坂口安吾の堕落論を読んで

坂口安吾は実は僕はほとんど読んだことがなく、大昔に読んだ堕落論ぐらいだった。それより、あのゴミ屑だらけの書斎に、厚底丸メガネをかけて悠然と座ってカメラをにらみつけてるあの安吾の、気骨があるけど愚直な感じが印象に残っていただけだった。

あとは、小林秀雄との対談。あれはなかなか面白かった。安吾が小林秀雄をコテンパンに批判した「教祖の文学」というのを発表した直後で、編集部をはじめ周りの人たちは、つかみ合いのケンカでもするんじゃないかとだいぶ気を遣ったらしいが、そんなことはぜんぜん起こらず、安吾は小林に、あの本は小林秀雄の賛美ですよ、世の中の人は分からないんですかね、みたいに言ってた気がする。あのころの対談はだいたい酒を飲みながらで、最後には安吾が明らかにかなり酔っ払ってて、クールな小林を前に、涙を絞り出すように訴えてたっけ。なにをか、っていうとカラマーゾフの兄弟のアリョーシャは宝石だ、奇跡だ、なんだ、かんだ、って言ってたはず。

まあ、とにかく、安吾の、あの、硬い殻のように堅固な気骨と、でたらめでぐにゃぐにゃな率直さを、併せ持った性格が、僕みたいにたいして彼の言葉を聞いてない人間ですら、よく想像される、というわけだ。

今回、あらためて安吾の「堕落論」と「続堕落論」を読んだのでいまこんなことを書いている。青空文庫ですぐ読めるいい時代なのだ。

くだくだ感想は書かないが、読んですぐ、本当に安吾らしい文だ、と思った。安吾の文学ここに極まれりで、書いてあることは文学。そして安吾の文学理解は、僕とまったく同じ。ここでいう文学とは単純なことで、社会の中で個がなにか実践をすると、個ゆえに社会に衝突し、時にさんざんな目に遭う、それを歌うのが文学、ということだ。結論だとか、解決だとかいう低級なものは一切ない。それが文学。そして坂口安吾という人間ほど文学を生きた人も、そうそういない、ということがよくわかる。

そんなむちゃくちゃな生活を送ったためか、安吾は48歳の若さで突然の脳出血で死んでしまう。惜しい人を失くした、だなんて言葉から、もっとも遠い坂口安吾の死。ああ、やっぱりノタレ死んだか、と言われて一向にかまわない、あの文学一徹に生きた、愚直な感じが、すごく親しみに満ちて感じられる。たいした人だ。

堕落論では、日本人は「堕落せよ」というキーワードだけ覚えていた自分だが、おそらく30年ぶりぐらいに、十分に大人になって読み返してみて、ああ、彼のいう堕落とはこういう意味だったか、と納得した。それはさっき書いた文学の原理と同じことで、個がみな持っている心、本当はこうしたい、実はああしたい、こう言ってやりたい、ああしてみたい、ということに、正直になりなさい、ということである。そうするとこれはもう当たり前のように社会の規範と衝突する。そして、その対立や矛盾に苦しむ。で、そうなったら、苦しむだけ苦しみなさい、それしか道は無いのだ、ということである。そういう行為を称して堕落と呼んでいる。

一見、あれ?それが堕落? と思うかもしれないけど、安吾のいう堕落とは、その意味としては、社会規範を破って個が堕ちてゆくことを指し、そしてその実は、個が堕ちることにより生じる社会の混沌を指すのである。逆に個が社会規範に沿って行動すれば、皆は整然と社会の中で様式通りに行動することになり、混沌は生まれない。混沌とは全く逆に、人々は形式化して強固な規範に守られた群れを作る。堕落せよ、とは、そこから外れ、そしてひいてはその既存の規範を壊せ、という意味である。そして、その個が衝突した当の社会規範は、その堕落によってまた姿を変えて蘇る、ということだ。

思うに、この安吾の堕落論の考え方は、西洋圏で言われる個人主義と社会規約の関係と同じに見える。しかし、これは僕の意見だが、これらは決定的に違う。ただ、この話は厄介なので、ここではしない。安吾の堕落論は、実に日本文化的だと思う。日本では、規範と堕落の交替による変化によって、その文化が変化して綿々と続いてきた、ということだ。

そして思うのだが、いわゆる文学の習得は、この個の堕落を通して行うしか方法は無いのではなかろうか。システマティックに教えることができない「何物か」なのではあるまいか。そしてこの「文学」をもうちょっと拡大して「人文」としても、同じようなことが言えるのではあるまいか。

昨今、大学、特に理科系大学でのリベラル・アーツ教育の不足が言われることが多いが、僕はそんな教育をいくら大学でやったところで、おそらく何の役にも立たないと思う。やらないよりマシていどのもので留まるような気がする。人文の核は、システムとして学ぶものではなく、それは個の混乱と混沌から身に付けるのだと思う。

ただ、その混沌(カオス)を最初から否応なしに持たされる若者がたまにいるのは確かで、彼らは辛い若者時代を送るけれど、その人文の核を実に早いうちからしっかり身に付けるはずだ。でも、カオスを極力避ける環境でしか育っていないと、それは無理ってもんだ。大学は昨今、教育システムにおけるカオスを極力排除する方向で設計運営されているので、若者は、学校ではカオスに出会えない。なので外へ出るしかない。

実際、外界はいまだってカオスに満ちている。そこで堕落するんですね。そうすればリベラル・アーツなんていうものは、その後、大人になってひとりでに身に付くもんだ。わざわざ教育の重要性なんか叫ぶ必要もない。

本当は坂口安吾みたいな人が学校に先生としていることが重要なんだが、昨今の教育システムにそういう先生がフィットするかは疑問だね。

ゴッホの過去再現を巡って

この前、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館へ行って、彼の向日葵の画布に再会して、その前に立ったとき、さすがに全身の毛が逆立つような感覚を覚えたのだけど、それと同時に思ったのが、この絵の色は自分の記憶色とすべて一致していて、これなら来る必要もないな、だった。

そのあと、彼のいろんな絵に再会したが、ぜんぶ、そうだった。すでにその絵画が、ほとんど余すところなくぜんぶ自分の中に移行済みで、本物を必要としない、みたいな感覚を味わった。ゴッホ美術館へはもう行かないと思う。

もちろん、まだ彼の絵の画布でホンモノに出会っていないのはたくさんあるわけで、そちらはそうはいかない。今回も、たった一枚だったけど初めて見た絵があって、すごく長時間その画布の周りをうろうろしてた。名残惜しくてねえ、離れられないのよ。あまりに緑がきれいで。

思い出すな。むかし、ひろしま美術館にあるゴッホの「ドービニーの庭」という絵の、過去再現研究プロジェクトというのがあって、あるとき美術館へ行ったらその成果発表がされていた。で、それを見たあと、そのあまりの出来の悪さに、この件につき、そこらじゅうで口を極めて罵りまくったっけ。

どんなプロジェクトかというと、彼のその絵が油絵具で描かれて130年が経っているわけで、絵具が経年変化して色が変わるでしょう? その経年変化をキャンセルするために、絵具の組成成分分析をして、化学的な知見のもとに経年変化を戻して、130年前に描いたばかりの出来立ての色を再現する、というものだった。

その出来上がった過去再現した画像の出来がひどくてねえ。それを見た自分は、あまりのことに、これはまさに原作の冒涜以外の何物でもない、と怒ったわけだ。まだ自分も若くて血の気も多かったしね。印刷とモニターの両方で見たが、しかし、本当にひどい色だった。見ている自分は他人のやっていることに腹を立てているだけだが、もし、自分がこれを発表する側だったら、穴があったら入りたくなるだろうな、と思ったが、キュレーターとか澄ました顔して現代科学手法を賞賛したりしてる。バカか、こいつは、って思ったっけ。

