タイムアウトと村さん

目黒タイムアウトに初めて行ったのはいつだろう、と調べてみたけれど、はっきりした日にちが分からない。メールをさかのぼってみると、2009年の10月半ばに、職場が新宿から目黒に移っているので、そのころということになる。ということは、ほとんどちょうど10年前で、僕が50歳のときだったんだな。

オフィスは目黒の権之助坂を降り切ったあたりにあったのだが、移転して最初に出勤したその帰りの夜、さっそくタイムアウトを見つけた。店へ降りる階段の入り口にポンコツギターが掛けてあったので、あ、こんな店がある、って思い、よほど入ろうと思ったけど、狭い入り口から中を覗くと奥の方に階下へ降りる階段が見えたが、だいぶ入りにくく、うーん、と思ってそのまま入らず、駅へ向かってしまった。

翌日、こんどは絶対に行こう、と決めて、夜オフィスを出て、権之助坂を上って、それで迷わず入り口を入った。ぎしぎしと狭い木の階段を降りて扉を開けると、狭いスナックのようなバーで、店内は雑然としていて、ギターや楽器が見えて、奥の方に小さなステージが見えた。客はおらず僕だけだった。

そのときオレは初めて村さんに会った。

いらっしゃいませ、って言っただろうなあ、村さん(当たり前か 笑) ビールください、って言っただろうな、オレ(これも当たり前 笑) 村さんの第一印象は、バーのマスター稼業はまだだいぶ慣れてないのかなあ、って感じで、なんだか客の前で身を持て余してるみたいに見えたっけ。

僕は、どんなシチュエーションでも、そういうふるまいをする人って、無条件ですぐに信用するので、なんだかほっとしたっけ。で、いつものように、ギター弾いてブルースとか演奏するんですよー、みたいに話して、ちょっと弾いてみていいですか、みたいにギターを取って、ステージで、たぶん、Robert Johnsonの、きっと、Kindhearted Woman Bluesを歌っただろう。

村さん、すごく褒めてくれて、もう、そのとたんに常連扱いになった感じ。村さんの推薦で、それから、タイムアウトでバタバタっとライブが決まった気がする。

あれから10年だったんだな。オレの50代の人生は、目黒タイムアウトとともにあったな。たくさんの人に会って、たくさんの人を連れて行った。行くといつも優しい目をした村さんがいた。

村さん、いままでありがとう。そして、さようなら。

素養

これは何度か書いているけど、さっき、思うところがあったので、再び。

だいぶ前だけど、僕がいた会社で本を出すことになり、皆が自分の仕事についてエッセイを寄稿した。上がって来た原稿は、みなが共有していたので、人の書いたのが読める。

その中に、一人、自分の仕事にいつも全力で打ち込むわりと熱い人がいて、2、3ページ分の彼の原稿も上がってきて、僕はそれを読んだのだけど、彼は、文章を書くのは大の苦手だったらしく、その文章は、はっきり言ってかなり下手だった。

ところが、読んでみると、まるで彼が仕事の現場で悪戦苦闘しながら働いているのをそのまま見ているような、その情熱が文からそのまま伝わって来るのである。文が下手なのは本人も分かっているようで、でも、とにかく「オレはこれが言いたい」という情熱がものすごく強く、書いた文をあれこれいじくりまわして、あっちを直してこっちを直して、そのうちにわけが分からなくなり、みたいに、作文の上でも悪戦苦闘している様子が、文体から分かるぐらい、変な形容だが、壮絶な文章だった。

でも、その文章の全体から、彼の一本気で熱い人格がそのまま浮かび上がってくるような、見事な文だったと思う。それを僕は、ひとり読んで、驚嘆したのである。

そして、その原稿は編集部の校正に回され、ほどなくして校正済みの文が上がってきた。ご想像通り、文章はほぼ全面的に直されて、元の文は跡形もなくなっていた。きれいに整頓された無個性な文体で、仕事の様子が整然と説明されている、それだけの文章になっていた。その文はそのまま印刷され、書籍になった。

で、これを思い出して何を思ったかと言うと、僕は長年の文学野郎なので、文学の素養は相応に身に付けている。それに照らして判断すると、彼の元の文は文学作品として価値があり、極端な言い方をすると、完成されていた。それが自分にはよく分かったので、もし僕が校正をしたとすると、文学的な意味での魅力を削ぐことなく注意をしながら、文法上の誤りとか、そういう機械的な要素だけを直しただろう。自分とて、完璧にその校正ができるとは思わないが、極力、文に現れた個性を残す努力をしただろう。

編集部で校正をした人に文学の素養があるかどうかは、知らない。文学素養はあっても、単なる職業と割り切って、機械的に仕事をしただけかもしれない。でも、もしその職業が板につき過ぎて、文学をすでに忘れ果てていたのだとすると、それは悲しいことで、実際に、その人は、一つの文学作品を葬ったということになる。

文学の素養などというものは、とりとめのないもので、そんなものを持ってたって世の中の役には立たない。その文学教養を組織的に論理的に適用してベストセラー小説が書けるか、というとそんなのは無理だ。教養は、決して「方法論」として組織されていないので、そのまま役には立たない。機械に文学教養を教えても、素晴らしい小説を生成してくれるわけではない。

でも、人がその教養を持っていることで、せっかくの価値あるものが埋もれてしまうことは防ぐことができる。この例ならば、あの校正人がおざなりな校正をせず、文学素養のある人が校正していれば、筆者の心は文になって生き残ったのだ。

教養というのは、そういう過程を経て世の中を豊かにするわけだ。そういう意味では役に立つんだ。

この前、自分は、神戸の学会で、21世紀は哲学とアートの素養が絶対に必要です、としゃべってきたが、やはり説得力に欠けるんだ。哲学とアートが直接に何の役に立つか分からないからだ。でも、この文の顛末記のような、そんな形を取って役に立つのである。21世紀は、きっと、そういう素養によって、その結果に決定的な差がつくはずだと思う。

