月別アーカイブ: 2010年9月

仏陀の死とイエスの死

仏陀が死んだとき人はもちろん、猿も、犬も、虫も泣いた、およそすべての生き物が仏陀の死を悲しんで泣いた、という逸話を思うと、アジア人のオレは心の中に涙が流れる。

それに対して、イエスの死を描いた絵には、猿も犬もいやしない。人間だけがいて、みな悲しみに歯を食いしばって泣いている。

飲んでるサラリーマンは動じず

飲んでいるネクタイサラリーマンたちはいかなることにも動じない。なので、どんなにインパクトのあることが飲み屋で起こっても、実質的にはのれんに腕押しで終わる。まことに、飲んでるサラリーマンほど動じない人たちっていない。彼らにとって飲み屋は、彼らが宰領する宮殿のようなものだ。

検索で未来予想するのは馬鹿げている

かつて検索とは、蓄積された過去の事実から今の目的に沿った情報を取り出してくる行為であったが、現代では「検索は過去を探ること」では必ずしもないと思う。「いま」という言葉には状況に応じて幅があり、最近の、たとえばツイッターなどの情報登録スピードと検索エンジンクローラーのスピードを考えると、現代では、十分に「いま」を検索できる。

「いま」を検索できるようになると、それを材料に「未来」は十分語れる。しかし、本当の意味の「未来」というのは、アラン・ケイの言うように「発明するもの」なので、未来を語るには、実は、いまの情報より過去の蓄積の方が遥かに重要だったりする。

「いま」が検索できるようになった恩恵にあずかることで、検索行為によって未来が予想できるようになったのだが、それを実際にやっている人たちが結局「似たような未来」に行き着いてしまい、さらにその大半が実際に外れてしまう、ということが起こっている。この罠は、実は、ネット上に大量に存在する「未来予想が科学的に可能だと信じている愚か者たち」が発する「予想を語る言葉」がこれまた蓄積されて、それを検索が引っ掛けてしまうところにあるのではないか。

と、いうことで、未来を発明できる賢い人になるには、地道な教養の蓄積が必要だ、という昔からありふれた結論に到達してしまうわけだ。

人間心理の最深部エス

オレがフロイトを学んでショックだったことは、人間の心には我々がまったくコントロールできない理不尽で強大なエネルギーのかたまりの「エス」というものがある、ということを教えられたときだった。

そして、少し救われたと思ったのは、あなたが怖がっているそのエスはそんなに恐ろしいだけのものじゃないんですよ、たしかにコントロールはできないけれど死んでしまった過去の親しい偉人たちもそこにいるんです、とユングに教えられたときだった。

たとえばゴッホの画布の上にはこのエスが目に見えている。それはフロイトが言うように恐ろしいし、ユングが言うように親しい。その、両方だ。

仏陀とイエスの発した言葉

仏陀という一人の人間の言葉は、改変に改変を重ね、おそろしい数の亜流仏典を生み出した。イエスという一人の人間の言葉は、信じがたいことに今でも新約聖書というたった一つの書物に記されている。アジアとヨーロッパの違いだよ。そしてオレはアジア人。

著作権がキライだ

インターネットが流行りはじめて、ホームページというものを個人で作って公開できるようになったころ、よくお目にかかったのが、ページの下に、いちいち「無断転載を禁じます」とか「すべての著作権は××にあります」だ、どうのこうのというせりふ。なんだか素人くさいページ作りの、ゆるくて、のほほんとしたページの雰囲気と明らかに不調和な、脅し文句のような著作権主張の文句が出てくるたびにそれ以上見る気をなくしたものだ。

さいきん、あまり見かけなくなったのは、著作権法の趣旨がそれなりに一般化したからだろうか。それにしても、どうでもいいような写真や文章についてこれ見よがしに「権利」を主張する、という態度はなんだかお里が知れる、というか、オレはイヤだな。

さて、こと作品ということに関しては、自分は、著作権とかセキュリティとかモラルとかいった規制に関わるものはまったく必要ない。ただし、たとえば、作品につき「モラル」というものがもし世の中に無いと、「インモラル」の存在もなくなるのでそれは困るという意味だけで「モラル」が必要だ。そういう意味で、自分の性根は、骨の髄からヒッピー的、ハッカー的なのだが、ヒッピーやハッカーだけで生きてゆくのもツライのよ。妻も子供(はない)もあるし。

しかし、著作権って言葉、ホント嫌いだ。オレのホームページは著作権表示はもちろんなく、コピー、改変、横流し、悪用、全部OK。それで今のところ目立ったトラブルもないのはそれほど人気がないからだけど。

それにしても、ああ、権利、権利。権利なんてなくなっちゃえばいいのに。そうすれば義務もなくなってせいせいするよ。権利と義務のせめぎあいの中で化かし、化かされ、なんていう茶番から離れて、自身の自然な行動で他人と助け合っていければ、それが一番いいじゃないか。少なくとも、理想では、そうあるべきだと思う。

みな、昇天

ジミ・ヘンドリックスの未発表のヴァリーズ・オブ・ネプチューンという曲、ああ、この、高揚感、浮遊感、高速で流れるエネルギーの束、心底すばらしい。

なんだか死ぬ寸前のきらめきというか、ドストエフスキーによると癲癇の発作の直前にこの世のものとも思われない調和と幸福の瞬間が襲ってくるそうだが、そんな感じでも、ある。

ゴッホの絵にもそういう浮遊感のあるものが、ある。サンレミの囲いのある土地に昇る日の出の絵とか。

あと、ニーチェにも。ツァラトストラや、この人を見よ、アンチクリスト、そして、偶像の薄明の恐るべき晴れやかさ、透明感、高山の空気。

どいつもこいつも、みな、昇天って、ことだ。

人生とは

「人生とは、いかに生きるべきか」である、なーんていうことを心底真に受けると後で大変なことになるのよね。それに、そんなことを言うのはほぼ例外なく男だけ。「人生とは、何を手に入れるかである」ってのが順当なところでしょう。しかし、「人生とは、業務です」ってのもあったっけ(笑) 実はその言葉を読んで、しばらく考え込んじゃったよ。結局、「人生とは、人が生きることである」ってのが一番正しい感じだな。ただ、これじゃ、当たり前すぎ、あるいは、高尚過ぎるせいで、何の役にも立たない。

書かないと考えない

オレは手を動かして文章を書かない限り、ほとんどものを考えない。なのに文を書けば思考のようなものが現れる。オレは一体、それをいつ考えたのだろう? 「思考」というのは現れてしまえば、論理的な連鎖や時間順の展開などによって構築された代物なのだが、現れる前には、論理も時間も伴っていないヘンチクリンなカタマリだったわけだ。