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理科系の輩への愚痴

僕は物理を初心者に教えるときにいわゆる比喩を使うのに反対。余計に分からなくなる。

というのは、物理学というのは、もうすでに比喩なのであり、それをまた別の比喩で教えると、比喩の比喩になり、また、教える理科系の輩もさまざまなので、自分勝手な比喩をやたら作り出し、そのせいで比喩の比喩が乱立し、ほぼ収集が付かなくなる。それなのに、それらセンスのない理科系の輩は、自分の一種の創作である比喩を、極めて愉快に楽しそうに初心者に与え、自分で自分の創作に悦に入ってる場合がほとんどだ。イタイってのはこういうときに使う言葉だ。

なんでこういうことが起こるんだろう、って、オレはどうしても考えちゃうよ。

たとえば、で言えば、電気の説明。電気の場合、定番の比喩は「水」を使うことである。ある電圧を持った電池には電位があり、その電位差のあるものを導線でつなぐと電流が流れる。この、電池、電圧、電位、電流、というものを説明するとき、水を使うのは定番中の定番。高いところに水があると、その水は下に向かって流れる。そしていちばん下に行った水をポンプでくみ上げ、また上に持って来る。その上下の中の位置を電位、上と下の距離を電圧といい、流れる水が電流、そしてポンプが電池であり、なんらかの仕事ができるパワーを持ったものである、とかとか説明する。どっか違うかもだけど、まあ、こんなもんだ。違っててもオレは知らん(笑

だいたい、なんで水なんていう取り留めも無い、電気と何の関係もない物質を持ち出すのか。水は高いところから下に流れる、それでよろしい。じゃあ、電池を位置的に逆にして、上をマイナス、下をプラスにしたらどうなるのか。もう、その比喩は破綻するではないか。いや、破綻はしないが、説明に余計なものが入るのは間違いない。なぜそんな問題を無益に大きくするような比喩を持ち出すか、僕にはさっぱり、分からない。

ふつうにマイナスの電荷を帯びた電子が移動するのが電流です、ってなぜ素直に言わないのか。

ここでひとこと言っておくが、この「電子」というのも、現在の物理学が創り出した比喩の一つである。物質というのは比喩なのである。もっともこの話は哲学論争なのでここでは深入りしないが、いま現在では、パチンコ玉みたいな電子がマイナスの電気を持ってて、それが導線の中で、押し合いへし合いしながら電子がプラスに引かれて、そっちに向かって動いている、という説明がいちばん端的な「ネイティブの比喩」だ。

なんで比喩なんて言うかと言うと、実際にどうなっているのか、誰にも永久に分からないからだ。なので、物理比喩の並立・交替は永遠に続く。たとえば、電気現象なら、目に見えない電界磁界という比喩(約束事)を仮定して、マックスウェルの方程式で数学的に規定する、という方が電子の比喩より応用範囲は広い。並立しているのである。ニュートンの万有引力と一般相対論の並立みたいなものだ。これは物理学という学問の性質上、永遠に決着は付かない。

結局、言いたいことは、物理学が比喩の上に成り立っているんだから、相手が小学生であれ何であれ、その「ネイティブ」の比喩(ここでの例では電子)を最初から使って説明した方が、小学生だってぜったいにその方が分かりやすいと思うし、将来のためとも思うのだ。

水の流れと電気の流れは、だって、ルックスからしてぜんぜん違うではないか。電気の流れは目に見えないから、だから目に見える水を使うんだろうが、水には水の性質というものがあるので、じゃあ、豆電球が点いてる導線を氷で冷やせば、凍って豆電球が消えるんですか、ってことになる。いやいや、水はただの比喩ですから、って言うのか。そんな「比喩」なんていう高等なことは、最初からあなたが現象を物理学的に理解しているから出るものであって、何も知らない小学生はそんなことは最初から知らない。だから教えるんでしょうが。

とにかくだ、比喩の比喩を使っていい気になって初心者に説明する理科系の人々は、オレは間違っていると思う、ということでした。

ちなみに、もうひとつ理科系がおかしがちな間違いは、説明の言葉を「優しく」するという手法である。「電気ってのはいったい何なのか、みんなで考えてみよう!」とか言って「いいかい、電気って目に見えないよね? だから君たちのまわりにある物で考えよう」とか言って「水って高いところから下へ流れるよね。ほら、君も川に行ったことがあるだろ? あれって、高いところから低いところへ流れるよね? え、そんなの知ってらい? ごめんごめん、でも先生はね、その川が電気の流れと同じってことを言いたいんだよ。どうだい、これってすごいことだと思わないかい?」

とかとか切りがないが、こういう小学生をバカにするような言動を教師は厳に慎むべきである。教師たる者の第一条件は、相手を下に設定してバカにしてはいけない、ということである。

大人が理解する、そのままの形で、小学生相手でも説明するべきだと思う。ある現象については、小学生では難しくて理解できないかもしれない。でも、その「理解できないモノ」が、現在の真理であれば、無垢な心を持った子供ならば、必ず、それを正しく理解する日が来るはずだ。そういう無垢な子供の心を、自分勝手な稚拙な比喩や、手前勝手な物言いで、汚してはいけないのである。

あー、クソ、だんだん腹が立って来た。なので、これで止め―!