しかし、これをどうやって説得したらいいものか。冒頭の彼の文の顛末の話を例にして説明したって、「役に立つって、たったそれだけかい」で終わってしまいそうだしね。

難しいなあ、って思ってね。

露天風呂にて

新潟の貝掛温泉というところへ行ってきた。山奥の一軒家で、いちおう秘湯扱いらしいが、ひなびた山の宿とかじゃなく、わりと立派な、いわゆる温泉旅館である。けっこう大きな露天風呂があり、とても快適な、由緒ある古い旅館だった。

貝掛温泉は目に効く温泉として有名だそうで、お湯にホウ酸だかが含まれてて、昔は湧出した水を、そのままパッケージして目薬にして売っていたそうだ。温泉は37度のぬる湯で、ほとんど体温と同じぐらいである。目に効く、っていうんで、みな、湯が湧出しているところへ行って、目をつけてパチパチする。それで、湯はぜんぜん熱くないので、30分とか、下手すると1時間とか、ひたすら露天に浸かっている、という感じになる。そして、それが済んだら、隣接した熱い湯に移動して、十分に温まって、湯場を出るのである。

そんな風に長湯になるので、湯に浸かって、周りの自然を見ながら、ひたすらぼんやりすることになる。

僕もそうして浸かっていたら、最初、巨大なオニヤンマが露天の湯の周りをひたすら輪を書いて低空飛行をしており、ずっとそれを目で追っていたけど、なんだか、あまりに巨大で怖い。こっちに目掛けて飛んで来ると、思わず、顔をそらしちゃう。まあ、先方も体当たりをするはずもないのだが、自分の目の前の50センチぐらいのところでしばらくホーバーされると、なんかだいぶ怖い。僕は、虫が苦手なのである。

十分ぐらいしてようやく巨大トンボがいなくなって、やれやれって思って、水面を見ると、3メートルぐらい先のところに、小さな虫が誤って落ちたらしく、ひたすらもがいている。5ミリぐらいだろうか。すくって外へ出してやってもよかったけど、ま、いいや、って見てた。見ると、いちおう水流があるらしく、1秒に1センチぐらいの速度で移動している。ひょっとすると、もがいてるんじゃなくて、泳いでるのかもしれない。

3メートルぐらい先にある大きな石に向かってゆっくり移動しているので、ずっと見てた。5分ほどたったら、とうとう岸まで到達した。どうするだろう、って見てたら、あ、岸に着いた、と思ったとたん、石の上をタタタタタと大きなアリが登って行くのが、見えた。そうか、あいつだったか、巨大アリだったのだ。すごい勢いで走って石の裏へ消えていった。

それにしても、水面はそこそこ波で荒れてて、あの、藻で滑りそうな石に着いたとき、水面でもがいてたアリは、いったいどんな風に石に足をかけて、しかも6本もある足をどう使って態勢を立て直して、すかさず石の上に着地できたんだろう、あいつ、そんなことをいつ習ったんだろう? ってしばらくぼんやり考えてた。

で、ふと気づくと、今度は、1センチから2センチほどある木片みたいなのがやはり前方3メートルぐらいのところに浮いているのが見えた。しばらく見てると、その木片からかすかな細かい同心円状の波が広がるのが見えた。10秒にいっぺんぐらいの頻度である。死物の木片では、これはあり得ないので、これまたやはりなんらかの生き物であろう。でも、ごくたまにしか波が出ないので、たぶん、こいつはすでに瀕死だろう、ってしばらく見てた。

そうこうしていたら、僕の浸かってるぬる湯の向こうにある、熱い湯のところから、おっさんがこっちに移動して来て、じゃぶじゃぶ、って湯をかき分け、僕の前方5、6メートルのところに座った。遭難している大きめの虫は、そのおっさんと僕のちょうど真ん中へんに浮かんで、おっさんの方に向かって、やはり秒速1センチぐらいで移動している。

おっさんは虫に気が付いたかな、って思ったが、共同風呂って、なんだか他人と目を合わせるのを極力避けるようなところがあって、ジロジロ見るわけにいかないが、ちらっと盗み見したら、おっさんがその虫を見ているような気がした。

しばらくしたら、おっさん立ち上がり、虫の方に向かって移動したので、お、ひょっとして虫をすくって、レスキューするつもりなのかな、ってちょっと期待して見てた。小さな四角い顔で角刈りっぽくした強面の小柄なおっさんだったが、へえ、ここで助けるか、って思ってたら、そのまま、虫の横を素通りして、右奥の方へ行って湯を出てしまった。

そりゃそうだよな、そんな虫なんか気にするような感じじゃないしな、とか勝手なことを思って、やはりしばらく虫を見てた。

この虫も、前と同じような移動速度で、同じく、岸の石に向かっているので、ほどなく到達するのである。ずっと見てたら、果たして、岸に着いた。そしたら、ホント、着いたか着かないか、ぐらいの恐ろしい速さで、まるで、そのむかし驚嘆したクルって回るクロールのターンみたいに素早く、その虫は、垂直に一直線にすごいスピードで飛び上がり、あっという間に背の高い木を超えて、向こうへ飛んで行ってしまった。瀕死かと思ったら、すごい勢いでびっくりした。

2匹の虫のサバイバルを見て、もう、いい加減に湯を出るか、と思って、自分の後ろの石の上に置いた白い手ぬぐいを取ろうとしたら、その手ぬぐいのすぐ横に、だいぶ大きな、鮮やかな緑色をしたバッタが横倒しになって死んでいた。虫の苦手な僕は、うわってなったが、さっきはいなかったから、僕が湯に浸かってる間、そこを死に場所に選んだものらしい。

