何もしていないとき

だいぶ前から、僕らって何もしないとき何してるんだろう、って思ってた。何もしないってのは意識が飛んでるときのこと。
 
うちから学校まで自転車で10分弱なんだけど、かなり長い坂を下りて行く。車もほとんど通らず快適なのだけど、坂を下っている5分間のうち、意識があるのって合計1分ぐらいな気がする。何回か意識的に、自分がどれぐらい意識的か意識してみたことがあるんだけど(言ってること訳わからんな 笑)、やっぱりせいぜい2分ぐらいだった。あとの時間は、何にも見てない。いや、眼には見えているけど何にも処理されてない。
 
もっとも脳科学的に言えば、その何もしてないときには、なんか脳が外界や内界の状況につき自動思考をしてる、ってことになるんだろう。でも、そうだとしても、自分にとって「なにかの変化」が起きない限り、視覚は戻って来ない。
 
なにかの変化というのは、坂下りなら、もうすぐ路地がある、とか車の音が後ろから聞こえたとか、そういう変化である。これらの変化が無いときは、自分には何にも起こっておらず、眼が開いているだけの状態になっている。
 
やっぱり、それは見てない、ということじゃないだろうか。
 
一度、自転車で坂降りてるとき、無意識状態をなるべく保って降りようと試みたけど、すぐ怖くなって、つまり「怖くなる」という変化が心に浮かんで、そのせいですぐに意識が働いて、眼が見えるようになってしまう。
 
でも、もし、これが自転車じゃなくて、坂道に沿ったモノレールの上に乗ってるなら、自分の中に、怖くなる、っていう変化が起こらないから、そのまま無意識で支障ないし、現に、多くの人は電車で居眠りしてる。
 
大森荘蔵が言ってたけど、私たちは、盲目の人は真っ暗な暗闇を生きていると想像しがちだが、それは間違いで、彼らは私たちが前を向いているとき後ろが見えないのと同じ意味で見えないのである、とのこと、なるほど、と思ったが、その坂を下る5分間のうち、3分間は、オレは盲目の人とまったく同じ状況になっているはずだ。
 
そんなことを考えて、こうやって部屋でぼんやりしてると、自分ってのはホントに細切れで生きてて、大半の時間は無意識で何にもしてない。
 
ところで、コロナのせいでずっと引き籠り。

エラい人

日本の政治家が異常なほど偉い、という話をしてたんだけど、これはホントのこと。僕がむかしNHKの研究所にいたとき、たまに政治家の先生が来ることがあったのだけど、はたで見ていて、完全に異様なほどの接待をしていた。その上下の距離たるや、果てしない。完全に将軍様で、そういう意味で、北朝鮮の将軍様の振舞いとなんら変わらない扱いだった。

もう20年ほど前のことだけれど、それを見てて、自分は、ああ、これは日本の政治家は一回やったら止められないだろうなあ、って思った。
 
で、自分のことだが、自分はこれまで、 人材的に偉い方向へ取り立てられることがあまりなかった人間だった。そういう器ではないというのもあるけれど、自らも「偉い身分」を避けて通ってきた、という面があった。しかし、過去に一度だけ、そういう機会があった。
 
それは、もう、先の政治家に比べると鼻クソみたいなものだが、学会の論文委員会の委員長だった。僕よりちょっとだけ年上の先輩で、このまえ早くして死んでしまった人なんだけど、その人が委員長だったとき、自分の後釜として、林君ならできる、と推薦されたのである。
 
で、委員長になり、最初の数か月はどう振舞っていいか右往左往で冷や汗ものだったのだけど、半年ほど経つと慣れてきた。そうしたら、人の上、それも一番上に立つ、っていうのは、こんなにも気持ちの良いものなのか、というのが実感できた。
 
委員会はたかだか20人ていどで、その委員の下にさらに下々のものが大勢いる、という構成だったけれど、その委員会で、一番いい席に座って、それで自分が、何かについて、極めていい加減なことを言っても、並み居る人々が、それを尊重して、斟酌して、忖度までしてくれる。こんな快感はそうそうあるもんじゃない、と、冗談抜きで思った。
 
覚えているが、いい加減な見解なのよ、僕の言ってることって。思い付きだったり、単に口からついて出てきたことだったり、誤魔化しだったり、自分は、自分が言ったことの底の浅さをまあまあ自覚している。それなのに、そのたわごとひとつで、みなが動いてくれるわけ。良きに計らってくれる、というか。
 
