露天風呂にて

新潟の貝掛温泉というところへ行ってきた。山奥の一軒家で、いちおう秘湯扱いらしいが、ひなびた山の宿とかじゃなく、わりと立派な、いわゆる温泉旅館である。けっこう大きな露天風呂があり、とても快適な、由緒ある古い旅館だった。

貝掛温泉は目に効く温泉として有名だそうで、お湯にホウ酸だかが含まれてて、昔は湧出した水を、そのままパッケージして目薬にして売っていたそうだ。温泉は37度のぬる湯で、ほとんど体温と同じぐらいである。目に効く、っていうんで、みな、湯が湧出しているところへ行って、目をつけてパチパチする。それで、湯はぜんぜん熱くないので、30分とか、下手すると1時間とか、ひたすら露天に浸かっている、という感じになる。そして、それが済んだら、隣接した熱い湯に移動して、十分に温まって、湯場を出るのである。

そんな風に長湯になるので、湯に浸かって、周りの自然を見ながら、ひたすらぼんやりすることになる。

僕もそうして浸かっていたら、最初、巨大なオニヤンマが露天の湯の周りをひたすら輪を書いて低空飛行をしており、ずっとそれを目で追っていたけど、なんだか、あまりに巨大で怖い。こっちに目掛けて飛んで来ると、思わず、顔をそらしちゃう。まあ、先方も体当たりをするはずもないのだが、自分の目の前の50センチぐらいのところでしばらくホーバーされると、なんかだいぶ怖い。僕は、虫が苦手なのである。

十分ぐらいしてようやく巨大トンボがいなくなって、やれやれって思って、水面を見ると、3メートルぐらい先のところに、小さな虫が誤って落ちたらしく、ひたすらもがいている。5ミリぐらいだろうか。すくって外へ出してやってもよかったけど、ま、いいや、って見てた。見ると、いちおう水流があるらしく、1秒に1センチぐらいの速度で移動している。ひょっとすると、もがいてるんじゃなくて、泳いでるのかもしれない。

3メートルぐらい先にある大きな石に向かってゆっくり移動しているので、ずっと見てた。5分ほどたったら、とうとう岸まで到達した。どうするだろう、って見てたら、あ、岸に着いた、と思ったとたん、石の上をタタタタタと大きなアリが登って行くのが、見えた。そうか、あいつだったか、巨大アリだったのだ。すごい勢いで走って石の裏へ消えていった。

それにしても、水面はそこそこ波で荒れてて、あの、藻で滑りそうな石に着いたとき、水面でもがいてたアリは、いったいどんな風に石に足をかけて、しかも6本もある足をどう使って態勢を立て直して、すかさず石の上に着地できたんだろう、あいつ、そんなことをいつ習ったんだろう? ってしばらくぼんやり考えてた。

で、ふと気づくと、今度は、1センチから2センチほどある木片みたいなのがやはり前方3メートルぐらいのところに浮いているのが見えた。しばらく見てると、その木片からかすかな細かい同心円状の波が広がるのが見えた。10秒にいっぺんぐらいの頻度である。死物の木片では、これはあり得ないので、これまたやはりなんらかの生き物であろう。でも、ごくたまにしか波が出ないので、たぶん、こいつはすでに瀕死だろう、ってしばらく見てた。

そうこうしていたら、僕の浸かってるぬる湯の向こうにある、熱い湯のところから、おっさんがこっちに移動して来て、じゃぶじゃぶ、って湯をかき分け、僕の前方5、6メートルのところに座った。遭難している大きめの虫は、そのおっさんと僕のちょうど真ん中へんに浮かんで、おっさんの方に向かって、やはり秒速1センチぐらいで移動している。

おっさんは虫に気が付いたかな、って思ったが、共同風呂って、なんだか他人と目を合わせるのを極力避けるようなところがあって、ジロジロ見るわけにいかないが、ちらっと盗み見したら、おっさんがその虫を見ているような気がした。

しばらくしたら、おっさん立ち上がり、虫の方に向かって移動したので、お、ひょっとして虫をすくって、レスキューするつもりなのかな、ってちょっと期待して見てた。小さな四角い顔で角刈りっぽくした強面の小柄なおっさんだったが、へえ、ここで助けるか、って思ってたら、そのまま、虫の横を素通りして、右奥の方へ行って湯を出てしまった。

そりゃそうだよな、そんな虫なんか気にするような感じじゃないしな、とか勝手なことを思って、やはりしばらく虫を見てた。

この虫も、前と同じような移動速度で、同じく、岸の石に向かっているので、ほどなく到達するのである。ずっと見てたら、果たして、岸に着いた。そしたら、ホント、着いたか着かないか、ぐらいの恐ろしい速さで、まるで、そのむかし驚嘆したクルって回るクロールのターンみたいに素早く、その虫は、垂直に一直線にすごいスピードで飛び上がり、あっという間に背の高い木を超えて、向こうへ飛んで行ってしまった。瀕死かと思ったら、すごい勢いでびっくりした。

2匹の虫のサバイバルを見て、もう、いい加減に湯を出るか、と思って、自分の後ろの石の上に置いた白い手ぬぐいを取ろうとしたら、その手ぬぐいのすぐ横に、だいぶ大きな、鮮やかな緑色をしたバッタが横倒しになって死んでいた。虫の苦手な僕は、うわってなったが、さっきはいなかったから、僕が湯に浸かってる間、そこを死に場所に選んだものらしい。

バッタをそのまま放置して、手ぬぐいを持って、そういえば湯で目をパチパチしてなかったっけな、と思い、湯が湧出してるところをざぶざぶと歩いて、湯に目を浸けて、それで風呂を出た。

30分も露天風呂に入ってると、いろいろあるもんだな。

「表現の不自由展」の中止騒動と、芸術について

あいちトリエンナーレで開催された「表現の不自由展」の展示作品の中に、慰安婦像など日本人を不快にさせるものがあるとの理由で、また、脅迫じみた投稿も相次ぎ、結局早々に中止を決定した、というこのニュース、考えがなかなかうまくまとまらないけど、すごくもどかしい思いがいろいろあるので、現時点の感想を書いておく。

慰安婦問題の少女像 きょうかぎりで芸術祭展示中止へ

まず、このニュースを見て真っ先に感じたのは、自分は芸術と表現の自由の側にいるのは、これはもう、長らく芸術至上主義だったことからも明らかなので、そっち陣営として極めて平凡なことだった。つまり、芸術理解の浅い行政の芸術への介入に嫌気がさし、人々の心を豊かにするはずの芸術が人を不快にさせていいのか、とかいう幼稚な芸術理解に嫌気がさし、さらにこれを政治事件と取り違えて脅迫じみた言動をするやつらの馬鹿さ加減に嫌気がさし、といった、もろもろの反応である。一方、僕と逆の側にいる人々は、僕のこの反応を裏返したような反応をしたはずで、今回は、その人たちが行政と相まってイベントを中止に持ち込んだ、という結末だったわけだ。

それで、思うに、自分のこの反応は、単に、たとえば、学校での教師ぐるみのいじめやら、理不尽な校則による人権蹂躙やら、ヘイトスピーチやら、そういうものを見聞きしたときの嫌悪と同じもので、それが特段に「芸術」だから、という特別なものではなかった。というか、自分的に、このニュースを見ても、そこには「芸術」も「表現」も「自由」も関係しているようには、まるっきり思えなかった。

そうなってしまう一つの理由は、僕がこの展示を見ていないこと、それから、ネットで断片的に作品の写真を見ているだけなこと、つまりモノを見ていない、ということもあるだろう。

芸術でなによりも一番大切なことは「見る」ことである、五感を通して触れることである。これはもう、間違いない。だから、五感を通して接した芸術に、言葉にならない「なにか」が、その作品の中に、あるか、無いか、が芸術の価値を、まず最初に決定的に決めるのであって、そこは揺るぎようがない、というのが自分の芸術観だ。作品が表現しようとしている意図などというものは、たいてい俗か、あるいはおまけなのであって、それは二の次なんだ。

だから、芸術においては、作品にはどうしても触れないといけない、見ないといけない。仮にそれがネット上の写真や複製であっても、それは仕方ない、その限られた範囲内で、とにかく作品に触れないといけない。それをせずに、芸術の尊厳を言っても、表現の自由を言っても、それは空言というものだ。それで、この件についての自分のことだが、展示会は中止になったので見ようがないが、ネットで知った断片に触れただけの感想で勝手なことを言うと、僕にはその作品群が、あまり魅力的に思えなかった。簡単に言って、カッコいいように見えなかった。

作品を作るときには、その作家の力量が確実にものを言う。当たり前のことだが、これを他人に伝えるのは難しく、客観的指標などしょせんはどこにも無いので、あとは、一種の「存在感」に頼ることになる。芸術を論じていると、結局は、そういうことになるんだ。

たとえば、思い出すが、数年前、ノルウェイへ旅行して、モダンアート美術館に入ったら、そこに有名なアーティスト(名前を忘れた)の展示があった。それは、巨大な牛一頭を縦に切断して、真っ二つにして、そのまま透明のアクリルで固め、その切断された牛の入った巨大なアクリルのボックスを二つ並べたもので、見る人は内臓を露出させた切断面の中を歩いて見られる、そんな作品だった。おそらく動物愛護の人や牛を愛する人が見たら卒倒しそうな作品だが、これは、まさに、圧巻だった。世界のあらゆることを集めたみたいに見えるその重量感と、存在感は物凄いものだった。これは、明らかに、作家のたぐいまれな力量のせいだ、とすぐに感じた。

あるいは、たとえば、僕はマルセル・デュシャンとアンディー・ウォーホールを信奉していて、事あるごとに彼らを引き合いに出すが、彼らの作品の多くは、ひどく取り留めのないものだ。男性便器に署名を入れて床に放置したり、マリリン・モンローの写真を大きく引き伸ばして赤や緑に塗ってみたり、そんなようなものだ。デュシャンのその便器(Fountainという作品名)だって、今回の中止騒ぎと同じく、当時展示されたときは、スキャンダルを巻き起こし、展示は撤去されたのである。でも、そんな混乱や喧噪や俗な社会反応をはるかに超越した、正真の芸術家としてのデュシャンとウォーホールが、その醜いドタバタ劇の向こうに、ゆるぎない存在感をもって静かに控えているんだ。

以上のような芸術家の「力量」が、あらゆる作品を芸術たらしめているわけで、そういうもののない作品は、それはただの俗な社会装置に留まる。別に作品にする必要すらない。言葉で言っておけば済むようなものだ。それで、以上の芸術の芸術たる部分はまるで理解しない人の方が世の中ではマジョリティなので、そういう人は作品から言葉やメッセージを受け取るだけで、それを判断して、いいだ、悪いだ、と言っているだけだ。結局のところ、今回だって、そういうマジョリティが展示を中止に追い込んだわけで、これは単なる社会現象の一つに過ぎず、少なくとも僕にとっては芸術本体と関わりのないことで、どうでもいいことだ。

今回の表現の不自由展で言えば、作家たちもさることながら、これを企画プロデュースした人の芸術的な力量の大きさで、その価値が測られることになるだろう。それは、この後に自ずと見えて来るだろうと思う。

どんなにまばゆいばかりの芸術作品であっても、それが作品である以上、必ず無理解な俗世間にさらされることになる。そして、その俗世間は、その作品に対し、その芸術家に対し、ピンからキリまで玉石混交さまざまに反応し、年月が経ち、その評価は落ち着くところへ落ち着いてゆく。そして、すぐれた芸術家だけが、歴史に残り、最後には教科書に載って、俗な世間も「大芸術家」として認知して、文句を言うのを止める。それは、特に、何百年も前、芸術が特権階級のためのものだけだった時代が終わり、近代になり、世間に開放されて以来、繰り返し行われてきたことだ。

そして、その芸術の価値は、やはり、芸術が特権だった昔の権威を引きずっている。でも、近代の訪れとともに、幾多の偉大な芸術家たちの努力の積み重ねにより、その芸術の「特権性」は解体されたと思う。その代わり、それは、さっき書いたように、作家とその作品の、存在感や重さというものに姿を変えたのだと思う。

結局、「芸術」や「表現」や「自由」というのは、世俗的なところには存在しておらず、それらの貴重さは独立しており、社会などという俗なものからは演繹できない。でも、特権が排除された今、芸術は特権的には働かない。だから、芸術も表現も自由も、俗な社会に対しては必ず戦いを強いられる。それは、俗社会の中の健全な営みの一つに過ぎない。いつだっていつの時代だって、そうやって戦った来たのだ。本当に価値のあるものは、決してその時代にすんなり受け入れられることはない。それは戦って勝ち取るものだ。そのためには、この現代であっても、僕たち俗衆は、「カリスマ」を必要とする。今回の騒動の中から、そういうカリスマが産まれれば幸いである。

近代になって、芸術の価値の特権が排除され、皆のものになり(民主化)、特権的な芸術価値は芸術家個人のカリスマに形を変えたが、今度は、この21世紀に、そのカリスマが排除される時代になって行くだろうか。僕が今の社会を見ている限り、それは当分、起こりそうもない。むしろ、いま、俗世間はひたすらカリスマを求めて右往左往さまよっているように見える。一刻も早く、自分が無条件で信じられる対象を見つけたいという、矢も楯もたまらぬ欲求が世間に渦巻いて見える。世界的にそうだと言ってもいいが、これは特に日本のような国では顕著に感じられる。

失礼な言い方だが、ネットで見た、この展示会に並べられた作品の数々の、弱々しい様子を見て、実は、そのカリスマの解体、みたいなことも考えた。なんだか、誰にでも作れて、誰にでも寄り添える、無名性の高い作品、そんな芸術のゆくえみたいなものを感じないこともない。たとえば、僕の大嫌いなバンクシーなどはそれを狙っているように見えるので、ひょっとすると芸術界は、無意識的にでも次のフェーズに向かって動き出しているのかもしれない。

バンクシーで思い出したが、これはどっかで書いたが、あの、数年前にあった、オークションで自動仕掛けで切断された作品を見て、僕は、今回よりもはるかに不快に思ったっけ。一連の行為があまりに貧弱で幼稚だったので腹が立ったのだ。でも、それは、僕自身が、芸術史的に言うところの、自然模倣から呪術、特権的価値、そしてカリスマへ、と形を変えながらも、常にその奥底に存在し続ける「なにか」、時代を超えて存在する芸術作品の普遍性みたいなものを、まだ未練がましく信じているからかもしれない。僕は、やはり今でも芸術至上主義なのは間違いないが、そこで言う芸術は解体前の芸術のことで、歴史の向こうの遠い過去から綿々と人類が守り続けて来た価値として理解していて、それがなければ生きていけない、そんな貴重なものなのだ。

でも、現代では、そんなものはもうないんだよ、って言われてみれば、そうかもしれない。世界というのは、つくづく流動しているものだと思う。人は、その中に、何とかして不動のものを見出そうと常に、もがいている。僕もその中のひとりにすぎないが、願わくば、自分の見出した不動のものが、「永遠」の相に届くもので、ありますように。

顧問

思い出ばなし。

社名は出さないで書くけれど、かつて7年前にとある会社をリストラされた自分は、ハローワークに通っていたことがあったのだけれど、偶然が重なって、だいぶ昔に交流のあった会社の社長に拾ってもらい、無職は二か月ほどで終わらせることができ、そこで技術参与という肩書で働きはじめた。

会社にいるとよくあることだが、社長の知り合いの年配の人が顧問と称して会社に来ているのだが、一向になにをしているのか分からない、そういう立場に自分もいたわけだ。そこは純技術会社で、百五十人ぐらいの社員の多くは技術者である。自分は特に、顧問部屋みたいな隔離されたところではなく、現場の中にデスクを与えられて、そこに毎日通っていた。

