またまた図書館で借りてきた時間論って本をめくっていて、時間というのは錯覚かもしれない、なんていうのを読むと頭の中がぐるぐる感じたりする。はたまた、「未来」というのは単なる概念であって存在しない、とかね。
月別アーカイブ: 2010年9月
上野の西洋美術館と国立博物館
上野の西洋美術館はイマイチだが国立博物館は秀逸、そりゃ日本だもんな、仕方ないさ。
ギリシア神話
うちに薄っぺらいギリシア神話の文庫があったから読んでみた、縛られたプロメーテウスというやつ。ギリシア人はこういう神々を持っていたんだな。あまりに大きくて、くっきりしていて、あいまいさが皆無な、明るい風景に、唖然とするほど。
哲学者の食べもの
ニーチェは、哲学者たるものまず風土と食物に気を配らないといけないと言っている。彼のいち押しの食べものはピエモント料理だそうだ。ピエモントを調べてみるとイタリアのトリノがある州だ。どういう、料理なんだろう。
ニーチェ
発狂直前に書かれたニーチェの文章は、すでに哲学ではなくて奇妙な芸術作品に見える。
ゴッホのデッサン
ゴッホが最後を過ごした土地オーヴェールで、死ぬ少し前に描いた、市役所前の広場の変哲ないデッサンがある。午前中、むかし買った画集に載っていたこのデッサンをずっと見ていた。それにしても、こういうデッサンはいったいどうやったら描けるようになるのか。見ていると、たった一枚のちっぽけなデッサンの中にすべてがある、と言いたくなる。
51
51にもなって人生とはなんだ、と考える。孔子さまには天命を知る歳と言われているのに。
数学者
数学者は、数学だけで生きて行けると、数学者に、聞いたことあり。
情報衛生術
過剰な読書により人は考えることができなくなる、とは大昔から言われていたこと。ショーペンハウエルの「読書について」って本を読むと痛快だ。「本は読むな」、とか乱暴なことが書いてある。現代にこそ通じる情報衛生術だ。
情報過多の世は考えるより選ぶ方がいい
ネット上の情報過多にずっと接していると、結局、それらの情報を通してものごとを知れば知るほど、人間の知識は平滑化して行くのではないだろうか、という話を聞いた。ここで、「情報を、処理する」という図式で考えると、今は情報そのものの過多だけでなく、処理法、つまり考え方の過多も同時にあるので、考え方つまり解釈法も平滑化されるところが特徴な気がする。そうなると、さかのぼって、「情報を処理する」という昔ながらの図式をうまく捨てて人生を渡るっていう処世術が流行るのかもしれない。具体的には、情報がいくら入ってきてもそれをいちいち処理、つまり考えて比較検討などせず、自分に都合のいい情報を「選ぶ」だけにする。ものの考え方、つまり処理法についても、どれが正しい考え方かをたくさんの情報を「考え方に食わせて」検証するなどという無駄な時間はかけない。つまり、「情報を処理する」んじゃなくて「行為を選ぶ」ほうに比重を置いて、とにかく行動する。