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DX

なんかオレらしくない話だけど、DXの話。ていうか、そこらじゅうでDX、DXってうるさいぐらい。なんだろ、って思ったら、Digital Transformationの略だそうだ。で、なんで書いてるかというと、これを提案したのがスウェーデン人の学者と聞いたから。

で、その彼が「進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること」という、いつも引用される文句を提唱したそうだ。

うーむ。怪しい。なんでそんなこと言うかというと

デジタル技術を浸透させる「と」人々の生活が良くなる、という文になっているから。人々の生活が良くなる「ような」デジタル技術を開発し浸透させる、では無いということ。それが怪しい。

それに、DXは「Digital Transformation」であって、デジタルはいいとして、transformationというのはいい日本語が無いけど、それは「変容」であって「変身」であって、なにかをデジタル化するなんていう生易しいものではなく、transform(変換)するわけよ。まるごと、とにかく変えちゃうの。生活が良くなろうが悪くなろうが、丸ごとぜんぶデジタルに変換しちゃう、ってこと。

これねえ、スウェーデンに10年仕事生活してると、分かるんだよ。スウェーデンのやり方はそういうやり方なの。まずはじめに、後先をほとんど考えずに丸ごと変換してしまうの。で、見切り発車しちゃうの。そうすると大混乱が起きるでしょ。その大混乱を、人々の社会や政府への信頼感の大きさを利用して、みなにしばし耐えてもらって、うまく行かないところをこれまた見切りで、どんどん改良改造して行くの。で、しばらくたつと、多くの不満はあるものの、みな「ああ、あのときは大変だったなあ」で済んで、忘れちゃって、後々まで恨まない。で、あるとき社会を見てみると、見事に丸ごと変換が済んでて、人々もその新しい社会の上で快適に暮らしてんの。

以上のプロセスがネイチャーで浸透している人々だから、上で述べたようなDXを呑気に宣言して平気なのよ。というか、このDXはスウェーデンそのもの。これぞスウェーデン、お見事。といいたくなる。

同僚のSteven先生は、スウェーデンではなぜそれができるかというと、スウェーデンには長くて深い伝統文化があまり無くて、そのせいで障害がなく、それでできるんだよ、って言ってた(オレが言ったんじゃなくてStevenだからね、それ言ったの。スウェーデンに世界的な古典芸術家いる? いないでしょ、だって)

というわけで、長い長い伝統を持つ日本でこのDXをすると、まー、大混乱が大混乱のままになるだろうね。まあ、僕は日本で荒療治でそれをやっちゃうのには、むしろ賛成だけどね。でも、上述の通りなんで、覚悟しといた方がいい。

気分と現実

ネットを見てたら、三井物産のなんとかいうエラい人が、これからは新資本主義の時代、人材流動化で成長を促せ、とインタビューでガンガン言いまくっている。写真を見ると、まあ、恰幅が良くて、貫禄があって、堂々としたいかにも企業のトップという感じのおっさんである。

以前も経営者トップの座談会で、なみいるトップが、雇用流動化すればうまくいく、日本はそれが無いから成長しないんだ、と発言していて、その無責任さに呆れ果てたけど、トップの気分と現場の気分の、この果てしない乖離がいわゆる今いわれている「格差」なんだろうな。両者で「気分」が正反対を向いている。

この記事を見て真っ先に思ったのは、なんといってもこの人物の血色の良さだ。それがすべてを物語って見える。つまり気分がぜんぜん違う。彼の口から出る言葉や論理はすべてその血色のいい気分から出ていて、それで、気分だけでなく現実にうまくも行き、彼の現実が回っている。

オレ、この格差というのは結局のところ心の問題だと思っているよ。アメリカとかだと心というより現状問題に思えるけど、この日本ではこれは心の問題じゃなかろうか。そんなことを言うと、本当の貧困層は怒ると思うし、あまり頻繁には言わないが、オレはそう思っているよ。

たぶん、自分は、基本、気分が現実を作っていると考えているせいではある。もちろん、気分が現実を作ると同時に、現実が気分を作るわけで、両者は切り離せない。この人だって、経営トップとして采配ふるって、まわりから必要な人と思われ、食べて飲んで笑って裕福な生活を送る現実があるから、こういう血色のいい気分になるわけだ。で、その逆の貧困層の怒りやらひがみやらも同じようにその彼らの現実から出てくる気分なわけだ。

だから気分と現実は切り離せないものの、オレの考えでは、時代によって、そして国によって、どちらが支配的になるか、どちらを先に考えるべきか、というのは確実にあるし、それはすごく長いスパンでくるっと変わったりもすると思う。自分は、20世紀は現実が、21世紀は気分が支配的、と思っている。特にいまの日本は気分が大きい気がする。

今回のコロナで、全員マスクの国境鎖国みたいな風潮を見ると、オレはその日本を覆っている気分を感じるんであって、マスクや鎖国がはたして感染症防止にいいか悪いか、なんていう問題は知らん。この問題は科学的にも、良いと悪いが半々出そろうようなタイプの問題で、ということはすでに科学の扱う問題の域を超えてしまっている。なので、科学系の論争は続けるのはいいけど、そもそも自分は興味がない。

それより、このまえ帰国して、上述、気分と現実における、日本人の気分の問題が可視化されているように感じて、マスクに反発したんだよ。あまり理解してくれなかったけどね。

日本は特にみなの気分で現実が動くスピリチュアル系の国なんで(たぶん孤島が長いから)、現実をあれこれ場当たりにいじるんじゃなくて、みなの気分を大切にした方がいいと思う。特に21世紀に入ってそれが支配的な気がする。

じゃ、どうするか、っていうと、めいめいが行動して気分を上げるんですね。月並みな結論だけど、そういうことになる。「現実」はトップダウンで政治で変えられるでしょう? でも「気分」はトップダウンでは決して動きません。だからボトムアップしか方法が無い。だからめいめいの問題なの。

トップダウンの「政治」に対応するのは、ボトムアップでは「芸術」です。だから芸術を大切にするべき。そういうの、今のトップは冒頭の座談会を見る限りほとんど理解してない。そのせいで今のトップには教養が不足してるって言うわけだ。でも、その状態はかなりしばらく続くだろうから、あとはめいめいが何とかするんですね。