この経験はたった一年の任期で終わったけれど(二年だったかな?)自分的にはそれなりに貴重な体験だった。先も言ったように、日本で「偉い人」になるというのがどれほど、ほとんど麻薬なみに気持ちのいいものか、というのが分かったから。
 
僕はそれ以来、そういう立場についたことが無い。というか、ひととき、実はあったのだけど、その権利をまったく行使しなかった。そのせいで失敗したんだけどね、見事に。
 
結局、オレは政治家的なふるまいにはまったく向かなかった、というのが結論なのだけど、いまの日本の政治家がなぜ、あのように傲慢に振舞い、そして権力にすがり付くか、それは、そういう意味では理解できるんだ。
 
一種の麻薬だよ。というかある種の人性にとっては麻薬以上。

宇宙とロマンチシズム

この前、イケダ君が僕のこの覚書集を思い出させてくれて、100個作ってすべてに解題を付ける、という構想だったので、ヒマなときに続けようと思う。
 
http://hayashimasaki.net/oboe/index.html
 
で、この中の第30段に「太陽系に大巨人が現れて月をスコンとたたき出したら日食の予言は外れる」っていうのがあって、これには思い出がある。
 
むかしまだ若いころ、研究所にいたとき、そこで、週二回の夜、社食で酒が呑めるっていう企画をやってた。そこでオレも仕事後、よくビール飲んでた。あるとき、その中の先輩と宇宙の話になった。で、その先輩が
 
「この広大な宇宙の、果ての果てに星があって星雲があって、そういうものを今この地上にいる僕らがそれを知っているというのはすごいことだな」
 
みたいに言うので、当時はまだ若く、食えなかったオレは、いきなり
 
「それは、宇宙の単なる一つの見方に過ぎず、ただのロマンチシズムです」
 
と発言し、その先輩、怒ってえらく熱くなって、なにい? 林、お前そう思ってるのか、なんて奴だ、云々となって、しばらく論争になった。
 
で、その食堂呑みに、別の先輩(その先輩より先輩)がいて、その人はパワハラで有名な食えない人だったのだが(まだパワハラという言葉が無い頃だけど)、その人に、口論してる先輩が
 
「Xさん! 聞いてくださいよ。こいつ、科学が明らかにしたこの宇宙に広がる物質の世界をつかまえて、ロマンチシズムだ、って言うんですよ」
 
と言った。そしたら、その先輩の先輩が、予想に反して、うーん、としばらく考えたのち
 
「それは、林君の言う通りかもなあ」
 
と言ったのである。その先輩の先輩は、論理的に説明することに超うるさく、それがゆえに部下にパワハラしていたわけで、部下が論理的に正しく説明するまでは一切許さない人だったので、ガチガチの理屈屋だったと言っていい。
 
なんとその人が、物質科学は一種のロマンチシズムだ、というオレの暴論に賛成してしまったのである。
 
それを聞いた、当の先輩は、一瞬で閉口して、二の句が継げなくなってしまい、なんかぶつぶつと文句を言ったあと、黙ってしまった。
 
こんなことがあった若いころだけれど、その後、自分は、冒頭であげた覚書のように、宇宙のことが科学で分かるようになった、って言ったって、もし、たとえば突然、太陽系に大巨人が現れて月をスコンとたたき出せば日食予想などあっさり外れるじゃないか、と考えるようになった。

もし、あのときその先輩にそんなこと言ったら、お前オレをバカにしてんのかって余計怒っただろうな。でも、大巨人なんていうから荒唐無稽扱いされるけど、人類が核弾頭を月に打ち込んで軌道を変えれば、やっぱり日食予想は外れる。その月へ飛んで行く核爆弾を大巨人、と名付けても何の問題もなく思える。
 
そして、さらに年月が経って、最近では、物質科学信奉者を捕まえて、あなたのそれは宗教の一種で、あなたは科学教の信者だ。自分が信者だと気づいていないところが、よけいに科学教の信者だということを証明している、などと、だいぶ過激なことを言ったりする。

でも、考えてみると、自分の若いころの初心に戻って、あなたのそれは一種のロマンチシズムですね? と言った方が良さそうだね。そしたら、その人はロマンチスト、ということになり、なんか、いいじゃん。僕はロマンチストは大好き。

コンテンツやアートとアカデミア

ここしばらく科学者が科学を批判、あるいは告発することが、けっこう目に付くようになった。その真偽はめいめいが決めればいいことだけど、ここでちょっと害のあまりないことをひとつ。
 
