ちょっとエッセイに近い芸術に関する真面目論評をこの前書き上げ出版社に送ったら、ゲラが返ってきた。改めて全体を読み直してみたら、あれ? なんだか、おかしい。全体を読んでみた印象がすごく平板な感じなのだ。オレってこんな風に書いたんだっけ?
後から知ったのだけど、校正の人が文体の大半を修正していたのだった。文章は分かりやすくなっているが、僕の文体のリズムは失われていた。先方も仕事だということを理解できるので、別に怒りはしない。まったく、そんなことはなかったんだが、文体って、なんだろう、と、ちょっと考えちゃったよ。
それにしても、ここ数年来、ずっと、自分は、プロの文章とアマチュアの文章についていったいどっちが本当に他人の心に届くのだろう、と思うことが多くなった。いわゆる名文と呼ばれる文体がほぼ過去のものになってしまい、現代ではその人の文体というのはその人の衣服みたいな感じになっている。そのせいで当然、文体が氾濫していて、さらにそれらを楽しむ、という余裕もできあがってきた。
逆に、名文の衰退と共にプロの文体というのもなんだかわからなくなり、だんだん画一化し、サラリーマンのスーツみたいな印象のものが増えたように思う。色とりどりのアマチュアの文体をファッションとして楽しむ、ということが一般的になってしまうと、変わり映えのしないスーツファッションはどれも退屈なものに見える。
まあ、以上が、昨今のプロとアマの文体の自分の感触である。それで、こうしたことを元に考えると、プロに修正してもらった自分の文章は、たしかに「プロの文章」になっているんだけど、やはり、その「いい加減なブレのある文体の個性」はなくなってしまい、私服を脱がされて無理やりスーツを着せられたみたいで、そんな風になってしまった文章はやたらと平板だ。
さて、どうも自分の文体を大幅修正をされたことに腹を立てて書いているみたいに思われるかもしれないが、実は、自分の知っている別の知人の文章も同じプロの人が校正して文体改変されていたのだ。僕はその人のオリジナルの文章を読んでいて、多少文は乱れているが、その人の性格そのものが飛び出してくるような溌剌とした文体を自分は知っていたのだ。そのすばらしい文章エネルギーは修正後はかけらも無くなっていて、とても残念に思ったのである。
以上は、そういう時代の成り行きなのか、単にプロが怠慢なだけなのか、よく分からない。もちろん文章は文体だけではなく、内容というものがあるのは当然のこと。以上は文体だけの、話である。