これ、後日談があってね、この過去再現研究を先導した研究者の人と知り合いだ、という人に出会ったのである。その人は浮世絵の研究者なのだけど、ご存じ、浮世絵の刷りの顔料の色とその経年変化というのは非常に微妙で職人な世界で、それを鑑定するには色に関してかなり鋭い感覚を必要とする。

で、その色に関しての何らかの研究学会でもあったんでしょう、そこでその浮世絵研究者がたまたま、そのゴッホ過去再現の人に出会って、同業者として付き合いがあったらしい。で、その後、その浮世絵の人に聞いたんだけど、彼らが二人で話しているとき、そのゴッホ再現の人がぽつりと「私は化学の材料学の専門で材料のことはよくわかるんですが、実は絵の色についてはぜんぜん分からないんですよ」と、こう言った、というのである。

やはりそうだったか。ゴッホの油絵の色がハナから分からない人が、材料研究の成果を単純に応用して過去再現をしたというわけだ。それじゃあ、あの結果になるはずだ。種を明かせば、きわめてバカバカしい当たり前のことが起こったというだけで、それを聞いて、逆に怒りも失せて、気が抜けたっけ。

ま、結局、何にも知らない科学だけをやってる人が芸術にずかずかと土足で踏み込むな、と言いたくなる。それはほとんど冒涜である、ということぐらい礼儀としてわきまえておいて欲しい。科学者は謙虚に。最近の科学者は傲慢なのが多く、反省した方がいい。

それにしても、では、化学材料にも詳しくて、美術にも詳しい学者なんてそもそもいないだろうから、さまざまな専門家を集めてプロジェクトを組めばよいのだろうか。実際、そのために、この場合も美術館側からはキュレーターがプロジェクトに入っているはずなのだが、その当のキュレーターがあの体たらくで、嘆かわしいことだ。

とはいえ、情状酌量の余地はある。科学者が行った科学分析の結果、機械的に出てきた再現された色が提示されたとき、それがいくら画布の上で調和していなく見えたとしても、それをそのキュレーターがいじって調和を取り繕う、ということは、「キュレーターの主観」が入る操作になる。仮にもヴィンセント・ヴァン・ゴッホという世紀の大画家の色の調和に関する感覚を、ただのいちキュレーターが修正することを意味する。そんなことはとてもできない、という気持ちは分かる。

もし、僕がそのプロジェクトにいて、出てきた絵に「これは違う!」と感じたとしても、じゃあ、それをどうすればいいですか、と言われたらかなり困惑するだろう。

ということは、結局、この130年前の色再現というプロジェクトそのものに大問題が潜んでいることがはっきりした、という結果になったはずだ。そして、その事態を、プロジェクトの最初から予見するのはすごく難しいことで、仕方ないとも思う。それで、その大問題が分かった時点で、どうしよう、となったとき、多額の金と時間と労力を使ったプロジェクトなわけなので、当のキュレーターが、仕方なしに

「これまで知ることのできなかった生きていたゴッホの本当の色彩感覚が、こうして科学の力で明らかになるというのは素晴らしいことだと思います」

などと公けの場で言ってしまう、というのも分からぬでもない。公けでは表面上、そういう体裁のいいことを言いながら、その内実では、以上に書いたような問題をキュレーターをはじめプロジェクトの面々が内心で共有していれば、今回のそれは次回の課題として取り組んでください、と大人の対応をしてもいいかもしれない。

で、このあとは僕の勝手な邪推だが、たぶん、そういうことあまり誰も分かってなかったんじゃないだろうか。なぜって、なにも分かっていないような言葉、顔つき、しゃべり方だったから。若かった自分は、それを見て、少しはすまなそうな顔しろよ! みたいにたいそう腹を立て、文化が病んでいる、と断定したのを思い出す。

さて、辛辣な言葉ばかり続けてしまったが、僕も科学分野の端くれにいるので、科学者的な立場でコメントをしておこう。最初に今回のその方法についてである。

この油絵具の経年変化のキャンセルの方法だが、まず、ゴッホの使った油絵を成分分析することから始める。相手が歴史的価値を持つものであり、試料を取るわけにはいかないので、非破壊分析を使う。可視光やらX線やらを使って光学測定器で分光特性をあれこれと取って、それによって使われている絵具の化学組成を分析し、特定する。その後、その成分の中で経年変化の分かっているものについて、その変化量を過去のデータを使って推定する。それで130年分さかのぼり、この絵のここに塗られたこの絵具の当初の組成はこうであっただろうと推定し、色見本を出す。

これを絵の全体にわたって繰り返すわけだが、差し渡し1メートルある絵のすべてにわたってそれを行うのは難しく、塗られた要所要所の絵具について、その推定を行い、修正をかける。たしか、特に、白の絵具、そしてピンクの絵具、ライラック色の絵具あたりを中心に調べ、再現を図ったはず。

で、そうするとどうなるかというと、絵の全面に渡ってそれを行うわけではなく、要所要所に塗られた絵具だけを修正して、他はそのまま、ということになるので、そこで色の調和が崩れるのである。修正しない部分については経年変化が少ない絵具を使った、という判断もあっただろうが、それを確定させるにはデータが少なすぎる。

結果、原画の上に取って付けたように鮮やかな白や赤や青が塗られたような状態になり、ピエロかなんかの厚化粧みたいな様相を呈した画像が出て来てしまう。それはそれはひどい出来だった。

そしてここにはもう一つ大問題があって、そもそも、印刷でもモニターでも現在の画布の原画の色すら、まったくきちんと再現されていないのである。そもそもめちゃくちゃな色で出てくる印刷やデジタルデータをさらに厚化粧したみたいなもので、破壊的にひどい結果になるのは明らかである。

では、その科学者はどうしたらよかったか。

いちばんいいのは、こんなことは最初からしないことだ。でも、したい気持ちは分かるし、科学のターゲットの選定に原則として倫理も善悪も関係ない。科学者はやってみたいからやるわけで、それがどんな結果になろうと、全体として科学の進歩に寄与すればいい、というのは科学のいちばん基本的な戦術である。なので、理解はできる。でも、それをやった後、もし難しい問題が持ち上がったことが分かったら、それを正直に述べることはどうしても必要であろう。しかし、このように本人に絵画が分かっていない場合、それは無理なのである。となるとキュレーターの責任だろうか。そのように責任分界点を定めるのが順当かもしれないが、僕はそう思わない。

しかし僕は、出てきた推定絵画の質について科学者にも責があると考える。それは、なぜか。

科学的に言うと、まず、絵具の経年変化は物理的事実で、組成が分かればあるていどは予見できる。しかし、130年の年月ということになると、科学的に正確に推定するのは困難で、その130年の間にその画布に何が起こったか分かっていないと無理な道理である。仮に分かっていても困難なのは目に見えている。どんな温度と湿度の環境で、どんな扱いを受け、どんな修復がなされ、それがいつどこでどのように、と言い始めると、不可能と言ってしまって構わない。

そんなとき科学はどうするかというと、それらの条件を人為的に固定して、つまり仮定して(通常は単純化する)、その仮定に基づいて分析して結果を出す。で、「その仮定の元ではこうであったはずだ」と結論する。でもその仮定は事実と反しているかもしれない、というか、かならず事実と反していると言い切れる。そこに「仮定」という、当の科学者の「人為」が入るからである。

それから、このような測定を伴う科学的実験プロセスには実際にはコントロールされるべきパラメータがたくさんあり、科学者はそれをいじって望みの結果を出す。そのコントロールは当の絵画に関係ない化学実験に伴う操作に過ぎないと言うかもしれない。しかし、そうであったとしても、それが人為であることは間違いない。ただ、それが最終結果にどう影響するか当人が分かっていないというだけである。

科学は客観性が売りだが、実は科学には「完全なる客観性」というのはありえない。原理的に不可能である。そういう基本的な科学の意味を、今の現代人はほとんど忘れ果てている。素人が知らないのは仕方ないけれど、プロの科学者でも分かっていない人が大半、という嘆かわしい状況なのが現代という時代だと思う。