周りの人で、僕を少しは知っている人はいたことはいたが、大半の人は、あの人、あのデスクに毎日来て、何をしてるんだろう、といぶかしく思っていたと思う。社長からは技術者たちを引っ張ってくれれば、と思われていたようだが、僕はその手のふるまいが苦手で(これが自分の最大の弱点)、特にその会社の仕事などせず、研究の仕事を継続して何となくやってたり、ネットサーフしたり、という具合で、きっと周りからは、お荷物感が強かったと思う。

そうこうして半年か一年か忘れたが、ちょうど4Kが流行り始めたころで、その会社製の4Kモニターが実験室に入り、そこにグラフィックカードを積んだPCが接続されて、PCが4Kモニター上で動く環境ができた。林さん、こんなのがありますよ、と言われ、案内されたので、さっそくそこにUnityゲームエンジンをインストールしてしばらく遊んでいた。

まず、四角い箱を作って、そこに手持ちのゴッホのJPEG画像を貼って、その中をウォークスルーして4Kで絵を見てたりした。そのUnityプロジェクトを自分のPCに入れ、家に持って帰り、デザイナのカミさんにこんなのやってるだけどさ、と見せたら、せっかくならただの箱じゃなくて、美術館にしなよ、絵も額に入れてさ、簡単だから私が作ってあげる、っていうんで作ってもらい、それを会社に持ち込んで、なんとなくCG美術館みたいなのが4K上でできた。

とはいえ、自分はこれを仕事だとはまったく思っておらず、第一、その4KのPCは、超高解像度の二次元データを見せる用途のものだったのである。たまたま空いてたんで、僕が遊んでただけ。

そうこうして、技術展示会にその4KのPCを出す、って言うんで、僕も二次元データ閲覧ソフトを展示する要員になった。ついでなんで自分のCG美術館もおまけとして入れておいた。

で、展示の前々日だかになって、その4K展示の横に立って、Iさんという人に、CG美術館見せて、こんなのも入れといたけどこれは完全オマケね、って言ったら、それを見たIさんが、これいいじゃないですか、せっかく林さんが作ったんだし、こっちをメインで見せましょうよ、というので、最初僕は、えー? これ遊びで作っただけだし、メイン出し物はあるんだし、そんなことしていいの? ってあんまり本気にしなかったんだけど、Iさんが、絶対その方がいいというんで、それを見せることにした。

さて、そうこうして展示前日になった。もうずいぶん長くなったが、これが、実はこの文で言いたかったことなのである。

社員のみへの展示の前日の午後、僕が立ってるそのCG美術館のところに、社員の技術者が次々と見に来たのである。今まで挨拶もしたことない、僕のぜんぜん知らない人が、何人も来て、なんだかすごく嬉しそうに、すごくニコニコして、僕のCG美術館を見ていろいろ質問をしてゆくのである。これは、もう、自分としてはびっくりだった。

さっきも書いたように、みなにとって僕は、なにしてるか分からない顧問の人という認識だったと思うのだが、なんと、その人が自力でCGアプリケーションを作って4Kで美術館やっている、と聞いて意外だったのであろう。そのうちの一人には「林さん、あの席でこんなもの作ってたんですか! ぜんぜん知りませんでした!」ってすごく感心して言われたりした。

やっぱり技術者は、自分でものづくりをしてなんぼな人たちなので、同じ技術者としてこの人は仲間だと思ってくれたのであろう。とても意外で、かつ、嬉しかったのを覚えている。

展示当日になって来場者の受けもわりとよく、それで、これを機に、バーチャルミュージアムの仕事を正式に始めることと、相なったわけである。まあ、とにかく、人生なにがどうなるかって、分からないもんだね。

理念と魅了

また最近、Jordan Petersonの日本語訳とかやったりしているので、彼のことを考えるのと、あと、彼の周りで起こっている騒動を英語のソースで眺めてみたりすることがいくらかあるのだけど、いろいろ思うことがあるな。断っておくけど、僕はなぜだか数年前から、Petersonから距離を置いている。

世界は問題で、はち切れんばかりになっているけれど、平均した人々の生活は改善され続けている。何年か前から、これは日本でも起こったことだけれど、一般の人々が「現実問題にきちんとアクセスしろ」そして「現実の問題を解決しろ」そして「夢物語は止めろ」と言い始め、それがまたたく間に数が増え、日本では、理想を語る、ということが、夢ばかり見ているお花畑、と揶揄されるようになった。

そうなると、学校や大学の教育も「現実的」な方向に舵が切られるようになり、社会人になってすぐに役に立つことを教えろ、ということになり、とにかく理想なんかどうでもいいから、現実問題に対処する具体的能力を養え、ということになる。

実際、その「能力」を一番高度に身に付けているのは政治家という職業人で、その能力は「教え」によっては得られず、数多い実践を積むことと、あとはその人間の持つ適性(遺伝)によるものだと思う。後者はどうしようもないので、前者を教育の場に持ち込んで、いわゆる「アクティブ・ラーニング」(ワークショップを通して学生自らに気付かせる)という方法論がおおいに流行った。

Peterson先生の大学の講義をYouTubeで見ると分かるけど、彼はおおぜいの学生に向かって、とにかく一方的にしゃべりまくっている。質疑はゼロじゃないけどほとんどない。というか、あまりにしゃべりまくりなのでアクティブな学生もさすがに割り込めないみたいだ。そういう意味で、ここ最近推奨されているアクティブ・ラーニングの真逆に見える。

Petersonには信者がたくさんいる。若者が多いはずだ。彼は、要は、説教師なのだ。フォロワーは信者のノリで彼についてくる。

若者たちは、問題解決能力の取得をなかば強制され、それを得た者はそれにより自分に自信を持ち、立派な能力を身に付けた人間として、巣立って行く。というのが大人が描いたストーリーなのだが、そうじゃない若者がまた、大量にいる、ということだ。つくづく、人間というのは弱い生き物だなと思うのだが、彼らは「理論」に飢えている。「理想」に飢えている。「大義名分」に飢えている。

問題解決はできるようになったが、そもそも、その問題をどのような根本的な理由によって自分は解決しようとしているのか、ということがいつの間にか見えなくなってしまった、という風景に見えることが多々ある。

そんなところにPetersonが颯爽と現れたわけだ。彼の理論が正しいか、正しくないか、それは僕も知らない。ただ、彼には根本的な理論の極めてはっきりした「提示」がある。それに狂喜して飛びつく若者が大量に現れても、驚くにはあたらない。

僕の考えでは、大人は、やはり理論や理想を教えるべきだと思うけどね。そういう意味でPetersonに賛成する。多くの大人たちは、口を極めて彼を攻撃するが、若者たちを魅了する、というのはやはり大切だと思うよ。それら大人は、そういう安易な熱狂の虜になる若者に、常に警戒するように言い、自分の力でいいか悪いか判断しなさい、そういう能力こそ養いなさい、とか無責任に若者に忠告するが、それはねえ、ちょっと難しくて言い表しにくいけど「そういう独立心のある人間がいちばん偉いんです」という価値観の表明だよ(たぶん、これは一種のキリスト教のプロテスタント的な価値観だと思う) で、若者たちがもし、それで混乱するのなら、その価値観は、十分な説得力を持たなかったということだよ。

21世紀になって、物事は、理念と理念の戦いの場になったのだと、つくづく思う。前世紀の20世紀には、それらの理念が、大きな世界的な現象を引き起こすことが何度も起こり、それで世界は激動したのだけど(共産主義と資本主義の対立とかとか)、個人個人を動かすには足りなかった。それが21世紀では、個人レベルで起こるようになった。

誰がいちばん強い理念を持っているかによって、世界がリアルタイムで具体的に変わる、そういう世の中になったんだよ。僕には、これがものすごい「相変化」に見えるけれど、一方で、本当に大変な世の中になった、とも見える。引退して、山水の世界へでも、隠居したくなるはずだ(笑)

それはともかく、自分の考えでは、そういう理念の世界になると、大切なのは、どのように理念を構築するか、ということと、いかにしてその理念を世の中に現出させるか、の二つになる。それらが何に相当するかというと、前者が哲学、後者が芸術である。さいきん自分は、20世紀は科学と政治の時代、21世紀は哲学と芸術の時代、とときどき言っているのだけど、その理由は以上のようなものだ。

ただ、はっきり断っておかないといけないが、以上は、欧米のメインストリームのモノの考え方における筋道を示したもので、東洋、そして日本は異なる。欧米が世界の道筋を圧倒的な力で作ってしまったので、それに乗っている限り、彼らの土壌で勝負しないといけない。そのためには哲学と芸術が必須だ、と言っているのだ。

では、東洋、そして日本の独自の道というのは、あるのか。僕はあると思っているが、まだあまりはっきりしない。しかし、現在の中国の急速かつ極度の発展が、その一つの方法論を決定的に示したことは間違いない。そして、日本も、中国のように意識的にではないが、その独特の文化によって世界に、ある一つの道を示したことも間違いない。欧米のメインストリームにどうしても乗ることのできない大量の若者たち、しかも欧米の若者たちですら、日本の漫画アニメゲームが救済している風景は、見ていて不思議に思うほど世界に浸透している。

あまりに単純化しすぎているかもしれないが、そういうわけで、政府が、クールジャパンという、まったくCoolじゃない政策を推進しているのは、外してはいない。ただ、日本の筆頭商品の「コンテンツ」が、欧米価値に呪縛されて身動きできない日本政府の、正確なアンチテーゼから生まれていることは、理解するべきだと思う。では国はその貴重な商品をどう育成すればいいだろうか。それについては、また別途、書くかもしれない。

星座

小学生のころ星座に夢中になっていたことがあって、特に星座を描いた昔のドローイングが多く載っている図鑑が好きで、朝から晩まで見ていたことがあった。

さっき、ふとしたことで星座を調べたら、その小学校のときにまさに自分が見ていた絵図を見つけた。オリオン座とおうし座の絵だった。ただ、これしか見つからなかった。ネットには他の絵もあったけれど、画風が違っていて、当時の僕は、このシリーズじゃないとだめだったのだ。

星座といえば、一等星を持つ星座と、その一等星の名前は、すべて覚えていたが、特に、二つの一等星を持つ星座は、別格な僕のアイドルだった。日本の冬の夜空によく見えるオリオン座は、ベテルギウスとリゲルという二つの一等星がある大好きな星座の一つだった。

僕の見ていたのが日本の図鑑だったからか、南半球でしか見えない星座はあまり載っておらず、その、地平線の下に隠れている星座が、一種、あこがれの的だった。特に、一等星を二つ持つケンタウルス座と南十字星への想いは強くて、夢にまで見るほどあこがれていたっけ。

ケンタウルス座の二つの明るい星は、アルファ・ケンタウリとベータ・ケンタウリという名前だったが、そのネーミングが自分には安易に聞こえて好きじゃなかった。ある日、なぜだか別の図鑑を手に入れたら、そのケンタウルス座が載っていて、そこでは、星の名前が、リギルとアゲナという名前だと知って、とても感動した覚えがある。

いまになってみると、子供の自分がなぜ、星座と、その星座のドローイングと、恒星のギリシャ語っぽい名前に、それほど惹かれていたのか、あまり分からない。夢中になるのには、特段の理由はないのだろう。何かがどこかで引き合っているんだろう。

しかし、不思議なことに、自分には、その過去に感じたその夢中になっていた気持ちを、一瞬、それも0.5秒ぐらいそのままの形で思い出すことができる瞬間がたまにおとずれる。これは、一種の神秘体験で、この感じがたとえば10秒以上続いたら、自分は気が狂ってしまうのではないか、と思わせるほどに、強烈な安堵感的な快感を伴っている。さっきも、その瞬間が一回だけやってきた。

ところで、僕は30歳のときに、初めての海外旅行でスペインのマドリッドへ行ったのだけど、そこで、最終日に電車の中で鞄の中身をすられて、パスポートも財布も航空券もなにもかも盗まれ、滞在を3日伸ばしてようやく帰ってきた、ということがあった。

大変な思いをして、ようやく帰途についた、その飛行機の中でのことである。僕は窓際に座っていた。時間は夜で、飛行機の窓の外にはたくさんの星が輝いていた。そこに、地平線にだいぶ近いところに、いまでもはっきりと思い出せるのだが、くっきりと十字型に光る小さな星の一群があった。

それはなんと、小さいころ夢にまで見た、南十字星だった。

ロックのクラシック化

YouTubeを見ていると、ロックギターにしてもロックドラムにしても、若い子たちが(いや、子供ですら)、ものすごいテクニックで演奏しているのが、次から次へと出てきて、参るよね。

もう、だいぶ前からだけど、ロックミュージックもクラシック音楽化したなあ、と思っている。音楽理論と演奏法と教育法が完全に確立していて、きちんと学習さえすれば、先人たちのレベルに誰でも達することができるようになった。僕のジェネレーションのように、先生も本もなく、自己流で苦心して身につけた人間から見ると、もう、あれよあれよ、という感じで、意外とこういう事態になるの、早かったな、と思う。

実際、たとえば、音楽で仮りに彼らと戦っても、勝てないことの方が多そうだ。プレイヤーの平均レベルがここまで上がってしまうと、戦いのレベルも格段に上がる。そうなると、クラシックと同じで、極めて高度な表現力の部分で切磋して、競い合う話になるだろう。しかし、ロックのそういうの、だれが判断するんだろうね?

