問い掛けを途中で止めてはいけないのである。

もう一つの特徴は「論理的」であるが、これは理系の人ならとっても親しいのですぐ分かるであろう。上述の本質の問い続けにおいても、とにかく論理で問い続け、それに論理で答えないといけない。途中でめんどくさくなって「物事ってのはそういうものだ!」とかいって論理的追及を中断してはいけないのである。ちなみに一般社会では、ふつうこれである。特にさきほどの人生哲学とか経営哲学になると、そういうことを主張する人を相手にしつこく追及したりしていると、あるところで「信念」や「常識」とかいう化け物みたいなのが出てきて、ガツンと中断され、「そんなことを言うならお前は社会で仕事をする意味も資格もない!」とか「誰のために生かしてもらってると思ってるんだ!」とか叱られて終わってしまったりするのがオチである。その手の哲学を俗だと言ったのはそういうわけである。

哲学は役に立たない

ここではっきりするのが、哲学は役に立たない、というよくある有名な命題の正しさであろう。そう、役に立たないのである。というのは、本質の追求というのは、適当なところで止めて提供するからこそ世の中の役に立つのであって、それを止めずに問い続けても現実から遊離するだけで何の得にもならないのである。先の「見える」の例だと、物体→眼球→脳→見える、というところで止めることで、これをコンピュータや機械に置き換えていろいろなサービスを生み出したりして、ひいてはお金になったりするわけである。

それ以上に「見える」というのを追及してしまったら果てしなく問いは続き、どこかで本質に達したとしても、だいたいが現実離れした着陸点となったりする。たとえば、この例であれば、哲学的に「見えるという具体的現象があるわけではない。これはめいめいの人間の主観が社会で合意した挙句に現れる観念なのであり、眼球が物体を見ているというのは単なる物理的一解釈に過ぎず本質ではない」とか言ったとして、はて、いったいこのステートメントをどうやって世の中に役立たせればいいか、皆目分からない、ということになってしまうのが普通だ。

数学は哲学か

理科系の人であれば、論理的といえばまず数学を思い浮かべるであろう。前述は「見える」ということを追及した例だったが(哲学的には認識論という)、数学はどうだろう。数学は完璧な論理のもとに構築されており、正しいことしか現れない。あいまいなものはすべて論理的に却下されるので、数学の論理を追っているときに「これが物事ってもんだ!」という思考停止は入らないかに思える。では数学は哲学なのか?

答えはNOである。まず、哲学は神羅万象すべてを対象とするが、数学はそうではないという前提の違いがあるが、それはまずは置いておこう。数学の論理展開のもとには公理というものがあるが、いわばそれが中断に相当するのである。公理とは「同じ長さの線分は重ね合わせられる」とか「平行線はどこまで行っても交わらない」とか思いつくが、そういうものである。人間の常識として当たり前で直観的で誤りようのないものを公理とするわけだが、哲学はそれをも疑い、その本質の追求へ持って行こうとする。あと、数学は「何かを何かとおく」という人為的な約束事を作って、それを元に論理を発展させ、さまざまな数学分野を広げて行くが、その行為そのものも哲学の追及の対象になる。

数学側とすれば公理や約束事は数学の礎石であり、それが人為的であろうと、作為的であろうと、それを元に数学が発展すればそれでよし、とする。当たり前である。ルートマイナス1はあり得ない。その通りだ。でもルートマイナス1をいったん認めてそれにiという名前を付けて追及してみよう、と、あるときだれかが考えて、そのおかげで数学は複素数論という膨大な体系を作り出した。しかも、これはえらく役に立つ代物で、あのとき頑なにルートマイナス1を拒否していたら、世界はえらく狭くなったであろう。あと、先の例の、平行線が交わらない、も交わることにすればリーマン幾何学が構築されることもよく知られている。

哲学はルートマイナス1を否定しないが、その意味を問おうとするであろう。ここで、数理哲学という分野があり、これは、そういった数学における論理の本質を哲学的に問う学問である。思い出すが、むかし、とある大学のある著名な数学者とセミナーをやったことがあり、その先生は代数学の大家なのだが、数理哲学の研究者たちのことを「あいつら、まったくに下らない、役に立たないことばかりしやがって」とこき下ろしていた。しかしながら、先生の代数学が世間の役に立つかというと、ほとんど役に立たない。その役に立たない紙の上の数学をする先生に、さらに役に立たないと言われているのが哲学なのである。いかに哲学が役に立たないか思い知らされる話だ。

もっともちなみに代数学は、暗号理論と符号理論に期せずして役に立ってしまい、当の代数学者もびっくりしたそうだ。暗号とデジタル符号化なしに今のネット社会はあり得ないので、代数学はこれひとつで元を取ったと言ってよいほど世の中の役に立ってしまったのである。しかし、依然として代数学の中の大半の定理は役に立たないのは変わらない。将来どっかでまた役に立つかもしれないが。

パラダイムの変革

そう考えると哲学も、今は役に立たないだけで、将来はどこかで役に立つことがあるのであろうか。これについては、あるいはそういうこともあるかもしれないが、ほとんど望みが薄い。先も言った通り、数学や、ましてや物理学などの科学がなんで世の中の役に立つかというと、世の中にある前提を「与えられたもの」として礎石に置くからである。その礎石が世の中で皆に認知されているものであれば、その上に築いたものはどこかで世の中の役に立つのである。

しかし、哲学はその「今の世の中で前提となるもの」自体を疑ってしまい、その本質を見極めようとしてしまうので、それは役に立たないのが普通なのである。しかし、当然ながら、もし、その「今の世の中」から時代が百年とか二百年とか進んで、その「前提」があるとき何らかの影響で変わったとすると、そのときにはあるいは劇的に役に立つものになる可能性はある。いや、哲学の命題など直接に役には立たないが、その「前提が劇的に変わる」という社会現象に非常に大きな影響力を持つのが哲学であり、そういうことを目指すのが哲学の仕事と言ってもいい。

すなわち、現在の人間が「当たり前の前提」と思っていることを、覆すのが哲学で、それを変更させようと骨折るのが哲学の道なのである。この、時代に共有された当たり前の前提をパラダイムというが、そのパラダイムを疑って、新しいこれまでにないパラダイムを作り出そうという努力が哲学にはある。しかしその新しいパラダイムが、今のパラダイムにとって代わるには、通常非常に長い時間がかかる。

僕らだって、アナログ社会からデジタル社会、そしてインターネット社会へのシフトを現に経験した。これは我々のパラダイムを確実に変えたはずだ。たとえば、むかし僕らはレコード盤というビニールの板を物理的に所有していないと音楽を聞けなかったが、今じゃそんなものは無くなり、モノリスみたいな黒い板にイヤフォンを差し込めば音楽が無尽蔵に聞ける。恐ろしいことである。ほとんど魔術並みである。これは僕らにとっての音楽作品というものの意味をだいぶ変えてしまった。

さて、デジタルとインターネットの話になったが、これは哲学のおかげでこのようなパラダイムの変革が起きたのだろうか。そんなはずはないだろう、と言うであろう。どこの哲学者がデジタルとネットワークの概念を提出したか。してないじゃないか。デジタルはその昔、電気工学者のナイキストと数学者のシャノンが理論的基礎を与えてコンピュータの出現で今の姿になったはず。哲学なんかなくったって、パラダイムシフトは起こるし、むしろ哲学なんか結局は、どうでもいいことを根掘り葉掘り詮索しているだけで、パラダイムの変革の役にも立たないんじゃないか。パラダイムシフトは現実社会の具体的変革を核にして起こるのだ。と言うかもしれない。

おそらく言っていることは表面上は、正しい。だが、もし、そうであれば、私はこの「理科系のための哲学」などという企てをするわけがない。これは自分の一種の仮説になるが、このパラダイムの変革の立役者になった人々のウラには哲学が隠れているはずだと思うのだ。具体的な哲学の学説は無いかもしれない。しかし、哲学的直観がその立役者たちのウラにあるはずだ、と私は見ているのである。特にデジタルとインターネットの物理的なインフラが出来上がって世界に浸透して、2000年になり、15年ほどの間に次々と起こったデジタル情報社会の本質的なパラダイムシフトの裏には哲学が大いに与ったのではないか、というのが私の仮説なのである。

改めて哲学とは何か

少し話を戻そう。哲学とは何かという話だった。まとめると、物事の本質を論理的に問い続けること、である。こうして書くと当たり前に見えるのも面白い。実質を求める社会人にこの文句だけを言えば「それこそ我々に必要なことじゃないですか!」などと実質的反応をするかもしれない。なので付け加えると、哲学では、今現在の社会の規範に沿って生きて仕事して生活する人から見ると「常軌を逸して」本質を論理的に問い続けること、という但し書きがつく。

さて、以上がこのサイトで言うところの哲学の定義なのであるが、このようなものが最初からあったわけではない。哲学が産まれたとされるのは通常、ギリシャで、紀元前の話である。歴史の話をし始めると長くなるので、ここでは極力端折ることにするが、乱暴に言うと、かの有名なソクラテスが、現代の哲学の原型を作った人と言えるだろう。しかしソクラテスを読んでみると分かるのだが、さきほど与えた哲学の「本質」と「論理的」の二つを満たしていない。ソクラテスの、論理を縦横に使って結論を導くさまは感動的である。しかし、本質の方はまだ、与えられたものとして、一種の信念、信仰として前提されていることも分かるだろう。

その後、プラトンがソクラテスの弟子として現れ、そしてアリストテレスが今度は科学の原型を作った哲学者として現れている。しかしながら、これらギリシャの三羽烏もその時代のパラダイムの枠の中で思考した人々と、言えるだろう。ただ、どうしても付け加えておきたいが、この三人のした仕事のすばらしい「高貴さ」は現代人には及び難いものがある。人類がまだ高貴であることができた幸せな、ノイズのない、黎明期だったのであろう。