それから、最終的に出てきたゴッホの修正絵画が果たして、彼が130年前に塗ったものに近いのか、あるいは僕が感じたようにでたらめに近いものだったか、というのは明らかに絵画芸術に対する価値判断を含んでおり、それがいいか悪いかを判定する絶対的基準というのは無いし、これは往々に非常に難しい問題である。したがって、この科学者にも、キュレーターにも、責を負わせるのは酷で、そもそも正解がはっきりしないものを扱っているわけだから、断罪するのはおかしいという意見が、この客観主義と相対判断が幅を利かせた現代では必ず、出る。

しかし、僕はそれも拒否する。では、結局、なにがいいたいのか。

科学者が絵具の推定をする際に、さっき説明したようにそこに自身の人為的仮定を持ち込む。そしてその「主観」は、当の科学者の判断に任せられる。で、それを任されたそのときに、その科学者に、対象に対する「愛」が必要となるのである。その愛が無い状態だと、科学分析というのはいくらでも無制限に悪用することができる道具になりえる。

結局、この科学者には、そしておそらくキュレーターにすら、ゴッホが130年前に描いたこのドービニーの庭という画布に対する愛が端的に無かった、というのが結末だと思う。科学者が愛したのは絵具の化学組成だけであり、キュレーターが愛したのは名声と自己実現手段としての画布と画家への執着だけだったのだろう。

この問題は大きな問題で、実は、対象に対する「愛のない科学者」と「愛のある美術専門家」が組んで解決するような生易しいものではない。なので、結論的に言うと、科学も芸術も両方が分かって、両方に愛を持っている一人の人間が、どうしても必要になるということでは、なかろうか。

スウェーデンと日本

YouTubeを見ていたら、政治ジャーナリストのおじさんが、「いまの日本では、50代以上がやっぱり日本すげえなんですよ」と言っていた。「もう日本はとっくに手遅れなのに、50代以上はやっぱ日本すげえなんですよ。それで、約5000万人ぐらいが日本すげえグループにいるんですよ」、だそうだ。それを聞いて思わず大笑いしてしまった。僕はいま63歳だけど、そういうヤバい世代のど真ん中な人間なんだね。

僕も実際、日本はいろんな意味でことごとく終わってる、と確かに考えてはいるが、一方では実は、自分、日本はまだ大丈夫と思っていて、それはこの、恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質が、本当にだめになったときに吉に転ぶと、わりと信じているからなのである。そういう意味で63歳の自分も、日本すげえの一員なのかもなあ、と思い、なんだか恥ずかしくなった(笑

ただ、吉に転ぶなんて言っているが、どのように吉なのかは皆目わからない。でも、まあ、大丈夫だよ。国破れて山河在りでなんとかなる。南国だからね。スウェーデンに十年いて、日本が南国なのがよく分かった。それでもダメなら、きっと神風が吹くでしょう。

これで終わらそうと思ったが、もうちょっと書くことにするか。

日本は「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」と、めちゃくちゃなことを書いた。で、「だから大丈夫じゃない?」と根拠のないことも書いた。

僕はスウェーデンですでに十年間、仕事して生活したのだけど、それで分かったのは、スウェーデンは恐ろしく「ちゃんとした」国だ、ということだった。仕事上においてはボスも含めてめいめい全員が完全に平等で、それを前提として皆がふるまい、行動し、それがひいては政治と国民の関係に至るまで、きちん整然と整備されていて、ちゃんと信頼関係をベースにして結びついている。

そして、それが、ぜんぶめいめいの「良識」によって成立しているところが凄い。そういう良識を持ったレベルの高いめいめいの人が多くいれば、それが自然と信頼関係の基礎になって、ストレスなく全体をガバナンスできる。

上から押し付けてそうさせるわけでは決して無く、かといって下々の人々が相互に注意しながら一生懸命維持するのでもない。要所要所では厳しいが、基本はリラックスしていて、むしろかなりルーズな運営の仕方をする。そのせいで、必ず問題は起こる。めいめいのレベルが高いと言ったって、利害関係はもちろんあるし、エゴもあるし、中には悪いヤツもいる。だから問題はやはり常に起こっている。しかし、それへの対処の仕方が決して極端に振れることがない。というのは、根本の規範そのものがすごくしっかりしていて、対処は、その枠の中で柔軟に行われるので、対処の結果に未来が振り回されるようなことは決して起こらないし、その規範が揺らぐこともない。

言ってみれば、憲法的なものは決して動かないが、法律は常に現状に合わせて変化している、そんな感じ。大きな重要な規範が人々に共有されているので、その下の法律やルールは常に破られ、常に更新されている。だから人は規則には縛られない。規則にからめとられて身動きできない、という事態に決してならないように全体設計がされていて、何かあったらいつでも助けを求めることができ、そして、それに応える人が必ずいる。

以上、いいことばかりを言うとこんなわけで、この感じは「先進国」という意味では、東洋より二歩も三歩も先を行っていて、本場というのはやっぱりすごいなあ、とつくづく思った。

これに比べると、日本は発展途上国どころか、未開の国に思えるぐらい。

ところが、日本人の自分が、スウェーデンで以上のことを学び、その同じ十年で痛切に感じたのが「こんな国にはいられぬ」なのである。われながら笑ってしまうが、もう、無理だ。

日本の世間様だとかマスクだとかの民衆の同調圧力って、ホントにかわいらしい。だって、それらって下世話でフィジカルでしょう? 一方、スウェーデンの同調圧力は、上述したような「社会において常に自覚した個人でありなさい」なのである。それはもう、ぜんぜんかわいくない。

スウェーデン人は、ここで生まれてここで育つから、そんなこと当たり前で、ストレスは無いと思うのだけど、僕は東洋人だからね、そんな性質はもともと持ち合わせてない。その僕から見ると、快適なのは確かだけど、常に緊張を強いられているようにどうしても感じてしまう。悪いことは完全に完璧に隠れてしないといけない感、というか。いや、悪いことなんか、自分、しないけどね。

で、おそらくだけど、スウェーデン人とて、そういう「硬い規範」は窮屈だと思うのである、無意識下で。そして彼らのその発散の場は、たぶん「大自然」です。スウェーデン人の自然感は日本人とおそらくぜんぜん違う。北欧の大自然の中で、人々のコミュニティが点々としていて、それぞれが、硬い住居で守られていて、めいめいの心はマザー・ネイチャーの元で共感して統一されていて、この厳しくも美しい北欧の自然の中でつつましく、しかし毅然と生きている、みたいなイメージである。

対して日本は、もう、ぐちゃぐちゃ。自然も人もへったくれもなく、ぜんぶがいっしょくた。日本人が自然を大事にするなんて、自分は寝言だと思う。日本人ほど自然を平気で壊す者はいない。なんで壊して平気かというと、自然と人は味噌も糞も一緒だから。自然はオレなんだから、オレがオレをどうしようとオレの勝手だろ、という感じで平気で壊す。そして同時に、逆に平気で愛でる人もいる。

しかし、このカオスこそが東洋を形作っていて、それはねえ、日本人の自分としてはいとおしいのである。スウェーデンには決して決して見つけることのできない「世界」である。

というわけで「恐ろしく能天気な島国根性丸出しの百姓気質」だが、それでいいじゃん、ということになる。別に自分、スウェーデンのような西洋になりたくないよ、ってことである。

大麻使用

アメリカで大麻使用が煙草を上回ったって。当然の成り行きだね。

思い出すが、20年ぐらい前に、ニューヨーク出身の英会話の先生に習ってて、当然そのころは違法だったけど、彼、大麻はみな普通に吸ってるよ、って言ってたもんな。彼が子供のとき、お父さんがソファーに座って、おい、そこの葉っぱ取ってくれ、はい、パパ、みたいだったのでなんの抵抗もなかったって言ってた。

警察に見つかっても見て見ぬふりか、形式的に注意するていどって言ってた。それほど長い大麻使用歴のあるところだから、そうなるよね。

一方、日本では厚労省が大麻の「使用罪」というものを検討しているそうで、地球上のどこにいようが日本国民であれば吸ったら罪に問われる、ってことでしょ、これ。倫理に対する国家介入は良くないと思うけどね。