それにしても、これもしょっちゅう言われることだけど、ロックって音楽は元来反体制の音楽なのだけど、確立してしまったら体制側になるんで、そもそも矛盾してしまい、変なことになる。そんなのは昔の話で、反体制はロックからラップかなにか(あるいは今はまた別のがあるの?)に移ったってことで、ロックはそういう面倒からすでに解放されているのかもしれない。

最近、こういうこと書いてると、むかし話をどうしても思い出しちゃうのは歳なんだかなんなんだか、まあ、還暦だし許されるか(笑) 

で、思い出したのだが、僕は何であれ、昔から、糞真面目に粛々と何かをやっている場にいると、タイミングが悪い場合、無性に腹が立ってきて、自分が抑えられなくなることが、たまにだけど、ある。

だいぶ昔にやってたバンドだったんだけど、ある時、そこに、メンバー募集かなんかで連絡してきたギタリストが来たことがあった。真面目そうな男で、几帳面なギターを弾くやつだった。スタジオでしばらく一緒にジャムセッションした。

何曲か目にJohnny B Goodeをやったのだが、やっぱり彼、几帳面に糞真面目にうつむき加減にギターを弾いている。僕は何が気に入らなかったのだかわからないのだけど、だんだんそういう演奏をしていることにむらむらと腹が立ってきて、二回目のソロの時に暴走し、音量を全部10にしてピックで弦を無茶苦茶に引っ掻き回し、周りを無視して暴れまわり、ピックはバリバリに割れて跡形もなく、それでも指で弦を無茶苦茶に弾いてたので、右手の指の爪が割れて血が噴き出し、右手血まみれのままギターを床に放り投げ、それでようやく演奏が終わった。僕ははあはあと肩で息をしてるし、周りのメンバー茫然。真面目な若者茫然。ただ、その中に一人だけコーラス要員の女の子がいて、その子がすぐに僕に駆け寄って、僕の右手をとって「だいじょうぶ?」って言って、バッグからバンドエイドかなんか取り出して、手当てしてくれた。

はっきりしているのは、僕はバカそのものだが、その子は本当に優しい、いい娘だった。

もう今はそんな元気はないと思うが、しかしみなさん、ひょっとするといつかステージで突然発狂するかもしれないので、気を付けた方がいいですよ。でも、歳のせいで、そんときは途端に心臓マヒでバタっと倒れてあの世ゆき、というハッピーエンドで終わるかもしれんが。もしそうなったら、それは憤死というんだな。かのイヴ・クラインのように。

相性

だいぶ昔、とある街に住んでたころ、とある呑み屋つながりの人々とあれこれ遊んでいたことがあり、そのときの話。その呑み仲間のなかに、明るくて元気でよくしゃべるおばちゃんがいて、あるとき、そのおばちゃんに誘われて、家に皆で遊びに行ったことがあった。おばちゃんはバツイチかなんかで、そのころ彼氏ができて、その彼氏がむかし飲食店で板さんやってたから、料理を作ってくれるというのである。

で、台所から次々と料理が出てきて、たしかにどれもおいしかったのだけど、その料理が見事なぐらい、中流以下ぐらいの「ある層」をターゲットにした料理で、高級店では出て来ない味だけど、安めし屋とかの味でもない。食べてて、あまりにその「層」がはっきり感じられて、なんだか感心してしまった。不思議なもんだなあ、って思って。

ちなみに、その彼の歳はたぶん40半ばで、おばちゃんと付き合う前は仕事をしてたけど、おばちゃんの家で一緒に住み始めたとたん仕事を辞め、毎日プラプラしていたそうだ。要はヒモを決め込んだわけだ。おばちゃんはわりといいところで仕事してて、実入りもいい。その彼、ホームパーティーでエプロンして料理作っちゃいるけど、話を聞くとわりとろくでなしっぽい。でもちょっと男前で愉快な楽しい人だった。

それで、そのおばちゃんだけど、ものすごく人の世話を焼くのが好きな人で、いろいろ男と関係も多いらしかったが、まいどまいど、そういう、世話しないといけない男とくっついちゃうそうだ。本人、なんでいつも私が面倒見なきゃなんないのかしらねえ、早くラクしたいわ、とかけっこう愚痴を言ってた。で、それから一年ほどして、風の便りで、おばちゃんが彼氏と別れたらしいっていう噂を聞いた。

料理人とその料理、世話焼きおばちゃんとろくでなし男、などなど、世の中って相性って、あるんだなあ。っていうか、世の中、相性だけでできあがってるのかもね。

ストックホルムの移民街

ストックホルムで移民がいちばん多く住んでいる街Tenstaと、その隣のRinkebyへ行ってきた。セントラルから地下鉄で20分ほど。この地域は移民の人口が70%以上で、治安的にもスウェーデンで一番悪いそうだ。ちなみに2番手はMalmöで、ストックホルムでは無くてコペンハーゲンに近い国境で人種混合しており、治安悪化は、まあ、うなずける。
 
今回行ったTenstaは、昔、住居が不足したとき国の政策でたくさん作った、いわゆる団地に、その後、移民が多く住むようになり、今では大半が移民の地区になってしまった、という経緯だそうだ。この地域に隣接したHusbyでは、3年前に暴動が起こって街に炎が上がり、スウェーデンでこんなことが起こるのかとみな驚いたところである。要は、Tensta・Rinkeby・Husbyの一帯は移民だらけな地域なわけだ。
 
Tenstaの駅を降りて地上に上がると、別に何ということはない閑散とした街だった。駅の上にショップが並んだ建物があり、結局、それだけでほかに何もない。駅前には街並みもなく、すぐに団地がひたすら並んでいる状態だった。きわめて退屈なところで、そういう意味では殺伐としていると言えなくもない。ただ、団地を見るとそれほど老朽化しておらず、メンテナンスはされているので、スラム化とかいうのとはぜんぜん違う。つまり、ふつうの居住地区だった。唯一の違いは、歩いている人にスウェーデンらしき人がいないこと。ごくたまにスウェーデン人かな、と思う人もいたが、だいぶ貧しそうな感じだった。

Tenstaの駅前。左手の赤い枠が室内ショップの入った建物、右手はすぐ団地が続いている。奥の方に悪趣味な高層ビルが一つだけぽつんと建っている。

さて、Tenstaに降りても、何も見るものがなかったので、隣のRinkeby駅まで歩いてみることにした。団地を抜けると、ちょっとした草原になり、向こうに教会が見えた。行ってみると、教会の周りはだいぶ広い墓地になっていて、たくさんの墓石が並んでいる。ヨーロッパの墓石はいろんな形をしていてそれぞれユニークで見ていて面白い。ふと、墓地越しに立つ北欧の教会に黒い衣服の修道女が入って行くのが目に入った。この光景は美しかった。

TenstaとRikebyのちょうど真ん中あたりにある教会。周りは広い墓地になっている。

自分はスウェーデンに住んで5年目になるが、もうだいぶ食傷していて、スウェーデンの美しい風景がまったく心に響かなくなってしまっているのである。今日は、本当に、久しぶりに、僕が30年前に北欧古典絵画を通して知って、そのまま十年近く陶然として夢中だった北欧の美をここそこで見ることができて、それはとても良かった。

なんとなくゾンビが出て来そう(笑) それぞれにかなり趣向を凝らしていて、面白い。

この教会と墓地と周囲の美しい自然は、ちょうどTenstaとRinkebyの真ん中へんにあり、そこを越えてRikebyの街に入ると、また同じような団地が並ぶ。ほどなくして駅に着いた。こっちはTenstaよりは少しは活気のある所で、駅の上の広場をショップが取り囲んでいて、少しは街らしくなっている。ただ、そこを出ると、やはり同じようにすぐに団地だ。ただ、団地の一階部分にショップがいくらか伸びていて、本当に少しだけだけど、他ではあまり見られない異国情緒な店舗もあった。

Rikebyの駅上のショッピング広場。少しは活気があるが、道路とか全体がとてもきれいでゴミ一つない。

僕が行ったのが12月26日のクリスマス休暇中だったからかもしれないけど、移民が7割以上いるのに、なぜ彼らは自分の国では全開状態で繰り広げる中東アジア的カオスを、ここスウェーデンではやらないのだろう。街を歩いても、ゴミ一つ落ちていないのは、普通のスウェーデンの街とまったく同じで、中東アジアでは普通な、散らかって汚らしく放置されたところが見当たらない。

スウェーデンでは珍しい若干の異国情緒のある店。このように外にせり出して商品を並べているのを見るのは、まれなこと。

一つ気付いたことと言えば、ヘアサロンがすごく多くて、しかも、中をのぞくとお客さんもけっこういること。しかし、食い物飲酒より、ヘアサロンなんだね。僕は経済にも政治にも明るくないからわからないのだけど、スウェーデンでは移民が気軽に商売して儲けられる構造になっていないんだろうか。全世界にチャイナタウンを持つかの中国人ですら、スウェーデンではロクな街を持っていないのである。
 
知っての通り、スウェーデンは移民と難民の受け入れには非常に寛大な国の一つで、政策的にも完備していると言っていい。それができるのも、政治も、国民も、困った人を助ける慈善、異文化の許容、そして多様な人々の人権についての意識が高いからこそだ。僕もスウェーデンに住んでいて、その意識の高さは感じる。彼らにとってすごく重要な社会の要件なのだ。
 
しかしながら、こんな抜け殻のような移民地区を歩いていると、どうしても別のことを考えてしまう。
 
慈善と人権というもの自体が元来はヨーロッパのもので、それらの概念にはやはり西洋らしさが染み付いている、というか、西洋が基礎になって出来上がった概念だ。だから、それらを適用した結果できあがる社会が、西洋の枠組みと西洋文化の色をしているのは、言ってみれば当たり前のことだ。
 
街にはたくさんの異国人が歩いていて、人間だけ見ると、ここはスウェーデンか、と思うような風景なのだが、街自体は何の特徴もないつまらない場所だった。それで、どうしても思ってしまう。みな、故郷が恋しくないのだろうか。いや、ここにも仲間はたくさんいる。それは分かる。でも、異国の血は騒がないのか、こんな殺風景な街に毎日暮らして、老いて、死んで行くのか。
 
結局のところ、街自体に生気もなく、面白くないのでたいして放浪せずに、早々に電車に乗って帰ってきた。ストックホルムセントラルに戻って街を歩いていると、何の疑問もない。ここを見ている限りは、充実した古い美しい街だ。しかし、歩いていても何となく浮かない気分だった。
 
妙なことだけど、さっきまでいた周辺の移民街がもっとごみごみして汚なくて生活感満載だったら、きれいなヨーロピアンな街に帰ってきて、ほっとしてすがすがしく歩いたかもしれないな、と思った。

ナポリタン

昔、喫茶店のマスターをやってた知り合いがいて、その人から聞いた話。昼下がりの、客の少ないある日、ちょっとむさい感じの変なやつが店に入ってきて、ナポリタンをたのんだそうだ。で、ナポリタンを作って、その人のテーブルにタバスコと粉チーズと一緒に置いた。そしたら、その人、まず粉チーズをかけ始めたのだけど、それがいつまでもかけてて、とうとう空になるまで全部かけてしまい、ナポリタンの上に白いチーズがうず高く乗っかってる状態になった。マスター、カウンターの中で面白いからそのままどうするか見ていたそうだ。そうしたら、粉チーズを全部かけてしまうと、こんどはタバスコをかけるわけだけど、これがまた、いつまでもいつまでもかけてて、とうとうひと瓶ぜんぶかけてしまった。で、どうするか見てたら、おもむろに食べ始めたのだけど、2、3口食べたら変な顔して、それ以上食べず、そのうち「すいません」と呼ぶのでその人のところへ行ったら「これ持ち帰りたいんですけど」と言ったそうだ。で、マスター、そのタバスコで真っ赤になったチーズとナポリタンをビニール袋にドサドサってあけて口を縛って、お勘定したあと、はい、って渡したら、「ありがとうございます」ってお礼を言って出て行ったそうだ。ヘンな人もいるもんだ。

地獄谷のロシナンテ

大森駅の線路沿いの地獄谷の思い出を伝承している人はいるだろうか。お袋が大森に住んでいるから、遊びに行くときは、いつも地獄谷をチェックしてから行く。この前も行ってみたら、入り口近くの超老舗のラーメン屋の長崎屋がとうとう閉店していた。結局、入らずじまいだったな、残念。
 
で、これまでずっと気になっていたお店があってね、地獄谷の真ん中へんにあるロシナンテというスナック。およそ40年前、あそこは大森界隈の文学者とか芸術家とかのたまり場だった。かなり有名どころも通っていたはず、誰だか忘れてしまったけど。
 
ロシナンテのママは美人で知的で、昔の言葉でいえばマドンナ的存在だった。文化人の通う店のママとして彼女以上の人はいないみたいな、いい感じの女性だった。そういう知的な人の集まるところのママというのは、ママそのものがあまりに知的にふるまってしまうと、客だかママだか分からなくなるし、そもそも知的な芸術家系の人たちというのは、相応に我が強いもので、ママとぶつかっちゃったら洒落にならないし、客同士がぶつかったときママがどっちかに加勢しちゃったらうまくないし、っていう風に、ママっていうのは、なかなか難しいポジションだと思うんだ。

僕は常連ではなかったけれど、人に連れられて数回は行って、その様子を見ていたのである。店の常連客とかがなんか論争的な雰囲気になるときも、ママは、柳に風だったり、あるいは天然風にとぼけてみたり、はたで見ていても、本当に上手に受け流していた。ママ本人が本当はどういう人なのかは容易に分からないけれど、そのやり方が本当に素敵だった。わがままな常連客も、ママにはかなわんな、で収まってしまうのである。そんな、ママには、なんだか憧れがあったなあ。
   
で、その後、十数年たち、地獄谷とはすっかり疎遠になり、ほとんど足も運ばない状態が何十年か続いた。そしてここ十年ぐらいになるけれど、お袋のうちへ行くついでに地獄谷チェックをするようになったわけだ。

それで、年に一、二回地獄谷偵察に行き、そのたびにロシナンテの前を通るわけだけど、店の周りの敷地には、いつも大量の植物が置かれていて、店の入り口はその植物にずっと覆われたみたいになっていた。植物はきれいに手入れされているから、誰かしらが育てているのだろうけど、店が開いているようには到底思えなかった。
 
ロシナンテのママ、どうしただろう。死んでしまったかな、などと思っていた。
 
それで、ついこの前のこと、地獄谷の階段を降りたら、ロシナンテの前で、小柄なお婆さんが植物の手入れをしているのが遠目に見えた。え、ひょっとして、ママか? と思ったけど、遠くて分からず、とにかく店の方向に歩いて行った。実は、僕が店の前に来るまでのあいだに、扉から中に入ってしまったのだけど、5メートルぐらいだったかなあ、一瞬、そのお婆さんの顔がはっきり見えた。
 
たぶん、間違いなく、あれはロシナンテのママだ。面影がはっきりあった。すごく上品な感じの、いまどきは滅多にいない感じのお婆さんだったっけ。
 
僕の性格がこんなじゃなかったら、きっと声をかけただろうけど、勇気がなくてできなかった。でも、ママ、元気でよかった。

串揚げの技

奈良の穴場的な串揚げ屋さんへ連れて行ってもらった。創業37年の超老舗である。ここはメニューは串揚げのおまかせコースしかなく、カウンターの向こうで、次々と揚げている様子を見ることができる。
 
カウンターの中はたくさん従業員がいて、忙しく動いているが、ここで、創業からいるという、ほぼ引退しているけれどお店に出ているみたいな、もうおじいさんなシェフと、もう一人、たぶん30歳ぐらいのメインシェフの二人を見る機会があった。
 
それぞれの具材は串に刺した状態で、奥の調理場で用意され、カウンター内では、シェフが、これに、どろっとした小麦粉の衣をつけて、その横のパン粉をまぶして、それを揚げ油の中に入れ、揚げる。僕はしばらくずっとこの様子を見ていた。最初は、たぶん、80近い老シェフが衣を付けて揚げる作業をして、その後、若いメインシェフが同じ作業をし始めた。
 
この二人のやり方は、基本的にはまったく同じなのだが、自分的にはけっこう違って見えていて、すごくおもしろかった。
 
乱暴に言うと、老シェフは雑で、若いシェフは丁寧だった。で、その老シェフだが、何を雑と言っているかというと、衣とパン粉の付け方が一定しないのである。一本一本違うし、同じ具材なのに違う付け方をしたりする。一方、若シェフは、機械がやるように正確にコンスタントに仕事をしていた。お客さんが多いので、揚げたものを食べ比べているわけでもなく、その出来上がりについては分からないが、老シェフの料理は、適度にブレていて、幅があり、ゆらぎがあるのだけど、若シェフの料理は、いつも完成度が一定で安定していた。
 
これ、実は、いろんなところで見られる現象なんだよね。かつて僕は、芸子さんの踊りを見る機会があったのだけど、その時も、同じものを見た。年季の入った芸子さんには動きにブレがあり、若い舞子さんは動きは完璧だけどCGみたいだった。
   
ところで、出来上がった串揚げを食べる僕らとしては、いつもいつも同じものが出てくるのがいいのか、はてまた、毎回いくらか違った出来具合のものが出てくるのがいいのか、と考えると、ひょっとすると毎回違う方が、人間的でいいんじゃないだろうか。一方、もし、店や料理に特に愛着の無い一見の客によく思われたいのなら、毎回安定している方がうまく行くだろう。もし、そういう客にブレのある料理を出すと、たまたま外れた日なら2回目は無いだろうし、たまたま当たったとしても、2回目で外れたとき裏切られた感のせいで幻滅して二度と行かなくなる可能性が高くなる。
 