バッタをそのまま放置して、手ぬぐいを持って、そういえば湯で目をパチパチしてなかったっけな、と思い、湯が湧出してるところをざぶざぶと歩いて、湯に目を浸けて、それで風呂を出た。

30分も露天風呂に入ってると、いろいろあるもんだな。

「表現の不自由展」の中止騒動と、芸術について

あいちトリエンナーレで開催された「表現の不自由展」の展示作品の中に、慰安婦像など日本人を不快にさせるものがあるとの理由で、また、脅迫じみた投稿も相次ぎ、結局早々に中止を決定した、というこのニュース、考えがなかなかうまくまとまらないけど、すごくもどかしい思いがいろいろあるので、現時点の感想を書いておく。

慰安婦問題の少女像 きょうかぎりで芸術祭展示中止へ

まず、このニュースを見て真っ先に感じたのは、自分は芸術と表現の自由の側にいるのは、これはもう、長らく芸術至上主義だったことからも明らかなので、そっち陣営として極めて平凡なことだった。つまり、芸術理解の浅い行政の芸術への介入に嫌気がさし、人々の心を豊かにするはずの芸術が人を不快にさせていいのか、とかいう幼稚な芸術理解に嫌気がさし、さらにこれを政治事件と取り違えて脅迫じみた言動をするやつらの馬鹿さ加減に嫌気がさし、といった、もろもろの反応である。一方、僕と逆の側にいる人々は、僕のこの反応を裏返したような反応をしたはずで、今回は、その人たちが行政と相まってイベントを中止に持ち込んだ、という結末だったわけだ。

それで、思うに、自分のこの反応は、単に、たとえば、学校での教師ぐるみのいじめやら、理不尽な校則による人権蹂躙やら、ヘイトスピーチやら、そういうものを見聞きしたときの嫌悪と同じもので、それが特段に「芸術」だから、という特別なものではなかった。というか、自分的に、このニュースを見ても、そこには「芸術」も「表現」も「自由」も関係しているようには、まるっきり思えなかった。

そうなってしまう一つの理由は、僕がこの展示を見ていないこと、それから、ネットで断片的に作品の写真を見ているだけなこと、つまりモノを見ていない、ということもあるだろう。

芸術でなによりも一番大切なことは「見る」ことである、五感を通して触れることである。これはもう、間違いない。だから、五感を通して接した芸術に、言葉にならない「なにか」が、その作品の中に、あるか、無いか、が芸術の価値を、まず最初に決定的に決めるのであって、そこは揺るぎようがない、というのが自分の芸術観だ。作品が表現しようとしている意図などというものは、たいてい俗か、あるいはおまけなのであって、それは二の次なんだ。

だから、芸術においては、作品にはどうしても触れないといけない、見ないといけない。仮にそれがネット上の写真や複製であっても、それは仕方ない、その限られた範囲内で、とにかく作品に触れないといけない。それをせずに、芸術の尊厳を言っても、表現の自由を言っても、それは空言というものだ。それで、この件についての自分のことだが、展示会は中止になったので見ようがないが、ネットで知った断片に触れただけの感想で勝手なことを言うと、僕にはその作品群が、あまり魅力的に思えなかった。簡単に言って、カッコいいように見えなかった。

作品を作るときには、その作家の力量が確実にものを言う。当たり前のことだが、これを他人に伝えるのは難しく、客観的指標などしょせんはどこにも無いので、あとは、一種の「存在感」に頼ることになる。芸術を論じていると、結局は、そういうことになるんだ。

たとえば、思い出すが、数年前、ノルウェイへ旅行して、モダンアート美術館に入ったら、そこに有名なアーティスト(名前を忘れた)の展示があった。それは、巨大な牛一頭を縦に切断して、真っ二つにして、そのまま透明のアクリルで固め、その切断された牛の入った巨大なアクリルのボックスを二つ並べたもので、見る人は内臓を露出させた切断面の中を歩いて見られる、そんな作品だった。おそらく動物愛護の人や牛を愛する人が見たら卒倒しそうな作品だが、これは、まさに、圧巻だった。世界のあらゆることを集めたみたいに見えるその重量感と、存在感は物凄いものだった。これは、明らかに、作家のたぐいまれな力量のせいだ、とすぐに感じた。

あるいは、たとえば、僕はマルセル・デュシャンとアンディー・ウォーホールを信奉していて、事あるごとに彼らを引き合いに出すが、彼らの作品の多くは、ひどく取り留めのないものだ。男性便器に署名を入れて床に放置したり、マリリン・モンローの写真を大きく引き伸ばして赤や緑に塗ってみたり、そんなようなものだ。デュシャンのその便器(Fountainという作品名)だって、今回の中止騒ぎと同じく、当時展示されたときは、スキャンダルを巻き起こし、展示は撤去されたのである。でも、そんな混乱や喧噪や俗な社会反応をはるかに超越した、正真の芸術家としてのデュシャンとウォーホールが、その醜いドタバタ劇の向こうに、ゆるぎない存在感をもって静かに控えているんだ。

以上のような芸術家の「力量」が、あらゆる作品を芸術たらしめているわけで、そういうもののない作品は、それはただの俗な社会装置に留まる。別に作品にする必要すらない。言葉で言っておけば済むようなものだ。それで、以上の芸術の芸術たる部分はまるで理解しない人の方が世の中ではマジョリティなので、そういう人は作品から言葉やメッセージを受け取るだけで、それを判断して、いいだ、悪いだ、と言っているだけだ。結局のところ、今回だって、そういうマジョリティが展示を中止に追い込んだわけで、これは単なる社会現象の一つに過ぎず、少なくとも僕にとっては芸術本体と関わりのないことで、どうでもいいことだ。

今回の表現の不自由展で言えば、作家たちもさることながら、これを企画プロデュースした人の芸術的な力量の大きさで、その価値が測られることになるだろう。それは、この後に自ずと見えて来るだろうと思う。