僕の研究分野は、コンテンツ制作技術なのだけど、この分野はアカデミックな論文を通すのが難しい。たとえば、CGを使ってどんな魅力的な映像(コンテンツ)を作るか、ということをやっているわけだけど、その結果をそのまま論文に書いて投稿してもまず、リジェクト(返戻)される。というのは、コンテンツ制作は実は「アート」の一分野なのだが、ところが、その結果を「コンピュータ・サイエンス」など理科系の学会に投稿するからである。工学技術者の多くはふつうアート作品を評価できない。
 
ところが論文が通らないと研究者のステータスが上がらず、昇進できないし、それよりなにより今では多くを占める期限付き研究者にとっては死活問題で、論文が通らないと職を失って路頭に迷う。なので、まずは論文は通らないと困る。
 
で、どうするかというと、工学技術者でも評価できるようなおぜん立てを論文の中に入れて投稿する。それは何かというと、主観評価実験である。主観評価実験っていうのは、無作為に被験者を20人以上集めて、その人たちにコンテンツを見せて、たとえば5段階で評価してもらい、過去のコンテンツと比較して、自分のコンテンツの方がいい、ってやるわけだ。
 
20人の人間の感覚はまちまちだけれど、20人ぐらい集めればそこそこに平均化して、主観に基づく判断も「客観的な評価」とみなすことができる、という統計手法を使うわけだ。
 
まあ、これ以上はえらく専門的になるので説明しないけど、こと「コンテンツ」すなわち「アート」に対する評価としてこれほどいい加減なものはない。アートを知っている良識ある人ならば、いかにこれがいい加減なものか知っているはずだ。でも、アートの評価ができない人々に納得してもらうには、この方法しかないので、仕方なしにやるわけだ。
 
実はこれ以外にも結果のコンテンツを評価する方法はある。たとえば、結果に対してcritical thinking(批判的考察)を加えるという方法もある(アート業界ではこれはreflectionと呼ばれたりする) しかし、工学者はアートの素養そのものが欠けている場合が大半なので、彼らはその批判文を見てもただの「屁理屈」とみなして、却下する。で、客観的な理由を示せ、と迫って来る。で、しかたなしに評価実験をやってグラフを描いて、数値を見せるわけだ。
 
先に書いた理由で、論文は通さないと意味がないので、この実験をくっつけるのだが、僕はここで白状するが、いままで実験計画がかなりいい加減なことを分かっていて、それを論文に書いて出したことが何度もある。詳細はここでは言わないが、やった本人(僕)は何がいい加減かちゃんとわかっている(このいい加減は雑という意味ではなく、きちんと実験しているが、実験の目的が、アート的良心のためでなく、論文を通すためになっている、という意味である)
 
もちろん、査読する工学者もきちんとした人たちなので、その「いい加減さ」は突いてくる。でも、しょせん工学者がアートの本質に達することは、まず、滅多に無く、底が浅いので、僕の方はその予測できる反証が起こらないように、実験を塩梅するわけだ。
 
ただし、さすがにデータの捏造はしなかった。データを捏造すると、これはもう犯罪行為とみなされるのは、小保方さん騒動で周知のことになった。ところが、実験そのものをコントロールしたり、条件をコントロールすることで、望みの結果が出やすいように誘導することは、それほど難しいことではなく、これは悪い事でもない。
 
詳細に見て行けば、いったいこの実験をやった人がどこを誤魔化したかは、本当は判明するのだが、ことアートの件になると、査読する方にそのカンが働かないので、追及されずに済むようにコントロールできる。
 
と同時に、これを追求し過ぎると、逆に査読している人のアートの素養の無さが暴かれることになるので、ふつうはそんな馬脚を現して恥をかきそうなことはやらず、論文執筆者と査読者の間の阿吽の呼吸で、追及はあまり深入りしないていどで止めるのが普通だ。じゃあ、結局、どこで採録か返戻か決めるかっていうと、論文全体の総合的な信頼性を持って決めたりする。
 
ただ、偏屈な工学者ってのは、けっこうな数いるもので、ひたすら返戻を出しまくる困った人も一定数いる。僕がかつて論文委員長だったときも、「困った査読者ですねえ」とか言って、適度にその人へ論文査読が回るのを避けるようにしていたものだが、それもあまりやり過ぎると社会的信用を失う恐れがある。かくのごとく社会の趨勢に乗りながら、かつ、自身の良心と折り合いをつける、という非常に厄介な綱渡りをするはめになったりもする。
 