もちろん、この串揚げ屋の老シェフは、非常に高いレベルでブレているだけなので、上述の理屈は当てはまらないのだが、ただ、行くたびに何かが変わっている、というのは、たとえ客がそれに気が付かなくても、とても重要なことなんじゃないかな、と思ってね。
 
それに、完全に安定した完成度を常に出したいなら、最後は機械にやらせた方が確実ってことになる。昨今の流行りで行けば、老シェフの技をディープ・ラーニングに学習させ、それを使ってマシンを動かして串を揚げればいい。
 
伝統の熟練の技というのは、そういうものなのかな。機械で代替できないような動き方をする。一種の本能みたいなものかな。有機的で、技そのものがまるで生きているように命を持っている。こういうものに比べれば、機械なんてのは、まだまだ幼稚なもんだ。

402号室

神戸にいる。明日の朝、すぐにここを出て、東京に帰ってリハして夜にライブという強行軍で、大変だが、まあいいや。ホントは夜中の三宮に繰り出したいところだが、11時近い今から放浪するのは、明日があるせいで自粛かな。
 
ところで、いまいるホテルは六甲の坂を上がった地味な感じのきれいなホテルで、フロントも、初老の痩せてすらっとした落ち着いたホテルマンで何となく今どき珍しい感じ。
 
で、僕の部屋が402号室なの。これ、日本では、もうそういうタブーは無くなったのだろうけど、42はやばい数字なんだよね。昔はこの数字、避けていたものだ。でも、402号室に自分が通されたのは、僕には気分がいいことなの。なぜなのかは、大昔のブログに書いたけれど、また思い出した。
 
僕は、十年以上前、家出をしていたことがあって、三宿の古いマンションの4階の403号室に一年間ぐらい、住んで、毎日、三軒茶屋で飲んだくれる、荒れた時期があった。それで、そのマンションのその部屋を決めたときのことをよく覚えているのである。別に少しもいい所ではなかったのだけど、不動産屋に連れられてその4階の部屋に入ったら、二方向が窓で、そこから世田谷公園が見えるところだった。
 
その日の夜、僕は夢を見た。それは、その4階の部屋に自分がいて、4方全部が窓になっていて、360度すべてが深い森に囲まれていて、とても美しくて、僕は夢の中でその光景に見とれていた。そんな夢を見たせいで、朝起きて、そこにしようと思い、不動産屋に連絡してその部屋に決めてしまったのだ。
 
まあ、やさぐれた、めちゃくちゃな1年間だったが、とにもかくにもその部屋で僕は生活していた。実際に入った部屋からたしかに公園の緑は見えたけど、別に夢で見た絶景とはまるで違っていた。ただ、僕は、その部屋をけっこう気に入っていた。いろいろあって、一年後、僕は一人暮らしを止めて、またもとの家へ戻ることを決心する。
 
で、その部屋を去ることが決まった、数週間前だったと思うけど、そのころに付き合いがあった、霊感があるという怪しい人が、僕の部屋に遊びに来た。僕が、彼に、自分の生活があまりに安定しないので、相談したりしていたのである。で、彼も興味を持ち、僕の一人暮らしの部屋に来たのだった。
 
その霊感の彼、僕の部屋の前まで来て、部屋番号の403というのを見てこう言った
 
「林さん、この部屋は402だよね? 402は欠番で403でしょ? これまで402号室に住んだ人を見てきたけど、ロクなことなかったよ」
 
これはたしかにそうで、古いマンションのそこは402号室が無く、そのせいで僕の部屋は403だったのだ。僕はそれを聞いて、あっそうですか、って言ったが、とにかく、彼と一緒に部屋に入った。彼、しばらく部屋の真ん中でたたずんでじっとしていたが、やはりこういうのである
 
「この部屋はかなりやばいね。林さん、よくこんな部屋に1年も住んでたね」
 
僕は、そういう霊感的なことを、実は信じている方なので、真顔で、へえ、そうだったんですか、と答えたけど、特段にどうという実感もない。で、彼が、除霊してくれる、というので、じゃあ、お願いします、と言った。
 
彼、たしか、たっぷり一時間ぐらいかけて、部屋の真ん中で除霊の儀式をした。僕はそれをはたで見ていた。夜だった。彼、苦しそうな顔をして目をつむって、ぶつぶつ何かを唱えたりしていて、そのうち、額から汗をだらだら垂らしたり、涙を流したりした。
 
そうして、彼、ようやく除霊が終わったとのことで、僕に話かけた。たしか、彼は、こう言った
 
「ここねえ、背中から刃物で刺されて殺された女性と、やっぱり同じように殺された幼い子供を連れた女性の霊が憑いてたよ。もう、除霊したから大丈夫だけど、大変だったよ」
 
僕は、霊は信じているものの、自分では、霊を見たことも、身近に感じたこともないので、そうでしたか、それはありがとうございました、と言っただけで、一向にピンとは来なかった。ただ、きっと、そんなこともあるだろうな、と思った。
 
僕が最初にこの部屋に入ったとき、一発で気に入ってしまい、それでその日の夜に、あの美しい夢まで見させたのは、きっと、その殺された女性の霊だったんだろうと思った。きっと、僕を選んだのに違いない。それで一年後、霊感の彼が連れられて部屋に入って除霊して、きっと不幸な女たちは成仏したに違いない。
 
と、まあ、きわめて自分に都合のいいように、この出来事を解釈したわけだけど、あの三宿のボロマンションの403号室に住んだ、あの一年は、自分にとって異例に重要な時間だったのではないか、と思うようになってね。
 
そんなせいで、いま、神戸の六甲の坂の上のホテルで402号室に通されたのが、とても、いい偶然のように思えてね。なんとなく、気持ちよく眠れそうだよ。

(Facebook投稿より転載)

民生

神戸の中華街に「民生」という名前の老舗の廣東料理屋がある。僕はあの店が好きで大阪に住んでいたころ、神戸まで出向いて、よく通った。もう30年以上前の話で、もちろん震災前である。いまも思い出すあの庶民的な店内の風景。給仕はみな威勢のいい関西のおばちゃんで、いつもにぎやかだった。料理はまさに日本の庶民料理で、あれは東京でも、そして本土の中国でも食べられない、関西に独特な廣東料理だった。
 
民生定番の料理といえば、「レタス包み」と「イカの天ぷら」で、行くと必ず頼んでいた。レタス包みは、生のレタスに炒めた挽肉を乗せて巻いて食べるもので、素揚げした春雨の上に挽肉が乗って出てくる。きわめてそっけなく味付けしたパサパサの挽肉と、みずみずしいレタスの組み合わせが素晴らしかった。イカの天ぷらは、肉厚のイカに切れ目を入れて、ショウユに浸したのを素揚げして輪切りにしただけのもので、くるくると巻き上がるイカが見ていて楽しい。なんの変哲もない味だけど、まさに庶民の味で大好きだった。
 
あと、自分的にすごく感心した名人芸な料理もあった。ひとつは「かしわの炒りつけ」。これは、大ぶりに切った鶏のもも肉とピーマンとタマネギを薄いあんでくるんだ料理で、関西系広東料理の定番の、少量のショウユを加えたねっとりしたあんでまとめたもの。鶏肉のおいしさもだけど、このあんのくるみ方は絶妙だった。同じく酢豚も。こちらも、今度はブドウ色のもう少し濃い色のあんがきれいに材料の全体に薄く均等にくるまっていて、ほれぼれする出来だった。あんが皿の下にたまるようなことはなく、すべて材料にからんでいるのである。
 
味の方も、まったくに素朴で、くどさがなく、ナチュラルそのものだった。かしわ炒りつけは無理だったけど、ひところ、僕も家で民生の酢豚をまねて作っていた。あの色と粘度を出すために、甘酢に、ショウユと中国ショウユを入れて、高温の油で砂糖が飴状になるタイミングを見計らって、材料をくるむようにしていた。しかし、まあ、なかなかあのようにはいかないものだ。
 
実は、先のかしわ炒りつけは、毎回注文していたのだが、やがて、普通の出来になってしまい、それ以来、頼むのをやめてしまったりした。ああいう名人芸は、たぶん特定の料理人に結びついているらしく、その人がいなくなったり、シフトが変わったりすると、同じものは食べられないのだと思う。これは民生だけでなく、いろんな料理店で経験したことでもある。そして、なぜか、ある日突然、名人が登場してすばらしい出来の料理が出るようになった、ということはなく、年月が経つにつれ、必ず、その名人芸は失われる方向にしか行かない。思えば、不思議なものだ。やはり昔の人の名人芸というのはそうそう簡単には伝承しないものなのだろうか。
 
これら、素朴だけど、名人芸な料理を食って、サッポロビールの大瓶を飲んで、あの喧噪の中にいると、本当にいい気持ちだった。
 
その後、三年ほどで僕は関西から東京に戻り、この民生にも行くことはなくなった。そうこうしているうちに大震災が起こり、南京町はどうなっただろうか、と思ったが、確認することもなく月日が過ぎていった。それからだいぶ経ったあるとき、神戸へ出張があり、現地の知り合いと一緒に南京町の民生へ出かけた。少し小さくなったかな、とは思うものの、民生はたしかにあった。創業55年だそうでたいしたものだ。料理はどれもおいしかったが、昔の民生の風情はほとんどなくなっていた。
 
伝統の老舗の味として、レタス包みとイカの天ぷらのメニューは残っていて、どちらも味もルックスも当時のままだったが、それにしても、この二品と、他の料理とのバランスが崩れすぎていて、当の老舗の二品も、味気なく感じてしまった。やはり、お店全体の料理があのノリでできあがっていないと、ダメなんだなあ、と思った。ついでに言うと、料理だけでもダメで、あの店内の空間、給仕のおばちゃん、人々の様子、そんな時代の空気すべてと料理が、きれいにきちんと調和して、それであの魅力を作っていたんだろうなあ、と思う。やはり料理店というのは、その箱の全体が、一種の総合芸術なんだね。
 
むかし自分が足しげく通った気に入った料理店はそれほど多くは無いのだけど、その大半が、店舗はあるけれど時代が変わって、別のものになってしまった。自分は中華料理を作るのが趣味だけど、自分の料理全体がある一つの有機的な感じのもとに総合されているのが大切で、それは一代限りのもの。それでいいじゃないか。そんなことも、考える。

(Facebook投稿より転載)

まずい中華料理屋と男

これは自分が大阪に住んでいた三十数年前のことである。当時から中華料理の調理を趣味にしていた自分は、大阪界隈でもいろんな中華屋へ行ったが、そのうちのひとつのお店の話である。その店は、たぶん、自分がこれまで食べた中華料理の中でダントツにまずかったので、よく覚えているのである。さらに、まずいだけでなく、とても珍しいものを見たせいで、余計に覚えている。

おいしいと褒めるのだったら実名でもいいが、まずい、となると実名では営業妨害になるので、ここでは仮にNK飯店としておこう。名前ははっきり覚えている。それ以来、この店の自分の中での知名度は高く、NK飯店をまずい中華の代名詞としてしばらくは使っていた覚えがある。たとえばなんかまずいものを食った時「NK飯店ほどじゃないけどな」とか言ってみたり。

とても印象深いお店なので、もちろん、その後、ネットで大阪のNK飯店を何度も探してみた。平凡な名前なので何軒も出てくるのだが、いろいろ調べても、どうもすべて違うような気がするのである。僕の体験と一致しない。30年以上前の話なので、店が無くなってしまった、とするのが順当であろう。見つかったらぜひ再訪したいと思っているのだが。

そのNK飯店は、大阪市内ではあるけど、繁華街の中ではなく、なんだかむやみに広い国道みたいなところに面していた。周りにはあまり店はなく、そのNK飯店だけがそびえたっている風景を覚えている。というのは、すごく大きな店だったのだ。NK飯店とでかでかとした文字の入った、とても幅広の入り口を入ると、その一階部分は、ほぼすべて活魚を入れた生け簀で埋まっていた。すなわち海鮮系の店で、生け簀は大きなのから小さなのまで五つも六つもあったと思う。

珍しいものを見た、というのはここでのことで、いくらか問題発言かもしれないが、書いておこう。この生け簀だけの一階の右側はガラス張りの大きな部屋になっていて、そこには横長の長くて大きい俎板があり、その俎板のところに調理人の男が立っていた。調理人が活魚をさばくところがガラス越しに客に見えるようになっているのである。で、その彼を見て吃驚したのだが、自分は、いまだかつて、あんなに殺伐とした顔の人間を見たことがなく、なんと言うか、まるで水木しげるの妖怪話に描かれていそうな、独特に荒涼とした醜さがあって、あまりのことに思わず目が釘付けになった。

実は、この男をもう一回見たかったので、店を出るときもそれを覚えていてガラスばりの部屋の向こうを見たが、そのときは、もっとぜんぜん普通の人に替わっていた。

あの男は、この調理場で、二階の調理場の命令に応じて生け簀の魚介をすくって、それを調理場の巨大な俎板の上にあけ、これを生きたまま、絞めて殺して、ぶつ切りにして、皮を剥いて、さばいて、アルマイトのトレイに乗せてリフトに入れてボタンを押す仕事を来る日も来る日も繰り返していたのだと思う。ある種の人は、そんな仕事を繰り返すうちに、あんな風に殺伐とした外観になるのだろうか。思えば、類似の男性はごくたまに、マイナーな葬儀社の下働きの長いおじさんに見ることがある。

こんなことを書くと、今の世の中だと、職業差別と言われてしまいそうだが、でも、そういう厄介を抜きで見ると、まずその強烈なユニークさに驚く。中流以上の、特に富裕層の人々というのは、たいていどいつもこいつも同じような恰好と顔をしているのが普通で、そのバリエーションの乏しさに比べると、こちらは圧倒的な個性がある。そういう特殊な人を見ると、自分はなぜだかいつも言いようもなく、驚く。かつて、自分は返還前の香港へ何度も行って、そういうアジアのオヤジが集まる、ことさら汚い場所へよく出向いたが、それはそういうものに魅せられて惹かれて、その世界にどっぷりと浸かりに行っていたのである。なぜ、そういうものにそんなに強烈な感動があるのか、自分にはいまだによく分からない。

お店の話に戻るが、その一階の生け簀を抜けると、幅の広い階段があり、それを登って二階に行くと、かなり巨大なスペースにたくさんのテーブルが並んでいる。記憶では、そこはほぼ正方形で、差し渡し20メートルぐらいあってとても広く、その一辺はすべてカウンターになっていて、その向こうがそのまま広い厨房になっていた。すなわち巨大なオープンキッチンで、中ではたくさんの料理人が仕事をしていた。給仕はそのカウンター越しに料理を受け取って、客に運ぶのである。

初めて来る場所だと、だいたい僕は注文を間違えることが多い。ことさらに珍しいメニューを頼んでしまうことが多く、そういう料理は滅多に注文が来ない料理なので、だいたいこなれておらず、おいしくないものなのである。もちろん、高級店ではこの限りではないが、怪しげな店ほどその傾向が強い。その時も、僕はわりとマイナーな料理をたのんだ。料理が何皿も運ばれてきたが、どれも本当にまずかった。

特に今でも覚えているのが、鶏肉と野菜の醤油味のあんかけのようなものだったが、食べると、なんだかどろっとしたタレが泡立っていて、まるであんかけのあんに醤油と共に三ツ矢サイダーでも入れたんじゃないか、ってほど、泡立って、甘くて、なんだか洗剤みたいな味もして、激しくまずかった。他の料理もとにかくまずい。たしか焼き餃子だけはまあ、まともで、もっぱらそれを食べてビールかなんか飲んで、料理の多くは残してしまったと思う。

