孔子の弟子

孔子の弟子の一人に子路っていう人間がいて、彼はなんだかすごくいいヤツなんだよ。もっともオレはこの孔子の弟子の子路を、中島敦という昔の文士の「弟子」という小説で先に知ったのだけど。この中島敦は教科書にも載っている有名な人らしいね。

子路は、一途で、不器用で、血の気が多く、考えるより実行するタイプの荒くれ男風の人物像なのだ。子路は字で名は「由」というのだが、孔子の言葉で、この由について言った片言がいくらか残っていて、読んでいると何だか不思議な愛情を感じるんだな。

その中の一つに、うろ覚えだが、こういうのがある。子路は常日頃から自分自身に、いにしえの詩で言われる「出すぎたことをしなければ良くないことは起こらない」という文句を繰り返し言い聞かせていたそうだ。それを見た孔子は「そんなことで、何が良いことが起こるものか」と言った、というのだ。

僕の持っている論語の解説本には、この逸話について「孔子は、積極的に事を進めることこそ大切だ、といましめたのである」などと書いてあるが、そんな馬鹿馬鹿しい当たり前のことを書かないでくれよ。子路は自分の積極性が落ち着いて定まった方向性を見出せないことを痛感していたからこその態度だったはず。孔子は子路のそういう性格をよく知っていたので、きっと「そんな風にして何が良いことがあるものか」という言葉を、微笑みながらちょっとからかうように子路に投げかけたのだと思うよ。そこに現れているさりげない孔子の子路に対する愛情や気遣い、子路の実直さや、その他もろもろに感動するんだ。

先の解説本しかりだが、論語の儒教的な解説というのは、あまり面白くもない感じだな。もちろん儒教は論語が基礎になっているわけが、何だか当の孔子の人間像とずいぶんかけ離れてしまっているね。孔子は、儒教で言うところの聖人君子なんかより、ずっとずっと人間臭い、愛すべき人間だったと思うよ。先の子路に言った言葉とかを読むと、オレにはそう直観できる気がする。

まあ、それにしても、学者ってのは、大半、アホやのう~(笑) あと徒然草を研究してる学者も、ずいぶんつまらない解説を書いてるよ。同じくパスカルのパンセにも、あるいは、さいきん流行のニーチェのアフォリズムの解説もね。だから、まず対象を好きになって、あとは、自分がそれに感じることを素直に信じた方が、ずっといい。

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