で、日本で大麻が悪い、という理由はなんとなくわかる。それは、一つは、大麻をやっているときは勤労意欲が完全にゼロになってしまうこと。そして、個人の精神が一時的に完全に開放されてしまうので、常に個人を陰に締め付けるいわゆる同調圧力がゼロになってしまうこと。この二つだと思う。

もちろん国は、ハードドラッグへの移行可能性などの危険性をアピールして政策を進めるだろうけど、その本音は前述だと思うよ。あと、大麻の健康被害を科学的に実証、とかいうのも理由に挙げると思うけど、それはこれまでの数々の科学の政治利用を見ていてわかるように、ほとんど信用できない。科学は価値判断をしないはずだが、昨今は政治と絡んで臆面もなくそれをしているしね。

それに、理由が健康被害などとすると、どう考えても酒と煙草の方がはるかに害がある。で、酒も煙草も、勤労と同調圧力をむしろ助長する働きがあるんだよね。なので統治側から見ると喜ばしい代物なの。

まあ、ややこしい話は置いといても、とにかく、国は、日本人を勤労と同調圧力から解放するのが危険だ、と判断しているのだと思うよ。これは単なるオレの意見なだけだが、自分としては、これに反対して「日本人は個の精神を開放すべきだ」とは、実を言うとあまり思っていない。

というのはオレの好きな日本の姿は、このみなが何もわからず従っている勤労と同調の結果であることも多いからだが、まー、こんなことも、議論の俎上に載せると大変なことになり、あんまり関わりたくない。

とにかく、もしあなたの心に抵抗が無いのなら、外国へ行って、大麻をいっぺん試してみてもいいかも。使用罪とかいうめちゃくちゃな法律ができる前に。

科学 vs 哲学

三、四年前だったか、どっかのスレッドで、科学者と哲学者の他流試合があって、それが公に公開されていて、僕もスレッドを読んだりした。スレッド上議論だけでなく、双方からの寄稿、フィジカルな討論会まで催し、そのフォローアップなど、かなり激しくやり合っていた。これ日本の話である。

僕はそれを読んでいて、いたたまれなくなり、途中で止めたし、たぶんまた見つけても読まないと思うけど、激しかった。

そもそも、そのスレッドは、科学系からアプローチした哲学的な謎を議論する場(たとえばクオリア論争とか)みたいなところだったのだが、そこにどっかの理科系の大学の准教授かなんかの、まだ若い科学者がやって来て(スレッド主が呼んだらしい)、それはもう、ガチな科学をもってして哲学を正面切って攻撃したのである。

彼いわく、哲学の議論はあいまいで、定義もあいまいではっきりせず、しかもそのあいまいな定義を自分勝手な推論で大きくして理論を作るのはいいけれど、何一つその後に検証しない。そのせいで、その結論が正しいか正しくないかまったく判定もされていない。なぜ科学のように、明快に定義された前提と、その推論と応用、そして実証を経て論理を補強する、という正しい道を哲学は取らないのか。科学界では歴史的に何百年もそれを繰り返し、今や科学的学説の信頼度は最高度まで上がっているのに、哲学は、いつまでも個々の哲学者が勝手な前提と定義で勝手に説を為して実証もせず正しさを保証しようともしない。そのようなものは無意味とまでは言わずとも、少なくとも信用するには値しない、うんぬん

と、まあ、こうやったわけである。科学者というのは、それまでわりと哲学者に負い目があったりして、科学者は科学の世界で地道にやりますよ、っていう科学者が多かったのだが、その積年の恨みが彼に至って爆発したかのように、哲学を完膚なきまで全否定したのである。さらにたまに哲学者は、科学者は世界について何も分かってない、とか言って小バカにするような発言をすることもあり、腹に据えかねたのであろうか。哲学のいい加減さをこれでもかと攻撃したのである。

科学者の彼いわく、いままでも哲学者たちに、その理論のあいまいさや前提を問い正したことがあったけれど、話をはぐらかすばかりで、一向にはっきりと答えようとしなかった。これは、要は、彼ら哲学者自身も、自分が何をしているか分かっていない、という証拠ではあるまいか。一方、科学者は何を問われても明快に回答することができる。もし、自らが間違っていれば、それを認め、自らの説を修正する謙虚さも持っており、それこそが科学をここまで信頼できるものに育てたわけである。哲学者はなぜそういう知的誠実さを持ち合わせないのか

とこういうわけである。それで、スレッド上ではらちが明かず、実際に、その科学者の彼と、哲学者二名だかが討論会の場に出てきて、討論をしたそうだ。もちろん、科学者は一歩も譲らず臨戦態勢だったわけだが、哲学者二人はどうも煮え切らず、やはり科学者の正面切った反論にはきちんと答えられず、話をはぐらかしたらしい。

その科学者の彼は、この世界は遠い将来科学によってすべて解明されるはずだ、ということを自分は信じている、と何度も書いていた。

こうなると哲学者は、だいぶ分が悪い。そう言い切ってしまう科学者に論理で勝つのは、僕が思うに、論理的に不可能であろう。なので、討論会で哲学者が話をはぐらかしてしまった、その気持ちが自分にはよく分かる。

昔は、科学者は、目の前の現実だけ見て理屈で分かることばかり言うが、哲学者は難解で高尚なことを言う、というふうで、科学は青年、哲学は大人、みたいな感じがあったが、いまや、これはまったく通用せず、いまでは、科学は青年から立派な大人になり、堂々と世界の仕組みを科学で語り、勝ち誇っている。一方、哲学は大人から老人(?)になってしまい、哲学はもう、人間の心をケアする心療内科みたいな役割に変わりつつあるのではないか。

心療内科なんて変なことを言うが、自分が哲学の歴史の進行を見ていて思うに、ものすごく大雑把とはいえ、まずそれは存在論から始まり、近代に認識論に移り、現代で実践論へ移っているようで、この実践論のところになると、下手をすると言っていることが、臨床心理学とかその辺に近くなったり、心理学でなくとも、人間はいかに行動すべきか、とかになってきて、そうなると政治も経済も入ってきてしまう感がある。

昔の存在論や認識論のころの「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物の哲学者」はもう時代遅れ、という風に思えて来る。そのせいで、もう、哲学は「世界を成立させている本質とは何か」とか「人間はいかに世界を認識するか」とかの問題追及より、人に行動指針を与えて人の心をケアする学問に移っちゃうのかな、と思えたりもするのである。たとえば、ちょっと前に話題になったた哲学者のサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」 とかそう思えないだろうか。

ところで、「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物」は昔の科学者もそうであった。哲学が心のケアに走ったとすると、現代の科学はどうだろう?

現代社会は、すでに、科学にほぼ完全に支配されているので、科学者は、僕らの生活面での指針を与えてくれる頼れる知者、ということになっている、と僕には見えている。たとえば日本だと、みんな山中先生の言うことなら信用する、みたいな感じ。科学にはその方法論に「謙虚」が含まれているので、みな余計に信用するのかな、と思う。

でも、実際には、その「謙虚」は科学的方法論における謙虚であって、決して「倫理」では無いのだが、みな、容易にその謙虚を倫理と取り違えているように、これまた僕には見える。要は「謙虚な人はいい人で、自分より他人のことを思える人だから、その人の言うことなら私たち全員にとっていいに決まってるよね」ということである。でもこれは、科学という方法の謙虚、という意味だと、ぜんぜん間違っている。だって、もし、上述の通りだったら、科学者は原爆作ったり、人体実験したり、結果見たさに遺伝子操作したり、しないはずである。

科学的方法の謙虚を身につけた科学者たちが、科学の進歩のために、倫理を無視してそれらを進めるのではないか。で、案の定、結果は死屍累々になるのだが、それは人類の進歩のためには犠牲が必要、という大義名分で正当化される。現に、そういう多大な犠牲を払ったうえで、この超快適な現代文明社会になったのだから(もちろん、これは平均的に、である。世界の生活レベルの平均値が上がった、という意味である) 