さてさて、いったいこれで何が言いたいかというと、まあ、それほどひどい批判や非難をする気は無いのだが、テクノロジー系コンテンツやアートについて、世に出ているアカデミックな内容やそれをベースにした定説などは、話半分にそこそこに受け取ればいいもので、そんなに正しいものは無いと思っていい。コンテンツとかアートとか、そもそも平和なもので、人も死なないし、世の中への影響も大してない分野なので、そのていどのいい加減さでもいいんじゃないか、と思う。
 
ところが、これがコンテンツやアートだから呑気にいい加減なことを言っているが、今回の伝染病のように、感染症だ、医学だ、環境問題だ、ってことになると事は深刻である。
 
しかし、かろうじてアカデミアの内情をいくらか知っている僕が思うに、本当のことを言うと、それらシリアスな分野においても、先に紹介したコンテンツやアートのときと事情は似通っていたりする。そんな状態なので、言いたいことは、「みなさん、世の中には、正しいか間違っているか、良いか悪いか、という明快な区別判断は無いんです。科学で証明されれば正しいと感じてしまう人はぜひ思い直してもらって、科学を過度に信頼しないように心がけてください」ぐらいですかね。

Dアップ

そういえば思い出したが、僕が初めて秘密組織というものを、実際に経験したのは、今からおよそ20年前にN研究所で働いてる時だった。僕は陰謀論者でも秘密主義でもなんでも無いのだけど、あの経験はなんか印象的だったので今も覚えている。

あ、期待しないで。つまらない話だから(笑

当時(いまでも?)N研究所では、管理職への昇進を、俗にDアップと呼んで異動時期に辞令が下りる仕組みになっていた。Dグレード以上は管理職なんで、Dアップって言うんだろう。あの頃の職員制度はシンプルで、管理職と一般職の二種類しかなく、ある年齢に達して、ある査定が下ると、一般職を管理職へと昇進させるってわけだ。

あるとき、異動時期に、僕がそのDアップになった。職場にいると、誰だかに呼ばれて、所長だかの部屋へ入って、そこで辞令を受け取るってわけだ。オレは当時、世俗にきわめて疎かったので、辞令受け取っても、へえー、管理職ねえ、って思っただけで、特段の感慨もなかった。

で、翌日(かな?)には、オレは管理職になったわけだが、別に仕事の様子が変わるわけでもなく、そのまま出勤してふつうに仕事してた。

そしたら、別の個室にいる部長と副部長の部屋へ行くように言われ、行ってみたら

「林くん、あのね、今日の夜、ちょっと会合があるんだけどね、それに出てくれる? 場所は成城学園のマ・メゾン、あそこね。予約してるから、来てね」

と言われた。僕もその時は、それ何かの宴会ですか? とかなんとか聞いたけど、来れば分かるよ、としか教えてくれない。

で、夜になってその成城のフレンチレストランへ行ったら、大きめの個室が予約されていて、そこに通された。で、その部屋に入ったら、なんと、僕の部の管理職の全員がすでに大テーブルに座っているではないか。

オレが入って来るのを見て

「林くん、おめでとう、今日から君もわれわれの仲間だね!」

とか言うのである。で、聞いたら、管理職会という会があって、これは一般職にはその存在を知らされておらず、定期的に会合を開いては、管理職だけで、仕事に関する密会をしてる、ってのが分かった。

まー、政治家で言うところの料亭の会合みたいなもんだ。

新米管理職のオレは

「へええ! こんなことやってたんですか!」

とか反応したが、まあ、十人弱はいたと思うんだけど、みな、笑顔でオレの肩叩いたりして、やけにフレンドリーなの。そのときの特権的感覚の快感、っていうか、そういうのを何となく覚えていて、その秘密な感じがとっても印象的だった。

もっとも、世間知らずの自分は、管理職の仲間入りをしても、特段に嬉しくもないし、責任感を感じてなんか自覚するわけでもなかった。あの特権的秘密団体への、なんというか帰属意識みたいなものをオレがあのとき持てたら、ずいぶん変わってただろうな。

ところがオレは、そのまま管理職業務をテキトウにこなしながら、自分勝手にやりたい放題やって、あげくの果てに、上が止めるのもあっさり無視して、辞表出してN研究所を辞めちゃうんだが、オレも、もうちょっと世俗が分かるのが早ければ、今ごろもっと楽に生きてたのになあ、とは思う。