生け簀まであって、巨大な厨房に何十人も働く、巨大中国料理店が、なんであそこまでまずい料理を出すのか、まったく意味が分からなかった。そのまずさがあまりに印象的だったんで、後日、大阪の職場の同僚に、NK飯店がすごくまずかったんだけど、と言うと、それに賛同する人はおらず、ええ? NK飯店ゆうたら老舗やで、うまいはずやがなあ、とか言っている。どこで食ったの?と聞くので、何とかっていうとこの大通りに面した変なところにあって、と答えると、そんなのあったかなあ。そこ、僕の知ってるNK飯店と違うみたいやな、みたいに言うのである。

それで、今調べても、たしかに大阪で操業50年のNK飯店というのは出てくるが、僕の行ったのと違うみたいなのである。それっきり、行ってないし、それがどこにあったかも忘れてしまったので、再訪しようもない。そう考えると、ひょっとして、あの大通りに面した巨大店舗はなんかの幻だったんじゃなかろうか、と思ったりする。それにあの、一階の生け簀のところで僕が釘付けになったあの恐ろしく殺伐とした醜い男なんか、ほとんど妖怪のようだったし。

旨い店というのはだいたい食い物は覚えてはいるが、その店舗のことはあまり印象に残らなかったりして忘れてしまうものだが、かくのごとく、まずい店というのは末永く覚えているものなのである。

神社と婆さん

むかし、まだ二十代のころに住んでいた家の近くに小さな神社があった。

貧乏神社で、手入れもそこそこでそれなりに荒れていたが、神社の体裁はちゃんと残っていた。ただ、建物からなにから、何もかもが古かった。神社はちょっとした高台にあり、周りは坂道だらけで道は入り組んでいて、都会では珍しいほど樹木が生え放題に生えていた。境内は、背の高い木々の葉にほぼ完全に覆われていて、晴れた日でも木漏れ日が射すていどで、なんとなく薄暗い感じで、地べたは赤土が剥き出しで、粗末な踏み石が無様に並んで道を付けていた。昭和初期の神社がそのまま放置されたみたいな趣だった。

さて、ある晴れた日の昼過ぎのことである。何かの用事の後に少し回り道をしたせいで、いつもは通らないこの神社の境内を通って家へ帰ったことがあった。高台にある境内へは石段を登って行く。登りきって、土ばかりの小さな境内に出て、ふと見ると、一人の婆さんが社殿に向かってよちよちと歩いて行くのが見えた。かなりの年齢の婆さんらしくずいぶん小さく、どてらみたいなものを着て、むくんで丸々としたコケシみたいな形のまま、体を左右に揺すりながら、ゆっくりと社殿に向かって移動している。

僕は、なぜだか、その場で足が止まってしまい、婆さんのその動きをそのまま見ていた。婆さんはしばらくしてようやく賽銭箱の前に辿り着くと、そこで立ち止まり、コケシが真ん中でかくっと折れたような動きをして、手を合わせてお祈りを始めた。

そのとたんである。境内を覆い隠すような、うっそうとした葉をつけた背の高い木々が一斉に風でざわめき始めたのである。僕は反射的に上を見上げた。さっきまで風のないおだやかな空のもとで静止していた木々が、今は、揺れ、枝がしなり、葉の擦れ合うざわざわした音が境内に鳴り響いていた。少し驚いた僕は、再び目を下に移すと、粗末な朽ち果てたような社殿の前に相変わらずコケシが中で折れたようなあの婆さんの姿が見え、これは瞬間的な出来事だったのだが、その婆さんを中心として、神社の木という木がざわめいて、神社の空間全体が、この婆さんがまるで台風の目になったかのように、渦巻いているように見えたのである。

僕は、その場で唖然としてしまい、うす気味悪くなり、ふと正気に戻ると、これはやばいと思い、別の出口を目指して境内を足早に横切り、そこから脱出した。

神社を出てしまった後は、あたりは何事もなく、おだやかな日和の昼下がりの風景があった。

その後、事あるごとに、このときに見た光景を思い出し、あれは一体、自分は、何を見たんだろうと訝るようになった。今でもはっきり思い出せるほど尋常ではない光景であった。少なくとも、あの婆さんが、古い神社に宿る霊を一気に目覚まさせ、活性化させ、動かしたことは、疑いようがないと思ったし、今でも、そう思っている。やはり、霊というのは、はっきりと目にも見えることがあるんだな、と心の底から思う。

ロバート・ジョンソンとの出会い

そういや、自分が大学のときロバート・ジョンソンを初めて聞いたときのことを、まだ書いてなかった。
 
今からおよそ40年前、自分が大学一年生のとき、高校の同級生のコイケというやつとよく飲んだ。実は、このコイケは、なんと今でも年に数回は飲んでいるので、自分にはきわめて珍しい古い友人の一人である。腐れ縁中の腐れ縁なので、お互い、飲んでしゃべって、相手を全否定して、この馬鹿野郎が、とか本音をずけずけ言い合っても、一向に関係が終わらない。そういう意味では貴重な奴である。
 
それで、当時、彼は西大井の実家の近くの四畳半に下宿しており、大森の実家に住んでいた自分はわりと近く、自転車距離だったので、よくコイケの下宿へ出かけては、飲んだ。
 
大学一年で酒を覚えたての頃というのは、無茶なもんで、記憶では安酒をわりと浴びるように飲んでいた気がする。ビールは高くて買えないので、サントリーレッドのロック。加えて、やはり覚えたてのタバコをやたらと吸って、もう果てしなく言い合いに近い議論をして、しかも、若くてバカで元気なんで、そのまま酔っ払って往来に出てゴロゴロ転がってみたり、まあ、周りの人々にはさぞかし迷惑だったであろう。
 
ところで、コイケの実家は町の小さな本屋で、彼は本に恵まれており、いろんな本を彼から紹介され、僕も読んだ。そのころの自分は素直で、コイケから、これいいから読むか、と渡された本を、自分も読んで夢中になったり、彼からの影響はかなり大きかったと思う。たくさんの良質なものを紹介してくれた彼には、感謝している。そういや、ゴッホを紹介したのも彼だっけ。絵というより、ゴッホの手紙という本だったが。
 
ただ、コイケという人間は実はわりと穏当な人間で、僕のように、我を忘れて、なにがなんだかわからなくなるほど、何かに夢中になる、ということは無かったようだ。彼が夢中になった本を、僕に紹介して、僕も夢中になるのだが、僕の夢中度はコイケのそれを遥かに超えてしまうことが多かった。ゴッホなどは、いい例である。
 
コイケの話ばっかりになってしまった。問題のロバート・ジョンソンだが、これはコイケからの紹介ではない。
 
ある日、いつものように彼の下宿へ行くとき、その当時のバンド仲間のネモトというやつに借りた、ロバート・ジョンソンのKing of the Delta Blues Singers Vol.2の入ったカセットテープを持って行ったのである。ネモトについては、さらに長くなりそうなので、また別途書くが、当時の僕のギターのライバルだった。
 
僕とコイケは酒を仕入れて、古臭い木造の四畳半の畳の上に向かい合わせに座った。その真ん中に、昔の機械式カセットテレコを置いた。僕はそこにロバート・ジョンソンのテープを入れ、「これネモトから借りたんだけど、有名なブルースマンだって」とか言って、ガッチャと再生ボタンを押した。
 
チリチリチリというノイズのあと、イントロのギターが鳴り、そのあとロバート・ジョンソンのカン高い声が流れた
 
I got a kindhearted mama…
 
この光景をいまだに覚えているのだが、僕とコイケはそのまま無言になってしまい。レッドのロックはグラスに作ってはいたのだが、飲みもせず、なんだかその場で金縛りにあってしまったように動けなくなった。力が抜けてしまい、放心したみたいになってしまったのだ。
 
たぶん、こんな音を聞くのが二人ともまったくに初めてで、唖然としてしまったらしい。結局、僕ら二人は最初の曲が終わるまで、そのまま動かずにじっとしていた。1曲目が終わってコイケがぽつりと言ったのが
 
暗いな・・
 
だった。いまだにそのセリフの調子まで覚えている。そのセリフでコイケは正気に戻り、立ち上がって、つまみをがさがさと並べたり、おい飲もうぜ、とか促したり、もとにもどり、僕も気を取り直して、飲み始めた。
 
ロバート・ジョンソンはかかったままだっただろう、たぶん。でも、たぶんロクに聞いてなかったと思う。自分たちに親しい音楽とあまりにもかけ離れた音楽だったのは間違いなく、そうなってしまうと、もうどうやって聞いて判断していいか、皆目分からなくなるのだ。
 
それにしても「暗い」という感想は即座に出たわけで、僕もそれに賛成だった。自分がそのときなんとコメントしたか、忘れてしまった。たぶん、たいしたことを言ってないと思う。
 
しかしながら、その後、自分はなぜだかロバート・ジョンソンに夢中になってしまうのである(ちなみにコイケはスルーした)。あの1曲目のKindhearted woman bluesは特にお気に入りの曲で、生ギターでコピーして、歌ってみた。ぜんぜん下手だったが、それが出発だ。それ以来、この曲、自分は軽く1000回以上は歌っているだろう。
 
大学一年の僕は、ブルースはエリック・クラプトンのいるCREAMを通して知っていただけで、いわゆる白人ブルースだけだった。しかし、このロバート・ジョンソンの響きを覚えてから、Muddy WatersやElmore Jamesなど、特にシカゴブルースが分かるようになり、一気に黒人ブルース一色になってしまった。
 
コイケ言うところの「暗い」というのが、心に染みわたるように分かるようになった。そうなると、たとえば、レッド・ツェッペリンなどにもその響きが聞こえるようになった。そうそう、ハイドパークのローリング・ストーンズなんかも、そう聞こえたっけ。
 
もっとも、この「暗い」というモノの正体は、いまだにきちんと考えたこともなく、いまだになんだか分からない。でも、40年経った今でも、その感じは自分の中で再現する。
 
でもね、いま僕がロバート・ジョンソンを聞くと、もっとずっとなにか、変なモノに聞こえる。たとえばMuddyやElmoreみたいに分かりやすくないし、それは、Charlie PattonやSon Houseを持ってきても、そうで、ロバートは見定めがたい何かを持って見えている。
 
そういう意味で、彼は40年経った今でも僕にとっては謎の人で、いまだに追求をしているというわけだ。

鈴ヶ森の刑場

そういえば、大田区の大森の鈴ヶ森の刑場が、移転しようとすると、次々と悪いことが起こり、祟りだということで移転できないらしい、ということを聞いた。言われてみれば、そんなこともあるだろうなと思った。
 
鈴ヶ森刑場の思い出は以前にも書いたが、僕に強烈な印象を残した場所だった。たぶん小学生の高学年のときだったと思うが、親父に連れられ、初めてそこへ行ったのだった。当時、親父は家族に対しては強面で、昭和のサラリーマンそのものらしく家にもあまり帰ってこず、子供たちとあまり交流がなかったのだが、長男の僕はごくたまに、こうして親父に連れられ遠出することもあったのである。
 
僕の家は大森中央だったが、そこから親父と二人で自転車に乗り、鈴ヶ森に向かうのである。だいぶ遠いので、たぶん1時間以上はかかったはず。親父は歴史好きだったので、旧東海道の道をわざわざ選んで鈴ヶ森へ向かった。ここは江戸の昔は街道だったんだぞ、と親父に言われ、自転車を走らせるまだ小さな僕は、その「旧東海道」という言葉を聞いて、そのつもりで道の両側に並ぶ家々を見ると、なんだか江戸の宿屋の人懐こさがそのまま見えているようで、痺れるような快感を感じながら、自転車を走らせていたのを思い出す。
 
そうして、その旧東海道を抜けると、恐ろしく広い道路にぶつかった。いま思うとそのへんの国道なわけだが、横断歩道なんかない、まるでアメリカかどこかの3車線ぐらいの道路みたいで、大量の車だけがびゅんびゅん走っている。
 
そこを親父は、横断歩道とかへ行かず、車の間を縫うみたいにして自転車で渡るので、小さい自転車に乗った小さい自分も必死になって親父の自転車の後について、恐ろしい量の車が走る国道を無我夢中で渡った覚えがある。
 
そして、そこに現れたのが鈴ヶ森。たしかに鈴ヶ森は今でも国道沿いにあるのである。子供の僕の中の記憶では、それはこんもりとした森だった。うっそうと茂る木々のせいで中はまったく見えない。自転車を降りて、森の中を入って行き、しばらく歩くと、その真ん中に行き着く。
 
そこには、二つの石の土台が並んでいて、一つは丸穴が、もう一つは角穴が空いている。丸穴は鉄棒を立て罪人を火炙りにした穴、角穴は材木を立て罪人を磔にした穴である。差し渡し10センチぐらいのその穴には、水が溜まっていた。
 
僕はそのとき、その刑場跡の光景を見ていた。ここで「見ていた」という以上のことが思いつかない。何一つ余計なことは考えていない。罪人がどうとか、処刑がどうとか、そんなのはもちろん、およそいかなる言葉も無く、ただ、見ていただけだ。大人なら分かると思うが、ものを見るときに自分の心から言葉が完全に無くなる状態、というのはまれなはずだ。大人は必ず頭で考える。その分だけ見ることがおろそかになるのだ。
 
でも、その小さな自分は、子供がゆえに言葉はなく、ただただ見たのだ。
 
こういう経験が日本人のネイチャーにとってどれほど重要なことか、今の自分は切実にそう思う。僕はだいぶ前から、日本文化の特質の一つを「見ること」としてきた。それは僕には今ではあまりに自明なことなのだが、当の日本人にそれを言っても、それほど分かってくれる人は多くない。
 
ところで、親父との自転車散歩に戻るが、ストーリーとしては、目くるめくワンダーランドとしての、とっても快適で親しくて楽しい旧東海道を通り、その後、自動車がびゅんびゅん行き交う国道を信号抜きで横断する危険を経て、最後に森に行き着き、そしてその中心に着くと、そこに、死を象徴する静かな刑場の石が並んで終わる、という一連の流れが、あまりに「安逸 ー 危険 ー 死」という典型的な構造をしているのに気付くが、これは人生のダイナミズムそのものだろう。
 
では、あの、水をたたえた、丸穴と角穴の後に、何が待っているのだろう。どういう「再生」が待っているのか。少なくとも、親父との自転車遠征は、この鈴ヶ森の刑場のところで思い出が途切れ、終わっている。実際には、その後があっただろうに、一切覚えていない。
 
だからきっと再生は無いんだな。それは死を身近なところに置く、日本の、一種の美学だろうな。

親父の躾

Facebookに軽く書こうと思ったが誤解もされそうだし、なによりお袋が真っ先に読んで心配するかもしれないので、こっちの個人ブログにひっそりと書いておこう。

僕の小さかったころの家庭は裕福ではなかったけれど、不自由はなく、家庭環境もおだやかで、恵まれていた。親父はたしかに厳しい方だったけど、叩かれたりした覚えはないし、幼少の愛情に満ちた環境については本当に両親に感謝している。

ということを前提に、ちょっと話すが、僕は、勉学の成績は良い方だったけど、どうも素行が安定しないところがあって、親父にしょっちゅう叱られていた覚えがある。落ち着きがない、責任感がない、ふざけてばかりいるかと思うとぼーっとしている、などなどだったらしい。

その中で、一つだけ強烈に覚えている光景がある。

やはり、親父に叱られた時のことだった。当時、うちは小金井の田舎の長屋住まいで、僕が小学校の1、2年のときのことだったと思う。何かの原因で親父に叱られ、僕は家を飛び出し(あるいは追い出され)、たしか扉を閉められてしまい、僕はその扉を叩いて、ごめんなさい、もうしません、とか泣き叫んだ。それで、その後が覚えがないのだが、もちろん入れてくれず、何かを言われたんだろうか、僕はそのまま走って、隣の長屋の知っている家の扉を叩いて、助けを求めた気がする。そうしたら、そこの家のおばさんがびっくりして扉を開けて、正樹ちゃんどうしたの、みたいに言って、僕は泣き叫んでいて、そうこうしているうちに、たしかお袋が迎えに来て、そのまま家に連れ返されたと思う。その後はまったく覚えていない。