そういう意味で科学は政治ときわめて親和性が高い。やり方が一緒である。犠牲を払って進歩。人を殺して戦争に勝って発展。

長くなったが、最初に戻ると、とにかく、勝ち誇った科学者は、完全に手に負えず、オレなら、たぶん、逃げる。科学 vs 哲学の討論会に出て来た哲学者、えらいなあ、って思った。

DX

なんかオレらしくない話だけど、DXの話。ていうか、そこらじゅうでDX、DXってうるさいぐらい。なんだろ、って思ったら、Digital Transformationの略だそうだ。で、なんで書いてるかというと、これを提案したのがスウェーデン人の学者と聞いたから。

で、その彼が「進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること」という、いつも引用される文句を提唱したそうだ。

うーむ。怪しい。なんでそんなこと言うかというと

デジタル技術を浸透させる「と」人々の生活が良くなる、という文になっているから。人々の生活が良くなる「ような」デジタル技術を開発し浸透させる、では無いということ。それが怪しい。

それに、DXは「Digital Transformation」であって、デジタルはいいとして、transformationというのはいい日本語が無いけど、それは「変容」であって「変身」であって、なにかをデジタル化するなんていう生易しいものではなく、transform(変換)するわけよ。まるごと、とにかく変えちゃうの。生活が良くなろうが悪くなろうが、丸ごとぜんぶデジタルに変換しちゃう、ってこと。

これねえ、スウェーデンに10年仕事生活してると、分かるんだよ。スウェーデンのやり方はそういうやり方なの。まずはじめに、後先をほとんど考えずに丸ごと変換してしまうの。で、見切り発車しちゃうの。そうすると大混乱が起きるでしょ。その大混乱を、人々の社会や政府への信頼感の大きさを利用して、みなにしばし耐えてもらって、うまく行かないところをこれまた見切りで、どんどん改良改造して行くの。で、しばらくたつと、多くの不満はあるものの、みな「ああ、あのときは大変だったなあ」で済んで、忘れちゃって、後々まで恨まない。で、あるとき社会を見てみると、見事に丸ごと変換が済んでて、人々もその新しい社会の上で快適に暮らしてんの。

以上のプロセスがネイチャーで浸透している人々だから、上で述べたようなDXを呑気に宣言して平気なのよ。というか、このDXはスウェーデンそのもの。これぞスウェーデン、お見事。といいたくなる。

同僚のSteven先生は、スウェーデンではなぜそれができるかというと、スウェーデンには長くて深い伝統文化があまり無くて、そのせいで障害がなく、それでできるんだよ、って言ってた(オレが言ったんじゃなくてStevenだからね、それ言ったの。スウェーデンに世界的な古典芸術家いる? いないでしょ、だって)

というわけで、長い長い伝統を持つ日本でこのDXをすると、まー、大混乱が大混乱のままになるだろうね。まあ、僕は日本で荒療治でそれをやっちゃうのには、むしろ賛成だけどね。でも、上述の通りなんで、覚悟しといた方がいい。

気分と現実

ネットを見てたら、三井物産のなんとかいうエラい人が、これからは新資本主義の時代、人材流動化で成長を促せ、とインタビューでガンガン言いまくっている。写真を見ると、まあ、恰幅が良くて、貫禄があって、堂々としたいかにも企業のトップという感じのおっさんである。

以前も経営者トップの座談会で、なみいるトップが、雇用流動化すればうまくいく、日本はそれが無いから成長しないんだ、と発言していて、その無責任さに呆れ果てたけど、トップの気分と現場の気分の、この果てしない乖離がいわゆる今いわれている「格差」なんだろうな。両者で「気分」が正反対を向いている。

この記事を見て真っ先に思ったのは、なんといってもこの人物の血色の良さだ。それがすべてを物語って見える。つまり気分がぜんぜん違う。彼の口から出る言葉や論理はすべてその血色のいい気分から出ていて、それで、気分だけでなく現実にうまくも行き、彼の現実が回っている。

オレ、この格差というのは結局のところ心の問題だと思っているよ。アメリカとかだと心というより現状問題に思えるけど、この日本ではこれは心の問題じゃなかろうか。そんなことを言うと、本当の貧困層は怒ると思うし、あまり頻繁には言わないが、オレはそう思っているよ。

たぶん、自分は、基本、気分が現実を作っていると考えているせいではある。もちろん、気分が現実を作ると同時に、現実が気分を作るわけで、両者は切り離せない。この人だって、経営トップとして采配ふるって、まわりから必要な人と思われ、食べて飲んで笑って裕福な生活を送る現実があるから、こういう血色のいい気分になるわけだ。で、その逆の貧困層の怒りやらひがみやらも同じようにその彼らの現実から出てくる気分なわけだ。

だから気分と現実は切り離せないものの、オレの考えでは、時代によって、そして国によって、どちらが支配的になるか、どちらを先に考えるべきか、というのは確実にあるし、それはすごく長いスパンでくるっと変わったりもすると思う。自分は、20世紀は現実が、21世紀は気分が支配的、と思っている。特にいまの日本は気分が大きい気がする。

今回のコロナで、全員マスクの国境鎖国みたいな風潮を見ると、オレはその日本を覆っている気分を感じるんであって、マスクや鎖国がはたして感染症防止にいいか悪いか、なんていう問題は知らん。この問題は科学的にも、良いと悪いが半々出そろうようなタイプの問題で、ということはすでに科学の扱う問題の域を超えてしまっている。なので、科学系の論争は続けるのはいいけど、そもそも自分は興味がない。

それより、このまえ帰国して、上述、気分と現実における、日本人の気分の問題が可視化されているように感じて、マスクに反発したんだよ。あまり理解してくれなかったけどね。

日本は特にみなの気分で現実が動くスピリチュアル系の国なんで(たぶん孤島が長いから)、現実をあれこれ場当たりにいじるんじゃなくて、みなの気分を大切にした方がいいと思う。特に21世紀に入ってそれが支配的な気がする。

じゃ、どうするか、っていうと、めいめいが行動して気分を上げるんですね。月並みな結論だけど、そういうことになる。「現実」はトップダウンで政治で変えられるでしょう? でも「気分」はトップダウンでは決して動きません。だからボトムアップしか方法が無い。だからめいめいの問題なの。

トップダウンの「政治」に対応するのは、ボトムアップでは「芸術」です。だから芸術を大切にするべき。そういうの、今のトップは冒頭の座談会を見る限りほとんど理解してない。そのせいで今のトップには教養が不足してるって言うわけだ。でも、その状態はかなりしばらく続くだろうから、あとはめいめいが何とかするんですね。

あと最後にいいたいのは、この血色のいいおっさんの言うこと、真に受けないこと。これは彼の気分が言ってるだけ。

あともう一つ、このおっさん発言を受けた2chまとめサイトとかで、今度は逆陣営の不幸層がこの発言を味噌糞に言ってるけど、それも、真に受けないこと。それもやつらのうじゃうじゃな気分が言ってるだけ。

なので、あなたはどうするんですか、に尽きると思うよ。

戦争

いまさらだけど戦争ってのは怖いね。直接の殺し合いはもちろんだが、直接関与していないところでも人と人の分断と戦いが起こる。

人間の本質が闘争と繁栄にあるというなら、そうなるのは当然のことなので、むしろ戦争が起こるのは健康的な状態で、戦わないといけないときは戦う、という人には一種のカタルシスにもなるだろう。でも、自分はそう思っていない人間なので、見るに耐えないことが多い。

ところが、実は、僕は元来かなりの闘争型の人間で、若いころはその闘争心剥き出しのころもあった。そんなものが歳で容易に消えるはずもなく、瞬間的に怒りが湧くことがある。

さっきも、そうなって、戦おうか(つまり関わろうか)と反応したが、思いとどまった。昭和ながらの、お前はそれでも男か、って声が聞こえてきたが、それでも止めた。騒乱は騒乱している人がいるから起こる、と思っているから、オレは騒乱しない側に立つことを選ぶんだが、闘争型人間としては、けっこう無理をしている。