デカルトの意味

というわけで、ギリシャの哲学は、まだここで説明した意味での哲学ではない。では、前述した意味での哲学はいつ生まれたのかというと、それは、デカルトからである。このサイトのトップページはデカルトの肖像画から始まっているが、それは、そのせいである。デカルトが何をしたかというと、物事の「本質」を問い続け、それが壁にぶつかってついに止まってしまうまで問い続けたのである。デカルトは、これを明快な形で行った世界で最初の人だったのである。最後にぶつかった壁に彼は「我思うゆえに我あり」という言葉が書かれているのを、見たのである。

歴史的に言っても、デカルトは近代哲学の始祖である。彼によって「物事の本質を論理的に常軌を逸して問い続ける」ということが初めてなされたわけだ。次の章では、そのデカルトのやった仕事を紹介するので、そこでまたくだくだ書くが、ここで予告をしておこう。結論から先に言うと、デカルトは科学に基づく「工学」を初めて明快に始めた人だったのだ。

思い出して欲しい。デカルトの時代は、かのガリレオが地動説を提出したせいで宗教裁判にかけられ有罪となった時代なのだ。ほぼあらゆる重要なことは神によってトップダウンで決められる時代だったのだ。その時代にデカルトは、神のトップダウンはそのままにしたまま、「人間だけで決められる領域」というものがあるということを初めて明快に言ったのである。そこでは人間が人間の主人だ。そして科学をベースにした工学によってその「人間だけの領域」を無限に広げて行くことができる、ということを宣言したのである。実は、これが「我思うゆえに我あり」のとても大切な意味だったのである。

こうして、僕ら現代のテクノロジー社会に生きる者はみな、デカルトの恩恵を受けているのである。そして、ということは、僕らは知らずして「デカルトに規定されている」のである。このパラダイムはいつ変革するのであろうか。いや、変革は既に起こっているのではないだろうか。それはデカルトの興した哲学によるパラダイムの変革として現れるはずではないだろうか。そして、それを語るのが、このサイトの主旨である。

感性オーディオと工学の話

芸術科学会に感性オーディオ研究会というものがあり、僕の書いた文の中にも幾度か出てきた宮原誠先生がやっている。宮原先生と僕の仲は長く、僕はすでに十数年、宮原先生の仕事の広報的な部分を手伝ってきた。ここに、ここ最近の2年間に行った21回分の研究会の活動報告を載せておく。僕自身はこのうち2、3回に出席しただけで、大半は宮原先生の個人活動である。この報告書も、宮原先生から送られてきたワードの文をあえて整形もせず、そのまま羅列している。この長い報告をいちいち読む人はほとんどいないと思うが、ざっとスクロールするだけで、その雰囲気は感じ取れると思う。

http://niz237gt.sakura.ne.jp/hmlab/HP/kanseiaudio2013-2015.html

今回、改めてこの文書の集積を読んでみて、次から次へといろいろな考えが浮かんできて、妙なものだと思った。問題の所在ははっきりしているように思うものの、どうにも、その本質にフォーカスできない。一番簡単な方法は、世の中にいるハイエンドオーディオの食えない人々の趣味的な探求の一つに過ぎない、として放置、無視することだろうと思う。でも、自分にはそれをしてしまうには惜しい「何か」がここにはあると思う。逆にそれだからこそ、ここまで長年手伝ってきたわけだが。

少し前、「理科系のための哲学・芸術・美」という活動を長島知正先生とやっている、とアナウンスしたが、長島先生とお会いしたのは、元をたどれば宮原先生とのつながりである。感性工学の一連のコネクションだ。このだいぶ混乱しているように見える宮原先生の報告が、長島先生と僕がやっている「主題」と密接にかかわっていることは間違いない。そういう意味では類は友を呼ぶのだろうか。

僕の宮原誠評はいちおう昔から一貫していて「宮原誠は宮原オーディオという作品を製作する作家である」である。ご本人に何度も言っているが、もちろん先生は納得しない(時々は、そうかなあ、と言われることもあるが)。この報告書で執拗に展開されている事々が工学的用語で書かれているのを見ても分かる通り、先生にとってはこれは工学なのである。僕から見ると、その先生の「工学」(新・電気音響学という名前が付いている)が、現行の工学的方法論から見るとかなり雑に展開されているので、工学者に対してこういう論を展開するのは逆効果だ、と思っている。ただ、これについて僕の方で、先生の工学を現行工学に翻訳することはできない。恐らく、先生の数少ない弟子や理解者にもできないだろう。

さっき全体を読んでいたら、むしろ、その「工学的用語を使った現象の探求」そのものが、アート作品の一種にまで思えてきた。

たとえば、スピーカーボックスの稜線の急な部分で音の波面が乱れ、それが音の「凄み」を増す方向に作用する、と書いてある。したがって、ボックスの角を丸めてしまうと、音場は良くなるが、人をぞくっとさせる凄みは減ってしまう。この変化は劇的である。と書いてある。工学者の常識的感覚で反応すると「なにそれ。気のせいじゃない?」で終わる。実際に、スピーカーボックスに角を丸めるテープを貼って実験すると、7段階評価で+3の変化がある、と書いてある。「気のせいだろ」と反応したくなるところだ。あるいは、そう思って聞くからそういう結果なのであって、ブラインドでは違いは分かるわけないだろ、という反応もあるだろう。

しかし、とにかく、気のせいであろうと、プラシーボであろうと、何であろうと、+3も凄みが増したことをどう説明するか。これは「観察事実」だ。現行工学的に考えればこれには、数多くの要因が関わっていて、それらをきれいに切り分けることはとても困難で、そもそも工学的問題の線上に乗らない、と判断されるのが順当だと思う。先生が言うところの「波面の乱れ」は物理現象として確かに確認できるだろうが、同時に、被験者が角が鋭いのを視覚的に見て確認して「そのせいで」音に凄みが増したように感じるという心理効果も確認できる。

ここで後者について切り分けるために「ブラインドテスト」を要求するのが一般的だ。ブラインドテストで違いに有意差が出た場合と、出なかった場合でその後の展開は変わるだろう。出た場合に、一番最初にやらないといけないのは物理的条件を綿密に整えることだろう。スピーカーやリスナーの位置や部屋の形状が与える影響の特定が必要だ。次は、それがどんな要因で出たのか、それを追及するフェーズになる。「波面の乱れ」という物理現象はその一つだが、それだけではないだろう。それぐらいの微小変化が人間に検知されるということになると、角を丸めるテープがボックスの振動に及ぼす変化などいくつか物理要因が考えられるはずだ。

一方、ブラインドテストで差が出なかった場合はどうか。その時点で、スピーカーの角の話は「プラシーボ」として却下だろうか。波面の乱れは人間には検知できないほど微量である、で終わりだろうか。科学的態度に照らせば、いちおう、そういうことになるだろう。次に追及すべきは、スピーカーの角の形状についての視覚的、現象的な知識が、音の感じ方にどのような変化を及ぼすかという心理学的な探求になるだろう。

この成り行きは、一見、順当に見える。しかし、ブラインドテストで、その現象が物理現象なのか心理現象なのかを切り分ければ、探求の方向はきれいに分岐し、見通しが良くなる、というのは本当に正しい態度なのか。ここでその態度を是というか否というかが、分かれ目なのかもしれない。それで、僕の態度は「否」なのである。まあ、それだからこそ、宮原先生の延々と続く探求をいぶかしく見ながらも、去らずに付き合っているのだ。

なぜ「否」なのか、と言うと、そこで問題を、物理(波面の乱れ)か心理(プラシーボ)かという相反する二方向に分離させてしまうところに、現行の工学や科学的態度の限界を見るからだ。前者が「物質」、後者が「精神」に相当すると思うが、そもそもそうした二元論で当の問題(スピーカーの角で凄みのある音が出る)を処理できる、という考え方そのものに問題があるのではないか、と感じるからだ。この二元論は、「物理現象があって」それが人間という生身の物質に作用し、知覚と認識の処理を通して「認知される」という構図に沿っている。

「角を鋭くしたら凄みが増した」という現象は、ブラインドテストの場では無い条件で起こるものだ(被験者はみなテープを目で見て、宮原先生の言葉を聞いて知っている状況)。一方、ブラインドテストで確認できる現象はブラインドテストという条件で起こる現象を確認しているに過ぎない。ブラインドテストで、いったいわれわれは何を知りたいのだろう。その現象を「説明する」なんらかの「原因・理由」が知りたいのだろう。では、なぜ、原因・理由が知りたいのだろう。一つは「解明したい」という知的欲求だろう。しかし、その知的欲求そのものとて「理由・原因が解明されれば、それを今度は別のケースに利用して、われわれの生活に役立てることができる」という功利的な理由から来るのではないだろうか。つまり、そこで得られた原因・理由は、スピーカーボックスだけでなく「スピーカーボックス以外のもの」に応用できる道が開ける。スピーカーボックスの角での一つの発見を元にして、十の、百の、応用事例を増やすことができる可能性が開けることである(たとえば波面の乱れが音の凄みを増すのなら、巧妙に波面の乱れを与えた電気音信号を作り出し普通スピーカーでも凄みを出せる電気装置が作れるかもしれない)

工学というのが、主に物理現象の自然科学的な探求をベースに行われる、というのは、物理現象というものに正確な再現性が見られる、という観察に基づいている。すなわち、物理的な要因を特定できれば、それは物理的に整えた条件下で正確に再現し、それは、測定という行為で万人に確認される、と同時に、宇宙の果てまで行っても再現する、と仮定して構わないということである。この科学的な再現性と斉一性は、数限りない物理的な測定の結果によりその妥当性が増して行き、現代という時代でその妥当性はほぼ完成の域に達している。もちろん、科学で解明できない物理現象は今でも数限りなく存在するが、再現性と斉一性はその前提であり、その前提が崩れる事象は無いとされており、そう認定して不都合なこともほとんど無いことをわれわれは経験で補強し続けている。