カセットプレイヤー

オーディオ談義。

オレのオーディオのメインギアは、自分で作った2A3シングルの真空管アンプと、フルレンジスピーカをインストールしたトールボックスで、大変良い音がする。

オレ、かつて、アパートで一人暮らしをしてたことがあって、もちろん、このギアを部屋にどかんとセットして、CDかけて、ええ音やなあ、と悦に入っていた。

ある日、友人が部屋に遊びに来た。もちろん、そのオーディオセットであれこれBGMして、酒飲んでた。そしたら、彼が部屋の隅っこにあるブツを指さして、それ、なに? という。ああ、それはオレがヒマつぶしに作ったカセットプレイヤー、って答えた。

そう。それは、適当な板の上に立体配線で作った真空管カセットプレイヤーだったのである。ウォークマンをスペーサで板に固定し、そのヘッドフォン出力を2球のモノラル真空管アンプで増幅し、それを、8cmぐらいのスピーカを100円ショップで買った木箱に入れたヤツで鳴らす、ってシロモノだった。

オレ、聞いてみる? って言って、部屋の隅のカセットテープ箱をがさごそして、大昔にダビングした、Muddy WatersのSale Onというラベルのついたテープを持ってきて、電源入れてセットして再生ボタンを押した。B面をかけたんだな、オレ。曲は、I Can’t Be Satisfiedだった。Muddyのエレキ弾き語り。

そしたら、それを聞いたその友人、即座に

林さん、こっちのほうがぜんぜんいいよ! あっちの化け物みたいなのより、ずっといいよ!

と言うのである。で、オレはというと、うーむ。たしかにこっちのほうがはるかに音がいい。不思議だなあ、って思ったけど、きっと1948年に録音したMuddyの音は、圧倒的にこの糞チープなカセットテーププレイヤーに軍配が上がるのだ、と思い知った

その後は、ずっとこの糞カセットプレイヤーでブルースを聞き、いい気分で酒を飲んだ。

オーディオってね、そういうもんだよ。

日本版シリコンバレー

日本版シリコンバレーを作るという政府の計画があるそうだ。これは別に初めてのことではなく、これまでも政府や産業界は、シリコンバレーだけでなく、日本版Googleを開発する、とか和製ジョブズを養成するとかいろいろやって来た。今回のは、その再燃のようなものだ。

それで、それを報道した記事に大量についているコメントのほとんどすべてが、どうせ失敗する、というネガティブ意見というのが、すごい。皆で失敗オーラを送り込んでる感じで、これはそのオーラのせいできっと本当に失敗するね。かくいうこの自分も失敗オーラ派かもしれない。やはり日本そのもののマインドセットの問題かな。

カタカナ英語を使っちゃったけど、マインドセットとは「これまでの経験や教育、先入観から作られる思考パターンや固定化された考え方」のこと。で、スピリチュアル的に言うと、このマインドセットが物事の方向や成否を決めている、ということになる。

アメリカのシリコンバレーは元を辿るとヒッピー文化あたりのスピリチュアル的思想に端を欲している。マインドセットさえ変えることに成功すれば、あとはプロセスが勝手に付いてくると思い込むことをスピリチュアルというのだが、そう簡単なことじゃない(啓発系ビデオではみな簡単簡単言ってるけど、大半の人は不可)

この日本版シリコンバレーの記事も、「政府がエコシステムの形成を目指すのは、日本が世界各国に追いつけなくなる、との危機感のため」と発言させるマインドセットが、すでにスピリチュアルと正反対を向いているので、この計画を実施するにせよ、その結果は別のものになるだろうね。

しかし、以上、自分も、一生懸命失敗オーラを避けて発言するのも大変だな。

自分は、スタートアップのようなことをやって2度失敗しているが、その経験から言うと、最低でも2度失敗しないと学習できなかった。僕の場合、3度目は諦めてアカデミアへ逃避した。というのもその時点ですでに53歳だったしね。これが20年若ければだいぶ違っていただろうと思う。

3度目の正直を、障壁なく保証するには、制度だけを変えてもだめで、人間のマインドセット自体を変える必要があると思うけどな。かといって失敗に烙印を押す日本人のマインドは、世の中を見ての通り、極めて根強いもので、変わりそうもない。そんな中でやってゆく方法の一つは、自らが変人になって世間の有言無言のバッシングの届かないところに身を置くことかな。日本世間は「おもしろそうな変人」には逆に極めて寛容なので、それを利用するといい。

記事の最後にあるように、さらにこれにかける全体金額が少なすぎなのも問題だね。100無駄して1成功、というやり方はカネのない日本には難しいのだろうね。日本の30倍以上の無駄を突っ込んでいる中国やアメリカと同じようになるはずがないのは、残念ながら見えている。となると戦略を変えないといけない。

