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林家代々の墓。鳥取一行寺。移設され今は無い |
僕の父方と母方はだいぶ正反対な血筋であった。僕はその両方を受け継ぎ、結果、それは良い方へよりは、むしろ悪い方へ転んだようだ。還暦を過ぎてもいっこうに落ち着かず、天命を見出して何か大きなことを成し遂げるなど、夢のまた夢、という人間になった。
父方は士族で厳格、母方は町人で楽天的と、いちおう大雑把にはくくることができるが、僕の人生において、常に自分を縛り、律せられ、どうしても逆らえなかったのが、父方の血だった。その自覚はこれまで自分の中にいつもあり、それは常に自分にとって何らかの束縛であり、重荷であった。
というわけで、ここでは明るい性格を持った母方は後に回し、父方のことにつき記しておこうと思う。
父は58歳の若さで、がんで二年間の闘病の末に死んだが、おそらく彼は自分がこうありたかった、という意志の志なかばで倒れた形になっただろうと思う。社会において成功し、大成し、ひとかどの知られた男になることが父の望みだったのはほぼ間違いないと思う。
思い出すが、僕が大学生のころ、無口な父にしては珍しく、人生について語り合ったことがあった。そのとき、父は以上に述べた人生の意味について僕に語り、そして僕はそのとき、じゃあ、親父の言う通りだとすると男にとってもっともふさわしい職業は政治家ってことなの? と聞いた。そうしたら父は、そういうことになるな、と答えた。僕は当時から政治というものが大嫌いだったので、反発心はあったが、そのまま言葉を発せず、そのときはそれで終わった。
結局、僕はその父の言葉にいちいち反抗しながら人生を送ることになった。
自分がまだ物心がはっきりとつかない幼少時代から小学低学年ぐらいまでの間、父は、要所要所で僕を躾けた。そのやり方は決して厳格ではなかったが(たぶん、父には非常に優しいところがある。おそらく父の母から受け継いだのだろう)、まだ、まっさらだった僕の心に、はっきりした規範を植え付けていった。
その躾は、言うまでもない、長男の僕は「士族の嫡男だ」ということだった。そうであるからは、常に士族の倫理道徳のもとに行動せよ、ということだ。卑怯なことをするな、恥を知れ、公共に身を捧げよ、私利私欲で動くな、というもろもろのことだが、いま考えてみると、それら士族の行動規範はいくつも並べられるが、その最後に、結局は、「然らずんば死をもって償え」という文句がついていたように思う。
これでは、まあ、若い自分に十分に重荷だったのはうなずける。
しかし、林家が本当に士族の血統であったか否かは、はっきりは分からない。父は、かつて世の中でルーツブームみたいなのがあったとき、家系をだいぶ調べたらしい。たしか、出身地の鳥取まで行って戸籍を調べたり、家系図を探したりして、なにかしらの物的証拠を持って家に帰って来たはず。家族の前で、その家系図だかを開いて、そら見ろ、林家は立派な士族の家系で、おまえたちはその血を継いでどうのこうの、と演説したが、家族(母、僕、弟、妹)の誰も興味を示さず、完全に無視されたときの様子をなんとなく覚えている。その家系図もどこかに紛失した。
自分はというと、林家は確かに士族の血は引いていただろうと思っているが、それにつき物的証拠はあまり重要視しない。精神的な系譜のようなものが明らかに林家にあるように自分には感じられ、いわゆる「業」のようなものを背負っていることが、明確に自分の心に感じられるからである。今ならDNA鑑定でもして生物学的な血統を明らかにすることはできるはずだが、それにそれほど重きを置く気にはならない。仮に僕が水呑み百姓の子であることが判明したとしても、この、背負った業はまったく無傷のまま、自分の心に刺さったままなのは間違いないだろう。
それはなんだろう。なんだか、父方の血統には、かなりとてつもなく暗いなにかがあるように、思えてしまうのである。