あと最後にいいたいのは、この血色のいいおっさんの言うこと、真に受けないこと。これは彼の気分が言ってるだけ。

あともう一つ、このおっさん発言を受けた2chまとめサイトとかで、今度は逆陣営の不幸層がこの発言を味噌糞に言ってるけど、それも、真に受けないこと。それもやつらのうじゃうじゃな気分が言ってるだけ。

なので、あなたはどうするんですか、に尽きると思うよ。

戦争

いまさらだけど戦争ってのは怖いね。直接の殺し合いはもちろんだが、直接関与していないところでも人と人の分断と戦いが起こる。

人間の本質が闘争と繁栄にあるというなら、そうなるのは当然のことなので、むしろ戦争が起こるのは健康的な状態で、戦わないといけないときは戦う、という人には一種のカタルシスにもなるだろう。でも、自分はそう思っていない人間なので、見るに耐えないことが多い。

ところが、実は、僕は元来かなりの闘争型の人間で、若いころはその闘争心剥き出しのころもあった。そんなものが歳で容易に消えるはずもなく、瞬間的に怒りが湧くことがある。

さっきも、そうなって、戦おうか(つまり関わろうか)と反応したが、思いとどまった。昭和ながらの、お前はそれでも男か、って声が聞こえてきたが、それでも止めた。騒乱は騒乱している人がいるから起こる、と思っているから、オレは騒乱しない側に立つことを選ぶんだが、闘争型人間としては、けっこう無理をしている。

まー、何を言ってるか分かんないよな、独り言だからな。ところで、実は本能に任せて戦いを選ぶ方がどんなにかいいかもしれない、とときどき思うのだが、ひとつ逸話がある。

もう30年ほども前だったと思うが、職場の人間たちで話しをしていて、戦争の話になった。その中で反戦な人間が一人いて、彼が議論に夢中になって、色めきだって、僕らはこうして安全なところにいて、戦争がどうのと話してるけど、じゃあ、自分が戦争の前線に行かないといけなくなったらどうなんだよ、ってひとりひとりに聞いていったのである。みんな、えー、それは、とかいって言葉を濁している中、一人、韓国から来た同僚がいて、彼が、自分は、二次大戦のようなシステマティックなのはいやだけど、昔の戦争のような戦いだったら、ロマンがあるし戦争に参加してみたい、と言ったのである。そしたら、それを聞いた反戦の彼は絶句して、まわりの人間も、えー、それ、本気なの? とか言って、なんとなくみなで笑って、議論が終わってしまった。

その彼の言葉を今も思い出すんだよなあ。実はオレももともとは彼と同じなんだ。では、なんでいまオレ、それと反対側の立場に無理して立ってるんだろう。

というところまでで、めんどくさいので考えるの止めた。

大麻

大麻すなわちマリファナは日本では違法である。ここ最近、アメリカのいくつかの州、カナダなど、世界ではマリファナを合法にするところが増えてきた。とはいえ、これは西洋圏での話で、一方、シンガポールなどいくつかのアジアの国では相変わらず厳罰が科せられていたりする。というわけで、やはりいまだにマリファナはおしなべて問題のある代物という扱いになっていることは分かる。酒やタバコはほぼ完全に合法なので、事情に大きな開きがある。

ここで僕が、この大麻の合法違法問題について主張したり論じたりする気はない。第一、社会問題として考察して、こうすべきだ、と主張すること自体が自分の性にも合わない。しかしネットをしばらく見ていると、けっこうな知名度な人が大麻を違法とする日本の法律に疑問を持った発言をしているようである。たとえば池田信夫は、大麻は合法にして規制すべきだ、と端的に発言していた。

日本は言論が自由な国のように見えて、実際にそうとはとうてい思えないのは、自分の心に照らし合わせると分かる。特にいわゆる日本のサラリーマンは、たとえばこの大麻の問題などについて自由な言論を公で行うことはほぼ不可能と言ってもいいかもしれない。サラリーマンには、暗黙の前提となっている社会の決まりに対して疑問を投げかけ議論をしようとすること自体が、暗黙に禁止されている、と言って過言でないように思う。理由はすこぶる単純で、そういう社会の異分子を自ら名乗ることで職のコースを外れるかもしれないという恐怖心を植えつけられているからだと思う。

ちなみに先の池田信夫はサラリーマンでないのでもちろんOKである。

しかしサラリーマンとはいえ、自分の家に帰ってくれば一人の人間に戻るわけだが、そうなったときに社会に対してラディカルなことを考えるだろうか。これはすこぶる疑問だ。人間はそうそう二つの顔を同時に持っていることはできないはずで、知らず知らず時間がたてば、結局は、社会が押し付ける暗黙の価値観を一個の人間としても肯定しはじめ、疑問を抱かなくなり、最後には飼い慣らされた国民に成り果ててしまうだろう。

ずいぶんひどいことを言っているようだが、自分もサラリーマンをずっとやっていたし、自分のこととして切実にそう感じるのである。加えて、飼い慣らされた国民になって人生を送ることにつき、そんなに悪いことは無い。いや、ぜんぜん無い、と言ってもいい。きっちりと国民としての義務を果たして生活しているのだから十分に社会の役に立っているわけで、その見返りとして生活の安定を得て、ときどき酒でも飲んで罪の無い愚痴を言う生活の、なにが悪いことがあろうか。

さて、脱線したが、大麻の話である。実は、先日、僕の古い知り合いに大麻のことを聞いたので、その話をしようというわけだ。ネットで大麻について調べても、大麻を吸うといったいどんな風になるのかについて、はっきり書かれておらず、掲示板などでおもしろおかしく嘘も交えて話されているだけで、本当のところが分からないのである。ということで、体験者の友人の言葉を紹介しようと言うわけだ。

その彼も今はまったくやっておらず、マリファナをやっていたのは期間にしてひと月ほど、さらに何十年も前の話である。彼いわく自分が経験した限りではマリファナに悪いところは何一つ見つからなかったとのこと。