まー、何を言ってるか分かんないよな、独り言だからな。ところで、実は本能に任せて戦いを選ぶ方がどんなにかいいかもしれない、とときどき思うのだが、ひとつ逸話がある。

もう30年ほども前だったと思うが、職場の人間たちで話しをしていて、戦争の話になった。その中で反戦な人間が一人いて、彼が議論に夢中になって、色めきだって、僕らはこうして安全なところにいて、戦争がどうのと話してるけど、じゃあ、自分が戦争の前線に行かないといけなくなったらどうなんだよ、ってひとりひとりに聞いていったのである。みんな、えー、それは、とかいって言葉を濁している中、一人、韓国から来た同僚がいて、彼が、自分は、二次大戦のようなシステマティックなのはいやだけど、昔の戦争のような戦いだったら、ロマンがあるし戦争に参加してみたい、と言ったのである。そしたら、それを聞いた反戦の彼は絶句して、まわりの人間も、えー、それ、本気なの? とか言って、なんとなくみなで笑って、議論が終わってしまった。

その彼の言葉を今も思い出すんだよなあ。実はオレももともとは彼と同じなんだ。では、なんでいまオレ、それと反対側の立場に無理して立ってるんだろう。

というところまでで、めんどくさいので考えるの止めた。

大麻

大麻すなわちマリファナは日本では違法である。ここ最近、アメリカのいくつかの州、カナダなど、世界ではマリファナを合法にするところが増えてきた。とはいえ、これは西洋圏での話で、一方、シンガポールなどいくつかのアジアの国では相変わらず厳罰が科せられていたりする。というわけで、やはりいまだにマリファナはおしなべて問題のある代物という扱いになっていることは分かる。酒やタバコはほぼ完全に合法なので、事情に大きな開きがある。

ここで僕が、この大麻の合法違法問題について主張したり論じたりする気はない。第一、社会問題として考察して、こうすべきだ、と主張すること自体が自分の性にも合わない。しかしネットをしばらく見ていると、けっこうな知名度な人が大麻を違法とする日本の法律に疑問を持った発言をしているようである。たとえば池田信夫は、大麻は合法にして規制すべきだ、と端的に発言していた。

日本は言論が自由な国のように見えて、実際にそうとはとうてい思えないのは、自分の心に照らし合わせると分かる。特にいわゆる日本のサラリーマンは、たとえばこの大麻の問題などについて自由な言論を公で行うことはほぼ不可能と言ってもいいかもしれない。サラリーマンには、暗黙の前提となっている社会の決まりに対して疑問を投げかけ議論をしようとすること自体が、暗黙に禁止されている、と言って過言でないように思う。理由はすこぶる単純で、そういう社会の異分子を自ら名乗ることで職のコースを外れるかもしれないという恐怖心を植えつけられているからだと思う。

ちなみに先の池田信夫はサラリーマンでないのでもちろんOKである。

しかしサラリーマンとはいえ、自分の家に帰ってくれば一人の人間に戻るわけだが、そうなったときに社会に対してラディカルなことを考えるだろうか。これはすこぶる疑問だ。人間はそうそう二つの顔を同時に持っていることはできないはずで、知らず知らず時間がたてば、結局は、社会が押し付ける暗黙の価値観を一個の人間としても肯定しはじめ、疑問を抱かなくなり、最後には飼い慣らされた国民に成り果ててしまうだろう。

ずいぶんひどいことを言っているようだが、自分もサラリーマンをずっとやっていたし、自分のこととして切実にそう感じるのである。加えて、飼い慣らされた国民になって人生を送ることにつき、そんなに悪いことは無い。いや、ぜんぜん無い、と言ってもいい。きっちりと国民としての義務を果たして生活しているのだから十分に社会の役に立っているわけで、その見返りとして生活の安定を得て、ときどき酒でも飲んで罪の無い愚痴を言う生活の、なにが悪いことがあろうか。

さて、脱線したが、大麻の話である。実は、先日、僕の古い知り合いに大麻のことを聞いたので、その話をしようというわけだ。ネットで大麻について調べても、大麻を吸うといったいどんな風になるのかについて、はっきり書かれておらず、掲示板などでおもしろおかしく嘘も交えて話されているだけで、本当のところが分からないのである。ということで、体験者の友人の言葉を紹介しようと言うわけだ。

その彼も今はまったくやっておらず、マリファナをやっていたのは期間にしてひと月ほど、さらに何十年も前の話である。彼いわく自分が経験した限りではマリファナに悪いところは何一つ見つからなかったとのこと。

それでは以下に紹介する。

「マリファナを特に考えなしに1万円で買った。ビニール袋に入ったタバコの葉っぱみたいな代物で、変哲ない。ただ、その匂いは独特で、マリファナを知っている人なら、すぐに必ず分かる臭いだよ。毎日はやらなかったけど、一日おきぐらいかな。昼間は仕事をしてるので、もちろんもっぱら夜の寝る前ぐらいにやってた。最初はたしかアルミホイルで小さなパイプのようなものを作って、それで先のところに、タバコをほぐした葉っぱとマリファナを混合して置いて火をつけるわけ。すーっと吸い込んで、そのまましばらく息を止めて十分に成分を取り入れてから吐き出すの。だいたい、そうだな、ティースプーンに半分ぐらいが一回分かな。吸っている時間はほんの5分か10分ぐらいだと思う。吸い始めてから1、2分で効きはじめて、結局、効いた状態から完全に覚めるのに1時間ぐらいという感じ。一時間ずっと吸ってるわけじゃないんだわ。5分ちょっと吸うだけで、そのまま飛んだ状態がかなりしばらく続く、っていう感じ。

で、1時間、飛んでぼんやりしているわけだけど、それが終わった後、もっと吸いたくなる、とかいうことはほとんど無い。一度にたくさんやっても効果はあまり変わらないし、1時間じゃ足りなくてもっともっと、たとえば一晩じゅう飛んでいたい、なんていう気は起こらないし、第一、吸い続けていてもそれは無理。だいたい1時間ていどで満足して、そのまま眠ってしまうことが多かったな。

さて、吸うとどうなるか、なんだけど、これは、それなりに人それぞれなのと、あと、吸っているマリファナの種類でずいぶん違うそうだ、ということは後から知った。俺がやったのは良品だったようで、いい経験だったんだろうね。

さて、葉っぱの種類によって効果が違うってのは、後に、オランダのマリファナショップの話を読んで知ったよ。まさに、ピンキリみたいだね。俺のが、どの種類だったかは知らないけど、一ヶ月ほどずいぶん楽しんで、リラックスさせてもらったよ。これから話す体験も俺が経験したことで、マリファナ一般ではない、というのは知っていていいかもしれない。

火をつけて吸い込んで、そうだな、2、3分すると何が起こるかというと、まず、耳に聞こえている音が変わってくる。マリファナは静かな室内でじっとして吸っていたんだけど、周りにある音が変な感じで聞こえるようになってくる。たとえば、左側の窓の外で木々の葉っぱが風で触れ合う音、斜め後ろの時計の音、右斜め前の扇風機の音、階下の住民がときどきたてるコツコツという音、隣の家がときどき水道を使う音、などなど、すべていつもなら気にも留めずにいる音があるだろ?

