村上春樹のドライブ・マイ・カーを読んだ。これでようやく春樹ファンの人間と少しは話ができるのかもな。
村上春樹は、大昔、なんかの本(忘れた)を読んで、こんなもんは下らん、とか言って、即座に嫌いな作家ラベルを付けて、見向きもしなかった。もう30年は経ったんじゃないかなと思う。なにせ、オレはドストエフスキーという筋金入りの狂人の書いた文学のドメインを持った作家以外は認めない、超偏狭な人間だったしな。
で、いま、村上春樹を読んでどう思うかと言えばこんな感じ。人の、外から見たその上辺と、その人の意識の中の心理葛藤と、その人の無意識に横たわる業のようなもの、その三つがまったく対等に扱われて、物語の上で戯れている感じ。
彼の小説を覆っている独特の哀愁は(といっても、2、3本しか読んでないが)、それら三つを熟知した上での諦念のようなものに見え、昔のオレはそれが気に入らなかったのである。
とはいえ、この諦念を伴った戯れの哀愁は、まー、なんというか、自分も歳を取って、さまざまな経験をして、切実に分かる感覚ではある。それは、村上春樹、という詩情なのだが、オレもそれが分からない、などという野暮な人間じゃない。
しかし、オレはこういう筋金の入らない文学は、あんまり趣味じゃないな。
でも、これが素晴らしいという人の気持ちは分かる。スウェーデンの若者にも彼、人気だったしね。それにしても、日本のアマゾンでレビューを見ると、まあ、みな厳しいねえ。それにしても2700も評価が付いててすごい。あと、映画を先に見て、分からなかったから原作を読んでみた、って人が多数で、ま、そういうどうでもいい人たちが低評価を付けてるだけとも言う。
僕が読んでいるのは、ドライブ・マイ・カーを筆頭にした「女のいない男たち」という短編集なのだが、厳しい評はいくらでもできるけど、オレはそれをする気にはなれないな。それは、文の全体を覆っている、諦念や悲観、という、まるで更年期障害による軽い鬱みたいな情熱の欠如が、自分にも、染み入って来ている年頃だからなのかもしれない。
ま、要するに、彼の言っていることが分かるのである。
短編集の後の方にあった「木野」という作品は、芥川の歯車を強く連想させた。なるほど、彼の諦念と悲観は、芥川由来かもしれない。そう考えればなんとなくうなずける。でも村上春樹は間違っても狂死するような人じゃないので、そこで、あの哀愁がその代わりを務めるのかもな。
それと、映画のドライブ・マイ・カーも見た。村上春樹のいろんな短編からモチーフを取ってきて作ったのはいいとして、チェーホフの戯曲とシンクロしてストーリーが作られていて、原作とかなり大幅に違うのにびっくり。映画の方のテーマがチェーホフの戯曲に傾いているせいで、そのテーマの意味は重い。僕は原作の方が楽しく読めたかな。
楽しく読めた、という感想が示す通り、僕には、村上春樹は娯楽と休息以外の意味を持つように思えない。それは現代的な生活状況の正確な描写なので、それでいいのだが、僕の人生はその状況に満足していないので、今後、村上春樹を自ら読むようなことは、無いだろうな。