どんなにまばゆいばかりの芸術作品であっても、それが作品である以上、必ず無理解な俗世間にさらされることになる。そして、その俗世間は、その作品に対し、その芸術家に対し、ピンからキリまで玉石混交さまざまに反応し、年月が経ち、その評価は落ち着くところへ落ち着いてゆく。そして、すぐれた芸術家だけが、歴史に残り、最後には教科書に載って、俗な世間も「大芸術家」として認知して、文句を言うのを止める。それは、特に、何百年も前、芸術が特権階級のためのものだけだった時代が終わり、近代になり、世間に開放されて以来、繰り返し行われてきたことだ。

そして、その芸術の価値は、やはり、芸術が特権だった昔の権威を引きずっている。でも、近代の訪れとともに、幾多の偉大な芸術家たちの努力の積み重ねにより、その芸術の「特権性」は解体されたと思う。その代わり、それは、さっき書いたように、作家とその作品の、存在感や重さというものに姿を変えたのだと思う。

結局、「芸術」や「表現」や「自由」というのは、世俗的なところには存在しておらず、それらの貴重さは独立しており、社会などという俗なものからは演繹できない。でも、特権が排除された今、芸術は特権的には働かない。だから、芸術も表現も自由も、俗な社会に対しては必ず戦いを強いられる。それは、俗社会の中の健全な営みの一つに過ぎない。いつだっていつの時代だって、そうやって戦った来たのだ。本当に価値のあるものは、決してその時代にすんなり受け入れられることはない。それは戦って勝ち取るものだ。そのためには、この現代であっても、僕たち俗衆は、「カリスマ」を必要とする。今回の騒動の中から、そういうカリスマが産まれれば幸いである。

近代になって、芸術の価値の特権が排除され、皆のものになり(民主化)、特権的な芸術価値は芸術家個人のカリスマに形を変えたが、今度は、この21世紀に、そのカリスマが排除される時代になって行くだろうか。僕が今の社会を見ている限り、それは当分、起こりそうもない。むしろ、いま、俗世間はひたすらカリスマを求めて右往左往さまよっているように見える。一刻も早く、自分が無条件で信じられる対象を見つけたいという、矢も楯もたまらぬ欲求が世間に渦巻いて見える。世界的にそうだと言ってもいいが、これは特に日本のような国では顕著に感じられる。

失礼な言い方だが、ネットで見た、この展示会に並べられた作品の数々の、弱々しい様子を見て、実は、そのカリスマの解体、みたいなことも考えた。なんだか、誰にでも作れて、誰にでも寄り添える、無名性の高い作品、そんな芸術のゆくえみたいなものを感じないこともない。たとえば、僕の大嫌いなバンクシーなどはそれを狙っているように見えるので、ひょっとすると芸術界は、無意識的にでも次のフェーズに向かって動き出しているのかもしれない。

バンクシーで思い出したが、これはどっかで書いたが、あの、数年前にあった、オークションで自動仕掛けで切断された作品を見て、僕は、今回よりもはるかに不快に思ったっけ。一連の行為があまりに貧弱で幼稚だったので腹が立ったのだ。でも、それは、僕自身が、芸術史的に言うところの、自然模倣から呪術、特権的価値、そしてカリスマへ、と形を変えながらも、常にその奥底に存在し続ける「なにか」、時代を超えて存在する芸術作品の普遍性みたいなものを、まだ未練がましく信じているからかもしれない。僕は、やはり今でも芸術至上主義なのは間違いないが、そこで言う芸術は解体前の芸術のことで、歴史の向こうの遠い過去から綿々と人類が守り続けて来た価値として理解していて、それがなければ生きていけない、そんな貴重なものなのだ。

でも、現代では、そんなものはもうないんだよ、って言われてみれば、そうかもしれない。世界というのは、つくづく流動しているものだと思う。人は、その中に、何とかして不動のものを見出そうと常に、もがいている。僕もその中のひとりにすぎないが、願わくば、自分の見出した不動のものが、「永遠」の相に届くもので、ありますように。

顧問

思い出ばなし。

社名は出さないで書くけれど、かつて7年前にとある会社をリストラされた自分は、ハローワークに通っていたことがあったのだけれど、偶然が重なって、だいぶ昔に交流のあった会社の社長に拾ってもらい、無職は二か月ほどで終わらせることができ、そこで技術参与という肩書で働きはじめた。

会社にいるとよくあることだが、社長の知り合いの年配の人が顧問と称して会社に来ているのだが、一向になにをしているのか分からない、そういう立場に自分もいたわけだ。そこは純技術会社で、百五十人ぐらいの社員の多くは技術者である。自分は特に、顧問部屋みたいな隔離されたところではなく、現場の中にデスクを与えられて、そこに毎日通っていた。

周りの人で、僕を少しは知っている人はいたことはいたが、大半の人は、あの人、あのデスクに毎日来て、何をしてるんだろう、といぶかしく思っていたと思う。社長からは技術者たちを引っ張ってくれれば、と思われていたようだが、僕はその手のふるまいが苦手で(これが自分の最大の弱点)、特にその会社の仕事などせず、研究の仕事を継続して何となくやってたり、ネットサーフしたり、という具合で、きっと周りからは、お荷物感が強かったと思う。

そうこうして半年か一年か忘れたが、ちょうど4Kが流行り始めたころで、その会社製の4Kモニターが実験室に入り、そこにグラフィックカードを積んだPCが接続されて、PCが4Kモニター上で動く環境ができた。林さん、こんなのがありますよ、と言われ、案内されたので、さっそくそこにUnityゲームエンジンをインストールしてしばらく遊んでいた。

