感想 (小林秀雄)

この文は、単行本で二冊もある長いものだが、その大半はベルグソンについての論考である。実はこれは未完で終わっていて、小林秀雄自らが続けられないと判断して中止、そして公表を禁じた文なのである。例によって死後は彼の言葉は守られず、こうして単行本となって、自分も読めるというわけだ。

この文では、ベルグソンの思想をほぼ著作順に丁寧に追っているのだけど、理解するのはだいぶ難しい。ベルグソンの原著と同等ぐらいに難しいと言ってもいいほどだ。いまこの現代では、昔の有名な哲学者たちの解説本はたくさん出ていて、それらは当の哲学者を研究している研究者が易しく書き下した本が多くて、じっさいに読んでみると、原著よりはるかに見通しよく、分かりやすく、僕などもだいぶそれらの本にお世話になった。でも、思い起こしてみると、それら分かりやすい解説本は、その著者が、対象となる哲学者について、その研究者独自の解釈や概念というものを持っていて、それを自分の言葉で説明するせいで理解が容易なことが多いように思う。

それに比べると、この小林秀雄のベルグソン論は、ベルグソンとぴったりと寄り添って論を進めており、結果、原著と同じぐらい難しくなっている、と言えそうな気がする。

ところが、実は、この件については、一つだけ小林秀雄独自のベルグソン解釈があったらしく、この文の後半はそれに向かって突き進んでいるのである。で、結局、本人いわく「力不足で」断念している。もし、彼が、それをもっと気軽に、エッセイ調にでもして披露してくれていたら、とても面白いものになったのにと、どうしても思ってしまう。

小林秀雄は、これ以外にも、ゴッホについての論考でも同じことをしている。幸い、あちらは途中で執筆を断念しなかったが、結局、文の後半は、ゴッホの手紙の抜粋と起こった出来事を列挙して、自殺に至る事実の連鎖を綴って終わっている。ここでも、小林秀雄はゴッホにつきユニークなアイデアを持っていたのだけど、それを書かないで終わらせている。僕が、なんでそんなことを知っているかというと、彼の周りの人間たちの語るエピソードや、彼の対談の中の言葉で、分かるのである。小林秀雄は、そういうところは、まことに、まるで古風な学者並に頑固で、強烈な倫理観の元に、文学をした人だったのだなと思う。

ちなみに、ベルグソンについての彼のカンはおそらく、量子論という物理が発見した物質の姿をベルグソンは哲学的考察によって予言した、ということ。つまり、哲学と物理は同じ結論に導かれた、ということであったらしい。