NHK

NHKは僕がかつていたところだが、いまは逆に僕がNHKの下請け的な仕事をしていて、なんだかんだ技術系の部分に関わっている。NHKには、番組制作と放送技術、という二つのぜんぜん異なる分野がある。僕はその後者の技術研究所にいた。

で、前者の番組制作について思ったのだけど、番組を作っている組織というのは、いちばん上にプロデューサー、そしてディレクターがいて、その下にたくさんの人がいて末端(ではないのだが)に役者もいれば使い走りもいる、という様子で、今ではたぶん昔より合理化されたとは思うけど、なんだかんだで、トップのプロデューサは現場にも来るし、ディレクターは必ずいるし、人によってはまだ現場で怒鳴ったりしてるんじゃないだろうか。

で、昨今の世の中での芸能界は、ジャニーズや松本人志に見るように西洋風の浄化に向かっている。でも、これを逆に見ると、日本では、いまだにトップが末端とかかずり合っていて、日本的に一体になったカオス集団を作っていた、とも言えると思う。ちょっと内容が半社会的なので発言を書くのに苦労するが、言いたいことは、昔の番組制作の組織は一種の有機体の塊だった、ということで、それがなんと、今に至るまで維持されている、という風に見えることだ。

その弊害は見ての通りだが、その利点は確実にあるはずだ。それはおそらく番組という作品を作る、創造力と構成力と実現力、といったもろもろのクリエイティブを養う、母胎として機能していたのではないか、ということだと思う。僕はテレビを見ないからホントは知らないんだが、また聞きで、今でもNHKが作品の強い制作力を残している、というのは、そういう事情に支えられていたから、という一面もあると思う。

一方、放送技術の方は、その性質上、合理化がかなり容易で、次々とそれが行われ、いまじゃ、技術研究所の面々は、発案して、仕様を書いて、下に発注して出す仕事がメインになっていて、本人たち、あたかもクリエイティブな上流な仕事をしていると思い込んでいるようだが、出て来るものを見ていると、あまり創造性が感じられない。これは早晩終わるだろうな、という予感しかしない。

で、思ったのが、技術分野は番組制作分野と違って、下請け構造が確立していて、下流の仕事に上流がかかわらなくなっている。よくいうように、「手を動かさない」のである。プランニングと仕様書き。それはたしかにクリエイティブな仕事なのだが、月並みなものしか出て来ない。「末端の仕事の、退屈で苦労ばっかり多い工程を外注して切り離し、その無駄な時間が空いて自由になった時間を、クリエイティブな仕事に回せる」という、よくある論は、僕は完全な間違いだと思う。トリクルダウンに似て嘘ばかりだ。

というわけで、NHKも、番組は評価できるが、技術研究は低迷、ということになり、その理由は、仕事全体の有機的一体感が無くなっているせいかな、と思ったのである。

しかし、これはただし付きで、この事態は恐らく日本であるがゆえであろう。日本人は文化的に、そういう組織が有機化することでクリエイティブマインドを育てたのであって、西洋のように強固なフレームワークだけ作って中の人間を自由にさせるやり方と、根本的に違う。

で、たぶんだけど、これから番組制作現場も技術と同じく合理化が進み、問題は少なくなるだろうが、番組はつまらなくなって行くであろう。まー、オレの言ってることが合ってればね。

オレとしては、別にNHKがつまらなくなって消滅しようと、痛くもかゆくもないから、好きにしたら、と思うだけ。23年もお世話になった古巣に対して、オレもなんとも冷たいな、と思うけど、正直、なんにも愛直、ないのよねえ。そういう性格だからかな?