これにほとんど根拠はないが、それをほとんど生理的にまで及ぶほど強く感じたりする。科学的に考えれば、これは父が、自分が幼少のころ身体的痛みを伴う躾(フィジカル暴力は無かったが)として自分に叩き込んだせいで、生理的感覚としての業、というものが自分に現れるのだろう。もっとも、そんなことをあまり詮索しても仕方ない。
さて、それでは、父の生い立ちについて、断片的に残った写真も含めて、これから簡単に語ろう。
父は生前、写真が趣味だったので、幸い、古い写真も含め几帳面にアルバム化されていて、かなりの写真が残っている。なんでも捨ててしまう母とは正反対だ。ちなみに父が死んだとき、膨大な量の写真のプリントとネガと8ミリフィルムが残ったが、アルバムだけは僕が救出したものの、その他はビニールゴミ袋に入れて、母がぜんぶゴミとして捨ててしまった。母は、潔い、というよりそういうネイチャーなのだ。僕にも十分その血は受け継がれているので、それが分かる。
父は闘病中、病床で一冊の大学ノートにボールペンで、あれこれ断片的に文を残していた。このノートも母に捨てられそうになったところを僕が救出したのである。当時のがん治療は過酷で、抗がん剤の副作用で苦しみ抜いたあげくに死んだ、と言っていいのだが、その辛い治療の合間合間に、時にはふるえる手で文字が綴られている。そこには僕ら家族が聞いたこともない、父の幼少時の経験の記憶も書かれているのである。
父の直筆を書き起こして紹介してもいいのだが、生々しいし、雑記帳のせいで情報が前後して散逸しているので、僕が要約してまとめてここに書く。書き起こしは付録にでも付けることにしよう。
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生前の父、林義人。これは46歳のころ |
父の名は林義人。僕より体が大きく、太っていて、この写真の顔を見れば分かるように、ルックス的には大仏系で、鷹揚な感じがあった。父は、小さいころから、周りから秀才扱いされた優等生だった。社会人になってからの父は特に、日本の文学や歴史に詳しかった。父の好きだった、奈良の東大寺戒壇院にある四天王像の塑像の、あの沈思と怒りの顔をたまに自身で真似して見せることがあったのを思い出すが、父の顔は、ちょうど彼ら仁王が私的空間でリラックスした時、みたいな印象があった。
若いころの性格は、父自らが書いているが、内向的で、恥ずかしがり、無口で、真面目であった。ただ、中学、高校ともに主席で卒業した優秀さで、学級長をやり、一時は弁論部の部長をやったこともある優等生である。その後社会に出て、仕事では知的で教養があり頼りになるボス。そして優しくておだやかな性格から、どうやら遅咲きで女にはもてたらしい。
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祖父と祖母の結婚当初の林家の写真。大正12年。祖母は17歳 |
父は鳥取の生まれで、子供時代を鳥取で送っている。父の父、すなわち僕の祖父、林武義は、父が5歳のときに亡くなった。父は長男で、その後次々と長女と次男が生まれ、祖父はそれですぐに死んでしまうのである。この写真は、子ができる前の祖父の家の家族の面々を写したもので、手前右の僕の祖母が、17歳の若さでこの林家に嫁いできた直後の写真であるらしい。
この写真は父のアルバムにあったが、自分にはなかなかショッキングなものであった。いったい、この全体の厳しさは、何なのだろう。家長の祖父はひとり肘掛椅子に座り、ものすごく偉そうである。左にいるおばあさんは、おそらく祖父の母であろう。祖父と顔の相が似ているので間違いないだろう。しかしこれまた恐ろしく厳しくて怖い顔をしている。立っているのに座っている祖父ぐらいの背にしか見えないのでだいぶ身長が低いのだろうが、顔は大きい。その左の婦人は、おそらく祖父の妹か誰かと思われるが、これまた恐ろしく厳しく知的な顔をしている。時は大正時代だが、当時の「家」というものの厳しさをここまではっきり写したものも無いと思う。
