遠近法の周辺

前回、遠近法についてけっこう長々と書いたけど、ここではその周辺など。

昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない、だって見たまま描けばそうなるはずだから、という発言はどこがおかしいかについて、前回、くだくだと書いた。実際、この問題にはいろいろな切り口があるはずなんだけど、反応してくれた人たちからは、認知科学的な問題ですね、というコメントで、なるほどな、と思い、僕の文章も結局は認知科学的な展開になってしまったな、と感慨した。

ここでは、後日談というわけでもないのだけど、本当のところ、なんでこんな些細なことに自分がこだわるかについて書き足しておこうと思う。

僕の前の文は、たしかに認知科学的な、「みなが同じものを見ているかどうかの保証はない」、という論理展開になっているのだけど、実は僕はその手の認知科学的なことについてはそれほどこだわる者ではない。数年前、廣松渉という日本の哲学者の「新哲学入門」という新書に、たまたま古本屋で出会い、けっこう夢中で読み、そこに展開されていた従来認知科学の根本的間違いの指摘についてとても共感し、かつ、かなり新鮮な発見もし、不思議の感にも捕らわれた。

ただ、廣松渉に習ったことを、それほどの困難もなくほぼそのまま自分は納得したので(とはいえ、本人も断っているが、従来型の認知モデルの全否定なのでそうそう分かりやすいものではないのだが)、それで一応、人間の認知についてはそれ以上追及する気にならなかった。長くなるのでここで廣松渉の論を紹介はしない。自分は、この哲学者のこの論に出会うべくして出会ったんだな、と思ったのみだった。

というのは、僕は、特に視覚については、過去にとても切実な体験をしていて、自分にとってそれはとても大切な経験で、視覚をはじめとする人間の認知のメカニズムに関してはほとんどすべてその特異な個人的体験を元に判断できたからだ。そんなわけなので、遠近法に関するくだんの発言にも即反応したし、そして、廣松渉の説をさほど詮索せずともまるごと理解したのだった。

その体験とは何かというと、それは絵画との出会いである。

自分が絵画に出会ったのは、もうずいぶん前のことで、数えてみるとすでに25年以上も前になる。1985年に上野の西洋美術館で開催されたゴッホ展で見たものが、その出発だった。ゴッホの画布との出会いについては、これまた長い話で、ここで繰り返さないが、以前、雑文として書き綴ったものがあるので、紹介だけしておく。以下である。

http://hayashimasaki.net/zatubun/gogh.html

この体験は実際、強烈極まりないもので、こんな、まるで宗教で言うところの「開眼」みたいなことが平凡な自分にも起こるんだ、と、ほとんど訝しく思うぐらい物凄いものだった。この体験の後に、自分は膨大な西洋古典絵画の世界に入り込み、さらにさまざまな体験を重ねて今に至る。

そんなわけで、絵画というのは自分にとっては、ただの楽しみや、慰みや、好奇心とかいうものを遥かに超えたものだったのだ。もっとも、さすがあれから25年以上も経った今では、すでにだいぶ落ち着いているので、そんなに過激なものは無いのだけど、夢中だったさなかにはずいぶん極端に逆説的なことを言いまくったような覚えがある。

ちなみに、その入り口となった画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについては、出会った後、10年ぐらいの間、ひたすらその芸術を追及し、最終的にまとまった文章を書いて書籍として自費で出版した。自費なので、少数のごく近しい人たちが読んでくれただけで、それ以外に特段に何事も起らなかったが、自分はそれでもよかった。その本は、ゴッホが自分に与えてくれたものに対する感謝のしるしだったのだ。

ところで、最近、この本を電子化してフリーで置いておいたので、もし興味のある人はのぞいてみてください。下記です。

http://hayashimasaki.net/goghbook.html

さて、僕は前回の文で、「遠近法とはたくさんある絵画の手法の中の単なる一つに過ぎない」、と書いた。そしてその、「一つに過ぎないもの」をことさらに取り上げるのがおかしい、と書いた。このものの言い方はずいぶんと穏当なもので、特段はっきりした主張でもなんでもないのだけど、実は、自分の本心としては、もっとずっとずっと切実なものが背景にある。

それではよく知られたゴッホの絵をいくつか見てみよう。彼の絵は遠近法にだいたい沿って描かれている。しかし、ところどころ遠近法に反して描いていることもある、そして、たまには遠近法などまったく無視して描いていることもある。そういう意味では、ゴッホは、遠近法という手法を使うべきところで使い、使うべきでないところは使わない、という取捨選択で絵を描いているように見える。

しかしながら、実際に彼の絵の実物を見てみると、そこから立ち上がってくるオーラは、そんな、遠近法という手法を、使ったり使わなかったり、などといういわば呑気なものではないのだ。世の中で遠近法と呼ばれている手法は、ゴッホという画家が画布を塗るにあたって駆使する他のさまざまな手法や、計算や、衝動や、高揚や、そして、悪戦苦闘や、計算違いや、弛緩や、失敗やその他もろもろと一体になっていて切り離せないようなものになっている。そういうことが、もう塊のアマルガムのようになっていて、分離できないのだ。

いや、これではあまりよくないな。まるで、ゴッホが精神の高揚のあまりすべてをいっしょくたにして情熱の赴くままに画布を塗った、みたいに聞こえてしまう。

実は僕が彼から徹底的に学んだことは、絵はなんらかの創作の情熱をもって描かれたかもしれないが、出来上がった絵には絵画的な調和だけがあり、そして、その調和と情熱にはほとんどなんら因果関係がない、ということが実際に絵画芸術の上に「起こる」という事実だった。僕がゴッホから受け取った贈り物は、絵画芸術に対する「情熱」ではなかったのだ。むしろ、その正反対のものだった。それを自分は、「物言わぬ色と線」と考えていた。そして、先に紹介した自費の本にはそれについて書いたのだった。

いや、もうこのへんで止めておこうか。以上の事柄を説明するのは相当に骨が折れし、それに、それは、かつて自分が書いた本の中ですべて言ったことだ。

最初の遠近法うんぬんに戻ると、「視覚」について、なんらか開眼に近いぐらいの切実な体験をしてしまうと、「遠近法? それがどうした」、みたいな感じになってしまう、ということで終わっておこう。中途半端な文で申し訳ないが、せっかく書いたので残しておく。

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