リアリティ

僕の好きな昭和の俳優は何人もいるけど、特に森雅之とか仲代達也とかはかなりセリフ棒読み的な演技をするタイプだと思う。で、僕は彼らのその不自然な演技がたまらなく、大好きだ。

それで思い出したのだが、昔、自分が若かったころ、日本のテレビドラマとか見ていたのだけど、当時のセリフ回しは、やはりお芝居から来ていたのか、なんだか演技にリアリティを欠いていると思った。

で、そのころようやくハリウッドの映画など英語のドラマをちらほら見はじめ、その普通の生活の中の普通の人々のしゃべり方やしぐさなどの演技が、日本のそれに比べて、すごく自然で滑らかでびっくりしたことがあった。

それに気付くと、なぜ日本のドラマはああまでしゃべりもしぐさも不自然なんだろう、やっぱりアメリカの映画はすごいな、などと思った。

しゃべっているのが英語という外国語であるというのもあるけど、やはりそこには「リアリズム」が強く、僕らがいま現在自分の周りを実際に見て聞いている経験をそのまま映像にする、というリアリティが優先された結果だと思う。

一方、日本のドラマや映画は、そういうリアリティより「形式」を重んじる傾向があって、そのせいでリアリティが減ってしまい、なんだかアメリカ映画に比べて、劣っているように、若い自分には見えていた。加えて、なぜ日本の俳優はなぜあんなに不自然な演技をわざとするんだろう、と不思議で仕方なかった。

いま考えると自分は素朴だったな、と思う(素朴は英語でnaive、そしてnaiveとはバカのことである)

なぜ人は「リアリティ」にかつての僕のようにそこまで驚くのか。昨今の映画やゲームの極度にリアルなコンピュータ・グラフィクスとか、ChatGPTがよこすリアルなしゃべりとか、画像生成AIが作るリアルな画像とか、もう、あれよあれよと進化して、リアリティはいまや極限にまで近づこうとしている。

そして、なぜそのリアリティにそんなに説得力があるか、というと、それは人工物が実物に近づくのは「すごい」という感覚が僕らにあるからだろう。

では、そうだとして、その目指すべき「実物」とは何か。

先に言ったリアリティの多い少ない、で言うと、そこでの「実物」が「物質的存在」であることは間違いないと思える。僕らの心の方が、物質的たしかさを求めているのだ。だから、それに限りなく近いリアルなCGとかリアルな生成AIに驚き、そこに過剰な価値を与えてしまう。と同時に、この世界に存在しない完全な人工物を、神が造った通りに正確に真似て、人間自らの手で作り出した、ということを誇る気持ちがあるからではないのか。

でも本当にそれでいいのか? 

たとえば、その「実物」が、物質的現実の代わりに「浮世絵の世界」であってもいいはずじゃないか。江戸時代であれば、そのときのドラマはほぼ「歌舞伎」になる。自分は、かつて古本屋で「東海道四谷怪談」の脚本を収めたぶ厚い文庫本を買い、すごく気に入って、何度も何度も読んでいたことがあった。そうしたら、自分の心のなかの「現実」が「浮世絵の世界」に成り代わり、そして、まるで浮世絵に登場する、あの不格好で異様な形状をした人間どもが、四谷怪談の台本の上で実際に動いているさまが、はっきりと見えるような気がした。

そのとき、オレは「江戸時代が見えた」と思って、異様な感動を覚えたよ。

この経験に比べれば、人工物が物質的現実に近づくなんて低級な話だ、と思ったよ。しかもだ、超リアルなCGや超リアルな生成AIを作り出すのに、あんたらどれだけ地球上のエネルギーを無駄にしてるんだよ、って思う。あれらを作るのに、莫大な量の石油や核燃料が使われて、かたや世界では食う物も無く死んでゆく人がいる、ってどう考えてもおかしいだろ。

そう思わないのかね欧米のSDGsな人々よ。別にリアルに文句はないが、少しは反省しなさい、って言いたくなる。

思考停止

なんとなく、YouTubeの、日本再生のための会議とか、見ちゃったりするんだよねえ、外国にいると、寂しいせいか。

さっきは安宅さんって人がしきりにアジってた。僕も一時期そういうところに出入りしていたから知っているが、典型的な、六本木界隈に大勢いる知的エリートの、ほがらかさ、明るさ、適度の気安さを持っている人の一人で、しゃべりが面白いし、理解もできるけど、金払ってまで続きを見ようとは思わないな。その動画では、彼は、日本には異人が必要だ、って力説してた。

さいきんオレは小林秀雄の本居宣長を読んでるけど、あんまり分からないながら(ってのは本文に古文が多すぎ)、とても共感するところが多いんだよな。

ああ、古い日本。前にも書いたけど「思考停止」って言葉がオレは大嫌いで、それを聞くと、思考なんていう低級なことはインテリに任せておけ、とか放言したくなる。

思考って、「考える」でしょ。で、考えるの日本語の語源は宣長によれば(たしか)「かむかへる」なの。かむかえるっていうのは迎える、ということ。物について考える、というのは元々は「物を迎えて、それと交わる」という意味だったんだそうだ。こういうのを聞くと、あまりに高級な概念で、心底うっとりする。こういうものに比べたら現代インテリ共の思考なんていうものは低級なもんだ。