そんな厳しくいかめしい林家の面々の中に、ひとり何も分からず嫁いできたかのような若い僕の祖母がいる。これを見ると、こんな環境の中で、祖母の苦労はいかばかりであっただろう、とほとんど戦慄するのである。
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祖母。林家に嫁いで1年目の18歳のとき |
そしてこれが結婚当初の、僕の祖母が18歳のときの写真。なかなかきれいな女性と思う。ただ、なにかすごく純情なものを感じると同時に、明るい様子がほとんどなく、なにかしらの悲しみを内に秘めているようにも見える。このあと、祖母はこのいかめしい家で、そして、祖父の死後も、さんざん苦労するのだが、なんだか、結婚当初のこの顔にすでにそれが現れているように見えてしまう。何か、悲しそうな、淋しそうな心が、どうしても自分には見えてしまう。
以下の写真は結婚後の最初の写真から、11年ほど経ったときのものである。父の記によれば、祖父は非常な凝り性で、菊の栽培につき度が外れた、菊気違いだったそうだ。この写真にも菊の植木が写っている。この林家の凝り性な性格は父に受け継がれ、そのまま僕と僕の弟に遺伝したようである。
しかし、この時すでに祖父は舌がんに侵されていて、1、2年後には亡くなっている。先に述べたように父がまだほんの5歳のときである。写真の子供たちは、右から、父義人、生まれたばかりの父の弟武也、父の妹恵美子、である。
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祖父はこのときすでに舌がんに侵されていた。ほどなくして死去。右から、義人(長男)、武也(次男)、恵美子(長女) |
父の書いた思い出の記述によれば、葬式で死んだ祖父とお別れをするとき、父は「乃木大将のようになります」と自ら書いた紙を棺桶に入れたそうである。この挿話も僕にとってはなかなかにショックであった。知っての通り、乃木大将は指揮官として幾多の戦場を指揮した軍人で、それは失敗も多かったそうだが、結局、明治天皇の崩御の後、切腹で死んだ。いわば士族の最後の生き残りみたいな人だが、林家嫡男の父はその乃木大将を理想とする教育を、すでに5歳にして身につけていたことになる。そして父は、現在の林家嫡男の僕にそれを求めたわけであった。
さて、これまで紹介した写真を見ても、全体に林家は裕福そうな由緒正しい一家に見えているのにも関わらず、祖父の死後すぐに、三人の子供を抱えた未亡人の僕の祖母は生活に困窮したらしい。庭もある大きな家には住んでいたが、金が無く、鍋の中のご飯に卵一個をかけてかき混ぜた卵かけご飯を三人で分けて食べた、という記述がある。まさに赤貧である。
庭のある大きな家、というのは前述の写真に写ったあの家なのであろうか。やはり若くして家長が死ぬ、というのはそういうものなのであろうか。
そうした貧乏暮らしを2年ほど続け、父が小学二年生のころ、父の母(僕の祖母)が再婚し、家からいなくなる。祖母が31歳のときである。その時点で三人の子供たちはばらばらになり、それぞれ親戚などに引き取られて行く。
この時点で、林家は一家離散である。祖母が再婚したということ以外、詳しい事情は分からない。
僕の祖母は、長男の父を再婚先に連れて行くつもりだったらしい。しかし、そこで異論が入った。父は長男なので、林家の跡継ぎになるわけだが、ここで彼が再婚した母へついて行くと父の姓は変わり、林家のお家断絶になってしまうかららしい。その異論は、亡くなった父方の親族のお祖母さんの側から入ったそうだ。
そのお祖母さんの名は高木きよ、盆屋の女将だったそうだが、結局、父はそのお祖母さんに引き取られることになった。お祖母さんは親分の風格を持つ女将そのものだったそうだが、父を林家の嫡男として大切に育てたようだ。自分の食事だけは高脚のお膳が運ばれお頭付きだった、などと書いてある。