まず、四角い箱を作って、そこに手持ちのゴッホのJPEG画像を貼って、その中をウォークスルーして4Kで絵を見てたりした。そのUnityプロジェクトを自分のPCに入れ、家に持って帰り、デザイナのカミさんにこんなのやってるだけどさ、と見せたら、せっかくならただの箱じゃなくて、美術館にしなよ、絵も額に入れてさ、簡単だから私が作ってあげる、っていうんで作ってもらい、それを会社に持ち込んで、なんとなくCG美術館みたいなのが4K上でできた。

とはいえ、自分はこれを仕事だとはまったく思っておらず、第一、その4KのPCは、超高解像度の二次元データを見せる用途のものだったのである。たまたま空いてたんで、僕が遊んでただけ。

そうこうして、技術展示会にその4KのPCを出す、って言うんで、僕も二次元データ閲覧ソフトを展示する要員になった。ついでなんで自分のCG美術館もおまけとして入れておいた。

で、展示の前々日だかになって、その4K展示の横に立って、Iさんという人に、CG美術館見せて、こんなのも入れといたけどこれは完全オマケね、って言ったら、それを見たIさんが、これいいじゃないですか、せっかく林さんが作ったんだし、こっちをメインで見せましょうよ、というので、最初僕は、えー? これ遊びで作っただけだし、メイン出し物はあるんだし、そんなことしていいの? ってあんまり本気にしなかったんだけど、Iさんが、絶対その方がいいというんで、それを見せることにした。

さて、そうこうして展示前日になった。もうずいぶん長くなったが、これが、実はこの文で言いたかったことなのである。

社員のみへの展示の前日の午後、僕が立ってるそのCG美術館のところに、社員の技術者が次々と見に来たのである。今まで挨拶もしたことない、僕のぜんぜん知らない人が、何人も来て、なんだかすごく嬉しそうに、すごくニコニコして、僕のCG美術館を見ていろいろ質問をしてゆくのである。これは、もう、自分としてはびっくりだった。

さっきも書いたように、みなにとって僕は、なにしてるか分からない顧問の人という認識だったと思うのだが、なんと、その人が自力でCGアプリケーションを作って4Kで美術館やっている、と聞いて意外だったのであろう。そのうちの一人には「林さん、あの席でこんなもの作ってたんですか! ぜんぜん知りませんでした!」ってすごく感心して言われたりした。

やっぱり技術者は、自分でものづくりをしてなんぼな人たちなので、同じ技術者としてこの人は仲間だと思ってくれたのであろう。とても意外で、かつ、嬉しかったのを覚えている。

展示当日になって来場者の受けもわりとよく、それで、これを機に、バーチャルミュージアムの仕事を正式に始めることと、相なったわけである。まあ、とにかく、人生なにがどうなるかって、分からないもんだね。

理念と魅了

また最近、Jordan Petersonの日本語訳とかやったりしているので、彼のことを考えるのと、あと、彼の周りで起こっている騒動を英語のソースで眺めてみたりすることがいくらかあるのだけど、いろいろ思うことがあるな。断っておくけど、僕はなぜだか数年前から、Petersonから距離を置いている。

世界は問題で、はち切れんばかりになっているけれど、平均した人々の生活は改善され続けている。何年か前から、これは日本でも起こったことだけれど、一般の人々が「現実問題にきちんとアクセスしろ」そして「現実の問題を解決しろ」そして「夢物語は止めろ」と言い始め、それがまたたく間に数が増え、日本では、理想を語る、ということが、夢ばかり見ているお花畑、と揶揄されるようになった。

そうなると、学校や大学の教育も「現実的」な方向に舵が切られるようになり、社会人になってすぐに役に立つことを教えろ、ということになり、とにかく理想なんかどうでもいいから、現実問題に対処する具体的能力を養え、ということになる。

実際、その「能力」を一番高度に身に付けているのは政治家という職業人で、その能力は「教え」によっては得られず、数多い実践を積むことと、あとはその人間の持つ適性(遺伝)によるものだと思う。後者はどうしようもないので、前者を教育の場に持ち込んで、いわゆる「アクティブ・ラーニング」(ワークショップを通して学生自らに気付かせる)という方法論がおおいに流行った。

Peterson先生の大学の講義をYouTubeで見ると分かるけど、彼はおおぜいの学生に向かって、とにかく一方的にしゃべりまくっている。質疑はゼロじゃないけどほとんどない。というか、あまりにしゃべりまくりなのでアクティブな学生もさすがに割り込めないみたいだ。そういう意味で、ここ最近推奨されているアクティブ・ラーニングの真逆に見える。

Petersonには信者がたくさんいる。若者が多いはずだ。彼は、要は、説教師なのだ。フォロワーは信者のノリで彼についてくる。

若者たちは、問題解決能力の取得をなかば強制され、それを得た者はそれにより自分に自信を持ち、立派な能力を身に付けた人間として、巣立って行く。というのが大人が描いたストーリーなのだが、そうじゃない若者がまた、大量にいる、ということだ。つくづく、人間というのは弱い生き物だなと思うのだが、彼らは「理論」に飢えている。「理想」に飢えている。「大義名分」に飢えている。

問題解決はできるようになったが、そもそも、その問題をどのような根本的な理由によって自分は解決しようとしているのか、ということがいつの間にか見えなくなってしまった、という風景に見えることが多々ある。

そんなところにPetersonが颯爽と現れたわけだ。彼の理論が正しいか、正しくないか、それは僕も知らない。ただ、彼には根本的な理論の極めてはっきりした「提示」がある。それに狂喜して飛びつく若者が大量に現れても、驚くにはあたらない。

僕の考えでは、大人は、やはり理論や理想を教えるべきだと思うけどね。そういう意味でPetersonに賛成する。多くの大人たちは、口を極めて彼を攻撃するが、若者たちを魅了する、というのはやはり大切だと思うよ。それら大人は、そういう安易な熱狂の虜になる若者に、常に警戒するように言い、自分の力でいいか悪いか判断しなさい、そういう能力こそ養いなさい、とか無責任に若者に忠告するが、それはねえ、ちょっと難しくて言い表しにくいけど「そういう独立心のある人間がいちばん偉いんです」という価値観の表明だよ(たぶん、これは一種のキリスト教のプロテスタント的な価値観だと思う) で、若者たちがもし、それで混乱するのなら、その価値観は、十分な説得力を持たなかったということだよ。