そんなバックグラウンドがあって、他人をつかまえて思考停止って偉そうに揶揄するのが大嫌いなんだ。宣長のいう意味での日本古来の「考える」は、宣長から小林秀雄、そしてオレ、と伝わっていて、もう自分には染みついている、と、この本で本居宣長を改めてあれこれ知って思ったな。こんなえらい学者が江戸時代にはいたんだよ。

YouTubeに現れる日本の未来をなんとかしたい人々を否定する気はない。でもさあ、あのアジテートを聞いて「そうだ、そうだ、本当にそのとおりだ!」って気勢を上げるのはオレは真っ平だな。

だから、彼らの言葉をよそに自分は、宣長式に行くことにするよ。ある意味じゃ安宅さんのいう異人になるってことだが、まー、オレの場合は役に立たない異人だな。もうそれでいいや(笑

偉い人のオーラ

何回か話しているが、だいぶ前、なんかわりと由緒正しい賞をたまたまもらって、豪華な授賞式へ行ったことがあった。そこには、当時髭の殿下と呼ばれていた三笠宮家の寛仁さまが列席されて、最初にスピーチした。

そのときすでに病気で声帯を失っていた殿下は電気発声器みたいなものを使って、変な声でしゃべったのだが、最初にそれを冗談めかしてみなを笑わして、それでスピーチを始めた。

終わってから降壇して、花道みたいなところを歩いて、それで式を途中退席して帰って行ったのだけど、僕は一部始終を見ていたが、殿下は、もう、異常なぐらいに濃厚なオーラを纏っていた。あんな人間、初めて見た。なんだか同じ人間に思えない。

というわけで、そういう特別な霊みたいな存在が、そういうふうに我々庶民から見えるとして、その霊をごく自然に敬う、という感覚は、これは日本だけじゃなくてあらゆる民族にあるのだろうなと思う。その霊の存在は、その民族の根底をなしている、と言ってもいいかもしれない。

それで、その霊の存在がいまの殿下の例のように、ある特定の人に集中する場合、まさに民族主義がきれいに成立する。

三島由紀夫の天皇がこれと同じなのよね。三島によれば、彼が通った学校の卒業式に天皇が列席したそうで、その式典の三時間の間、天皇は彫像のように微動だにしなかったそうだ。三島は、そのご立派な姿をどうしても自分の中で否定できないのだ、と言っている。これは、まさに僕が式典で殿下を見たのに通じる。

一方、乱暴な言い方だけど、西洋では、霊は人につかず、そのむこうに神やイエスがいる。オーラを纏った偉大な人は多くいるし、尊敬の対象になるけれど、その本当の霊は、その人の向こう、あるいはその上に、抽象的な形で現存していて、人々が敬うのはそっちの方だ。

スウェーデン暮らし十年で得た印象は、その向こうにいる神の存在が、今はほぼほぼ科学にとって代わられた、ということだった。神の存在は結局証明不能で終わり、いないことになったが、その代わり我々人間の手で独力で産み出した科学がある、と誇らしげに宣言しているように見えた。

これは日本の場合とぜんぜん違う。

で、唐突のようだが、この日本のノリは、ロシアととても近い。いま、プーチンがああいう風に振る舞わないといけない、というのは必然であって、彼は皇帝のように見えていないとダメなのだ。欧米文明に完全に毒されてしまった日本人の大多数は、それをほとんど理解できなくなっている。

まあ、日本の場合、そうして行き場の無くなった霊は、サブカルチャーをはじめ、いろんなところで噴出しているから、別に支障はないのだけどね。コロナの99%マスク現象なんかとてもいい例だったと思う。

異国の食いものの話

僕の住んでたスウェーデンのウィスビーに、スウェーデン人の旦那とロシア人の奥さんの夫婦がいて、ときどき、遊びに行ってた。

で、ロシア人の彼女が作るパンケーキとボルシチが美味しくてねえ。長年に渡って作られた家庭料理ってすごいなあ、って思った。パンケーキは、彼女、毎朝焼いてるんだけど、変哲ないけど絶妙な味と食感がすばらしかった。そしてボルシチはベジタリアンなやつだったけど、野菜だけでこんな風にできるんだ、って感心。この料理、いままでレストランその他でずいぶん食べたけど、彼女のボルシチがいちばん美味しかったな。

一方、ご主人のスウェーデン人の彼は自家製ビール作りが趣味。リビングに改造冷蔵庫が置いてあって、冷蔵庫の中にビールのあの巨大なボンベみたいなのが2本入ってて、側面に開けた穴にビールサーバーの蛇口がついてんの。で、常に冷えた自家製ビールがそこから飲み放題なの。で、このクラフトビールがまたおいしくてねえ、飲み出したら止まらない。飲み放題だしね。