スピリチュアルな人々でも集めてみる? 最近、日本でかなり増えてるみたいに見えるけど。ただこれまた多くはニセモノだろうから難しいところ。

結局は「自由」が与えられる場所にすることかな。ここでいう自由はLiberty(責任の伴う自由)ではなくFreedom(単なる物理的自由)の方。ヒッピー文化はFreedomの上にLove & Peaceを描いてやっていたんだしね。ただ、これも封建社会な日本にはほとんどそぐわず、絵柄が違い過ぎ。

かくいう自分は3度目の正直を実行中で、新しいWebサービスを始めた。バーチャルミュージアムのプロジェクトで、2020年の8月3日にオープンした。

https://hachikei.com/

やっぱりオレって、スピリチュアル的な意味でも、そういうことをやりたくてやりたくて仕方ない人間なんだな。今回も、こんな風になるなんて、あまり思っていなかったけど結局そうなった。

いずれにせよ、政府は政府、世間は世間で、マインドセットがスピリチュアルな人々は、それらを横目に可能な限り自由にやるといいよ。

ロックンロールバンド

急に思い出した昔ばなし
 
オレは高校生のころからギターを弾いて歌ってバンドをやっていたが、中学の3年のときに不良(当時はツッパリって言ってた。いまではヤンキーかな)にギターを教えてもらった、そのつながりで高校時代、多くの不良とつるんでバンド活動とかもしてた。
 
あるとき、その不良の一人に自分のバンドのギターをやってくれないか、って頼まれて、ツッパリバンドでリードギタリストになったことがある。練習は、そいつの古い家の屋根裏部屋。ドラムもアンプもあって、まあ、近隣はうるさかっただろうなあ。
 
で、そのバンドはロックンロールバンドで、当時なので、みんなリーゼントっていうの? 髪の毛にポマードつけてとさかみたいなの作って、いつも櫛持ってて梳き梳き(すきすき)して、革ジャンにスリムのジーンズに短靴な人たちで、アイドルはもちろんキャロル。なのに、そこに、ふつうの軟弱なカッコしたマッシュルーム頭のオレだけ完全に違和感。
 
で、コンサートの当日になった。あれは大井町のシブヤ楽器(だっけ?)のホールだった。
 
オレは当時より偏屈で、そのころサンダルしか履かなかったのだが、それがまず仲間で問題になった。というのは、メンバーは全員コーディネートされた衣装で出ることになっていて、特に白いスニーカーは全員同じものを履く、って決まってたの。でも、オレは強行にスニーカーは絶対履かない、って拒否した。そしたら、僕を呼んだ彼が、まあ、いいじゃん、林はそれでいいよ、って言ってくれ、仲間たちはホント、しぶしぶ承知した。
 
ギターはテスコの糞ギターで、オレはコンサート前日に弦を張り替えたが、当時はギターも弦も品質が悪く、チューニングがボロボロ以下で、しかも、いちばん細い弦を張ったせいで、もう、ビヨーンビヨーン言っちゃって音楽にならない。
 
バンドのパフォーマンスは演出がきちっとされてて、手順が全部決まってて、踊りとかも全部きっちり練習して決まってた。やつら不良って、勉強はぜんぜんしないけど、そういうことは物凄く真面目にやるんだよね。
 
そのときの演出は、最初、演奏隊だけがスローブルースを演奏して、そこに、リーゼント、サングラス、革ジャン、ジーンズ、白いスニーカーのボーカル隊が駆け足で入って来て、いっせいにロックンロールに移行する、ってやつ。
 
で、ライブ始まって、オレがビヨーンビヨーンってスローブルース弾いてて、その時点で、我ながらもう糞演奏で、そこに、白スニーカーたちがカッコつけながら駆け足で入ってきた光景を今でも覚えてる。
 
で、そのロックロールの途中にギターソロがあるんだが、その時、オレだけにスポットが当たって、ボーカル隊の4人がオレの右に二人、左に二人来て、一人は立って、一人は膝まづいて、ソロの間じゅう両手で、ヒラヒラヒラヒラ、ってやるの。
 
これは超恥ずかしくて、その時は、オレ、なんでかわかんないけど、自分だけスニーカーじゃなくて、サンダルを履いてるのが特に恥ずかしかった。しかし、こんな演出、オレ、聞いてねーよー、ってマジで思い、下向いて弾いてた。
 
その後、コンサートが終わってたむろしてたとき、メンバーのやつらが、林のギターがビヨーンビヨーンいっちゃってうるさかったよな、みたいにオレにわざと聞こえるように文句言ってた。で、友人がそれをなだめてたの、覚えてる。
 