それでは以下に紹介する。

「マリファナを特に考えなしに1万円で買った。ビニール袋に入ったタバコの葉っぱみたいな代物で、変哲ない。ただ、その匂いは独特で、マリファナを知っている人なら、すぐに必ず分かる臭いだよ。毎日はやらなかったけど、一日おきぐらいかな。昼間は仕事をしてるので、もちろんもっぱら夜の寝る前ぐらいにやってた。最初はたしかアルミホイルで小さなパイプのようなものを作って、それで先のところに、タバコをほぐした葉っぱとマリファナを混合して置いて火をつけるわけ。すーっと吸い込んで、そのまましばらく息を止めて十分に成分を取り入れてから吐き出すの。だいたい、そうだな、ティースプーンに半分ぐらいが一回分かな。吸っている時間はほんの5分か10分ぐらいだと思う。吸い始めてから1、2分で効きはじめて、結局、効いた状態から完全に覚めるのに1時間ぐらいという感じ。一時間ずっと吸ってるわけじゃないんだわ。5分ちょっと吸うだけで、そのまま飛んだ状態がかなりしばらく続く、っていう感じ。

で、1時間、飛んでぼんやりしているわけだけど、それが終わった後、もっと吸いたくなる、とかいうことはほとんど無い。一度にたくさんやっても効果はあまり変わらないし、1時間じゃ足りなくてもっともっと、たとえば一晩じゅう飛んでいたい、なんていう気は起こらないし、第一、吸い続けていてもそれは無理。だいたい1時間ていどで満足して、そのまま眠ってしまうことが多かったな。

さて、吸うとどうなるか、なんだけど、これは、それなりに人それぞれなのと、あと、吸っているマリファナの種類でずいぶん違うそうだ、ということは後から知った。俺がやったのは良品だったようで、いい経験だったんだろうね。

さて、葉っぱの種類によって効果が違うってのは、後に、オランダのマリファナショップの話を読んで知ったよ。まさに、ピンキリみたいだね。俺のが、どの種類だったかは知らないけど、一ヶ月ほどずいぶん楽しんで、リラックスさせてもらったよ。これから話す体験も俺が経験したことで、マリファナ一般ではない、というのは知っていていいかもしれない。

火をつけて吸い込んで、そうだな、2、3分すると何が起こるかというと、まず、耳に聞こえている音が変わってくる。マリファナは静かな室内でじっとして吸っていたんだけど、周りにある音が変な感じで聞こえるようになってくる。たとえば、左側の窓の外で木々の葉っぱが風で触れ合う音、斜め後ろの時計の音、右斜め前の扇風機の音、階下の住民がときどきたてるコツコツという音、隣の家がときどき水道を使う音、などなど、すべていつもなら気にも留めずにいる音があるだろ?

これらひとつひとつが生き生きと「音源」として、鳴り始めるの。自分がその中心にいて、そこからいろいろな方向に音源があって、それらが同時に音を奏でているように感じ始めるんだよ。音源の数がたとえば5つあったとして、意識がその5つすべてに均等に注意を向けることができるようになるわけ。きっとオーケストラの指揮者みたいな感じなんだろうね。

それで、それら偶然の産物である音源が、たまたまあるリズムを形作っている場合、それがたしかに音楽的なリズムを持った「楽曲」に聞こえることもあるよ。マリファナと音楽というのは特によく結び付けられることが多いけど、このせいだろうね。メロディーより、リズムだったな、俺が経験したのは。

この状態は非常に気持ちがよく、非常にリラックスしていて、まんじりともせずにそれらの音に囲まれてずっとじっとしていて飽きることがない。いや、飽きるというのは変だ、「飽きる」なんていう言葉自体がなくなってしまってるんだ。「行動するなにか目的」があって「それをやって」それで「次の目的に移る」という人間行動と、ぜんぜんまったく金輪際違う原理で存在している感じなんだ。「飽きる」とか「疲れる」とか「嬉しい」とかそういう人間的な反応と別次元にいて、静かに存在しているみたいな感じ。

とても表現しにくいけど、はたから見るとたぶん、単に呆然としているだけ、という風に映るだろうね。

以上のようにまず耳の感覚がおかしくなる。続いて、これは毎回起こるわけじゃないけど、たまに幻聴みたいなものが起こることもある。ただ、幻聴というより、実際にそこで鳴っている音がエフェクターを通って変な音に変化させられて聞こえる、と言った方がいい。この状態では、それぞれの音源の音量が、耳に入ってくる音圧で決まるのではなく、意識の度合いで変化するので、たまに意識がある音源に集中するとそのとたんに音が過激に変化したりする。

たとえば、隣の部屋で何か物音がしたとすると、それが、ものすごくはっきりした輪郭で、たとえば「クワッ!」とかいう妙な大きな音ですごくクリアに聞こえたりする。まるで音が視覚的な塊になってそこに出現したみたいなイメージがあわられる。それで、一瞬、なんだなんだ! と驚くんだけど、すぐにまたコンスタントな音のリズムに埋没してゆく。

以上、音の変化は一番先に現れるけど、そのあと、視覚の感じが変わってくる。ただ、この視覚の方はそれほど明確な変貌はせず、たとえばモノがグニャグニャ曲がるとか、そういう幻覚的なことは起こらない。それより、目の前にある変哲ないモノに意識がやけに集中してしまい離れなくなってしまうことがある。

たとえば、100円ライターの炎に見入ったまま、ずっと意識が炎から離れなくなったりする。ゆらゆらゆれる炎を見入っているだけですごい満足感に包まれる。あるいは、時計の針が回るのにずっと見入ったりする。

こんなこともあったよ。吸っている横にベッドがあったんだけど、そこに布団がぐちゃっとして置いてあったのね。それで、それが、どうしてもどうしても布団の中に人がいるように見えるわけ。そんなはずはないことを理性では分かってるんだけど、それがどうしても人に見えて目が離せられなくて、しかも、ときどきピクっと動くもんだから余計に人に見える。もっとも動いたのは錯覚だと思う。

以上が、マリファナをやり始めてしばらくの間続く状態なのだけど、マリファナの効能でひとつすごくはっきりしているのが「時間が延びる」ということ。感覚的に言って時間が5倍から10倍ぐらい長く感じられる。たった1分のできごとが10分ぐらい続いているように感じたりするんだよ。マリファナやってるときにも、いわゆる理性はなくならないので、ちゃんと時計も見れるし、時間も読める。それでときどき時間を見てびっくりするんだ。え? まだこれしかたってないの? と毎回驚くわけよ。