これらひとつひとつが生き生きと「音源」として、鳴り始めるの。自分がその中心にいて、そこからいろいろな方向に音源があって、それらが同時に音を奏でているように感じ始めるんだよ。音源の数がたとえば5つあったとして、意識がその5つすべてに均等に注意を向けることができるようになるわけ。きっとオーケストラの指揮者みたいな感じなんだろうね。

それで、それら偶然の産物である音源が、たまたまあるリズムを形作っている場合、それがたしかに音楽的なリズムを持った「楽曲」に聞こえることもあるよ。マリファナと音楽というのは特によく結び付けられることが多いけど、このせいだろうね。メロディーより、リズムだったな、俺が経験したのは。

この状態は非常に気持ちがよく、非常にリラックスしていて、まんじりともせずにそれらの音に囲まれてずっとじっとしていて飽きることがない。いや、飽きるというのは変だ、「飽きる」なんていう言葉自体がなくなってしまってるんだ。「行動するなにか目的」があって「それをやって」それで「次の目的に移る」という人間行動と、ぜんぜんまったく金輪際違う原理で存在している感じなんだ。「飽きる」とか「疲れる」とか「嬉しい」とかそういう人間的な反応と別次元にいて、静かに存在しているみたいな感じ。

とても表現しにくいけど、はたから見るとたぶん、単に呆然としているだけ、という風に映るだろうね。

以上のようにまず耳の感覚がおかしくなる。続いて、これは毎回起こるわけじゃないけど、たまに幻聴みたいなものが起こることもある。ただ、幻聴というより、実際にそこで鳴っている音がエフェクターを通って変な音に変化させられて聞こえる、と言った方がいい。この状態では、それぞれの音源の音量が、耳に入ってくる音圧で決まるのではなく、意識の度合いで変化するので、たまに意識がある音源に集中するとそのとたんに音が過激に変化したりする。

たとえば、隣の部屋で何か物音がしたとすると、それが、ものすごくはっきりした輪郭で、たとえば「クワッ!」とかいう妙な大きな音ですごくクリアに聞こえたりする。まるで音が視覚的な塊になってそこに出現したみたいなイメージがあわられる。それで、一瞬、なんだなんだ! と驚くんだけど、すぐにまたコンスタントな音のリズムに埋没してゆく。

以上、音の変化は一番先に現れるけど、そのあと、視覚の感じが変わってくる。ただ、この視覚の方はそれほど明確な変貌はせず、たとえばモノがグニャグニャ曲がるとか、そういう幻覚的なことは起こらない。それより、目の前にある変哲ないモノに意識がやけに集中してしまい離れなくなってしまうことがある。

たとえば、100円ライターの炎に見入ったまま、ずっと意識が炎から離れなくなったりする。ゆらゆらゆれる炎を見入っているだけですごい満足感に包まれる。あるいは、時計の針が回るのにずっと見入ったりする。

こんなこともあったよ。吸っている横にベッドがあったんだけど、そこに布団がぐちゃっとして置いてあったのね。それで、それが、どうしてもどうしても布団の中に人がいるように見えるわけ。そんなはずはないことを理性では分かってるんだけど、それがどうしても人に見えて目が離せられなくて、しかも、ときどきピクっと動くもんだから余計に人に見える。もっとも動いたのは錯覚だと思う。

以上が、マリファナをやり始めてしばらくの間続く状態なのだけど、マリファナの効能でひとつすごくはっきりしているのが「時間が延びる」ということ。感覚的に言って時間が5倍から10倍ぐらい長く感じられる。たった1分のできごとが10分ぐらい続いているように感じたりするんだよ。マリファナやってるときにも、いわゆる理性はなくならないので、ちゃんと時計も見れるし、時間も読める。それでときどき時間を見てびっくりするんだ。え? まだこれしかたってないの? と毎回驚くわけよ。

一度なんか、マリファナを吸った後、もよりの駅まで歩いて行ったことがあってね、そのときはすごかったね。駅まで歩いて10分ほどなはずなんだけど、意識の上ではたっぷり1時間はかかった。歩いても歩いても駅に着かないの。歩いている通りの周りで起こっていることにいちいち意識を向けているせいで、ただの商店街が「目くるめくワンダーランド」みたいに感じたりしてね。きっと、子供のころって、ちょうどそんな感じだったんだろうね。

以上、聴覚にしても視覚にしても、始まりもなければ終わりもない集中の中に、ただ、たんに意識が存在している、という、それだけの状態になるせいだと思うのだけど、「時間」というものが一時的に意味をなさなくなるんだろうね。

いや、「時間」というのは不思議な概念じゃないか。マリファナをやってわかるのが、「時間」はなくなりはしない。しかし、世間で言う時分秒で測られるところの「時間」がなくなってしまう、ということなんだ。常々思うけど、時間という概念には、そういう二重性があって僕らはみなこれを混同して生きていると思うんだ。

生物が元来持っている「時間」というのは、均一には決して流れないし、意識の度合いによって変化する代物なはずだろう。むしろ、時間というのは意識と同じと言ったっていいはずだ。意識の無いときには時間は無い、意識が集中したときに時間が表れる。「時間」は確実に「行動」と結びついていて、行動は意識と結びついている。時間が無ければ行動も意識もない。だから時間が錯覚だとは決して言わない。しかし、「均一に終末に向かって流れる時間」というのは現代人の錯覚だと思う。時計の針が「分」を指すようになったころから不幸が始まったのかもよ。

マリファナの体験で分かるのが、「時間」というのは実はとても優しくて親しい代物だっていうこと。「非情で容赦ない時間」という現代の発明物が、葉っぱの力で一時的になくなってしまうんだよ。

ミュージシャンにマリファナって、昔はつきものだったよね。今の世の中、特に日本ではまったく無理になっているけど、依然としてミュージシャンはマリファナで時々捕まってるよね。この音楽っていうのが、「優しくて親しい時間」を使った芸術なんだよね。コンスタントなリズムを使った音楽は現代に多いけど、「非情で容赦ない時間」は使ってないよ、均一な時間では音楽は作れないからね。

さて、ここでマリファナをやって聞いた音楽の話をしておこうか。なかなかすごい見ものだったんでね。

マイルス・デイビスの昔のアルバムに、モード奏法を完成させたと言われる「カインド・オブ・ブルー」ってのがあって、その一曲目にSo Whatという有名な曲があるじゃん。ミディアムテンポの長い曲で、コードの起承転結のない、ほとんどワンコードに近い曲だよね。これをね、マリファナ吸ったあと、ヘッドフォンをして、目をつぶって聞いたんだよ。

カインド・オブ・ブルーでは、マイルス・デイビスがトランペット、ジョン・コルトレーンがテナーサックス、キャノンボール・アダレイがアルトサックスを吹く。So Whatは、テーマの後、マイルスのトランペット、コルトレーンのテナー、キャノンボールのアルトと三人が順にソロを取るんだよ。

目をつぶってその3人のソロを聞いているときに現れた夢の中のようなイメージがすごくてさ、その話。

まず、マイルスのソロだけど、聞いている間じゅう、延々と伸びたガラスのチューブの中を高速で移動する乗り物に乗って、ジェットコースターのように移動するイリュージョンを見続けた。ガラスチューブの外には面発光体のようなものが貼り付けてあって、それらが後ろに向かってものすごい速度で飛び去ってゆく、そんな光景だった。

それが終わると、次はコルトレーンのソロ。こちらには今度は動くものは何も出てこなくて、静止した映像が1、2秒の間隔でフラッシュバックのように 次から次へと目の裏に浮かぶの。その映像が、なぜか、日本の五重塔などの寺院建築の屋根の下についている複雑に入り組んだ「裳階」のイメージと、 岩石が割れたときにできる複雑な断面のイメージの混合で、とにかく静止した複雑な形状のイリュージョンが連続してた。

この、二つのまったく異なるイリュージョンがそれぞれ延々と続いて、呆然としつつも自分の脳的には疲れきってしまった。どう考えても、どちらも異常極まり ない感じだったから。しかし、一見、ロングトーンが多く単純に言えばスピードの遅いフレーズを繰り出すマイルスが高速移動で、一方、超高速で繰り出される音のジェットコースターのようなコルトレーンが静止イメージだ、というのも面白いよね。

さて、そして最後にキャノンボールのソロになった。この人のときは、前の二人のときみたいな奇妙なイリュージョンはまったく現れず、「ああ、ようやく、ようやく、人間的で、血も涙もある暖かい人に出会えた・・」みたいな感謝の気持ちでいっぱいになった。最初の二人のマイルスとコルトレーンは、しかし、どう考えてもまともな人間とは思えない、ほとんど狂人に近い。そんな狂人たちの演奏で金縛りにあっていた自分を助けてくれて本当にありがとうキャノンボールさん、みたいな、そんな感じがしたんだよ。