ちなみに盆屋というのはなじみがなく、調べたが、博打の場所提供や男女が逢引する連れこみ宿のような貸座敷業のことらしい。小学二年だった父はその店の女将に育てられ、そのときはよい生活をしていたようだ。
しかし、それも長くは続かず、父が6年生になったとき、鳥取の大地震が起きる。夕方だったそうだが、父は外出先で夕食をご馳走になっていて、茶の間の部分だけが倒壊せず助かったが、家へ走って帰ってみると、お祖母さんと住んでいた自分の家は一階部分が潰れ、二階が上に乗っかっている形になっていた。お祖母さんは一階にいて押しつぶされ、亡くなった。
その後、父は叔母の亀井節子のところへ引き取られ、鳥取一中へ進むことになる。
以上が父の幼少時代の変遷である。いかにも士族な林家の長男として生まれ、5歳で祖父が亡くなり貧困、そして祖母が再婚したが祖母の元へは行かず、盆屋のお祖母さんに引き取られ林家嫡男として可愛がられ、お祖母さんが地震で死んで、叔母に引き取られる、という風に転々としながらも、林家という血筋は、かろうじて父とともに残ったわけなのである。そしてその血は長男の僕に受け継がれたわけだ。
その後については詳しく語ることは無いだろう。あるいは別の機会でもいいだろう。
頭の良かった父は、一中は主席だったそうで、鳥取一の西高へ進み、そこからが青春の始まりだ。西高も主席で卒業して、鳥取県庁に就職、その後、東京へ転勤。そこで愛知出身の僕の母と結婚。1959年に長男の僕が生まれ、ほどなくして小金井へ。その後、しばらくして蒲田振興株式会社(蒲田駅ビルをはじめとする一帯のビジネス会社)へ呼ばれ、転職。そして住まいを大森へ移す。蒲田の会社では常務まで行って、56歳で鼻のがんにかかり闘病二年で死去。58歳だった。
高校を卒業したときは、父は本当は大学へ進み、文学をやりたかったらしい。しかしそれはかなわず、公務員からサラリーマンへ、最後は会社役員で終わっている。
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父の書いた原稿。慶応大の通信教育を受けたときのレポート |
父の若いころの文章は、日記や作文や書きつけなど大量に残っていて、読めばすぐに分かるが、非常に早熟であり、内容はかなり高度なもので、文才があったことは明らかだと思う。しかも、その筆跡たるやきわめて整然と並んだ字体で、丁寧で、几帳面で、真面目な性格をそのまま映している。ただ、文の方は、今の僕から見るとなんだか四角四面な印象を持ってしまう。それにしても、僕がこうしてやたらと文を書いているのも、父からの遺伝なのは、間違いないだろう。
俳句や和歌も詠んだが、僕としてはそちらの方が良かったと思う。いくつもの、良い句や歌があって、書きつけた紙なども残っていたのだが、前に書いたように、父が死んだとき母がぜんぶ捨ててしまって、ほとんど残っていない。
父が最後に詠んだ句は、いま僕が参考にしている病床ノートに、ふるえるペンで書かれている。
初雪や 病床の夜 音絶えて
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病床ノート |
どうも、病床ノートなどというものを読んでいると、暗くなってきて困る。以上に僕が要約した父の子供時代のことは、どうもその僕の暗い気分が書かせたものになってしまっているかもしれない。しかし、こうして父を思い出してみると、どうしても感じてしまうのだが、父には、生来、明るいところがあまりなかったように思えてしまう。
父は、実はロマンチストであり、美を愛する心の持ち主だったのだが、なんだかその全体の姿が暗いのである。父の書いた文をさっき四角四面と形容してしまったが、それが言い得ているとは思わないものの、なんだか、その文の全体を囲っているものが硬く、哀調を帯びている。そうだ、そう書いて思いついたが、父の文は短調で書かれているように思える。
一方、僕の母は父とまったく反対の、明るさ、楽観、くったくのなさ、を持っていて、父もこういう母だから結婚したのだろうな、と、これについては妙に納得する。