一度なんか、マリファナを吸った後、もよりの駅まで歩いて行ったことがあってね、そのときはすごかったね。駅まで歩いて10分ほどなはずなんだけど、意識の上ではたっぷり1時間はかかった。歩いても歩いても駅に着かないの。歩いている通りの周りで起こっていることにいちいち意識を向けているせいで、ただの商店街が「目くるめくワンダーランド」みたいに感じたりしてね。きっと、子供のころって、ちょうどそんな感じだったんだろうね。

以上、聴覚にしても視覚にしても、始まりもなければ終わりもない集中の中に、ただ、たんに意識が存在している、という、それだけの状態になるせいだと思うのだけど、「時間」というものが一時的に意味をなさなくなるんだろうね。

いや、「時間」というのは不思議な概念じゃないか。マリファナをやってわかるのが、「時間」はなくなりはしない。しかし、世間で言う時分秒で測られるところの「時間」がなくなってしまう、ということなんだ。常々思うけど、時間という概念には、そういう二重性があって僕らはみなこれを混同して生きていると思うんだ。

生物が元来持っている「時間」というのは、均一には決して流れないし、意識の度合いによって変化する代物なはずだろう。むしろ、時間というのは意識と同じと言ったっていいはずだ。意識の無いときには時間は無い、意識が集中したときに時間が表れる。「時間」は確実に「行動」と結びついていて、行動は意識と結びついている。時間が無ければ行動も意識もない。だから時間が錯覚だとは決して言わない。しかし、「均一に終末に向かって流れる時間」というのは現代人の錯覚だと思う。時計の針が「分」を指すようになったころから不幸が始まったのかもよ。

マリファナの体験で分かるのが、「時間」というのは実はとても優しくて親しい代物だっていうこと。「非情で容赦ない時間」という現代の発明物が、葉っぱの力で一時的になくなってしまうんだよ。

ミュージシャンにマリファナって、昔はつきものだったよね。今の世の中、特に日本ではまったく無理になっているけど、依然としてミュージシャンはマリファナで時々捕まってるよね。この音楽っていうのが、「優しくて親しい時間」を使った芸術なんだよね。コンスタントなリズムを使った音楽は現代に多いけど、「非情で容赦ない時間」は使ってないよ、均一な時間では音楽は作れないからね。

さて、ここでマリファナをやって聞いた音楽の話をしておこうか。なかなかすごい見ものだったんでね。

マイルス・デイビスの昔のアルバムに、モード奏法を完成させたと言われる「カインド・オブ・ブルー」ってのがあって、その一曲目にSo Whatという有名な曲があるじゃん。ミディアムテンポの長い曲で、コードの起承転結のない、ほとんどワンコードに近い曲だよね。これをね、マリファナ吸ったあと、ヘッドフォンをして、目をつぶって聞いたんだよ。

カインド・オブ・ブルーでは、マイルス・デイビスがトランペット、ジョン・コルトレーンがテナーサックス、キャノンボール・アダレイがアルトサックスを吹く。So Whatは、テーマの後、マイルスのトランペット、コルトレーンのテナー、キャノンボールのアルトと三人が順にソロを取るんだよ。

目をつぶってその3人のソロを聞いているときに現れた夢の中のようなイメージがすごくてさ、その話。

まず、マイルスのソロだけど、聞いている間じゅう、延々と伸びたガラスのチューブの中を高速で移動する乗り物に乗って、ジェットコースターのように移動するイリュージョンを見続けた。ガラスチューブの外には面発光体のようなものが貼り付けてあって、それらが後ろに向かってものすごい速度で飛び去ってゆく、そんな光景だった。

それが終わると、次はコルトレーンのソロ。こちらには今度は動くものは何も出てこなくて、静止した映像が1、2秒の間隔でフラッシュバックのように 次から次へと目の裏に浮かぶの。その映像が、なぜか、日本の五重塔などの寺院建築の屋根の下についている複雑に入り組んだ「裳階」のイメージと、 岩石が割れたときにできる複雑な断面のイメージの混合で、とにかく静止した複雑な形状のイリュージョンが連続してた。

この、二つのまったく異なるイリュージョンがそれぞれ延々と続いて、呆然としつつも自分の脳的には疲れきってしまった。どう考えても、どちらも異常極まり ない感じだったから。しかし、一見、ロングトーンが多く単純に言えばスピードの遅いフレーズを繰り出すマイルスが高速移動で、一方、超高速で繰り出される音のジェットコースターのようなコルトレーンが静止イメージだ、というのも面白いよね。

さて、そして最後にキャノンボールのソロになった。この人のときは、前の二人のときみたいな奇妙なイリュージョンはまったく現れず、「ああ、ようやく、ようやく、人間的で、血も涙もある暖かい人に出会えた・・」みたいな感謝の気持ちでいっぱいになった。最初の二人のマイルスとコルトレーンは、しかし、どう考えてもまともな人間とは思えない、ほとんど狂人に近い。そんな狂人たちの演奏で金縛りにあっていた自分を助けてくれて本当にありがとうキャノンボールさん、みたいな、そんな感じがしたんだよ。

本当に面白いイリュージョンだったよ。まさに、音楽の魂を見ているみたいな感じだったんだろうな、って思ったよ。

さて、まだいろいろ話はあるんだけど、これぐらいにしておこうか。

自分として言うとマリファナには悪いところはひとつもなかったな。結局のところ習慣性もないし、吸った後のダメージもない。習慣性とダメージで言えば「酒」の方が最悪にひどいよね、おそらく煙草も。マリファナは平和だよ。いまだに合法な酒と煙草と比較して、たった一点悪いところがあるといえば、それは「マリファナ吸いながら仕事ができない」ということかな。酒と煙草って面白いのが、両方とも仕事しながらOKなどころか、仕事を促進したりもするんだよね。マリファナはその点、まったくの逆を向いていて、やっている間は、勤労意欲は見事なほど完全に失われるね。