あまり話を大きくする前に、スピーカーの話に戻るが、問題を物理現象と心理現象に分けるようなことをせず、従来工学的な原因・理由の探求をせず、この「角を鋭くしたら凄みが増した」という現象を「そのまま受け取る」という方法もあるのではないだろうか。「知見の他への応用」などは当面考えないのある。「いや、そんなことは考えていない。単純にその原因が科学的に知りたいのだ」と言うかもしれない。しかし、ここでいったん立ち止まってよくよく考えてみよう。その知的欲求と称する一種の本能は、生活の功利性の追求の歴史的な刷り込みから来ていないかどうか? 科学文明の勝利の感覚から来ていないかどうか? なぜ、そんなどうでもいいことを考えてくれ、などと言っているかというと、そこに、科学文明が爛熟した現代のものの考え方や感じ方の「次」が隠れているように思うからだ。

このスピーカーの例でいえば、その現象を丸ごと受け入れて、たとえば、「角の鋭いスピーカーをうまいこと宣伝して凄みのある音楽を再現するオーディオとして皆に普及させて音の凄みというものを皆に味わってもらおう」という活動をする、という風に発展させたらどうだろう。ここで、波面の乱れとか、音信号の歪みとか、プラシーボによる心理的効果とか、ブラインドでテストしたときの結果とか、そういうものを科学的に整理して断罪したり、唯一絶対な原因・理由を探求したり、ということをしないのである。物理現象、心理現象も何もかも含めて、総花的に検討と追及を進める道というのもあるのではないか、ということである。この道は、正直、あまり科学的ではない。むしろ「こうしたら、こうなった」という現象についての知識の集積に終始するともいえる。それはちょうど、西洋的な科学的手法に対する、昔からの東洋的手法にも対応する。分かりやすい例で言えば、西洋医学的な手術や薬剤に対する、東洋医学的な気や漢方薬に対応する。

僕は、さっき、宮原先生のこの一連の工学的分析追及の言葉自体がアート作品の一種に見える、と書いたが、それは、このような東洋的方法論に似たものを想起させる何かが、先生の探求の中に見えるからである。西洋科学を学んだ東洋の本能を持つ精神、という構図がどうにも見えて来るような気がするのだ。もっとも、これは少し言い過ぎかもしれない。自分としては、そこに自分特有の性質を重ね合わせることが多いからかもしれないが、それは個人的な話だ。

僕の考えでは、現在、華々しい成功を収めているアメリカの、Google、Apple、Facebookなどが、実は以上に述べた問題に既に痛切に気付いていて、西洋のデカルトの思想から生まれた自然科学と、そこから生まれた現代の工学の限界を、東洋的方法論を取り入れることによって克服し、既に次の世代へと持っていってしまった、と見ている。この点、彼らの知的な勘は極めて鋭く、驚嘆する。僕が何度も出す例だが、情報社会のあり方を変えてしまったと賞賛されているスティーブ・ジョブズが禅を信奉し東洋に多大な興味を持っていた、というのは決して決して偶然ではない。

この件をきれいに分析して、示すのは並大抵ではできず、今のところ自分の手には余る。したがって、上述は僕自身の直観から言っているだけである。しかし、昨今、ここまで日本の家電メーカーが敗退続きで出口が見えず、国をあげてグローバル化やイノベーションを振興しているにも関わらず実績が出ないとなると、われわれも、もう一度、ここに述べたようなファンダメンタルな事々について、前提や起源に戻って考えてみるべきではないか、というのが最近の僕の考えである。

そもそもは宮原先生の感性オーディオについての話だったが、あの依然として混乱した宮原先生の報告書の堆積の中に、以上のような「大問題」が潜んでいるように、自分には見えるのである。

絵画とデジタル

ひろしま美術館にあるゴッホのドービニーの庭って絵が好きだって話はずいぶんしてるけど、彼のいい絵は日本にあと数点ある。

小品だけど、オーヴェールで描かれた「あざみの花」という画布も好きだ。ドービニーの庭と同時期の死ぬ少し前に描かれた絵で、どちらも色使いはほとんど同じ。このころのゴッホは、どの絵も、十数色程度の色数だけを使い、それを塗り絵のように塗っているだけで、使われている色彩の数がそんなに多くない。そういう意味では、それこそ浮世絵の多色刷りみたいな感じになっている。

このあざみの花は箱根のポーラ美術館にあり、先日行って見てきた。やっぱり素晴らしいな、いつまで見ていても見飽きない。

ここまで絵そのものが好きになってしまうと、もう、実は、これが本物である必要はなく、この絵の完璧なレプリカがあれば、オレはそれで十分満足する。結局のところ絵画というのは視覚的なものなので、視覚が満足させられれば、それでいいのだ。

ということは、完全な複製が製作できれば、それは本物と正確に同じ価値を持つということだ(少なくとも僕にとって)。それで、本物と完全に同じものを製作するには絶対にデジタル技術でなければ不可能だ。腕の立つ複製職人もかなりのところまで行くが、こと完全複製となると困難と思う。

最近、ネットで、そういう超器用な職人が出てきて、紙の上に写真そっくりな絵を描いて、皆が無邪気に驚いているのとか見かけるけど、あれは対象が写真だからできるので、絵画の場合はできるか否か怪しい。特にゴッホの絵などの場合、絵の具の盛り上げと、偶然を利用したタッチが多用されているので困難さは写真を写すよりはるかに高いと思われる。

まあ、最近の高度なCG技術を使えば写真みたいな絵はあっという間にできるのを見ても分かるように、写真そっくりに描くのは意外と簡単なはず。皆が驚いてるのがバカみたいに見えたりする。

ま、とにかく、完全な複製はデジタルであるべきだ。

というわけで、ゴッホの絵は、無数に増やすことが可能な道理になる。オレは、それを一枚、是非、欲しい。額装して飾って家に置いて、いつでも見たいんだ。

それなのに、オレの今の環境では、超不完全な複製印刷、超ひどい出来の画集、液晶モニタの上の汚いデジタルデータ、しかもすべてオール凸凹なしのペラ紙しか、無い。凸凹特殊印刷の複製ってのがミュージアムショップで売ってたが、見たけど、いい加減なもんで、しょせん色彩は全然再現できてないし、凸凹がついた紙なだけで、油絵の具の質感とか皆無だ。

というわけで、電車で箱根まで行って、バス乗って美術館行って、入場料払って、本物を見るしか、今のところ方法が無い。

3Dプリンターもあるんだから、ボタン一つでゴッホのこの「あざみの花」の完全なデジタル複製が出てくる、っていうシステムはできないものか。いや、これは今現在のテクノロジーで十分に可能なはずだし、研究室の中では実現できているに違いない。

そうなった暁には、初めて、この、ゴッホの貴重な「あざみの花」は永遠に増殖しながら生き残るのではないのか(デジタルだと経年変化が無い、という下等な意味ではない)。

デジタル複製の場合、それが完璧になれば、「増殖」というのは当たってないと思う。というのは、ボタン押せばいくらでも同じものが出てくる、ということは、それは「複数」では無く「一個」ということだ。だから、そのようなことが可能になって、初めて、このゴッホの「あざみの花」という芸術作品は、「唯一無二」の、ほとんどあの世に属する、完全に抽象的な、一個の「表現」に形態を変えて昇華するのに、違いない。

だから、デジタルにすると劣化せず退色しないだとかなんだとかいう話は些末事で、どうでもいいことなのだ。

今はまだデジタル技術がまだまだイマイチなんで、ゴッホの「あざみの花」はポーラ美術館所蔵の「本物」が本物なだけで、その形態はまだ不完全だ。そのせいで、オークションに出て何十億円とかで競り合ったり、印刷した画集が売れたり、盗難にあったり、火事で燃えたり、贋作だったり、なんだかんだという「人間的なあまりに人間的な」ドラマが「本物」の周りでドタバタ劇のように繰り広げられているのだ。

そんな喧噪の中で、この「あざみの花」の純粋な「ビジュアル」は沈黙をたたえて存在している。オレは、その孤高な沈黙に会いに箱根へ行くわけなのだが、その唯一無二の芸術精神を、大仰な額縁に入れられて壁に固定されている、その目の前に見えている牢獄から「救い出したい」と切に思う。

がんじがらめの「物理」から、「理想」を救い出すには、もう、完璧なデジタル技術しか、方法が無い。

さいきん、自分は、そんな風に「デジタル」を捉えている。

早く、そうなんねーかな。

って、研究者なんだから自分でやれよ、か。

asamigogh

(Facebookから転載)

スウェーデンの婆さん

うちの近くにスウェーデンの大型病院がある。今日はよく晴れた暖かい春びより。駐輪場に自転車を止めようとして通りかかったら、日の当たる外に、車椅子に乗った婆さんがいて、タバコを吸っている。隣を通り過ぎるとき、その気はなかったが自転車の呼び鈴が鳴ってしまい、あしまった、と思って婆さんを見たが、婆さん、呼び鈴など気にも留めず、そのままタバコを吸っている。

ああ、もうこれだけ婆さんになると、大半のことはどうでもよくなるだろうし、周りで起こっていることの大半はきっとどうでもいいことになってるだろう。どうでも良くないことは、もう二つか三つあるぐらいで、後はもう関係ないんだろうな。

などと思いながら俺は自転車を停めて、日だまりの中を歩いていて、逆に考えたが、こうして婆さんや爺さんになる前の俺たちは、自分にとってどうでもよくないと思っている大量の事々に囲まれて生きてるよな。本当に大切なことは実はとても少ないのだ、などと言う気はないが、まあ、今の俺たちは、実に大量の物事に対処いけないといけない人生だなあ、と。  

その昔、何百年か前の人々は、そんなに大量の事々に対処する必要などまったく無かったはずで、そんな時代だって、実際、同じような人間が、同じように、泣いたり、笑ったり、タバコ吸ったりしてただろう。  

いま、仕事で、平安時代に描かれた絵巻物のデータを作っている。俺の大好きな、病草紙という、当時の病気を描写した絵巻物だ。風病を患ったという烏帽子を被った男が碁盤の横で目を回している。周りの女たちがそれを見て笑っている。このころの絵巻にはそうやって笑う女たちがここそこに登場するのだが、みな、本当に屈託のない笑顔をしている。男の眼を回す様子がおかしかったんだな、きっと。今の俺たちが見てもおかしく見えるだろう。でも、こんなに屈託なく笑うだろうか、今の俺たちは。  