それで、あっさりクビになった。
 
オレの若い頃って、なーんにも考えてなかったから、感情のディテールが無くて、クビになっても、悪口言われても、陰口たたかれても、なんとも思わなかったんだよね。メンタル最強。
 
ああ、あのころの強メンタルのオレに戻りたい。

ブルジョア・ブルース

自分には人種差別感情がたぶんほとんど無いと思っているのだけど、なぜなのかはよく分からない。差別される側としては、大昔、ヨーロッパで英語がロクにしゃべれない東洋人としてバカにされた経験はあるが、悔しい思いはしたものの、差別されたという感覚は無かった。
 
差別をすることも、されることも、どちらもほとんど経験が無いので、結局、自分には人種差別についての感覚はほとんど持ち合わせが無い、ということになると思う。
 
そんな自分は黒人ブルースにハマった。知っての通り、ブルースはアメリカの黒人差別のただなかで生まれた音楽である。なぜ、それに、それほど惹かれたものか、これまたよく分からない。人種差別の感覚が無いのだから、それが直接の原因になったとは思えない。
 
ところで、このまえ、スウェーデンの僕の所属するバラライカ・オーケストラのコンサートで200人の前でブルースを歌って喝采されたのだが、そこで歌ったのはブルジョア・ブルースという歌で、これはアメリカの古い黒人シンガーのレッドベリーの歌だ。
 
この歌を選んだのは僕じゃない。オーケストラのリーダーのオーヴェさんがこの歌を持ってきて、僕に歌ってくれ、って頼んだのだ。
 
しかし、この曲の内容は、もろに黒人差別の経験を歌ったものなのである。レッドベリーがカミさんとワシントンDCへ行ったら、白人の皆に見下され、蔑まれ、こんなところは来るもんじゃない、こりゃブルジョアの街だ、最悪だ、みんなに知らせてやらなくちゃ、って歌っているのである。
 
この歌を、黄色人種のオレに歌わせるなんて、しかし、オーヴェさんも人が悪い(笑 
 
オーヴェさんは白人だが、彼は民族音楽のプロミュージシャンで、ジプシーミュージックみたいなのを演奏している。そういう意味では、日本人のオレがブルースを演奏するのに近いとも言える。たぶん、そんな類似があったんで、僕にこの曲を持ってきたのかな、とも思った。
 
しかしながら、このまえ、20人の白人のオーケストラをバックにして、ステージ中央にギターを抱えて座って、200人のほぼ全員白人の客の前で、大音量で
 
Hey! I tell all the colored folks!
Listen to me!
Don’t try to find your home in Washington DC
 
(おい! 有色人種のみんな! オレの言うことをよく聞け! 間違ってもワシントンDCを棲み処にするもんじゃねえぞ!)
 
って、シャウトして歌ってて、なんというか、内心、すごく微妙な気持ちになったよ。僕自身の中には、先に書いたように人種差別は最初から無いんだが、なんだか、黒人差別をプロテストする歌を、オレ、大勢の白人を前にアジテートしてるなあ、とか思って。
 
ご存じの通り、スウェーデンは人種差別を始め、あらゆる差別がもっとも少ない国の一つで、すでに、ここにいる白人のみなも、自分が「白人」だなどという意識はなく、単に「人」としか思っていないと思う。そもそも、僕が上に書いているように、スウェーデンの人々を「白人」呼ばわりすることは、おそらくここでは問題発言だろう。
 
そういうわけで、偏見がほとんど無いので、そもそも「白人の前で黄色人が黒人差別のプロテストソングを歌う」というシチュエーションの捻じれにはみな、不感症になっているはずで、なんだか変じゃないか、なんて感じる人はほとんど皆無だと思う。
 
実は、僕も、ほぼそうなのだが、ただ、ひとりのミュージシャンとして、このBourgeois Bluesをオレ、歌ってるとね、このスウェーデンのステージで起こっているような、きれいに整備され、守られた、人工的な理解の場が、なんだか夢のようにリアリティが失われて感じる瞬間が、あるんだ。不思議な感覚だよ。
 
というわけで、来週またBourgeois Bluesを歌う。あと、Kindhearted Woman BluesとKey To The Highwayも。オレの出番、楽しみだなあ。

若者と哲学

少し前、神戸へ行ったとき、甲南大学で20人ぐらいの学生を相手に、日本ビジュアルカルチャーの講義をした。縄文から江戸までの日本のビジュアル中心に紹介するお話で、スウェーデンでやってるのを日本語に直したものである。
 