日本政府がマリファナに過度にうるさいのは、敗戦後のアメリカの影響とか聞いているけど、勤労というものから意識を開放されてしまうと政治が困るからなのかな、と思わないでもない。以前の日本は、マリファナつまり大麻は神社の祭事にはつきものな、伝統的な日本には無くてはならないものだったはずなのにね」

以上、友人の言葉を要約して紹介した。

彼を見ていると、まったくのノーマルな人間で、話を聞いていても面白そうだし、マリファナぐらいはいいんじゃないかと思えてくる。ただ、逆にマリファナ以外の麻薬は全部、ダメみたいだ。それだけは注意が必要ってことだろうね。

考えてみると、彼の言葉では、マリファナに比べるに「酒」と「煙草」を出していたけど、人間社会での同じようなアディクション(中毒)でいうと、なんと言っても「セックス」があるね。セックスも仕事しながらできないのでマリファナと同じ系列だね。それが証拠にマリファナと同じく国はあの手この手で制限して取り締まるしね。ただ、決定的にマリファナと違うのはセックスは子供を作るのに必須な生産的行為だ。そうなると、やはりマリファナはひとつだけ余計なもの、ということになるのだろうか。

さて、以上、世の中にはさまざまな中毒があるけど、そこには実際、目くるめく快楽や興味深い事実が待っていたりする。社会生活が無傷なまま中毒できる人は幸福な人、ということだろう。

ホームセンター

水曜日の昼過ぎ、一人暮らしをしているワンルームマンションを出て、ホームセンターへ足りないものを買いに行く。7月末の真夏の暑い日の中、国道沿いの、人がまばらにいる歩道を歩き、店へ向かう。

60歳を過ぎて、まるで25歳新卒サラリーマンの一人暮らしみたいなところに住みはじめて5日目ぐらいで、とはいえ借家ではなくAirbnbで借りた長期滞在マンションである。間取りは1K。いわゆるコンドミニアムみたいなものなので、ひと通りの日常品はそろっているが、ひと月以上住むには、たくさん足りないものがある。

入ってすぐ思ったが、オレはこれまで実にブルジョアな生活をしていた。ここに来る前は、スウェーデンの世界遺産の街にある庭付き一戸建ての大きな家に一人で余裕で住んでいた。自然の美しい、気候の過ごしやすい、抜群の場所である。あるいは日本に帰れば、世田谷区の一等地にたつ古いマンションの広い一室にいた。大きなリビングの一面がガラス窓で、外の緑が見える、そんなところである。

しかし、このAirbnbのマンションは1Kで外は国道なせいで窓を開けると騒音がうるさい。もっとも窓を開けたところで、目の前に貧乏くさい日本の家々が見えるだけで景観と呼べるようなものでもない。新築で、きれいなのだけがいいところ。エアコンを入れっぱなしにして、ワンルームに籠っていると、かなり、わびしい。なにかあったときも、生活レベルを極端に落とさない方がいい、ということはよく聞いたし、自分もそういうシチュエーションの他人にそうアドバイスしたこともあったっけ。それが、いまでは、自分がそうなっている。

まあ、それでも、だいぶいい方ではある。しかし、その中途半端感がまた独特のわびしさを喚起する。つまり、生活がクリーンに維持されているので、物理的な意味で生きる苦しみになることは決してなく、苦しまない分だけ余裕があるので、わびしくなる、というわけであろう。

炎天下を歩いてたまたま近くにあったホームセンターへ到着した。所狭しと商品が並んだ店で、いかにも日本的だが、店内に人はほとんどいない。それはそうだろう。ここは日本だ。平日の2時過ぎはみな職場で仕事をしている時間である。

グラスやマグカップ、コーヒードリッパーにザル、といったものをうろうろ探して回ったわけだが、たまに見える客は、オレと同じような年恰好のいかにもリタイヤして行くところのない爺さんとおっさんの中間ぐらいの歳かっこうである。なぜ、このぐらいの歳のおっさんの日常着ってのは、みな、白のポロシャツなんだろう。何度も洗濯したせいでゆるんで波波になってしまった裾をだらしなくズボンから出している。横から見ると腹も出ている。この独特なプロポーションは、かつての平安時代の絵巻物に出てくる中年男みたいな、あの、手足の肉が落ちておなかがぽこんと出ている、あの体型のさしずめ現代版といったところか。

オレとて、まあ、ひどいかっこうをしているわけで、オレはレジに力なく立っているそのおっさんを遠目で見ながら、まるで自分を外から見ているような気になっていた。

いかんいかん、やはり、わびしさが心からだいぶエネルギーを奪っているようだ。やっぱり国道沿いはまずかったかな、と思ったが、予約するのが面倒で放置しているうちに、このマンションぐらいしかリーズナブルなものが無くなってしまっていたのである。ひと月たったらここを出て、別のAirbnbへ移るが、そっちは商店街沿いで少しは居心地がいいかもしれない。しかし広さも設備も変わらないので、あいかわらず60過ぎのおっさんがワンルーム、という状況は変わらないのである。

レジの人もおっさんで、この人はおそらくこのお店の経営側の人だろう。髪の毛はあんまりなくて禿げてはいるが、背が高く、きびきびしており、おそらく50歳代であろう。商品をすべてレジに通すと、袋に入れますか、というので、自分はリュックに入れるからいいです、と答えたが、グラスを包んでくれもしないのか、まあ、いっか、と思ったら、これ、お包みしますね、とエアパッキンで包みはじめた。微妙に下手である。やはりレジ専の人ではなく、店長側なのであろう。

でも、なんだか、彼、疲れ果てているようにも見えた。これだけ客が少ないと経営も大変でストレスがひどいのであろう。今回買ったものも、実は百均で買えばぜんぶ100円で買えるようなものが500円とか、えらく高い。オレは、面倒なのでここですべて買ってしまったが、ふつうはこんな法外な値段のものはみな買わない。なので繁盛とはほど遠いのは、すぐに推察できる。

オレみたいなのや、よれよれポロのリタイアおっさんとかが、ぽつりぽつりと商品を買って、それでかろうじて持っているのであろうか。店長っぽいおっさんを別のおっさんが援けてるようなもんだ。などと思うが、もちろん、これはただの勝手な想像である。