他の絵では、急性の下痢を催した女が縁側で、口からゲロを吐いて尻から下痢を庭に向かって水のように噴出している。その女を一人の婆さんが、しなびたおっぱいを丸出しにして介添えしている。別の女は部屋で煎じ薬を作り、赤ん坊がそのへんを漫然と這っている。庭にいる小汚い犬が嬉しそうな顔をして庭に撒き散らされた下痢の臭いを嗅いでいる。  

まあ、呆れるほど、そのまんまな生き物たちの動きそのものだ。病人も、婆さんも、女も、赤ん坊も、犬も、ほぼ一つか二つの原理だけで動いている。そういう単純な時代の、単純な生き物の動きのその様子を、こうやって絵巻とかで見ると、不思議な気分になる。既に失われてしまったあれこれの動きなんだが、ただ、人間自体はそれほど変わってはいないとも思う。  

大量の余計のなものがもし俺たちから去って行けば、きっと俺たちとて、この病草紙に描かれたプリミティブな人間に戻れるかもしれない。日だまりでタバコを吸っていた婆さんが、そんな感じにも見えていたし。

(Facebookに投稿した文)

ノグチ君のこと

ふとしたことで思い出した、自分が小学生だったときのこと。たしかあれは小学5年の時だったと思う。当時は、生徒が学校外のふだんの生活で従わないといけない事項というのが、いくつも定められていた。盛り場を出歩かない、とか不純異性交遊をしない、とかは、たしか既に校則に含まれていたが、それだけでなく、実にたくさんの禁止事項が事細かに決められていた。
 
で、これはそのとき僕が通っていた学校に特有の規則だったのだが、「指定区域」というのがあった(正確な名前を忘れた)。学校を中心として東西南北に何々駅のここまで、という風に細かく区域が指定されていて、その区域を示す地図まで作られていて、学生は親同伴で無い限りその区域を出てはいけない、という規則だった。
 
この規則は当時も、実態に合わないのではないか、などと賛否が多かったようだった。そして、あるとき、夏休みを前にして、とうとうこの規則を緩和または撤廃するという動議が持ち上がり、先生とPTAそして生徒代表が集まって討論会が開かれることになった。
 
僕がなぜその討論会の場にいたのか不明なのだが、僕はその討論会に出席し、そこで一つだけ今でも覚えていることがあったのだ。かなり厳粛な雰囲気で会が進み、空気がピリピリとしていて、とても自由闊達な討論とは呼べない感じで、子供ながらに何となくその厳しい感じに圧倒されておとなしくしていた。そして会は進み、学生代表が意見を言う順番になった。
 
その時に登壇した小学5年の子だが、たしか名前をノグチ君といったはずだ。ノグチ君は普段はとても活発な、くだけた感じの、利発な子だったが、なんとなくしゃべるときぐにゃっとしたなよっとした感じでしゃべる癖があったことを、覚えている。檀上のノグチ君は、あらかじめ考えてあった内容を話しはじめた。区域外というのは現実に合わないし、他校にないものだし、僕たちの自由を奪うものだし云々ということを訴えたはずだが内容は覚えていない。
 
で、そのスピーチが終盤になったとき、ノグチ君は感極まってその場で泣き出してしまったのだった。どんなに泣くのを止めようとしても、どうしてもしゃくり上げてしまって言葉にならない。檀上で泣いたまま立ち往生してしまったのである。
 
僕は、そのノグチ君が泣き出したことだけ、鮮明に覚えているのである。自分も小さい子供ながら、なぜあのときノグチ君が泣き出してしまったか、痛いほどよく分かったのである。不思議なことに「なぜ彼は泣いているのか」という質問が仮りに発せられたとしても、それにはまったく回答できない、ということだった。もちろん、いま現在ならその理由につき言葉を使っていくらでもしゃべれるだろう。しかし、その時の子供の自分には「理由」は皆目分からなかったが、なぜ泣き出してしまったか、その「心」は完全に分かっていた。檀上で泣き出して立ち往生するノグチ君を見ながら確実に百パーセントそういう気持ちを抱いたことを、いま現在「思い出せる」のである。
 
今朝、このエピソードを思い出して、なんだか不思議な気持ちになったから、これを書いているのだが、何かを「分かる」ということはどういうことだろうな、と思ってね。その時の僕は確実にノグチ君に共感していたから分かったのだ。彼が登壇してしゃべっている内容は、頭脳を使ってそこそこに追ってはいただろうけど、何というか、その時の彼の心の動きを、自分の中で正確に追っていたのだと思う。そのせいで、彼が泣き出したとき、それが心で分かったのだと思う。
 
こういうのが、僕のふだん言うところの「文学」なのだ。科学でも哲学でもない、文学。いま、自分は、みずからを、結局は文学的な人間だなあ、と思うことが多々あるのだけど、それはそんな小さいころの経験の積み重ねがあったからかもしれないな、と思ったり、あるいは、自分が文学的な性向なせいで、自身の子供のころの思い出を文学的に脚色して思い出すのかもしれないし、どちらだか分からないが、どっちにしても今の自分が文学野郎なのは間違いなさそうだ。
 
それにしても当時の小学校の規則のがんじがらめ感はひどいものだったが、こんな討論会を催して子供にも意見を言わせるなんて、その昔の日本もなかなか民主的だったじゃないか。少し感心する。

大阪天満にて

仕事で大阪の天満に来ている。夕飯を食おうと一人で出歩いて、しばらくぶらぶらしたけど、相変わらずの関西のノリだなあ、と思いつつ、やはり同じ仕事の用事で二年前にもここに来たっけ、と思い出した。
 
飲み屋と飲食店と雑多な店でごったがえった迷路のような路地は、少しも変わっていなかった。オレは、いちいち飲み屋をのぞいちゃあ歩いたが、昔と少し違った事といえば、ほぼ満員な店の若者率が高かったことぐらいか。
 
かと思うと、ものすごく古風な、蛍光灯が煌々と点いた、明る過ぎて逃げ場がないような無骨な居酒屋が、こんどはオヤジやジジイで満席になっていたりする。面白いものだ。
 
昨晩さんざん飲んだせいで、今日は、まあビール一杯で飯を食うぐらいにしたいもんだ、と思いつつも、体調は既にリカバーしているので、今日も飲んだって構わない。
 
ごちゃごちゃした路地をぶらついてさんざん見物したあげく、路地街から、その外のふつうの街に通じる通りがあった。遠目に眺めると、店舗が切れはじめた向こうの方に、黄色い地に赤い文字の中華料理屋の看板が見えたので、そっちへ向かった。
 
店の前に来てすぐに分かったが、いちおう古くからある中華屋のようだが、それなりに寂びれた感じで、まあロクな店ではない。分かっていながら、のれんをくぐって入ってしまう。
 
中に入ると思ったとおり、わりと広い店内にもかかわらず、客が一人もいない。一番奥の隅のテーブルで、すでにお爺さんとお婆さんに近くなった二人が、テーブルの上の新聞紙を挟んで向かい合って何やらしゃべっている。
 
入って来た僕を見て、まるで少しびっくりしたような感じで、おばちゃんが、いらっしゃいませ! と元気よく叫んで、雑談をすぐに終了して立ち上がった。見ると確かにお婆さん。でも、髪を茶色く染めて、大きな真珠っぽいイアリングをしてるせいで、遠目にはおばちゃんだ。
 
取りあえず、生ビールを注文した。
 
赤い椅子に黄色いテーブル、広めの店内に、壁にべたべたと隙間なく貼られたメニューや、料理の写真や、あと有名人の描いた色紙など。左の棚の上にはテレビが乗っていて、大音量でプロ野球をやっている。天井の蛍光灯で店内は明るい。要は、本当に古臭い、昔からある中華料理屋である。
 
おばちゃんが「ビールのアテはどうしましょ」みたいに言う。アテか、飲みに来たんじゃないけどな、と壁に貼られたメニューを見ると「かしわ炒め」というのが目に入った。大阪では鶏は「かしわ」なのは、かつて3年間大阪に住んだ経験のある自分はもちろん知っていた。実は自分はこの「かしわ」という響きが当時から好きだったのだ。ということで、かしわ炒め下さい、と注文した。
 
ビールを飲みながら店内を眺めてぼんやりとしていると、お待ちどうさま、と、かしわ炒めが出た。鶏肉と筍と小松菜のあんかけのような料理が来た。あんは少しの醤油の入った薄いベージュ色で量が多く、この調理法は東京にはほとんどない。これは古い関西の廣東料理の典型的な調理法なのだ。かつて大阪に住んでいた自分はよく知っている、懐かしい姿だ。
 
食ってみると、おいしくない。筍などいつのものか分からない様子で、すえたようなヘンな味がする。調理が下手とは言わないが、端的に料理が古臭くて、今の人が満足するとは到底思えない味だ。客が一人もいないのがうなずける。
 
しかし、俺はそんなことは全然気にしない。自分は、自身で長年料理も作っているし、世界をさんざん食べ歩いてもいるし、料理が出ればたいていすぐにその素性が分かるのだが、実はオレはこのタイプのまずい料理に極めて寛大で、むしろ食っていて、まず過ぎてかえって感動したりするぐらいなのだ。
 
したがって、知らない土地で、わざわざ変な店を選んで入ってしまい、出てくる料理が糞まずい経験はしょっちゅうなのだ。しばらくビールを飲みながら食っていて、この今のシチュエーションが、何かに似ていることに気付いた。それは、果たして、一年前に学会で行ったスペインのサンタンデールという街でのことだった。
 
そのとき、退屈な学会を抜け出して、一人でサンタンデールの街を当てもなく歩いた。やはり、享楽的な国のスペインだけあって、いろいろ楽しそうなレストランやバーはあったのだが、結局、オレは、国鉄のターミナル駅に戻ってきて、その駅前にあった、ひどく変哲のない、客がまばらにしかいない、やはり蛍光灯で明るい店内の駅前食堂に入ったのだった。
 