学生たち、興味を持って聞いてくれたのだけど、そのスライドの最後の最後に哲学の話が少しだけ入れてある。それは「主観と客観」の捉え方についての、西洋と日本の違いについてである。講義でさんざん日本ビジュアルに接した後に、それを分かってもらいたい、という意図で入れている。
 
もちろん、唐突にそんな哲学的なことを言い出しても、ふつう、分かるものではない。講義のあと、学生たちとお茶を飲みながら、しばらく話をした。驚くことに、学生たちの何人かから、自分は哲学に興味がある、と言ってきたことである。
 
思えば、スウェーデンにしばらく滞在したK君も哲学を知りたい、と僕に直接言ってきたっけ。僕もそれを受けて少し話しかけたが、準備なしにするのは難し過ぎて、途中であきらめてしまった。
 
若者が哲学という言葉を出すことにつき、僕はわりと懐疑的で、ひょっとしてどこかの雑誌か何かでそんなことが言われていて、それで一種の流行として哲学という言葉を出しているだけだろうな、と大半は勘ぐって受け流してしまうのだけれど、どうもそうでも無いようなのである。
 
で、甲南大の2、3人の哲学を知りたいと言ってきた学生と、みなと一緒にしばらく哲学の話をした。僕が講義後の質疑のときに出した例は
 
「君たちは、空に輝いているあの太陽は何だと思いますか? 地球の何百倍も大きくて、中では核融合が起こっていて、恐ろしく熱くて、人間などちょっと近寄っただけですぐに死んで蒸発してしまう、そういう物体だと思ってますよね? でも、それは違うんです」
 
と、乱暴なことを言ったのだけど、やはり大人にこれを言うのと、若者に言うのとでは、その反応が異なるのである。
 
その後、そういうことを巡ってお茶を飲みながら若者と話したときにも、その若者の方から、先生、僕はときどきこう感じるんです、という話が出てきて、それは
 
「僕らが住んでいるこの世界というのは、誰かが作り出したものかもしれず、ひょっとすると全部作り物かもしれないし、でも、自分たちにはそれが本当はどうなのか、知る方法がない。そう感じるんです。先生の太陽の話だって、そうで、あの太陽も作り物かもしれない」
 
という話で、彼の心は、やはり現実とイメージの間を揺れているわけだ。「現実」というのは「客観」、「イメージ」というのは「主観」で、その関係の危うさを心で感じ取って、それに一種の危機を感じている、というのがよく伝わってくる。
 
一方、昨晩、僕は「告白」という10年前ぐらいの松たか子が主演の映画を見たが、実に残酷な映画でよくこんな暗いストーリーを作るなあと感心したが、あの中でも若い子たちが現実とイメージの間の危うさの上を揺れている。それから、僕は漫画をほとんど読まないが、ごくたまに読んでみると、その中でも、やはりその同じ危うさがテーマになっているのを見ることがある。
 
きっと、そんな中で、日本の若者は、現実とイメージの間に思いをはせるようになるんだろうな、と想像する。
 
それで、彼らと話していて、大人と違うな、と思ったのが、そんな話をしていると、若者たちの目が輝くというか、一生懸命理解しようとする、というか、そんな率直な目をすることだ。そういうところは、若いって、本当にいいなあ、って思う。
 
大人的に言えば、それは若者がまだたいして何も知らないからで、単に雰囲気で一生懸命に見えるだけだよ、ということになるかもしれないし、それは、まあ、そうだろう。
 
でも、日本の彼ら学生は、大学生活の後半になると、例の真っ黒な就活スーツを着て、髪を切って黒くして、マニュアル通りの面接をやって、社畜の振りをして働きはじめる。その状況は、それはもう完全に虚構の世界の中を生きている感覚になるんじゃないだろうか。現実とイメージの境は、自分という独立した人間の心の中で怪しく揺れ動き、現実を生きているのか、イメージを生きているのか、虚構を強制されているのか、虚構を演じているのか、分からなくなるのではないだろうか。
 
そんなところを突いて、日本の映画や小説や漫画のストーリーが作られるのだが、それは一種、強烈な「哲学的な問い」であることは間違いなく、彼ら若者が哲学という言葉を口にするのは、ひょっとすると何か切実なものがその心の裏にあるのではないか、と僕などは、買いかぶりかもしれないが、感じることがある。
 
願わくば、そういう若者たちに、哲学をちゃんと教えてみたいものだと思う。