ここで面白いなと思うのが、いったい「何」について叱られたかまったく覚えていないのである。そして、僕が家へ連れ返され、親父の怒りが収まったであろう後も、いったい自分がそれで「何」を改善したかまったく覚えていないことである。

覚えているのは上述のように、自分が泣き叫んだことだけなのである。

思うに、こういう経験は恐ろしいトラウマになっているのだろうな。当の「叱られた原因」はきっと僕の心身のどこかに刻印されていて「絶対に避けないといけないもの」とみなされるに至ったと思う。ただ、今に至るもそれが何だか分からないわけで、いったい何を避けないといけないか、今の自分は知らない。

しかし、おそらく、僕が、いま、これまで生きてきた中で、ほとんど生理的な感覚を伴うまでに「してはいけない」と考え、思い、感じることは、きっとその幼少に強烈に叱られたあの経験が関係していると思う。

人の人格と、それが導く人生、というのは、そういうものが骨子になって出来上がっているのかな。僕はときどき、そういう「厳しさ」によってしつけられた「硬い規範」というのがほとほと嫌になり、そこから自由になりたいと願い、その規範をわざと破るような一種の代償行為に走ることがあるが、当の規範と正面対決をしようとはしていないような気がする。むしろ一時的な逃避であり、あくまでも代償行為に留まったりしている。

これは、自分というものが、その当の硬い規範で、なんとか持ちこたえているという自覚も同時にあるせいで、それと全面闘争できないのだと思う。人間の自由というのは、実は考えているほど大きい物でないのかもしれない。

思うに、自分は「社会的に認知され責任の伴った自由」という考え方をずっと嫌って来ており、自由というものを、社会と無関係な無制限な自由とすることを理想として来た。ところが、僕がこの人生でやってきたことは、ほとんどが前者の自由の結果であって、後者の自由の道に、僕は結局進むことはできなかった。

あの幼少の経験で、親父は僕に「なにか」を叩きこんだはずだが、それは何だったか。それを僕が自分から完全に外してしまったら、いったい僕は本当に破滅するんだろうか。あるいはそれはただの錯覚だろうか。

生理的に心身に刻印された規範というものが、社会の枠を作ってきたのは確かだろうが、僕はこれまでずっとずっとその厳しく無慈悲な規範を捨てたい、捨てたい、と思ってきた。そして、そういうものの無い世界を夢見てきた。

不思議なことに、歳を追うごとに、その気持ちが強くなってきていて、少々困る。しかし、人生はうまくできているのか何なのか、規範の無い世界へ移動するのに必要なエネルギーが、還暦近い歳のせいで不足していることも同時に感じる。

となると、いったい世代を重ねて人間社会が進んでゆく、というのはどういう意味なのだろう。正直、この歳になっても皆目分からない。

日本人のルックスと運慶

前々から思っていたが、日本人のルックスは、特に戦後、急速に変わって行った。昔の日本人はよく、胴長短足で頭が大きくて、と形容されたものだが、いま現在、特に都会にいると、足が長くてすらっとした体形で、目は大きくあごは細く頭が小さいルックスの子がとても多い。
 
この昨今のルックスだが、思うに、まだ日本人のルックスがそのようになっていなかったときの、昔の少女マンガに現れていた理想の美男美女や、少年マンガに現れる憧れの美少女のルックスをなぞっているように見える。今の若い子なんかの顔を見ると、まあ、メイクのせいもあるとは言え、大きな目にあごが細くて小顔なマンガの登場人物そのものみたいな子がたくさんいる。
 
では、なぜ、そういうことが起こるのか。
 
自分の観察した限りで言うけれど、マンガの理想のルックスの方が時間的に先に現れていて、その後に、何十年かたってその理想のルックスが現実のルックスになって世に現れていると思う。つまり、皆の総意として「美しい」と思う方向に、身体自体を自ら変化させている、としか思えない。
 
このように自らの身体を目的に沿って変化させる生物の能力を「本能」と言って、これは特に昆虫類に顕著な能力である。かれら、本当にいろいろな形態を編み出している。特に擬態はお見事で、蛾が自分の羽に蛇の絵を描いたり、じっとしていると枯れ葉にしか見えないバッタがいたり、芋虫が頭のあたりに大きな目の模様をつけていたり、あげたらきりがない。なぜ、彼らがそのように身体を変化させられるか、いまだによく分かっていないけれど、それは昆虫の能力として、はっきり目に見えている。
 
それで、さっきの日本人のルックスの変遷も同じだと思う。まず先に「モチベーション」があって、それで人間も、昆虫と同じ能力を使って、自らの身体にその形態を刻んでゆくわけだ。
 
ということは、人に知れ渡って共有された「美」の規範が先にあって、それで人間のルックスは作られて行く、という風に考えるのが自然だということになる。で、その美の規範は何によって作られるかというと、それは芸術なんだと思う。冒頭の日本人のルックスの件で言えば、マンガという芸術なわけだ。
 
結局、芸術が、美を作り出して、それが万人に受け入れられ、それが規範になって、その後、何十年かかけて、昆虫と同じ本能という能力を使って、その美の規範を自らの身体の形態に刻み込んでゆき、そして、ついに美は現実のものになる、というプロセスになっているわけだ。
 
すなわち、芸術というのは、生命のモチベーションそのものなのだ。
 
先日、運慶展へ行って、運慶の彫刻の徹底したリアリズムに感心した。彼の幾多の像を見てはっきりと感じたのは、運慶は現実にある物を忠実に写してそのリアリズムを完成させたのではなく、彼の芸術が現実を作り出す作用をしている、ということだった。つまり、彼が作り出した像のせいで、われわれは現在、物を彼が見たように見ているのだ。

先の日本人のルックスの話と関連づけると、運慶の彫刻という芸術が、その後の日本人のルックスを実際に、現実に形成したのだ。日本人のルックスというのが先にあって、それを運慶が克明に描写して真似たのではない、と言っているのだ。
 
例えば、運慶の八大童子の子供の像で、あの像にそっくりの子供が800年前の運慶の住んでる町だかにたまたまいたのかもしれない。でも、その子が、当時、回りから特別、可愛いだとか何だとか言われていたことはありそうもなく、一人運慶がそのガキ(洟垂らして小汚かったかも)を見てひらめくわけだ。そして運慶は、その平凡なただの子供をモチーフに、それを童子像として彫刻に刻み込み、そのルックスに芸術的生命を吹き込む。
 
この出来上がった像を見た人々は、それで初めて目を開かれるわけだ。なんだ、あの洟垂れのガキ、可愛いし魅力的じゃないか、と。もし、このとき運慶がその子供を取り上げなければ、そのように人民が共有する美の価値観は生まれなかったわけで、その可愛くない洟垂れガキは、単に大人になって憎たらしくなって、それで終わりだ。
 
しかし、運慶によって、この子供の新しい形態が見い出され、受け入れられ、そうして皆がそれに説得され、こういうルックスが美の規範になる。そうして、こんな顔をした子供がその後の日本人に生まれるようになり、増えて行き、そして、今現在の僕らの住んでいる町の、隣の家のガキが運慶の童子像にそっくり、というようなことが起こるのだ。
 
これが正しく歴史に起こったことで、運慶が現代を先取りしてモダンだった、というんじゃなくて、運慶がモダンを作り出したのだ、と言うのだ。
 
この逆転した発想は、芸術の世界ではごく自然なことだと思うのだけど、科学の世界ではむしろ不可解なことになると思う。ただ、以上の、たとえば冒頭の、日本人のルックスの変遷とマンガの表現について、科学的調査を行って因果関係を割り出すことはできるはずで、きっと誰か研究者がやっているのではないかと思うのだけど、どうだろう。

川ちゃん

その日は、スウェーデンから日本に着いた翌日。夕方の6時に、二子玉川の再開発エリアに最近できた高級ホテルの30階へ出かけた。高層階の大きな窓から都会の夜景が見える豪華な場所である。翌日から、スウェーデンと日本の共同シンポジウムがあり、その事前顔合わせとして、スウェーデンの大学から来た8人ぐらいの先生たちが集まったのである。

仕切っているのは、著名な研究者であり、かつ、国際協力部門の長でもある年配の教授で、ダンディーで男前な初老の人である。彼は、Tシャツ姿で現れたが、カジュアルウェアでも気品がある。リラックスした感じで、流暢な英語で、皆に向かって明日からのことについて話をし始めたが、やはりヨーロッパの上流な人の振る舞いと、身のこなしというのは、たいしたものだ。まさに世界の一握りのエリートの一人であり、その周りの人々もそうなのであり、醸し出す空気にやはりどうしても少し気後れする。

ミーティングが終わって、このあと、地上に降りて、みなで二子玉川の街のどこかでディナーということだったが、僕は、自分のノートPCがたまたま帰国早々壊れたことを口実にディナーを辞退した。PCが壊れたのは本当だったが、スウェーデンのエリート集団とディナーを囲むのは気づまりで、行きたくなかった、というのも本音だ。エレベータを降りて、かの教授が僕に、Good luck for your PCと笑顔で気遣ってくれて、彼らは駅の方向へ、僕はその逆側に向かった。

一人になった。僕は、再開発エリアの、高層ビルと、コンクリートと、街路樹しかない、がらんとした暗い夜道を歩いて、家へ向かった。家は、二子玉川と、その次のローカル駅の上野毛のちょうど間にある。

家のそばまで来たが、家へは帰らず、そのまま上野毛の駅へ向かった。どこかで夕飯を食ってビールの一杯も飲みたかったのだ。家から上野毛への道も暗い。あそこには、ところどころ森のような一角があり、そこでは道がうっそうとした木々に覆われていて、やけに静かで暗いところを経て駅へ行くのである。

駅についた。どこへ行こうか。チェーン店には行きたくなかったので、しばらく考えて、そういえば駅から少しのところの狭い路地に昔ながらの居酒屋があったのを思い出した。だいぶ昔、一度だけ入ったことがあるが、ただの町の居酒屋でなんの特徴もなく、それ以来、行っていない。店の名前は「川ちゃん」という。路地を挟んだ向かいには、カジュアルフレンチのなかなか良い店があり、僕が行ったときは貸し切りだったようで、若い男女が店の前で騒いで写真を撮ったりして賑やかだった。

川ちゃんは、昔行ったときとまったく変わらないそのままのルックスで立っていた。

引き戸を開けて中へ入ると、客はほとんどおらず、がらがらで、棚の上のテレビが大きい音をたててかかっていた。カウンターには、すごくガタイのでかい40過ぎぐらいのおっちゃんが座り、一番奥のテーブルに、店のおばさんと、婆さんが向かい合って座っていて、その三人ともがテレビを見ていた。おばさんが席を立って「いらっしゃいませ」と言って、「どうぞ」と僕をうながした。

店内にほかに誰もいないので、僕もテレビが見えるもう一つのテーブル席を占有して腰かけて、生ビールを注文した。

しばらくビールを飲みながらメニューを見ていたが、コテコテの居酒屋食で、なかなか面白い。枝豆と串カツとオムレツを頼んだ。おばちゃんがカウンターの中の厨房に入って料理を作り始めた。カウンターのおっちゃんと、テーブルの婆さんは、やはりずっとテレビを見て、それで時々、番組について無駄話や論評をしている。

どこぞの外国人の犯人が逃げたけど結局つかまったみたいなニュースをしていて、そしたら、「なによ、あれ、あんなとこ行っちゃってるわよ」「逃げたってしょうがないのにな」「そうよねえ」「日本の警察の機動力をなめちゃいけねえな」「つかまっちゃったのね」、みたいな、まったく毒にも薬も何にもならない、おそろしく平凡な会話を交わしながら、二人ともずーっとテレビを見ている。

たぶん、これは、ほとんど毎日のように繰り返される、一種の家庭のだんらんなのだろうな、と思って聞いていた。おっちゃんも婆さんも、どちらも、どう見ても態度が長年の常連なので、こうやってお店でみなでテレビを見て食ったり飲んだりするのが習慣なのだろう。もっともそう思いながらも、もちろん僕だってほかにすることがないんで一緒にテレビを見ている。

料理が出てきた。串カツは、豚と玉ねぎを交互に串に刺してフライにした純東京風にポテトサラダと千切りキャベツにパセリが付け合わせで、オムレツは卵焼きにケチャップがかかってそれがサラダ菜の上に乗った、どちらも古い家庭料理で、なかなかに感動的だった。まさに昭和の家庭の味で、とても懐かしかった。

かなりしばらくしたら、おっちゃんが「おばちゃん、カツどんちょうだい」と言った。この人、作業着っぽい服を着たホントに大きな人で、肥満というよりプロレスラーみたいな図体で、カウンターの小さな丸椅子に尻をはみ出させて座っていて、どっしりと重量級なのである。そしたら、婆さんが「あら、まだ食べるの」と言った。おばちゃんが「みそ汁つけとく? どうする?」って聞くとおっちゃんが「ま、付けといてくれや、定食と同じでいいよ」と答える。婆さんが「そんなに食べるから、あんたそんなに大きくなったのね」と口を挟んだら、おばちゃん「大きいから、食べるのよねえ」と言う。おじさんは、なんとなく「うん」とか言って取り合わず、相変わらずテレビを見ている。

結局、僕もテレビを見ながら生ビールを三杯も飲んで長居してしまった。おっちゃんはカツどん食ってとっくに帰った。その間、客は一人も来なかった。さて、オレも帰るか、と席を立って、入り口近くのレジへ向かった。それで気づいたが、知らない間に婆さんもいなくなっていて、客は僕一人だった。

レジの横に立った。三千いくらかだったので、千円札を4枚出した。おばちゃん、レジに向かって、なんだかごそごそやっている。僕は、それを見て、なぜか反射的に、ああ、なんかクーポン券でも出すのかな、と思ったのだけど、なんのことはない、小銭を数えているだけだった。釣りを受け取って、引き戸を開けて、外へ出た。向かいのフレンチのパーティーはまだ終わっておらず、やはり若者が店の外でにぎやかに騒いでいた。

僕はそのまま狭い路地を左に折れ、環八の車がびゅんびゅん通る大通りを右に折れて、家に向かって歩き始めた。

自分でもまったく意味不明なのだが、しばらく歩いていると泣けてきてしまって、どうにもならなくなった。自分がああいう、コテコテの大衆な場所に弱く、感傷的になりやすいのは知ってはいるが、それにしてもそんなことぐらいでこんなに泣けるものだろうか。

大通りを逸れて、木々のうっそうと茂った、暗い夜道を歩きながら考えた。それで浮かんできたのは、海外のエリートと一緒にいた気づまりな高級ホテルの30階と、そこから、暗くて細いくねくねとした坂道を一人で歩いて、最後に、昭和のまま時間が止まったような居酒屋で、地元の人とテレビを見ていた、その、あまりに無関係でかけ離れた二か所を細い曲がりくねった道で結んだ図だった。