オレはリュックに商品を詰めると、店を出た。広い国道には車がごうごうと音を立てて走り、日本の夏の日差しの中で、あたりがゆらゆら揺らめいている。ここは同じ広さの国道が立体交差する場所だ。ひどく錆の出た白い鉄の手すりがついた階段をのぼり、直交する上の国道に出る。用もなく周りにはすすきが生えている。上り切ると、ふたたびバカ広いだけの国道だ。この夏になると、殺伐として乾いた風情もなく、ただ、熱い空気がコンクリートの上に大量に停滞しているみたいな状態である。

オレはあいかわらず人のまばらな歩道を歩き、マンションへ向かい、いかにも無味乾燥な、電子施錠された鉄のドアを開錠して、押し開けた。

哲学の授業

たしか高校のときだったと思うけど、倫理社会かなんかで、一学期分だか西洋哲学の授業があった。先生のしゃべった内容はまったく覚えていないけど、授業はグループワークがメインで、4、5人のグループに分かれて、それぞれ、ギリシャ哲学とか、功利主義とか、実存主義とかなんとか割り当てられて、そのメンバーがそのカテゴリーの中の代表的な哲学者を担当して、それを最後に模造紙かなんかにまとめて発表、それから各自レポート提出、ってことになっていた。

僕のグループは実存主義で、僕はサルトルの担当だった。そのグループにいたオオヤマってやつはニーチェ、それからコイケってやつはヤスパースだった覚えがある。あとの人は忘れた。

で、そこでオレは初めて哲学というものに接したわけだが、それがたまたまサルトルだった、というのが面白い。高校の当時、自分は完全なる理科系人間で、科学の人だった。そういう自分にはサルトルの「実存は本質に先立つ」みたいな論理はよく理解できたので、彼の言葉にすごく魅せられた覚えがある。しかしもちろん、その論理の向こうにある実存の苦々しさや悩みなど微塵も分かっていない理科系小僧である。

というわけで、サルトルが気に入った僕は一生懸命レポートを書いて発表して、我ながらうまくできたように思って内心自信があった。ところがグループ発表になって、先生が特別に褒めたのはオレではなく、たしかオオヤマのニーチェの方だった。他のグループでも先生は感心したレポートにいくつも触れたけど、僕のはスルー、そして提出したレポートの点数も良くなかった。

とまあ、軽い失望だったわけだ。でも、いま思うと、これは当然のことで、理科系小僧のオレは哲学の背後に人間がいることを理解しておらず、まるで数学の公式か、物理の法則みたいに、その当の哲学を扱っていたわけだ。点数がいいわけがない。

一方、褒められたオオヤマだが、その授業のあとみなで話してて、彼、たしかこんな風に言った。

「あの哲学ってやつね、オレは哲学なんかホントにくだらないと思ってるよ。哲学なんていうのはあれはただの人間のエゴの記録だよ。この世で信じられるのは母の愛で、哲学なんかじゃない」

いま思うと同じ年とは思えないほど、ヤツ、ませてたな。が、ところが思い出したからいうが、ヤツね、かなりひどい道楽者のデザイナーの親父と、その家庭にものすごく尽くす献身的な母親との間の一人っ子で、頭脳明晰で小さいころから神童って言われてた。で、つまり彼の哲学観は、彼の家庭環境をきれいに反映してたわけだ。

で、後年、オレも哲学体系というものには背後に、あるいは前面に、「人間」がいる、ということがわかるようになったわけだが、それはだいぶ遅れてやってきた。おそらく40過ぎだと思う。

かの十代の理科系小僧がなぜそれを脱出したかというと、それは大学になって、ドストエフスキー、ブルース、ゴッホ、そしてなにより実生活での激しいごたごたを経た挙句であった。それらを経てようやく自分は、哲学も、形而上も、文学も、芸術も、宗教も、ぜんぶまとめて「実感」できるようになったのであって、まあ、遅咲きにもほどがある、ってなもんだ。

思うに哲学というのはいったん実感できてしまうと、それほど厄介なものじゃない。あとは単に複雑なだけ。そういう意味では数学と一緒かもしれない。そりゃそうだよな、数学も哲学も起源は同じだからね。ただ、数学は基本的に一つの真実というのを人為的に作り出しているけど、哲学にはそれは無く、「自分にとっての」真実を作り出すところが、異なっている。哲学者とは、自分にとっての真実が世界にとっての真実であって欲しいと強烈に願う人のことで、そこは芸術家と同じである。

ということは、やはりオオヤマがかつて言ったように、哲学はエゴなのである。こういうことをオレは63歳になって言っているが、オオヤマは18歳でそう言ったわけだ。あいつ、大学に行ったら、道楽者の父親遺伝子が全開になり、ひたすら女遊びしてたが、さっさと就職して、社会で仕事始めたら、とっとと世俗の垢にまみれた糞オヤジになってた。が、しかし、その後の消息は不明。道楽者の糞オヤジの彼も、その心に若々しいものを維持していたのかもしれないし、今もそうかもしれないし、ただのクソかもしれないし、とっくに死んでるかもしれない。

ヤツ、どうしてるんだろうね。ちなみにヤスパース担当のコイケはいまだ腐れ縁の呑み友達だが、こんど帰ったら以上の思い出話でも振ってみるわ。

窓際

昔のサラリーマンの窓際族は、まだまだ緩かったから、のほほんとしてて、それなりに悠々感があったよね。僕も三十年ぐらい前にオフィスにいるそういう人を何人も見たけど、パソコンの前で、いつも将棋ゲームやってたり、人差し指だけでキーボードをぽちぽち押しながら自分史書いてたり、のんびりとしたもんだった。

いまのブラックな大企業の現場でのリストラ予備軍は、デスクだけはかろうじて与えられるけど、パソコンなどコンピュータ無し、備品も無し、携帯も使用禁止、ってところで干されるんだ、ってどこかで聞いて、いたたまれなくなった。ひどいところはデスクもなく、何人かでたこ部屋に入れられて、9時から5時まで時間を潰すんだってね。

そんなことを聞いてしまうと、あるとき発狂して無差別殺人する人が出てもなんにも不思議じゃない気がしてしまうな。

昨晩に夢でねえ、そういう人をよくよく見たの。へんなさびれた路地にある古いビルの2階のオフィスの大部屋で、3人ぐらいの40代ぐらいの人が、仕事がまったくないまま出社してて、働いてる他の社員の中、ぽつぽつとデスクの前に座って、なんにもしてないの。なんにもすることがない人って、なにをしてるのかな、って、オレ、ずっと観察してた。