写真もここにいくつか載せておこう。結婚当初の父と母、そしてまだ赤ん坊の僕。僕を抱えた母のこの写真など、僕がいかに母の愛情を多く受けてその幼少時代を育ったかが、よくわかる。その点において、父の幼少時代とは、だいぶ違っていたはずであろう。
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父と母。昭和34年。僕は1歳。 |
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母と僕。僕は2歳ぐらいか。 |
しかし、それで僕が母の血を受けて明るい青年に育ったかというと、実はそんなことはなく、僕の若いころは、昔の父よろしく、気難しくて暗くて内向的で真面目な若者だったはずだ。僕はいま66歳だが、そういう父譲りの暗さから、なんとか自分を解放して自由になるために苦労した人生だった気がする。それに成功したか、というと心もとない。そういう私的な束縛にかかずり合っているうちに、僕自身は社会で大成する道を自ら遠ざけたと思われる。
別に後悔はしていない。というか、僕は幸い後悔という感情が起こったことが無い性格なのである。しかしながら結局、父があれだけこだわった士族の血統につき、僕の代で、林家は一応終わった。僕には子がないので、長男としての林家はターミネイトだ。それでいい。
前の方で、父と若いとき人生について話し合い、そのとき父は、男の職業としてもっともやりがいがあるのは政治家である、というような会話で終わったことを書いた。文字通りに受け取ることも無いのだが、ひとつ思い出す。
父は中ぐらいの企業に勤め役員になったが、そのころはだいぶ貫禄もつき、人脈も相応にあったらしく、政治家の何人かと会うこともあったらしい。具体的には忘れたが、たしか竹下元総理などもそこに入っていた覚えがある。家族にそれを自慢したことも何度かあったが、案の定みなには無視されていた。
さらに僕が社会人になってからは、自分の人脈の中から僕に関係しそうな偉い人を僕に紹介したり、一度など会席の座を設けたこともあった。僕は、今もそうだが、偉い人というのが苦手なので、いい迷惑であり、その紹介された人脈を放置し、顧みなかった。
一方、父は、かつて田子さんという、人生の師と仰ぐ人を持っている。県庁の一公務員だった父を、ビジネス界へ取り立ててくれた人物である。父の文によれば、人間的に大成した魅力ある素晴らしい人だったそうで、自分も将来あのような圧倒的な存在感を持てるだろうか、と憧れた人だったようだ。
実はこの僕は、おそらくそういう事々への反発から、師と呼ぶような人は結局、持てなかった。というか、おそらく無意識で警戒し、求めなかった、あるいは寄せ付けなかったからのようだ。そのせいで僕の人生は、再三書いたように、大きなことをなし得る人生にならなかった、と今では自身を分析している。
父においては、社会で頭角を現すことが、その価値観の第一である。とはいえ、前に書いたように、そもそも父は文学系であり、その最初は、物書きを目指したのであり、父の残した文を読んでも、その半分は文学的、哲学的、芸術的、そして宗教的であったわけで、それが父の別の顔、あるいは、ひょっとすると本当の顔、つまりユングのいうところのNo2だったのであろうか。
父が死んだとき、通夜の前の深夜に、僕は一人で遺体が安置されている場所へ行き、かつて父が5歳のとき死んだ祖父の棺に「乃木大将のようになります」という紙を入れたがごとく、僕も紙に文を書き付け、棺の横に置いた。それは「仏トナ名モナキ物ノ御名ナリテ」という言葉で、父が最後のころに見つけた言葉だった。
僕は父のNo2のそっちの顔が好きだったし、そう生きて欲しかった。それなのに彼は、「乃木大将のようになる」の方で生きてしまった。しかし、それは最終的に、歳を重ねた父の、自信でもあり、誇りでもあり、達成感でもあり、自慢でもあったはず。そしてその後を引き継ぐことを、跡取りの僕に望んだわけだ。
