経典

上座部仏教(小乗仏教)については文末にあげたスリランカのお坊さんのYouTubeからたくさん学んだ。

かつて、「ブッダのことば」という、釈迦が実際に当時に言った言葉とおぼわきものを集めた本を読んだことがあった。でも、やはり、繰り返しの多い、意味がすぐに取れない、それこそお経のような日本語で、だいぶうわの空で読んでしまい、読書感想文をかつて書いたけど、いま思うと、仏教の外面的な「殻」の部分を理解しただけのことで、なんにもならなかったな。

それで、このお坊さんの経典の解説を聞いてみると、どうやら、日本の学者さんたちの翻訳がかなり悪い、あるいは間違ったところがたくさんあるらしい、ということが分かる。この人も日本の学者さんたちにはもちろん敬意を表しているけど、原典の言語のネイティブで、日本語の堪能なこの人ゆえに、かなりはっきりと間違いは間違いとして指摘している。これはすごく助かる。

それで、その学者の訳した文を読むと、ほとんどわざとじゃないか、と思えるほど分かりにくい言い回しの日本語にしている。もっと簡単にすんなりと理解できる日本語はいくらでも書けるだろうに、なんで、こう、学者らしい難し気な文体で書くのか、理解に苦しむ。

このお坊さんは逆に日本語が堪能とはいえ不十分なせいで、そういう難しい言い回しに出くわすと、「これじゃなに言ってるか分かりませんね」って言って、易しい日本語に言い換えて説明してくれる。

ということで、翻訳を学者に任すだけでなく、わけの分かった日本人が間に入って、平易な現代語で経典を翻訳し直してくれたら、さぞかし理解の助けになり、仏教への誤解も解けるだろうに、と思うともったいなくて仕方ない。

少し前に超訳というのが流行ったけど、あれは逆にやり過ぎのものが多く、あんまり感心しなかった。ニーチェの超訳とか読んだけど、言葉を平易にするのを超えて、言われている意味まで単純なものに限定させてしまい、意訳しているのが多い印象だった。

オレも、なんかターゲットを見つけてひとつふたつ、そういうことをしてみようかな、って思う。かつて「東海道四谷怪談・現代語訳」でそれをやってみたんだが、あまり読んでもくれなかった(僕がアマチュアだから当然だけど)。でも、まあ、そんなことを気にしてたら文化活動(?)はできないよな。

地道に、コレ、というものを選んで、ただ、やるんですね。ちょっと考えてみる。

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