ジキル博士とハイド氏 (スティーブンソン)

二重人格を描いた有名な古典である。物語が繰り広げられるのは、むかしのロンドンの街。その情景の、独特な、暗さ、冷たさ、霧にかすんだ感じがとても幻想的で、読んでいてすっかりその世界に浸りきってしまった。

ジキル博士は、社会的な地位、尊敬を勝ち得た著名な科学者。その彼が、人格の善悪を分離する薬をひそかに発明し、自らが実験台となり、自分の邪悪な部分のみで出来上がったハイド氏に変身する。暴力的な腕力を持ち、敏捷で、身軽な、醜い身体を持ったハイド氏は、いとも軽々とあちこちを飛び回り、悪の世界に入り込み、思う存分、気のおもむくままに悪行を重ねる。良心の呵責や、道徳的抑圧から、完全に自由になり、これまで抑圧されていた自分の邪悪な部分をすっかり明るみに出し、解き放ち、今まで禁止されてきた行動を本能のおもむくままに行うことの「爽快」さが、後のジキル博士の手記の中で語られている。

この気持ち、すごく良くわかる。実際、自分の中の無意識界に押し込めれている邪悪な部分というもの、抑圧が働くせいで明確に輪郭を持った形で取り出すことはできないが、相当巨大なものであろうことは想像できる。僕らはこれを、いろいろな形で変形に変形を重ねて、元のものかどうか判然としないような形にまでして放出しているような気もするのだが、どうなんだろう。よく言われることだが、「芸術」や「表現」の中には、この抑圧された邪悪をエネルギーとして使っているものが多い。つくづく解き難い謎の部分である。

それにしても、近年のネット社会をちょっとのぞいてみただけで、むかしフロイトが人間の意識と無意識、自我と超自我、抑圧などを図にして描いた、あの図式がほぼそのまま全ネット情報に当てはまるように見えるのは不気味である。そこには「芸術への昇華」などというものはほとんど見当たらず、単に凶暴な悪がそのままの形で見えていたりする。こういったものは、これまでは見えてはいけないものだったのである。目に見えるものではありえなかったからこそ、芸術や表現という形に姿を変えることもできたのである。

こんな世の中になると、ジキル博士とハイド氏のような幻想的な、気品にあふれた奇談を楽しむことは贅沢な行為に属する。普通は薄っぺらなハリウッド娯楽で終わってしまうのが常だから。今の世の中、悲観し始めたらきりが無い、ということか。

ところで、ジキル博士は、最後にはハイド氏から元に戻れなくなり、自室にこもるが、ついに自殺して果てる。月並みな結末だが、これが正しいあり方なのだ、この結末しかありえないのだ。

(読書感想文の第一弾は、とってもマジメなものになってしまった。もっと軽いノリで書こうかな)