しかし、それがとりもなおさず僕への束縛であり、重荷であった。そんな自分は、作家になりたかったという父のNo2を開花させるべく、そのNo2の方の跡取りになりたかった、とも言える。
最後に、林家の「業」の話をしておこう。この文の前半で、父方の血統にはかなりとてつもなく暗いなにかがあるように思える、と書いた。これすなわち仏教で言うところの業であり、僕の過去の系図の網の目の中で、なにかひどいことが起きて、それが業として僕に伝わっている、という考えである。
第一、そんな業のようなものを信じること自体が、いわば、バカげた話で、もし僕が、これまで書いたように林家の血統から解放されて自由になりたいなら、そんな業自体を取りざたなどせず、放置して顧みない、という行動をとらなければ、そもそも血統からの自由など、あり得ないだろう。というか、そもそもこんな文を書いている場合じゃ無いだろう。
ということで、林家の束縛をそれなりに絶ったつもりの僕も、思い切り囚われたまま、ともいえる。それはまた別の問題で、ここではとりあえず無視して、その業について簡単に記して終わろう。
しかし、何か途轍もなく暗いものがある、なんていうのは陽気な話ではなく(当たり前)、なんだかそれを綴るのが急に嫌になってきたので、ごく簡単に触れるていどにしておく。
なぜそういうものを感じるかの理由は、僕の人生のいろいろなところに現れていて、それを集大成すれば私小説が書けるほどだが、それは止めて、あった出来事をひとつだけ記しておく。これは、どこかですでに書いた話のくり返しなのだが、数年前に京都国立博物館へ行ったときのことである。
コロナ期で人はまばらで静かだった館内を、なんの期待もなく、展示品をながめながら退屈だなあ、と歩いていた時のこと、そこに、三つの能面の展示があった。まず、翁の面があり、僕は隣のキャプションを読んでいた。それによれば、翁の面は天下泰平、豊穣の象徴だとかなんとか書いてある。へえ、そうか、と思い、その隣のショーケースへ移った。
そこには、小面(こおもて)と怪士(あやかし)が並んで展示されていた。その男女の面を見た途端、なぜだか強い情動が沸き起こり、自分を制御できなくなり、それらの面に釘付けになった。しばらくして、そこを強制的に離れて薄暗い部屋の真ん中に立った。コロナ期で人がほとんどおらず、自分もマスクをしていたのが幸いで、周りには気付かれなかったが、立ったまま、自分はしばらく号泣してしまったのだ。
なぜ、そこまで強い感情が襲って来るか分からなかったが、一時の感情が去ると、自分は足早に博物館を出て、真ん前にあった三十三間堂に機械的に入り、ロクに見もせず通り抜け、出てタクシーを拾って、京都駅へ戻り、奈良の法隆寺へ向かった。法隆寺は何度目かだったが、順路の最後は、夢殿だった。聖徳太子が籠った、救世観音が安置してあるお堂である。
雨が降っていて、人はまばらだった。
その時に僕は、自分の祖先のどこかに、戦に敗れた侍がいて、それがどこかの女とかかわり合って、そこで何らかの悲劇が起こったに違いない、と確信してしまった。僕の人生はその男女の劇の投影に違いない、と根拠もなく、思うようになった。
いずれ僕の勝手な空想であり、そんな空想に引きずられて人生を選択する僕も、じゅうぶんバカげた存在であろう。しかし、特に女性のかかわることについては、いまだに自分はその囚われの身になっている気がする。くだくだ書くのはまた別の機会にするが、僕のこれまでの、そして現在の人生の変遷を辿ると、そのような結論になってしまうように思うのである。
僕が、これら厄介な束縛から晴れて解放される日は来るのだろうかと思うと、僕はいつかきっと来ると、これまた根拠もなく信じている。
以上、僕の人生にとっていろいろ厄介だった父方について書いておいた。
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そのときの法隆寺、夢殿 |