オレはオレで自家製のどぶろくを持って行ったっけ。なじみの無い味なのか、微妙にウケなかったが(笑

あと、そういや、シリアから難民入国でスウェーデンに来た、わりと若い男性の家にお呼ばれしたことがあって、彼がけっこう豪華なシリアの家庭料理のフルコースでもてなしてくれた。シリアでは男性が料理するのかな。で、これがまたまた絶品の家庭料理なのよ。使っているオリーブオイルは取り寄せで、オレ、あんな素晴らしい味のオリーブオイルって、おおむかしギリシャへ行ったとき以来初めてで感動した。数々の料理は、見たことも無いような独特なもので、本当に美味しかった。

あ、あと、やはり中東から来たおばさん連が作ったお菓子を、おすそ分けでもらったことがあって、これがまた旨かった。羊系のなんらかの脂と大量の砂糖で作った、かなりあくどくて劇的に甘いお菓子だったが、食べてて、意識が中東のあの世界にトリップしそうな独特な味で、感動した。

まだあった。あるとき中国人の先生がオレの学科に着任してスウェーデンで一人暮らしを始めた、彼がオレと同じく料理が趣味で、中国料理のすべての材料を通販で取り寄せ家で調理してた。あるとき、彼の家にお呼ばれして、彼が郷土料理をフルで作ってくれた。北方出身で、どこか場所を忘れちゃったけど、その料理がもう、これは、今までのどこでも決して食ったことのない独特な中国料理で、今でも自分の語り草として残っているが、本当に感動的だった。まるで、中国の地方の奥地のお家にお呼ばれして食べているような、そんな料理だった。

オレがスウェーデンに移住して本当に良かった、と思ったのは以上の異国の本場料理を食えたことぐらいかな。

長くなったけど、最後にもうひとつ思い出したのでついでに書いとく。これは僕の中では貴重中の貴重なスウェーデンでの経験で、別に書いた方がいいかもだけど、僕より年配の生粋のスウェーデン人の先生がいて、彼は奥さんが亡くなって一人暮らしなんだが、彼が自宅のディナーに何回か招待してくれた。そこで、ダイニングルームの調度品から食器まで完璧なヨーロピアンな中で、彼自らが調理したイタリア料理のフルコースをふるまってくれた。彼はスウェーデン人だけどイタリアフリークで、毎年フローレンスへ訪れるほどなのである。

それでそのディナーだけど、これは、もう、何をかいわんやで、僕がスウェーデンの十年で高級レストランも含めて食べた西洋料理のなかでも、ダントツに素晴らしかった。美味しいなんてもんじゃなく、スープからデザートまで、すべて絶品だった。彼、なんであんなことができるんだろう。ヨーロッパの趣味人のレベルというのは桁違いだな、と思ったよ。

そしてそのとき特別に抜いてくれた、希少だという年代もののイタリアワインは赤だったけど、あれ以上の赤ワインを、生涯でオレ、飲んだことが無い。ほんのかすかな雑味もないあっさりした清水のような飲み口なのに、深い深い味と香り。この世にこんなすごいワインがあったのか、というほどだった。

とまあ、結局、オレ、昔からだけど、異国文化は食い物から入るのよね。そして、食いものに終始するのかもしれない。

汎用人工知能(AGI)

これはずっと前から言っているのだけど、脳の機能というのは「制限する」ことだと思う。僕の感触では、生物には、本来はおよそあらゆるものがすでに見え、感じられていて、脳や、目とか耳とかの器官というのは、その、世界にすでにある、あらゆるモノが生物に無尽蔵に流れ込んで来て起こる無意味な混乱をせき止めて、それを生物の行動にとって意味ある知覚認識になるように「制限」をかけている器官の数々だと思う。

この考え方は、フランスの哲学者ベルグソンのもので、彼がこうしたアイデアを唱えたのはいまから百年以上前のことである。僕は彼の著作を何度も読むうちに、正確な理解は難しいながら、世界に対する全体的なイメージ図を、このベルグソンから引き継いだのである。なので、そういう意味で、上述は僕の単なる思い付きではない。

たとえば、麻薬やある種の薬物は人に幻覚を引き起こす。これらの物質は脳に働き、脳の機能を麻痺させる、あるいは過度に活性化させ、脳の機能を狂わせ、それによって幻覚を起こす、と一般には考えられていると思うけど、上述に照らすと、それはちょっと違うと思う。これら薬物は、脳の外界を制限する機能の一部を破壊して、その部分を無防備にするのだと思う。そうすると人の周囲の外界にすでに存在している錯乱が、脳で止められることなく、意識に侵入してくる。それで幻覚を見るのである。

