論語の文

論語には孔子が二千年以上前に言ったことが書いてあるけど、いまでも人間があまり変わらないことがよく分かるな。

さっき、論語の次のシーンに出会った。

ある人が、「いくら徳の高い人とはいえ、井戸に誰か落ちたと聞いただけで、それは大変と、飛び出して行くほどバカじゃないだろ」、と言ったら、孔子は、「バカを言え、だまされてすぐに飛び出してゆくさ。ただ、井戸には落ちないというだけの話だ」と応えたそうだ。

本当にその通りだな。なにかに遭遇したら、心はすぐに先に動くようでなくちゃいけない。そういう意味ではだまされやすいのは君子の君子たるゆえんだ、とね。

ところが、この自分の解釈は現代では誤解とされているそうだ。AIがそう言ってた。「俗にいう、君子はだまされやすい、という意味ではありません」と言うのだ。AIは学者の通説を総合するから、現代的に正しい解釈は以下のとおり、ということになる。

「君子は、筋が通っていれば信じることはあるが、ずっと騙し通すことはできない」

という意味だという。ああ、本当につまらない、硬直した、手垢にまみれた解釈だ。AIのやつ、その後、こんなふうに言い替える。

「真理を見抜く力があるので、最終的にはごまかしは通用しない」

こうなるとえらく下品な解釈になる。なにが「真理を見抜く力」だ、バカバカしい。そんなものは君子の余技に過ぎない。真理を見抜く力があるからだまされないのではなくて、だまされるから真理を見抜く力があるんだ。

君子はだまされやすい、のだ。ただ、だまされた後が違うだけだ。むしろ、君子がだまされやすくなくてどうする。それは硬直した精神というものだ。

UFOを誰かが見たという。UFOは本当なのか嘘なのか、ではなくて、重要なのはUFOが現れたことだ。それを素直に信じずして、なんの世界と心があるものか。

そうじゃなけりゃ、たとえば、古今のあらゆる小説はぜんぶウソで意味がなくなってしまう。

まず、目の前のものを無条件で信じること。それがいちばん大切。あとは好きにすればいい。

とまあ、ここまで書いてきて、ようやく論語の原文を当たってみた。この話は論語の雍也篇というところにあって、原文は以下。

宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其從之也。
子曰、何為其然也。君子可逝也、不可陷也。可欺也、不可罔也。

これを色付けなしに直訳するとこうなるそうだ。

宰我が質問して言った。「仁者は、もし人から『井戸に人がいる』と告げられたなら、それに従って行くのですか。」孔子が言った。「どうしてそんなことがあるだろう。君子はそこへ行くことはあっても、落ちることはない。だますことはできても、惑わせることはできない。」

なるほど、これならばたしかに、その俗世間の解釈である「君子は一時的に欺くことはできても、賢いので完全に騙しとおすことはできない」というのが順当に思えてくる。

ところで、この論語の中国語文は、その後の学者やらなにやらによって解釈し尽くされ、おそろしいほどのバリエーションを生むのだけど、それは原文がこのように簡素でディテールがほとんど省略されているかららしい。

しかし、おもしろいのが、中国文化では、このように解釈が多義的で、無限のバリエーションを生む源にあたる原文は、「それだからこそ」深い知恵を蔵した言葉なのである、ということになるそうなのだ。

これは西洋哲学のロゴスとはだいぶ違った方向性である。誰でもいいが、ソクラテスでもカントでも、その記述は、まるで数学の大問題を解く証明の連鎖のように、精緻で長い。

言葉を種子として投げ出す、というこの中国のやり方、日本にもおおいに通じる。発せられた言葉自体が生命の源になる、ということだ。たとえば、和歌や俳句はまさにそれだしね。面白いものだな。

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