本当に面白いイリュージョンだったよ。まさに、音楽の魂を見ているみたいな感じだったんだろうな、って思ったよ。

さて、まだいろいろ話はあるんだけど、これぐらいにしておこうか。

自分として言うとマリファナには悪いところはひとつもなかったな。結局のところ習慣性もないし、吸った後のダメージもない。習慣性とダメージで言えば「酒」の方が最悪にひどいよね、おそらく煙草も。マリファナは平和だよ。いまだに合法な酒と煙草と比較して、たった一点悪いところがあるといえば、それは「マリファナ吸いながら仕事ができない」ということかな。酒と煙草って面白いのが、両方とも仕事しながらOKなどころか、仕事を促進したりもするんだよね。マリファナはその点、まったくの逆を向いていて、やっている間は、勤労意欲は見事なほど完全に失われるね。

日本政府がマリファナに過度にうるさいのは、敗戦後のアメリカの影響とか聞いているけど、勤労というものから意識を開放されてしまうと政治が困るからなのかな、と思わないでもない。以前の日本は、マリファナつまり大麻は神社の祭事にはつきものな、伝統的な日本には無くてはならないものだったはずなのにね」

以上、友人の言葉を要約して紹介した。

彼を見ていると、まったくのノーマルな人間で、話を聞いていても面白そうだし、マリファナぐらいはいいんじゃないかと思えてくる。ただ、逆にマリファナ以外の麻薬は全部、ダメみたいだ。それだけは注意が必要ってことだろうね。

考えてみると、彼の言葉では、マリファナに比べるに「酒」と「煙草」を出していたけど、人間社会での同じようなアディクション(中毒)でいうと、なんと言っても「セックス」があるね。セックスも仕事しながらできないのでマリファナと同じ系列だね。それが証拠にマリファナと同じく国はあの手この手で制限して取り締まるしね。ただ、決定的にマリファナと違うのはセックスは子供を作るのに必須な生産的行為だ。そうなると、やはりマリファナはひとつだけ余計なもの、ということになるのだろうか。

さて、以上、世の中にはさまざまな中毒があるけど、そこには実際、目くるめく快楽や興味深い事実が待っていたりする。社会生活が無傷なまま中毒できる人は幸福な人、ということだろう。

ホームセンター

水曜日の昼過ぎ、一人暮らしをしているワンルームマンションを出て、ホームセンターへ足りないものを買いに行く。7月末の真夏の暑い日の中、国道沿いの、人がまばらにいる歩道を歩き、店へ向かう。

60歳を過ぎて、まるで25歳新卒サラリーマンの一人暮らしみたいなところに住みはじめて5日目ぐらいで、とはいえ借家ではなくAirbnbで借りた長期滞在マンションである。間取りは1K。いわゆるコンドミニアムみたいなものなので、ひと通りの日常品はそろっているが、ひと月以上住むには、たくさん足りないものがある。

入ってすぐ思ったが、オレはこれまで実にブルジョアな生活をしていた。ここに来る前は、スウェーデンの世界遺産の街にある庭付き一戸建ての大きな家に一人で余裕で住んでいた。自然の美しい、気候の過ごしやすい、抜群の場所である。あるいは日本に帰れば、世田谷区の一等地にたつ古いマンションの広い一室にいた。大きなリビングの一面がガラス窓で、外の緑が見える、そんなところである。

しかし、このAirbnbのマンションは1Kで外は国道なせいで窓を開けると騒音がうるさい。もっとも窓を開けたところで、目の前に貧乏くさい日本の家々が見えるだけで景観と呼べるようなものでもない。新築で、きれいなのだけがいいところ。エアコンを入れっぱなしにして、ワンルームに籠っていると、かなり、わびしい。なにかあったときも、生活レベルを極端に落とさない方がいい、ということはよく聞いたし、自分もそういうシチュエーションの他人にそうアドバイスしたこともあったっけ。それが、いまでは、自分がそうなっている。

まあ、それでも、だいぶいい方ではある。しかし、その中途半端感がまた独特のわびしさを喚起する。つまり、生活がクリーンに維持されているので、物理的な意味で生きる苦しみになることは決してなく、苦しまない分だけ余裕があるので、わびしくなる、というわけであろう。

炎天下を歩いてたまたま近くにあったホームセンターへ到着した。所狭しと商品が並んだ店で、いかにも日本的だが、店内に人はほとんどいない。それはそうだろう。ここは日本だ。平日の2時過ぎはみな職場で仕事をしている時間である。

グラスやマグカップ、コーヒードリッパーにザル、といったものをうろうろ探して回ったわけだが、たまに見える客は、オレと同じような年恰好のいかにもリタイヤして行くところのない爺さんとおっさんの中間ぐらいの歳かっこうである。なぜ、このぐらいの歳のおっさんの日常着ってのは、みな、白のポロシャツなんだろう。何度も洗濯したせいでゆるんで波波になってしまった裾をだらしなくズボンから出している。横から見ると腹も出ている。この独特なプロポーションは、かつての平安時代の絵巻物に出てくる中年男みたいな、あの、手足の肉が落ちておなかがぽこんと出ている、あの体型のさしずめ現代版といったところか。

オレとて、まあ、ひどいかっこうをしているわけで、オレはレジに力なく立っているそのおっさんを遠目で見ながら、まるで自分を外から見ているような気になっていた。

いかんいかん、やはり、わびしさが心からだいぶエネルギーを奪っているようだ。やっぱり国道沿いはまずかったかな、と思ったが、予約するのが面倒で放置しているうちに、このマンションぐらいしかリーズナブルなものが無くなってしまっていたのである。ひと月たったらここを出て、別のAirbnbへ移るが、そっちは商店街沿いで少しは居心地がいいかもしれない。しかし広さも設備も変わらないので、あいかわらず60過ぎのおっさんがワンルーム、という状況は変わらないのである。

レジの人もおっさんで、この人はおそらくこのお店の経営側の人だろう。髪の毛はあんまりなくて禿げてはいるが、背が高く、きびきびしており、おそらく50歳代であろう。商品をすべてレジに通すと、袋に入れますか、というので、自分はリュックに入れるからいいです、と答えたが、グラスを包んでくれもしないのか、まあ、いっか、と思ったら、これ、お包みしますね、とエアパッキンで包みはじめた。微妙に下手である。やはりレジ専の人ではなく、店長側なのであろう。

でも、なんだか、彼、疲れ果てているようにも見えた。これだけ客が少ないと経営も大変でストレスがひどいのであろう。今回買ったものも、実は百均で買えばぜんぶ100円で買えるようなものが500円とか、えらく高い。オレは、面倒なのでここですべて買ってしまったが、ふつうはこんな法外な値段のものはみな買わない。なので繁盛とはほど遠いのは、すぐに推察できる。

オレみたいなのや、よれよれポロのリタイアおっさんとかが、ぽつりぽつりと商品を買って、それでかろうじて持っているのであろうか。店長っぽいおっさんを別のおっさんが援けてるようなもんだ。などと思うが、もちろん、これはただの勝手な想像である。

オレはリュックに商品を詰めると、店を出た。広い国道には車がごうごうと音を立てて走り、日本の夏の日差しの中で、あたりがゆらゆら揺らめいている。ここは同じ広さの国道が立体交差する場所だ。ひどく錆の出た白い鉄の手すりがついた階段をのぼり、直交する上の国道に出る。用もなく周りにはすすきが生えている。上り切ると、ふたたびバカ広いだけの国道だ。この夏になると、殺伐として乾いた風情もなく、ただ、熱い空気がコンクリートの上に大量に停滞しているみたいな状態である。

オレはあいかわらず人のまばらな歩道を歩き、マンションへ向かい、いかにも無味乾燥な、電子施錠された鉄のドアを開錠して、押し開けた。