これは現実にあったことなのだけど、思い起こすとなんだか夢のような光景で、きっと、何かを暗示しているのだろうな、と思った。

運慶展

運慶展を見に行ったのでざっと感想を書いておこう。

展示場に入ると、運慶の父の康慶から始まって、運慶より前の仏師によるいくつかの像があり、その後、運慶の作品群へつながるようになっている。

まず、最初にあったのが、康慶の彫った木彫の6体の座った坊さんの像で、前後しながらジグザグに横一列に並んでいる。これは、驚異的だった。興福寺には、これら6体から数体を選んでバラバラに展示されていて、自分はそれを何度も見ているのだけど、このように6体すべてが並ぶと、もう、どう見たってみな、生きているようにしか見えない。リアリズムとかそういう次元じゃなく、化け物級で、誇張抜きにゾッとして寒気がした。

木造法相六祖坐像の一つ。康慶作

次に、大きな四天王像が4体並んでいたが、二番目だったかの像がすごかった。邪鬼を踏みつける足が固定された基準で、そこから、右少し斜め上の彼方に身体の全体が持って行かれるような体の重心の崩し方にかなり驚いた。誰の作か忘れたが一派によるもの。

そのあとに、運慶の像が出てくるが、今回、二十体以上が一気に並んだそうで、ここまで大量だと、そのはっきりした性格がよくわかるような気がした。

書き飛ばしなので軽々しく言うが、運慶の造形は、これは現代のフィギュアの元祖に見えた。平安から鎌倉時代の当時の仏像の造形を、自分はそれなりには追っているので何となくわかっているつもりなのだけど、運慶の像の、特に顔つきに関しては、まさに独創的な表現で、当時の一般的な像の持つ表現から抜きん出て、顔がとてもモダンなのだ。

試しに、現代仏像というのを検索して、いろんな現代仏師の像を見てみると、運慶の彫った顔つきに似ているのがあるのが分かると思う。これは、運慶だけでなく、同時代の快慶や、一世代前の定朝の彫った顔にも似ているのだけど、これら過去の仏師たちが、現代に通じる「典型」を作ったわけで、逆に、この典型を皆がリピートしたせいで、その後独創性が減り、仏像製作が全体として衰退していった、と言われるのも分かるように思う。

運慶をフィギュアの元祖なんて言うのは軽率だけど、実は、立ち並ぶ像を次々と見ながらどうしてもそう感じてしまった。

八大童子の一つ。運慶作

別の言い方をすると、西洋の、ルネサンス前期と、ルネサンス盛期、そしてバロック、という流れがあるが、運慶の像はルネサンス盛期に相当しているように見えた。僕はかつて、スウェーデンで日本美術を紹介したとき、今回も展示されていた運慶の「無著像」を、ミケランジェロの彫刻の完成度に比較したことがある。どちらもリアリズムの究極なのだ。

無著像。運慶作

ここではくだくだ書かないけど、ここで言うリアリズムというのはホンモノの人間に写実的に似ているとか、衣服のひだが見事だとか、表情が豊かだとか、そういう意味ではない。そういった、いわゆる現実世界でのリアリズムを超えてしまうと、かえってこの世に存在しないリアリズムが像の上に作り出されてしまい、今度はそっちが魂のように機能して、逆に、この世の現実に、あれこれのリアルな人間を投影して現出させているような、そんなところまで行っているように見えることをいう。

僕個人の趣味は、西洋ではルネサンス前期のピエロ・デラ・フランチェスカだし、バロックのカラヴァッジオだし、当のピークのルネサンス盛期を敬遠する傾向があり、それと同じく、今回、展覧会から出てきたら、運慶の像より、その前の康慶や、その後の運慶の三男の康弁が刻んだ像の方に、より惹かれたことが分かった。なぜなのかを自分は知っている。自分は、相容れようのないまったく異なる衝動が一つの世界に同居している奇妙な様子が好きなのだが、ルネサンス盛期や今回の運慶には、それがあまりなく、作品のいろんな要素がすべて肯定的な同方向を向き、力強く調和しているのである。

それにしても、運慶の独創性と力量はすごい。たとえば後の方にあった四天王像の多聞天。左腕をさし上げ、その手の平に乗せた宝塔を通して天を仰ぎ見るようなポーズを取ったこの像のダイナミズムは、もう、ルネサンス彫刻そのもので、唖然とした。こんなカッコつけた多聞天を初めて見た。インド、中国由来で日本に入って来た、およそ西洋的ならぬ仏像を、こんな風にルネサンスっぽくできるなんて、と思った。

多聞天。運慶作

それにしても運慶展はすばらしい人気で、ものすごい混雑だった。仏像というのは普段はお寺にあるわけで、通常、信仰の対象なのでふつう、こんな風に間近では見られないものなのだ。あと、彫刻は平面的な絵画モノと違って、お寺へ行っても真横や後ろからは見ることはできない。いくら混雑しているとはいえ、それができるこういう展示会はありがたく、それだけでも行く価値はある。

自分個人として言うと、今回、これを見て「リアリズム」というものを再認識し、いろいろ考えた。それについては、また、後日に。

宮原誠先生との出会い

僕が宮原誠先生に初めて会ったときのことを書いておこうか。
 
あれはたしか自分が30代の前半で、NHK技研で働いていた時だ。CGを使った映像制作の研究をしていたはず。ある日、宮原誠教授が技研に来てデモと講演をする、というアナウンスがあり、それを見に行った。所属している部が開催したものなはずだけど、いったい誰が呼んだんだろう、分からない。
 
僕が覚えているのは、まずデモの様子。実験室を展示場に改装して、完全な暗幕を引いて中を真っ暗にして、そのど真ん中に、大きめのディスプレイが置かれていた。ディスプレイはやはり黒幕で周囲を囲い、ラスター部分だけが露出している。いまでも、そのディスプレイに、弥勒菩薩の白黒写真がボーっと浮かび上がっている異様な光景を覚えている。今思えば、あれはたぶん、土門拳の写真だろうな。場内は真っ暗で、入ると足元も見えず、まるでお化け屋敷だな、って思った。加えて、そこには、ディスプレイの両脇に宮原オーディオシステムがセットしてあり、何の音楽をかけていたんだろう、ぜんぜん覚えがないが、宮原先生のことだから、何かしら宇宙っぽい、包み込むような系統の音楽を選んでいただろう。
 
いずれにせよ、使っているオーディオもディスプレイも徹底的に改造されたもので、いちいちここで説明しないが、えー、そんなことしてんの? という反応が返ってきそうな「オカルト」な処置もされているのである(ディスプレイ周辺のいたるところに錘をぶら下げたりね)。その全体システムが作る雰囲気は、やはり異様なもので、僕の反応は、なんというか、真っ白であった。つまり、別に感動したわけではないが、単に、形容する言葉が見当たらないみたいな、感じ。
 
僕の記憶では、その大仰なデモの後に、先生の講演を聞いたはずだ。講義室にはそこそこの人数が来ていた。そこで僕は、宮原理論を初めて聞いたのである。それについては今までも書き散らしているから繰り返さないが、それは、その講演で先生自ら、コペルニクス的転回と称していた理論で、簡単に言うと、機器の性能を上げて品質を良くするのではなく、品質を良くするために機器のどこを改造すればいいかを知る、という帰納的方法を取る、ということだった。
 
当たり前だろうか? いや、これは少なくとも、その1990年ごろのNHK技研では、ちっとも当たり前のことじゃないのを、自分はそこにいたのでよく知っていた。その時は、機器の性能を上げて行くことに邁進していた時代だったのだ。
 
先生の講演が終わり、なにかしら質疑応答があっただろうけど、忘れた。僕は、というと、少なからずその話にショックを受けていた。僕は先生がそこで言わんとしていたことを、おそらくあやまたず一発で理解したものらしい。たぶん、心で。質問することなどなかった。だって分かってしまったのだから。これはほぼ断言するが、あの時のあの講演を聞いた人々の中で、宮原誠の言いたいことを本当に理解したのは、この僕一人だけだったと思う。
 
そうこうして、デモと講演は終わったのだけど、そのあと上司に呼ばれて、このあと、宮原先生を近くの鰻屋へお連れして飲みに行くので、林君、来てくれ、というのである。そうべいという民家を改造した技研横の住宅地の中にあるローカルな鰻屋であった。
 
そうして、そうべいの二階の座敷へ行った。たしか、部長、副部長、主任研究員、そして僕、というメンバーだった。僕だけ、ヒラの若造なのだが、こういうシチュエーションで僕はよく駆り出された。ちょっと変わった芸術系だったり、その手の理科系っぽくない件については、林を出しておけ、という了解ができあがっていたのだ。僕も技研で、相応に変人として認知されていたからである。いま思えば、大変、ありがたいことだ。
 
飲んでいろいろ話したけど、あんまり覚えていない。ただ、宮原先生の仕事の話はあまり出ず、当たり障りのない話でしばらくは進行していたはずだ。そのうちお酒が回ってきて、宮原先生の今日のデモや講演の話になった。そこで、僕は、その講演で受けた強い印象を、宮原先生に伝えた。先生が言われたことが自分には、とても良く分かります、すばらしい理論だし、着眼点だと思います、と。でも、そのあとがあって、僕は、結局、最後に先生に次のように言って、突っかかったのである。
 
「先生の理論は素晴らしいのですが、でも、なぜ先生はその理論をあのデモで見せたような狭い映像とオーディオに限定してしまうんですか? 先生の理論はもっと無限の可能性を秘めたものでしょう? それをなんで、もっと広い世界に応用しないのですか?」
 
今でも覚えているが、僕がずけずけと面と向かってこう言ったとき、先生は、日本酒の入ったグラスを片手に、優しい顔をして僕を見て微笑んで、何も言わなかった。そのあとは、もう忘れてしまった。しこたま飲んで引き上げたのであろう。
 
これが始まりであった。その後しばらくして、僕のところに、通信学会かなんかの学会誌で、芸術と工学に関する特集をするそうだから、林君なんか書いてくれ、と言われ(このように、そんな仕事は僕のところに来ていたのである)、それで「芸術の情感は工学で高められるのか」という文を書き飛ばし、提出した。その冒頭で、僕は宮原先生を讃美する文から書き起こし、そのあとは好き勝手なことを書いたのだが、とにかくも、この文はとうぜん宮原先生の目にも触れ、先生は喜んだろうと思う。そうこうして、ごく自然に交流は始まり、長年にわたり、あれこれお手伝いをしてきたわけだ。
 
ただ、僕は、先生の仕事に直接かかわりはしなかった。Webでの広報や、先生の理論を僕の理解に沿って、なるべく皆に分かりやすく伝える文を書いたり、そういうことをしてきただけだ。でも、自分の仕事についていうと、僕の仕事はいまだに宮原理論に沿っている。先生が狭い狭いオーディオビジュアルでやっているのとは別に、僕が鰻屋で先生に詰め寄ったように、その外に広がる大きな世界を相手に、その理論を応用することをしているつもりだ。そういう意味では、正しい意味で、僕は宮原誠の弟子であろう。
 
ところで、ずっとあとになって、先生に、あの初めて会った鰻屋での出来事を聞いてみたことがあった。僕がずけずけと先生に詰め寄ったとき、先生はお酒片手に余裕で微笑んで何も言いませんでしたよね? と。そうしたら、先生、こう答えた。
 
「うん、それは覚えてるけどね、あの時は、いったいどうやって質問に答えたらいいものやら、答えが思いつかなくてね、それで黙っていたんだよ」

焼肉屋にて

今夜は目黒の演奏バーへ行くことに決めていた。特にイベントも無いのだが、ちょっとした用事のせいである。休みの日にあの店に行くときは、だいたい夕方の早めに出て、目黒界隈で一人で飲んで、食べて、それから行くのが習慣になっている。ひところは、駅前のすき家で中瓶を一本ゆっくり飲んで、最後に牛丼食って、しめて千円以下に抑えてバーへ出勤が定番だった。ただ、それはバーで演奏目的がある場合である。

さて、今日は特段の用事もないからなのか、なんなのか、焼肉屋に行ってみようと思った。何件かあるのは知っているが、その中で、一番、老舗っぽい昭和な感じの店があったのを思い出し、そこにしようと決めた。それにしても、あの店、まだあるんだろうか。

権之助坂を下った中腹ぐらいの、たしか二階だったよな、と歩いていると、まだちゃんとあった。階段を上がって店に入る。

時間が早いので店内にはほとんど客がおらず、いちばん奥のテーブルに5、6人の老人団体がいるのみであった。僕は、老人団体テーブルから少し離れた、鏡の近くの席に座った。

それにしても昭和そのものな内装である。店内はだいぶ広く、照明は暗く、壁の半分は鏡で、茶色が基調になっていて、ここそこにある置物はいちいち重厚で悪趣味である。巨大な壺に派手な造花だったり、へんちくりんな大きな木彫りの像が鼈甲色に光っていたり、中国趣味な木製の屏風が立ててあったり、などなど。給仕はいかにも百戦錬磨なおばあちゃんに近いおばちゃんだ。きっと余裕で三十年以上はこの焼き肉屋で来る日も働いているに違いない。

この手の店では、ビニールに入った黄色いおしぼりが出てくる。生ビールを注文。ビールが来たとき、中落カルビとハラミ、そして白菜キムチを注文した。出てきた、焼いた、食った、別に特別うまくもなんともないが、安心の昭和焼肉だ。

爺さん団体は、入った時からずっと奇声を上げてたりして大騒ぎしている。見たところ、どうやら、みな70過ぎで、全員リタイヤしてだいぶ経った、会社かなんかの元同僚っぽかった。大声でしゃべりまくり、ときどき店のおばちゃんが参加する。それにしても、引退したジジイというのは元気だ。

僕は、自分の先輩たちがすでにリタイアし始める歳であり、そういう先輩をだいぶ見たが、引退するとパワーが3倍以上にアップする。そういうのを見るたびに「社会に縛られて仕事をする」ということに、人がどれだけエネルギーを消費しているかが目に見えるようで、いまだ社会に縛られている自分はそれを思い知らされてげんなりする。それまで消費していたエネルギーの出口がリタイヤでなくなり、それがいろんなところで噴出するのだ。

今日のリタイヤ爺さん団体もそれだった。「おいおいおい、それならなにか、コースじゃなくてアラカルトがいいってことかい」「メニューのそこに並んでるの、上からぜんぶ頼んじゃえばええ、ええ」みたいな大声と笑い声がしきりに聞こえてくる。広い店内には、その団体と、そこから7メートルほど離れた席に座る自分しかおらず、あとはがらんどうなスペースだ。そこに騒ぎ声が響き渡る。

ときどきおじいちゃんが便所に立ち、何度も僕の前を通った。団体は僕の右側で、便所は左側なのだ。おじいちゃんと言ってもまだまだカクシャクとした老人だ。一人などはブリーチアウトのジーンズとチェックのネルシャツを着て、ガタイもよく、便所から帰って、僕の目の前3メートルぐらいのところで、何を思ったか立ち止まってにやにやしている。あ、まずい、オレに声かけそうだな、と警戒したが、幸い「おーい、おい、なーにやってんだあ」とか言われたせいかそのまま席へ戻っていった。

二杯目の生ビールを頼んだころに、ようやく次の客が来た。今度は、サラリーマンの男6人だった。黒や灰色のヨレヨレっぽいズボンに、年季の入った黒い靴、そして白いワイシャツにネクタイなし、といういで立ちの人々である。予約してあったようで、おばちゃんに案内され、僕の正面の5メートル先ぐらいの横長の席に入った。

みな相応に太っていて、ズボンに締めたベルトの上に腹の脂肪がはみ出て、裾を入れた白いワイシャツが脂肪でパンパンになっている。その脂肪の垂れ下がり方に加えて、おしなべて土気色の顔色や、ペタッと少ない髪の毛、夏ということもあって、だいぶ汗臭く汚れた様子が、その全体のルックスから伝わってくる。