この事情は、およそヴォワイヤン(見者)系の芸術家なら自らの経験からよく知っているはず。それは、ヴァン・ゴッホでもいいし、ランボーでもいいし、モーツァルトでもいいし、ドストエフスキーでもいいだろう。

だから、昨今のAIに関する議論で、AGI(汎用人工知能)が出来る、出来ない、いや、すでに出来ている、と、喧々諤々の騒ぎだが、僕にとってはAGIの議論ほどバカバカしいものはない。

前述の考え方から言うと、「知能」というのは、「人間」により作られた「制限」そのものに過ぎない。したがって、その知能をAIで実現する、というのは、単に人間がどのような知能という制限をAIに課すか、というだけの問題で、現在取りざたされるAGIは、お話にならないほど狭い人間的活動だけをターゲットにして、それを実現するために必要な制限を作って掛けているだけに過ぎない。

人間の広大な認識思考は、知能という制限をはるかに超えている。知能がAIで実現され、AGIができあがって何かいいことがあるかというと、それはひとえに、そういうお話にならないほど狭い知能というものをもって、人間は知能を持つ優れた存在だとする、そういう愚かな、主に科学主義な連中をAIに置き換えて、世間から一掃させることぐらいしか思いつかない。

彼らは単に、自分で自分の首を絞めて、自分らを世の中から抹殺しようとしているに過ぎない。どういう料簡なのだ、と思う。

ところが、そういう彼らは、自分たちはAIを一段高い見地から見て論じている、という自負があるせいなのか、自分たちはAGIでリプレイスされない層にいると信じて疑っていないように見える。でも、たぶん、AIが進歩すれば、もう彼らみたいな知識層は不要になる。理由は、AIと同じで、彼ら、下らんことしか言わないからだ。

でもそれは、彼らという「人間」が不要になるわけではない。不要になって置き換えられるのは彼らの「知識層としての仕事」だけであり、彼らという人間はそのまま残り、その後も、飲みも食いもして、泣いて笑って生活する、そんな人生は続くわけである。めでたくAGIが実現してシンギュラリティが来て、彼らのつまらない学問知識をAIに委譲して、ようやく彼らも「人間」に返るのか、って思わず言いそうになる。

で、これが皮肉ならカワイイもんだが、シャレにならないほどそのまんまかも、とついつい思ってしまう。

頂き女子

頂き女子の話、なかなかド外れていてすごいが、女も、はまるバカ男も、ホストとかも、実はオレはかなり共感できたりする。こんな詐欺まがい(あるいは詐欺そのもの)に引っかかって何千万もつぎ込む男はバカに違いないが、これは、もう、ファンタシーだよねえ。もうさあ

Is this the real life? Is this just fantasy?

って思わず口ずさんでしまうよ。

いまのこの日本の世の中だけど、すべからく人間というのは昔からそういうものだとはいえ、社会を見る側の人間があるファンタシーに冒されていれば、日本の世間はすでに餓鬼や畜生ばかりが闊歩する地獄の様相そのものでしょう。

そんな世界を日々見て生活しているときに、そこに、頂き女子が現れてファンタシー提供してくれれば、カネがあれば逃避ぐらいするさ。いや、オレはすでにもう、それは、逃避だとも思わない。

社会全体がひとつの大きな詐欺である、と言ってひとつもおかしくない、そういう世界がひたすら進行している。その只中で、自分こそ正常であり正義であり少なくとも騙されていない、と自信を持って語っている人の方こそ、オレには愚かに見える。

そのむかし、小林秀雄を熟読し、そして、長らく敬遠していた池田晶子をようやくいま読んでいる自分は思うが、その昔、小林が世の中に絶望し、20年後に池田が世の中に絶望し、さらに20年後にオレが世の中に絶望している。

そして小林が鮮やかに言い放ったように

「絶望の中から物を言わんと願う者は詩人である」

ということ「のみ」を信じて、小林秀雄も、池田晶子も、文を紡いでいるわけだ。願わくばこのオレもそうであらんことを、ってことだ。

でもね、絶望な世の中に沿ってただ生存しているだけの大多数に比べれば、この頂き女子や騙されるバカ男の方が何倍いいか分からない。ましてや、絶望に気づこうともしない体のいい秀才については、なにをかいわんやだ。

Anyway the wind blows…

むかしの偏屈技術者

いまから十数年前、たまたまNHK放送技術研究所の一般公開へ行った。その展示の最後の方に、NHK放送博物館のブースがあって、そこで、昭和の当時に使われた真空管の白黒テレビカメラの映像を真空管のブラウン管モニターにリアルタイムで映すデモをしていた。で、そのブラウン管に写った白黒のカメラ映像が、ものすごく生々しい独特な味があって、すごく感心してずっと見ていた。