彼ら、机の前には座ってるけど、机に向かってはおらず、中途半端に横を向いていて、じっとしてるんだけど、なんだか少し困ったような表情をして、ときどき姿勢を変えているだけだった。並んでいる二人もいたんだけど、お互い向いてる方向が違ってて、もう、同じ境遇が長すぎて、雑談をするネタも尽きた、って風をしていた。

実はその夢、そのオフィスにやって来たこのオレも、することが無いの。そこの社員じゃなくて自分は派遣されてきて、知ってる人が一人しかいなくて、自分もなんの目的でここに来たか分からないの。だから、オレもその仕事干された人とあまり変わらず、それでもまだなんとなく仕事してるフリをしていて、そこの社員の人に愛想笑いしたりあいづち打ったりはしているけど、身の置きどころが無いの。

実は、そういう夢を自分は定期的に見る。自分がまわりにまったく必要とされていない人になる夢。人知れず自分も恐れているんだろうね。そして、そういう人がこの社会にいったいどれだけの数いるだろうって思う。おそらく膨大な数じゃなかろうか。そんな中、宗教にすがる人の気持ちもわかるってもんだ。

ところで、その夢の最後は、全社員あげての部屋の模様替えで、最後に作業が終わったら、全員が部屋の片側に立ってその出来栄えを無言でながめている光景だったのだけど、それは、オフィスの中にきれいにできあがった巨大な仏壇だった。

高級蕎麦店にて

昨日の立ち食いソバから一転して今日のお昼は高級蕎麦店。

広々としたテーブルに通され注文したおかめ蕎麦を待ってると、隣はカップルでおそらく40過ぎの人たちで、二人ともなんとなく意識高い系。男性が落ち着いたトーンで、立て板に水のように、よどみなく話して、女性がときどき賢そうな相づちや質問を入れる。さすが、こういう人たちは高級蕎麦なんだなあ、って感心して聞いてた。

で、注文の品がやって来た。ふたりとも同じ天ざるだった。

オレのおかめも来てたんで食べてたら、その隣の席から蕎麦をすする音がするのだが、これがまたとてつもなく大きな音で、オレが卓にいたらVU計振り切りの+4dBでフェーダー落としてたとこだわ。

店内に響き渡る蕎麦をすする音。

それにしても、日本人であれば蕎麦はもちろんすするもので、ただ、どれぐらいの音量ですするかはなかなか個性が出るところだよね。かの意識高い彼は、きっと日本の伝統の技として蕎麦は最大音量ですするものだ、という一種の信念に基づいていたに違いない(と言いたくなるほど、ホント、音がでかかったの)

で、露骨に見るのも何なんでおかめ食いながら、チラ見して耳を澄ましてたら、おかしい。相方の女性はぜんぜん音を立ててない。明らかに-22dB以下である。これもよくあるよね。まるでスパゲッティを食べるときのように細心の注意で無音で蕎麦を食べる女性。

なるほどなー、って聞いてたら、食事が半分過ぎたころに、女性の方が蕎麦をすする音をたてはじめた。とはいえ男性の方の大音量には遠く及ばず、申し訳なさそうに-12dBぐらいですすっている。ただ、これ、オレのすする音とほぼ同じ音量でふつうとも言う。

たぶんだけど、女性の方、男性のすする音のあまりの大音量にびっくりして、でも、相手の気を悪くさせないように、あるいは、自分が日本人のくせに音を立てないことを相手に見られて内心バカにされないように、という配慮からか、わざと音を立てたんだろうな、って想像した。たぶん、いい人だと思う。

とまあ、そういうわけで、高級蕎麦屋でも人間観察はおもしろい、という話でした。

立ち食いソバ屋のヘンな人

このまえ大井町の立ち食いソバ屋に入ったときのこと。そこは立ち食いと言っても座れる席があって、仕切り板でセパレートされてる。

まず、隣にあんちゃんが座った。そしたら彼、カバンから小さなスプレー缶とウェットティッシュを取り出して、テーブル、壁、仕切り板にスプレーしてティッシュできれいに拭き取る作業を始めた。それ見て、へえ、って思って、彼の番号が呼ばれて立ってトレイを受け取りに行くとき見たら、かなりオタク系のルックスで、でも、ジャケットもズボンも靴も新品っぽく、髪の毛もきれいに刈り込んで、えらく清潔で、やっぱり元々がキレイ好きなんだね。

そうこうしたら、別の背の高いオレと同じぐらいの歳のおっさんが入ってきて、カウンターで食券を渡すときに「ソバ大盛りのネギ抜き、汁抜きでお願いします」と言った。店の人「汁抜き、、、ですか?」と怪訝そうに聞き返すと、おっさん「はい、汁抜きでお願いします。大丈夫ですから」と言った。店の人、奥の調理に、汁抜きで、って言ったら、調理の人、汁抜き? みたいに怪訝。さらに周りの客も聞いてたので「汁抜きのソバっていったいどんなのだ?」みたいに話題にしてる。

で、汁抜きソバができて、トレイを受け取りに立ったおっさんに、店の人「大盛ソバ葱抜きで汁抜きです!」ってトレイを渡し、「おつゆ必要でしたらいつでも言ってくださいね、かけますから」と言った。おっさん「はい、大丈夫ですから」と言って、オレの前のちょっと離れたところに座った。

これはオレが予想した通りだったんだけど、おっさんカバンから小さな水筒を出して、蓋を開けると、黒い液体をソバにかけている。やはり汁持参であったか。

それにしても、そのへんの人々って、かばんの中に、スプレーやウェットティッシュやソバのかけ汁や、実に、いろんなものを忍ばせてるんだなあ。

やはり立ち食いソバ屋の人間観察って、おもしろいなあ、って思った。

管理されなかったころのこと

そういや去年、時効の話してて、そのうち書きますよ、って書いてないことがあった。

さっき、友人のHさんとしゃべってて、2000年あたりから日本の企業で急に管理が厳しくなり、ルーズなこと一切できなくなって、それで衰退していった、みたいな話してて、そういう締め付け管理衰退モードの中でも大企業で出世してゆくやつは、だいたい時流にうまく乗るだけであんまり感心するやつがいない。だいたいそういう輩って、イノベーションがどうのとかぬけぬけ言うけど、そういうのにロクな奴いない、みたいな話してた。