21世紀になって、物事は、理念と理念の戦いの場になったのだと、つくづく思う。前世紀の20世紀には、それらの理念が、大きな世界的な現象を引き起こすことが何度も起こり、それで世界は激動したのだけど(共産主義と資本主義の対立とかとか)、個人個人を動かすには足りなかった。それが21世紀では、個人レベルで起こるようになった。

誰がいちばん強い理念を持っているかによって、世界がリアルタイムで具体的に変わる、そういう世の中になったんだよ。僕には、これがものすごい「相変化」に見えるけれど、一方で、本当に大変な世の中になった、とも見える。引退して、山水の世界へでも、隠居したくなるはずだ(笑)

それはともかく、自分の考えでは、そういう理念の世界になると、大切なのは、どのように理念を構築するか、ということと、いかにしてその理念を世の中に現出させるか、の二つになる。それらが何に相当するかというと、前者が哲学、後者が芸術である。さいきん自分は、20世紀は科学と政治の時代、21世紀は哲学と芸術の時代、とときどき言っているのだけど、その理由は以上のようなものだ。

ただ、はっきり断っておかないといけないが、以上は、欧米のメインストリームのモノの考え方における筋道を示したもので、東洋、そして日本は異なる。欧米が世界の道筋を圧倒的な力で作ってしまったので、それに乗っている限り、彼らの土壌で勝負しないといけない。そのためには哲学と芸術が必須だ、と言っているのだ。

では、東洋、そして日本の独自の道というのは、あるのか。僕はあると思っているが、まだあまりはっきりしない。しかし、現在の中国の急速かつ極度の発展が、その一つの方法論を決定的に示したことは間違いない。そして、日本も、中国のように意識的にではないが、その独特の文化によって世界に、ある一つの道を示したことも間違いない。欧米のメインストリームにどうしても乗ることのできない大量の若者たち、しかも欧米の若者たちですら、日本の漫画アニメゲームが救済している風景は、見ていて不思議に思うほど世界に浸透している。

あまりに単純化しすぎているかもしれないが、そういうわけで、政府が、クールジャパンという、まったくCoolじゃない政策を推進しているのは、外してはいない。ただ、日本の筆頭商品の「コンテンツ」が、欧米価値に呪縛されて身動きできない日本政府の、正確なアンチテーゼから生まれていることは、理解するべきだと思う。では国はその貴重な商品をどう育成すればいいだろうか。それについては、また別途、書くかもしれない。

星座

小学生のころ星座に夢中になっていたことがあって、特に星座を描いた昔のドローイングが多く載っている図鑑が好きで、朝から晩まで見ていたことがあった。

さっき、ふとしたことで星座を調べたら、その小学校のときにまさに自分が見ていた絵図を見つけた。オリオン座とおうし座の絵だった。ただ、これしか見つからなかった。ネットには他の絵もあったけれど、画風が違っていて、当時の僕は、このシリーズじゃないとだめだったのだ。

星座といえば、一等星を持つ星座と、その一等星の名前は、すべて覚えていたが、特に、二つの一等星を持つ星座は、別格な僕のアイドルだった。日本の冬の夜空によく見えるオリオン座は、ベテルギウスとリゲルという二つの一等星がある大好きな星座の一つだった。

僕の見ていたのが日本の図鑑だったからか、南半球でしか見えない星座はあまり載っておらず、その、地平線の下に隠れている星座が、一種、あこがれの的だった。特に、一等星を二つ持つケンタウルス座と南十字星への想いは強くて、夢にまで見るほどあこがれていたっけ。

ケンタウルス座の二つの明るい星は、アルファ・ケンタウリとベータ・ケンタウリという名前だったが、そのネーミングが自分には安易に聞こえて好きじゃなかった。ある日、なぜだか別の図鑑を手に入れたら、そのケンタウルス座が載っていて、そこでは、星の名前が、リギルとアゲナという名前だと知って、とても感動した覚えがある。

いまになってみると、子供の自分がなぜ、星座と、その星座のドローイングと、恒星のギリシャ語っぽい名前に、それほど惹かれていたのか、あまり分からない。夢中になるのには、特段の理由はないのだろう。何かがどこかで引き合っているんだろう。

しかし、不思議なことに、自分には、その過去に感じたその夢中になっていた気持ちを、一瞬、それも0.5秒ぐらいそのままの形で思い出すことができる瞬間がたまにおとずれる。これは、一種の神秘体験で、この感じがたとえば10秒以上続いたら、自分は気が狂ってしまうのではないか、と思わせるほどに、強烈な安堵感的な快感を伴っている。さっきも、その瞬間が一回だけやってきた。

ところで、僕は30歳のときに、初めての海外旅行でスペインのマドリッドへ行ったのだけど、そこで、最終日に電車の中で鞄の中身をすられて、パスポートも財布も航空券もなにもかも盗まれ、滞在を3日伸ばしてようやく帰ってきた、ということがあった。

大変な思いをして、ようやく帰途についた、その飛行機の中でのことである。僕は窓際に座っていた。時間は夜で、飛行機の窓の外にはたくさんの星が輝いていた。そこに、地平線にだいぶ近いところに、いまでもはっきりと思い出せるのだが、くっきりと十字型に光る小さな星の一群があった。

それはなんと、小さいころ夢にまで見た、南十字星だった。

ロックのクラシック化

YouTubeを見ていると、ロックギターにしてもロックドラムにしても、若い子たちが(いや、子供ですら)、ものすごいテクニックで演奏しているのが、次から次へと出てきて、参るよね。

もう、だいぶ前からだけど、ロックミュージックもクラシック音楽化したなあ、と思っている。音楽理論と演奏法と教育法が完全に確立していて、きちんと学習さえすれば、先人たちのレベルに誰でも達することができるようになった。僕のジェネレーションのように、先生も本もなく、自己流で苦心して身につけた人間から見ると、もう、あれよあれよ、という感じで、意外とこういう事態になるの、早かったな、と思う。

実際、たとえば、音楽で仮りに彼らと戦っても、勝てないことの方が多そうだ。プレイヤーの平均レベルがここまで上がってしまうと、戦いのレベルも格段に上がる。そうなると、クラシックと同じで、極めて高度な表現力の部分で切磋して、競い合う話になるだろう。しかし、ロックのそういうの、だれが判断するんだろうね?