解像度、ノイズ、焼き付き、などなど、いわゆる画質はひどいものだったが、その絵は確かに生きていた。僕らは、生き物を見たとき、それが生きているか死んでいるかすぐに分かる、生き物としての直観を持っているが、それに照らすと、あのボロボロに汚い白黒画像は確かに「生きて」いた。

あれから六十年以上がたち、テレビ技術は劇的に進歩し、現在は8K解像度の時代である。自分は仕事がら、この8Kの映像をずいぶん見ているのだが、正直言って8Kカメラの映像は、絵が全体に汚れていて、味が無く、美が無く、先の白黒テレビカメラの絵が生きているとするなら、8Kの絵は完全に死んだ絵に見える。実は、開発技術者たちが、なんであんな絵を出して平気なのかどうにも分からない。

もっとも、それら映像システムを設計製作している技術者は、優秀で、根気よく、真面目で、スペック通りの機器を作ることにかけては何らの問題も無いことは確かなのである。だから、こうしてこき下ろすのは気が引けるが、やはりあえて言っておきたい。出て来る絵があれでは、どんなに高スペックを並べても、少なくとも自分にはなんの説得力もない。

実は、自分は、技術者に美意識がないからこうなるんだと予想している。

そんな、映像を扱う技術の話をしていると、僕がかつていたNHK技研のむかしを思い出す。僕はあそこに20年いたけど、その最初のころが今から35年ちょっと前の大むかしである。その当時はまだ古い社屋で、ロックがなく誰でも出入り自由だし、売店はあるわ、床屋はあるわ、寝泊りしてる人はいるわ、と言い出すと切りがないほど、相当に気ままな場所だった。

まあ、それは昭和だから当然なんだが、そういう場所の当時の研究所には、偏屈で癖のある名物先輩みたいなのが、けっこうな数いた。そしてそういう先輩らは部下に対し、今で言えば、パワハラ全開でもあった。僕は幸い、それらすべての名物先輩たちになぜか可愛がられており、僕が何をしても「林なら仕方ねえか」と見逃してくれたりで、実害はゼロだったが、周りの研究員は大変だったらしい。

で、そういう偏屈先輩の多くは当時、主にハイビジョン(HD / 2K)の研究開発をしている人々で、僕は彼らに画質の見方とかを教わったのである。すでにそのころ、自分は絵画鑑賞野郎だったので、絵の良し悪しは分かったのだが、画像を、信号波形上、そしてモニター上で、分析的に見る方法を実地でいろいろ習ったわけだ。

あのころの技術者も、たしかに、解像度やノイズやダイナミックレンジなどなどのスペックの向上を主に目指し、官能的な意味での画質にはそれほどこだわらなかったようだが、そのスペックの見方が技術的な意味で微に入り細に渡りだった。かすかな傷を見つけただけでも、あっさり却下する、その厳しさゆえ、スペック以上の最終画質が必然的に得られていた時代なんじゃないかと思う。

思い出すが、皆が大型のハイビジョンモニターの周りに集まって、画面から5センチぐらいまで目を近づけて、なめるように絵を見て、「これだ、ここがおかしい! やり直し!」とか、寄ってたかってダメ出ししてたっけ。そういう職人気質が、結局、クオリティを担保していたのだろう。彼らの大半は純技術者で、映像美とか芸術作品とかに詳しいようにあまり見えなかったが、技術的ハードルの設定が非常に高く、おそらくそれゆえに、絵の最終的な芸術的価値を取りざたせずとも、よいものが作れたのだと思う。

そういや、あのころはアナログからデジタルへの変換期にも当たっていて、当時の技術者はみな両方、設計・製作できていた。特にアナログ回路技術の知識は重要で、そこがダメだとまともな絵は出ない。光を電気に変えるイメージセンサーは今現在であってもアナログ部品で、出て来るのはアナログ信号。そこの回路設計と実装が甘いとそもそもまともな絵にならない。

当時は、はんだ付けして基板を作って配線して、というのは普通のことだったし、はんだ付けのプロみたいな人もいたっけ。思い出したから書くが、そのころの技研には僕よりたぶん十(もっとかも)ぐらい上の田村さんっていう常駐の業者の人がいて、技研試作機のはんだ付けを一手に引き受けていた。おそらく来る日も来る日もはんだ付けをして30年以上、とかそういうレベルの超職人芸だったと思う。昔の人はすごかったなあ。

またまた思い出したが、その田村さんはずっと技研勤務だったので、幾多の優秀かつ偏屈な技術研究者を見てきたわけだが、彼に、「私は技研でたくさんの秀才を見てきましたが、天才は林さんだけです」って言われたっけ。へえー、天才ねえ。お世辞を言う義理もないはずだが、たぶん、僕が、技術ができて、ギター弾いて、中華料理作って、絵を描いて、とマルチだったからそんなことを言ったんだろう。

