芸事

三島由紀夫は憂国っていう短編を読んで一気に気持ち悪くなり以後敬遠。彼が常に携えていたらしい葉隠っていう武士道を語ったといわれる本があるが、存在が嫌で仕方ない。宮本武蔵なんかも何を間違ったかかつて五輪書を買ってしまったが、もう、捨てちゃったかもしれない。

と、いうわけで、一般に武士道というものが嫌で仕方なく、その理由うんぬんより、とにかくその世界観が自分には生理的に気持ち悪くて無理である。

これ、なんだろうな、と思い、そんなこともあり、最近、林家クロニクルという一文を書き、理由を明らかにしようとしたものの、父への反抗心という以上のものは出て来ず、そんなのは幼稚な理由であり、あの一文はむしろ武士道の肯定になっているかもしれない、という始末。

https://hayashimasaki.net/etc/hayashichronicle/index.html

で、昨日、なぜか乃木大将のことを調べたりしてしているうちに、河上徹太郎の吉田松陰という本を引っ張り出して、なんとなくながめていたら、最後の章が「殉死」という文で、読んでたら前述の葉隠について出てきて、それで三島も出てきて、彼、葉隠入門という本を書いたりしていて、いろんな引用なんかもあった。

で、その葉隠の中の一節に、こんな風な文を見つけた。

「芸は身を亡ぼす。芸事するなんて侍じゃない。芸能が上手な人間は馬鹿である。ただの下らん一芸に執着するせいで、その他のものが目に入らず上手になるにすぎない。そんなものは何の益にもならない」

つまり、芸能などというものは極めて軽薄なバカバカしいもので、男子のすることじゃない、最低だ、という恐ろしいことが書いてあるのを発見して、すげー、喜んじゃった。

そうか! オレがギターを弾いて歌ってるのは、芸能ヤロウになりたかったからで、それは、あの我慢ならない葉隠に語られている武士道を、横目に見てバカにしてはやし立てるためだったか、ということが分かった。嬉しい。オレ、することが一貫してる。

しかし、自分、実は、音楽でブルースを演奏していてもどうしても葉隠的なものをイヤでも表してしまう傾向があり、それには少し閉口していたことは、していた。

それでまた、そうか! と思い至った。

オレがちょっと前からかかり切りになっている日本語オリジナル糞曲の録音は、さらにそこから自由になるための超越的芸能であったか。いやもう、ホントに下らない曲の数々なのであり、葉隠の常朝が聞いたら、日本男子の成れの果てのそのまた成れの果て、と絶望するであろう。ざまあ見なさい、である。

いや、でも、こんな論のようなことを考えずにいられないところがそもそもオレの儒教的性格を暗示しているわけで、忌々しいが、ま、しかたない。

それに儒教は武士道と違う。孔子は自ら演奏もしたし音楽好きだったしな。

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