自分も社会が長いので、サラリーマン団体のルックスの特徴だけで、だいたいどこの層に属しているかが想像できる。おそらく、どこかの地元の中小企業の、営業の人々であろう。ズボンや靴がよれているのは、きっと、ずいぶんと歩くからだろう、と想像した。あと、脂肪と顔色から見て、仕事し過ぎと飲み過ぎの両方であろう。

最初にビールで乾杯するときに、「今日は、タチナカさんが役員になられた、そのお祝いの会ですので」と聞こえてきたので、あらためてよくよく見てみたら、一番右端の上座っぽいところに座ったタチナカさんと思われる人が見えて、なるほど、彼一人、他の五人となんとはなしにルックスと、まとっているオーラが違う。

こっちはさっき頼んだホルモンを焼きながら、目の前でもあるし、彼ら団体をずっと眺めていた。

左端の人が「今日ねえ、ほんとは声かけたかった人いたんだけどさあ、ナントカさんも、ナニソレさんも、みんな死んじゃったしなあ、だから今日はこぢんまりと6人なのよね」と言っている。まあ、とにかく会社の同僚たちもある年齢になると病気でバタバタと倒れて、そのうち幾人かは死ぬんだろう。なんといっても、過労と暴飲暴食のせいだろうな。今でいうブラックとかじゃなくて、こういう昭和な会社では、もう、人と過労と飲酒は切り離しがたく一体化して会社という箱に収まっているのであって、労働環境とか健康状態とかそういうものを客観視できないように出来上がってしまっているのだ。

そんな箱の中に生き、そして長年の無理がたたって、だいたいが60歳になるまでに、体はボロボロになり、あるときそのまま死んでしまったり、よくて半身不随、最悪、寝たきりになったりする。いかにも不健康そうな左端の人も、そんな人の予備軍に見えるので、一種の予感なんだろうか、と思ったりする。

一方、右7メートルのところにいるジジイ軍団は、そんな昭和な会社生活をからくも生きのびて、定年を迎えて、かつての不健康と不摂生を振り切って、元気なリタイアライフに突入したものらしい。見ていても不健康なところや疲れたところがぜんぜん無い。比べて、サラリーマン中年軍団は、偉くなったタチナカさんがしゃんとしているのを除いて、みな、いわば疲れ切っている。

いや、疲れ切ってはいて、顔色も悪いんだが、同時に、みなギラギラと脂ぎっていて、間違いなく精力は絶倫に見えるのが(本当は知らん)この手の会社の営業系サラリーマンの特徴なのである。おそらく風俗も行くだろうし、いまだにきれいなおねえちゃんが現れれば色目を使いそうだ。そういう意味では、精力というエネルギーはちゃんと保持していて、このエネルギーがひょっとすると、生きのびてリタイアしたあかつきに、元気の素になるのかもしれない。

などなどという、下らないことを思いながら、相変わらず、客の少ない暗い店内で、今度は豚カルビを焼いてビールを飲んでいる。

いつものことだが、やがて、自分にとってこんなに気持ちの良い時間は無いような気になる。この刹那はまさに刹那で、長続きはしないし、するはずもないのだが、これは自分にはたまらない贅沢だ。それにしても、なぜ、オレはこういうシチュエーションで恍惚とするのか、毎度のことだが、今回は少し考えてみた。

こうして、元気な爺さんたちと疲れたサラリーマンをあれこれ客観的に観察しているのを読むと、きっと、自分という人間はずいぶんとそういう人々に辛口で、下手するとバカにしているように、人は思うかもしれない。でも、彼らから離れた今この場所で描写するとそうなるが、実際の彼らは、まさにそのネイチャーと本能にしたがってふるまっているわけで、何一つとして曖昧なところがない、いわば堂々たる人々の群れに見えるのである。僕はいま言葉を弄しているが、そのただなかにいるときは、単に恍惚としているだけで、実をいうと、彼らの魂の横に自分も座って、すっかり仲間になって、成り切っているように感じるのである。そのネイチャーのままふるまう感じが、とても気持ちよく感じるみたいなのだ。

さっき「などなどという下らないことを思いながら」と書いたけれど、その瞬間に自分は言葉は一切使っていない。単に漠然と何かを感じているだけだ。それが終わった後、それを思い起こして言葉にするとなにやら辛辣な表現になるというだけで、そのときの自分はピュアな、一種、憧れに近いような気持ちのかたまりなのである。

まあ、こうして分析すると、まるで言い訳を並べているように聞こえるので、こういうのはまた後日、別に書くことにしよう。

さて、老人軍団とサラリーマン中年軍団を見ながら、焼いて、食って、飲んで、だいぶ気持ちよくなってしまい、結局生ビールを三杯も飲んでしまったが、いい加減にいい時間になったので席を立った。なんと一人で6000円を超えた。えらく高いが、まあ、仕方ない。好きで入っているのだから。

その後、目黒の演奏バーに着き、マスターに「いままで、老舗の焼肉屋にいてさあ」と言ったら「どこ?」っていうんで「某々苑だよ」って言ったら「あそこは老舗じゃない」って言うんだよね。「えー、だって、あそこすごく昔からあるじゃん、老舗でしょ?」というと「目黒で老舗の焼肉屋って言ったら、なんとかとなんとかとか幾つもあるよ。あんな高いだけでバカみたいな店老舗じゃないよ」って言われた。ああ、たしかに、マスターが正しいわ。あの昭和の店を「老舗」などというたいそうな名前で呼ぶのは、おかしいよな。

でも、もしあれが、そんな立派な老舗だったら、今日みたいな光景にはぜったいに出くわさないだろうし、やっぱり自分にとっては、ああいう店が一番だな、と思う。しかも、そういう店、減っているだろうしね、いまのうちにせいぜい通わないと。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラが封切され、日本での興行が大成功してたころ、フェイスブックの自分のタイムラインはほぼすべて絶賛で埋まっていたのだけど、元来が天邪鬼なせいもあり、横目で見て、ふーん、と反応しただけで自分はあえて見ようとしなかった。で、あれからおよそ一年たってようやく見たら、一発で参って、気に入ってしまったのである。ここ最近、世間ではとうに過去の映画で誰も何にも言ってないのに、一人で季節遅れの感想など書いててバカみたいだった。でも、自分でもなぜ気に入ってしまったのか、何となく不思議で、これのどこかが琴線に触れるらしいのだが、その正体はずっと、はっきり分からなかった。しかし、今日、なんとなく思い当たるモノを見つけたのでその話。
 
今朝、うちの奥さんと、昭和の邦画の話をしてて、外国で認められる監督と、そうじゃなかった監督の話になった。外国人に絶賛された過去の映画監督は、溝口健二、小津安二郎、黒澤明になると思う。一方、日本で絶大な人気がありながらついに外国で認知されなかった人に、木下惠介や成瀬巳喜男(死後有名になったそうだが)などがいる。ちなみに、僕の趣味がその後者なのである(ちなみに奥さんは前者の溝口健二のファン)
 
では、なぜ、そうなるのか。思うに、やはり、前者の三人には民族や時代を超えた普遍的なものが見て取れるのではないか。溝口は深い芸術性、小津はスタイリッシュな映像、黒澤は文句ないエンターテインメント性、という感じだろうか。で、後者の木下、成瀬は、良しに悪しきに、極めて日本的な風俗や感情の機微が描写されていることが多く、そのドロドロの人間劇から抽出された普遍的な「なにか」があまり感じられない。
 
これらの映画監督について、そうだなあ、と思った後、思い付いたのが、後者のタイプの木下惠介や成瀬巳喜男の映画は、歌舞伎でいう所の「世話物」の一面が強いんじゃないか、ということだった。世話物というのは、要は、江戸の当時の風俗描写で、愚かな井戸端民衆の噂話だとか、下らない夫婦喧嘩だとか、売春宿でのドタバタとか、そういった極めて卑近なものを描写して見せる一幕である。で、当時、歌舞伎の題材が仮に、心中やら討入やらシリアスなものであっても、この世話物があれこれ挿入され、それを当時の客は好んだそうなのである。
 
それでシン・ゴジラだが、右往左往する政府と無駄な会議の連続、東京の日常生活の浮遊感を残したままゴジラを眺めたり逃げたりしている一般国民の、その様子が、これは21世紀の現代日本の「世話物」の描写そのものだということに気が付いた。江戸時代の歌舞伎から、昭和の木下惠介や成瀬巳喜男を経て、現代のシン・ゴジラ、という系列に見えたのだ。どうりで、最初にこれを見たとき、これは日本人が作った日本人のための映画だ、と思ったはずだ。
 
で、奥さんに「あんな下らない会議ばっかりの映画のどこが面白いの?」って言われたとき(彼女は前半は見ながら文句ばっか、後半は寝てた)、自分は「いや、会議の部分はどうでもいいんだけどさ、ゴジラに託した象徴が美しいんだよな」と言ったものの、実は自分は会議部分も気に入っていた。でも、今は理由が分かった。これは江戸庶民でいう世話物なんだ。シン・ゴジラの脚本は、世話物としてかなりよく書けていたからなんだと分かった(帰国子女の脚本だけは、照れ臭すぎるんで、もうちょっと何とかして欲しかったけど 笑)。もっとも歌舞伎の世話物は庶民の生活を描くもので、侍社会や幕府(今で言う政治家と政府)を描くものではないので、シン・ゴジラでの政治家社会と政府を描くのが世話物だ、というのは一見、合っていないのだが、21世紀になりインターネットのせいで、僕らの政治家と政府は世話物化した、と言っていいのではないだろうか。
 
そして、ゴジラそのものの方だが、これは、歌舞伎で言う、討入、心中、怪談などのメインテーマの部分を、ここでは、そのまま「怪獣の襲撃」で描いていた、と言えそうだ。これは僕の感じ方だけど、歌舞伎のそれらメインテーマは、まったく不可解な怨念の塊みたいなもので、劇中ではいちおう、殿中事件やら、理不尽な恋やら、裏切りの恨みやら(そしてゴジラの場合は放射能廃棄物)、「理由」は提示されてはいるんだが、それらの事件がもとになって生まれた「怨念」が、途中から、もう何だか分からなくなってしまい、一種の怨念の塊のようなものに結晶し、その塊が元の理由や人間の理性から離れて独立して存在するような感じになってしまい、で、その不可解な塊が、物凄い猛威を振るってあらゆるものをなぎ倒して行く、そういうエネルギーの塊になるんだ。それは、もう、因果関係の末の正義のある闘いや破壊ではなく、一種の自然災害に近い破壊で、カタルシスの塊なんだ。
 
シン・ゴジラに登場したゴジラは、見事に、そういう不可解な塊を表していて、骨の髄まで日本人な自分には、それが極めて美しい、日本的な、あまりに日本的な「象徴」に見えたのである。
 
ここまで来ると、もう、自分が愛する歌舞伎台本の「東海道四谷怪談」との関係は明らかで、シン・ゴジラは自分にはきっと四谷怪談に見えたのだ、だから、一発で気に入ってしまったんだ。そのことが、昭和の邦画の木下惠介や成瀬巳喜男を通して、なんだかわかった気になってね、面白かった。
 
四谷怪談では、ゴジラではなくお岩の幽霊が出て来るわけだが、お岩は民谷伊右衛門らに手ひどく残酷に裏切られ、そして亡霊になって再びこの世にあらわれるのだが、もう、現れたその時は、一種の怨念の塊と化してしまっている感があり、関係者を根絶やしにするお岩の亡霊は、絶大なエネルギーと、無敵の強さなのである。特に最後のシーンは圧巻で、縦横に飛び回って、一人一人に憑りつき、結局、皆殺しにする。
 
そして、シン・ゴジラのゴジラと同じで、出ずっぱりで皆がそれにかかずり合いっぱなしになっているのではなく、時々しか出て来ないし、それ以外のときは、皆はまたいろいろな事をしていて、その間、幽霊は、潜伏していたり、止まっていたり、ちょろちょろと皆の口の端に昇るのみなのである。それで、出て来るときは、まるで、いきなり現れた、台風や、稲妻や、土砂崩れや、地震や、津波みたいに、強大で、不可解な力をふるうのである。
 
シン・ゴジラを見た自分には、その世話物として描かれた政治ドタバタ劇と怪獣退治劇、そして、それらの浮世話とは無関係に存在する、強大な力で世話物の舞台をなぎ倒して火の海にする怪獣のゴジラが、とても芸術的な意味で、美しい、日本的な図式に見えたのである。
 
シン・ゴジラが海外興行で大失敗した、というのも、それゆえにうなずける。木下惠介や成瀬巳喜男が世界的監督になれなかったのと、同じだし、江戸の民衆芸術である浮世絵や、歌舞伎や、あるいは俳句や、そういったものが西洋人に誤解されたままの形で理解されている、ということとも同じなのだ。自分は、それなりにインターナショナルな人間なんだけど、西洋人には、ああいった日本の美の本質は分からないだろう、と推察する。そして、これは、裏を返せば、日本人の僕には、西洋の思想の核は、いくらそれで育ってきた自分とて、やはり最後の最後には分からないだろう、と推察するのである。

人生のコース

ふと思い出したことを書いておくか
 
およそ30年前、自分はNHKに就職した。その最初のころ、同期の集まりのようなことがあり、会場を借り切り、皆で酒を飲み、あれこれとイベントがあり、そこで最後にビンゴをやることになった。当時の自分はビンゴを忌み嫌っており(なんでだろう?)、みながワイワイとやってるビンゴを横目に、紙に触れもせず酒を飲んでいた。それを見咎めた同期の一人がいて、林おまえなんでやらないの、というんで、下らないからやらん、と言ったら笑って、なんだよ、おまえ、郷に入れば郷に従うっていうじゃん、と言った。
 
それを言った彼を、実際俺が好くはずもないが、でも、部署は違っていたし、ほとんど交流も無かった。彼はその後、NHKの出世コースに近いポジションを転々とし、けっこうな働きをし、同時に、二児だか三児だかの父として家庭を持ち、少なくとも年賀状で確認する限り、頭のよさそうな子供たちもすくすくと育ち、子供たちも問題ない人生を送れそうな感じで送り出したようだ。
 
一言で言って、申し分のない人生。
 
一方、俺の方は、NHKを辞め、事業を始めるが失敗し、一時失業し、スウェーデンに拾ってもらいここにいる。そして、バツイチで、子供もなく、正直、まっとうな人生を送っていると言い難い。もちろん、下も上も見ればきりがないわけだが、幸いにも自分は幸福な子供時代を送ったのだけど、そんな自分の生まれを思うと、自分はそれに見合うだけのことをしているか、はなはだ疑問である。
 
先に書いた俺の同期の一人は、すでに30年も前に自身の生きる道を分かっていたのだ。だからこそ、彼は仕事でも家庭でも、その道を外すことが無かった。それに対して、恐ろしいことに、俺の30年前は、将来の自分のあるべき姿についてのイメージはゼロ、それも正真正銘のゼロであって、自分の身にこれから何が起こるかなど、分かりもしなかった。というか、人生のコースという概念そのものが無かった。
 
で、なんでこんなこと言ってるかというと、俺と同じように、40過ぎても、50過ぎても、どうにも人生をうまいこと送れていない人に言いたい。
 
ノープロブレム
 
と。俺たちは、かけがえのない、自分だけの人生を送っているのだ。それはもう、この広大な宇宙でたった一回、自分にしか起こらない事なのだ。それは、俺たちの社会で査定される地位とかには金輪際、関係がない。だから、どんな人生だからって、悩むことも負い目を感じることもない。孔子さまは四十にして惑わず とか言っているが、そんなのは放っておいていい。
 
と、自分に言い聞かせてるんだけどね(笑

(Facebookで自己最多いいねがついた文なので転送しておくが、自分的にはなぜそんなにいいのかよく分からない)