ま、とにかくだ、研究所はすっかりさま変わりして、以上の混沌とした雰囲気は、もう、無い。それでも面白いものやいいものが作れているなら、それに越したことはないのだが、僕は今の研究所の現状をあるていど知っているが、残念ながらそうなっていない。

エントロピーはほっとけば増大するって、ホントなんだねえ、ははは。

太宰治

嫌いだった太宰治の「嘘」と「家庭の幸福」という短編2つを読んだ。太宰を見直した。素晴らしいではないか。いや、素晴らしいなどという立派なものというより、人間と心理、それを取り巻く社会、そして世界についての、極めて正確なリアリズムそのもの。理想や思想や信念信条やらという、いわゆる「男々しい」ものが、潔いぐらい欠片もない。

しかし、自分はなぜ太宰治が嫌いだったか。

太宰を初めて読んだのは20代で、それは、太宰好きな友人が貸してくれた中編小説の「人間失格」だった。有名な小説だが、まあ、あんなものをよく好んで読むもんだ。当時の僕は、文学ではドストエフスキーに夢中であり、同じようにどうにもならない泥沼な人間模様を描いていながら、どうしてここまで違うものか、と思った。

人間失格を読み終わり、確か自分、すごく腹を立て、日記に罵倒の言葉を書き付けた覚えがある。以下は原文がないのでうろ覚えである。なにせ40年前のことなんでだいぶ事実誤認があるだろうが、そこはご勘弁。

人間失格の小説の中ごろに、無邪気で優しくあどけない娘が出てきて、それまで大変な人生を歩んでいた主人公は、その娘と所帯を持ち、ようやく安息の日々が訪れる。しかし、何年かの平和な日々ののち、その日が来る。主人公は外でしたたか酔っぱらい、グルグルとなにやら考えながら家に着いて、襖を開けると、出入り業者のおっさんが妻と姦淫の真っ最中だった。結局、無防備な妻が強姦されたと知る。その後、悪いのは妻ではないのだから、妻を責めることはせず、いろいろ慰め、またもとの楽しい生活に戻ろうとするが、主人公がどんなに努力しても妻は臆して元へ戻らず、夫に対しいつもビクビクし、笑いも無邪気も消えてしまい、結局、夫婦は破綻する。

しかしひどいプロットを作るもんだ。そして、こういう醜い人間模様を描かせると太宰はまさに天才で、その技量に僕もそのときやられたのだろう。

主人公は、妻の姦淫現場に至る道で、酔っ払った頭で考えるのだが、それがドストエフスキーのことなのである。ドストのあの錯綜した人間劇が、もし、くっきりとした人格を持った人間たちが織り成す悲喜劇などという体のいいものではなく、ひょっとして、あのドストの描いたドロドロの人間模様そのものが、単にこの世のあるがままの姿だとしたら? 救いなどはどこにもない永遠の泥沼だとしたら・・・

そしてそうぐるぐると考えた直後、彼はその場に遭遇するんだ。

これを読んだ当時の僕は、

「この野郎、何を白ばっくれてやがる、何がドストの青ミドロだ、この、偽善にも達し得ないような弱々しく意気地のない屑野郎が。そしてこれははっきりしているから言うが、そのとき、お前の愛する、というより愛玩するお前の妻を辱しめるために、あの中年男を裏でけしかけたのは、お前だろ! お前だ! お前以外の誰だって言うんだ!」

と、まあ、20代の若いオレはそう反応したわけだ。この、僕が反射的に喝破したあまりに醜い構図ゆえ、そのときオレは、太宰治を人間の屑認定し、それ以降彼の小説を一切読まなかった。

あれから40年(きみまろ風にて)

オレの30代、40代、50代、そしていま60代の半ばだが、自分としては大変な40年であった。そしてそのオレの人生の変遷は、どう考えても、太宰のそれに似る。こんなところで懺悔したくないので説明はしないが、結局、太宰さん、オレはあなたと同じ筋の人間でした。太宰が屑ならオレも屑、というか二人とも屑。

これは決してオレという人間が、太宰という人間の大きな度量の手の平の上で右往左往していただけ、とかいうよくあるケースじゃない。オレたちには同じ血が流れている、という意味だ。

太宰が生きてたら牛鍋屋かどっかで酒を呑みながら

「太宰さん、俺たちって屑ですねえ。まさに屑の再生産じゃないですか、ハハハ」

とか言って、まったりしそうだ。

しかしまあ、これで終わるのはさすがに忍びないので、ひとこと言っておくと、この屑ぶりは、何千年以上にも渡って日本の庶民が培ってきた平民の民族性に属している、と自分は思っている。

そう思いませんか、太宰さん?