それにしても、これもしょっちゅう言われることだけど、ロックって音楽は元来反体制の音楽なのだけど、確立してしまったら体制側になるんで、そもそも矛盾してしまい、変なことになる。そんなのは昔の話で、反体制はロックからラップかなにか(あるいは今はまた別のがあるの?)に移ったってことで、ロックはそういう面倒からすでに解放されているのかもしれない。

最近、こういうこと書いてると、むかし話をどうしても思い出しちゃうのは歳なんだかなんなんだか、まあ、還暦だし許されるか(笑) 

で、思い出したのだが、僕は何であれ、昔から、糞真面目に粛々と何かをやっている場にいると、タイミングが悪い場合、無性に腹が立ってきて、自分が抑えられなくなることが、たまにだけど、ある。

だいぶ昔にやってたバンドだったんだけど、ある時、そこに、メンバー募集かなんかで連絡してきたギタリストが来たことがあった。真面目そうな男で、几帳面なギターを弾くやつだった。スタジオでしばらく一緒にジャムセッションした。

何曲か目にJohnny B Goodeをやったのだが、やっぱり彼、几帳面に糞真面目にうつむき加減にギターを弾いている。僕は何が気に入らなかったのだかわからないのだけど、だんだんそういう演奏をしていることにむらむらと腹が立ってきて、二回目のソロの時に暴走し、音量を全部10にしてピックで弦を無茶苦茶に引っ掻き回し、周りを無視して暴れまわり、ピックはバリバリに割れて跡形もなく、それでも指で弦を無茶苦茶に弾いてたので、右手の指の爪が割れて血が噴き出し、右手血まみれのままギターを床に放り投げ、それでようやく演奏が終わった。僕ははあはあと肩で息をしてるし、周りのメンバー茫然。真面目な若者茫然。ただ、その中に一人だけコーラス要員の女の子がいて、その子がすぐに僕に駆け寄って、僕の右手をとって「だいじょうぶ?」って言って、バッグからバンドエイドかなんか取り出して、手当てしてくれた。

はっきりしているのは、僕はバカそのものだが、その子は本当に優しい、いい娘だった。

もう今はそんな元気はないと思うが、しかしみなさん、ひょっとするといつかステージで突然発狂するかもしれないので、気を付けた方がいいですよ。でも、歳のせいで、そんときは途端に心臓マヒでバタっと倒れてあの世ゆき、というハッピーエンドで終わるかもしれんが。もしそうなったら、それは憤死というんだな。かのイヴ・クラインのように。

相性

だいぶ昔、とある街に住んでたころ、とある呑み屋つながりの人々とあれこれ遊んでいたことがあり、そのときの話。その呑み仲間のなかに、明るくて元気でよくしゃべるおばちゃんがいて、あるとき、そのおばちゃんに誘われて、家に皆で遊びに行ったことがあった。おばちゃんはバツイチかなんかで、そのころ彼氏ができて、その彼氏がむかし飲食店で板さんやってたから、料理を作ってくれるというのである。

で、台所から次々と料理が出てきて、たしかにどれもおいしかったのだけど、その料理が見事なぐらい、中流以下ぐらいの「ある層」をターゲットにした料理で、高級店では出て来ない味だけど、安めし屋とかの味でもない。食べてて、あまりにその「層」がはっきり感じられて、なんだか感心してしまった。不思議なもんだなあ、って思って。

ちなみに、その彼の歳はたぶん40半ばで、おばちゃんと付き合う前は仕事をしてたけど、おばちゃんの家で一緒に住み始めたとたん仕事を辞め、毎日プラプラしていたそうだ。要はヒモを決め込んだわけだ。おばちゃんはわりといいところで仕事してて、実入りもいい。その彼、ホームパーティーでエプロンして料理作っちゃいるけど、話を聞くとわりとろくでなしっぽい。でもちょっと男前で愉快な楽しい人だった。

それで、そのおばちゃんだけど、ものすごく人の世話を焼くのが好きな人で、いろいろ男と関係も多いらしかったが、まいどまいど、そういう、世話しないといけない男とくっついちゃうそうだ。本人、なんでいつも私が面倒見なきゃなんないのかしらねえ、早くラクしたいわ、とかけっこう愚痴を言ってた。で、それから一年ほどして、風の便りで、おばちゃんが彼氏と別れたらしいっていう噂を聞いた。

料理人とその料理、世話焼きおばちゃんとろくでなし男、などなど、世の中って相性って、あるんだなあ。っていうか、世の中、相性だけでできあがってるのかもね。

ストックホルムの移民街

ストックホルムで移民がいちばん多く住んでいる街Tenstaと、その隣のRinkebyへ行ってきた。セントラルから地下鉄で20分ほど。この地域は移民の人口が70%以上で、治安的にもスウェーデンで一番悪いそうだ。ちなみに2番手はMalmöで、ストックホルムでは無くてコペンハーゲンに近い国境で人種混合しており、治安悪化は、まあ、うなずける。
 
