奥の細道 (松尾芭蕉)

僕が古本屋で買った文庫はあまりに古くて、注釈も現代語訳もまったく無く、古文の原文がそのまま載っているだけである。さらに、読点、句読点も無く、濁点のたぐいも無く、一生懸命読んでもなんとなくしか分からない、という程度である。

他の対訳本などを見てみると、このような古文を現代語に訳すと、文章が三倍ぐらいに増える。当時の文というのは、書く人と読む人の間にたくさんの共有知識や相互信頼があって、それで成立していて、くだくだと書く必要がなかったんだろうなあ、と妙に感心する。

さて、昔学校で習った芭蕉の句には好きなのがいくつかあり、こうやって今、原文と共に再読してみても、本当にすばらしく、感動した。ただ、紀行文の方も難しいが、句の方も、半分以上がやはりそのまま意味が頭に入ってこない。この辺は要勉強であろう。

それはそれとして、僕にでも分かる平易な句を見ると、たった一行の上にものすごい大きさの、なんというか、人生のようなものが見えている。よく、俳句の表現について評するに、たった十七文字の中に凝縮されている、と言われるが、実際は何となくそういう言葉じゃなくて、むしろ広がっているイメージである。その昔はただの一粒の種子だった、松や桜や、杉や、そんな木々が見事に大きくなり、枝振りを広げ、立っている、そんなイメージをこの一行の句は持っている。俳句は、今では、英語圏の学校でも課題になるほどポピュラーで、そこでもたぶん俳句を説明するのに、凝縮、簡潔、という言葉を使うと思うのだが、これは当たっていない気がする。少なくとも芭蕉の句にはそんな姿は映っていない。とても大きいのである。

ちょっとだけ書き留めておこうかな。有名な平泉の章では、ふたつの句が紀行文をはさんで並んでいる。今はただの野原と化した藤原三代の栄華の跡を見て、笠を置いてそこに座り、いつまでも涙を流した、と書いた後

夏 草 や 兵 ど も が 夢 の 跡

中尊寺の光堂は、藤原三代の棺を納めた小さなお堂である。これは長年の月日で見る影も無く朽ち果てているが、回りを囲い、屋根を覆って、かろうじて記念として残っている。そして

五 月 雨 の 降 の こ し て や 光 堂

それにしても、この二つの句の対照にはあきれるほどの量の何かが映っている。不思議なものだね。これを見て、このときばかりは本気で、日本人に生まれてよかった、と思った。

ところで関係ないが、いくらか前に僕も中尊寺へ行ったことがある。光堂は、芭蕉が訪ねたころにあった場所から、境内の近くに移設されていた。芭蕉が書いている、お堂を覆う囲いはそのまま残っていて、割りと粗末な木造の建物はがらんどうで、昔はここに荒れ果てた光堂が建っていたのだ。

現在、当の光堂は完全に修復され、きらきらに新しくなり、なんと今度はコンクリートの建物に覆われて、温度湿度を完全に管理された中に立っている。見物客はこの建物に入り、ガラス張りの空間の中にライトアップされた光堂が見られる、というわけである。このとき見た青ざめた光堂を、今でもつらい光景として思い出す。

ここまでくると、さすがに、見物に来ている、普段は下卑た冗談で大笑いしている田舎のおじちゃんおばちゃんたちも、少しおとなしく、なんとなくみな苦々しい顔をしているように見えた。まあ、これが時の流れというもの、文句は言わないようにしよう。そして、芭蕉の句が残っていることを幸せとしよう。

ちなみに、これらの句だが、「なつくさやつわものどもがゆめのあと」「さみだれのふりのこしてやひかりどう」と、頭の中で声に出して、ゆっくりしたテンポで読むことを是非おすすめしてしまう。他の句ももちろん同じである。一種の音楽だから、やっぱり声に出すといいみたいである。ただ、頭の中で、と書いたのは、本当に声に出すと、どうも自分の声の悪さに辟易してしまったからである。少なくとも僕の場合は、音読する場合は、朗読のプロのような人に読んでもらった方がいいのかもしれない。