こうやって書いてるとなんかわりと負け犬感が漂ってて、でも、この日本では負け犬こそまともな人間なのだ、と言い張ることもできて、えーと、ま、それはどうでもいい。

という話をしてて、そっか、この話を書かないと、と思ったわけです。

とはいえ、やはりだいぶヤバい話なんで、とっくに時効とはいえ、いちおう伏せときましょう。しかし、おそらくだけど、みな、外に向けて言わないだけで多くの人が同じような経験をしてるんじゃないかと予想します。

なにかっていうと、過去の自分の会社での予算の使い方です。オレ、25年以上前、TVML (TV program Making Language)という発明をして一世を風靡したことがある。いまでいえばイノベーションそのものであった(でも、オレのその後のやり方悪く、花開きませんでした)

で、あれがなんで生まれたかって言うと、自分がいい加減な人間で、当時悪い事もしたからなんです。で、その話である。

というのは、そのTVMLを発明する前年まで僕はバーチャルスタジオという技術の研究開発をしていて、そこそこに成果が上がっていた。それで、毎年、あの手この手でアップデートして研究を続けていた。

技術っていうのは、一回それが回り始めると、それをあの手この手でいくらでも改良することが出来、かなりの年数持つものなのである。ということでオレも、毎年改良版を提案し、計画書を書き、予算をゲットしていた。

ところが、その25年前時点で、すでにバーチャルスタジオの研究開発を10年もやっていて、自分はもう完全に飽き飽きしていたのである。でも、自動的に改良を思い付くんで、惰性で続けてた。

で、25年前、その研究を止める最終年度、オレはまたまたありきたりな改良版を提案し、書類を書き、うん百万円ほどゲットした(もっとかも) 予算をゲットしたからには使わないといけない。ってことで、めんどくせーな、と思ったけどごく適当な仕様書を書いて、どこぞのソフト業者に発注した。でも、本人やる気なし。

いい加減な打ち合わせを一、二回して丸投げして、数カ月後に納品になったが、いい加減な検収をして業者の説明を聞き流し、ソフトを収めたDATテープを受け取った。で、なんと、オレ、そのソフトを開きもせず放置した。結局、そのテープはそのままゴミ箱へ行ったはずだ。カネをどぶに捨てるとはこのことだ。

じゃあ、その間、オレが何をしていたかと言うと、実験室にある最近買ったMacintosh IIsiにSculpt 3DというCGソフトを入れて、来る日も来る日もCGを作って遊んでいたのである。

まず、ソフトで楕円形の卵を作って、それに球を二つ付けて目にして、横に伸ばした赤い楕円でタラコみたいにしたのを2本で口にして、なんか顔になったんで、楕円のてっぺんの頂点をびよーんと伸ばして角にした。これがかの有名なボブである(笑

身体もぜんぶ楕円の延長で作って、さて、オレはそれをスクリーン上で歩かせることに夢中になる。しばらくしてサイン・コサインで歩いた。次はこいつをしゃべらせたいと思い、口に切れ目を入れて顎を作ってパクパクするようにした。

となりで研究してる言語処理グループが、たまたま購入したDecTalkという深緑色の箱が英語をしゃべる、ってんで、そのグループのキムさんっていうヤツにDecTalk貸して、って言って借りた。キムさんはキムさんでぜんぜん働く気の無いいい加減なヤツで、DecTalkを予算で買ったものの使わずに放置されていたのである(キムさんとオレは今も親友。やつその後Samsungで出世)

そのDecTalkに英語しゃべらせて、その音声信号でリップシンクするように苦心してソフトを組んで、果たして、ボブが口パクして英語をしゃべって、歩けるようになった。当時、オレ、Cheech & ChongとBeavis & Butt-Headが大好きだったんで、ボブに

Let’s go break something. That would be cool.

とか歩きながらしゃべらせて遊んでた。そうこうしているうちに台本駆動を思い付き、それがTVMLになったのである。

ちょっと思い出話が長くなったが(爺なもんで、すいません)、このTVMLは25年前なので極めて斬新で、驚きを持って受け入れられたが、これができたのも、オレが超不真面目で、バーチャルスタジオの研究がイヤでたまらず、最後の1年間、うん百万円を完全にどぶに捨てて遊んでいても、それでも研究所が、僕のような不良を野放しにしたことで生まれたのである。

みなさまのお金をこのように無駄にしたのは、たしかにオレが悪い。でも、そのおかげで一つのまた別の新しいものが生まれたのも事実なのである。

もし、オレがクソ真面目なエンジニアで、費用対効果に常に気を付けながら、金を使って開発した以上はきちんとこれを成果として残さねばならないし、次年度へ続け、中長期計画に沿って展開せねばならない、などと考えて仕事をする輩だったら、あのTVMLは絶対に生まれなかった。

要は、20世紀の終わりごろは、まだルーズな時代で、研究者の管理はきわめて不徹底だった。したがって予算も研究者本人の裁量にほとんど任されており、外部チェックは入らなかった。オレのような不真面目なやつが、不真面目なことをしても闇から闇へである。

もちろんコンプライアンス的にそれはNGである。しかし、そのルーズさ、ゆるさ、金銭の裁量の一元化によって、たくさんのダイナミズムが生まれ、それが日本の本当の意味でのイノベーションを引っ張っていた、という側面は確実にあると思う。その遺物が、日本人のノーベル賞の多さに現れているのである。

今後、そういうことは無くなるんじゃないか、と危機的に語られるのをここそこで目にするが、オレも自分の経験に照らし合わせて、その通りだめになると思っている。

しかし、日本組織は、おそらくもう元に戻ることは不可能だと思う。イノベーションっていう単語だけ発するやつらが出世してエラくなって、それで終わると思う。

なので、日本はいったん完全に終わるか、あるいは、また完全に別な道を「個人のレベル」で模索するんですね。日本の大衆は、まだ個人のわがままを許すからね。