今回行ったTenstaは、昔、住居が不足したとき国の政策でたくさん作った、いわゆる団地に、その後、移民が多く住むようになり、今では大半が移民の地区になってしまった、という経緯だそうだ。この地域に隣接したHusbyでは、3年前に暴動が起こって街に炎が上がり、スウェーデンでこんなことが起こるのかとみな驚いたところである。要は、Tensta・Rinkeby・Husbyの一帯は移民だらけな地域なわけだ。
 
Tenstaの駅を降りて地上に上がると、別に何ということはない閑散とした街だった。駅の上にショップが並んだ建物があり、結局、それだけでほかに何もない。駅前には街並みもなく、すぐに団地がひたすら並んでいる状態だった。きわめて退屈なところで、そういう意味では殺伐としていると言えなくもない。ただ、団地を見るとそれほど老朽化しておらず、メンテナンスはされているので、スラム化とかいうのとはぜんぜん違う。つまり、ふつうの居住地区だった。唯一の違いは、歩いている人にスウェーデンらしき人がいないこと。ごくたまにスウェーデン人かな、と思う人もいたが、だいぶ貧しそうな感じだった。

Tenstaの駅前。左手の赤い枠が室内ショップの入った建物、右手はすぐ団地が続いている。奥の方に悪趣味な高層ビルが一つだけぽつんと建っている。

さて、Tenstaに降りても、何も見るものがなかったので、隣のRinkeby駅まで歩いてみることにした。団地を抜けると、ちょっとした草原になり、向こうに教会が見えた。行ってみると、教会の周りはだいぶ広い墓地になっていて、たくさんの墓石が並んでいる。ヨーロッパの墓石はいろんな形をしていてそれぞれユニークで見ていて面白い。ふと、墓地越しに立つ北欧の教会に黒い衣服の修道女が入って行くのが目に入った。この光景は美しかった。

TenstaとRikebyのちょうど真ん中あたりにある教会。周りは広い墓地になっている。

自分はスウェーデンに住んで5年目になるが、もうだいぶ食傷していて、スウェーデンの美しい風景がまったく心に響かなくなってしまっているのである。今日は、本当に、久しぶりに、僕が30年前に北欧古典絵画を通して知って、そのまま十年近く陶然として夢中だった北欧の美をここそこで見ることができて、それはとても良かった。

なんとなくゾンビが出て来そう(笑) それぞれにかなり趣向を凝らしていて、面白い。

この教会と墓地と周囲の美しい自然は、ちょうどTenstaとRinkebyの真ん中へんにあり、そこを越えてRikebyの街に入ると、また同じような団地が並ぶ。ほどなくして駅に着いた。こっちはTenstaよりは少しは活気のある所で、駅の上の広場をショップが取り囲んでいて、少しは街らしくなっている。ただ、そこを出ると、やはり同じようにすぐに団地だ。ただ、団地の一階部分にショップがいくらか伸びていて、本当に少しだけだけど、他ではあまり見られない異国情緒な店舗もあった。

Rikebyの駅上のショッピング広場。少しは活気があるが、道路とか全体がとてもきれいでゴミ一つない。

僕が行ったのが12月26日のクリスマス休暇中だったからかもしれないけど、移民が7割以上いるのに、なぜ彼らは自分の国では全開状態で繰り広げる中東アジア的カオスを、ここスウェーデンではやらないのだろう。街を歩いても、ゴミ一つ落ちていないのは、普通のスウェーデンの街とまったく同じで、中東アジアでは普通な、散らかって汚らしく放置されたところが見当たらない。

スウェーデンでは珍しい若干の異国情緒のある店。このように外にせり出して商品を並べているのを見るのは、まれなこと。

一つ気付いたことと言えば、ヘアサロンがすごく多くて、しかも、中をのぞくとお客さんもけっこういること。しかし、食い物飲酒より、ヘアサロンなんだね。僕は経済にも政治にも明るくないからわからないのだけど、スウェーデンでは移民が気軽に商売して儲けられる構造になっていないんだろうか。全世界にチャイナタウンを持つかの中国人ですら、スウェーデンではロクな街を持っていないのである。
 
知っての通り、スウェーデンは移民と難民の受け入れには非常に寛大な国の一つで、政策的にも完備していると言っていい。それができるのも、政治も、国民も、困った人を助ける慈善、異文化の許容、そして多様な人々の人権についての意識が高いからこそだ。僕もスウェーデンに住んでいて、その意識の高さは感じる。彼らにとってすごく重要な社会の要件なのだ。
 
しかしながら、こんな抜け殻のような移民地区を歩いていると、どうしても別のことを考えてしまう。
 
慈善と人権というもの自体が元来はヨーロッパのもので、それらの概念にはやはり西洋らしさが染み付いている、というか、西洋が基礎になって出来上がった概念だ。だから、それらを適用した結果できあがる社会が、西洋の枠組みと西洋文化の色をしているのは、言ってみれば当たり前のことだ。
 
街にはたくさんの異国人が歩いていて、人間だけ見ると、ここはスウェーデンか、と思うような風景なのだが、街自体は何の特徴もないつまらない場所だった。それで、どうしても思ってしまう。みな、故郷が恋しくないのだろうか。いや、ここにも仲間はたくさんいる。それは分かる。でも、異国の血は騒がないのか、こんな殺風景な街に毎日暮らして、老いて、死んで行くのか。
 
結局のところ、街自体に生気もなく、面白くないのでたいして放浪せずに、早々に電車に乗って帰ってきた。ストックホルムセントラルに戻って街を歩いていると、何の疑問もない。ここを見ている限りは、充実した古い美しい街だ。しかし、歩いていても何となく浮かない気分だった。
 
妙なことだけど、さっきまでいた周辺の移民街がもっとごみごみして汚なくて生活感満載だったら、きれいなヨーロピアンな街に帰ってきて、ほっとしてすがすがしく歩いたかもしれないな、と思った。