給仕のおばちゃんは、百戦錬磨な感じのスペインのおばちゃんで、愛想よく観光客然したオレを迎えてくれたが、なんだかその様子が今日の中華屋のおばちゃんと似ていないこともない。加えて、そのスペイン食堂もガラガラで、客は冴えないオヤジが二、三人しかおらず、棚の上にテレビがあり、大音量でサッカーをやっていた。オレは今日と同じく、鶏肉のセットメニューを注文した。スペインのセットメニューはワイン込みだ。ハーフボトルの赤ワインが付いて来る。だいぶお得だ。
 
殺風景な店内の安物テーブルの上に料理がドカンと乗ったが、まあ、量は多いがうまくもなんともない。赤ワインはすでに封の空いたフルボトルがどんと置かれた。どうやら、ハーフでもフルでもどうでもよくて、好きなだけ飲んでいいよ、ということのようだった。
 
その時も、オレは大音量のテレビを聞きながら、小汚い地元食堂で、食って飲んで放心していた。今日は今日で、小汚い天満の中華食堂でプロ野球の大音量を聞きながら、食って飲んで放心している。やっていることが、まるで変わらないのだ。
 
店内のおばちゃんとおじちゃんは仕事が無いのでいつしか、再び、同じ隅っこのテーブルに戻って、大阪弁でずっとなにやら話し込んでいる。「いうてんやんか」とか「いっしょやろ」とか「あかんやろ」とかいう言葉がしきりに聞こえてくる。
 
そうこうして、ビールも半分ほど飲んだころ、例によってオレは、わけもわからない強烈な多幸感に包まれた。オレの多幸感は、だいたいがこういうシチュエーションでしか現れないのである。
 
それにしてもオレは、やはり「何か」から逃げ出したい、と常に思っているのだろう。しかし、こんな場末のシチュエーションで、場違いな多幸感を感じながら、実際には、オレは、妙に糞真面目なことを考えている。
 
そのときは、空間と時間について考えたんだっけ。人間は空間を克服する術を今までたくさん開発してきた。今朝東京にいたオレがその日の夜には大阪にいる、しかも、パソコンを覗けばいま渋谷にいる知人がリアルタイムでメッセージを送って来ている。空間についてはそんな調子なのに、考えてみると、空間の対となる「時間」の方は少しも克服されていない。相変わらず時は同じように流れ続け、変えようがない。
 
で、この、人間がオフィシャルに開発してきた術ではどうにもならない「時間」から自由になる方法は、実は昔から、ある。それの最たるものは麻薬だ。しかし麻薬は禁止されている。ということになると、この俺の多幸感などはまさに、それだ。この感覚は空間からの解放とはまったく無縁で、ひたすらオレの時間感覚を狂わせ、俺をそこから解放するように働くのだ。
 
オレが逃げ出したい、と思っているのは何だろう。何から逃げたいのだろう。なぜ、俺は、こういう、反知性的な、白痴的なもののただ中でしか、その多幸感を得られないのだろう。
 
そうこうしているうちに多幸感は去って行った。いつも、どんなに長くても五分ぐらいで終わってしまうのだ。

仕方ないんでオレは、少し生暖かくなった残りのビールをチビチビ飲みながら、テレビを見始めた。巨人とディーエヌエイの試合だった。すでにテレビをまったく見なくなっているオレは、物珍しいので、そのプロ野球中継をずっと見ていた。
 
でも、俺は野球などどうでもいいのだ。それにしても、安中華屋で、まずい食い物を食って、ぬるいビールを飲んで、プロ野球を見る、という構図は、実はオレの生涯の憧れの的だった。自分には、そういう生活は出来るはずがない、ということが分かっているので、それゆえに憧れだったのだ。
 
おばちゃんが外の暖簾を下ろして、店内のテーブルの上に置いた。まだ八時ちょっとだが、そろそろ閉店らしい。残りのビールを流し込むと、お勘定してもらった。ありがとう、おおきに、と標準語と大阪弁を交互に数回繰り返して、おばちゃんがオレを送り出してくれた。
 
外へ出ると、夏の大阪の夜は生暖かく、まだまだたくさんの酔っ払いが、飲み、騒ぎ、たむろしていた。

(Facebookに投稿した文)

部室でのこと

(Yahooブログに2010年2/28に投稿した文)

この前、同僚と話していてふと思い出した話。

今から30年ほど前、自分が大学生だったころ、ギターを弾いてブルースを演奏していた自分はロック研究会という音楽サークルに入っていた。ロック研には学内に音が出せる部室を持っていて、ドラムやアンプやボーカルアンプなどすべて揃っていたので、そこで適当に時間割を決めて部員のバンドが練習をしていた。

当時、大学生になりたての自分は、部に属してはいたが、完全な変わり者扱いであった。というのは、部の活動に貢献するということを全くせず、部員とのコミュニケーションもまるでとらない、バンドも自分以外はすべて外部の人間で、その他、およそ「協調性」と名付けられることを一切、まるでわざとのようにしなかったのである。それでいて、ブルースバンドとして演奏活動はしていて、部室を練習場として使って、学祭ではライブに出演したりはしており、回りからはブルースに凝り固まったかなり不可解なやつと映っていたらしい。

ある日、バンドの仲間と部室に入ってエレキギター2本で練習していたときのこと、途中から後輩の二人が部室に入ってきて何ということなしに雑談を始めた。練習していた自分はこれがうるさくて仕方なく、演奏をいきなり止めて、ギターのボディーをバンッと叩き、いま練習してるんだから静かにしろよ! と怒鳴ったのである。二人は一言もなくすごすごと不服そうに部室を出て行った。その後、相棒が心配して、おい、あんな風に言って大丈夫なのか、と言ったので、別にかまわねーよ、と答えたものだ。

恐らくこの事件があってからだと思うのだが、自分は部の中で不可解な変人からさらに進んで「嫌なやつ」という評判になったようだった。なんだか、色んなところで、そういう言葉が聞こえ始めたように覚えている。

さて、今の自分だったら、部の中で上記のような、部の他の人を人とも思わないような態度を取ることは絶対ないと思うが、逆に、そのときなぜそういう態度に終始したか、というのを思い起こすと、それははっきりしている。そのときの自分はおよそ「人間関係」というものが、はなから、まったく分からなかったのだ。文字通り、完全に自分の中に存在せず、抜けていたのである。部という集団があって、そこに属している人間は一種の仲間であり、ある決まりやマナーにしたがって人間関係を築きながら協調しないといけない、という今では当たり前のことが、まったく理解できていなかったのである。

と、いうことなので部の中で変人、嫌なやつ扱いをされていても、自分はまったく気にもかけなかった。普通だったら、人から嫌われている状態というのは居心地の悪いもので、気に病むものだろうと思うのだが、この事態を何らか収拾しようなどとはこれっぽっちも考えなかったし、平然としていたものだった。

人に、ある「概念」が欠けている、というのは不思議なもので、その概念を常識として備えている人たちから見ると、それに欠けた人間というのは、ひどく不可解で、腹立たしく、気持ち悪く、感じるもので、結局はその人を排斥する行動に出るものだと思う。しかし、排斥される側の当の人間にとっては、実は、ほとんどまったく良心の呵責の対象外なので、意外となんとも思っていないものなのだ。

そして、またある日、バンド仲間と練習をしに部室に入ったときのことである。この部室には一番奥に黒板がある。それを見ると、なんと、そこに、「林君は今後この部室で練習をしないこと」とでかでかと書かれていたのである。しかもその文句の回りに、ロック研の名だたる先輩の署名が20ぐらいぎっしり書かれていた。いま思うとかなり過激な宣告なのであるが、これまたそれを見たときの自分の反応がおかしくて、単に、へーえ、と思っただけで何の感情も持たなかったのである。

もちろん自分のバンド仲間はこれを見てあれこれ心配して、これじゃもうここで練習はできないかもしれないな、他のところでやらないとな、しかし、林、おまえ何があったんだよ、などなど。自分は、うーん、たぶん部外の人間としかバンドやらないからかな、でも、まあ、大丈夫なんじゃないの、みたいに答えた。まあ、それはともかく、いま思っていちばん変なのが、こういう仕打ちに対してまったく無反応だった、ということである。

さて、このように書かれたからといってすぐに部室を出るわけでもなく、まずはしばらく練習をしていたのだが、途中でたまたま先輩の一人が入ってきた。この先輩、黒板に目を留めると、なんだこれは、と言ってすぐに、「おい、こら、オレの名前もあるじゃねえか、オレはこんな署名してないぞ!」と叫んで呆れ顔。「おい、林、これはでたらめだぞ、気にしなくていいからな。それにしても、誰だこんなことを書いたやつは、こともあろうに先輩の名前を勝手に使って書くとはけしからんやつだ、これは問題だぞ!」と、一人でかなり憤慨している。

ここで、また、自分の反応だが、なんでこの先輩が憤慨しているのか、その意味がまったく分からなかったのである。いま思えば、たしかに他人の名前を勝手に使ってこのようなことをするというのは卑劣なことで、名前を勝手に使われた人間が憤慨して当然なのだが、自分にとっては、この人なんでこんなに怒ってるんだろう、という感じで意味が分からなかったのだ。ここでも、やはり、自分には何かの概念が完全に欠けてしまっている。その先輩はとてもいい人で、ずいぶんと自分を慰めてくれたのだが、そもそも自分には事情があまり理解できていないこともあり、はあ、と聞いていたが、「デヘヘ」とかなんとか照れ笑いの一つもしたであろう。そのぐらいのことはできたのであり、それで人間関係も何とか持っていたのであろう。

かくのごとく、少なくとも部の後輩たちとは険悪だったらしいのだが、たしか学園祭だかの打ち上げで大酒を飲んで酔っ払って大騒ぎして、それを機に何となく和解してしまった。まあ、青春の一こまだと言ってしまえば、それまだ。

