興福寺国宝館

奈良の興福寺の国宝館は、奈良時代や鎌倉時代の塑像や木彫の、ものすごい傑作をたくさん持っていて、奈良へ行くときはオレ、必ず寄って会いに行っていた。

むかしのあそこは、なかなかに薄汚れた雑然とした場所で、なんだかでっかい倉庫みたいなスペースにあれこれテキトーに飾ってあった。

いまや奈良の顔にもなった、あの阿修羅像も、薄汚れたガラスケースの中にほかの像と一緒にポンって置いてあった。行って相対するたびに、奈良時代の古い日本の田舎の埃っぽい血なまぐさいでも静寂な妙な古代の空気を吸い込んでいるような気分になったっけ。

興福寺国宝館の建て替えはいま調べたら八年前だね。

建て替えたあとも、一度、行ったけれど、あの薄汚い雰囲気の好きだった自分は、イヤになっちゃって、あれから行ってなかったっけ。もう一回あれらの像に会いに行くかな、とも思うけど、どうせ感じることはいつも同じで飽きちゃったので、行かないかもな。

奈良の古代の空気に飽きたんじゃなくて、なんというか芸術作品って、やはり一回性の礼拝じみたところがあって、自分の歴史の中のある時間に触れた作品は、その自分の歴史の一部でもあり、それが変容してしまったあとでは、同じものを受け取ることはできない。

昔は懐かしむもので、いま経験するものじゃないってことだ。

ただ、ときどき、過去の瞬間をいま現在、1秒ほど感じることがたまにあるが、あれは実際、恐ろしいもので、ものすごい幸福感があって、たぶん1秒以上続くと気が狂う。思うに、死ぬ間際って、あれが再現するのだろうかな、と思う。

ま、とにかく、建て替えた国宝館でも、もちろん奈良の顔は立ってるわけだが、だいぶ距離が遠くなっちゃって、ものすごいオシャレな照明が当たっちゃって、まわりは暗くなっちゃって、暗黒の中に浮かび上がる塑像の数々、っていうモダンな様相になっちゃった。

行って、見て、幻滅したけど、しかたない、とあきらめたっけ。

でも、以前はスペースの関係上、八部衆像すべてが展示されていなかったところ、それらが一箇所に集められ、八つすべてが見られるようになったのは、国宝館としてもハイライト扱い、ということだろう。

しかし、オレ、暗い展示スペースに立って、あれら八部衆像の塑像を眺めてて、ああ、こいつらも、奈良の薄汚い空気と一緒にのんびりしてたのに、いきなりハリウッドかどっかのライティングまぶしいショーのステージに引っ張り出されたみたいで、哀れだなあ、とぼんやり感じていたっけ。

こうしてみると、時代の変遷というのは、なんとも虚しいものだ。侘び寂びはそこに美を見出すわけだが、その実体はしゃぼん玉みたいなもので、すぐに消えて二度と戻ってこない。それじゃあまりに可哀想なので、美として定着させるべく侘び寂びなどという理屈をくっつけたんだろうが、ご苦労なこった。

そんなものを有難がっているより、たしかに、パルテノン神殿のようなものの方がいいじゃないか、というのも分かる気がする。

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