ところで、自分だが、その後、これらの人間関係云々が理解できるようになったのはかなり遅く、大学に6年行っても分からず、就職して初任地の大阪に3年いても分からず、その後、東京に戻り、数年ぐらいしたころからようやく理解し始めたようである。これは、自分が先頭に立って仕事をまとめなくてはいけなくなってからだったように思う。

それにしても、人間関係とか、協調性とか、気配りとか、そういったことにつき、生まれながらにまったく欠けてしまっているように見える人間というのが時々いるが、自分はそういう人たちにけっこう甘いところがある。それは、こんな風に自分もむかしそうだった、ということもあるのかと思う。いまこの現代の日本では、自分勝手に傍若無人に振舞うことについて、極端に厳しくなっていて、そのような人が出るとこれを寄ってたかって排斥するような傾向があり、そういったニュースなどを知るたびに情けなく寂しい思いをする。周りから何らか外れた人間は、昔よりはずっと生きにくくなっていることは確かじゃないか。そんなとき、実は、たとえその人間が犯罪者級の輩であっても、密かに共感してしまう自分の心を抑えられない。

ただ、この共感は多分に抽象的なものかもしれない。その傍若無人な輩がもし、自分のテリトリーの中で騒動を起こしたら、自分も怒って排斥する行動に出るかもしれない。ただし、その輩が自分と距離の離れたところで騒動を起こしている限りは、むしろ、害悪を流す人間の方に共感する方向に走ってしまう。

社会において、そういう迷惑な人間が現れたとき、これを一種の世論の総意として寄ってたかって排斥する場合、実は、この距離感というものが大事なのかもしれない。寄ってたかって排斥する人たちの集団というのは、個々人は距離的にもちろんまちまちに離れているのだが、その問題児の周りにいて直接迷惑をこうむっている人間たちを、想像力のよって自分と距離感の近い存在として認めるのではないだろうか。つまり、まるで自分のことのように怒り、同情する。一種の共同体意識が働くせいで、個々人の距離が小さい状態を想像力で作り出すのではないか。

ひるがえって、なぜ、自分がこれら排斥する側の共同体の人間たちと逆の感情を持つかというと、きっと自分は、彼らを自分の仲間と見なしていないからであろう。そして、当の問題児の方に近い自分というものを見出すからであろう。

いまの自分はこの手の問題児ではない。しかし、たしかにまだ世間の垢にまみれていなかった頃の自分は前述のごとく、自分を縛る人間関係を意識しない存在だった。そういう過去の自分の姿に近いものとして問題児に対してある共感と愛情を抱くのだろうな。しかし、ここではっきり言っておかないといけないが、この共感も、愛情も、抽象的なものである。いわば心理的なものであり、実体や実質的な力を伴っていないようである。つまり、共感を持った問題児について実質的にこれを助けたり、排斥している周りの共同体に敵対してこれを変えようとしたり、という行動を自分は取りはしない。

しかし、こういう実質的な力を持たない心理的な「気分」を軽く見てはいけない。こういうものは無意識において知らぬ間に蓄積され、自分の実質的行動を背後からあやつるものなのだ。ここぞ、という決定の瞬間に、突然、その蓄積した力を発揮して、その人の人生を変えたりするものなのだ。

人生ってのは、不思議だな。

ある成功した人に会ったときの話

5年ほど前、僕が前の会社でリストラにあい、職探しをしつつ、わりと弱っていたころのこと。その前の会社で自分が作ったモノをいろいろと売り込み、さらに世の中でなんとかして存続させようとあくせくしていた時だ。さいわい、単なる一技術としては上出来なほどたくさんの人が興味を持ってくれていた。その中には実際にそれを使いたい、と引いてくれる会社や人もあった。
 
当時の自分はなんとまだウブであったので、そういう引きの言葉をわりと真正面から受け取り、その気になったりしていたころだ。もっとも、さすがに実際に職を失って困ったりしていると、だんだんと自分も疑い深くなり、というか、世間的にまっとうになり、他人が自分に示す、あるいは自分の技術に示す興味につき、その大半が単にその他人の、自分のあずかり知らない、個人的な事情やその他の状況によるものに過ぎない、ということが分かり始めていたころでもあった。
 
ま、というわけで、まあ、いろんな人と次々と会っていたものだ。逆に自分がまだウブだったせいで、手あたりしだいに他人と会っていた、ともいえる。もしそのとき自分にもう少し世の中を見る目があったら、あんなに非効率な行動はしなかったと思う。そういや思い出したが、無職になって僕は個人名刺を作ったが、肩書が5つぐらいついていた。博士をはじめ、客員なんとか、なんとか研究員、そのほかもろもろ。5つもあったのは、非効率に行動していた結果でもあった。
 
ちなみに、誰か他人に会って名刺を渡して、そこに肩書が5つも付いていると、大半の場合、相手に対して逆効果になる、ということもその頃の僕は分かっていなかった。こんなにたくさん頑張ってるから私は価値のある人間ですよ、というアピールなわけだが、他人はそういう人を見ると普通は引くものだ。そんなものを相手に見せるより、相手にお世辞をたくさん言っていい気持ちにさせた方が恐らく十倍以上効き目がある。大量のアクティビティで人を圧倒するというのは失敗の元だ。ということも、その頃は分かっていなかった。日本だから? いや、違う、これは外国でもそうだと思う。
 
そんなアンバランスな自分には、それ相応なのか、けっこう変な人も引っかかるようで、かなりの変わり者とも会ったのである。その中の一人を思い出したのだ。
 
その人は、コンピュータとインターネットを利用した新しい学習塾の形態を考え出し、世に先だってそれを始め、そして成功した人だった。既に巨万の富を築いていたようで、全国にフランチャイズ校が多数あり、東京の本社でその人はたしか、社長、あるいは会長をしていたはず。重要な経営ミーティングに出てトップダウンな指示を出す以外はほとんど経営は他役員に任せ、自身はそれとはまったく違ういろんなビジネスに進出し、世界をまたにかけてあっちこっち飛び回っているそうだった。
 
先方が僕の技術に興味を持ち、まずは一度お会いしましょう、ということになった。自分は六本木ヒルズレジデンスに部屋を持って、そこを個人用のオフィスにも使っているのだけど、そのレジデンスエリアにあるレストランで昼食でもどうですか、とのこと。
 
ヒルズのレジデンスエリアへ入るのなど初めてだった。マンション下の公園の指定場所で待っていると、いつも上機嫌のその人が現れ、一緒に、やけに高級感漂うレストランに入り、仕事の話などをした。食事と話が終わり、その人が、ちょっと自分の部屋に寄って行きませんか、と言う。食事のとき、オーディオの話も出て、その人は個人で高級オーディオの海外販売なども手掛けているので、それらもお見せできますよ、と言うのだ。
 
レストランを出て、何重にもセキュリティのかかったビルディングへ入って、エレベータで十階だかに上がり、その人の部屋へ入った。
 
部屋には所狭しといろんなものが置いてあった。置いてあるものはなにもかも高級品で、さすが大金持ちの趣味は違うものだ、と自分には物珍しかったが、本当になんというか、そういう金持ち特有の、地に足のついていない、常にフローティングして世の中を自在に横滑りしているような感じが、とてもよく感じられた。ちなみに自分はこの人だけでなく、そういうタイプの人を何人か知っていたので、それらに共通の感じ、ともいえるものだ。
 
何百万円もする超高級オーディオで音楽をかけ、何十万円もするソファに腰をかけて、しばらく話をした。話は、これまたそういう人によくある、自分の成功の自慢話が主で、自分がいかなる方法で成功したか、について語っていた。もう少し正確にいうと、「方法」というよりは、いかなる「精神」で成功したかという話である。
 
さっき成功した大金持ちを何人か知っていた、と言ったが、そういうタイプの人たちにはある共通した「ノリ」があり、彼らが決して何らかの方法論で成功したのではなく、そのノリ、もうちょっと高級に言えば「精神」で成功した、というのが分かるのだ。そういう意味で、世の啓発書に成功者がたくさん色々なことを書きつけているが、そこに記載されている方法を真似してもダメで、精神の方を真似しないといけない。しかし精神はふつう真似は出来ないもので、そのせいで啓発書が何百万冊売れてもそれを買った何百万人が成功をするなどということが起こらない、というわけだ。
 
その人がその豪華な六本木ヒルズレジデンスで僕に語った精神も、そういうものであった。それを聞きながら、自分には、はっきりと、この精神は自分には真似できない、と感じたものだ。
 
その中で、こんなやり取りがあった。
 
「それで、いまはどうしてるんですか? 林さんぐらいの才能があれば、行く先はたくさんあるでしょう」
「いや、なかなか難しいです。それに、いまとぜんぜん違う業種に行くのも辛いですし」
「なぜですか? そういうのがあればそれでもいいじゃないですか」
「いや、やはりある程度堅実に長続きするところでないと職につくのはどうにも・・」
「そんなことを言っていたら先に進めないでしょう」
「でも自分には家庭もあるし、そんなその場限りであちこちふらふらするわけにいかないし」
「失礼ですがご家庭は奥様とお子さんもいらっしゃるんですか」
「いえ、子供はいません。奥さんだけです」
「それならば、それほど気にすることもないじゃないですか。家のローンが残っているとか?」
「いや、借金はゼロなんですよ。それだけは助かってます」
「そうですか、それならば、もっと自由にご自分の才能を発揮できる場へ進んで行くべきと思いますよ」
「でも、今の境遇になる前からうちの奥さんとはさんざん喧嘩もしてますしね。奥さんがそんな軽率なことは許してくれないですよ」
「奥さんのせいですか」
「うーん、せいと言うのもなんですが、やっぱり、勝手なことはできないですね。今までも、いまの無職の待遇になった経緯でさんざん言われてますからね・・」
「そんなのは放っておけばいいじゃないですか」
「そうは行きませんよ」
「つまらないですね。林さんのやろうとしていることを邪魔するのでしょう?」
「邪魔というわけじゃないですが、彼女に無断に事を進めるのは無理ですよ」
「そうですか、僕だったらそんな奥さんとは別れてしまいますね」
「そうですか」
「ええ、自分は自分のやりたいこと、今まさに行こうとしていること、それを邪魔するような人と一緒にはいませんね」
「なるほど」
「なんであっても自分の自由が一番です、その自由を妨げるものを自分は許せませんね」
「なるほど、言われていることは分かります」
「私なんかは、いまのカミさんとは別れてこそいませんけどね、彼女は彼女で自宅に住んで、そこで自由にやってますよ。まあ、自分はほとんど帰らずに駆け回ってますけどね」
「僕もそんな風に自由にできればいいんですけどね」
「奥様と別れられないのは分かりますが、自分にはそれは考えられませんね。すべては自身の自由ですよ。それが一番、大切じゃないですか」
 
と、まあ、こういった調子だった。
 
で、さっき思い出したこと、というのは、「自身の自由の邪魔をするものは許さない」というその人の言葉だったのである。その人は、およそ「制約」というのは外すべきもので、それに躊躇をするのは馬鹿げている、と考えるのである。一方、自分は、実は、「制約」こそが自分の人生を形造っている、と考えているのである。すなわち全く逆方向を向いている。そして、少なくともその人とのことについては、先方は大金持ちの成功者、自分は無職の敗残者、という結果になっていたので、彼の「精神」の方が正しいのではないか、と考える方が自然であろうか。少なくとも、啓発書的にはその通りであろう。
 
でも、これは、異なる二つの精神がある、ということで、それらは交換できないのだ、というのが正しいのであろう。僕には彼の精神が真似できないのは自明だが、彼も僕の精神を真似できないのである。自分は成功していて、相手は失敗している、ならば、その失敗している人の精神を真似するなど馬鹿げている、というのが彼にとっての真似をしない直接の理由であろうが、しかしそういう意味ではなくとも、彼にしたって僕の精神の真似は不可能だ、ということだ。
 
そして、彼が「林さんのように自分はしませんね」という理由が、「自由」だったり、「金」だったり「成功」だったり「地位」だったり、その他いろいろあるだろうが、逆にこの僕が彼に「自分はあなたのようにはできませんね」という時(こっちはずいぶんネガティブな響きになってしまうが)、やはり、それら自由や富や名声とは異なる、しかし自身が人生をかけて守るべき「なにか」があるべきはずのものだろう。
 
いったい、その「なにか」は何なのだろうか。はっきり名指すことはできないけれど、それが自分のかけがえのない「精神」であることは、間違いなさそうだ。

乱数とスピリチュアルなど

(2010年3月のYahooブログより転載)

ちょっと、たまたま、スピリチュアル系の本を読んだせいで思い出したこと。

乱数というのがある。ランダムにでたらめに現れる数字のことである。この規則性のない乱数を次から次へと発生させる機械を乱数発生器というのだけど、この乱数発生器は、実はコンピュータではとっても大事で、けっこう色々なところに使う。

それでは、この発生器をどう作るかというと、ふつうはある「数式」を使って作ったりする。その数式に「種」と呼ばれる数を入れてやると、後は計算で乱数を次々といくらでも発生してくれる。でも、しょせん数式なので、最初に入れる「種」が同じなら同じものが出てくる。なので毎回、発生させるたびに種を変えないといけないわけだ。それで、普通は、この種にそのときの年月日時刻を使ったりする。たとえば現在で言えば、2010年3月7日9:30なので「201003070930」みたいな数を種に使う。これなら毎回違うからちょうどいい。

しかし、こういう数式で作った乱数は、実は本当の乱数とは言えない。なにせ、もし、使った数式と種が分かってしまったら、出てくる数を完全に知ることができてしまう。さらに、結局、数式で計算して出している数なので、仮に数式や種を知らなくても頑張れば出てくる数を予測できてしまうかもしれない。そんなことから、このやり方で作った乱数は本当の乱数とは言えず、こういうのは擬似乱数と呼ばれている。

さて、この乱数を何に使うかといえば、色々あるだろうけど、たとえば暗号の鍵に使ったりする。乱数のようにデタラメに出てくる数を鍵に使えばそれを予測するのはとても難しいので、暗号として成立するというわけだ。しかし、もしこの乱数が予測可能であったとしたら、とたんに暗号は危なくなることは想像できる。

そんなわけで擬似乱数をたとえば上記のような暗号の鍵に使うのはどうもいけない。擬似乱数は、簡単な数式でいくらでも乱数を発生できるのでえらく便利なのだが、どうも危なっかしいのである。

それでは、本当の乱数というのはどうやって作ればいいのか、というと数式を使わずに、自然現象を使う。

たとえば、よく知られている乱数発生源に「熱雑音」というのがある。電気をそこそこ通す物質を「抵抗体」と言うが、これに熱を加えると、物体の中の電子が不規則に振動して、これが雑音を発生する。出来のあんまりよくないアンプを無信号でフルボリュームにするとスピーカーから「シャー」という音が聞こえたりするが、あれはだいたいアンプの中で発生する熱雑音である。

このように熱で電子を振動させる、などという超アナログなことをすると、その現象はまったく予測不可能なので、その雑音を使って乱数を発生させると、決して予測できない乱数がいくらでも取り出せる。宇宙の全歴史の中で同じことは2度と起こらないアナログ現象を使うのだから強力である。ここで深入りはしないが、特に、量子力学というものが知られてからは、真の意味で予測不可能なことが保証されたようなものなのである。

いや、ちょっと解説が長くなりすぎたが、思い出したこと、というのは次のことだ。

ずいぶん前のことだけど、どこかの大手のコンピュータメーカーからコンピュータのリリースのアナウンスがあり、それを見たときのことである。今度発売するモデルでは、そのコンピュータで使う乱数発生器を、それまでのように数式で発生させる擬似乱数ではなくて本当の乱数にするために、乱数を発生させるハードウェアチップを搭載している、と書かれていた。

このチップは、たぶん熱雑音を利用した簡単なチップなのだと思う。チップの中に熱雑音を発生させる何らかの小さな抵抗体があり、そこから出てくる純粋アナログノイズをデジタルに変換し、数にして、それを何らか整形して、乱数として出力するのであろう。

この小さなチップを想像してみた。すると、黒いモールドに金属の足がムカデのように生えているルックスはCPUとかメモリと変らないのだが、こいつは、一見そいつらと同じに見えて、決定的に違う「器官」を持っている。それは熱雑音を作る小さな小さな抵抗体である。まるで、黒いデジタルチップにぽっかりと空いた、外界に対する「窓」のように感じられないだろうか。

この話を聞いたときにすぐにこう思ったのである。

確定的に動いているコンピュータにこんな物理窓を開けてしまうと、ひょっとしたら、念視とか念力などのサイキックな能力のある人間は、この窓に精神をチューニングすることで、コンピュータの中に入れるようになるんじゃないか、と。

しかし、こんなことをすぐに連想する自分は、けっこう知らずしてスピリチュアル系だったのだろうか。自分の哲学的な意味でのルーツは、ドストエフスキー、ゴッホ、そしてニーチェといったところなのだが、この3人、みな何らか精神あるいは脳を病んでいたのは偶然なのだろうか。「病んでいる」という言い方は、通常の生活では極めてネガティブな意味だけれど、こういう人たちにとっては、この病んでいる部分が、なんだか得体の知れない渦巻くエネルギーの源泉であったりもする。そのエネルギーを元手に、小説を書いたり、哲学的思考をしたり、画布を塗ったりすることで、この現世とインターフェースしている人たちなのだ。

さっきのようなコンピュータに開いた物理窓から侵入する、などという話は、まずはよくあるSF的発想なのであるが、実は自分はSFはあまり好きではない。なんだか娯楽の域をどうしても出ないような気がして嫌なのだ。それで、いわゆるスピリチュアル系も同じような理由で敬遠している。

でも、自分の頭の中では、これらSFやスピリチュアルで言われていることを、ときにほぼまるごと納得している、というのも変な話だ。世間にいるいわゆる常識人たちが、SFやスピリチュアルの「娯楽から外れる真面目な部分」を、単なる荒唐無稽として一笑に付すことについては自分は賛成できない。自分は荒唐無稽だとは決して思っていないのだが、逆にそれらの「娯楽的」な部分が気に入らないのである。

先日、たまたま仕事で知り合いになった人に、まあほんのシャレ的なノリでスピリチュアル系の本をもらったので読んでみたのだけど、全部読んでみてちょっと悩んでしまった。その本はバシャールスドウゲンキという本で内容は完全スピリチュアルとチャネリングの話なんだが、言われていることのかなりの部分が自分がふだん思っていることに一致していたのである。

ヤレヤレ困ったもんだ。この本を読んでいると、その内容が、自分の心の中に、一種の二重性を持って入ってくる気がする。真面目な意味と娯楽的な意味の2つが、何だかぜんぜんうまく区別できず、二重写しのまま心の中で展開される感じというか。まるで、言われるところのパラレルワールドよろしくだ。

さっき、昨日から紛れ込んでいた蝿がぶんぶんとうるさいので見たら、出窓の上で逆さになってひたすらすごいスピードで羽ばたきしている。平面の上をめったやたらに滑っている感じで一向にらちが明かない。時々なにかにつかまって何とかしようとしているけど、どうしても起き上がれないようで、すぐにまた逆さになりそのままもがいている。そのうちようやく窓の桟を利用してはずみで宙へ飛び立つことができたが、今度はめったやたらに飛んでは壁に激突を繰り返している。いずれにせよ飛び立てたのだから、きっとどっかの壁に着陸してじっとするだろうと見ていたが、今度は床に落ちてしまい、また逆さのまま全速力で羽ばたきしながら床の上をめったやたらにあちこち滑りまくっている。そのうち、床に置いた鉢植えやら椅子の足やらにぶつかり何とか身を起こそうとしているらしいがだめで、そのまま床の上を滑ってするするするっと部屋の真ん中あたりに来た。いまだに羽ばたいているけど羽音はだいぶ弱くなり滑って移動する距離も短くなり、時々、羽ばたきを止めるようになり始めた。しばらくするとバタっと羽ばたきを止めたままになり、その場でひっくり返ったまま、今度は足をやたらと動かしてもがいている。そのまま見ていると尻尾に近い方から足の動きが止まって行き、最後には一番前の足を動かしているだけになった。ほどなくして、その足も停止し、逆さのまま死んでしまった。

変身

カフカは好きな作家の一人だ。カフカで一番好きなのは、と問われれば間違いなく「審判」をあげるが、それにしてもやはり、カフカを初めて知ったのが「変身」という超有名な作であることは変わらない。今朝、ネットを見ていたら、このカフカの「変身」の少しおもしろい新訳が出たという記事を見つけた。多和田葉子という人の訳で、今までの日本語の意訳的な部分を少なくし、原文のドイツ語に近い形で訳したそうだ。外国語訳で「原文に近い」というのは極めてあいまいな話だが、どうやら「直訳」に近い形で処理したもののようだ。

例えば、かの有名な小説の書き出しの「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。」というのを、次のように訳した、とある。

「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。」

この文は、なぜだか、自分には、とてもいい感じに映る。なぜだろう。どことはなしに、自分の文体のリズムに近いような気がする。

ところで、自分は文章を書くのが好きでほとんどそれを趣味にしているような状態だが、僕のこれまでの文学修養は、ほとんどが外国文学の翻訳文によるものなのである。若いころに熟読したのはことごとく外国文学である。ドストエフスキーを筆頭とし、あともろもろの著名な外国作家の本を主に新潮文庫で読んでいた。なので結局、自分の文体は翻訳文学から来るノリが大きいことが予想される。逆に言うと、日本文学の並み居る作家たちの美しい日本語の文体というものから、文体の機微を吸収することはあまり無かったとも言えそうだ。もちろん、日本文学も主要な作は読んでいたが、たとえばドストエフスキーを十回再読するところ、漱石は一回で終わり、というぐらいの比率だったはず。

というわけで、自分の文体はおそらくあまり日本文学的ではなく、むしろ翻訳文学にありがちな、ちょっと無理でガタがくる単語の組み合わせ、そしてあまり美しく流れない語順、情緒的というより説明口調な、そんな文体の雰囲気がかなりの影響を自分に与えているはずであろう。もう今さら日本語の美文を書こうとも思わないし、このままだと思う。

それで、「変身」の新訳だが、思い切った直訳口調が自分にことのほかしっくり来るようだ。しかし、それにしても、毒虫を「ウンゲツィーファー」と訳すとは思い切ったことをするものだ。などなど思っている時に、ずいぶん昔、カフカの変身についての感想文を書いたのを思い出し、探してみたら見つかったので、以下に若干の推敲加筆と共に再掲しておく。

では、どうぞ。

ちょっと前に、例によって家を出る前になんか本はないかと本棚をあさって、まあいいや、と持って出たのが、薄っぺらい岩波のカフカの「変身」だった。変身はすでに昔に読んでいたけど、文庫にはもう一編「断食芸人」というのが収録されていて、これは読んだことがなかったので、持って出たのだった。さっそく断食芸人を読んだのだけど、ひさしぶりのカフカも面白いなあと思って読んだ。短かったのですぐに読み終わってしまい、では、まあ、というわけで変身の方を再読してみた。

なんと、こちらは夢中になって読んでしまい、二日分の電車の中で最後まで読んだのだけど、この小説にはびっくりした。カフカを夢中になって読んでいたのは、たしか20年近く前のことだったと思うのだけど、やはり歳を取ってから読むと変わるものなのか。端的に感想を言うと、これほど、暗くて、悲しくて、空しくて、ここまで悲観的なものだとは思わなかった。むかしカフカを夢中で読んでいたころは、「審判」や「城」が気に入っていて、当時はその幻想小説としての側面に耽溺していたのであった。「変身」は学生のころ読んだままで、たしか再読はしなかったのではなかったか。

これほど有名な小説だと、ほとんど誰でも筋書きは覚えているはずだろう。勤め人のグレゴール・ザムザが朝起きたら一個の毒虫になっている、そういう小説である。僕が覚えていたシーンは、父親が投げつけた林檎がグレゴールの腹にめり込んで、そのまま腐ってしまう場面と、たしか最後の方で、グレゴールが居間へ出て行ってしまい、一騒動起こし、そのあと回れ右して自分の部屋へすごすご戻っていく、という、この二つの場面だけだった。最後にグレゴールがどうなって終わるかも覚えていなかった。

たしかに、僕が覚えていた場面はあった。しかし、それより後があったのである。グレゴールが居間から自分の部屋に戻った後、しばらくしてグレゴールは死ぬのだった。最後の夜、弱りきった体で居間に出てきたグレゴールが元で、家族に一騒動が持ち上がり、その後、彼は身動きもできずに、そのままそこの床でじっとしている。その間に、妹と父親と母親たちは、自分たち一流のいつものやり方で結論をつけるのだった。この汚らしい毒虫はもう兄グレゴールではないのだ、という妹の主張を、父親は承諾し、母親はやり過ごす。グレゴールはしゃべれないので何も言えず、じっとこの家族のやり取りと、自分に下された判決を聞いている。

そして、彼は、最後の力をふりしぼって埃だらけの自分の部屋に戻ると、扉がものすごい勢いでぴしゃっと閉められる。さて、やれやれ、今度は? とグレゴールはひとりごち、そして、自分が消えていなくなることがいま一番必要であることを悟るのである。その後、彼が死ぬまでのほんの十行の描写が、こんなにもやり切れず、また、美しいものだったとは、完全に予想外だった。彼は、安らかな、そしてむなしいものおもいに、いつまでも身をひたして、じっとしている。そして、教会の時計が朝の3時を打ち、外がほの明るくなり始めるとき、彼は息を引き取る。僕には、この大きな芋虫みたいな「しろもの」が、ぼんやりした朝の光にわずかに縁取られて静かにじっとしている光景が、なぜかとても美しく感じられた。

このほんの十行ていどの描写だが、二十年前の自分は完全に読み飛ばしていた。自分は「メルヘン」というのを嫌って敬遠する傾向があるけれど、これは極上のメルヘンに思えた。メルヘンというのは、理屈ぬきに襲ってくる運命に不平を言わずに従いなさい、ということを言う物語のことだと思う。メルヘンは主に子供に語られることが多いが、メルヘンは子供向きに作られているのではなくて、子供そのものがごく自然にメルヘンを生きているのである。子供というのは理屈が分からないから、突然理不尽なことが襲ってきてそれに服従させられる経験をしょっちょうするはずで、それは、メルヘンと同じ状況なのだ。それで、そういう過酷な体験の全体が、悲しくて、でも、安らかで、美しい、そんな世界を形づくる、そういう光景を産み出すのが童話の役割なはずだ。まさに、グレゴールが死ぬ前の光景がメルヘンに見えるのは自然なことなのだ。

しかし、カフカは、そんなことはお構いなしに進んでゆく。グレゴールが死ぬ美しい場面を描いて、行も空けずに、すぐに家族にとっての夜明けがやってくる。朝いちで起きた小間使いの婆さんが死んだ芋虫を発見するのである。家族にとって、余計ものがようやくいなくなり、長い長い悩みの季節が終わって、ようやく開放の時がやってくる。家族三人はひさしぶりに揃って外出し、最後に、若くて、それゆえに美しい、生命で溢れかえったようなグレゴールの妹が、太陽の光の中で明日に向かって伸びをする、それで物語が終わるのである。

それにしても残酷なラストシーンを付け加えるものである。グレゴールは平凡な、今でいうところのサラリーマンなのだが、彼はそれまで、身の回りに起こるあらゆることに対して「思考」によって対応する男性として現れる。他のカフカの作品でも主人公としてよく現れるタイプだ。そして、この小説で、その思考する男に与えられた運命は以下のような感じだろうか。

「思考」しかない世界を歩くものは、あるとき突然、自由のきかない体に閉じ込められ、丸まって狭い一人の部屋の床にうずくまり、早晩死を迎え、あとには死体という抜け殻が残り、それもさっさと始末され、そして何も残らない。この運命に途中で気付いても、もう遅い。思考はべったりと自らに貼りついていて、振り落とせないのだ。そんな人間の中には「生命」という生まれつき高貴なものが住める場所がないのだ、云々。

たとえば自分はそんな風に思考だけで日々を忙しく生活する、いわゆる典型的な凡人サラリーマンではない、と反論できないこともないのだが、実際の話、よくよく自身を反省してみると、かなりの時間をそういう自動思考によって動く生活で過ごしていることに気付かないだろうか。そんなことを言ったって仕方ないじゃないか、それに常にそういう時間のみで過ごしているわけでもないし、と言うだろうか。でも、やはり自分だって少なくとも幾分かは、そして時には大いに、この毒虫に変身したグレゴールと同じではないか。少なくとも僕はそう感じているので、そういう人間についての悲観的な人生観のかたまりのような、この小説には、本当に、参ってしまった。

実は、学生のとき以来、本当に久しぶりにこの小説を読み、そのあまりのネガティブさに唖然とし、こんな作品が世界の名作として若者たちの読書リストに入っているなんてひどい話だとすぐに思った。もちろん、この本の中に美しい幻想は、先にも言ったように、ある。もっとも、少なくとも若かりし僕は、実は、前者のネガティブにも、後者のメルヘンにも、そのどちらにも気が付かず、頭に残ったのは奇怪なプロットの要所要所に現れる描写の面白さだけだった。ということで、結局のところ、若者に無縁なものは、若者は最初から見ようとしないし、見えもしないので、別に名作として読んだとしても実害などもありようがないな、と思い、納得した。

それにしても、若い僕はそうではなかったが、感覚の鋭いごく少数の若者には、このような作品はきっと危険な爆弾として作用するに違いない。芸術というのは果てしないものだな、と思う。